田村家(一関藩)

田村家 一関藩 田村車前草      3万石

陸奥磐井郡一関(岩手県一関市)  譜代格 城主
移封加減増履歴・天和2年→陸奥一関3万石
江戸城詰席・柳之間 子爵  
上屋敷・愛宕下神保小路(田村小路)

参勤・参府は4月で子寅辰午申戌の年、帰国も4月で丑卯巳未酉亥の年
人口・全領地総計2万2719人、家数4769軒

                                     安永4年(1775)現在 

藩祖・田村建顕(たてあき)

藩祖建顕延宝4年(1676)父の遺領岩沼3万石を相続
2代誠顕宝永5年(1708)相続
3代村顕宝永5年(1708)相続
4代村隆宝暦5年(1755)相続
5代村資天明2年(1782)相続
6代宗顕寛政10年(1798)相続
7代邦顕文政10年(1827)相続
8代邦行天保11年(1840)相続
9代通顕安政4年(1857)相続
10代邦栄文久2年(1862)相続

陸奥一関藩 田村右京大夫家

江戸時代 江戸大名 旗本 元禄赤穂事件 伊達氏 外様大名
こんにちは、勘矢です。
今回は赤穂事件で浅野内匠頭長矩が切腹した屋敷の主、田村右京大夫家について調べたことをまとめました。

   1. 田村氏とは
   2. 一関藩主一覧
   3. 旗本:田村主馬家

1. 田村氏とは
 坂上田村麻呂の四男清野の曾孫古哲が、陸奥国田村荘(福島県田村郡)を領し、田村氏を称したのにはじまるというが、一説には秀郷流藤原氏ともいう。
 南北時代の輝顕(輝定)は南朝方に属して北畠顕家・顕信にしたがいました。その後、義顕のとき本拠を三春(福島県田村郡三春町)に移しました。
 孫の清顕のとき、娘の愛姫を伊達政宗に嫁がせて、伊達氏との関係をふかめ、勢力をのばしました。しかし、清顕が没すると家督相続を巡って騒動が起こり分裂しました。そして、伊達政宗の調停により清顕の甥宗顕が跡を相続するも、豊臣秀吉の小田原征伐に遅参したため所領を没収されました。
 伊達政宗の孫の宗良が、祖母愛姫の遺言によって田村家を再興し、のちに陸奥岩沼三万石を分知されて仙台藩の支藩として立藩しました。建顕のときに陸奥一関に転封しました。幕末の邦栄は奥羽越列藩同盟に参加しました。

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田村氏略系図

2. 一関藩主一覧
初代 田村 宗良(むねよし)【1637~1678】
 陸奥仙台藩主 伊達忠宗の三男、母は側室 三田村氏。
 1638年にわずか2歳で伊達家の重臣鈴木家を相続して千五百石を領し、のちに加増され二千石を領しました。1655年(19)に祖母陽徳院(愛姫)の遺言により田村家を再興して、七千石を領しました。
 1660年(24)に甥の伊達綱村が仙台藩主になったとき、伊達宗勝とともに後見役をつとめ、三万石を分与されて諸侯に列し、岩沼藩を立藩しました。
 1671年(35)に仙台藩の伊達騒動の責任を問われて閉門となり、翌年に赦されました。享年42。
 正室は陸奥仙台藩家臣 山口重如の娘。

二代 田村 建顕(たけあき)【1656~1708】
 田村宗良の二男、母は山口重如の娘。
 1678年に23歳で陸奥岩沼藩を相続しました。1682年(27)に陸奥一関に転封となりました。1691年(36)に奥詰となり、翌年奏者番に列しました。1694年(39)に弟顕寛に廩米七百俵を与えました。
 1697年(42)に森長成が除封となると上使をうけたまわり、美作津山へ赴きました。1701年(46)に浅野内匠頭長矩を召し預けられ、内匠頭は田村邸の庭で切腹しました。享年53。
 正室は出雲広瀬藩主 松平近栄の娘。

赤穂浅野家についてはこちらをご覧ください。

播州赤穂 浅野一族 - 探検!日本の歴史

三代 田村 誠顕(のぶあき)【1670~1727】
 旗本 田村顕当の五男、母は松平昌吉の娘。実家の田村家も同じく坂上田村麻呂の後裔であるが、別流で医家の系統からの分家であります。
 1696年(27)に婿養子となりました。1708年に39歳で陸奥一関藩を相続しました。1716年(47)に院使 日野大納言の馳走役、1723年(54)に院使 坊城大納言の馳走役をつとめました。享年58。
 正室は田村建顕の娘 瑞光院、公家 竹内惟庸の娘。

田村 泰顕(やすあき)【1703~1725】
 旗本 田村顕普の長男、母は神尾氏。父の顕普は二代建顕の弟。
 1716年(14)に誠顕の婿養子となりました。享年23。
 正室は田村誠顕の娘 百。

四代 田村 村顕(むらあき)【1707~1755】
 伊予宇和島藩主 伊達宗贇の二男、母は側室 中里氏。父の宗贇と二代建顕は従兄弟の関係です。
 1726年(20)に誠顕の婿養子となりました。1727年に21歳で陸奥一関藩を相続しました。1734年(28)からたびたび江戸城神田橋門番をつとめました。享年49。
 正室は田村誠顕の娘 百(元泰顕室)。

五代 田村 村隆(むらたか)【1737~1782】
 陸奥仙台藩主 伊達吉村の五男、母は側室 高橋氏。吉村と二代建顕は従兄弟の関係です。
 はじめ、登米館主 伊達村隣の養子となりましたが、村顕に世子がなかったため、1752年(16)に養嗣子となり、1755年に19歳で陸奥一関藩を相続しました。翌年から江戸城常盤橋門番役、神田橋門番役をつとめました。
 この頃から冷害などによる凶作が続いて藩財政が窮乏し、家臣は藩政改革を求めて3度にわたって仙台藩に直訴や越訴を行いました。享年46。
 正室は伊達村定の娘。

六代 田村 村資(むらすけ)【1763~1808】
 登米館主 伊達村良の長男、母は侍妾 加藤氏。先代村隆の甥。
 1778年(16)に養嗣子となり、1782年に20歳で陸奥一関藩を相続しました。翌年、藩校教成館(こうせいかん)を創設させました。1798年に36歳で隠居しました。享年46。
 正室は播磨龍野藩主 脇坂安親の娘。

七代 田村 宗顕(むねあき)【1784~1827】
 近江堅田藩主 堀田正敦、母は側室の娘木村氏。正敦は仙台藩主伊達宗村の八男で、六代村資とは従兄弟の関係です。
 1793年(10)に婿養子となり、1798年に15歳で陸奥一関藩を相続しました。江戸城神田橋門番役や勅使馳走役をつとめました。享年44。
 正室は田村村資の娘 かね。

八代 田村 邦顕(くにあき)【1816~1840】
 田村宗顕の長男、母は田村村資の娘かね。
 1828年に13歳で陸奥一関藩を相続しました。享年25。
 正室は出羽上山藩主 松平信行の娘 由。

九代 田村 邦行(くにみち)【1820~1857】
 田村宗顕の二男、母は側室 鈴木氏。
 1840年に21歳で陸奥一関藩を相続しました。打ち続く凶作のため藩財政は困窮したので廃校同然だった藩校を再興し、1846年には医学校慎成館を新設し、1856年には洋式兵学の導入につとめ、文武両道を奨励しました。享年38。
 正室は尾張藩付家老 成瀬正寿の娘 睦子。

十代 田村 通顕(ゆきあき)【1850~1867】
 田村邦行の二男、母は側室 岡田氏
 1857年にわずか8歳で陸奥一関藩を相続しました。1863年(14)に仙台藩主 伊達慶邦の養子となり、伊達茂村と改名しました。しかし、藩主になる前に没しました。享年18。

十一代 田村 邦栄(くによし)【1852~1887】
 仙台藩重臣 石川義光の二男、母は侍妾 守屋氏。
 1863年に12歳で陸奥一関藩を相続しました。1868年(17)に奥羽越列藩同盟に参加し、仙台藩が出羽久保田藩討伐に出兵したのに従い横手城を陥しましたが、新政府軍に敗れて帰阪しました。その後、謹慎しましたが、新政府から三千石の没収と蟄居を命ぜられました。翌年、実弟崇顕に家督を譲り、その後赦免されました。
 1882年(31)に再度家督を相続し、1884年(33)に子爵を授けられました。享年36。
 正室は田村顕謨の娘 照子。

十二代 田村 崇顕(たかあき)【1858~1922】
 仙台藩重臣 石川義光の四男、母は侍妾 守屋氏。
 1869年に12歳で陸奥一関藩 二万七千石を相続しました。同年、版籍奉還し、一関藩知事に任ぜられ、1871縁(14)に廃藩置県を迎えました。
 1882年(25)に隠居して、兄に家督を戻しました。享年65。
 正室は上野沼田藩主 土岐頼之の娘 鈴子(離縁)。


3. 旗本:田村主馬家
(寛政年間までの当主)
初代 田村 顕寛(あきひろ)【1659~1696】
 田村宗良の三男、母は山口重如の娘。
 1694年(39)に兄建顕から廩米七百俵を分け与えられ、寄合に列しました。享年38。

二代 田村 顕始(あきはる)【1662~1706】
 田村宗良の四男、母は山口重如の娘。
 1696年に35歳で相続し、寄合に列しました。1701年に40歳で隠居しました。享年45。

三代 田村 顕普(あきみつ)【1664~1733】
 田村宗良の五男、母は山口重如の娘。
 1701年に38歳で相続し、寄合に列しました。1725年(62)に御鉄砲の頭となりました。1728年(65)に将軍吉宗の日光社参に従いました。享年70。

四代 田村 村房(むらふさ)【1723~1777】
 田村顕普の二男。
 1733年に11歳で相続し、寄合に列しました。1745年(23)に御小姓組の番士となりました。享年55。
 妻は旗本 設楽貞根の娘。

五代 田村 顕詩(あきのぶ)【1748~1777】
 旗本 多羅尾光豊の二男、母は旗本 小堀克敬の娘。
 1777年に30歳で相続しました。同年、御書院番に列しました。
 妻は旗本 松波隆起の娘。

 

※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。


https://tanken-japan-history.hatenablog.com/entry/ichinoseki-tamura


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