人名よ

横道正光(よこじ まさみつ)? ????~1570
弟:横道源助高光、権介高宗 出雲・尼子氏臣。月山富田城落城後、降伏して安芸に送られる当主義久に随行しようとし認められず、しばらく大和・松永久秀の下に身を寄せたという。やがて久秀の下を去り、尼子勝久を擁して主家再興の為尽力、各地を転戦。出雲・布部山城の戦いで、姪婿中井善左衛門に討たれた。尼子十勇士の1人。
横田高松(よこた たかとし)? ????~1548
近江佐々木源氏流にて伊勢の出。甲斐・武田氏に仕える。敵の動きを察知し、戦術を先読みすることに優れていたという。しかし、信濃・砥石城攻略の際、先鋒として参加するが、戦局は不利となって殿で退却中、追撃を受け戦死した。後に当主信玄は「武偏者なら横田や原美濃のようになれ」と話していたという。
吉江景資(よしえ かげすけ)? 1527~1582
越後・長尾(上杉)氏臣。春日山城を謙信の留守中よく守った。下野・佐野城を任せられ、後に越中攻めに参陣。織田信長軍の越中攻略の際、魚津城を守って戦死した12将の1人。
吉岡長増(よしおか ながます)? ????~1573
吉弘氏、臼杵氏と並ぶ豊後・大友義鎮の三家老の1人。大友能直孫頼宗末流。将軍家との交渉に力を発揮すると共に、智将として周防・大内氏、後には安芸・毛利氏との戦いを総括し、策を用いてその侵攻を阻んでいる。
吉弘鑑理(よしひろ あきまさ)? ????~1571
吉岡氏、臼杵氏と並ぶ豊後・大友義鎮の三家老の1人。吉弘氏は大友氏祖能直の子泰広を祖とする。外交面で能力を発揮、軍事面においても1534年勢場ヶ原で周防・大内勢を撃破する等、筑前方面の攻略、謀反の鎮圧にと活躍した。薩摩・島津氏との日向・耳川の合戦において、角隈石宗と共に自重を訴えるが衆議一致せず、敵中に突撃し戦死した。
吉弘鎮種(よしひろ しげたね)? 1548~1586
→高橋紹運
米倉重継(よねくら しげつぐ)? ????~1575
甲斐・武田氏臣。当主信玄の旗本五人衆の1人に数えられる程の剛の者。矢や鉄砲玉を防ぐ為、青竹を重ね油を塗って作った楯“竹束”の考案者。この兵器は中国の三国時代にも登場しており、重継が兵法書に通じていたと思われる。ちなみに車輪をつけた物もあり、“車竹束”と呼ばれた。長篠合戦ではこれを活用できたかどうかはわからないが、戦死。
依岡左京進(よりおか さきょうしん)? ????~1586
土佐・一条氏臣であったが、主家内紛の際に土佐・長宗我部氏の元に走る。1581年伊予・北之川親安攻めで勇猛な働きを見せた。豊後・戸次川の合戦において戦死した。