妙見尊星王
妙見尊星王
みょうけんそんじょうおう
別:→天之御中主神:あめのみなかぬしのかみ、→妙見尊星王:みょうけんそんじょうおう、妙見菩薩:みょうけんぼさつ、妙見さん:
北の天空不動の星、北極星。己の立ち位置を知るこの星は、古の時代「妙見(みょうけん)」として神格化されました。鎌倉幕府屈指の御家人千葉氏は、この「妙見」を全国に広がった一族結束の象徴とし、特徴的な菩薩像とともに星を表す紋様をあしらった建築や文化財を各地に残しました。
■「妙見=北極星」への祈りと武士の道
天空にあって不動が故に、北半球に住む人々にとって、自己の目指す方位を、自分の今いる位置を知る手がかりとした北極星。日本では、古来、北極星や北斗七星を『妙見』として崇めてきました。妙見とはすぐれた視力の意。私たちの行いの善悪、真理をよく見通すチカラを表しています。
この北極星を人々が神と崇めた『妙見信仰』のカタチを経糸に、そして戦乱の世にあって『妙見』を一族の守護と結束の証とした坂東武者の雄にして鎌倉幕府設立を支えた『千葉一族』の記憶を緯糸に、やがて、『BUSHIDO』として結実する物語を紡ぎます。
◎軍神としての「妙見」
武士の時代の幕開けも近い平安時代の末期、下総の武士団千葉氏は源平の争乱や奥州合戦で大きな功績を上げ、東北から九州に至る広大な土地を獲得し、鎌倉幕府屈指の御家人に成長します。世の中が激しく動いていた時代、千葉氏は、当時関東に広まっていた妙見信仰と平将門の伝承を取り込んで、妙見を武士団の弓箭神(きゅうせんしん)(弓と矢の神=軍神)とすることで一族の結束を図ります。
千葉氏が編纂したといわれる『平家物語』の異本『源平闘諍録(げんぺいとうじょうろく)』には、北天にあった妙見菩薩が戦場に現れ、勝利に導く軍神として描かれています。千葉の妙見は、それまでの農耕神や鎮守神としての穏やかな菩薩の姿とは異なり、北の守り神である玄武に乗り、甲冑をまとい、剣を持つ勇壮な姿で現れます。この特徴的な妙見菩薩の図像は絵巻や仏像・仏画などの形で広がり、現在でも千葉氏の所領であった地域の寺社に残されています。
◎一族の守護と結束の象徴としての「妙見」
軍神となった妙見は一族を強力に守護する氏神とされ、一族や家臣が新たに城や館を建てる際には妙見社を建立しました。千葉氏の所領であった地域の城跡内もしくは近隣には必ずというほど妙見由来の寺社が見られます。『妙見』は仏教では菩薩ですが、天の中心にあって星々を従えていることから神道では『天之御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)《北辰妙見尊星王(ほくしんみょうけんそんじょうおう)》』となります。明治の神仏分離令によって、現在では『天之御中主尊』を祀る神社や『妙見菩薩』を祀る寺院として、人々の願いと地域の安寧を守っています。
≪北辰妙見尊星王(妙見様)を祀る千葉神社≫
千葉神社
◎星に守られた武士の誇り
説話の中で、妙見菩薩は「心武く、慈悲深重して『正直』なるものを守らん」と語ります。妙見の加護を得るためには、常に「正直」であり、武士の道に励むことが求められたのです。妙見を一族の守護に定めた千葉氏は、常に妙見に守られているという意識と、武士として正しい道を進むという意志のもと、家紋に星をかたどった九曜紋や十曜紋、月星紋を用います。この家紋は、奥州合戦の折、源頼朝から賜った旗にも見られるように、多くの武具や道具に施されます。また、妙見ゆかりの寺社に関わらず、一族の菩提寺や庇護した寺社屋根の鬼瓦や軒丸瓦などに用いられ、所領内に広がっていきます。
≪月と星をかたどった家紋≫
月と星をかたどった家紋
■「妙見」に捧げる馬 ~弓馬の道~
馬は神の乗り物であり、戦に臨む武士にとっては、まさに「人馬一体」生死を共にする生き物でした。いま人々は、様々な願いを込めて神様に絵馬を奉納しますが、この絵馬奉納の原点となる生きた馬を奉納する行事が福島県相馬地方に残されています。
『相馬野馬追』は、いまから1000年以上前に平将門が下総国の牧に敵兵に見立てた野馬を放ち追捕する軍事訓練として、また捕えた馬を神前に奉じる妙見の祭礼として始まったと伝えられています。千葉一族の奥州相馬氏は、これを江戸時代が終わるまで地域の結束を高める大切な行事として行い、明治以降は、相馬三社(中村神社・小高神社・太田神社)の祭礼として、地域の人々によって一度も絶やすことなく続けてられてきました。現在、500もの騎馬武者が参加する「お行列」や「甲冑競馬」「神旗争奪戦」「野馬懸(のまかけ)」の行事は全国でも類を見ません。
一途に『弓馬の道』を求めた武士の姿は、いまでも各地に残る野馬土手や木戸跡、家々で飼われている200頭もの馬とともに、野馬追が描かれた屏風や絵図、神社に収められた絵馬額に見ることができます。
■「妙見」に捧げる歌 ~和歌の道~
岐阜県郡上市大和地方には、和歌の道を究め、その神髄を伝えた古今伝授(こきんでんじゅ)の祖と言われる千葉一族の武将・東常縁(とうのつねより)がいました。応仁の乱の折、武勇にも優れた常縁が遠征で留守の間に居城篠脇城は落城しますが、常縁が一所懸命の思いを十首の歌に詠み敵に贈ったところ、心を打たれた敵将から一滴の血を流すことなく返還されたという逸話があります。これは「和歌の功徳」として、館跡の庭園や四季に染まる篠脇城の景色とともに、今に語り伝えられています。
また、この地には古今伝授を受けるために訪れた連歌師宗祇(そうぎ)と師である東常縁が妙見の前で連歌を詠み交わした明建神社が鎮座しています。神社前の神々しい樹齢700年の神迎え杉と神帰り杉の間には、歌碑とともに山桜の並木が続く、230mの参道があり、毎年8月7日には妙見集落の人々の父子相伝によって「七日祭(なぬかびまつり)」の神輿が行き返りして、地域の安寧を祈願します。
■『武士道』から『 BUSHIDO 』へ
千葉氏の宗家は戦国時代に絶たれますが、武士千葉氏の訓である『正直』な心で文武に励む姿勢は、時を経て子孫たちに引き継がれます。1900年、千葉氏の系譜であり月星紋を好んで用いた新渡戸稲造は、『BUSHIDO-The Soul of Japan』を著し、世界に日本人の普遍的な道徳意識や思考方法を知らしめます。
そして現在、その精神は星の紋とともに、様々な建築物や祭礼として全国各地に継承されているのです。