用明天皇
名前 第31代 用明天皇(ようめいてんのう)、大兄皇子、橘豊日尊(たちばなのとよひ)
親族 父親 欽明天皇(きんめいてんのう)
母親 蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)---蘇我稲目の娘
皇后 埿部穴穂部間人皇女(あなほべのみこ)
子
聖徳太子
皇居 池辺双槻宮
陵墓 陵名 河内磯長原陵(こうちのしながのはらのみささぎ)
古墳 春日向山古墳
方丘、空掘
三段築成で東西67m、南北83m。葺き石はあったらしいが埴輪は使用されていない。全長15m以上の大型の横穴式石室で家形石棺を納めていたと思われる。7世紀前半の築造とみられる。
構造は大和の石舞台古墳と著しく類似していておそらく同一プランで作られたものと思われる。
略歴(6世紀)
540-庚申-欽明01年 生誕
585-乙巳-敏達14年09月05日 即位
蘇我馬子を大臣とし物部守屋を大連とする。
586-丙午-用明01年05月 穴穂部皇子が豊御食炊屋姫命(とよみけかしきやひめ)(敏達天皇の皇后)(後の推古天皇)を殯の宮で犯そうとするのを三輪逆(みわのさかう)が阻止した。蘇我馬子は諌めようとしたが物部守屋に命じて三輪逆に命じて殺してしまう。
以後、穴穂部皇子と物部守屋は炊屋姫と馬子に恨まれることとなる。
587-丁未-用明02年04月02日 疱瘡にかかったといわれている。「自分は仏、法、僧の三宝に帰依したいと思う」と言われた。
物部守屋と蘇我馬子派の会議はは紛糾する。守屋は河内に退き戦の準備をはじめた。
物部守屋派の勝海連(かつみのむらじ)は天皇の日嗣の彦人を呪い刺し殺してしまう
587-丁未-用明02年04月09日 崩御 49歳
鞍部多須奈(くらつくりのたすな)は天皇のために丈六の仏と寺を造ったという。
鞍部多須奈が建てたという坂田寺跡(奈良県明日香村)
587-丁未-用明02年07月21日 磐余池上陵(いわれのいけのえのみささぎ)に葬られる。(のちに河内磯長原陵に改葬)
593-癸丑-推古01年01年09月 推古天皇により河内磯長原陵に改葬される
用明天皇
540-587
父:欽明天皇
用明天皇(橘豊日尊)
生没年:540-587
父:欽明天皇
585-587 用明天皇
皇后:穴穂部間人皇女(父:欽明天皇)
574-622 厩戸皇子
-603 撃新羅将軍 来目皇子
殖栗皇子(子:衣縫王)
茨田皇子
妃:蘇我石寸名(父:大臣 蘇我稲目)
田目皇子
妃:広子(父:葛城直磐村)
征新羅将軍 麻呂子皇子(妻:舎人皇女(父:欽明天皇))
酢香手姫皇女(斎宮)
妃:飯女之子(父:当麻之倉首比呂)
男(子:高向王(子:漢皇子))
欽明天皇━━━用明天皇━┳━厩戸皇子
┣━撃新羅将軍 来目皇子
┣━殖栗皇子(子:衣縫王)
┣━茨田皇子
┣━田目皇子
┣━征新羅将軍 麻呂子皇子(妻:舎人皇女(父:欽明天皇))
┣━酢香手姫皇女(斎宮)
┗━男(子:高向王(子:漢皇子))