人名た

太原崇孚(たいげん すうふ)? 1496~1555
駿河・今川氏重臣。禅僧で駿河・臨済寺開祖。太原は字。今川義元の教育係を務め、その家督相続(花倉の乱)に貢献する。義元が当主となってからは軍師として諸戦に活躍、1548年小豆坂の戦いでは義元の将として尾張・織田信秀を敗り、捕まっていた松平元康を助けた。また、外交面にも力を発揮、武田、北条との甲相駿三国同盟"善徳寺の会盟"を成立させる。義元の片腕としてその繁栄を支えるが、60歳で没。以後今川氏も衰勢の一途をたどるが、雪斎が存命なら桶狭間の敗北はなかったとも…。
だいこく様(だいこくさま) 
福の神。
高淤加美神(たかおかみのかみ) 
水の神・龍神様。
高霎神(たかおかみのかみ)? 

高木神(たかぎのかみ) 
高御産巣日神
高照姫神(たかてるひめのかみ) 

高天彦神(たかまひこのかみ) 
高御産巣日神
高皇産霊(たかみむすひ) 
高御産巣日神
高御産巣日神(たかみむすびのかみ) 
高天原の根本神。 天之御中主神のつぎに高天原に現れた神。造化三神(ゾウカノサンシン)の一柱神格:天神地祗の祖神、生成力の本源神、高天原の最高指令神  天地の始めに天之御中主神神産巣日神とともに高天原に現れた神で、特に神産巣日神(女性的神格)とは一対の神格として男女の産霊(ムスビ)の神とされる。一般にこの神は、世界にあまねく満ちている”ものを産み出す生成力”を神格化したもので、名前の「産霊」は生産、生成を意味することばである。高御産巣日神が、豊穣を祈る皇室の祭祀である大嘗祭のときに神聖な稲穂を収穫する斎田の傍らに祀られたり、春に豊作を祈願する祈年祭(トシゴイノマツリ)に祀られたりすることからもうかがえるように、本来、農耕、生産に深く関係している神霊である。  また、高御産巣日神神は「日本書紀」の顕宗天皇の条に、その事績として「天地を鎔造した功あり」と記されている。鎔造とは金属を溶かして型にはめてものを作ることであり、日本の金属文化とも関わりの深い神としての姿もうかがえる。つまり、金属を鍛造して農具や武器などを作り出す文化を司る神格でもあるということだ。とくに、金属の農具の登場は、古代において作物の生産力を飛躍的に発展させたわけであるが、そうしたことにも高御産巣日神の「産霊」の力が関係していると考えていいだろう。  ところで、神話のなかで高御産巣日神は「天孫降臨」「国譲り」「神武東征」などの場面にしばしば登場。天照大神とともに高天原の政治の司令神として種々の命令を発動したりして、行動はなかなか活発である。その活動ぶりを見ると、大変に政治色が強く、長老的な政治手腕に長けており、いってみれば得意技は巧みな根回しの術ということになる。  たとえば、娘の栲幡千々姫命を天照大神の御子の天忍穂耳神と結婚させ、二人の間に皇室の祖先神の正統に連なる邇邇芸命を出生させている。これなどは、政治権力者のサバイバルの常套手段である。また、天孫降臨に先立って、天孫邇邇芸命の安全を期すために、あらかじめ葦原中津国(地上)の平定を画策し、天若日子神や武甕槌神を派遣して圧力をかける。あるいは、のちに大和に信仰した神武天皇のもとに神剣を下し、八咫烏を派遣するなどしてその大和政権樹立の偉業達成を援助している。このように、高御産巣日神は高天原の司令神として祭事、政治、軍事を司る実力者である。  人間関係をうまくやりたい、交渉ごとなどを成功させたいと思う人は、この神にお願いするといいだろう。
高皇産霊尊(たかみむすびのみこと) 
高御産巣日神
栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)? 

健磐龍神(たけいわたつのかみ)? 

武内宿禰(たけのうちのすくね)? 

建御雷之男神(たけみかづちおのかみ) 
鹿島神宮の神。
武甕槌神(たけみかづちのかみ)? 

建御名方神(たけみなかたのかみ) 
諏訪大社の神。
蹈鞴五十鈴姫神(たたらいすずひめのかみ) 
事代主神の娘。神武天皇の后。
伊達義監(だて)? 

伊達家(宇和島藩)(だて)? 
伊予宇和島藩主家 宇和島伊達氏系譜
伊達(だて)? 

伊達宗賀(だて)? 1785-1852
江戸時代の仙台藩一門第二席・亘理伊達氏第11代当主。 1803-1824 亘理領主
伊達宗恒(だて)? 1803-1861
江戸時代後期の仙台藩一門第二席・亘理伊達氏第12代当主。 1824-1848 亘理領主
伊達宗景(だて)? 1651-1675
1663-1675 水沢城主
伊達宗衡(だて)? 1799-1866
1820-1852 水沢城主
伊達宗充(だて)? 

伊達胤元(亘理胤元)(だて たねもと)? 1857-1882
武石氏32代当主。涌谷伊達家12代当主。母は石川則子(石川大和娘)。 涌谷要害 涌谷城を望む  安政4(1857)年3月26日、涌谷に誕生した。慶応3(1867)年3月29日、名君と称えられた父・邦隆が急死してしまったため、胤元はわずか十一歳で家督を継承して「安芸」を称し、藩公・伊達陸奥守慶邦より朱印状を賜った。彼がこれまでの領主と違って藩公の一字を賜っていないのは、元服前に藩がなくなったためと考えられる。  慶応4(1868)年2月、仙台藩は会津藩追討の勅命を受ける。このとき涌谷伊達家にも会津追討の兵を出すよう命じられ、幼少の胤元に代わり、叔父・亘理此面隆教が陣代として出陣することとなった。隆教は歩兵十箇小隊、砲兵一箇小隊、輜重兵一箇小隊など総勢1,813人を率いて4月2日涌谷を出陣。兵を中山口に進め会津若松城を望んだ。閏4月2日には会津藩兵と戦火を交え負傷者を出した。そして軍を会津若松城手前まで進めたところ、仙台宗藩より進撃中止の命が届いた。会津藩主・松平肥後守容保が恭順の意を示し、朝廷に歯向かったことを謝したが、朝廷で幅を利かせていた岩倉具視、中御門経之、正親町三条実愛ら君側の奸がこれを遮ったため、これは認められなかった。隆教は白石に退いて藩公・伊達慶邦に謁見し、その指示を仰いで涌谷に帰国した。  その後、藩論は一変して朝廷を牛耳っていた岩倉ら倒幕派公家、薩摩長州の過激派ら君側の奸を除く兵を挙げることとし、奥羽越列藩同盟を結成して朝廷軍と対峙することになった。そんな中で久保田藩佐竹家が奥羽越列藩同盟から離脱すると、宗藩・仙台藩の命を受けて、亘理東吾の一大隊・大砲六門、亘理大吉の銃士六小隊を秋田口に派遣した。  迫り来る西軍(=薩長主体の称官軍)に対抗するべく藩兵を相馬国境に進めた。胤元も兵を率いて岩城相馬口の防戦のために進んだが、岩倉らを排する名分が明らかでなく、西軍に抗することは胤元の志ではないとしながらも、藩論に反することは簡単にはできない。そうこうしているうちにも岩城相馬口の防戦は急を要した。藩はさらに涌谷伊達家に白河口への出兵を命じた。胤元は重臣を大将にして白河口にも兵を派遣した。  このころ胤元は、藩庁に政宗以来伊達家は皇室に忠誠を尽くす家柄であり、薩摩長州兵らが騙っている名ばかりの朝廷軍ではあるが、朝廷軍に変わりはない。藩論を変えるよう上申書を提出した。その結果、いくほどなく慶邦は朝廷軍に帰順を申し出て、胤元も謹慎して命を待つ身となった。結果、仙台藩領は削減され、涌谷伊達領も収公されることとなり、涌谷伊達家は定宗以来二百五十年の歴史に幕を閉じた。涌谷家の重臣・長谷信一郎以下、二千三百五十六人はことごとく帰農した。 白石城 白石城  明治2(1869)年、胤元に白石按察使の命が下った。このころ、徳川家や会津松平家、桑名松平家などの脱藩者数百名が、桃生郡、本吉郡、牡鹿郡などに集結して民家を略奪している報告が入った。胤元は彼らの逮捕をするために旧臣たちに命を出したが、二百余名に及ぶ旧臣が集結したという。この功績によって胤元は五十両が与えられたが、胤元はこの金を旧臣たちにすべて分け与えてその労をねぎらった。この年、胤元は「伊達」から「亘理」に戻し、亘理源太郎を称している。すでに藩は版籍奉還によって朝廷に帰し、伊達家との数百年にわたる主従関係はすでに解消されたためであった。  明治3(1870)年、登米県庁が涌谷に設置された。この年の12月、栗原郡宮沢村で賊があらわれた。この賊は宮沢村を乗っ取ると、次々に周辺の村にも暴動を波及させた。12月16日、胤元は放っておくことはできないと、旧臣・長谷新一郎らを急ぎ召し、鎮撫を委任した。胤元の呼びかけに旧臣三百名が集まり、隊を二つに分けて一隊を大沢村百々口から、もう一隊は小牛田口からそれぞれ賊の集まる田尻へ向かわせ、賊を一掃した。これによって五十余名の首謀者を捕縛し、登米県庁へ送致。その他の賊は勢いでついてきた者どもであったので、解散を命じて反乱は鎮圧された。  胤元は十文字栗軒とその甥・十文字秀雄を蝦地へ派遣して涌谷一党の新天地を探させた。その後、涌谷に帰国した栗軒たちから、石狩国札幌郡、空知郡内にある三つの肥沃な土地が適地であるとの報告があり、胤元は開拓使に蝦地開拓の申請を出した。その申請は認められ、胤元は旧臣たちを集めると蝦地へ旅立つ準備を進めていた。 見龍寺 海雲山見龍寺  しかし、旧臣たちの生活は安定しており、移住に難色を示していた。また蝦地は非常に寒く熊の被害が多発していると宣伝する者もあり、議論をまとめることができず、ついにこの胤元の蝦地開発はうやむやの中で中止となった。こののち胤元は涌谷に住むが、一家の経営を立てるために東京へ出て法政を学んで身を立てることを決意。従者数名とともに東京へ出て、慶應義塾大学に学ぶが、その最中の明治11(1878)年3月19日、母の則子が亡くなってしまう。法名は貞松院印月善照。  胤元は明治15(1882)年に慶應義塾大学を卒業したが、8月1日、26歳の若さで急死してしまった。法名は曹元院靖園禅利。見龍寺の廟に祀られた。
伊達政景(だて まさかげ)? 
→留守政景
伊達宗彰(だて むねあき)? 1905-1969
伊予宇和島藩主家 宇和島伊達氏 十一代 夫人 松平美智子(福井松平慶民女)(1912-1972)    長男 伊達宗禮(1935-2008)        次男 伊達宗忠(1939-)        長女 素子(1941-)   葛城茂敬夫人    次女 順子(1944-)   渡部貞二夫人
伊達宗徳(だて むねえ)? 1830-1905
伊予宇和島藩主家 宇和島伊達氏 九代 正室 孝順院   孝姫(毛利斉元女)(1829-1853)         継室 温徳院   佳姫(佐竹義厚女)(1837-1868)    流産(1867)     側室 馨徳院   富島秀子(富島元起女)(1843-1913)    宗陳(1860-1923)   侯爵、幼名万寿若    富子(1862-1936)   北白川宮能久親王妃 母追跡中   女子        本多康虎(1864-1929)   幼名虎丸本多子爵家相続    紀隆(1866-1944)   幼名隆丸十一代当主宗彰の父    武四郎(1868-1908)        土居剛吉郎(1870-1949)   土居通夫養子    丹羽長徳(初名誠一)(1873-1947)   丹羽子爵家相続    一柳直徳(初名俊治)(1873-1944)   一柳子爵家相続    重正(1875-1910)        二荒芳徳(初名九郎)(1886-1967)   二荒伯爵家相続    十郎(1898-1960)
伊達宗勝(だて むねかつ)? 1621-1679
1621年(元和7年) - 1679年12月6日(延宝7年11月4日)
伊達宗清(だて むねきよ)? 1600-1634
慶長5年(1600年) - 寛永11年7月22日(1634年8月15日) 吉岡要害館主
伊達宗清(だて むねきよ)? 
伊達稙宗の八男
伊達宗紀(だて むねただ)? 1792-1889
伊予宇和島藩主家 宇和島伊達氏 七代 正室 霊観院   観姫(鍋島治茂女)(1797-1871)    長女 (1817)   海岸恵泡童女    長男 (1821)   真嶽玄英童子    次男 伊達徳千代(1822-1823)   蘭渓紹秀童子    四女 喜姫(1827-1828)   本光浄智童女 側室 三上氏    次女 就姫(1823-1824)   乾外浄珠童女    三女 長姫(1825-1829)   蓮台妙香童女 側室 秋江院(秋光院)   幾嶋(吉見氏)(1814-1862)    五女 貞姫(1828-1836)   浄照院伊予宇和島藩主伊達宗城婚約者    三男 伊達宗徳(初名紀周・宗周)(1830-1905)   霊照院、幼名扇松丸九代藩主(のち侯爵)    六女 信姫(1832)   霊台恵苗童女    四男 伊達篤之助(1834-1838)   心源自覚童子    七女 正姫(1838-1871)   真鏡院肥前島原藩主松平忠精室    八女 節姫(初め元姫)(1840-1905)   安住院上総飯野藩主保科正益室    五男 松平忠淳(初名城功)(1842-1860)   顕徳院・慈篤院、幼名永麿肥前島原藩六代藩主(深溝松平氏)    六男 伊達兼麿(1847-1848)   慈覚幻露童子
伊達宗城(だて むねなり)? 1818-1892
伊予宇和島藩主家 宇和島伊達氏 八代        許嫁 浄照院   貞姫(宇和島伊達宗紀女)(1828-1836)         許嫁 賢姫佐加子(水戸徳川斉昭女)(1822-1839)         正室 春光院   猶姫益子( 姫)(鍋島斉直女)(1808-1866)         側室 武田栄(栄浦)(1830?-1869)    長女 (1846)   瓊園浄芳童女    長男 真田幸民(初名徳鄰)(1850-1903)   泰寛院、幼名保麿信濃松代藩十代藩主(のち伯爵)(真田氏)    次男 伊達宗敦(初名徳治)(1852-1911)   大通院、幼名経丸陸奥仙台藩主家世子(のち廃嫡)、男爵    次女 初姫(1854-1936)   伯爵柳原前光室    三女 敏姫(1856-1932)   家臣松根城臣室    四女 理姫(初め清姫)(1858-1888)   光台院    六女 煕姫照子(1860-1933)   陸奥盛岡藩主南部利恭室/出羽山形藩主水野忠弘室/三井高弘室    七女 順姫(1861-1942)   家臣桑折城方室    八女 定姫(1863)   定心慧光童女    五男 瀧脇信広(1865-1913)   最生院、幼名忠千代田沼氏養子(離籍)のち瀧脇氏養子    九女 幾姫(1866-1886)   光照院志賀平四郎室/桜田栄次郎室    六男 牧野忠良(1867-1933)   幼名五十若牧野子爵家相続 側室 大岡ゆか(多川)   三男 武丸(1853-1854)    清雲玄凉童子    四男 奥平昌邁(1855-1884)   淳徳院、幼名義麿・義三郎、通称九八郎豊前中津藩九代藩主(のち伯爵)(奥平氏)    五女 操姫(1859-1862)   月台智鏡童女 側室 和浦(梅村氏)    七男 伊達宗倫(1872-1892)   幼名経丸男爵    十女 瑤子(1873-1875)   清瑤妙艶童女    十一女 (1874)   幻清智敬    八男 伊達方正(1876-187)   増慧超界童子    十二女 泰子(1878-1919)   蓮乗院坂田九郎室    九男 伊達宗曜(1880-1922)   幼名釣一郎(鉤一郎)男爵(兄宗倫の跡を相続)    十男 蒔田広城(1881-1943)   幼名新之助蒔田子爵家相続    十三女 幸子(1883-1884)   圓成妙相童女    十一男 伊達善重(1885)   得悟入真童子    十四女 国子(1891-1942)
伊達宗成(だて むねなり)? 1636-1670
寛永13年(1636年) - 寛文10年6月1日(1670年7月17日) 亘理伊達氏3代当主
伊達宗信(だて むねのぶ)? 1971-
伊予宇和島藩主家 宇和島伊達氏 十三代
伊達宗陳(だて むねのぶ)? 1860-1923
伊予宇和島藩主家 宇和島伊達氏 十代 正室 有馬納子(有馬頼咸女)(1868-1896)         継室 徳川孝子(紀伊徳川茂承女)(1874-1960)
伊達村候(だて むらとき)? 1725-1794
伊予宇和島藩主家 宇和島伊達氏 五代 正室 貞護院   護姫(多根姫)(鍋島宗茂女)(1734-1789)    三女 貞姫(初め伊姫、長姫)(1755-1823)   栄昌院近江彦根藩世子井伊直尚婚約者/陸奥二本松藩主丹羽長貴室/大和高取藩主植村家利室    四男 伊達村寿(1763-1836)   南昌院、幼名兵五郎六代藩主    五男 伊達少次郎(1765)   霊淵玄珠童子 側室 妙法院(田中氏)    長女 藤姫(1751-1756)   玉雲自光童女    次女 栄姫(初め教姫)(1754-1766)   清涼院武蔵忍藩世子阿部正陳婚約者    長男 伊達徳輝(1756-1801)   巍徳院、幼名子之松    次男 山口直清(初名徳興)(1760-1798)   載芳院、幼名次郎・七郎旗本山口家相続、八代宗城の祖父    三男 伊達徳元(1762-1779)   撰徳院、幼名三郎・八郎    六女 寛姫(初め行姫)(1764-1800)   宝源院常陸笠間藩主牧野貞喜室    六男 伊達九十郎(初め九郎)(1766-1772)   蕙圃光温童子    七男 伊達藤三郎(初め十三郎)(1768-1775)   瑞照院 側室 細田氏    四女 久姫(1758-1761)   瑞相慈薫童女    五女 新姫(1759-1761)   水月浄印童女 側室 木原氏    七女 初姫(1768-1771)   宝雲浄相童女花山院愛徳婚約者 側室 深沢氏    八女 富姫(初め節姫、武姫)(1771-1789)   桂林院武蔵川越藩主松平直恒室    九女 錬姫(1773-1775)   春巌智芳童女    八男 伊達寿忠(1774-1833)   寛量院、幼名熊千代家臣桜田親賢養子    九男 伊達寿恕(1775-1803)   鉄剛院、幼名千代次郎家臣桜田親仙養子
伊達村年(だて むらとし)? 1705-1735
伊予宇和島藩主家 宇和島伊達氏 四代 正室 玉台院   徳姫富子(仙台伊達吉村女)(?-1747)    長男 伊達村候(初名村房)(1725-1794)   大隆寺殿、幼名伊織五代藩主    次女 幾姫(1727-1743)   本具院大和郡山藩主柳沢信鴻室    三男 青木一貫(初名村銘・政典)(1733-1786)   養源院(養護院)、幼名知次郎摂津麻田藩九代藩主(青木氏)    四男 (1735)   春芳幻遊童子    四女 鉄姫(1736-1738)   夢巌了仙童女 側室 某氏    長女 繁姫(初め政姫、盤姫)(1726-1734)   実相浄蓮童女 側室 松川氏   三女 勝姫(1727-1733)   玉叢玄露童女    次男 島内徳風(初名隆珍・候篤)(1729-1770)   要津院、幼名伊勢松・弁之助・慶之助
伊達村寿(だて むらなが)? 1763-1836
伊予宇和島藩主家 宇和島伊達氏 六代 正室 鑑照院   助姫順子(初め武根姫)(仙台伊達重村女)(1765-1820)    長女 包姫(1794-1798)   麗台妙歌童女    五男 伊達村明(1799-1808)   凌霄院、幼名兵五郎    七男 伊達寿祺(1804-1805)   梅巌院、幼名恒次郎 側室 一雲院(田中氏)(?-1796)    長男 伊達宗紀(初名候正・宗正)(1792-1889)   霊松院、幼名扇松丸七代藩主    次男 松根候智(1793-1823)   麟徳院、幼名兵馬松根氏相続    三男 蒔田定邦(初名寿昌)(1795-1824)   晁照院、幼名徳三郎備中浅尾藩主(蒔田氏)    四男 伊達宗翰(初名寿保)(1796-1845)   大法院、幼名伊織・駒次郎伊予吉田藩七代藩主 側室 浅見氏    六男 伊達寿俊(1800-1816)   国清院、幼名良次郎    次女 勝姫(1802-1817)   天球院讃岐丸亀藩主京極高朗婚約者    三女 雍姫(初め幸姫)(1804-1873)   寿光院伊達光和室/家臣志賀為重室    五女 辰姫(1810-1884)   法寿院家臣神尾氏秘室    六女 静姫(1812-1869)   等寿院家臣桜田寿茂室 側室 瀧本氏    四女 純姫(1806-1849)   貞純院家臣望月重威室 側室 鬼生田氏    七女 央姫(1821)   蘭享寿芳童女
伊達右近(だてうこん)? 1669年(寛文9年) - 1707年(宝永4年)
母・姉小路公景の娘
伊達氏宗(だてうじむね)? 建徳2年/応安2年(1371年) - 応永19年7月17日(1412年8月24日)
伊達家十世 東光寺を創建
伊達興宗(だておきむね)? 

伊達実氏(だてさねうじ)? 承応3年(1654年) - 享保2年7月8日(1717年8月14日)
亘理伊達氏5代当主。
伊達実元(だてさねもと)? 1527年(大永7年) - 1587年5月23日(天正15年4月16日)

伊達周宗(だてちかむね)? 1796年4月9日(寛政8年3月2日) - 1809年(文化6年)
家督・寛政8年(1796)相続 陸奥国仙台藩9代藩主。伊達氏25代当主 文化9年(1812)隠居
伊達綱宗(だてつなむね)? 生没・1640年9月23日(寛永17年8月8日) - 1711年7月19日(正徳元年6月4日)
(3代) 家督・万治元年(1658)相続 仙台藩3代藩主。伊達氏19代当主 万治3年(1660)暗愚だったのか、暗愚にさせられたのか、幕命により逼塞を命ぜられ隠居謹慎 子女・4代伊達綱村 女子→4代伊達綱村養女 女子→柳川藩立花忠茂の子貞晟室 伊達宗贇(宇和島藩伊達宗利養子) 伊達綱宗の長男・・・4代・伊達綱村 生没・万治2年3月8日(1659年4月29日) - 享保4年6月20日(1719年8月5日) 伊達綱宗の次男・・・伊達村和(中津山藩主) 寛文元年8月25日(1661年9月18日) - 享保7年6月29日(1722年8月10日) 伊達綱宗の三男・・・伊達宗贇(宇和島藩3代藩主) 寛文5年1月15日(1665年3月1日) - 宝永8年2月18日(1711年4月5日) 伊達綱宗の四男・・・伊達村直 寛文6年10月28日(1666年11月24日) - 宝永6年2月12日(1709年3月22日) ***伊達綱宗 父・伊達稙宗 母・ →亘理綱宗
伊達綱村(だてつなむら)? 万治2年3月8日(1659年4月29日) - 享保4年6月20日(1719年8月5日)
(4代) 家督・万治3年(1660)相続 仙台藩4代藩主 藩政初期は大叔父伊達宗勝と叔父田村宗良による後見、これが伊達騒動を起こし失敗、後期は門閥に囚われずに藩政を行なうが財政難となる 元禄16年(1703)隠居
伊達輝宗(だててるむね)? 1544年(天文13年9月) - 1585年11月29日(天正13年10月8日)
伊達氏16代当主 伊達輝宗の長男・・・伊達政宗(仙台藩藩祖) 伊達輝宗の次男・・・伊達政道(伊達小次郎) 永禄11年(1568年) - 天正18年4月7日(1590年5月10日) 【伊達政宗の成長を期待するも、非業の死を遂げる】  「独眼竜」伊達政宗の父。一五世伊達晴宗を父に、笑窪(えくぼ)の方を母にもつ。 1565年に父より家督を譲られ、伊達家十六代当主となる。しかし、伊達家の内紛、天文の乱終結後に家督を継いだため衰退しつつある伊達家の威信回復のために奔走することになる。 当時、輝宗の一番の悩みは度々伊達領に侵攻してくる相馬顕胤の存在であった。輝宗はこの顕胤の侵攻に対処すべく、二本松城主畠山義嗣に助勢を頼むが、この伊達輝宗の行為が後に伊達輝宗自身の運命を大きく変えることになる。 天文12年、輝宗は急遽、家督を長男の政宗に譲る。これは正室義姫を中心とした次男竺丸を抑えるための行為であった。ここに仙道制覇、中央進出という自分の果たせなっか輝宗はその念願を政宗に託し、隠居するのである。しかし、輝宗の人生に平穏な日々は訪れなかった。わずか隠居後の一年足らずでこの世を去ってしまうのである。当時、奥州の地ではまさに破竹の勢いである政宗に対し諸将は、臣従するか抵抗するか重大な選択を迫られていた。二本松城主の畠山義継も同様であり、政宗に対し臣従することを決めていた。しかし、政宗は義継に対し、その所領を「五ヶ村だけを残し、他はすべて没収」という苛酷な条件を突きつけたのである。これでは家中を維持できず、苦慮した末、義継はかつて援兵して恩がある輝宗に事の周旋を頼んだのが事件の発端であった。輝宗は政宗に義継を赦すよう周旋し、ことは収まったかのように思えた。しかし、義継が輝宗のもとを去る際、義継は輝宗を拉致するという一大事が起こったのである。急報を受けた政宗は急いで駆けつけたが、すでに輝宗は二本松領寸前にまでさしかかっていたのである。輝宗はここに至り、自分もろとも義継を撃つよう政宗に指示。政宗は一瞬躊躇したとされるが、発砲を指示し父もろとも義継を討ったのである。輝宗は自分の成し遂げられなかった夢を政宗に託したが、以後、政宗が奥州の大大名として天下に君臨する姿を見届けられないまま、この世を去ったのである。
伊達秀宗(だてひでむね)? 1591-1658
伊予宇和島藩主家 宇和島伊達氏 初代 正室 桂林院(徳興院)   亀姫(井伊直政女)(?-1630)    長男 伊達宗実(1612-1644)   霊照院、幼名千松    次男 伊達宗時(1615-1653)   嶺雲院、幼名伊豫松のち小次郎    長女 菊姫(1622-1642)   清光院    次女 万姫(1625-1627)        三女 鶴松姫(1630-1647)   宝珠院 側室 宝池院   浅井氏(1616-1691)    三男 伊達宗利(1635-1709)   天梁院、幼名犬松のち兵助二代藩主    七男 伊達宗職(初名宗清)(1642-1704)   呈真院、幼名万吉 側室 山上氏    四男 桑折宗臣(1635-1686)   青松院、幼名百助家老桑折宗頼養子 側室 常照院   吉井氏(1616-1693)    五男 伊達宗純(1636-1708)   大乗寺殿、幼名長松のち小次郎伊予吉田藩初代藩主    四女 竹松姫(1640-1645)        五女 松姫(1642-1677)   心月院家臣渡辺首室    八男 伊達岩松(1644-1645)     側室 小池氏    六男 伊達徳松(1639)        六女 清姫(1643-1657)   寿栄院    九男 伊達宗則(1645-1676)   心空院、幼名千代松
伊達光宗(だてみつむね)? 寛永4年4月8日(1627年5月22日) - 正保2年9月8日(1645年10月27日)

伊達宗興(だてむねおき)? 1645年(正保2年) - 1702年(元禄15年)

伊達宗実(だてむねざね)? 1611-1639
慶長16年(1611年) - 寛永16年8月23日(1639年9月20日)
伊達宗実(だてむねざね)? 1613-1665
亘理伊達家当主。 1646-1665 亘理領主 慶長18年(1613年) - 寛文5年6月5日(1665年7月17日)
伊達宗高(だてむねたか)? 慶長12年(1607年) - 寛永3年8月17日(1626年10月7日)
村田伊達氏当主
伊達宗綱(だてむねつな)? 建長6年(1254年) - 文保元年2月7日(1317年3月20日)
伊達家五世 伊達氏5代当主
伊達宗遠(だてむねとう)? 正中元年(1324年) - 元中2年/至徳2年5月20日(1385年6月28日)
伊達家八世
伊達宗利(だてむねとし)? 1635-1709
伊予宇和島藩主家 宇和島伊達氏 二代     正室 大通院   稲姫(越前松平光長女)(?-1709)    長女 豊姫(1660-1733)   法雲院信濃松代藩主真田幸道室    次女 三保姫(1676-1698)   獻珠院(献珠院)伊予宇和島藩主伊達宗贇室 側室 元泉氏    長男 伊達兵助(1680-1682)   覚幻妙華童子 側室 古谷氏    三女 多尾姫(1685-1687)   無外蕉堅童女    三男 伊達鉄千代(1691-1700)   春台霊月童子    六男 伊達栄之助(1693-1694)   心岳了安童子 側室 昆陽野氏    次男 伊達六松(1685-1687)   夢道玄空童子    四男 伊達金十郎(1693-1696)   幻空智心童子    七男 伊達千代之助(1697-1698)   凉台智月童子 側室 田部氏    五男 伊達冨之助(1693-1707)   常照院叔父宗職養子    四女 光姫(三津姫、初め遊姫)(1696-1728)   慶寿院讃岐丸亀藩主京極高或室    六女 賢姫(乾姫)(1701-1709)   朝陽玉英 側室 入野氏    五女 佐知姫(1698-1706)   金殿通清童女
伊達宗禮(だてむねのり)? 1935-2008
伊予宇和島藩主家 宇和島伊達氏 十二代 夫人 矢野正子(矢野昇女)(1941-)   長男 伊達宗信(1971-)     長女 紀久子(1978-)
伊達宗元(だてむねもと)? 寛永19年8月25日(1642年9月19日) - 正徳2年10月11日(1712年11月9日)
安芸 涌谷伊達家3代当主
伊達宗基(だてむねもと)? 1866年8月24日(慶応2年7月15日) - 1917年(大正6年)1月27日)
家督・明治元年(1868)相続、28万石が新たに与えられる 陸奥国仙台藩14代藩主。伊達氏30代当主 明治2年(1869)仙台藩知事
伊達宗贇(だてむねよし)? 1665-1711
伊予宇和島藩主家 宇和島伊達氏 三代 正室 獻珠院   三保姫(宇和島伊達宗利女)(1676-1698)    長男 伊達宗相(1697-1709)   瑤樹院、幼名兵五郎 側室 梅香院(中里氏)(?-1712)    長女 (1701-1702)   本光浄真童女    三男 伊達村年(初名宗貞・村昭)(1705-1735)   泰雲院、幼名伊勢松四代藩主    四男 田村村顕(初名宗隣・典顕)(1707-1755)   霊鳳院、幼名喜七郎・弁之助陸奥一関藩三代藩主(田村氏)    八女 幾久姫(1710-1712)   玉巌智耀童女 側室 高橋氏    次男 伊達岩次郎(1703-1705)   景雲慈凉童子    五女 蝶姫(長姫、初め竹姫)(1707-1709)   随玄童女 側室 鴇田氏    次女 初姫(1704)   善如浄因童女    四女 清姫(初め勝姫)(1706-1708)   乾室如元童女 側室 佐藤氏    三女 民姫(1706-1707)   凉水卯月童女    五男 伊達百助(1708)   台雲皎玉童子    六男 桑折宗恒(1709-1716)   性海湛月、幼名守之允家老桑折宗敷養子 側室 宮部氏    七女 悦姫( 姫)(1709-1713)   即空了心童女 母未詳    六女 久米姫(1709)   槿庵幻栄童女
伊達持宗(だてもちむね)? 1393年(明徳4年) - 1469年2月19日(応仁3年1月8日)
伊達家十一世
伊達基実(だてもとざね)? 寛文3年(1663年) - 天和2年1月25日(1682年3月4日)
亘理伊達氏4代当主
伊達基宗(だてもとむね)? 生没年不詳
伊達家六世
伊達行朝(だてゆきとも)? 正応4年(1291年) - 貞和4年/正平3年5月9日(1348年6月6日)
子・伊達宗遠(伊達家八世) 正中元年(1324年) - 元中2年/至徳2年5月20日(1385年6月28日)
伊達慶邦(だてよしくに)? 1825年10月17日(文政8年9月6日) - 1874年(明治7年)7月12日)
(13代) 家督・天保12年(1841)相続 陸奥国仙台藩13代藩主。伊達氏29代当主。伊達斉邦 の養子 農政改革するも、兵制改革によって甚だしい財政難に陥る、奥羽越列藩同盟に加わるが藩内論議分裂、会津藩降服後に仙台藩も続いた 明治元年(1868)
伊達義広(だてよしひろ)? 文治元年(1185年) - 建長8年9月23日(1256年10月12日)
伊達家三世 入道覚佛 蔵人大夫 従五位下 子・ 伊達義広の次男・・・伊達政依(伊達家四世) 安貞元年(1227年) - 正安3年7月9日(1301年8月13日)
伊達吉村(だてよしむら)? 1680年7月23日(延宝8年6月28日) - 1752年2月8日(宝暦元年12月24日)
伊達吉村(5代) 家督・元禄8年(1695)綱村養子となり元禄16年(1703)相続 陸奥国仙台藩5代藩主。伊達氏21代当主。伊達綱村の養子 寛保3年(1743)隠居 伊達吉村の四男・・・伊達宗村・6代 生没・享保3年(1718)~宝暦6年(1756) 伊達吉村の5男・・・田村村隆(伊達村隆)(家臣伊達村倫養子、後に一関藩田村村顕養子) 元文2年5月23日(1737年6月21日) - 天明2年2月6日(1782年3月19日) 伊達吉村の八男・・・伊達村良 寛保3年4月29日(1743年5月22日) - 天明6年12月2日(1787年1月20日)
田の神(たのかみ) 

玉依姫神(たまよりひめのかみ) 
(日向)神武天皇のお母さん。(賀茂)下鴨神社の御祭神。(上総)上総一宮の御祭神。
玉依姫命(たまよりひめのみこと)? 

足島神(たるしまのかみ)?