ログ・ホライズン 007

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007

「本当にええんか?」

 三人を見送りに来たマリエールは、もう何度目になるか判らない確認の言葉をくちびるに載せる。
 場所は「ウエノ盗賊城址」ウエノローグキャッスル。夜はデミヒューマンやノンプレイヤーキャラクターの盗賊団であふれかえるこのゾーンも、いまは朝靄の中に白く浮かび上がってただ美しい。
 しっとりと水気を含んだ朝の空気が、シロエ達三人とマリエール、それから見送りに出てきてくれた〈三日月同盟〉のギルドメンバー達数人を包んでいる。

「心配要らないって。マリエさん。その娘、可愛いんだろう? 俺がナンパする前に他の男には触れさせないぜ。遠征ナンパ祭りっ!」

 聞きようによっては不謹慎な直継の発言に、アカツキが「黙れ馬鹿」と肘鉄を入れる。

「大丈夫です。野営慣れもしてるし、この二週間くらいで訓練したから……」

 シロエはマリエールに請け合う。
 客観的に考えて、マリエール達が向かうよりは自分たちの方が成功率が高い。それは確かなのだが、それ以上に昨晩切ってしまった見栄が恥ずかしくて、なかなかマリエールと視線をあわせることが出来ない。

「これ。……いつもので悪いんだけど、食い物だから。道中でさ、食って。シロ先輩、ごめんな」
「アカツキちゃん。これはメンバーが作った傷薬ですわ、お気をつけて」

 〈三日月同盟〉の心ばかりの支援物資を、アカツキもシロエも受け取る。シロエは軽くありがとうと云い、アカツキはこくりと頷いただけだったけれど、それでも〈三日月同盟〉のギルドメンバーには伝わったようだった。

「マリ姐こそ気をつけてください。……その、PKとか」
「うん、うちらは平気っ。ちゃんと情報も集めておくっ」

「ばっち任せておいてよ。マリエさん」
「あはははっ。直継やんも、ちゃんと帰ってくるんよ? シロ坊はいらんみたいだから、直継やんにもませたげるからなっ。
 ほれほれ。お姉さんのは柔らかいぞぅ」
 マリエールは照れ隠しのように笑いながら、直継の腕を抱き寄せて、かなり人目を引くサイズのバストに抱え込む。

「ちょ、マリエさんっ。タンマっ」
「なんだよぉ。直継やんもシロ坊と同じく拒否組なのかぁ?」
「そういうわけじゃないけどさっ」

 ざっくりと男気があって姉御肌で面倒見の良いマリエールは、照れくさくなるとこうやって自ら下ネタに逃げ込むのだ。女性的な性格ではないと自分で公言してはばからない人だから、えろネタを話しても相手にはされないんだと大口を開けて笑っていた記憶がある。

(もてないと思ってるのは、マリ姐本人だけだと思うんだけど……)
 シロエが横目でアカツキを見ると、アカツキは両手をこっそり口元に当てて「ばーかばーか。エロ直継死ね」と囁いていた。

 〈三日月同盟〉のギルドメンバーが苦笑しているのを見ると、日常的な光景らしい。

「駄目なんか? こんなおっぱいは価値無しかっ?」
「ちょ。……そ、そういうのはですねっ。据え膳だと返って揉めないって云うかっ。あー、もうっ。とにかく、そんなのとは関係なく助けてくるからっ!! そう言うことは言わないようにっ」

「直継が云っても説得力がない」
 アカツキが直継を小さく蹴飛ばす。
 当然そんなキックは、〈守護戦士〉ガーディアンの重厚な甲冑に阻まれて鈍い音を立てるけれど、直継はそれを切っ掛けにマリエールを引きはがす。

「無事に帰ってきたら、うちの脂肪なんてどうしたって良いからさ。……ん。行ってらっしゃい、うちらのためにありがとう。気をつけてな」

 その言葉を受ければ、旅立ちはもう目の前だった。
 マリエールのハグから脱出して、頬を染めていた直継は照れくさいのを誤魔化すようにもう朝靄の街路を歩いている。

「シロ坊、直継やん、アカツキちゃん。頼むなっ。セララのことっ」
 直継が朝日の中で振り返って大きく盾を振り上げる。
 シロエも手をふり、アカツキは少しだけ小太刀を引き上げると、音高く鞘に落とし込む。

 それを別れの挨拶として、三人は遙か北の地へと向けて旅立った。

 ◆

 初夏のもやは朝のほんの一時だけの現象だったようで、その後は爽やかな青空が戻ってきていた。一行は崩れた高架道路――古代世界(つまり今までにいた現実の世界)においては首都高と呼ばれる陸上橋のような道路を通って北へ北へと進んでいた。

 首都高から見渡す限り、今まで通ってきたゾーンはそこそこ平和に見えた。生息しているのは、凶暴なモンスターと云うよりも野生動物が多く、鹿の群や、時にはのそのそと歩き回る熊が、足下に広がる森の中を動くのを見ることが出来た。

 〈エルダー・テイル〉の世界は現実の地球の、数千年後なのだろうと、プレイヤーの間ではほぼ公式設定であるかのように話されていた。〈エルダー・テイル〉の世界内の伝承に寄れば、何らかの巨大な争いが起こり、この世界は砕け散り……そして神々の奇跡によって再構築されたのだそうだ。ファンタジーゲームにありがちな創世神話である。

 時節バージョンアップされる優秀なグラフィックエンジンにより描画される世界の美しさは、〈エルダー・テイル〉プレイヤーを魅了していたけれど、異世界に巻き込まれて眺める景色は、どんな高性能なグラフィックボードの映像をも越えて美しかった。

 〈エルダー・テイル〉において旅とは目的地までの移動を指し示していたが、こうやって風の匂いを嗅ぎながら大地を駆け抜ける行為は、それそのものが目的となるほどの新鮮な感情を三人に呼び起こす。

 三人とも、現実世界では乗馬の経験など無いものの、この異世界では易々と乗りこなすことが出来る。〈エルダー・テイル〉において馬は比較的メジャーな移動補助手段だった。
 どんなプレイヤーキャラクターであっても特別な練習などせずに馬に乗ることが出来る。馬は馬屋で買うことも出来るし、また一定の日数レンタルすることも出来た。中堅レベル以上のプレイヤーは皆自分の馬を持っているのが普通だった。

 ゲーム時代、馬はある種の召喚アイテムとして表現されていた。
 馬を購入、もしくはレンタルするとホイッスルのようなアイテムを得ることが出来る。プレイヤーは好きなフィールドでその笛を吹くと、馬がすぐさま出現するといった具合だ。

 この異世界においてもそれはある程度は再現されているらしい。
 ホイッスルを吹くと、自分の乗用馬が遠くから駆けつけてくるのだ。これならばダンジョンに潜るとき馬を何処に繋いでおくのか考えなくても済むし、その安全を確保することも出来る。
 (もしかしたら馬は馬なりにどこかで酷い目にあい、突然呼び出しに応えなくなってしまうかも知れないが、それは現時点ではシロエ達には判りようがないことだった)

 三人の旅は、フィールドゾーンを経由して進む予定だった。フィールドゾーンとはゾーン種別のうちひとつで、主に広大な大地そのものを表すゾーンだ。
 この世界の全てはフィールドゾーンを基本に構成されている。たとえば建物なども、状態が良くて内部が閉鎖される大規模建築などは独立したゾーンになっていることもあるが、廃墟などは基本的にフィールドゾーンに置かれたオブジェクトである方が多い。

 フィールドゾーンの特徴のひとつは、境界線の曖昧さだ。
 密閉型のゾーンはその接続をドアや落としぶた、階段などで表現しているが、フィールドゾーンには接続のための定まった「ゲート」となるシンボルが存在しない。
 ゾーンの終端に辿り着くと継ぎ目無しに別のゾーンに接続されているのだ。だから地上の旅を続ける限り、ゾーンの境界線や今自分がどのゾーンにいるかという情報は、実は余り意識されない。
 メニューから情報を呼び出したとき、自分の所在ゾーンの名前がわかる程度である。

 三人が進む高速道路だった道は、今やあちこちが崩れ、瓦礫が転がっていることも多かった。場合によっては馬を下りなければならないこともある。一度などは道を飲み込んでしまったヒースの、もはや密生した森と呼んでも良いサイズの茂みを迂回するために、灌木の生える荒れ地を進まなければならないこともあったくらいである。

 三人が馬を下りたのは正午を少し過ぎた辺りだった。
 風の吹く高架道路は複雑な曲線を描いて、より太い道路と合流している。しかし、先ほどから足下のアスファルトは不気味な脆さを見せていて、そろそろこの経路を辿るのも危険な兆候を見せ始めていた。

「降りて食事にしようか」
 シロエの提案に先行していた直継も馬を下りて、太いため息を吐く。

「馬は良いんだけどさ、馬術とかは身体が勝手にやってくれるけど。やっぱり尻は痛くなるよな」
「そうだね」
 頷くシロエ。それに対して怪訝そうな表情でじっと見つめてくるアカツキは「そうか?」と不思議そうだった。
 身長で云えば30cm近く違うアカツキは、体重は半分くらいしかないかも知れない、とシロエは思う。そんな彼女なら身軽だし、余り負担には思わないのかも知れない。

「どれくらい来たかね」
「まだ半日だ。気が早いぞバカ直継」
 アカツキのそんな言葉にも、直継は平然とした表情を崩さない。こんなやりとりも今ではすっかりお馴染みになって、気を悪くすることさえないのだ。

 シロエは先頭に立ち、崩れて斜めになった辺りから、高架道路を降りてゆく。この辺りも古代には住宅地だったのかも知れないが、今では地面のあちこちから電信柱の頭部だけが覗いた、木々もまばらな荒れ地に過ぎない。

 赤茶けた地面のうねるような連なりから、三人はテーブルに使えそうなほど大きな岩を見つけ出してそこで休息をとることにする。
 岩の表面にクロスを広げ、その上に出したのは食料と水筒。それに地図と筆記用具だった。地図には日本の全体図と、シロエの覚えている限りのゾーン名が記されている。

「これはどうしたんだ? 主君。ずいぶん立派な地図じゃないか」

 アカツキが目を丸くしたとおり、確かに紙に書き込まれた地図はずいぶん詳細だった。
 折り込まれた紙は広げると1m四方ほどのサイズで、そこには日本によく似た形――〈エルダー・テイル〉の日本サーバー管轄エリアが書き込まれている。
 4色ほどの色インクで描かれた地図には河や森、村落まで書き込まれていて、素人の手書きには見えない。

「僕はこれでも〈筆写師〉だからね。アキバの文書館にある地図を写してきた」
「なるほど。主君、やるな」
「で、俺達はどの辺なんだ?」
 水筒のキャップをゆるめながら直継が尋ねる。

「おそらく、この辺じゃないかな」
 シロエは指先で地図の1点を差す。アキバの街とさほど離れていない、東京の北部だ。
「全然さっぱりだな」
「仕方ないよ。まだ半日だもの。……午後は飛ばすことになるけど」
「了解」
 直継とシロエは、そんな会話をしながら、バスケットに詰められたターキーサンド(に見える、湿った煎餅)を食べる
 アカツキは通常、こういう会話には参加しない。興味がないと云うよりは、自分たちを信頼してくれているのだな、とシロエは最近そんなふうに考えるようになった。
 興味が無くて聞いていないかというと、話の内容自体はちゃんと把握しているのである。

 三人が食事をしている間に、馬たちはしばらく辺りの枯れかけた茶色の草などをはんでいたが、それにも飽きたのかどこかへ行ってしまった。馬から降りてしばらくたつと、去ってしまうのだ。
 どうせホイッスルを吹けば戻ってくるので、三人とも気にしない。

「……このまま、ギスギスするのかな」

 ターキーサンドもどきを小さな口で囓りながら、アカツキが云う。
 視線は遙か前方、荒れ地の奥をじっと見つめたままだ。ともすれば独り言なのかと聞き逃してしまいそうなその台詞は、おそらく内容がずいぶんと省略されている。

(――世界の雰囲気の話なのかな)
 シロエはそう思う。

 確かにこの世界は〈エルダー・テイル〉の仕様が良く再現されている。しかし、〈エルダー・テイル〉はゲームであってこんな異世界体験ではなかった。〈エルダー・テイル〉には眠りも痛みもなかったのだ。この世界は、ゲームではない。

 〈エルダー・テイル〉の仕様や記憶を受け継いではいるものの、ここは全くの異世界だと考えるべきだ。シロエはなぜか強くそう確信している。シロエには、この世界を〈エルダー・テイル〉だと考えた瞬間に、何か途方もないミスを犯すのではないかと云う不安が、〈大災害〉後の初日から根強くあったのだ。

(みんな大事なことを忘れてる。重要なことを未確認のまま、次へと行こうとしている。それが何かは、よく判らないけど。
 これは〈エルダー・テイル〉と関係あるにしたって、別の世界のことなのに……。だからみんなおかしくなっているんだ)

 そう考えれば、治安は悪化なんかしていないのだ。
 『治安が悪化』というとまるで当初は治安が良かったように聞こえるが、本当はそうではない。
 この世界は〈エルダー・テイル〉とは独立した異世界、だとするならば、その誕生当初から「治安」と呼べるようなものなど存在しなかったという認識が正しい。

 かろうじてあるのは戦闘行為禁止区域というゾーンの設定のみ。〈エルダー・テイル〉の仕様を再現しました、というお題目のために作られたような制限でしかない。
 そのような物は、法でも何でもないではないか。
 この世界には、最初から悪化するような「治安」など無い。
 無法の世界なのだ。

 もちろん、そんな事はアカツキにだって判っている。

 判っていても呟いてしまった独り言。
 生真面目な視線の瞳の奥に揺れている気持ちは、何なのか。

(よく判らないな……)

 アカツキの気持ちは、シロエにははっきりとはわからない。
 それは不安なのかも知れないし、ある種のホームシックなのかも知れない。でも、それに似たものをシロエの中に探すとするならば、そしてアカツキを見ていて感じるのは、云うならば苛立ち。
 それは反発。
 「こんな風」になってしまった現在に対する嫌悪感。

 「このまま、ギスギスするのかな?」の主語は、もちろん「この世界は」でもあるのだろうが、と同時に「わたし達は」でもある。

(僕たちって、結局その程度って事?
 つまり、僕たち、舐められてるんじゃないの? 所詮ちょっとつついてやれば奪い合って、殺し合って、勝手に騒いで勝手に泣いて、勝手に絶望していくような奴らだと思われてるんじゃないの?)

 それは自分への問いかけ。わたし達は、たかがちょっとした無法の荒野に投げ出されただけで、すぐさま仲間を襲って財産を奪ってしまうような人間だったのか? そんな、問い。

 それが判るからシロエは答えた。

「そんな事はないよ」
 そんな事はない。ただこのまま落ちていくなんて事はない。

 腐った果実が地に落ちるように、さもそれが自然であるかのように。なんだか世界がこすっからく、チープで、格好悪くて、凛々しさとも高潔さとも無縁の場所になっていく。そんな事はあって良いはずがない。もしそれが仮に「自然の成り行き」なのだとすれば、シロエはそんな成り行きは認めたくない。

「そんなのはつまんねー」
 直継が短い言葉で自分の中の気持ちを言い表す。
「……」
 アカツキはずっと地平線を見ている。

 あの時、シロエが〈三日月同盟〉のマリエール達に代わって救出に行くと申し出たのは、自分たちの方がレベルの面から見ても、この世界の戦闘への熟練度から見ても〈三日月同盟〉の救出メンバーよりも任務の成功確率が高いと計算したからだ。
 もちろんそれが理由のひとつではある。

 でもそれは「引き受けても構わない」理由であって「引き受けるべき理由」にはなり得ない。

 親しくしているとは言え、〈三日月同盟〉は一個の独立したギルドで、シロエ達のようなギルド非加入者がわざわざ危険で日数の掛かるような任務に従事するような義理はない。
 それは普通ではありえないことだ。

 それが判っているからこそ、マリエールは当初、シロエ達に「留守番の若手の様子を時々見る」事を希望したのだ。自分たちとシロエの関係性からは、それが掛けられる迷惑の上限だと考えたのだろう。それが常識的な見込みというものであった。

 二人だってそれくらいのことは理解しているだろう。
 自分たちには彼らの仲間を救出しに行く義理なんて無いことは。

 シロエは、この任務を受けたかったのだ。
 理屈だとか計算だとかは、もちろん大事だ。頭の中で何度も組み立てて呼吸を止めて考えた。でも、その根底にあったのは、強い苛立ち。自分の中にこんなにも感情豊かな鉱脈があるとシロエ自身もびっくりさせられた。

 そしてその気持ちを言葉にするまでもなく、あのとき同じように感じてくれた仲間を大声で祝福したい気分になった。
 ――そんなのはつまらない。
 ――綺麗じゃない。

(恥ずかしい事言っちゃったけれど……)
 思い出して火照り始める頬を強い風が通りすぎている。波のようにさらっては押し返す気持ちの起伏の中に、くすぐったいような嬉しさと、不安と、ふわふわしたような……幸福感。

 それは格好悪くなりつつあるこの世界への反抗の気持ち。
 どうせだったら思うようにやってみたい。
 せめて手の届く範囲だけでも。
 自分のいる間だけでも。

「身内が泣いてたら助けるしょ。それ普通だから。
 “あいつら”が格好悪くたって、“全部”が格好悪くたって、俺らまでそれに付き合う義理はねーよ」
 シロエがぼんやりとそんな事を考えていると、直継が最後のひとくちを大きく囓りながらその背中を叩いた。

 そんな格好悪くてダサくてつまらなくて救われない世界に流されたとは思いたくない。シロエはそこまで自分を嫌いにはなれない。世界には〈放蕩者の茶会〉のように格好良くてすごいものだってあるはずだ。
 言葉にすると恥ずかしいからなるべく考えないようにしているけれど、シロエが感じていたのはつまりそう言うことで、それがすなわちシロエの出した答え。『他にやるべき事』だった。

「ったくだ。無理矢理襲うなんてのは、おぱんつ様に対する冒涜だ」
 直継の言葉で一挙に場の空気がぐだぐだになる。

「えー。直継としては、じゃぁ、どういうぱんつなら良いのさ」
 アカツキは白けた視線で直継を見るが、シロエはあえて反抗的にその話題に乗る。なんだか青春臭いことを考えていた自分がいたたまれないほど恥ずかしかったのだ。

「そんなの色々あるよ。みせぱん。はみぱん。下されぱんに初めてぱん。ま、色々あるけど、やっぱり基本は『ぱんチラ』。
 これだね。チラリズム。Yes。ロマンの香。基本は大事だよ、基本を抑えるのが大事。古代の賢人も云っていた。『俺達はぱんつが見たい訳じゃない。ぱんチラが見てぇんだ』ってネ」

「基本は大事だよな。戦闘連携だって基本の積み重ねだもんねっ!」
 直継の言ってるぱんつは、半分もどんなぱんつなのか判らなかったが毒喰わば皿までの気分で、シロエはやけくそ気味に大声で答える。

「そうそう。連携ってのは大事だ。あと戦術ね。地形効果。階段でぱんチラ。そんでもって直後に逆ギレ。勝手に見せておいて逆ギレ。これが最強だ」

(最強も何もそれってかなり質が悪い言いがかりなのじゃないかなぁ)

 そんな事をシロエが思ったとしても、当然それはアカツキに届く訳もなく「直継の馬鹿はともかく主君は主君らしくしろ。馬鹿主君」と言われるのだった。

 ◆

 ――食後。それからめっきりと冷淡になってしまったアカツキが馬を呼び寄せようとするのをシロエが止める。シロエは荷物から竹で作ったような流麗な透かし彫りの施された笛を取り出す。
 馬を呼び寄せるホイッスルに似ているが、まるで芸術品のような美しさだった。同時に直継も同じ笛を取り出す。

「それは何なのだ? 主君」
 小首をかしげて尋ねてくるアカツキに微笑むと、シロエはその笛を空高く響けと吹き鳴らす。直継の吹き鳴らした笛の音と絡み合ったそれは、まるでもつれ合う二匹の小鳥の囀りのように荒れ地の風に乗って青空に拡散してゆく

「それって、もしかして……」

 アカツキの問いかけは、鋭い鷲の咆吼で中断される。重い羽根音を響かせて飛来してくる、二つの巨大な影。まるで馬車のような大きさのそれは、シロエ達の頭上を大きく二度廻ると、荒々しい勢いで着地して、もう一度鋭い鳴き声を立てたあと、その逞しい首をシロエと直継の足下に低く差し出す。

「グリフォンではないかっ」
 シロエたちのもとへやってきたのは、鷲獅子グリフォンと呼ばれる幻想種だった。巨大な獅子の身体に、鷲の頭部と羽根、そして後ろ足を持っている飛行種族だ。戦闘能力は亜種や年齢によるが、合成竜キマイラに匹敵する。

「まぁ。うん」
 シロエはグリフォンの首筋を二三度撫でると、荷物から取り出した生肉を与える。生肉はこのときのために、マーケットからかなりの分量を仕入れてきてある。食料アイテムの素材となる採取アイテムなので、安いのだ。

「まさか馬で北の最果てまで行こうなんて考える訳無いだろ? そんなことやってたら年寄りになっちまうよ」
 直継も、些か意地悪にアカツキを冷やかす。

「それにしたって何でこんな獣が……。乗るのか?」
「乗るよ。アカツキさん……」
「アカツキだ」
 シロエの言葉にアカツキは鋭く注文を入れる。何度シロエが云っても呼び捨てを強く希望するのだ。

「アカツキ――は僕の後ろ。……だめかな?」
「ダメではない。のだが……」
 アカツキは怯えたようにグリフォンから距離をとって遠巻きに見ている。手際よくグリフォンに腹帯と鞍を装着する直継。シロエは餌を与えて、グリフォンの耳の後ろを掻いてやっている。

「そんな召喚笛があると聞いたことがある。――死霊が原ハデスズブレスの大規模戦闘レイドをくぐり抜けたプレイヤーに与えられたって言う」
「昔ちょっとね」
 シロエはアカツキに答える。

 それは〈放蕩者の茶会〉の残した、いまは知る人も少なくなってきた伝説のひとつ。

 シロエと直継がこの笛を手に入れたのは、死霊の王たる上級アンデッドの眠る地下墳墓の奥深く。生命の秘密を邪悪に歪めるための魔法装置の祭壇で、死霊王の四人の騎士との激しくて長い戦いの思い出としてだった。
 精霊山の地下エネルギーを盗み取り、その力を持って永遠の生を手に入れようとしていた死霊王の目論見をくじくために共闘をした〈翼持つ者たちの王〉シームルグが友情の証として与えてくれた物だ。

「何でそんなものを持ってるんだ」
「びっくり隠し芸の時便利だろう?」
 アカツキの質問に今度は直継が答える。

(やっぱり恥ずかしいな、これ)

 別に隠している訳でもないし隠したい訳でもないけれど、改めて云うのは何となく照れくさい。シロエと直継にはそんな気持ちもあった。
 〈グリフォンの笛〉は、希少ですごいアイテムかも知れないけれど、所詮アイテムは大事な記憶を思い出すためのよすがに過ぎない。

「小太刀の鞘はいつもよりしっかりとベルトに固定して。背負い袋も。風に流されるものは畳んでしまって」
 シロエは腰が退けているアカツキに手を伸ばす。
 アカツキは何度か躊躇った後に、シロエの差しだした手を掴もうとして、何かに気が付いたのか少しだけ赤くなり、勢いをつけるかのようにその手を掴む。

 シロエはそのアカツキを、殆ど腕の力だけでひょいと自分の後ろに引き上げる。彼女が小柄だからなのか、それとも引き上げられるタイミングで地を蹴ったからなのか、あっけにとられるほどのアカツキの軽さにシロエはびっくりしてしまう。

「準備はOK?」
「うむ、主君。問題ない」
 自分の後ろでもぞもぞと身体をゆらすアカツキに一抹の不安を覚えて、シロエは後ろを向く。
「もうちょっと腰を落ち着けて。で、僕のことを掴んでね。怖かったらしっかり掴んで良いからね。って、お腹の肉は掴まないでっ!」

 アカツキのやりとりに笑いを堪えていたらしい直継は、とうとう笑い出してしまう。直継はアカツキとシロエの非難の視線にもめげず、そのまま自分のグリフォンの首筋を軽く叩く。

「お先に失礼っ!」
 その言葉は残すと言うよりも、むしろ烈風に千切り飛ばされて、その次の瞬間に青空の中に舞う逆光の影となる。

「ったく。――アカツキ。良い? じゃぁ、僕たちも行くねっ」
 アカツキが応とも諾とも返事をする前に、シロエはブーツのかかとでグリフォンに合図を送る。逞しいとも云えるグリフォンの鷲羽根が起こす風は殆ど暴力的とも言えるほどで、どちらが天でどちらが地下もわからないような感覚のまま、アカツキはただ垂直方向に圧縮されるのを感じる。

 何処か天高いところへ無限に投げ出されるような――あるいは遙か眼下の大地に真っ逆さまに落下するような感覚を、アカツキはシロエのすらりとした背中にしがみつくことで耐える。
 学究肌のシロエらしい無駄な肉のない背中へと、周囲を見ないように顔を埋めていると、やっと平衡感覚が戻ってくるのが判った。

「良い景色だよ」
 一方シロエの方も、自分に必死にしがみついてくるアカツキに気が気ではない。なにせ、アカツキは小さいのだ。自分の肩まで、下手をしたら胸のあたりまでしかない身長のない小柄な少女は余りにも軽すぎて、うっかり風に持って行かれるのじゃないのかと心配になってしまう。

 もしかしたら後ろに乗せててしがみ掴んでもらうより、前に載せてしっかりと押えておいたほうが良かったかも知れない。
 そう考えるシロエだが、それはそれでアカツキにとってはしがみつく場所が無くて怖いかも知れない。

(それに僕がアカツキの何処を掴んで押さえるかって云う問題もあるし……)
 頭の中で詳細に分析をしてみても、グリフォンの手綱を握りながら左手で押えられるのは腹部か胸部しかないと結論し、腹部であっても胸部であっても押える場所がずれたらとかんがえると、赤面と冷や汗が止まらない。直継が爆笑するような問題ならいいが、空中から突き落とされる可能性を考えると、その想像だけでシロエは狼狽してしまう。

「大丈夫?」
「うん――主君。これは、すごいな。青空の中に、浮かんで居るみたいだ」

 轟々とうなりを上げて後方に千切れ、押し流されてゆく空気。
 いまやグリフォンは無駄に羽ばたくことなく、両の翼を固定して気流の波にしっかりと乗って滑空している。
 大気の中のその波は、河のように緩やかに左右にうねっては、時に上昇し、時には低くなっているようだが、グリフォンはその頭部をいただいた鷲のように鳥類独特の視角でも持っているのか、自分たちに都合の良い上昇気流を選んで、どんどんと空の階梯を上ってゆくのだ。

 気がつけば直継のグリフォンも、サファイヤのような日差しを受けて蒼穹の中を隣に並んでいる。

「どうだすげぇだろ!!」
 直継の言葉は自慢げと云うよりは、ただ純粋に空を飛ぶことの興奮に輝いていた。その笑顔に、普段は大人げない下品な仲間を貶してばかり居るアカツキも、釣られたように――本当に珍しい、花が開いたような笑顔を向ける。

「すごい。――うん、すごい

008

「――進行方向、敵の姿は無し」
「進むぞ」
 アカツキのひそめた声に、直継がハンドサインを返す。
 ここは「パルムの深き場所」。「ティアストーン山地」の地下に広がる古代の地下通路だ。このダンジョンに入ってから早くも一五時間。
 覚え書き程度に描いているマップでは、すでに直線距離にして20キロほどは移動していることになる。

 シロエは〈エルダー・テイル〉のゲーム時代、ここへやってきたこともあるが、こんなにも広大だとはついぞ気が付かなかった。

 アキバの街を出発してから3日。
 旅はハイペースで進んだ。

 シロエ達の操るグリフォンの速度は単純な早さで云えば馬の三倍程度だろうが、地上の障害物の一切を無視しうると云う点を考え合わせれば、時間当たりの移動速度は十倍にもなるだろう。
 グリフォンの能力的な制約上、搭乗可能時間は一日四時間に過ぎないが、そうであっても馬に乗ったならば二週間は掛かりそうな距離を、三日で踏破していた。

 その旅が暗礁に乗り上げたのは昨日のことだった。
 予測はしていたのだが、「ティアストーン山地」にたどり着いたシロエ達は、そこが鋼尾翼竜ワイヴァーンの住処であることを再確認させられたのだ。ワイヴァーンは亜竜と呼ばれる竜族の亜種だ。竜によく似た姿を持っているが、前肢はなく、魔法や火炎の息を操る能力もない。竜族としてはかなり下等な種類だ。

 しかしだからといって与しやすい相手ではない。
 竜族は全モンスターの中でも最高位の体力と防御能力、素早さ、攻撃力を持ち、個体によっては高い知能と魔法を操る能力さえ保持している。多くのファンタジー物語においてそうであるように、〈エルダー・テイル〉においても竜は冒険者最大の敵なのだ。

 ワイヴァーンも下級亜種族とは言え、その竜の眷属である。

 魔法行使能力はないものの、尾は鋭く鋼のような強度を持ち、カミソリのような翼は巨大鷲ロック鳥にも匹敵する移動速度を与えている。
 もちろん、シロエ達も最高峰の実力を持つプレイヤーだ。地上でワイヴァーン一匹と戦うのならば、これを難なく葬り去るだけの戦闘能力はもっている。
 しかし、山地上空でグリフォン騎乗時にワイバーンの集団に襲いかかられると、勝利を収めることは難しい。

 「ティアストーン山地」がワイヴァーンの住処であることは、旧〈エルダー・テイル〉時代からそうであった。シロエもこの事態は覚悟して進んできたために、何も考えずに山地上空に突っ込むという事態が避けられたのは僥倖である。
 もし仮に何の策もないまま空中戦闘と云うことにでもなれば、ワイヴァーン数匹の撃退は可能だろうが、数十匹の竜からなる集団の波状飽和攻撃を受けて、やがては地上へとたたき落とされるような結果となっただろう。

 空中戦において優雅な引き際というものは存在しない。
 敗者は数百メートル下の地上という死刑執行地へと強制送還される運命が待っているのだ。

 そんな罠を避けて地上で息を潜めたシロエ達が選べる進路は四つ。
 洋上にまで大きく迂回をするか、「ティアストーン山地」の深い森の中を歩いて山岳踏破をするか、そうでなければ「ティアストーン山地」地下深くに眠る古代の坑道とトンネルの複合建築物、「パルムの深き場所」を抜けて更に北を目指すか、山中の道路を登山するかであった。

 シロエ達は協議の末、トンネル突破を決意した。
 もろもろの事情から考え、それがもっとも短時間で済み、安全面での条件と合致すると思われたからだ。

 山麓に広がる森、岩肌に作られた巨大な工事現場の廃墟から坑道に侵入して一五時間。トンネルは思ったように土塊作りの粗雑なものではなく、コンクリートで作られたライトグレーの広い地下通路が、魔法の明かりの中に続いている。
 地下下水処理施設の最も広い水流通路のように、定期的に細い連絡通路が左右に伸び、所々に何の目的に使われていたのか、無味乾燥な正方形の部屋が現われる。

 設計者の意図も、使用者の痕跡も、長い長い間に風化し、全ては埃と瓦礫の下に封印されてしまったのだろう。
 地下水の流れるひたすらに広いこの洞窟の現在の主は、ラットマン達であった。

 〈鼠人間〉ラットマン。
 それはこの世界に多数生息する亜人間の中でもかなり下等な種族だ。姿としては鼠の頭部を持った人間と、直立した鼠の中間くらいだろうか。身長は中学生ぐらいだが、毛皮のせいで体型の判別は難しい。全身湿ったような滑らかな毛に覆われ、簡単な道具を使いこなす。

 シロエ達のような高レベルのプレイヤーにとってその戦闘能力はまったく脅威ではない。ラットマン達は(もちろん個体にもよるが)ゴブリンやオークよりも更に弱い場合が多いのだ。それでもラットマンのやっかいな武器はふたつ残されている。数と疫病だ。

 「ねずみ算」などと云う言葉があるように、鼠の繁殖力は旺盛で驚異的である。ラットマン達もその特徴を備えているのか、狭い地域に集中して、相当な数が生息しているのだ。
 現にこの坑道に入ってからも、数m四方の部屋に二十匹以上のラットマンが群がっている光景を何度も見てきた。

 通常どんな生物であれ、相手が自分よりも圧倒的に戦闘能力が高いと判れば逃亡を図る。それは野生動物などに顕著だが、当然ラットマンも例外ではない。シロエ達は高レベルプレイヤーであるし、その能力は周囲にも判るのだろう。
 その証拠に、アキバの街からここに至るまで、シロエ達は殆ど戦闘らしい戦闘をしないで旅をしてきた。今回の旅はセララという少女、〈三日月同盟〉のメンバーを救出することが任務である。シロエ達は余計な戦闘訓練も探索も省き、一気にここまで移動してきたし、その目的上、モンスター側が逃げてくれるなら都合が良かった。

 しかし、ラットマン達のように密集するモンスターが相手の場合、しかもそれらと狭い行き止まりの通路や部屋の中で遭遇してしまった場合は話が異なる。ラットマン達の側が逃げようとしたところで、逃げる先がないのだ。
 そうなると、例えシロエ達が引いてやっても逆上して襲いかかってくる事が多い。まさに「窮鼠猫を噛む」を地で行く状態だ。

 戦闘で負けるとは思わないが、数の多いラットマン達を倒すのはそれなりに時間が掛かる。精神衛生上も余り良くはない。

 もうひとつの問題点は、疫病だ。
 ラットマン達は、中世の鼠がそうであったように疫病を媒介するのである。〈エルダー・テイル〉の仕様がここでも忠実に再現されるのであれば、その病気は回復を妨げ、持続的なダメージを巻き起こす質の悪いものであるはずだ。
 この坑道のラットマン達のレベルは40前後。
 伝染させる疫病にもレベルが存在し、それは疫病の持ち主に準拠する。この場合は、疫病のレベルも当然40前後のレベルを持つはずで、中堅レベルの回復役が一人いれば簡単に治癒できる程度でしかないが、いまのシロエ達には回復役はいない。
 マーケットで購入してきた「対病毒ポーション」を飲んではいるが、これは予防手段であって、治療手段とはなり得ない。レベル差がこれだけある状況だと、そもそもそんな攻撃を喰らう可能性はかなり低いが、それでも気をつけるに越したことはなかった。

「この部屋は、そこそこ安全っぽいな。――どうする、シロ?」
「えっと……。そだね。休憩にしよう。直継はドアの近くへ。僕はマリ姐に定時連絡をする。アカツキは……」
「偵察してくる」
 返事を待たずにアカツキの姿は闇の中に溶ける。
 シロエ達のこの種の行動分担は、すでに定番となってきている。シロエも直継も初めは小柄な少女を一人で偵察に出すことに抵抗を覚えていた。
 しかしアカツキにはその能力が十分にあり、彼女のプライドからするとそうやってパーティーに貢献したいのだ。それを理解すると、(諸手を挙げて、と云う訳ではなかったが)この役割分担を受け入れるようになっていた。

 確かに偵察はアカツキの得意なジャンルの行動だし、手分けとしては正しい。生真面目な少女は自分の任務にあくまで忠実だ。

 がらくたの中から手頃なスチールボックスを引きずり出した直継は、ドアの近くに陣取ると、剣を抱えて耳を澄ましている。仮にラットマンや他の怪物が接近してきてもいつでも応戦できる構えだ。

 シロエはそれを確認すると、瞳を半眼にして脳裏にメニューを展開。念話機能を呼び出して、マリエールに連絡を入れる。旅に出てからまだ四日だが、シロエは毎日一回は定期的に連絡をいれていた。マリエールもそれは判っているらしく、すぐさま返事が返ってくる。

『おつかれ、シロ坊。……どう?』
「こっちは問題ないです。昨日はあのあと野営をして、午前中早い時間に「パルムの深き場所」に突入しました」
『んじゃ、いまはダンジョンの中?』
「そうです」
『何でそないに早いねん。まったくお姉さんはびびるで、かなわんわぁ!』
「はい」

 マリエールの温かい言葉がくすぐったい。
 本当はもうちょっと気の利いた言葉が返せればいいのだけれど、なかなか上手く行かないな。シロエはそう思いながらも、丁寧に返事をする。

 マリエールはシロエ達の移動手段――グリフォンを知らない。
 この世界の移動手段は召喚笛による馬が一般的だ。
 非常に高価なアイテムとして調教した〈戦闘用猪〉ウォーボアなどもあるし、中国サーバの一部では〈騎乗用大型狼〉ダイアウルフなども使われているという話がある。
 また〈召喚術師〉は自らの移動用として〈一角馬〉ユニコーンを初めとして何種類かの召喚生物を呼ぶ能力を持っている。しかし、空中を移動できる召喚生物は高位の〈召喚術師〉でもない限り呼び出せないし、ましてや〈付与術師〉エンチャンターや戦士、武器攻撃職が持っているとは、普通のプレイヤーならば想像の埒外だろう。

『ほんまやで。うちらが向かってたら、まだまだその半分の半分も進めてなかったと思う。ほんま、ありがとな』
「気にしないで下さい。……あの。状況はどうです?」
『ちゃんと連絡は取れてん』

 定期的に連絡をしている理由のひとつがこれだ。
 シロエたちはセララという少女を救出に〈エッゾ帝国〉にあるススキノの街に向かっている。しかし、シロエ達はセララに念話で連絡を取ることは出来ない。
 なぜなら、念話機能はフレンド・リストに登録した相手にしか話しかけることが出来ないからだ。そしてフレンド・リストへの登録は、目の前で実際に対面している相手に対してしか行う事が出来ない。
 つまりセララという少女をフレンド・リスト登録していないシロエ達は、彼女と直接連絡を取ることは出来ないのである。

「状況はそのまま?」
『うん。なんか、例の親切な人と隠れてるらしいねん。今のところはひどいことになってないし、大丈夫だってゆうとる』
「了解です。そんな人が居るなんて、ススキノも捨てたものじゃないですね」
『せやね』

 セララという少女は、悪質なプレイヤーの集団に目をつけられ、脅迫まがいの勧誘を受けて居る。一時は監禁され、性的な暴行さえ受けかけた。しかし現在はなんとか脱出して、ススキノの街のある場所に隠れているらしい。
 ススキノの街は大きさこそアキバの街と同程度だが、いま現在そこを拠点に活動しているプレイヤーは二千人程度――アキバの街の約1/8だという。それは相対的に見た場合一人一人のプレイヤーが目立つと云うことでもある。
 たとえばマーケットに食料の買い出しに行くのさえ、人混みに紛れてこっそり行なう難易度は何倍にもなるだろう。その人数では、隠れきるのは殆ど不可能であるとマリエールもシロエも考えていた。

 しかし、セララは協力者を見つけたらしい。
 詳しくは聞いていないが善意のプレイヤーで、セララが〈ブリガンティア〉という凶悪なギルドから逃れられたのも、その助けがあったからだというのだ。
 正体が敵に割れていない協力者が居るならば、買い出しなどは非常に楽になる。それならば救出に行くまでの間、セララが隠れきることも可能だろう。ススキノの街にいるプレイヤーが二千人程度だとすれば、人が隠れられる場所はずいぶんたっぷりと余っていることになる。先ほどとはまったく同じ理由で、潜伏しているだけならば安全が保てる理屈だ。
 シロエはそう考えて、少しだけほっとする。

「いまはダンジョンの中だから、ちょっとこの先の予定は見えないです。だから抜け出したら連絡します。ティアストーン山地が事前の予想では一番の難所でしたから――」
『海峡はどないすん?』

「行って考える予定です」
 実際はグリフォンで突っ切るつもりだが、シロエは何となく誤魔化す。アカツキは素直に受け止めてくれたが、飛行移動可能な騎乗生物を所持しているなどは、一般のプレイヤーにとっては嫉妬の対象でしかないだろう。
 そして、その入手方法を知っているプレイヤーにとって、あのグリフォンを所持していると云うことは死霊が原の大規模戦闘に勝利した証拠となる。一部のプレイヤーにとって、ギルド未加入者が「それ」ハイエンドを達成したと云うことは、許し難い事態なのだ。

『シロ坊達なら、いけそうやな』
 シロエの行き当たりばったりにも聞こえる発言に、マリエールはくすくすと笑ってくれる。
(無理してるはずなのに。マリ姐は強いな)

「こちらは今のところ大きな被害もないです。戦闘自体あんまりしてません」
『了解や!』
「では、また」
『はいなぁ! ユーララの神様お祈りしとるっ。直継やんにも、アカツキちゃんにもよろしうなっ。ヘンリエッタが寂しがっとるで!』
 最後にはユーララの神などと、この異世界の神官らしい言葉を口にして念話は切れた。

(ここまでの処は、順調……っと)

「主君、状況はどんな感じだ?」
「~っ!」
 念話に集中していたせいでまったく気が付かなかったが、いつの間にかアカツキが戻っている。振りかえると直継はもぐもぐと保存食をほおばり食事中だ。

「アキバの街も変わりなし。目標のセララは現在ススキノで潜伏中、トラブル無し。状況は継続中です」
「了解だ」
 アカツキは言葉少なく答えると、荷物から大きな水筒を取り出す。
 水筒のサイズは同じなのだがアカツキが持つと大きく見えるのだ。

 シロエはそんなアカツキに、これも背負い袋から取り出したオレンジを手渡す。全ての食料アイテムが同じ味しかしないこの世界において、素材のまま食べられる果実は、唯一違った味わいを感じられる貴重品だ。
 シロエらが持っている背負い袋はマジック・アイテムで、重量200キロまでのアイテムを納めることが出来る優れものだ。バッグが持っているそれ自身の重さ以外、つまり内部に収納した全てのアイテムの重量は、バッグにそのアイテムを格納している限り消去される。そのため持ち運びも小振りなナップザック程度の重さしか感じない。
 この種の「魔法の鞄」は〈エルダー・テイル〉の代表的なマジック・アイテムで、納めることが出来るアイテムの種類や限界重量などで幾つかの階級に分かれているが、便利なのでプレイヤーの殆どがひとつは持っているはずだ。

 この背負い袋があるお陰で、ダンジョンなどでお宝を見つけても、戦闘を継続できるし、食料や野営道具の持ち運びも苦にはならない。
 この世界で生き抜く必須アイテムと云える。

「偵察の報告良いかな。地形照合したいです」
「心得た」
 アカツキはナイフで器用にオレンジを剥きながら、偵察の結果を報告する。ダンプカーですら並んで入れるほどの規模を持つトンネルの本体は迷いようがないが、その本道に対して枝道は無数に交差している。
 本道を突っ切ればとりあえずの目的は果たせるが、場所によってはラットマン達が集落を作っていることもあるために、迂回した方が良いこともあり、アカツキの偵察情報は貴重なものだ。

 そのアカツキの報告を聞きながら、シロエは手元の紙束に新しい枝道を書き記す。

「こんな感じでいい?」
「うん、正確だと思う。……主君はこういう事が得意だな」
 背伸びをしてシロエの手元の図面を見るアカツキは、新しく書き足された部分を検分すると、感心したように云う。
「CADみたいなものだよね。僕は〈筆写師〉だしね」
「CADとはなんだ?」
「パソコンでやる製図。大学でやるんです。工学部ですからね」
「主君は大学生なのか?」
 シロエは頷いて「もうそろそろ卒業だけどね」と返す。現実世界のことはなんだか遠いような話で、実感が薄れつつある。

「そうか。ではわたしと殆ど同じ年なんだな」
「え?」「まじかよっ!?」
 アカツキの言葉にシロエと直継の突っ込みが同時に入る。

「そんなに意外か?」
 平静に返すアカツキには悪いが、シロエはアカツキのことを少なくとも3、4歳は年下だと思っていたのだ。

「冗談だろ、ちみっこ。だって、ちみっこ身長無いじゃぎゃふっ」
 言葉を叩ききるように鋭い飛び膝蹴りが直継の顔面に入る。
「主君。バカ直継を蹴っても良いだろうか?」
「だからそう言うことは事前に断り入れろよっ!」

 二人の漫才はそれとして、シロエも内心冷や汗を流す。口にこそ出さなかったが、シロエがアカツキを年下だと想像していたのも、云われてみれば身長ぐらいしか根拠がない。

「だいたいバカ直継は身長のことをあげつらいすぎだ」
「胸のサイズは更に壊滅的じゃぎゃっ!?」
 今度は左の美しい飛び膝蹴りを喰らう直継。二人の身長差からして、アカツキは垂直跳びで2m近く飛んでいるはずだが、鮮やかな空中姿勢で後方に猫のようにひるがえると着地する。

「――アカツキ? 直継死んじゃうよ」
「主君がそう言うなら……」
 アカツキは渋々と距離をとる。シロエとしても内心は年下だと思っていただけあって、表立ってではないけれど直継にフォローを入れざるを得ない。

「まさか主君も私が未成年だと思っていたのか?」
 迫力あるアカツキの視線に耐えかねて、そんなシロエは口調もボソボソと告白することになる。

「別に身長って云うか――年齢って云うか。……そういう訳じゃなくて、えーっと。ほら、僕も……しばらく面倒見てたというか、一緒に遊んでた双子のプレイヤーが居たから」
「ふむ、どんな?」
「そういやそんな話をしていたな」

「別に深い付き合いという訳でもないんだけど。――その話は、道すがらにでもしない? このトンネルは、まだまだ先が長そうだし」

 ◆

 シロエがその双子と知り合ったのは、もちろんまだこの異世界が異世界ではなく、〈エルダー・テイル〉はただのゲームとして世にあった頃の話だった。

 シロエは少し風変わりな――高レベルの〈付与術師〉エンチャンターなんて風変わり以外の何者でもないのだが――ソロプレイヤーとして、アキバの街を活動拠点として日々のゲームを過ごしていた。

 〈放蕩者の茶会〉が無くなった頃、シロエは本当の意味での根無し草だった。もちろんそれは悪い意味ではなく、シロエ自身はそんなゲームライフをそれなりに楽しんでいたのである。

 あちらこちらのパーティー募集。
 アキバの街の広場にいれば、声を張り上げて誘う声はあるし、当時はまだただのゲームでしかなかった〈エルダー・テイル〉においては募集チャンネルというサーバー全域にメッセージを伝達するシステムもあったのだ。
 そういったいわば野良のパーティー募集に参加をして戦闘をすることもあったし、時にはマリエールのような顔なじみに誘われてダンジョンに赴くこともあった。もちろん単独で行動して、興味を持ったゾーンを調べたりアイテムを採集したりすることもあった。

 〈筆写師〉であるシロエは生産職でもある。〈筆写師〉は書籍や図面、魔術の教本などを複製するのがゲーム中の主な能力だ。生産職は何でもそうだが、最終的に生産するアイテムを作るためには素材となるアイテムが必要とされる。
 料理の場合の食材に相当するアイテムは、〈筆写師〉の場合は紙とインクだ。かといって、紙とインクでさえあれば、何でも良いという訳ではない。通常の写本であればインクはノンプレイヤーキャラクターが売っているものでよいが、魔力を込めた高位の魔術書や奥義書を複製するためには、それなりに魔力を秘めたインクが必要となる。
 そう言ったインクを作り出すのも〈筆写師〉の仕事であり、そのためにはドラゴンの血液や希少な鉱物などが必要なこともあった。
 そのためには、あちこちのゾーンへ出掛けたり、希少なアイテムを見つけるための戦闘なども必要だったのだ。

 最初に声をかけてきたのは双子の方だった。

「兄ちゃん、兄ちゃん。へい、すとぉっぷ!」
「あのー。すいません。申し訳ありません。お聞きしてよろしいでしょうか? 質問的なことなのですがっ」

 そう声をかけてきたのは、アカツキよりは多少高いがシロエの肩まではないような身長の二人組だった。
 少年の方は安っぽい鎧を着けて、刀を背負っている。
 少女の方は白いローブに鈴のついた長い杖。

「いいけど、どしたの?」
 アキバの街の雑踏の中でシロエは答える。
 装備を見ただけで二人は明らかに初心者だと判った。それも最初期の、完全な初心者だろう。ボイスチャットから聞こえてくる声は中学生か、小学生か。とにかく幼いものだ。

「魔法が弱くて、トウヤの傷が治らないんです。聞いてみたら、もっと高いの買えって言われたんですけど、何処で売ってるかわからなくて。もしかしたら、販売場所をご存じですか?」
 ボイス・チャットから漏れてくる少女の口調は、ずいぶんとしつけが良さそうだった。

「俺の技も欲しいんだ。兄ちゃん知ってたら教えてよ。頼むよ~」
 二人の頭上には名前を示す表記が碧色の文字で浮かんでいる。少女はミノリ、少年はトウヤ。二人ともレベルは6。

 〈エルダー・テイル〉における初めのクエストはチュートリアルだ。アキバの街を開始場所に選んだプレイヤーは「カーネル少佐の戦闘訓練場」という専用ゾーンに強制的に送られ、そこでゲーム操作の基本的な実習をさせられる。
 ちなみにカーネル少佐は白髭の温厚な紳士という外見を持っていながら一旦切れると何をしでかすかわからないと云う困った設定のノンプレイヤーキャラクターで、少佐なのか大佐なのか判らないと一部では評判の人物だ。
 カーネル少佐の1時間ほどの訓練を終えるのがレベル4なので、二人はおそらく、昨日か今日にでもゲームを始めたまったくの初心者と云うことになるだろう。

「もしかして、今日が初日なのかな?」
「はい」「そうだぜっ」
 二人の声が唱和する。

 人付き合いがそんなに得意ではないシロエとはいえ、別に人間嫌いという訳ではない。ただ損得感情で近寄ってくる他人に対して構えてしまうだけだ。
 その意味で、シロエは初心者プレイヤーが嫌いではない。

 〈エルダー・テイル〉を好きな一人のプレイヤーとして、初心者は歓迎したいと思っている。古参プレイヤーである責任を考えれば、なおさらだ。

「そっか……。案内するよ。こっちだよ」
 街を案内する程度は労苦と云うほどでもない。
 そう考えてシロエは二人の先頭に立って歩き出した。

 こうしてその二人、ミノリとトウヤという双子と知り合ったシロエはそれからもたびたび二人と付き合うことになった。
 物怖じしない性格のトウヤは街中で見かけると必ずシロエに対して大きな声で呼びかけてきたし、ミノリの方は礼儀正しくて折に触れお礼を述べに訪れたりしたからだ。

 二人は双子で、その出生時間は僅差であり、ミノリの方が姉、と云うことになるらしい。大人びていて委員長体質の姉が、明るいが向こう見ずで遠慮知らずの弟の面倒を見る。それが二人の基本的な活動スタイルのようだった。

 二人は中学二年生で幼いと云えるほどに若く、この〈エルダー・テイル〉が最初のオンラインゲームで、二人とも初めての経験にすっかり興奮している。そんな話は最初に出掛けたフィールドゾーンで二人が口々に説明してくれた。

 その最初の冒険は相当に大騒ぎだった。
 モンスターを見かけるとまるで誘導ミサイルででもあるかのようにトウヤが突っ込む。それを慌ててミノリが追いかける。二人で悪戦苦闘をして泣きそうになる。
 そんな微笑ましい光景が何回も何回も繰り返されるのだ。

 〈エルダー・テイル〉には「師範」というシステムがある。
 簡単に言うと高レベルのプレイヤーが低レベルのプレイヤーと一緒に遊ぶためのシステムだ。シロエが二人に対してこのシステムを使用すると、90レベルのはずのシロエは、一時的に二人に合わせてレベルが低下する。もちろんレベルだけではなくHPや能力値、攻撃力など、全般的なステータスが大幅に低下してしまう。
 これは、低レベルの仲間とでも、同じような強さになって一緒に冒険をするためのシステムだ。

 もちろんシロエには古参プレイヤーとしてのゲーム知識があるし、弱体化したとは言え、かなり裕福な装備を持っているから、一般的な初心者に比べればまだ強力だ。しかし、その差はレベルに換算して1~2というところだろう。「師範役」をするのには丁度良くなる便利なシステムだった。

 シロエはそのシステムを活用して二人を追いかける。
 攻撃魔法を撃って敵の数を減らすのだが、ただでさえ低い威力の〈付与術師〉の攻撃魔法はレベル低下によって見るも哀れな威力になっていた。しかしそれでもまだ駆け出しの二人にとっては心強い援護だったようだ。

「さんきゅー! 兄ちゃん! そら、あっちの敵にも突撃だぁ!!」
「待ちなさいよ、トウヤったら!! ほら、HP減ってるんだってばぁ!!」
 そんな二人に引きずり回されて、終日狩り場を駆け巡ったりもした。
 弟のトウヤは〈武士〉サムライ。
 戦士系3職のうちひとつ。〈エルダー・テイル〉において、魔法も剣技も「特技」として表現される。特技には固有の名称や効果の他に、消費MPと、発動時間と再使用規制時間と云う数値が設定されている。
 発動時間は使用を決定してからその特技が発動するまでの時間。いわゆる「タメ」に相当する時間だ。再使用規制時間はその特技を一回使用したあと、再び使用できるまでに掛かる時間をしめす。
 〈武士〉の特徴は多くの技の再使用規制時間が長いことにある。
 威力は強力だが、連射の効く特技は少なく「一回の戦闘に一回か二回しか使用できないような大技」が多い。それは細かい技を積み重ねてコンボを成立させてゆく〈武闘家〉モンクとは逆の特徴だ。
 〈武士〉は強力な特技が多いため、「戦闘が短時間」という条件を満たせば戦士系職業の中ではもっとも攻撃力が高い。その意味では爽快感のある人気職業だ。
 一方、使いこなせないと、手持ちの特技を使い切ってしまい、全てが再使用準備中というハメになって、打てる手が無くなってしまう。とっさの対応や保険がなくなるという特徴も持っていて、極めるのはなかなか難しいクラスでもあった。

「行っけぇぇぇ~っ! 〈兜割り〉ッ!!」
 突っ込んだトウヤが一匹のゴブリンに向かって正面から太刀を振り下ろす。その攻撃はゴブリンの中途半端な装甲を断ち切って一撃で大きなダメージを与えるが、トウヤ自身は技後硬直で大きな隙が生まれる。

「グガァッ!」「ガフッ! ガフッ!」
 ゴブリンの群はその隙を見逃さず殺到する。トウヤは慌てるが、硬直時間は回避行動さえ取れない。

「ああっ。トウヤっ。下がって、危ないっ! ううっ。〈禊ぎの障壁〉っ!!」
 ミノリが鈴のついたスタッフを振るうと、水色に輝く鏡のようなエフェクトが現われて、ゴブリンの攻撃を受け止めた。

 姉のミノリは〈神祇官〉カンナギ。
 回復職3職のうちひとつ。回復職は全てHPを回復し、仲間の状態異常を治療する職業だ。また様々な形で仲間の能力を高める多くの呪文を持っている。
 全ての回復職は、仲間のHPを回復するという点では似たような呪文を持っているが、それ以外にも、それぞれ固有の回復特技を持っていて、そこが特徴付けにも一役買っている。
 古き神々の使徒たる〈神祇官〉のもつ固有回復能力は「ダメージ遮断」だ。特定の仲間や仲間全体を対象にするこの呪文は、ある種の結界を張り、一定量以下のダメージ全てを「吸収」してしまう。
 総合的な回復能力では3職の中では比較的劣るが、「ダメージ自体を無かったことにする」という特殊性は、場合によっては非常に強力なアドバンテージを発揮する。
 しかし一方、敵の攻撃の種別や範囲を事前に予測しなければならないために、使いこなすのがなかなか難しい能力であるとも云えた。

 〈エルダー・テイル〉においてはどのメイン職業でもそうなのだが、なかなか一筋縄ではいかないように設計されている。それが「奥深い」部分でもあるから仕方ないが、トウヤとミノリの双子は、そんな事とはお構いなしに純粋にゲームを楽しんでいるようだった。

 シロエは二人にせがまれて、アキバの街近郊の様々なゾーンを案内したし、買い物にも付き合って、色んな質問にも答えた。

 シロエは一度「もうちょっと良い装備とかあげようか?」と尋ねたことがある。良い装備とは云ってもレベル10程度のものであれば、シロエはいくつでも手に入れることが出来たし、簡単にマーケットで購入することもできた。

 しかしトウヤは「えー。要らないよ。だってわざわざゲームやってるんだよ? 一番面白いところは集めるところなんだから、貰っちゃったら、遊んでるだけ損だよ~」と云って断った。ミノリは「ごめんなさい、ごめんなさい。トウヤが生意気を云って本当に済みません。でもシロエさんには本当に良くしてもらっちゃってますからっ」と何度も頭を下げた。

 そんな二人だから、シロエも安心をして「師範役」を務めることが出来たのだ。シロエを便利な古参プレイヤーとして扱わない双子と遊ぶのは、楽しい経験だった。そしてそれは「あの日」の〈大災害〉が起きる直前まで続いたのだった。

 ◆

「へぇ、そんな双子がいたのかぁ。そんで?」
「それで、って?」
「その双子のその後ことは判らないのか? 主君」

 三人は魔法の明かりでトンネルの内部を照らしながら進んでいく。シロエの身長の何倍もあるような天井は闇に溶けて、地下であるにもかかわらず、そこは夜の内側のようだった。

 話ながら進めば、ラットマン達も事前に気が付いて逃げてくれるのではないかと、三人は気配を殺すのをやめてこうして雑談をしながら進んでいる。どうやらその作戦は当たりのようだった。

「フレンド・リストにはいるよ。……実はあの〈大災害〉のあとにも何度か見かけた」

「やっぱし巻き込まれたのか」
「直前まで一緒にいたから。……僕も、多分あっちもアキバの街に巻き戻されたから、そこでばらばらになっちゃった訳だけど」
「私も廃墟の中に転移させられた」
 やはりあの瞬間、プレイヤーは手近な街に待避させられたらしい。

「声、かければ良かったのによ。あっちはあっちで大変だったろうに。素人なのにこんな事になっちまって」

 直継はそういう。
 〈放蕩者の茶会〉に居た仲間は多かれ少なかれ面倒見がよい人間ばかりだったけれど、その中でも直継はずいぶん下の面倒を見るプレイヤーだったとシロエは思い出す。

(みんなのことを守る〈守護戦士〉ガーディアンなんて、面倒見が良くないと出来る事じゃないよね。……直継の場合、その言葉遣いで損してる感じなんだけど)
 シロエは密かに思う。

 アカツキのことをチビ扱いしていようと、その件で膝蹴りをされようと、ひとたび戦闘になれば仲間に危害が及ばないように全力を尽くすのが直継という男だ。

「最初の数日、僕たちも精一杯だったし、余裕がなかったんだよ」
 正確に言えば、シロエ達だけではなく、全プレイヤーがそれどころではなかったのだ。全員が自分以外のことを考える余裕を失っていた。

「それに、その次見かけたときは二人ともギルドに入ってて」
「へぇ、そうなのか」
「あの頃は勧誘も激しかった」
 アカツキの語る言葉に、そう言えばそうかと直継も頷く。

「レベル20だっけ? それくらいなんだよな」
「いまではもう少し育って居ると思う」
「じゃぁ、ギルドに入っておくにこしたことはないか。右も左も判らないもんなぁ」
 直継はそういうと、大きくのびをしながら身体ごとくるりとシロエを振りかえる。

「で、そのミノリって娘は可愛いのか?」
「……え?」
 シロエは思い出す。……しかし考えてみれば、二人のことをちゃんと見ていたのはゲームとしての〈エルダー・テイル〉でのことだ。当時は画面の中のポリゴン人形でしかなかったのだから、可愛いも何も判る訳がない。〈大災害〉のあとは面と向かって話した訳でもないので、そんな事を聞かれても困る。

「いや、良いんだって。そーゆーのは。ボイス・チャットで喋ってたんだろ? 声から判るじゃないか、可愛いかどうかってのは」
 シロエがわからないと云ったにもかかわらず直継は食い下がる。
 二人の会話に呆れ気味なアカツキは数メートル先を無言で歩いてゆく。

「んー。可愛いか可愛くないかで云えば……。やっぱり判らないよ、そんなの。……話し方で云うと、女の子らしくて丁寧で――育ちがよい感じ? かな。ヘンリエッタさんとは違った意味で、しつけの良い家庭なんじゃないかって思う」
 シロエが思い出しながら説明するその言葉のひとつひとつに、直継はうんうんといちいち頷く。非常に嬉しそうだ。

「そうだよなぁ。女子中学生おぱんつはそうでなきゃ行けないっ!」
「なんでそこでぱんつがでてくるのさっ!」
「なんだよ。シロは『ぱんつはいてない女子中学生』のほうが好きなのかよ。まったくむっつりだなぁ」
「僕はパンツ魔神じゃないっ」
 あまりにあんまりな直継のぱんつ談義にシロエがさすがに言い返す。
「ふんっ。シロ、いいか? 自分で脱がすのが楽しいんだよ。判るだろ? プレゼントと一緒だ。最初からはいてないなんてはしたないぞ? それともシロエは履かせるプレイが良いのか?」
「僕が変態みたいな前提で話進めるなよっ」

「主君。このバカを蹴っても良い……か?」
 アカツキがシロエと直継から離れてじぃっと見つめてくる。普段なら蹴ってから確認してくるはずなのに、微妙に引いてるような表情なのがシロエに深いダメージを与えた。

「ちょっと待ってアカツキ。僕には変な趣味はないからね」
「異性の下着に興味を持つのは変な趣味とは云えない。わたしだって理解しているつもりだ」
 アカツキが生真面目な表情のまま、慰めるような口調でシロエに語りかける。

「おい、ちょっとまてちみっこ。じゃぁ、何で普段の俺は蹴られてるんだよ。打撃技コンボ祭りかよ」
「個人的に腹立たしいから」
「そうだよな。そんな理由だよな……。ってそんな理由なのかよっ」
 アカツキと直継の言い合い。

(直継への突っ込みには膝くらい入れないと追いつかないよ、堅いから。――じゃなくてっ。待て待て。このままじゃ駄目じゃないかっ)

「とにかく、アカツキっ」
 シロエはアカツキに近寄ると、その肩をしっかりと押えて正面から云う。
「僕は異性の下着に興味はない」
「同性の下着にしか興味がないみたいだなぁ、ええ? シロ」
「ニヤニヤして混ぜっ返すなよ直継っ!!」
「そうだったのか……? 主君」
 アカツキが珍しく怯えたような声を出す。

「ああっ、もうそうじゃなくてだなぁっ!!」
 結構純情な〈付与術師〉エンチャンターが真っ赤になって否定をくりかえし、なけなしの精根が尽き果てるまで、直継とアカツキの二人は、自分たちの参謀をからかい続けるのだった。

 ◆

 長い長いトンネルを抜けたのは夜明けの最初の光が、地平線を飾る山々の稜線を紫色のラインで縁取る頃だった。長い間地下にいたシロエ達は、冷たくもかぐわしい風に吹かれて大きく身体を伸ばす。
 別段腰をかがめなければいけないような小さな洞窟にいた訳ではないが、それでも頭上に何億トンもの大量の土砂が存在するというのは、予想外に重圧のある体験だ。
 いまはただ、まだ藍色の闇の残る夜明けの初夏の空が頭上にあることが嬉しい。

「風が冷たい」
 森と海を見下ろす大岩の上に身軽に飛び乗ったアカツキが云う。
「でも、気持ちいいぞ。やっと抜けたなっ。難所越えたぜ祭りっ」

 そんな二人をシロエは追いかけて、その大岩へと上る。
 確かに風は冷たいが、見下ろす景色は圧倒的だった。黒に近いほど濃い緑の原生林を、薔薇色の光が筆を大きく振るうように染め上げてゆく。
 夜明けの風に流されてゆくペースの速い雲が、森の梢の上に影を投げかけて、それが渡ってゆくのさえ美しい。

「綺麗だぞ」
「すっげぇな」
 仲間の短いコメントが、それで全てを表していた。

 そう言えば、これは初めてだ、とシロエは思う。

(この景色を見るのは、僕たちが初めてだ。――アキバとススキノの間を渡りきった人間は、この異世界ではまだ居ない。この景色を見たのは、僕たちが初めてなんだ。
 ゲームとしての〈エルダー・テイル〉なら夜明けのこの場所を通りかかったプレイヤーなんて沢山いる。
 でも、この異世界では僕たちが初めてで、初めってって云うのは……)

――やっぱ冒険って云うのは初体験って訳よ。もうね、どきどきわくわくでガクブルジョーってなもんよ。え? なに? 漏らすな? 漏らしたって良いのよ楽しいんだから。楽しくないの? 楽しいでしょう。だってこんなにすごいもん見れたんだもん、丸儲けよね! はははははっ!!

 〈彼女〉の台詞を思い出す。無闇に自信満々で、根拠なんて無いくせに確信に満ちていて、思いつきとハッタリと勢いだけの発言で構成されていた〈彼女〉。それでいていつでも正解が判っていた〈彼女〉。
 〈彼女〉だったならば、この景色もきっと勲章として胸に飾っただろう。

「僕たちが初めてだよ」
 だからシロエはその気持ちのままに、二人の仲間に声をかけた。

「僕たちがこの景色を見る、この異世界で最初の冒険者だ」

 シロエは自分で意識して初めて異世界だと言い切った。

 どんな小理屈よりも明確に、眼前の圧倒的な自然は伝えている。こんな景色は、ゲームなんかでは見られない。こざかしいVRではありえない、夜明けの風と、冷たい空気と、木々を渡るかすかな音と、ミリ秒単位で変わっていく夜明けの光景。

 この世界へとやってきて、周囲の全員がパニックになっていたときも、目的を見失って治安を悪化させるプレイヤーが居たときも、シロエはどこかで落ち着いていた。しっくり来ていた、と云っても良い。

(……我ながら環境適応能力があるな、なんて思ってた。直継が居て茶化してくれるから辛さを忘れられるのかな、とも思った。アカツキと合流して日々が騒がしくなってそれで救われたのかとも思った……)

 そう言った要素がないとは思わないが、それだけではないとシロエは判った。この異世界にやってきたとき、アキバの街の古木に埋もれた廃墟に感じた美しさ。それに異世界を感じたように。

(ここは異世界で、僕は冒険者なんだ)

 一瞬怪訝そうな表情でシロエを見つめたアカツキが、何を納得したのかしっかりと頷く。直継はにやりと男らしい笑いを見せて、大きく息を吸い込む。

「そうだな。俺達が一番乗りだ。こんなすごい景色は、〈エルダー・テイル〉でだって見たことはねぇ」
「わたし達の、初めての戦利品」

 二人は、その景色を慈しむように見やると、シロエに合図をする。
 シロエはそれに答えるように、東の空に向かってグリフォンの召喚笛を高らかに吹き鳴らすのだった。

009

 セララが隠れ潜んでいるのは、ススキノに数多い断熱材を用いた簡易住居だった。2LDKほどのその簡易住居は、ススキノの廃ビルの内側に造られている。
 世界崩壊によって旧時代の文明が失われ、その遺跡とも云える巨大建造物があちこちに残るこの世界。もちろんプレイヤーであるセララには、それがどうやら現実世界の日本をモチーフにしていることは判っている。ススキノは現実で云う札幌市街の一部であり、このプレイヤー・タウンもその面影をとどめていた。

 地球では歓楽街だったススキノには多数の雑居ビルが存在している。〈エルダー・テイル〉の世界のデザインを受け継ぐこの異世界におけるススキノの街では、その殆どが無骨な青い鋼で補強された城塞風の建物に改修されていた。
 どこか角張っていて、レトロな機械帝国といった風味が、この北海道――こちら風に云うならば〈エッゾ帝国〉のデザインモチーフなのだ。

 そのように鉄骨とビスと巨大なボルトとナットで強化された廃ビルは、雪や風には良く耐えるが、冬の寒さは防げない。そこでススキノの人々は、要塞化された雑居ビルの内側に、断熱材でもうひとつの家を建てる。こちらは暖かさや居住性を重視した作りだ。

 面積あたりの居住人数から云えばはなはだ非効率的であり、現実世界の日本で実行することは出来ないが、〈エルダー・テイル〉というゲーム世界内では十分可能であり、それは異世界のここでも同じだった。

 セララはそうした断熱材で作られたひとつを隠れ家として潜み暮らしている。助けてくれた同居人が借りてくれたのだ。

 彼女は、日がな一日、その二間続きの部屋を掃除している。
 別に掃除が趣味という訳でもないし、ましてや部屋が散らかっていたり汚れている訳ではないが、他にやることもないのだ。TVもWebも無いこの世界では、暇をつぶすのがとても難しい。

 それにセララは〈家政婦〉だった。このサブ職業は、ゾーン内の清掃や小物の管理。様々な消耗品や備品の管理。メンテナンスに必要な特技を与えてくれる。

(……どーしてこんなマイナーで役に立たないサブ職業を取得しちゃったのかなぁ)

 セララは何度目になるか判らないため息をつきながらも掃除の手を休めない。

 〈エルダー・テイル〉において、メイン職業はキャラクター作成時に選択するために交換不可能だが、サブ職業は、サブ職業の経験値が一旦ゼロに戻るという覚悟さえすれば、比較的簡単に交換できる。

 セララのメイン職業は〈森呪遣い〉ドルイドで回復職のひとつだ。
 セララ自身は、この複雑で奥が深いと云われるゲームで、商人のまねごとが出来たらいいな、と思ってゲームを開始した。
 商人プレイを楽しむプレイヤーは数多い。他のプレイヤーと交流したりお金を貯めるのには独特の楽しみがあり、それはそれで〈エルダー・テイル〉の一つのプレイスタイルなのだ。

 もっとも、商人プレイをするのであらば〈交易商人〉や〈会計士〉をサブ職業にするのが定番である。これらのサブ職業は商取引に関するボーナスを与えたり、ノンプレイヤーキャラクターとの取引において若干の値引きを可能にするスキルが揃っているからだ。
 また、生産系のサブ職業というのも堅実な選択肢だろう。様々なアイテムを作成しての商売人プレイというのは、〈エルダー・テイル〉においてメジャーなスタイルのひとつだった。

 しかしセララがゲームを開始したときに見ていた入門サイトに寄れば、〈交易商人〉や〈会計士〉は一定の能力値が必要であり、かつクエストをこなさないと取得できないとのことだった。また生産系のサブ職業は、素材を入手するために一定の資産がないと上手に育てられないとの情報もあったのだ。

 それならば、メインである〈森呪遣い〉を多少あげて、ある程度お金を貯めてから余裕を持ってからサブ職業を再選択すればよい。どうせ品物を仕入れるにせよ、どこかで購入するにせよ、財産とメイン職業のレベルはあって邪魔になる訳ではないし……と考えて、とりあえずサブ職業の隙間を埋めるために、一番簡単そうなものを選択した結果が、〈家政婦〉なのである。

 つまり、セララが〈家政婦〉なのは、消去法的結果であって、たまたまに近い偶然だった。

(ううう~。こんな事なら、当分あげられなくても生産職つけておけば良かったぁ。〈細工師〉とか〈裁縫師〉とかぁ)
 セララはそんな事を考えながらも、テーブルをから拭きする。

 断熱材で造られた簡易住居の内部はカントリー風だ。
 正確に言うならば「風」ではなく、れっきとした木造であり、美しい木目のフローリング床に、木材はめ込みの天井、丸木作りのような壁をもっている。
 〈エッゾ帝国〉は天然資源の宝庫で、日本サーバ管理区域内では有数の鉄鉱山や林業資源を持っている設定だ。

 フローリングの床も、深い飴色の木製テーブルも〈エッゾ帝国〉の特産とも云える品で、丁寧に磨けばそれだけでつやつやと美しい輝きを放つ。

 ログハウス風簡易住居の中を、ひっつめ髪にした地味な女性……つまりセララが細々と動き回る。動きやすいネルのシャツに、デニムのパンツ。ひとつにまとめた髪。化粧っ気のない顔は、絶世の美女というわけではないが、清潔感があってぱっと見には若奥様風だ。

(で、暇すぎてついついレベルあげしちゃうのよねぇ……)

 セララがため息をついてメニューを開く。本日になってから〈家政婦〉の経験値がまた入ってしまった。サブ職業のレベルと経験値はメイン職業とは完全に独立して存在し、こちらの方がずいぶんとシンプルな構造となっている。経験値が10貯まるごとに1レベル上昇。レベル上限はおそらく90か、100。
 〈家政婦〉レベルは昨日は42だったのに、今日はもう44である。最近では毎日のように3レベルずつ上がるペースであり、驚異的だ。このままではススキノに潜伏している間に〈家政婦〉をコンプリートしてしまいかねない。

(引きこもり生活で技能カンストは勘弁して欲しいなぁ~。それはいくら何でも切ないよぉ)

 日がな一日中掃除だの洗濯だの家の用事だのをやっていれば、それはレベルも上がるだろう。しかしこれでは家政婦ではなくて、主婦ではないのか? とセララ自身思わないでもない。年頃の少女としてはそれはそれで悪い響きの言葉ではないのだが、照れくささが先に立つ。

(なんちゃってっ! なんちゃってっ! 猫の旦那様迎えて家を整える乙女だったりしちゃって。こんちきしょーぅ)

 照れくさくなってせっせと食器磨きを始めるセララ。
 時間つぶしの方法としては他人に迷惑も掛けないし、客観的に見れば平和な光景ではある。

 驚異的な速度で成長を続けるセララのサブ職業だが、全てのサブ職業がそうだという訳ではない。

 たとえば〈鍛治屋〉などは育てるのが難しく、レベル90にするためには非常な労苦を伴う。〈エルダー・テイル〉時代、その苦しみは「あれはマゾだけがやる職だ」と云われていたほどだ。

 一般的に云って、生産系のサブ職業は、その職業がターゲットとするアイテムを生産することによって経験値を得る。
 たとえば〈料理人〉であれば食料アイテムを、〈木工職人〉であれば木製の楽器や武具、弓などを作ることによってレベルが上がってゆくのだ。そしてレベルが上がるごとに新しい「レシピ」を覚えて、それにより生産可能なアイテムのレパートリーが増えていくという構造を基本としている。
 しかし、生産アイテムを作ると云うことは、その原材料となる素材アイテムが必要だ。
 素材となるアイテムの種類は当然生産職の種類によって異なるが、いずれにせよアイテムを作る場合、素材アイテムを自分で集めるか、マーケットなどで買い求めるという行程が必要不可欠になる。
 レベルを上げるためには簡単なアイテムばかりを作っていても駄目で、自分の現在のサブ職業レベルに相応しいアイテムを作成し続けないと経験値は得られない。そして当然だが、高レベルのアイテムを作るためには、より高レベルの、そして多くの原材料を必要とする。

 〈鍛治屋〉の場合、レベルが80のアイテムを作ろうと思ったら、青玉鉱石や高純度炎石、妖精銀や紫苑鋼が必要になる。これらはいずれも強力な敵が出現するゾーンで算出する鉱山系資源だ。
 こういった原材料が、鎧ひと揃い作るにしても相当な量必要になり、その鎧を100単位で作らないとレベルが上がらない。
 それが「〈鍛治屋〉はマゾ職業」と云われる由縁だった。

 そこへ行くと〈家政婦〉は原材料が要らない分、レベルを上げるのは楽である。もちろんそのぶん作業時間は掛かるのだが。

「セララさん、かえりましたにゃ」
 ドアを開けて一人の奇妙な男が帰ってくる。

 このゾーンは独立していて月極で借りているために、登録者以外は侵入出来ない。セララが考えたとおり、入って来たのは痩せた体型の一人の〈猫人族〉だった。

 ほっそりした身体を、緑のコーデュロイジャケットに包んだ姿は絵本に出てくる中世の銃士のよう。手足が長く細いために、余計にすらりとした印象を与える。変わっているのはその頭部で、なかなかに落ち着いた凛々しいナイスミドルなのだが、頬には髭と、頭の上に猫耳がついている。

 彼のなまえはにゃん太。
 〈エルダー・テイル〉でプレイヤーが選べる八種類の種族のうち、猫族の特徴を備えた亜人種〈猫人族〉だ。

「おかえりなさい、にゃん太さん」
 セララはぴょこんと頭を下げる。
「街は、どうでした?」

 にゃん太はちょっと首をかしげて曖昧に笑う。いつでも細められて糸のようになった瞳は日だまりの猫のようで安心感を与えてくれるけれど、細かい表情はセララには判りづらい。

「相変わらずですにゃ。良くもなく、悪くもなく」
 その言葉にセララの表情が曇る。にゃん太は「悪くもなく」と云ってくれるが、良くなっていないのならば悪いままなのだろう。ススキノの治安は悪化の一途を辿っている。人口が少ないために自浄作用が機能していないのだ。現在のススキノの街は、弱肉強食の国である。

 その原因の大きな部分は、〈ブリガンディア〉と呼ばれるひとつのギルドだ。〈エルダー・テイル〉がゲームであった頃から評判の良くなかったこのギルドは、アキバの街やミナミから放逐された悪評の高いプレイヤーが寄り集まって作った所帯だった。
 利益優先でかなり強引なプレイを行なっていたこの集団は〈大災害〉以降、あっという間に殆ど本物の野盗集団と化してしまったのだ。

 PKなどは日常茶飯事で、場合によってはPKで得られるアイテムの半分だけでは飽きたらず、脅迫や粘着行為によって他のプレイヤーから多くの金品を巻き上げるに至っている。

 彼らの悪行はプレイヤーばかりか、ノンプレイヤーキャラクターにも及んだ。

 一般にノンプレイヤーキャラクターは様々な意味で、プレイヤーからのその種の行為を受ける理由がない。たとえば戦闘行為禁止区域を守るための衛兵は戦闘能力もレベルも高く、通常のプレイヤーから攻撃を受けても簡単に撃退してしまう。
 また、フィールドゾーンにいるノンプレイヤーキャラクター、旅商人や郊外の農民、冒険のヒントをくれる住民などは、戦闘能力も低く自衛能力を持たないが、逆にプレイヤーのような財産を持たない。
 また、中にはクエストのヒントをくれる存在も居るために、普通のプレイヤーであれば、ノンプレイヤーキャラクターを攻撃しようとは、なかなかに思わないはずだったのだ。

 しかし、彼らはそう言ったことを意に介さず、しかもノンプレイヤーキャラクターの財産の無ささえも無意味化するような行為――それ自体を商品化する、すなわち「奴隷商」を始めたのだ。

 〈エルダー・テイル〉においても、プレイヤーはノンプレイヤーキャラクターを雇用することが出来た。それには様々な用途があるが、一番一般的な用途は、住居の管理だ。住居を購入できる〈エルダー・テイル〉において、自分の住居を清掃管理する人材は一定の需要があった。
 またある種の特殊技能を持つノンプレイヤーキャラクターは戦闘にこそ連れてはいけないが、ギルド活動などにおいては有用な場合もある。こうしたノンプレイヤーキャラクターを雇用するというのは、けして珍しい話ではなかった。

 セララの持っているサブ職業〈家政婦〉がマイナーである理由のひとつは、ノンプレイヤーキャラクターによって代替えできる仕事だというものだ。
 たとえば〈メイド〉のノンプレイヤーキャラクターを雇えば、月に金貨800枚ほどで、小規模の屋敷までならいつでも綺麗に整えておいて貰えるのだ。〈家政婦〉をあげようとするプレイヤーが減るのも納得というものである。

 当然ながら〈エルダー・テイル〉はどこまで行っても良くできたオンラインRPGにすぎない。〈メイド〉や〈採取人〉、〈助手〉などの少数で例外的なノンプレイヤーキャラクターは特殊な能力でプレイヤーを助けてくれるが、それ以外のごく一般的なノンプレイヤーキャラクターの能力は限定的だ。
 姿形こそプレイヤーと同じモデルを使用しているが、コミュニケーション能力はちょっとしたAIでしかなく、設定されたキーワードの情報をくれるか、選択式の会話が出来る程度でしかない。つまり「襲うほどの価値はない」はずだった。

 しかし、〈大災害〉が様々な常識を打ち壊してしまった。
 ゲームは現実となり、日常は悪夢となったのだ。

 〈大災害〉以降、大きな変化を遂げた点は星の数こそあるが、ノンプレイヤーキャラクターの変化は目を瞠るほどだった。今や彼らは、この世界において血肉を備えた実在の存在だ。

 会話能力も行動能力もプレイヤーとほぼ遜色はない。
 もちろん設定されていない限り、戦闘能力や専門的な能力はプレイヤーに大きく劣るが、メニュー画面で確認しない限り、会話しているだけでは相手がプレイヤーなのかノンプレイヤーキャラクターなのか判らないこともしばしばだった。

 ノンプレイヤーキャラクターの数が爆発的に増えたという点もある。おそらくそれは、ゲーム時代、ノンプレイヤーキャラクターは睡眠も休息も必要としなかった事に起因するのだろう。今ではノンプレイヤーキャラクターも睡眠や休息、食事を必要とするようだ。そのために、交代要員としての人数が世界に追加されたような印象をセララは感じていた。

 ノンプレイヤーキャラクターが限りなく人間に近づいたこと。そして数が増えたこと。この二点が、〈ブリガンティア〉のような悪辣なギルドの目の前に熟れた餌のようにぶら下げられたとき、「娯楽としての人身売買」なるものがこの世に生まれてしまったのだ。

 もちろん、二千人しか人口の居ないこのススキノにおいて巨大な市場があるはずもない。それは経済活動の戯画化された醜い似姿であり、利潤を求めての行動ではなかった。

 ノンプレイヤーキャラクター狩り――質の悪いことにそれさえも暇つぶしなのだ。

 そしてあらゆる愚行と同じくそれはエスカレートして、ノンプレイヤーキャラクターに対する虐待や搾取は、現実の女性プレイヤーであるセララにも向けられた。

 そのことを思い出すと、セララは自分から血の気が引いていくのが判る。目の前に薄暗くなるヴェールが降りて行き、はっきりと体温が低下してゆくのだ。
 目の前の男性、にゃん太が助けてくれなかったら酷い目にあっていたと思う。

「まぁ、まぁ。セララさん。そう考え込まずに。そんにゃに思い詰めていたらあっという間に老け込んでしまいますにゃ」
 にゃん太はそういうと、セララの目の前で手のひらをひらひらと振る。
「そう言うときは深く考えずに、果物でも食べると良いのですにゃー。……はいどうぞ」
 小さく頷いたセララに林檎を渡してくれる。
 赤いその果実からは甘やかな香りが漂ってきて、セララはほっとする。

「今日もおうちは綺麗ですにゃ。セララさんはきっと良いお嫁さんになりますにゃ~」
「そんな事はないですっ。はい」

 ダイニングキッチンのテーブルから椅子をひき、そこに座ったにゃん太はのんびりとそんな感想を漏らす。その言葉に、セララは下がりきっていた体温が上昇するのを感じる。

 にゃん太本人は自分のことを「年寄り」だと云う。
 たしかに声の感じからして、セララより遙かに年上だろう。高校二年の自分より、二倍以上であってもおかしくないとセララは思っている。
 だからといって、本人が言うような「年配」という感じはまったくしない。一度そう本人に言ったら「それはゲーム世界のグラフィックのせいですにゃ」と返されたが、セララはまったくそう思わない。

(にゃん太さんは、きっと、あれだ……。美中年だ。スマートだし、格好良いし、大人だしっ。爽やかだしっ)

 にゃん太は頼りがいのある大人の男性という感じだ。まったく荒ぶったところがないのに、一緒にいれば守って貰えるという不思議な安心感がある。銀色の房が混じった黒髪も、高級な猫のようでとても素敵だし、細い身体も格好良い。

(にゃん太さんはとてもスマートだから、一緒にいるとあたしは太めに見えちゃうのよねぇ。そこだけが困る。……ちょっとぷよちゃんだからなぁ、あたし……)

 客観的に見れば、女性らしい体型と云うだけのセララだが、にゃん太を見るとそんないじけた気持ちにもなってしまうようだ。
 にゃん太の方はと云えば、身体のパーツのあちこちが、実際はそうでないにしろ、印象で云えば鉛筆で構成されたようなイメージである。

「お迎えのほうはどうですにゃ?」
 にゃん太は買ってきた荷物をダイニングテーブルの上で整理しながら尋ねてくる。セララの所属ギルド、〈三日月同盟〉から依頼を受けた三人の救助部隊が、アキバの街からこのススキノに向かってきているというのは、セララもにゃん太も知る、最近の共通の話題である。

 その速度はすばらしく、〈ブリガンディア〉の悪党達からセララをかばって逃げてくれたベテランプレイヤーであるにゃん太も感心していたほどだ。彼らと直接連絡は取れないが、〈三日月同盟〉のギルドマスター、マリエールから届く毎日数回の連絡で、セララはおおよその位置を掴んでいる。

「はい、もう少しです。明日の昼前には到着だろうって云ってました」
 セララは報告する。
 救出部隊が到着すれば自分はアキバの街に帰る。何時までもこんなススキノの街にいる訳にはいかない。

 しかしにゃん太はどうするのか? それを聞くことを、セララはまだ出来ないで居た。
 善意で助けてくれただけのにゃん太にどこまで望んで良いかセララには判らない。本当はとっくに返しきれないほどの恩を受けているような気もするのだが、それを言う度に「若人を助けるのが年長者の義務であり喜びなのですにゃ」と笑っていなされてしまう。

(そう言ってくれるのは嬉しいけど……。やっぱりそれって子供扱いなんだよねぇ……)

「ではもうちょっとの辛抱ですにゃ。こんな狭い家に閉じ込められて、セララさんもさぞや窮屈だと思いますが、もうちょっと頑張りましょう。大丈夫、ちゃぁんと助かりますから」

 にゃん太の微笑みにセララはまたしても問いかけるチャンスを失ってしまった。

 ◆

 そしてまた昼と夜が過ぎ。
 シロエ達は予定通りススキノの街へとは十数分というところで偵察用のキャンプを築いていた。

 ススキノの街は、フィールドゾーン〈エッゾの帝都〉に存在する、市街ゾーンだ。〈エッゾの帝都〉は旧世界の札幌に当たる地域なのだが、現在ではフィールドゾーンとして設定されている。
 多くのノンプレイヤーキャラクターが暮らす、農業地域を含む城塞都市としてのエリアだ。

 シロエは慎重を期して人目につかない倒壊した家屋を郊外に見つけると、そこに一旦落ち着いてススキノゾーンの出入り口をチェックする。

「今のところ、警戒すべきところはないな。主君」
「だけど、やっぱうろんな雰囲気だぜ。活気がねぇ」
 二人の言葉に頷いたシロエは、懐から取り出した紙に、簡単にススキノの構造を書き込んでゆく。

「ススキノの街は、メインストリートを中心にしてる。……こんな感じ。繁華街は東側を通っている。中心となる広場は、東側の、ここ。僕たちは……」矢印を書き込むシロエ。「――西側から侵入する」

「街の外で待ち合わせではまずいのか?」
「それは下策だな。ちみっこ」
「そうなのか? えろ直継」
 相変わらずちみっこ、エロと言い合う二人をいまばかりは窘めて、シロエが解説する。

「僕らの所属都市はアキバだ。最後に立ち寄った都市がアキバだから。……だから僕たちが全滅すると、死体は一定時間たったあとに、アキバの街へと運ばれてそこで復活する。
 でも、救出対象のセララさんはそうじゃない。死んだ場合はこのススキノに戻ってくることになる。
 つまり、僕らが無事に合流を果たしたとしても、もし万が一全滅してしまった場合、僕らはアキバ、セララさんはススキノとはぐれて最初からやり直しになってしまう。それは避けたい」

「そうか。うん」
 素直に頷くアカツキ。直継は判ったかという自慢そうな表情だ。

「続いて、フォーメーションの確認。まず、アカツキ……は最初から〈隠行術〉と〈無音移動〉を使用。気配をけしてついてきてくださ」
「敬語禁止」

「うー。判った。――直継と僕、そして気配をけしたアカツキは通常通りゲートから街に侵入。合流地点の廃ビルを目指す。アカツキはどこか付近の隠れられる場所を見つけて、ビル全体を監視。トラブルがあったら僕に念話で連絡して」
 黒髪の少女は、真剣な表情でこくりと頷く。

「直継はビルの入り口付近に陣取る。出来れば通りと内側の両方が見える場所がよい。その場所で外側と内側のトラブルに備えて待機。僕はそのままビル内側に入り、セララさんと合流。速やかに連れ出して直継の処まで戻る」
「おっけー。えーっと、なんだ。協力してくれる第三者ってのはどうするんだ?」
「まだはっきりとはしないんだ。個人的には、とりあえずその人もろとも一回ススキノからは脱出しちゃおうと思う。アキバまで一緒に行くかどうかはともかくとして」
 シロエは考え込みながら言葉を続ける。

「低くない可能性として、ススキノの治安悪化の原因だって云うギルドに、セララさんはフレンド登録されていると思うんだ」
 フレンド登録は、その機能名称とは裏腹に、目の前にいるプレイヤーであれば相手の許可を得ることなく登録が出来る。そして一旦登録すれば、相手がオンラインかどうか? そして同じゾーンにいるかどうかまでは判明する。

「もしそうだとすれば、いままで隠れていた借り部屋を抜け出した時点で、同じススキノの街にいることは知られる可能性がある。追っ手が掛かる可能性は低くない。そうなる前にススキノを離れた方が良いはずだ。ゾーンをふたつやみっつも離れれば、追跡はされない……と、思う」

 この辺りは旅の間中シロエが考えてきた作戦で、スムースに説明が出来た。かなり念入りなフォーメーションを組んだのも念のためであって、トラブルが実際に起きる可能性は高くない、とシロエは思っている。
 しかし、それはススキノの問題プレイヤー組織とやらがどの程度執念深いか、悪辣なのかによる。モンスター相手の狩りと違って全滅したら街へ戻ってまたやればよい、と云う訳にはいかないのだ。

(――最悪の事なんて幾らでも起こる。こんな考えが考えすぎだとか内向的だとか言われる原因なんだろうけれど)

 取り越し苦労ならそれで何の問題もないんだけどな。そう考えているシロエに、直継とアカツキは大きく頷く。

「早ければ一時間後にはススキノをさらばだな」
「主君の作戦を支持する」

 そのほかにも細かいコールサインや、非常時の待ち合わせなどを打ち合わせて、三人はススキノの街へと向かう。

 街のゲートは青い鋼で強化された城門のようなデザインだった。
 やたらと角張った鉄の留め金が八方につきだし、威圧的な外見を持っている。
 〈エッゾ帝国〉はヒューマンの征服帝アル=ラーディルが開いた若い国家で、日本サーバの管理区域内では武力に優れた好戦的な国家と設定されていた。そのため、街の至る所には武器が掲げられ、色とりどりの旗もどこか軍国調となっている。

(やっぱりアキバとは雰囲気が違うな。ゲーム時代に来たことはあるけれど、こうやってみると印象からして段違いだ……)

 ゲームの時には背景として気にならなかった、街の装飾や匂い、細かいディテールなどのひとつひとつがシロエには新鮮だった。それは直継も同じ事らしく、ウールで作られた厚手のマントを巻き付けたまま、興味深そうに辺りを見回している。

 市街地へと向かう長い通り。
 そこには多数のノンプレイヤーキャラクターが歩いていたが、その表情はどれも覇気が無く精気にも乏しい。見かけるプレイヤーの多くも元気が無く、思い詰めたような表情の者も多い。

「やっぱ雰囲気わりぃな。住みたくねぇや」
「うん」
 周辺に聞かれないように声を潜めた直継に、シロエも同じように答える。何か手を打って改善したい気持ちはあるのだが、いまはその具体的な手段も実力もない。

 シロエは気になって何度か背後を振り返ってみるが、アカツキの気配は全くない上にどこにいるかも判らない。多分ついてきてくれているはずだとは思うが、ここまで見事に気配がないと不安にもなる。

 そうこうしているうちに、「―ラオケBOX」という壊れた看板をへばりつけたひとつの廃ビルが見えた。マリエールとの打ち合わせで確認した目印のあるビルだ。シロエは手を小さく振ってハンドサインを送ると、直継とそのビルに入ってゆく。
 あちこちにひびの入ったコンクリートは鉄骨で補強され、アキバの同じようなビルよりも状態はよい。少なくともコンクリートの強度は残っているように見える。

 直継はビルのエントランスを入るとすぐさま右に折れ、守衛室を確認。中で小さな音が聞こえるのをどこかで意識しながら、シロエは奥へと進み、階段を上って2階へと辿り着いた。

 マリエールに念話を入れ取り次いでもらうと「すぐにそこに向かう」という返事をもらう。ここまでのところ予定通りで、シロエは少しだけ安心する。ススキノの街のゾーンに入ってから6分経過。順調だ。

「あ、あのっ」
 近づいてくる二組の足音に十分余裕を持って振り返ったシロエに、回復職特有の柔らかい曲線を持った皮鎧の少女が声をかける。後ろで束ねたポニーテール。可愛らしい頬のラインと清潔感のある容姿の女の子だった。

「〈三日月同盟〉のセララですっ。今回はありがとうございます」
「って、班長じゃないすかっ!!」
 ぴょこんと頭を下げた少女には申し訳ないけれど、シロエは思わず最大級の声で突っ込みを入れてしまう。

「おやおや。誰かと思えばシロエちではないですかにゃ。道理で神速果断の救出行だと思ったのですにゃー」

 セララの背後を守るように立っていた長身の影。
 それは〈放蕩者の茶会〉で「班長」、「猫のご隠居」と呼ばれていた猫耳の〈盗剣士〉スワッシュバックラー、にゃん太だったのだ。

 ◆

 にゃん太は〈放蕩者の茶会〉でもある種独特の空気を持ったプレイヤーだった。いつでも穏やかで、淡々とした雰囲気を感じさせる、柔らかな人柄を持っていた。
 日向ぼっこをしている猫のような雰囲気とでも云えばよいのだろうか。とかくお祭り好きの多い、一歩間違えると暴走ぎみのプレイヤーが多い〈放蕩者の茶会〉では貴重な常識人だった。

 にゃん太は、本人曰く「年寄り」であり、その言葉に偽りなく大人の落ち着きを持っていた。ボイス・チャットが導入されていた〈エルダー・テイル〉において、声から年齢を推し量るのは決して不可能ではない。
 年寄りと言い張るにゃん太の年齢は、声からして50と云うことはないように思えた。いって40代。渋い30代。そのような推測が妥当だろう。

 もちろんネットワークゲームは若い文化だ。
 30代のプレイヤーは珍しくはないが、40代となるとぐっと減る。本人はその辺りを意識して「年寄り」と名乗っていたのかも知れないが、シロエ達周囲の認識は違った。

 この場合「大人」というのは実際の年齢とは関係ない。
 にゃん太はその性格と人生経験を感じさせる言動から、周囲に大人だと認められていたのだ。
 かといって、それは子供達が大人に持つ「自分たちの遊びを邪魔しに来る空気の読めない輩」に対する嫌悪すべき称号としての「大人」ではなく、もっと別の「振りかえるといつでも見守ってくれる相談者」としての大人であった。

 にゃん太は悩んでいる仲間や困っているメンバーの相談に乗るのを躊躇わなかった。かといって過剰に手を貸す訳でもなかったが、その穏やかな声を聞いていると、どうにもならないと思い悩んでいた問題でさえ、なんだかがんばれるような気がすると、若い仲間には尊敬を受けていたりもしたのだ。

 一部では、「班長」や「ご隠居」というあだ名をつけられていたのも、みんなの好意ゆえだった。

 〈放蕩者の茶会〉はギルドではなく、ただの集まりだった。

 そこにはギルド未所属者も多かったが、もちろん様々なギルドの所属者も居た。だが一般的に大規模で規律の取れたギルドは、加入者が部外者と深い交流を持つことを嫌う。
 それは別にゆえのない差別ではなく(もちろん差別である場合もあるのだが)、ギルド内部の人的資源の流出を恐れての事である。たとえば、ギルドの上級プレイヤーが、ギルド外の新人や他のギルドの若手を指導しているくらいならば、同じギルドの若手を指導して欲しいと思うのは当然だろう。本来ギルドは自分に足りない部分を補い合うための互助組織でもあるのだから。
 そういった観点から、〈放蕩者の茶会〉に参加するようなギルド加入者は、中小ギルドのメンバーが多かったのは必然だと云える。

 にゃん太はギルド〈猫まんま〉の所属者だった。
 とは云っても、シロエはにゃん太以外の〈猫まんま〉メンバーというものを見たことがない。中小というのも愚かな零細ギルドだった。

 そのことをシロエが尋ねたとき、にゃん太は「気に入った縁側だけど家は老朽化。そんな感じだにゃー」と笑っていた。

 そんなにゃん太だが、では〈放蕩者の茶会〉のご意見番というか、実力者であったかというと、そうでもない。むしろにゃん太は全体の方向性に自分が影響を与えるのを恐れていたようにシロエは思う。
 にゃん太もまた、物静かな態度と楽しみ方ではあったけれど、〈放蕩者の茶会〉に起きる沢山のお祭りが好きだったのではないだろうか? 彼の云うところの「若者」に混じって、それを楽しみたかったのではないか? ……シロエはそんな風に思っていた。

「あっ。えっと、すみません。セララさん。僕はシロエと云います。こっちのご隠居と知り合いです」

「そうそう、セララさん。この子はシロエちといって、とっても賢くて良い子だにゃぁ。見所のある若者なんだにゃぁ。彼が来てくれたならば今回の作戦は成功間違いなしなんだにゃー」
「とってつけたような猫語尾は健在ですね班長」
 シロエは意地悪な笑みを浮かべる。
 にゃん太のこの語尾をからかうのは、〈茶会〉時代からの彼の楽しみなのだ。

「何を言ってるのかにゃ? シロエち。これは我々猫人間の公式語尾だにゃ。にゃんとわんだふるな言語なんだろうにゃぁ」

 陽気に交わされるにゃん太とシロエの応酬に、セララは目を白黒させている。それでもなんとか気を取り直したように「二人はお知り合いなんですか?」と尋ねることに成功した。

「わりと知り合いだにゃぁ。昔はシロエちに蚤取りをお願いしてたにゃ」
「そんな事をした覚えはありません」
 蚤取りだったら私がしたいのに、とも言い出せないセララは二人の言葉に黙って頷くことしかできない。

「シロエちが来たということは……あとの二人は?」
「直継とアカツキという娘です。腕は良いです。〈暗殺者〉アサシンで90。連携訓練は約三週間で160単位」

「直継っちも来てるですかにゃ。それに新しい仲間ですかにゃ? ……良いことですにゃ。シロエちも、そういう時期ですにゃ」
 いつも微笑んだように眼を細めているにゃん太は、わずかにその笑みを深めてシロエを見る。

「にゃん太班長……〈猫まんま〉は?」
「風雪に耐えかねて母屋が倒壊したにゃ。我が輩も、このススキノの地を離れてアキバへと赴けという思し召しかも知れないにゃぁ」

「それは……。あ、まって」
 寂しさよりも透明さを漂わせるにゃん太の言葉。その意味を問い直そうとしたシロエの耳元で、鈴の音に似た柔らかい音がする。

『ビルに接近する集団有り。柄はかなり悪い。おそらく〈武闘家〉モンクを筆頭に武器職3、回復職2。パーティー編成をしているものと思われる。街路を広く半包囲しながら接近中、接触まで最短2分』
 簡潔で要点を得たアカツキの念話に、シロエの頭は先ほど描いたススキノの市街図を想起する。

「こっちに向かってくる集団を発見しました。〈武闘家〉を筆頭にした6人パーティー。心当たりは?」
「それはっ」
「おそらく〈ブリガンティア〉のリーダー、デミクァスだにゃ。90レベルの〈武闘家〉で仲間も同じようなレベルにゃ。……今回の事件の首謀者。つまり敵だにゃ」
 にゃん太ははっきりと「敵」という言葉を使った。
 ゲームでは他のプレイヤーに対して使ったことのない言葉を、躊躇いなく言い切ったにゃん太に、シロエの覚悟も決まる。

「このビルに裏口は? 必要があれば突破します」