後醍醐天皇

後醍醐天皇

ごだいごてんのう

別:
尊治親王

第96代後醍醐天皇(ごだいごてんのう)、尊治(たかはる)

親族

父=後宇多天皇 

母=藤原忠子

中宮=藤原嬉子(後京極院)

女院=藤原廉子(新待賢門院)---

子=義良(後村上天皇)、3子 護良親王、8子 宗良親王

名前
第96代後醍醐天皇(ごだいごてんのう)、尊治(たかはる)

親族
父=後宇多天皇 母=藤原忠子
中宮=藤原嬉子(後京極院)
女院=藤原廉子(新待賢門院)---子=義良(後村上天皇

皇居
吉野行宮
               

陵墓
陵墓=塔尾陵(とうのおのみささぎ)
形状=円丘、径27m、高5.5mで二重の石垣がめぐる。
場所=奈良県吉野郡吉野町大字吉野山塔ノ尾 如意輪寺内

	  	  	  	 

               
略歴(13世紀)(14世紀)
1288-戊子-正応元年11月02日 生誕
1308-戊申-延慶01年09月19日 立太子
1318-戊午-文保02年02月26日 即位
1321-辛酉-元亨元年12月09日 後宇多天皇の院政を廃して親政を敷く
1331-辛未-元徳03年(元弘01年)09月11日 窮地に陥った天皇の召しにおうじて楠正成が挙兵
1336-丙子-建武03(延元01)年12月21日 幽閉中の花山院を抜け出して吉野・金峰山に潜幸。南北朝対立が始る
1339-己卯-暦応02(延元04)年08月15日 退位
1339-己卯-暦応02(延元04)年08月16日 吉野行宮において崩御する。52歳であった。


[生]正応1(1288).11.2. 京都
[没]延元4=暦応2(1339).8.16. 吉野
第 96代の天皇 (在位 1318~39) 。名は尊治。後宇多天皇の第2皇子。母は談天門院忠子 (参議藤原忠継の娘) 。文保2 (18) 年即位。後宇多法皇の院政のもとにあったが,元亨1 (21) 年から院政を廃して天皇親政を復活した。まず吉田定房,北畠親房らの人材を集め,記録所を再興し,政治の改革に努めた。しかし天皇政治をはばむ根源が鎌倉幕府にあることを痛感すると,日野資朝,俊基らの公卿とともに討幕計画を進めた。正中の変,元弘の乱と2度とも失敗に終り,元弘2=正慶1 (32) 年隠岐に流されたが,のち隠岐を脱出して伯耆に移り,幕府が滅亡すると京都に帰還し,建武中興が開始された。しかし足利尊氏の離反で挫折して天皇は吉野に逃れた。『建武年中行事』『建武日中行事』の著がある。陵墓は奈良県吉野郡吉野町の塔尾陵。

 後醍醐天皇(尊治親王) [#jde1c362]

  生没年:1288-1339
  父:後宇多天皇
    1308-1318 皇太子
    1318-1339 後醍醐天皇
    1324 正中の変
    1332- 隠岐流刑
  中宮:後京極院 藤原禧子(父:太政大臣 西園寺実兼)
    1314- 皇女
    1316-1362 宣政門院 懽子内親王(夫:光厳天皇
  女:遊義門院の一条局(父:参議 藤原実俊)
    1312-1330 上野太守大宰帥 世良親王
    静尊法親王
    皇女
  女:遊義門院左衛門督局(父:権中納言 二条為忠)
    皇女
  女院:皇太后 新待賢門院 藤原廉子(父:左近衛中将 阿野公廉)
    1325-1338 皇太子 恒良親王
    1326-1344 上野太守 成良親王
    1328-1368 義良親王
    祥子内親王(斎宮)
    惟子内親王
  女:源親子(父:大納言 源師親)
    1305-1331 恒性
    1308-1335 護良親王
    躬良親王
    1326-1383 征西大将軍 懐良親王
    満良親王
    恵尊法親王
    聖助法親王
    1325-1352 法仁法親王
    興福寺別当 玄円法親王
    最恵法親王
    知良王
    醍醐宮 尊真
    1323-1390 無文元選
  中宮:新室町院 珣子内親王(父:後伏見天皇
    1335?- 幸子内親王
  女御:藤原栄子(父:関白 二条道平)
  女:権大納言局 藤原為子(父:権大納言 二条為世)
    1311-1337 一品中務卿 尊良親王(子:守永親王)
    1312-1385 宗良親王
    1316?-1339 瓊子内親王
    准三宮 欣子内親王
  女:勾当内侍(父:源経資)
    皇女
  女:民部卿三位(父:日野経光?)
    妣子内親王
  女:権中納言局
    貞子内親王
  女:(父:平基時)
    皇女
  女:民部卿局
    皇女(内覧関白 近衛基嗣北政所)
  女:山階実子
    皇女
  女:(父:権大納言 洞院公敏)
    瑜子内親王
  女:坊門局
    皇女
  女:権大納言三位局(父:左近衛権中将 二条為道)
    皇女
  女:
    -1396 用堂
  女:大納言典侍(父:権大納言 北畠師重)
  女:勾当内侍(父:世尊寺経朝)


天皇家

後醍醐天皇(読み)ごだいごてんのう

   1288―1339ごだいごてんのう ‥テンワウごだいごてんのう〔テンワウ〕後醍醐天皇 (ごだいごてんのう)後醍醐天皇 ごだいごてんのう

[生]正応1(1288).11.2. 京都
[没]延元4=暦応2(1339).8.16. 吉野
第 96代の天皇 (在位 1318~39) 。名は尊治。後宇多天皇の第2皇子。母は談天門院忠子 (参議藤原忠継の娘) 。文保2 (18) 年即位。後宇多法皇の院政のもとにあったが,元亨1 (21) 年から院政を廃して天皇親政を復活した。まず吉田定房,北畠親房らの人材を集め,記録所を再興し,政治の改革に努めた。しかし天皇政治をはばむ根源が鎌倉幕府にあることを痛感すると,日野資朝,俊基らの公卿とともに討幕計画を進めた。正中の変,元弘の乱と2度とも失敗に終り,元弘2=正慶1 (32) 年隠岐に流されたが,のち隠岐を脱出して伯耆に移り,幕府が滅亡すると京都に帰還し,建武中興が開始された。しかし足利尊氏の離反で挫折して天皇は吉野に逃れた。『建武年中行事』『建武日中行事』の著がある。陵墓は奈良県吉野郡吉野町の塔尾陵。

[1288~1339]第96代天皇。在位1318~1339。後宇多天皇の第2皇子。名は尊治(たかはる)。天皇親政・人材登用など政治の改革に努め、鎌倉幕府打倒を図ったが、正中の変(1324)・元弘の変(1331)に失敗、隠岐(おき)に流された。のち、脱出して建武の中興に成功したが、足利尊氏(あしかがたかうじ)の謀反により2年余で新政府は倒れ、後村上天皇に譲位、吉野で死去。編著に「建武年中行事」など。

鎌倉末期〜南北朝初期の天皇。後宇多天皇第2皇子。諱(いみな)は尊治(たかはる)。在位は1318年―1339年。院政を廃して天皇親政を行い,正中の変,元弘の乱を経て鎌倉幕府を滅ぼし建武新政を行った。しかし新政に失敗,足利尊氏にそむかれ吉野に移って南朝を樹立したが,退勢挽回(ばんかい)ならず,悲運のうちに没した。後醍醐は宋学に傾倒,強烈な個性の持ち主で,再度の倒幕計画の失敗,隠岐への配流にもめげず,天皇親政政権の樹立を志向した。関所停止令を発して商工民をひきつけ,楠木正成など悪党と呼ばれた勢力を組織して鎌倉幕府を滅ぼした。後醍醐の政策は単なる復古ではなく,宋の君主独裁政治をめざしたものとされている。その専制性は武将・貴族たちの強い反発にあい,新政は短期間に瓦解した。

1288-1339 鎌倉-南北朝時代,第96代天皇。在位1318-39。
正応(しょうおう)元年11月2日生まれ。後宇多天皇の第2皇子。母は藤原忠子(談天門院)。花園天皇の譲位をうけて即位。大覚寺統。院政を廃止し親政をおこなう。鎌倉幕府打倒の兵をあげて敗れ,一時隠岐(おき)に流されるが,楠木正成(くすのき-まさしげ),足利高氏(尊氏)らの働きで討幕をはたし,建武(けんむ)の新政の実行をめざす。しかし新政への武士らの不満をになう尊氏は,別に光明(こうみょう)天皇を擁立(北朝)し,室町幕府をひらいた。天皇は吉野にのがれて南朝をたて,北朝や尊氏と対立した。子の後村上天皇に譲位した翌日の暦応(りゃくおう)2=延元4年8月16日死去。52歳。墓所は塔尾陵(とうのおのみささぎ)(奈良県吉野町)。諱(いみな)は尊治(たかはる)。別名に吉野院。著作に「建武年中行事」「建武日中行事」。
【格言など】玉骨は縦(たとい)南山の苔に埋るとも,魂魄(こんぱく)は常に北闕(ほつけつ)の天を望(のぞま)ん(「太平記」)

没年:暦応2/延元4.4.16(1339.5.25)
生年:正応1.11.2(1288.11.26)
鎌倉末・南北朝初期の天皇。後宇多天皇の第2子。母は談天門院藤原忠子。乾元1(1302)年親王宣下。諱 は尊治。嘉元2(1304)年大宰帥となり帥宮と呼ばれた。大覚寺・持明院両統に分裂した天皇家の中で,大覚寺統の後宇多は第1子後二条天皇の子邦良の即位を望み,邦良幼少時の中継として延慶1(1308)年尊治は持明院統の花園天皇の皇太子に立つ。儀式典礼に関心深く,学問・和歌にも意欲的な尊治は,一生の間に20人前後の女性に40人近い子女を生ませるという絶倫な精力の持ち主であった。文保2(1318)年に即位した尊治は宋学に傾倒,君主独裁を目指し,生前に自らの諡号を後醍醐と定め,元亨1(1321)年に親政を開始すると記録所を中心に専制的な政治を展開する。翌年,京都の酒屋に課税,洛中の地子を止めて京を天皇の直轄下に置き,神人に対する寺社の公事を停止してその供御人化をはかるなど,発展しつつあった商業・流通に王権の基盤を置こうとする後醍醐は,綸旨に万能の力を与え,家格と官位の固定化の打破,朝廷の官司請負による運営の変革をはかった。こうした後醍醐が,天皇位を左右している鎌倉幕府打倒に突進するのは当然で,律僧文観を通じて楠木正成を引き入れ,伊賀兼光などの幕府の要人,美濃源氏もこの討幕計画に加わったが,正中1(1324)年幕府に洩れて失敗する。後醍醐は窮地に立ったが元徳2(1330)年,米価・酒価の公定,関所停止令により商工民を引きつけ,南都北嶺に自ら足を運んでこれを味方に引き入れ,北条氏の流通路支配に反発する悪党・海賊の支えを期待,元弘1(1331)年に再び挙兵するが捕らえられて隠岐に流された。 しかし護良親王,正成の軍事行動に呼応して後醍醐は同3年に隠岐を脱出,船上山で兵を集め,足利尊氏の内応を得て幕府を滅ぼし,建武新政府を樹立した。以後,建武3/延元1(1336)年にそれが崩壊するまで,後醍醐は公家・武家をあわせ支配し,大内裏を造営,著書『建武年中行事』『建武日中行事』のように天皇中心の儀式典礼を整え,諸国の一宮,二宮および国分寺を天皇直轄とするなど天皇の専制を強化,腹心の貴族・武士で構成した記録所・恩賞方を通じ綸旨絶対の政治を推進し,官司請負制・知行国制を打破し,家格無視の人事により貴族・官人・武士をその意志の下に置こうとした。また銭貨・紙幣の発行を企図,徳政により貸借関係を整理する一方,地頭領の所出の20分の1を徴収,その運用を京都の土倉にゆだねるなど,商業・流通に依存する元亨以来の政策をさらに推進した。天皇の立場にあって自ら密教の行者としてしばしば祈祷を行った後醍醐は僧衣を黄色に統一しようとし,寺院・僧侶にもその意志を貫こうとした。しかし貴族・武家・僧侶の慣習を無視した政治に対する反発を受けて次第に後退,足利尊氏・直義の反乱により政府は瓦解した。後醍醐は吉野に逃れて南朝を立て,室町幕府・北朝に対抗したが京都回復の夢を果たせぬまま吉野で死んだ。

 1318年に即位した天皇で、鎌倉幕府を倒そうと2度計画をたてますが、失敗し、隠岐[おき]に流されます。後に鎌倉幕府がほろびると建武の新政[けんむのしんせい]をはじめますが、足利尊氏[あしかがたかうじ]が背き、吉野[よしの]に逃れて、南朝[なんちょう]をつくりました。

1288‐1339(正応1‐延元4∥暦応2)
第96代に数えられる天皇。在位1318‐39年。後宇多天皇の第2皇子。母は談天門院藤原忠子。1302年(乾元1)親王宣下。諱(いみな)は尊治(たかはる)。04年(嘉元2)大宰帥となり,帥宮(そちのみや)といわれた。当時,皇統は大覚寺・持明院両統に分裂していたが,大覚寺統の後宇多は第1皇子である後二条天皇の子邦良に皇位を伝えようとし,尊治は邦良幼少時の中継ぎとして08年(延慶1)持明院統の花園天皇の皇太子に立った。

いわゆる「建武中興(けんむのちゅうこう)」を実現した天皇。後宇多天皇(ごうだてんのう)の第2皇子として正応(しょうおう)元年11月2日に生まれる。母は参議藤原忠継(ふじわらのただつぐ)の娘談天門院(だんてんもんいん)忠子(ちゅうし)。名は尊治(たかはる)。大覚寺統(だいかくじとう)に属し、1318年(文保2)31歳で即位、1321年(元亨1)院政を廃して親政を開始、吉田定房(よしださだふさ)、北畠親房(きたばたけちかふさ)、万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)、日野資朝(ひのすけとも)、日野俊基(としもと)らの人材を集め、記録所を再興して、政務に励むとともに、学問、武芸の振興に努めた。この間、鎌倉幕府打倒の意思を固め、「無礼講」とよんだ講書・酒宴の会合に事寄せ人々を結集して倒幕の秘計を進めたが、1324年(正中1)六波羅探題(ろくはらたんだい)に密偵され、側近の多数が逮捕された(正中(しょうちゅう)の変)。この事件で危うく難を免れた天皇は、その後、皇子の護良親王を天台座主(てんだいざす)にすることによって比叡山(ひえいざん)勢力も引き入れようとするなどして、ふたたび倒幕計画を進めた。しかし1331年(元弘1)4月、吉田定房がまた計画を幕府に密告したため、8月天皇は東大寺に逃れ、ついで笠置(かさぎ)(京都府相楽(そうらく)郡笠置町)に立てこもり、幕府に不満をもつ諸国の武士、寺社勢力などに蜂起(ほうき)を呼びかけた。これに対し幕府は大軍を送って笠置を包囲したため、天皇は捕らえられて1332年隠岐(おき)に流された(元弘(げんこう)の変)。

 天皇の隠岐配流中の動静は不明であるが、護良親王、楠木正成(くすのきまさしげ)らの活躍によって反幕勢力の力が強まると、1333年(元弘3・正慶2)閏(うるう)2月、天皇は隠岐を脱出、伯耆(ほうき)(鳥取県)の名和長年(なわながとし)らの支持を得て6月京都に帰った。これに先だつ5月幕府は滅亡したため、天皇は、幕府の擁立していた持明院統(じみょういんとう)の光厳天皇(こうごんてんのう)を廃し、建武新政を開始した。

 新政は、従来の伝統にとらわれず、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)も置かないで、天皇が自ら公家(くげ)・武家両者を統率しようとするものであった。中央には記録所、雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)、武者所(むしゃどころ)などの新設機関を置き、地方の国々は国守・守護併存とし、従来の官位相当や家柄も無視して公武の人材を登用した。しかし論功行賞においては公家優先であったうえ、従来の所領の領有権は改めて天皇の安堵(あんど)を受けなければならないという強引な政策を打ち出したり、皇居造営のための臨時賦課を強行したりしたため、地方武士の新政に対する不満は急速に高まった。また公家にしても、伝統的な摂関政治型の体制が否定され、天皇独裁のもとに恣意(しい)的な人事が行われたため、それに対する失望は大きかった。

 そうしたなかで1335年(建武2)北条残党が蜂起すると、その討伐のために関東に下った足利尊氏(あしかがたかうじ)が反し、天皇は西上した尊氏を避けて叡山に逃れた。尊氏はいったん九州に落ちたのち再度入京、天皇を花山院(かざんいん)(京都市上京区、京都御苑(ぎょえん)内)に幽閉した。このため天皇は1336年12月吉野に逃れ、ここにいわゆる吉野朝廷が開かれ、以後南北朝併立時代に入る。天皇は諸皇子を各地方に派遣し、地方武士の掌握に努めたが、これも次々に敗れ、吉野に従う公家も少なく、孤立が深まるなかで、1339年(延元4・暦応2)義良親王(のりよししんのう)(後村上天皇(ごむらかみてんのう))に譲位、同年52歳で死去した。遺詔により後醍醐と諡号(しごう)したが、それは生前自ら撰(えら)んだものという。

 陵墓は奈良県吉野町の塔尾陵(とうのおりょう)。

 天皇は日本史上異例の独裁型執政を行うことによって波瀾(はらん)に満ちた生涯を送ったが、朱子学や真言(しんごん)の教義に通じるとともに、典礼、和歌などにも造詣(ぞうけい)深く、『建武年中行事』『建武日中行事』を著した。また吉野時代には「事問はん人さへ稀(まれ)になりにけり我世の末の程そ知らるる」の歌もある。

後醍醐天皇

後醍醐天皇関係図

後醍醐天皇花押

生年月日:1288年11月2日
鎌倉時代後期;南北朝時代の第96代(南朝初代)の天皇
1339年没

第九六代天皇。後宇多天皇の第二皇子。母は談天門院忠子。名は尊治(たかはる)。文保二年(一三一八)即位。親政を行ない、吉田定房、北畠親房などの人材を登用した。王政復古を志して討幕を計画したが、正中の変(一三二四)、元弘の変(一三三一)の両度ともに失敗して隠岐に流された。正慶二年(一三三三)脱出して、鎌倉幕府が滅亡すると建武新政府を樹立した。のち親政に失敗して足利尊氏と対立、吉野に移って南朝を開いた。暦応二年(一三三九)義良親王(後村上天皇)に譲位し、翌日没した。在位二二年。儒学を学び、和歌は「新葉集」に収められ、著書に「建武年中行事」などがある。正応元~暦応二年(一二八八‐一三三九)

1288〜1339
鎌倉末期・南北朝初期の天皇(在位1318〜39)。鎌倉幕府を倒し建武の新政を実現した
宇多天皇の第2皇子。1318年両統迭立 (てつりつ) 時代に大覚寺統から出て即位。古代的な天皇親政を復活しようとして討幕を計画し,'24年正中の変,'31年元弘の変をおこしたが失敗。隠岐に配流されたが,新田義貞・足利尊氏らの協力を得て,'33年鎌倉幕府を滅ぼし建武の新政を実現。しかし新政は公武の不和のため失敗し,尊氏の反乱により崩壊した。のち吉野に移り,南朝を開き尊氏の立てた北朝と対立,南北朝の内乱となり,南朝不振の中で病没した。

【悪党】より

…とくに1324年(正中1)には,本所一円地への守護使の入部を含むきびしい禁圧令をもってこれに臨んだが,効果なく,むしろ頻発する紛争のさい,当事者が互いに相手を〈悪党〉とよび,禁圧令を適用させようとする動きが広がり,幕府に対する不信感を増大させる結果を生んだ。 この不満を組織して,討幕の方向に導いたのが後醍醐天皇で,楠木正成,赤松円心,名和長年など,その直属武力はいずれも悪党的性格を持つ武士団であった。南朝が室町幕府に完全に圧倒されながらも,長く命脈を保ったのは,悪党・海賊的な武力を多少ともその基盤となしえたからにほかならない。…
【阿野廉子】より

…阿野公廉の女。後醍醐天皇の妾。1319年(元応1)西園寺実兼の女禧子(のち後京極院)が後醍醐天皇の中宮として入内するに際して,洞院公賢の養女としてその女房になり後宮に入った。…
【笠置[町]】より

…町域の大部分が山林であるが,木津川沿岸には耕地が開け,南岸を関西本線,北岸を国道163号線が貫通する。南部にある笠置山は,花コウ岩類岩石の風化による奇岩怪石と後醍醐天皇が行在所(あんざいしよ)を置いた笠置寺などで知られている。これと木津川峡谷をあわせて笠置山府立自然公園に指定され,多くの人を集めており,観光は町の重要な産業になっている。…
【鎌倉時代】より

… 前述のように,後嵯峨法皇が後継者について意思を示すことなく没したため,その皇子の後深草上皇亀山天皇の間で治天の君をめぐる紛糾が生じ,後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との対立に発展した。大覚寺統の後醍醐天皇は,治天の君や天皇の地位に対する幕府の干渉に不満を抱き,幕府の動揺を見て幕府打倒を決意した。1324年(正中1)には計画が漏れて失敗し(正中の変),31年(元弘1)にも幕府方に知れ,天皇は隠岐に流されたが(元弘の乱),討幕の兵は各地におこり,33年,ついに幕府を滅ぼした。…
【鎌倉幕府】より

…一方,〈治天の君〉や天皇の選定に関する幕府の干渉は,持明院統・大覚寺統の対立を激化させ,両統は互いに幕府に働きかけて自派の有利を図った。大覚寺統の後醍醐天皇は幕府の干渉に不満を抱き,幕府打倒の計画を進めた。1324年(正中1)には計画が漏れて失敗し(正中の変),31年(元弘1)にも計画が漏れ,天皇は隠岐に流されたが(元弘の乱),討幕の兵が各地で蜂起し,33年にはついに幕府を滅ぼした。…
【建武新政】より

…1333年(元弘3)5月に鎌倉幕府を滅ぼしてから,36年(延元1∥建武3)10月に足利尊氏に降伏するまでの後醍醐天皇の政治。
[新政の前提]
 1321年(元亨1)12月の親政開始後,後醍醐は独自な政治を展開,32年には神人(じにん)公事停止令により洛中の神人・寄人(よりうど)の供御人化を計り,諸国の供御人交名(きようみよう)を提出させ,洛中の酒屋に造酒司を通じて酒鑪役(しゆろやく)を賦課し,洛中の地子も停止したと推定される。…
【建武年中行事】より

後醍醐天皇が著した有職書。1334年(建武1)成立。…
【書】より

…入宋して禅を伝えた栄西をはじめ,宗峰妙超,夢窓疎石,雪村友梅,また渡来僧の蘭渓道隆,無学祖元,一山一寧などが超俗の墨跡を伝えている。宋・元の書の影響は宸翰(しんかん)にもあらわれ,宋学に心を寄せ,禅宗に帰依した後醍醐天皇の宸翰は,和風の中に黄庭堅風の宗峰妙超の書風が見られ,覇気横溢した書として名高い。南北両朝の宸翰は競ってみごとであり,宸翰様と呼ばれる。…
【正中の変】より

後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうとして失敗した初度の政変。天皇は1321年(元亨1)12月親政を開始し政道刷新に旺盛な意欲をみせた。…
【宸翰様】より

…宸翰とは天皇の筆跡のこと。日本書道史上では数多の宸翰のうち,後醍醐天皇など南北朝時代の宸翰の和様を特に〈宸翰様〉と称している。後醍醐天皇は朱子学の造詣が深く,禅宗にも帰依し,おのずから当時流行の宋風と禅林の書法をうけ,和様書道に新風をもたらしたが,同時代の他の天皇もおおむね他の時代とは異なる奔放で気迫のある書風を展開した。…
天皇】より

…ことに持明院,大覚寺両皇統の対立が皇位の継承を複雑にすると,皇位と治天の君が分離し,それぞれ別個に定められ,継承される事態を招いた。後醍醐天皇の討幕運動は,この天皇と治天の君の再統合を図ったものということもできる。
[鎌倉・室町幕府と天皇
 1185年(文治1),源頼朝は〈日本国総追捕使,日本国総地頭〉に任命され,全国の軍事警察権を一手に掌握し,武士勢力を直接,間接に支配するに至った。…
【南北朝時代】より

…鎌倉時代と室町時代の中間にあたるが,広義の室町時代に含まれる。通常,1336年(延元1∥建武3)足利尊氏が北朝の光明天皇を擁立し,それについで後醍醐天皇が吉野に移り南朝を開いた時期をその始期とする。また政治体制だけでなく,社会構成の変化を目安とすれば,14世紀初頭ころから徐々に南北朝時代的な状況に入っている。…
【八条院】より

…1302年(乾元1)亀山はいったんそのすべてを後宇多上皇に譲るが,05年(嘉元3)これを改め,庁分を後宇多に与えたのみで,他の御願寺領を後宇多の異母弟恒明親王に譲る。06年(徳治1)の目録によると荘園数はさらに増えているが,亀山の死後,後宇多は安楽寿院領を除き他の御願寺領を恒明から取り戻し,08年(延慶1)一期(いちご)の後(当人死後)はすべて後二条天皇の子邦良親王に譲与する条件で,子息尊治親王(後醍醐天皇)に譲った。こうして八条院領の大部分は後醍醐の管領するところとなったが,建武新政崩壊の結果,その実をほとんど失うにいたった。…
花園天皇】より

…08年(延慶1)後二条の死とともに即位。その皇太子は9歳年長の尊治(後醍醐天皇)であった。諸社の嗷訴,異国襲来の恐怖など鎌倉末期の不安定な社会情勢の中で,伏見の院政の下にあって,きまじめな花園は災いの責任をみずからの不徳に帰しつつ古典の読書に励んでいるが,京極為兼の失脚,伏見と後伏見の対立,伏見の死など,持明院統の退潮とともに18年(文保2)退位,後醍醐に譲位した。…
【吉水神社】より

…奈良県吉野郡吉野町吉野山に鎮座。後醍醐天皇を主神とし,楠木正成,吉水院宗信法印を配祀する。もと吉水(きつすい)院と称し,役小角(えんのおづぬ)の創立と伝える吉野修験金峯山寺の僧坊で,後醍醐天皇吉野潜幸のとき,しばらく行宮(あんぐう)とされた。…
【両統迭立】より

…また長講堂領荘園を伝領した持明院統に対して,大覚寺統は八条院領荘園を入手し,さらに室町院(暉子内親王)の死後相続人が定まっていなかった室町院領荘園をめぐって両統は激しく対立し,結局幕府の仲介でこれを両統で折半することとなったが,両統の間の溝はさらに深まった。後二条天皇の死後は,両統迭立の原則から持明院統の後伏見上皇の弟富仁親王(花園天皇)が皇位につき,後二条天皇の弟尊治親王(後醍醐天皇)が皇太子となった。このとき,持明院統の皇位は後伏見系に,大覚寺統の皇位は後二条系にそれぞれ将来は伝えられるべきことが定められており,持明院統が後伏見系と花園系に,大覚寺統が後二条系と後醍醐系に再分裂し,両統分立が四統分立になる兆候が見られた。…

1288 11  2  尊治(後醍醐天皇)生誕
1308 9  19  尊治(後醍醐天皇)立太子
1318 2/26第95代 花園天皇が退位し大覚寺統の尊治親王が第96代 後醍醐天皇(初代南朝天皇)として即位(文保2(1318)2.26~延元4(1339)8.15)
1318 一条内経、後醍醐天皇代に関白となる。(1318~1323)内大臣(在任中に辞任)。内大臣一条内実の子。
1318 二条道平、後醍醐天皇代に関白となる。(1318)前左大臣。
1321 12  9  後醍醐天皇が、後宇多天皇の院政を廃して親政を敷く、摂関廃止。記録書を再興し、天皇親政を始める。
1323 九条房実、後醍醐天皇代に関白となる。(1323~1324)左大臣(在任中に辞任)。関白九条忠教の子。
1324 鷹司冬平、後醍醐天皇代に関白となる。(1324~1327)太政大臣。
1324 9  19  正中の変。六波羅探題が兵を遣し、鎌倉幕府討滅を企てた後醍醐天皇方の土岐頼兼・多治見國長らを殺害し、日野資朝・俊基を捕える
1324 正中の変(しょうちゅうのへん)。後醍醐天皇が企てた1回目の倒幕計画。日野資朝、日野俊基と挙兵するが、六波羅探題が兵を遣し、鎌倉幕府討滅を企てた後醍醐天皇方の土岐頼兼・多治見國長らを殺害し日野資朝・俊基を捕える、日野資朝は佐渡に流罪。
1327 二条道平、後醍醐天皇代に関白となる。(1327~1330)前左大臣。
1330 近衛経忠、後醍醐天皇代に関白となる。(1330)右大臣(在任中に辞任)。これ以降、北朝・南朝の間を行き来し、最後は吉野で没した。
1330 鷹司冬教、後醍醐天皇代に関白となる。(1330~1331)左大臣(在任中に辞任)。摂政鷹司冬平の養子。
1331 元弘の乱(げんこうのらん)後醍醐天皇による討幕計画で失敗。護良親王(もりよししんのう)や楠木正成(くすのきまさしげ)などが挙兵した。
1331 5  5  元弘の変。後醍醐天皇の再度の倒幕計画が室町幕府に漏洩し日野俊基らを逮捕。天皇は笠置山に籠城
1331 8  27  元弘の変(倒幕計画)に失敗した後醍醐天皇が神器とともに奈良・笠置山に逃れる
1331 9  11  元弘の乱で窮地に陥った後醍醐天皇の召しに応じて楠木正成が挙兵
1331 9  28  笠置山に蘢っていた後醍醐天皇が挙兵。幕府が足利尊氏軍を指し向ける
1331 9  29  後醍醐天皇の行在所である笠置山が幕府軍により全焼。逃れた後醍醐天皇は囚われの身となる。
1331 元弘の変後醍醐天皇が2回目の倒幕計画を立てるも失敗。楠正成は敗走。後醍醐天皇は、隠岐に流刑。
1331 後醍醐天皇の行在所である笠置山が幕府軍により全焼。逃れた後醍醐天皇は囚われの身となる。
1332 後醍醐天皇が隠岐に流刑(翌年、脱出する)
1333 南朝(大覚寺統)初代:後醍醐天皇、奈良の吉野、新田義貞・楠正成・北畠顕家。
1333 護良親王(後醍醐天皇の子)が征夷大将軍となる記録所、恩賞方、雑訴決断所、武者所を設置する
1333 4  27  倒幕挙兵討伐の為に丹波に入っていた足利尊氏が、後醍醐天皇に応じて倒幕を決意し挙兵
1333 4  18  足利尊氏が後醍醐天皇による討幕挙兵討伐のため入京
1333 南朝(大覚寺統)初代:後醍醐天皇、奈良の吉野、新田義貞・楠正成・北畠顕家。
1333 4  27  倒幕挙兵討伐の為に丹波に入っていた足利尊氏が、後醍醐天皇に応じて倒幕を決意し挙兵
1333 後醍醐天皇隠岐脱出後醍醐天皇が隠岐を脱出し、名和長らと船上山で挙兵。足利尊氏が六波羅探題を討つ。新田義貞は鎌倉で挙兵。
1333 倒幕挙兵討伐の為に丹波に入っていた足利尊氏が、後醍醐天皇に応じて倒幕を決意し挙兵
1334 建武の新政(けんむのしんせい)後醍醐天皇による親政で延喜・天暦の治(えんぎ・てんりゃくのち)を理想とする。武士よりも貴族・寺社を重んじた為、武士の不満が高まる。
1334 後醍醐天皇が借金に苦しむ人々を救う為の徳政令を発布
1335 延元の乱(足利尊氏が後醍醐天皇の政権に対して挙兵)-1336
1336 -12後醍醐天皇は吉野へ逃れる(南朝)
1336 1    足利尊氏は入京する。後醍醐天皇は比叡山へ
1336 12  21  後醍醐天皇が幽閉中の花山院を抜け出して吉野・金峰山に潜幸。南北朝対立が始る
1336 後醍醐天皇は吉野へ逃れる(南朝)
1336 後醍醐天皇が幽閉中の花山院を抜け出して吉野・金峰山に潜幸。南北朝対立が始る
1338 南朝の衰退1338、新田義貞、北畠顕家戦死。1339、後醍醐天皇崩御(尊治親王)(天皇(96代))<数え52歳>。
1346 後醍醐天皇の為に尊氏・直義兄弟が天龍寺創建。

区分区分名COLORカテゴリ人物・出来事国2編集
12881128出来事尊治親王(後醍醐天皇)生誕日本編集
12881128出来事朝日日本歴史人物事典尊治親王
後の第96代の天皇後醍醐天皇(ごだいごてんのう))。在位 1318~1339。後宇多天皇の第2皇子。母は談天門院藤原忠子。1302年(乾元1)親王宣下。諱(いみな)は尊治(たかはる)。04年(嘉元2)大宰帥となり,帥宮(そちのみや)といわれた。
没年:暦応2/延元4.4.16(1339.5.25)
生年:正応1.11.2(1288.11.26)
鎌倉末・南北朝初期の天皇。後宇多天皇の第2子。母は談天門院藤原忠子。乾元1(1302)年親王宣下。諱 は尊治。嘉元2(1304)年大宰帥となり帥宮と呼ばれた。
日本編集
12881128出来事世界大百科事典【書】より
…入宋して禅を伝えた栄西をはじめ,宗峰妙超,夢窓疎石,雪村友梅,また渡来僧の蘭渓道隆,無学祖元,一山一寧などが超俗の墨跡を伝えている。宋・元の書の影響は宸翰(しんかん)にもあらわれ,宋学に心を寄せ,禅宗に帰依した後醍醐天皇の宸翰は,和風の中に黄庭堅風の宗峰妙超の書風が見られ,覇気横溢した書として名高い。南北両朝の宸翰は競ってみごとであり,宸翰様と呼ばれる。…
日本編集
12881128出来事世界大百科事典【宸翰様】より
…宸翰とは天皇の筆跡のこと。日本書道史上では数多の宸翰のうち,後醍醐天皇など南北朝時代の宸翰の和様を特に〈宸翰様〉と称している。後醍醐天皇は朱子学の造詣が深く,禅宗にも帰依し,おのずから当時流行の宋風と禅林の書法をうけ,和様書道に新風をもたらしたが,同時代の他の天皇もおおむね他の時代とは異なる奔放で気迫のある書風を展開した。…
日本編集
12881128出来事世界大百科事典花園天皇】より
…08年(延慶1)後二条の死とともに即位。その皇太子は9歳年長の尊治(後醍醐天皇)であった。諸社の嗷訴,異国襲来の恐怖など鎌倉末期の不安定な社会情勢の中で,伏見の院政の下にあって,きまじめな花園は災いの責任をみずからの不徳に帰しつつ古典の読書に励んでいるが,京極為兼の失脚,伏見と後伏見の対立,伏見の死など,持明院統の退潮とともに18年(文保2)退位,後醍醐に譲位した。…
日本編集
12881128出来事朝日日本歴史人物事典尊治親王
後の第96代の天皇後醍醐天皇(ごだいごてんのう))。在位 1318~1339。後宇多天皇の第2皇子。母は談天門院藤原忠子。1302年(乾元1)親王宣下。諱(いみな)は尊治(たかはる)。04年(嘉元2)大宰帥となり,帥宮(そちのみや)といわれた。
没年:暦応2/延元4.4.16(1339.5.25)
生年:正応1.11.2(1288.11.26)
鎌倉末・南北朝初期の天皇。後宇多天皇の第2子。母は談天門院藤原忠子。乾元1(1302)年親王宣下。諱 は尊治。嘉元2(1304)年大宰帥となり帥宮と呼ばれた。
日本編集
12881128出来事朝日日本歴史人物事典尊治親王
後の第96代の天皇後醍醐天皇(ごだいごてんのう))。在位 1318~1339。後宇多天皇の第2皇子。母は談天門院藤原忠子。1302年(乾元1)親王宣下。諱(いみな)は尊治(たかはる)。04年(嘉元2)大宰帥となり,帥宮(そちのみや)といわれた。
没年:暦応2/延元4.4.16(1339.5.25)
生年:正応1.11.2(1288.11.26)
鎌倉末・南北朝初期の天皇。後宇多天皇の第2子。母は談天門院藤原忠子。乾元1(1302)年親王宣下。諱 は尊治。嘉元2(1304)年大宰帥となり帥宮と呼ばれた。
日本編集
13089198出来事尊治親王(後醍醐天皇)立太子日本編集
13188出来事摂政・関白天皇代在職期間二条道平、後醍醐天皇代に関白となる。[1318]前左大臣。日本編集
13188出来事摂政・関白天皇代在職期間一条内経、後醍醐天皇代に関白となる。[1318~1323]内大臣(在任中に辞任)。内大臣一条内実の子。日本編集
13182264中項目red天皇第96代 後醍醐天皇が即位[文保2(1318)2.26~延元4(1339)8.15]日本編集
13182265中項目説明後醍醐天皇が即位する(初代南朝天皇)日本編集
13182268出来事96代 後醍醐天皇大覚寺統の後醍醐天皇が皇位に就く。日本編集
13182268出来事第95代花園天皇が退位し尊治親王が第96代後醍醐天皇(初代南朝天皇)として即位日本編集
13182268出来事ブリタニカ国際大百科事典後醍醐天皇(ごだいごてんのう)
[生]正応1(1288).11.2. 京都[没]延元4=暦応2(1339).8.16. 吉野
名は尊治。後宇多天皇の第2皇子。母は談天門院忠子 (参議藤原忠継の娘) 。
日本編集
13182268出来事百科事典マイペディア鎌倉末期〜南北朝初期の天皇。後宇多天皇第2皇子。諱(いみな)は尊治(たかはる)。在位は1318年―1339年。院政を廃して天皇親政を行い,正中の変,元弘の乱を経て鎌倉幕府を滅ぼし建武新政を行った。しかし新政に失敗,足利尊氏にそむかれ吉野に移って南朝を樹立したが,退勢挽回(ばんかい)ならず,悲運のうちに没した。後醍醐は宋学に傾倒,強烈な個性の持ち主で,再度の倒幕計画の失敗,隠岐への配流にもめげず,天皇親政政権の樹立を志向した。関所停止令を発して商工民をひきつけ,楠木正成など悪党と呼ばれた勢力を組織して鎌倉幕府を滅ぼした。後醍醐の政策は単なる復古ではなく,宋の君主独裁政治をめざしたものとされている。その専制性は武将・貴族たちの強い反発にあい,新政は短期間に瓦解した。日本編集
13182268出来事世界大百科事典【両統迭立】より
…また長講堂領荘園を伝領した持明院統に対して,大覚寺統は八条院領荘園を入手し,さらに室町院(暉子内親王)の死後相続人が定まっていなかった室町院領荘園をめぐって両統は激しく対立し,結局幕府の仲介でこれを両統で折半することとなったが,両統の間の溝はさらに深まった。後二条天皇の死後は,両統迭立の原則から持明院統の後伏見上皇の弟富仁親王(花園天皇)が皇位につき,後二条天皇の弟尊治親王(後醍醐天皇)が皇太子となった。このとき,持明院統の皇位は後伏見系に,大覚寺統の皇位は後二条系にそれぞれ将来は伝えられるべきことが定められており,持明院統が後伏見系と花園系に,大覚寺統が後二条系と後醍醐系に再分裂し,両統分立が四統分立になる兆候が見られた。…
日本編集
13182268出来事後醍醐天皇1318 2/26第95代 花園天皇が退位し大覚寺統の尊治親王が第96代 後醍醐天皇(初代南朝天皇)として即位(文保2(1318)2.26~延元4(1339)8.15)日本編集
13182268出来事世界大百科事典【八条院】より
…1302年(乾元1)亀山はいったんそのすべてを後宇多上皇に譲るが,05年(嘉元3)これを改め,庁分を後宇多に与えたのみで,他の御願寺領を後宇多の異母弟恒明親王に譲る。06年(徳治1)の目録によると荘園数はさらに増えているが,亀山の死後,後宇多は安楽寿院領を除き他の御願寺領を恒明から取り戻し,08年(延慶1)一期(いちご)の後(当人死後)はすべて後二条天皇の子邦良親王に譲与する条件で,子息尊治親王(後醍醐天皇)に譲った。こうして八条院領の大部分は後醍醐の管領するところとなったが,建武新政崩壊の結果,その実をほとんど失うにいたった。…
日本編集
13181128出来事日本大百科全書いわゆる「建武中興(けんむのちゅうこう)」を実現した天皇。後宇多天皇(ごうだてんのう)の第2皇子として正応(しょうおう)元年11月2日に生まれる。母は参議藤原忠継(ふじわらのただつぐ)の娘談天門院(だんてんもんいん)忠子(ちゅうし)。名は尊治(たかはる)。大覚寺統(だいかくじとう)に属し、1318年(文保2)31歳で即位、1321年(元亨1)院政を廃して親政を開始、吉田定房(よしださだふさ)、北畠親房(きたばたけちかふさ)、万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)、日野資朝(ひのすけとも)、日野俊基(としもと)らの人材を集め、記録所を再興して、政務に励むとともに、学問、武芸の振興に努めた。この間、鎌倉幕府打倒の意思を固め、「無礼講」とよんだ講書・酒宴の会合に事寄せ人々を結集して倒幕の秘計を進めたが、1324年(正中1)六波羅探題(ろくはらたんだい)に密偵され、側近の多数が逮捕された(正中(しょうちゅう)の変)。この事件で危うく難を免れた天皇は、その後、皇子の護良親王を天台座主(てんだいざす)にすることによって比叡山(ひえいざん)勢力も引き入れようとするなどして、ふたたび倒幕計画を進めた。しかし1331年(元弘1)4月、吉田定房がまた計画を幕府に密告したため、8月天皇は東大寺に逃れ、ついで笠置(かさぎ)(京都府相楽(そうらく)郡笠置町)に立てこもり、幕府に不満をもつ諸国の武士、寺社勢力などに蜂起(ほうき)を呼びかけた。これに対し幕府は大軍を送って笠置を包囲したため、天皇は捕らえられて1332年隠岐(おき)に流された(元弘(げんこう)の変)。
 天皇の隠岐配流中の動静は不明であるが、護良親王、楠木正成(くすのきまさしげ)らの活躍によって反幕勢力の力が強まると、1333年(元弘3・正慶2)閏(うるう)2月、天皇は隠岐を脱出、伯耆(ほうき)(鳥取県)の名和長年(なわながとし)らの支持を得て6月京都に帰った。これに先だつ5月幕府は滅亡したため、天皇は、幕府の擁立していた持明院統(じみょういんとう)の光厳天皇(こうごんてんのう)を廃し、建武新政を開始した。
 新政は、従来の伝統にとらわれず、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)も置かないで、天皇が自ら公家(くげ)・武家両者を統率しようとするものであった。中央には記録所、雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)、武者所(むしゃどころ)などの新設機関を置き、地方の国々は国守・守護併存とし、従来の官位相当や家柄も無視して公武の人材を登用した。しかし論功行賞においては公家優先であったうえ、従来の所領の領有権は改めて天皇の安堵(あんど)を受けなければならないという強引な政策を打ち出したり、皇居造営のための臨時賦課を強行したりしたため、地方武士の新政に対する不満は急速に高まった。また公家にしても、伝統的な摂関政治型の体制が否定され、天皇独裁のもとに恣意(しい)的な人事が行われたため、それに対する失望は大きかった。
 そうしたなかで1335年(建武2)北条残党が蜂起すると、その討伐のために関東に下った足利尊氏(あしかがたかうじ)が反し、天皇は西上した尊氏を避けて叡山に逃れた。尊氏はいったん九州に落ちたのち再度入京、天皇を花山院(かざんいん)(京都市上京区、京都御苑(ぎょえん)内)に幽閉した。このため天皇は1336年12月吉野に逃れ、ここにいわゆる吉野朝廷が開かれ、以後南北朝併立時代に入る。天皇は諸皇子を各地方に派遣し、地方武士の掌握に努めたが、これも次々に敗れ、吉野に従う公家も少なく、孤立が深まるなかで、1339年(延元4・暦応2)義良親王(のりよししんのう)(後村上天皇(ごむらかみてんのう))に譲位、同年52歳で死去した。遺詔により後醍醐と諡号(しごう)したが、それは生前自ら撰(えら)んだものという。
 陵墓は奈良県吉野町の塔尾陵(とうのおりょう)。
 天皇は日本史上異例の独裁型執政を行うことによって波瀾(はらん)に満ちた生涯を送ったが、朱子学や真言(しんごん)の教義に通じるとともに、典礼、和歌などにも造詣(ぞうけい)深く、『建武年中行事』『建武日中行事』を著した。また吉野時代には「事問はん人さへ稀(まれ)になりにけり我世の末の程そ知らるる」の歌もある。
日本編集
13198出来事世界大百科事典【阿野廉子】より
…阿野公廉の女。後醍醐天皇の妾。1319年(元応1)西園寺実兼の女禧子(のち後京極院)が後醍醐天皇の中宮として入内するに際して,洞院公賢の養女としてその女房になり後宮に入った。…
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13218出来事院政廃止後醍醐天皇が記録書を再興し、天皇親政を始める。院政、摂関廃止。日本編集
13218出来事院政をやめ、後醍醐天皇親政日本編集
13211298出来事後醍醐天皇が、後宇多天皇の院政を廃して親政を敷く、摂関廃止。記録書を再興し、天皇親政を始める。日本編集
13228出来事朝日日本歴史人物事典元亨2(1322)年,京都の酒屋に課税,洛中の地子を止めて京を天皇の直轄下に置き,神人に対する寺社の公事を停止してその供御人化をはかるなど,発展しつつあった商業・流通に王権の基盤を置こうとする後醍醐は,綸旨に万能の力を与え,家格と官位の固定化の打破,朝廷の官司請負による運営の変革をはかった。日本編集
13238出来事摂政・関白天皇代在職期間九条房実、後醍醐天皇代に関白となる。[1323~1324]左大臣(在任中に辞任)。関白九条忠教の子。日本編集
13248出来事正中の変(しょうちゅうのへん)-後醍醐天皇による討幕計画で失敗日本編集
13248出来事正中の変後醍醐天皇が企てた1回目の倒幕計画。日野資朝、日野俊基と挙兵するが、資朝は佐渡に流罪。日本編集
13248出来事世界大百科事典【悪党】より
…とくに1324年(正中1)には,本所一円地への守護使の入部を含むきびしい禁圧令をもってこれに臨んだが,効果なく,むしろ頻発する紛争のさい,当事者が互いに相手を〈悪党〉とよび,禁圧令を適用させようとする動きが広がり,幕府に対する不信感を増大させる結果を生んだ。 この不満を組織して,討幕の方向に導いたのが後醍醐天皇で,楠木正成,赤松円心,名和長年など,その直属武力はいずれも悪党的性格を持つ武士団であった。南朝が室町幕府に完全に圧倒されながらも,長く命脈を保ったのは,悪党・海賊的な武力を多少ともその基盤となしえたからにほかならない。…
日本編集
13248出来事世界大百科事典【鎌倉時代】より
… 前述のように,後嵯峨法皇が後継者について意思を示すことなく没したため,その皇子の後深草上皇亀山天皇の間で治天の君をめぐる紛糾が生じ,後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との対立に発展した。大覚寺統の後醍醐天皇は,治天の君や天皇の地位に対する幕府の干渉に不満を抱き,幕府の動揺を見て幕府打倒を決意した。1324年(正中1)には計画が漏れて失敗し(正中の変),31年(元弘1)にも幕府方に知れ,天皇は隠岐に流されたが(元弘の乱),討幕の兵は各地におこり,33年,ついに幕府を滅ぼした。…
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13248出来事世界大百科事典【鎌倉幕府】より
…一方,〈治天の君〉や天皇の選定に関する幕府の干渉は,持明院統・大覚寺統の対立を激化させ,両統は互いに幕府に働きかけて自派の有利を図った。大覚寺統の後醍醐天皇は幕府の干渉に不満を抱き,幕府打倒の計画を進めた。1324年(正中1)には計画が漏れて失敗し(正中の変),31年(元弘1)にも計画が漏れ,天皇は隠岐に流されたが(元弘の乱),討幕の兵が各地で蜂起し,33年にはついに幕府を滅ぼした。…
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13248出来事世界大百科事典【正中の変】より
後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうとして失敗した初度の政変。天皇は1321年(元亨1)12月親政を開始し政道刷新に旺盛な意欲をみせた。…
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13248出来事世界大百科事典天皇】より
…ことに持明院,大覚寺両皇統の対立が皇位の継承を複雑にすると,皇位と治天の君が分離し,それぞれ別個に定められ,継承される事態を招いた。後醍醐天皇の討幕運動は,この天皇と治天の君の再統合を図ったものということもできる。
日本編集
13248出来事後醍醐天皇1324 正中の変(しょうちゅうのへん)。後醍醐天皇が企てた1回目の倒幕計画。日野資朝、日野俊基と挙兵するが、六波羅探題が兵を遣し、鎌倉幕府討滅を企てた後醍醐天皇方の土岐頼兼・多治見國長らを殺害し日野資朝・俊基を捕える、日野資朝は佐渡に流罪。日本編集
13248出来事摂政・関白天皇代在職期間鷹司冬平、後醍醐天皇代に関白となる。[1324~1327]太政大臣。
日本編集
13248出来事朝日日本歴史人物事典こうした後醍醐が,天皇位を左右している鎌倉幕府打倒に突進するのは当然で,律僧文観を通じて楠木正成を引き入れ,伊賀兼光などの幕府の要人,美濃源氏もこの討幕計画に加わったが,正中1(1324)年幕府に洩れて失敗する。日本編集
13249198出来事正中の変。六波羅探題が兵を遣し、鎌倉幕府討滅を企てた後醍醐天皇方の土岐頼兼・多治見國長らを殺害し、日野資朝・俊基を捕える日本編集
13278出来事摂政・関白天皇代在職期間二条道平、後醍醐天皇代に関白となる。[1327~1330]前左大臣。日本編集
13308出来事摂政・関白天皇代在職期間近衛経忠、後醍醐天皇代に関白となる。[1330]右大臣(在任中に辞任)。これ以降、北朝・南朝の間を行き来し、最後は吉野で没した。日本編集
13308出来事摂政・関白天皇代在職期間鷹司冬教、後醍醐天皇代に関白となる。[1330~1331]左大臣(在任中に辞任)。摂政鷹司冬平の養子。日本編集
13308出来事朝日日本歴史人物事典しかし護良親王,正成の軍事行動に呼応して後醍醐は元弘3(1333)に隠岐を脱出,船上山で兵を集め,足利尊氏の内応を得て幕府を滅ぼし,建武新政府を樹立した。以後,建武3/延元1(1336)年にそれが崩壊するまで,後醍醐は公家・武家をあわせ支配し,大内裏を造営,著書『建武年中行事』『建武日中行事』のように天皇中心の儀式典礼を整え,諸国の一宮,二宮および国分寺を天皇直轄とするなど天皇の専制を強化,腹心の貴族・武士で構成した記録所・恩賞方を通じ綸旨絶対の政治を推進し,官司請負制・知行国制を打破し,家格無視の人事により貴族・官人・武士をその意志の下に置こうとした。また銭貨・紙幣の発行を企図,徳政により貸借関係を整理する一方,地頭領の所出の20分の1を徴収,その運用を京都の土倉にゆだねるなど,商業・流通に依存する元亨以来の政策をさらに推進した。天皇の立場にあって自ら密教の行者としてしばしば祈祷を行った後醍醐は僧衣を黄色に統一しようとし,寺院・僧侶にもその意志を貫こうとした。しかし貴族・武家・僧侶の慣習を無視した政治に対する反発を受けて次第に後退,足利尊氏・直義の反乱により政府は瓦解した。後醍醐は吉野に逃れて南朝を立て,室町幕府・北朝に対抗したが京都回復の夢を果たせぬまま吉野で死んだ。日本編集
13318出来事元弘の乱(げんこうのらん)後醍醐天皇による討幕計画で失敗。護良親王(もりよししんのう)や楠木正成(くすのきまさしげ)などが挙兵した。日本編集
13318出来事元弘の変後醍醐天皇が2回目の倒幕計画を立てるも失敗。楠正成は敗走。後醍醐天皇は、隠岐に流刑。日本編集
13318出来事摂政・関白天皇代在職期間鷹司冬教、光厳天皇代に関白となる。[1331~1333]前左大臣。隠岐から脱出した後醍醐天皇の手で解任。日本編集
1331558出来事元弘の変。後醍醐天皇の再度の倒幕計画が室町幕府に漏洩し日野俊基らを逮捕。天皇は笠置山に籠城日本編集
1331558出来事世界大百科事典【笠置[町]】より
…町域の大部分が山林であるが,木津川沿岸には耕地が開け,南岸を関西本線,北岸を国道163号線が貫通する。南部にある笠置山は,花コウ岩類岩石の風化による奇岩怪石と後醍醐天皇が行在所(あんざいしよ)を置いた笠置寺などで知られている。これと木津川峡谷をあわせて笠置山府立自然公園に指定され,多くの人を集めており,観光は町の重要な産業になっている。…
日本編集
13318278出来事元弘の変(倒幕計画)に失敗した後醍醐天皇が神器とともに奈良・笠置山に逃れる日本編集
13319118出来事元弘の乱で窮地に陥った後醍醐天皇の召しに応じて楠木正成が挙兵日本編集
13319118出来事後醍醐天皇窮地に陥った後醍醐天皇の召しにおうじて楠正成が挙兵日本編集
13319288出来事笠置山に蘢っていた後醍醐天皇が挙兵。幕府が足利尊氏軍を指し向ける日本編集
13319298出来事後醍醐天皇の行在所である笠置山が幕府軍により全焼。逃れた後醍醐天皇は囚われの身となる。日本編集
13328出来事後醍醐天皇が隠岐に流刑(翌年、脱出する)日本編集
13328出来事後醍醐天皇、隠岐に流さる日本編集
13338出来事南朝(大覚寺統)初代:後醍醐天皇、奈良の吉野、新田義貞・楠正成・北畠顕家。日本編集
13338出来事護良親王(後醍醐天皇の子)が征夷大将軍となる記録所、恩賞方、雑訴決断所、武者所を設置する日本編集
13338出来事後醍醐天皇隠岐脱出後醍醐天皇が隠岐を脱出し、名和長らと船上山で挙兵。足利尊氏が六波羅探題を討つ。新田義貞は鎌倉で挙兵。日本編集
13338出来事世界大百科事典【建武新政】より
…1333年(元弘3)5月に鎌倉幕府を滅ぼしてから,36年(延元1∥建武3)10月に足利尊氏に降伏するまでの後醍醐天皇の政治。
[新政の前提]
 1321年(元亨1)12月の親政開始後,後醍醐は独自な政治を展開,32年には神人(じにん)公事停止令により洛中の神人・寄人(よりうど)の供御人化を計り,諸国の供御人交名(きようみよう)を提出させ,洛中の酒屋に造酒司を通じて酒鑪役(しゆろやく)を賦課し,洛中の地子も停止したと推定される。…
日本編集
13334188出来事足利尊氏が後醍醐天皇による討幕挙兵討伐のため入京日本編集
13334278出来事倒幕挙兵討伐の為に丹波に入っていた足利尊氏が、後醍醐天皇に応じて倒幕を決意し挙兵日本編集
13335258出来事北朝の光厳天皇が南朝の後醍醐天皇に譲位し一旦南北朝が合一日本編集
13348出来事建武の新政(けんむのしんせい)後醍醐天皇による親政で延喜・天暦の治(えんぎ・てんりゃくのち)を理想とする。武士よりも貴族・寺社を重んじた為、武士の不満が高まる。日本編集
13348出来事後醍醐天皇による建武の新政南北朝時代日本編集
13348出来事世界大百科事典【建武年中行事】より
後醍醐天皇が著した有職書。1334年(建武1)成立。…
日本編集
13348出来事ブリタニカ国際大百科事典朝廷で行われる1年間の恒例,臨時の行事の作法や装束などを記した書。3巻。後醍醐天皇の著。 1330年代の成立。現在は,恒例の年中行事の部のみが伝存し,臨時の部は伝わっていない。『西宮記』『北山抄』『江家次第』など,従来の有職書が漢文であるのに対し,和文で書かれていて,国語資料としても貴重である。鎌倉幕府を倒した天皇が,天皇親政の理想実現の一環として,旧儀の復興をはかった意欲がうかがわれる。『群書類従』所収。日本編集
13348出来事デジタル大辞泉南北朝時代の有職故実書。3巻。後醍醐天皇撰。建武元年(1334)成立。朝廷における年中行事を記した書。秘記。御抄。日本編集
13348出来事百科事典マイペディア1334年(建武1年)後醍醐(ごだいご)天皇が著した有職書。《秘記》《御抄》《和字年中行事》とも。朝儀復興を意図し,正月の四方拝から12月の追儺(ついな)までの年中行事を国文(和文)で記す。日本編集
13348出来事世界大百科事典後醍醐天皇が著した有職書。1334年(建武1)成立。3巻。もとは《秘記》《御抄》《和字年中行事》といった。内容は朝廷における年中行事を正月四方拝から十二月追儺までを月ごとに和文で記す。すたれていた朝儀の再興を意図したもので,建武新政の一環をなす。《群書類従》《列聖全集》《皇学叢書》に所収。日本編集
13348出来事日本大百科全書南北朝時代の朝廷の年中行事書。3巻があり、後醍醐(ごだいご)天皇の作。『仮名(かな)年中行事』『年中公事記(くじき)』などの別名もある。正月の「四方拝」「御薬(みやく)を供(くう)す」から、12月の「追儺(ついな)」に至る諸行事について仮名で書かれている。内容は式次第のみで、行事の起源来歴には触れていない。おそらく本書は、建武新政期における朝儀の執行の手引という実践的目的のために作成されたものであろう。日本編集
13348出来事日本国語大辞典南北朝時代の有職故実書。三巻。後醍醐天皇著。建武年間(一三三四‐三八)頃成立。朝廷で正月から一二月まで行なわれる恒例の年中行事を和文で記したもの。朝儀復興という天皇の目的意識が込められている書。秘記、御抄、和字年中行事とも。日本編集
13348出来事旺文社日本史事典後醍醐 (ごだいご) 天皇が著した朝廷恒例の年中行事の解説書
1334年ころ成立。3巻。正月の四方拝から歳末の追儺 (ついな) (悪鬼を追い払うための儀式)までの宮中の行事を仮名書きにしたもので,後世の有職 (ゆうそく) 書に大きな影響を与えた。
日本編集
13348出来事世界大百科事典【公事根源】より
…1422年(応永29),または翌年の成立。朝廷の公事の基本を示す儀式書であり,後醍醐天皇の《建武年中行事》を基本にし,また二条良基の《年中行事歌合》の判詞を抄出し,改題して将軍に献上したものといわれている。行事の内容を月の順序で記し,それぞれの行事の起源,沿革,特質等についてのべており,後世,盛んに利用され,注釈書も多く作られた。…
日本編集
1334538出来事後醍醐天皇が借金に苦しむ人々を救う為の徳政令を発布日本編集
13358出来事延元の乱(足利尊氏が後醍醐天皇の政権に対して挙兵)[1335-1336]日本編集
13368出来事世界大百科事典【南北朝時代】より
…鎌倉時代と室町時代の中間にあたるが,広義の室町時代に含まれる。通常,1336年(延元1∥建武3)足利尊氏が北朝の光明天皇を擁立し,それについで後醍醐天皇が吉野に移り南朝を開いた時期をその始期とする。また政治体制だけでなく,社会構成の変化を目安とすれば,14世紀初頭ころから徐々に南北朝時代的な状況に入っている。…
日本編集
133618出来事足利尊氏は入京する。後醍醐天皇は比叡山へ日本編集
1336128出来事後醍醐天皇は吉野へ逃れる(南朝)日本編集
133612218出来事後醍醐天皇が幽閉中の花山院を抜け出して吉野・金峯山金峰山に潜幸。南北朝対立が始る日本編集
133612218出来事世界大百科事典【吉水神社】より
…奈良県吉野郡吉野町吉野山に鎮座。後醍醐天皇を主神とし,楠木正成,吉水院宗信法印を配祀する。もと吉水(きつすい)院と称し,役小角(えんのおづぬ)の創立と伝える吉野修験金峯山寺の僧坊で,後醍醐天皇吉野潜幸のとき,しばらく行宮(あんぐう)とされた。…
日本編集
13398出来事後醍醐天皇の為に尊氏・直義兄弟が天龍寺建立。日本編集
13398出来事宝島新書・天皇125代天龍寺
てんりゅうじ
後醍醐天皇崩御の際に「玉骨は縦(たとい)南山の苔に埋るとも,魂魄(こんぱく)は常に北闕(ほつけつ)の天を望(のぞま)ん(「太平記」)」と朝敵討伐・京都奪還の遺命し、敵味方問わず大きな衝撃を与え、疫病の流行もあり、後醍醐天皇の怨霊を恐怖する声が巷に広がり、仏事供養と、後醍醐天皇の冥福を祈るため暦応二年(1339年)足利尊氏・直義が仙洞御所亀山殿の跡に建立。はじめ暦応寺と称したが、暦応四年天龍寺に改められた。
京都市右京区嵯峨天龍寺芒(すすき)ノ馬場町にある臨済宗天龍寺派の大本山。山号は霊亀山。開山は夢窓国師。夢窓国師作の曹源池庭園は国指定史跡・特別名勝の第1号。京都五山の第一位。「古都京都の文化財」の一部としてユネスコの世界文化遺産に登録。
日本編集
13398158出来事red第96代 後醍醐天皇が譲位し義良親王が第97代 後村上天皇として即位日本編集
13398168出来事後醍醐天皇崩御日本編集
13398169説明後醍醐天皇(尊治親王)、吉野行宮において崩御する。数え52歳であった。日本編集
13468出来事silver後醍醐天皇の為に尊氏・直義兄弟が天龍寺創建。日本編集

後醍醐天皇