護良親王

護良親王

もりながしんのう
 1308-1335

父:
後醍醐天皇の皇子
母:
源親子

護良親王

???-1335年(建武2年)7月

「建武の新政」を行なった後醍醐天皇の第三皇子。
 延暦寺の大塔に入室したことから、「大塔宮」(おおとうのみや)とも呼ばれている。そのため、親王を祀る鎌倉宮も「大塔宮」と呼ばれる。

 護良親王は、楠木正成らとともに鎌倉幕府打倒を目指して戦い、幕府滅亡後には征夷大将軍に任ぜられたが、足利尊氏と対立し、1334年(建武元年)11月15日、東光寺に幽閉された。

長い石段の先が墓
護良親王

 護良親王が東光寺に幽閉されてから9ヶ月後の1335年(建武2年)7月、十四代執権北条高時の遺児時行が反乱(中先代の乱)を起こしたため、当時鎌倉にいた足利尊氏の弟の直義は、淵辺義博に命じ護良親王を殺害した。

 護良親王は、義博の刀を噛み折り、死んでもなお放さなかったことから、恐れをなした義博は首を捨てて逃げ去ったという。

 捨てられた護良親王の首は、理智光寺の住僧によって葬られたと伝えられている。

護良親王が幽閉されたという土牢~

明治天皇によって創建された鎌倉宮には、護良親王が幽閉されていたという土牢が残されている。
 しかし、幽閉されていたのは、土牢ではなく土蔵のようなものであったという説もある。
 また、鎌倉宮のある場所にあったとされる東光寺に幽閉されていたのではなく、薬師堂ヶ谷(覚園寺のある谷)に幽閉されていたのではないかという説もある。

祭神護良親王
構廟(御首塚)

北条得宗家の滅亡~最後の得宗北条時行~
足利尊氏・直義兄弟と鎌倉

~鎌倉を知って鎌倉観光をより楽しく。~

 大町の妙法寺開山の日叡は、護良親王の子だといわれている。母は南の方。
 妙法寺の裏山にも、護良親王の墓が存在している。

護良親王 もりよししんのう/もりながしんのう

延慶元年(1308年)~建武2年7月23日(1335年8月12日)

後醍醐天皇の皇子。
元亨3年(1323年)頃、延暦寺梶井門跡の大塔に入室し大塔宮おおとうのみや/だいとうのみやと呼ばれる。
嘉歴2年(1327年)天台座主となり倒幕運動を開始。
元弘元年(1331年)討幕運動発覚後、比叡山を逃れ、翌年還俗して護良と名乗り、後醍醐天皇が起こした鎌倉幕府討幕運動(元弘の変)に参戦。
倒幕後、将軍宮を称して、足利尊氏(高氏)と対立して信貴山に篭城。
後醍醐天皇に諭されて帰京後、征夷大将軍、兵部卿となるが、なお尊氏と対立。
父の後醍醐天皇と反目。
建武元年(1334年)拘禁され足利尊氏の弟である鎌倉の足利直義ただよしのもとへ送られる。
中先代なかせんだいの乱に際し、親王が北条氏の手に渡ることを恐れた直義によって殺害される。


建武政権下の征夷大将軍。法名は尊雲、大塔宮は号。若くして梶井門主を継いで天台座主となる。父天皇の討幕計画に協力して、元弘の乱の頃に環俗して護良親王と改名、熊野・吉野辺に潜行して国々諸方に令旨を発し勤王の兵を募る。建武新政下では征夷大将軍、兵部卿に任命、しかし足利氏と対立して讒訴にあい、鎌倉の足利直義の監視下に幽閉された。中先代の乱にて、建武2年(1335)薨去。

護良親王

  生没年:1308-1335
  父:後醍醐天皇
    1318-1332 尊雲法親王
    1327-1332 天台座主
    1333- 兵部卿、征夷大将軍
  妃:(兄:北畠親房)
    -1360 常陸太守 赤松宮 陸良親王
    ?-1377? 興良親王?
    王女


後醍醐天皇━━━護良親王


天皇家