王政復古

王政復古(日本) おうせいふっこ

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 一般には,政権が朝廷に帰った事象をさす。したがって,建武の新政も王政復古ということになる。だが王政復古という時には,1867年(慶応3)12月9日の政変をさす場合が多い。
 幕末,尊王論の隆盛に伴って,王政復古が叫ばれるようになった。だが一口に王政復古といっても,古代律令国家の再現がなるわけではない。ここに,王政復古の内容について,種々な構想が生まれることになる。そのうちで,主潮的だったのが,大政奉還を前提とする諸侯会議の構想であった。幕府は,全国統治の権能というべき大政を朝廷に奉還する。その限りで,王政復古である。そして,その王政の実質的な運営は,諸侯会議がこれに当たるという構想である。

 1867年10月14日,土佐藩の建白を容れた将軍徳川慶喜は,大政奉還の上書を提出,翌日,朝廷はこれを許可した。同日,諸侯上洛令が下された。諸侯会議開催のためである。だが,諸侯の多くは上洛しなかった。大政奉還ののちには,以前にもました混迷した政局が到来したわけである。

 こうした状況のなかで,西郷隆盛や大久保利通など,武力派と呼ばれる集団は討幕挙兵を意図した。この年9月20日,薩長2藩は挙兵討幕の盟約を締結,ついで討幕の密勅を得た。薩摩藩兵が入洛し,10月29日,長州藩兵が西宮に進駐した。薩長討幕派は,幕府打倒の政変を画策した。12月8日,長州藩の処遇について朝廷会議が開かれた。この会議で,藩主毛利敬親・定広父子の官位復旧を認め,長州藩兵の入洛を許可した。同時に,三条実美・岩倉具視らの廷臣たちの罪を許した。会議が散会となったのは9日の早朝,その直後,薩摩・土佐・安芸・尾張・越前の5藩兵が宮中に通じる門を固め,その中で王政復古の大号令が発せられた。

 王政復古の大号令は,まず,旧制度廃絶を宣言する。摂政・関白・五摂家・議奏・武家伝奏などの朝廷の官職,および幕府・京都守護職・京都所司代が廃され,総裁・議定・参与の三職が新設された。総裁は有栖川宮熾仁親王,議定は討幕派の廷臣と政変に参加した5藩の藩主もしくは前藩主と討幕派の廷臣である。この日の夜,宮中内の小御所において三職会議が開かれた。議題は徳川家の処遇である。山内豊信や松平慶永ら大政奉還を支持した者(公議政体派)は,慶喜の新政府参加を主張し,これに対して,岩倉・大久保らの武力討幕派は,その前提として,辞官・納地を命ずることを提言した。辞官とは,慶喜の官位を下げることであり,納地とは,徳川直轄領のうちより200万石相当を新政府に提出することである。会議は辞官・納地を決定し,徳川慶勝・松平慶永に命じて,これを徳川慶喜に伝えさせた。

 12月12日,徳川慶喜は二条城を去って大坂城に入った。以来,京都の新政府と大坂の旧幕府との間に,辞官・納地問題をめぐっての交渉がつづくことになる。この間,政情は討幕派にしだいに不利であった。新政府内部では,公議政体派の勢力が強くなり,徳川慶喜を新政府に迎える工作は成功するかのようであった。江戸での薩摩藩邸焼討の報が大坂に届いたのは,12月28日であった。薩摩藩の江戸撹乱工作に激昂した旧幕勢力は武力上洛を決意した。1868年正月1日,徳川慶喜は討薩の表を草し,翌2日,旧幕府軍は北上を開始した。3日,薩長土の3藩兵よりなる新政府軍と旧幕府軍とが戦闘に入った。戊辰戦争の開始である。この戦争のなかで武力討幕派の指導力は強化され,王政復古の具体的内容ともいうべき新たな国家構築が進められる