文武天皇

文武天皇

 683-707
父:草壁皇子

文武天皇(軽皇子)

  生没年:683-707
  父:草壁皇子
    697 皇太子
    697-707 文武天皇
    701 大宝律令制定
  皇后:藤原宮子(父:贈太政大臣正一位 藤原不比等)
    701-756 首皇子
  妃:紀朝臣竈門娘
  妃:石川朝臣刀子娘
    高円広世


草壁皇子━━━文武天皇━┳━首皇子
            ┗━高円広世


天皇家

名前

	第42代 文武天皇(もんむてんのう)、倭根子豊祖父天皇 (やまとねことよおじ)、珂瑠 (かる) 、軽(かる)

               

親族

	父=草壁皇子 母=元明天皇(阿閉皇子(あべ))

  皇后 藤原宮子
   

	首皇子(聖武天皇)

               

皇居

	藤原宮

               

陵墓

	陵墓=檜隈安古岡上陵 (ひのくまのあこのおかのえのみささぎ)

古墳名=栗原塚穴古墳・ジョウセン古墳
形状=山形
場所=奈良県高市郡明日香村栗原

宮内庁治定文武天皇

	

宮内庁治定文武天皇

	  	  	  	 

               
略歴 (7世紀)(8世紀)
697-丁酉-持統11年02月16日 立太子
697-丁酉-文武01年08月01日 持統天皇の譲位をうけて即位
697-丁酉-文武01年08月20日 藤原宮子を夫人とする
697-丁酉-文武01年10月19日 陸奥の蝦夷がその地の特産を献上
697-丁酉-文武01年10月28日 新羅の使い一吉飡、金弼徳、奈麻、金任想らが来朝
697-丁酉-文武01年11月11日 務広肆(従7位下)と坂本朝臣鹿田と進大壱(大初位上)、大倭忌寸五百足を陸路から、務広肆土師宿禰大麻呂と進広参(小初位上)、習宣連諸国を海路から筑紫に遣わし新羅の使いを迎えさせた。
697-丁酉-文武01年12月18日 越後の蝦狄(えみし)に地位に応じて物を与えた。
東山道方面では蝦夷(えみし)、北陸道方面では蝦狄(えみし)と使い分けられていた。
698-戊戌-文武02年01月03日 新羅の使い一吉飡金弼徳らが貢を献上
698-戊戌-文武02年01月08日 土佐国が牛黄(ごおう)を献じる.
牛黄は牛の胆石で、薬用になるといわれていた.
698-戊戌-文武02年01月17日 新羅の貢物を諸社に奉納.
698-戊戌-文武02年01月19日 土師宿禰馬手に命じて、新羅の貢物を大内山陵の天武天皇陵にお供えさせる
698-戊戌-文武02年02月03日 一吉飡金弼徳らが新羅に帰る
698-戊戌-文武02年02月05日 宇智郡へ行幸(現在の奈良県五條市あたりか)
698-戊戌-文武02年02月12日 百官で相当職にあるものと才伎長上とに身分に応じた禄を授ける.
698-戊戌-文武02年02月15日 武官に身分に応じた禄を授ける
698-戊戌-文武02年03月05日 因幡の国が銅の鉱石を献上
当時としては貴重な品であったと思われます..たぶんですがこのような黄銅鉱であったのではと思われます.
698-戊戌-文武02年03月07日 越後国が疫病の流行を報告、医師と薬を送り救済した。
698-戊戌-文武02年04月03日 近江、紀伊に疫病が流行り、医師と薬を送って治療させている。
698-戊戌-文武02年04月29日 雨乞いのために、芳野水分峰神に馬を賜っている。
698-戊戌-文武02年05月01日 諸国の旱害が報告されている
698-戊戌-文武02年05月05日 使いを大和、山背、河内、摂津の四カ国に送り、名山,大川に雨乞いをさせている。
698-戊戌-文武02年05月25日 大宰府に大野・基肄・鞠智の三城を修復を命じる
698-戊戌-文武02年06月08日 近江国が白礬石(明礬の鉱石)を献上
698-戊戌-文武02年06月15日 越後国の蝦夷が土地の産物を献上
698-戊戌-文武02年07月01日 日食
698-戊戌-文武02年10月04日 薬師寺の造営がほぼ終り、僧達を住まわせる。
699-己亥-文武03年05月24日 役行者小角を伊豆に配流。
699-己亥-文武03年06月15日 山田寺に封 300戸を施入したが、期限を30年とする。
700-庚子-文武04年12月26日 大倭国に疫病が起こった報告がされる。医者と薬を下賜して救済している。
701-辛丑-大宝01年01月01日 官人の朝賀の儀
701-辛丑-大宝01年02月20日 吉野離宮へ行幸
701-辛丑-大宝01年02月27日 吉野離宮から還幸
701-辛丑-大宝01年03月03日 王親や群臣を東安殿に集めて曲水の宴を催す。
701-辛丑-大宝01年03月21日 対馬からの金の献上により朱鳥から大寶(大宝)に改元。
この日、官名と位号の制度を改正
701-辛丑-大宝01年06月25日 大倭、河内、摂津、山背に時節の雨が降らないので雨乞いをさせ、合わせてこの年の調を免除。
701-辛丑-大宝01年09月18日 紀伊国へ行幸
701-辛丑-大宝01年10月08日 武漏の湯(むろのゆ)に到着
701-辛丑-大宝01年10月19日 紀伊国から帰還
702-壬寅-大宝02年01月01日 大極殿で朝賀の儀
702-壬寅-大宝02年02月01日 大宝律令の領布
702-壬寅-大宝02年07月11日 吉野離宮へ行幸
702-壬寅-大宝02年12月22日 持統天皇が崩御
「素服(麻の白い無地の喪服)を着たり、挙哀(死者を悼んで泣き叫ぶ儀礼)をすることがないようにせよ。文官、武官は任務を平常どおりにおこなえ、葬儀の儀礼についてはつとめて倹約せよ」との遺詔が出されている。
703-癸卯-大宝03年01月01日 この年の朝賀の儀は取りやめで太上天皇持統天皇)の殯宮に拝礼している
703-癸卯-大宝03年12月17日 太上天皇持統天皇)を飛鳥の岡で火葬にした。
704-甲辰-大宝04年01月01日 朝賀の儀
704-甲辰-慶雲01年05月10日 雲の瑞祥により慶雲に改元。708年に和銅に改元
704-甲辰-慶雲01年11月20日 初めて藤原宮の地を定める。・・・藤原宮の拡大かと思われるが不明。
705-乙巳-慶雲02年09月09日 八咫烏神社を大倭国宇太郡に置きこれを祭らせる。(榛原町高塚)
707-甲辰-慶雲01年06月15日 在位11年、 25歳で崩御
「挙哀(こあい、声を挙げて悲しみを表す儀礼)三日、凶服(くぶく、喪服)一月とせよ」という遺詔を残したという。
707-丁未-慶雲04年11月20日 檜隈安古山陵に葬られる 。檜隈安古山陵が現在の文武天皇陵ではなく傍にある中尾山古墳であるという説がある。中尾山古墳は八角墳で玄室が小さく火葬された遺骸を収納した事実と一致する。