人名せ

盛徳院(せいとくいん)? 
徳川家康の娘。母は築山殿。徳川秀忠の異母姉。亀姫 武田勝頼が長篠城に攻め寄せたときに撃退した奥平信昌に、織田信長の命で輿入れする その後信昌・その子家昌が没すると、幼少で孫の千福が家督をついだが、実質的には家中を切り盛りした
関盛信(せき もりのぶ)? ????~1593
室:蒲生定秀女 子:関左馬助盛忠、長門守一政、十兵衛一利、氏俊、瀬木本貞  平資盛子盛国を祖とする伊勢の有力豪族。亀山城主として伊勢・北畠氏に従う一方、近江・六角氏とも友好関係を持ち、1544年六角氏を助勢して京極氏を攻めている。中野城を築いて赤堀一族中野藤太郎を城主に置き、西村城主朝倉備前守詮真と結ぶ等勢力拡大に努め、1557年六角氏臣小倉三河守が神戸城に侵攻してきた時は、神戸氏を助けた。1568年伊勢に侵攻した尾張・織田信長に抗戦するが、近隣の諸城が相次ぎ陥落、降伏するを見て降伏。1569年信長の第3次伊勢侵攻の際には再び抵抗するが、やがて講和。信長死後は羽柴氏に誼を通じたことから、1584年織田信雄の勇将神戸(林)与五郎正武率いる兵500に亀山城を攻撃され、城主であった子一政は不在であった為、留守を守る盛信がわずか13騎を率いて討って出て、城を死守したという。小牧・長久手の戦いにも参陣。後に蒲生氏郷に属し、その会津転封に従い白河城5万石を得た。
関口氏広(せきぐち うじひろ)? 1518~1562
○義広 氏興? 親永 伊豆守 和泉守 刑部大輔 ◇父:瀬名陸奥守氏貞 養父:関口刑部大輔政興?関口刑部大輔氏縁? 室:今川氏親女 子:関口(山中)外記氏幸?、弥六右衛門氏心?  関口氏は駿河守護・今川氏庶流。三河・関口庄を本貫地として今川氏に仕える。用宗城主。氏広は今川氏親の娘を妻としており、さらに氏広の娘は松平元康(徳川家康)室・瀬名(築山殿)。桶狭間の合戦にて義兄の当主義元が戦死すると、その子氏真に仕えた。しかし、松平氏が今川氏から独立を果たしたことで、元康の義父であり、後見役を務めていた氏広は氏真から責めを受けて切腹して果て、所領の大半を没収されたという。
千徳政氏(せんとく まさうじ)? 1513~1588
○彦次郎 大和守 ◇室:南部四郎信久女、多田玄蕃女 子:千徳安芸之助政康、彦三郎政直?  陸奥・浅瀬石城主。陸奥・南部氏の傘下にあったが、後に勢力を伸ばしてきた津軽氏に協力。分家の千徳政武の攻略にも参加する。大力無双の勇将と伝わる。
千徳政武(せんとく まさたけ)? ????~1585
○掃部 ◇千徳政朝? 室:小山内讃岐女(永春妹) 子:千徳武丸  陸奥・田舎館城主。陸奥・南部氏に味方して、約3千の津軽為信の軍勢に城を囲まれ、3百余の兵で守るも落城、討死。37歳。
千道安(せんのどうあん)? 
茶人。千利休の長男。母は宝心妙樹。紹安 父に茶の湯を学び、その実力は大いに認められたが、足が不自由であったといわれる 利休の没後は一時京を離れて晩年は堺に住み、堺の千家の中心にあったと思われる また細川三斎から知行をうけている 茶室の客畳と点前座の間に袖壁を設けた道安囲はその創意になるものと伝えられる
千姫(せんひめ)? 
徳川秀忠とお江の長女。二歳のとき豊臣秀吉の命で豊臣秀頼と婚約 秀吉の没後に七歳で秀頼に嫁ぎ大阪城に入った 大坂城内では淀殿から敵方の娘として扱われ、不自由な生活を送った 大坂の陣で大阪城が落城する前に徳川家に戻った その後桑名城主・本多忠政の子・本多忠刻と再婚。その間、千姫を助けた坂崎直盛の強奪事件が起こった 長女・勝と長男・幸千代を産むが、幸千代は三歳で没し、忠刻も病死した 江戸に戻り出家して天寿院と号す。江戸城内竹橋に屋敷をもらい、五百石が下され余生を過ごした