宗良親王

宗良親王

むねよししんのう
 1312-1385
父:後醍醐天皇の皇子
母:二条為世の女
子:タダナガ親王(尹良親王?)、良新

[生]正和1(1312)
[没]?
鎌倉時代末期~南北朝時代の歌人。信濃宮・信州中書王。母は二条為世の女,贈従三位為子。早く出家して妙法院に入り,18歳で天台座主。翌年元弘の乱で讃岐へ流され,建武中興で帰京して,再び天台座主。延元2=建武4 (1337) 年還俗。南北朝の争乱の激化に伴い,吉野へ落ち,以後南朝の中心として信州を本拠に遠江,越後,越中などに転戦,文中3=応安7 (74) 年には 35年ぶりに吉野へ帰り,南朝歌壇の中心として弘和1=永徳1 (81) 年『新葉和歌集』を撰集。その後再び信州に下り,元中6=康応1 (89) 年以前に没。家集『李花集』に 899首。

後醍醐天皇の皇子,母は二条為世の女為子。はじめ妙法院に入室,出家して尊澄法親王と称し同門跡を嗣ぎ,さらに天台座主となった。父天皇が討幕活動をはじめると行動をともにし,元弘の変(1331)後,鎌倉幕府方により讃岐(香川県)へ流された。建武新政で京に戻り天台座主に還任したが,南北朝内乱が始まると還俗して宗良と名乗り,父天皇の軍事面の一方を受け持った。まず伊勢に赴き,その後遠江(静岡県)井伊城に行った。一時吉野に戻り,暦応1/延元3(1338)年9月北畠親房らと共に船で伊勢大湊から東国をめざしたが,台風によって親王の一行のみ遠江に漂着,再び井伊城に入り,以後信濃(長野県)を中心に北陸,関東に転戦した。南朝勢力が下降すると信濃小笠原氏に押され,同国伊那地方に籠もり永徳2/弘和2(1382)から至徳1/元中1(1384)年ごろ同地で死去。その間何回か南朝行宮に赴いている。和歌に秀で歌集『李花集』があるほか,南朝関係者の和歌を集めて,勅撰集に準ぜられた『新葉和歌集』を編集した。

宗良親王

  生没年:1312-1385
  父:後醍醐天皇
    尊澄法親王
    一品中務卿
    征東大将軍
  妃:
    1341-1377 遠江宮 興良親王
    1365-1424 尹良親王(以下保留)
    桜子女王(夫:大橋定省)

[木賀家]


木賀家


天皇家