1948 | 9 | | 大韓民国(韓国)の成立を宣言に対抗してソビエト連邦占領下の北部、金日成(???)が朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)の成立を宣言する。間もなく、米ソ両軍は朝鮮半島から撤収し、韓国・北朝鮮の双方はそれぞれの路線で国としての体裁を整えていくことになる。(東アジア-朝鮮、北朝鮮-) | |
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- -999999 年
- お隣の国、韓国、北朝鮮(朝鮮半島)の歴史について簡単に学んでみましょう。 海を隔ててすぐ隣にある朝鮮半島。そこに住む人々はどんな歴史をたどってきたのでしょうか? 時代の流れがわかるようになるべく順を追って読んでいってね。
日本と韓国の間には過去の不幸な歴史がある。たとえ観光旅行であっても訪問地に関する最小限の知識は身に付けておきたいものである。
- -700000 年
- 先史時代
- -700000 年
- RIGHT:旧石器文化 数十万年前
- -700000 年
- 約70万年前 旧石器人の登場
韓半島とその周辺には、約70万年前前から人類が定住し始めたとされています。 旧石器時代の人々は、初めは石をそのまま使用したが、徐々に用途に応じ様々な打製石器をつくった。 獣や魚を捕まえ、植物の実や根を採集し、季節により移動生活をしながら、洞窟や海岸に仮小屋を建てて暮らした。 民族はモンゴル人種に属し、アルタイ語族に属すると考えられる。
- -500000 年
- 旧石器文化時代(約50~10万年前)
- -500000 年
- 約50万年前 洞窟や岩陰、川端に集団で居住。 狩猟と植物採取で生活。
- -8000 年
- 新石器時代の始まり
新石器時代 この頃から新石器時代が始まり、磨製石器と釣り針、針などの骨器、そして櫛目文土器が広く使われた。 新石器時代の人々は竪穴式住居に住み、同じ血筋の氏族が集まり付属をつくり、定住、農耕生活を始めた。
- -5000 年
- 新石器時代早期 -5000-4000
- -5000 年
- 櫛目文土器が広がる BC5000年頃
- -5000 年
- RIGHT:縄文式文化 BC5000年頃
- -4000 年
- 新石器時代前期 -4000-3000
- -4000 年
- 新石器時代(櫛目文土器時代/侯目文土器)-4000(もしくは-5000) -1000年
- -3000 年
- 新石器時代中期 -3000-2000
- -2333 年
- 古朝鮮時代[BC2333-BC108]
檀君朝鮮[BC2333年ごろ~]
- -2333 年
- 壇君王倹,阿斯達に都を開く.古朝鮮建国 檀君朝鮮(檀君神話)(三国遺事)
古朝鮮時代 朝鮮半島の歴史は、BC2333年の檀君(だんくん・タングン)による建国神話からはじまり、 一般的に前漢武帝に侵攻を受ける以前の、檀君朝鮮からはじまって、次の箕子(きし・キジャ)朝鮮を経て、衛氏(えいし・ウィシ)朝鮮までの三王朝を、古朝鮮時代と呼び、BC108年、漢の武帝に征服される。檀君と箕子は、神であり人間である神話・伝説の世界の歴史である。支配地域は大同江から北西の地域。 檀君朝鮮 まず、檀君朝鮮。これは、ほとんど神話のようなお話で実在したかどうかはかなり怪しい・・・。朝鮮民族の始祖とされる檀君という神話上の人物がBC2333年に阿斯達(アサダル、現在の平壌)を都とし朝鮮最初の王国を建国したとされている。国の名称を朝鮮とし、この時代を檀君朝鮮と呼び、1500年続く、神話・伝説の王朝である。その後、いくつかの部族が満州南部地域から朝鮮半島に移動し、檀君が1908歳のとき、国を箕子に譲り、自身は神になって、山に入って行った。
- -2000 年
- 新石器時代晩期 -2000-1000
- -2000 年
- BC2000 あわ、きび、ひえなどを栽培。
- -1500 年
- -1500年ごろ、中国より農耕伝わる。
- -1300 年
- BC1300年頃 無文土器が作られる。
- -1122 年
- 箕子朝鮮[-1122 -194]
- -1122 年
- 中国の殷(いん)の賢人、箕子が、箕子朝鮮を建国する。
箕子朝鮮(?~BC194) 中国の殷(いん)の賢人、箕子(キジャ)が、檀君の王位を継ぎ、箕子(キジャ)朝鮮を建国する。首都は平壌である。 箕子朝鮮は、BC194年まで、40世あまり続くことになるが、檀君朝鮮同様、神話・伝説の時代である。 BC4世紀満州遼寧を中心に、満州と朝鮮半島をつなぐ広い地域を統治する国家に発展した。 鉄器が普及し始めた。?~BC194年に登場するのが箕子(きし)朝鮮。この王朝に関しても、まだ実在の確認はされていませんが「史記」や「漢書」によれば、殷の箕子が建国したということになっています。 :BC194年 衛満の執権 西方地地方で勢力を養った衞満が準王を追い出し古朝鮮の王となった。(BC194年) この時期鉄器文化が広がり、また、韓半島南部地方の辰の諸国は漢との中継貿易で強国となった。
- -1000 年
- 無文土器時代[-1000年頃 -100年]
無文土器時代前期(-1000 -700)
- -1000 年
- BC10世紀頃 韓半島ではこの頃、青銅器時代が始まり、支配階級の武器や装飾品として用いられた。
アワ、ムギ、ダイズ、イネが栽培された。 青銅器の武器を使用し他の部族を制服するなど勢力を拡張していった。 一部の地域で稲作。? 竪穴式住居。 青銅器文化の展開 ・ 古朝鮮の発展 青銅器文化が始まる。BC1000年頃 水稲栽培始まる。BC10~8世紀頃
- -800 年
- BC800年頃 古朝鮮の実在節有り
- -700 年
- 無文土器時代中期(-700-300)
- -700 年
- -700年ごろ、青銅器伝わる。
水稲栽培はじまる
- -400 年
- 箕子朝鮮(BC4世紀~BC194年)
- -400 年
- BC400年頃 鉄器文化が普及する。
- -400 年
- RIGHT:鉄器文化が普及する。 BC400年頃
- -300 年
- 無文土器時代後期(-300-100)(初期鉄器時代)
- -300 年
- -300年ごろ、鉄器伝わる。
鉄器文化の普及.農業発達
- -195 年
- 衛氏朝鮮[BC195年ごろ~BC108年]
- -195 年
- 中国の燕から亡命してきた衛満によって、衛氏朝鮮建国。
- -195 年
- 中国の燕から亡命してきた衛満によって、箕子子孫から王権を奪い、衛氏朝鮮を建国し、首都を平壌におく。歴史的に検証可能な最初の国家であると、されている。 もともと、朝鮮半島は、中国の燕の支配下にあったものだが、その後、衛氏朝鮮が独立国家としての振る舞いを強め、漢の意のままにならないことが、武帝の逆鱗にふれ、BC108年、遠征により滅ぼされることになった。 衛氏朝鮮は、約90年続いたことになる。
- -195 年
- 衛氏朝鮮
燕人の国 BC195年ごろ~BC108年 そして、いよいよ実在が確認されている衛氏(えいし)朝鮮が登場します。衛氏朝鮮は、中国の燕から亡命した、衛満(えいまん)によって建国されました。史記によれば、朝鮮は戦国の7雄の一つ燕の支配下に入っていた。燕が秦に滅ぼされ、漢が中国を統一すると漢が朝鮮を支配した。漢の高祖(劉邦)は仲のよかった盧綰(ろわん)を燕王に封じるが、その後対立して盧綰は匈奴に亡命する。そして、その家臣衛満は千人余りを従えて朝鮮に入り、王険城(平壌)を首都として衛氏朝鮮を建国した。 BC195年頃のことである。衛満古朝鮮の王になる。王都は王険城。 :BC108年 古朝鮮(衛満朝鮮=衛氏朝鮮)の滅亡。しかし、衛氏朝鮮は独立国家として振舞うが、前漢の武帝(ぶてい)によって滅ぼされ、朝鮮半島の大部分は漢の直轄地となった。そこには楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の四郡が設置された。その後、真番・臨屯が楽浪郡に併合され、玄菟郡も遼東半島に移転した。後漢末期になると、遼東半島で台頭した公孫氏が楽浪郡を支配し、その南に帯方郡を設置した。BC108年頃、前漢、衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡など四郡を設置。
- -194 年
- 衛満,王倹城に攻め入り,準王を追放して古朝鮮の王となる
- -194 年
- 衛満の執権
西方地地方で勢力を養った衞満が準王を追い出し古朝鮮の王となった。(BC194年) この時期鉄器文化が広がり、また、韓半島南部地方の辰の諸国は漢との中継貿易で強国となった。
- -108 年
- 原三国時代(BC108 - 4世紀中葉)
- -108 年
- 衛氏朝鮮が滅亡すると、漢は、ここに、楽浪(らくろう)郡、真番郡、臨屯郡、および玄菟(げんと)郡の4つの郡をおき、直轄地として支配することになる。 この直轄支配は、約400年続いた。
- -108 年
- 前漢の武帝により,衛氏朝鮮滅亡
前漢,楽浪郡など郡県設置.地域土着民の反発を受ける
- -108 年
- 朝鮮半島、中国支配の始まり(BC108ー313)
紀元前108年に前漢の武帝(ぶてい)によって、衛氏朝鮮が滅ぼされると朝鮮半島の大部分は中国王朝の支配下に入ることになります。そこで武帝は征服した地を4つに分け漢四郡設置します。 &ref(): File not found: "image121.jpg" at page "んん"; この前漢はやがて衰退していき、継ぐ新(しん)そして、後漢も西に進出したり、北からの脅威に備えたりで、徐々に朝鮮への支配は弱まっていきます。 そして、3世紀になると(文章にしてしまえば、短いですがBC108年からですからかなり長い年月が経ってますよぉ)、豪族の公孫氏(こうそんし)が朝鮮半島支配に動き出しました。 この公孫氏は、本来は魏王朝から遼東地方の支配を任されていた豪族。 &ref(): File not found: "image19.jpg" at page "んん"; しかし、この頃の中国は、あの有名な三国志の時代です。激しい戦乱の中、こっそり魏の目を盗んで朝鮮半島の中国勢力の拠点である楽浪郡を裂いて帯方郡(たいほうぐん)を設置してしまいました。 ですが、この公孫氏も238年には魏によって滅ぼされてしまいます。
- -100 年
- 三国時代
BC100年頃 中国の漢が、朝鮮半島北部に4つの郡をおいて支配していたころ、半島南部では、3つの部族国家・三韓が興る。 三韓とは、馬韓(マハン)、弁韓(ピョオナン)、それに辰韓(ジナン)の3つである。 馬韓では、54の小国があったが、やがて伯済(ペクジェ)が強くなり、後に百済(ペクチェ)になる。 弁韓には、12の小国があり、やがて伽耶(カヤ)になるが、それも後に新羅に吸収された。 辰韓は、12の小国からなり、やがて斯蘆(サロ)が強くなり、後に新羅(シルラ)になる。
- -57 年
- 第1代 新羅王 赫居世西干(BC57~AD4)
- -57 年
- 朴赫居世、徐羅伐(後の新羅)建国
辰韓の斯蘆国で赫居世(ヒョッコセイ)を王として、新羅を建国する。国号は、徐羅伐(ソラブゥォル)とした。その後、国名は鶏林と変わり、新羅となるのは、503年になってからである。
- -57 年
- 三国時代(BC57ー676)
韓半島とアジアの北東地域を中心に4世紀初め頃から7世紀中頃まで高句麗・百済・新羅が互いに争っていた時代を三国時代といいます。BC57年 辰韓の斯蘆国で赫居世(ヒョッコセイ)を王として、新羅を建国する。(「三国史記」)国号は、徐羅伐(ソラブゥォル)とした。その後、国名は鶏林と変わり、新羅となるのは、503年になってからである。 #style(class=box_black_swm){{ 新羅(356ー935) 新羅は三国時代の古代国家のひとつで、韓半島南部を拠点とし繁栄しました。BC57年からAD935年までの992年間国を守り、7世紀中頃に唐と連合し百済と高句麗を破り三国を統一しました。その後、唐は連合国から侵略国へと立場を変えました。これにより新羅は高句麗、百済からの流民と力を合わせ、唐の侵略勢力を抑え大同江~元山湾以南に韓国の歴史上最初の単一民族統一国家を建国しました。 }} :BC37年 一方、この頃中国北東部には、扶余(プヨ)という国が興り、半島の北部には、高句麗(コグリョ)が興って、(「三国遺事」)それぞれ、成長していく。高句麗は、扶余から南下してきた朱蒙(チュモン)が、BC37年に建国した国だとされている。 #style(class=box_black_swm){{ 高句麗(BC37ー668) 高句麗は韓半島の古代国家のうちのひとつで、百済・新羅と合わせた三国の中で最も大きな領土を有している国でした 。BC37年に建国され、韓半島の北部と南満州一帯を拠点とし繁栄しました。中国の諸王朝とも熾烈に争い領土を広げていきましたが、AD668年に新羅と唐の連合軍との争いにより滅亡しました。 }} :BC18年 高句麗の始祖である朱蒙の3人の子供のうち、沸流(ふつりゅう)と温祚(おんそ)が高句麗を出て、南に向かい、馬韓の伯済を中心に小国をまとめ、百済を建国する。(「三国史記」) RIGHT:倭の奴国王、光武帝より金印を贈られる 57年 RIGHT:倭の女王卑弥呼、魏に使いを送る 239年 :150年頃 馬韓、弁韓、辰韓の勢力が大きくなる :205年 後漢が帯方郡を設置 :209年 高句麗、国内城を郡に定める :313年 中国の漢が、半島北部に設置して支配下においた楽浪など4郡が、高句麗によって、滅ぼされる。これにより、中国からの支配を追放することになる。 :313年 高句麗、楽浪郡、帯方郡を滅亡させる :342年 前燕、高句麗を攻略 :346年 百済、建国。 #style(class=box_black_swm){{ 百済(346ー660) 百済は三国時代の古代国家のひとつで、BC18年からAD660年まで国を守りました。高句麗の王族である温祚が韓半島の西南部に建国しました。洗練された発展した文化が花開き、特に日本に多くの影響を与えました。AD660年に新羅と唐の連合軍により滅ぼされました。
- -50 年
- 倭人達が兵を率いて新羅の辺境を侵そうとしたが、始祖に神徳があるということ聞いて、すぐに帰ってしまった。
- -37 年
- 高句麗の建国
- -37 年
- BC37年 高句麗の建国(-百済)
第1代 高句麗王 東明聖王(BC37~BC19) 朱蒙,卒本地方(現在の中国の桓仁)に高句麗建国 高句麗 一方、この頃中国北東部には、扶余(プヨ)という国が興り、半島の北部には、高句麗(コグリョ)が興って、それぞれ、成長していく。高句麗は、扶余から南下してきた朱蒙(チュモン)が、BC37年に建国した国だとされている。
- -20 年
- 春二月に、倭人の瓠公を馬韓に派遣して、外交関係を結ぼうとした。
- -19 年
- 朱蒙亡くなる.嫡子の琉璃後継
- -18 年
- 建国神話 (前18年~) (-百済)
- -18 年
- 十済(後の百済)建国
- -18 年
- 高句麗、新羅とともに韓国の三国時代を築いた百済。
倭国との関わりも深く、唐も含めて、東アジア一円の社会、文化に深く関与しています。 その歴史を紐解くことで、旅行の楽しみも倍増!まずは、百済の歴史を旅してみましょう。 百済(くだら)は、朝鮮半島南西部を占めた古代国家。 一般的に、支配階級は北の高句麗王族と同じく、中国満州付近から出た扶余族と見られています。「隋書」百済伝には、「百済の祖先は高(句)麗国より出づる」とあり、新羅、倭国、また中国からも渡来してきた人が住み、他民族的な国家を形成していたようです。 韓国・朝鮮史上では、およそ紀元前1世紀から紀元後7世紀までの間、半島北部の「高句麗」、南東部の「新羅」、そして南部の伽耶諸国とあわせて南西部の「百済」の三国が支配していた時代を「三国時代」といいます。(-百済)
- -18 年
- 十済(前18年~)(-百済)
- -18 年
- 朱蒙の子,温柞,百済建国
高句麗の始祖である朱蒙の3人の子供のうち、沸流(ふつりゅう)と温祚(おんそ)が高句麗を出て、南に向かい、馬韓の伯済を中心に小国をまとめ、百済を建国する。
- -18 年
- 百済の建国伝説
高句麗の始祖である朱蒙(しゅもう)には3人の子があり、長男の類利(るいり)が高句麗を継いだので、弟の沸流(ふつりゅう)と温祚(おんそ)は高句麗を出て自分たちの国を建てようと南へ向かった。10人の臣下と大勢の百姓がこれに伴った。 (注:「三国史記」の別伝によると、沸流と温祚は朱蒙の実の子ではなく、朱蒙が生まれた東扶余の有力者の娘で召西奴の連れ子としている。) やがて漢山(かんざん・現在の京幾道広州郡)へたどり着き、2人は臣下とともに負児岳(ふじがく)という高い山の頂にのぼって周囲を見渡した。沸流は、海の見える方が気に入った。しかし、10人の臣下は口をそろえて反対し、「それよりも、こちらの方です。北に江が流れ、東に山をひかえ、南は平野、西は海、こんな究竟な、よい場所はありません。都はぜひ、こちらへお建てになることです。」そういって勧めたが、沸流はどうしても聞かない。百姓たちを半分にわけて、自分だけ海辺の方へ都を置くことになった。弥鄒忽(みすこつ・現在の仁川)である。弟の温祚は臣下たちの意見に従って、漢山の慰礼城(いれいじょう・現在の京畿道広州郡)に都を定めた。10人の臣下にちなんで、国の名を「十済」と呼ぶことになった。 弥鄒忽は土地が湿っているうえ水が塩辛く、百姓たちもさんざん苦労を重ねた。沸流が弟のようすを見に慰礼城へ来てみると、何の不足もなく幸せに暮らしている。自分を恥じた沸流は、それを苦にして病となり亡くなった。それで百姓たちは慰礼城へ移り、人民が増えたので、国号を「百済」に改めた。 百済は、ここから領土を広げて大きくなった。 (注:実際には、百済として大きな勢力となったのは、高句麗の建国よりも約400年のちのこととみられる。)(-百済)
- -18 年
- 第1代 百済王 温祖王(BC18~AD28)
- -18 年
- 韓国の三国史記によると、百済の建国は、紀元前18年となり、高句麗の祖である朱蒙(チュモン)の三男、温祚によって建国されたとされています。温祚は、慰礼城 (現在の広州市 南漢山城か?)に都を定め、10人の臣下にちなんで、国の名を「十済」と呼んだのが始まりとされています。
韓国の教科書でも、紀元前18年を百済建国の年として採用しているそうですが、韓国の歴史家の間では、紀元前1世紀から紀元後3世紀まで様々な説があり、日本や中国では3世紀頃の成立という見方が有力です。(-百済)
- -18 年
- 温祚王即位オンソ(扶餘王の次男とされる
慰礼城、現ソウル市付近) (百済王の尊称は於羅瑕オラカあるいは「革+建」吉支ケンキシと周書にある) (北史、隋書では遼東太守の公孫度の娘が嫁いだために東夷の強国となるとある)(-百済)
- -16 年
- 靺鞨が北部に侵入(-百済)
- -13 年
- 日食(-百済)
- -11 年
- 靺鞨が慰礼城を包囲(-百済)
- -10 年
- 神鹿を得て馬韓に送る(馬韓はソウル南方全羅南道に至る群小国家群とされる)(-百済)
- -6 年
- 東の楽浪、北の靺鞨を避けて首都を漢江南岸に移し領土を京畿平野一帯としこれを馬韓に伝える(-百済)
- -2 年
- 楽浪が侵入(-百済)
- -1 年
- 靺鞨侵入、長を捕らえ馬韓に送る(-百済)
- 4 年
- 第2代 新羅王 南解次次雄(4~24)
- 6 年
- 柵を作るも馬韓王の抗議にて撤去(-百済)
- 7 年
- 巫によって辰韓と馬韓併合の意生ずる(-百済)
- 9 年
- 馬韓を滅ぼす(-百済)
- 14 年
- 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。
- 18 年
- 第3代 高句麗王 大武神王(18~44)
- 19 年
- 第2代 高句麗王 琉璃明王(19~AD18)
干ばつ(-百済)
- 20 年
- 大壇を築いて天地を祭る(儒教の祭祀儀礼の説あり)(-百済)
- 22 年
- 靺鞨が侵入(-百済)
- 24 年
- 第3代 新羅王 儒理尼師今(24~57)
- 25 年
- 南沃沮が帰順(現江原道付近)(-百済)
- 28 年
- 第2代 百済王 多婁王(28~77)
多婁王即位タル(温祚王の子)(-百済)
- 33 年
- 国の南部に初めて稲田を作る(朝鮮での田は畑の意でこれが水田かどうかは不明)(-百済)
- 34 年
- 靺鞨が侵入(-百済)
- 36 年
- 神武36-66(-百済)
- 42 年
- 第1代 加羅王 首露王(42~199)
- 44 年
- 第4代 高句麗王 閔中王(44~48)
- 48 年
- 第5代 高句麗王 慕本王(48~53)
- 53 年
- 第6代 高句麗王 太祖大王(53~146)
高句麗、太祖王即位
- 57 年
- 第4代 新羅王 脱解尼師今(57~80)
新羅の4代王脱解即位。脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり。
- 58 年
- 倭人の瓠公、春正月に新羅の最高官位の大輔を拝命
- 63 年
- 領土を広げ新羅と交渉するも得ず(忠清北道の清州付近)(-百済)
- 64 年
- 新羅を攻撃(-百済)
- 66 年
- 綏靖66-78(-百済)
- 73 年
- 新羅、倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。
日食(-百済)
- 75 年
- 新羅を攻撃(-百済)
- 77 年
- 第3代 百済王 己婁王(77~128)
己婁王即位コル(多婁王の子)(-百済)
- 78 年
- 安寧78-92(-百済)
- 80 年
- 第5代 新羅王 婆娑尼師今(80~112)
- 85 年
- 新羅を攻撃(-百済)
- 87 年
- 日食(-百済)
- 92 年
- 日食(-百済)
懿徳92-105(-百済)
- 105 年
- 孝昭105-137(-百済)
新羅と和睦交渉(-百済)
- 108 年
- 大飢饉、人を殺して食べる(-百済)
- 112 年
- 第6代 新羅王 祇麻尼師今(112~134)
- 113 年
- 新羅に使者(-百済)
- 121 年
- 百済建国事情
建光元年(121年)秋、第7代高句麗王遂成(次大王)が馬韓と?貊の数千騎で玄菟郡治を囲んだ。扶余王は子の尉仇台を派遣し、二万余の兵を率いて州郡の軍と合力させ、これを討ち破った。 公孫度が東方地域に進出してきたので、第2代夫餘王尉仇台は、改めて遼東に服属することになった。この時期、高句麗と鮮卑が強盛であった。公孫度は、夫餘が高句麗と鮮卑にはさまれている状況から扶余と同盟を結ぶため夫餘一族の女性と結婚した。扶余は、これらの戦いの最中、故地に残留した旧扶余と公孫氏に帰属した尉仇台系扶余に分岐したのである。 このときの尉仇台系の扶余が馬韓の伯済国を支配し、後に馬韓を統一した。扶余王の尉仇台が馬韓統一の基礎を築き、その子温祚が伯済国を足場にして百済を立てた。と考えられる。古代史の復元では百済建国はAD164年である。 『宋書』『梁書』『南史』などによれば、百済は始めは高句麗と「ともに」遼東の東千里の地にあったという。この地は遼東半島周辺である。百済は当初遼東半島地域にあったと思われるが、『唐会要』百済伝に「仇台は高句麗に国を破られ 、百家で海を済(渡)る。故に百済と号する。」とあるように、国を破られて、南に移動したようである。(-百済) 新羅、夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。
- 123 年
- 新羅、春三月に倭国と講和した。
- 125 年
- 新羅に侵入した靺鞨に対し援軍を送る(-百済)
- 128 年
- 第4代 百済王 蓋婁王(128~166)
蓋婁王即位ガイル(己婁王の子)(-百済)
- 134 年
- 第7代 新羅王 逸聖尼師今(134~154)
- 137 年
- 孝安137-175(-百済)
- 146 年
- 第7代 高句麗王 次大王(146~165)
- 150 年
- 馬韓・弁韓・辰韓の勢力強くなる
- 154 年
- 第8代 新羅王 阿達羅尼師今(154~184)
- 158 年
- 新羅、倭人が交際のために訪れた。
- 163 年
- 百済の温祚即位(-百済)
- 165 年
- 第8代 高句麗王 新大王(165~179)
新羅の将軍が百済に逃亡し引き渡しをめぐって新羅と争う 日食(-百済)
- 166 年
- 第5代 百済王 肖古王(166~214)
肖古王即位ショウコ(素古、蓋婁王の子)(神功紀に引用)(-百済)
- 167 年
- 新羅を攻撃(-百済)
- 170 年
- 百済遷都
百済本紀の記録 百済本紀には遷都の状況が次のように記録されている。 温祚13年 王は臣下に対して「我が国の東には楽浪があり、北には靺鞨があって、国境を侵しているので少しも安らかな日がない。いわんや今は怪しい兆しがしばしばあらわれ、国母が世を去り情勢が安らかではないので、都を移さなければならない。私が先日漢江の南を回ってみたら、土地が肥えていたから、よろしく、そこに都を移して、永久に安全な計を諮るべきである。」 秋7月漢山の下に柵を立てて慰礼城の民を移した。8月に使者を馬韓に使わして、都を移したことを知らせ、遂に境界を定めた。北は臨津江、南は熊川、東は平康に達した。9月に都城と宮殿を立てた。翌14年春正月、都を移した。 温祚13年は古代史の復元ではAD170年に該当する。しかし、その後、楽浪や靺鞨の百済攻撃は継続している。遷都の時期が温祚13年より後ではないかと思われる。 百済は倭国や新羅と同じ半年一年暦で考えると事象の一致が見られる。高句麗は中国暦のようである。半年一年暦は倭国固有の暦なので、百済は建国当初半年一年暦を使っていたとは思われない。中国暦だったと思われる。倭国との交流が活発になってから倭国と同じ半年一年暦に変更したと思われる。温祚13年は中国干支で庚戌である。これがそのまま半年一年干支となったとすれば、AD197年が遷都の年と考えられる。これは高句麗第10代山上王が即位した年である。(-百済) 日食(-百済)
- 173 年
- 新羅、倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)
- 175 年
- 孝霊175-204(-百済)
- 179 年
- 第9代 高句麗王 故国川王(179~197)
- 184 年
- 第9代 新羅王 伐休尼師今(184~196)
- 186 年
- 百済遷都に至る情勢
公孫度は、186年、董卓が実権を握ったとき、友人であった徐栄の推挙もあって、189年、遼東太守に任じられた。遼東で勢力を拡大し、後漢が放棄した楽浪郡を支配下に置いた。遼東が都から遠く離れた地域であったため、192年、董卓が死んだ後は、公孫氏による独立国のような体制をとり、周辺に勢力を伸ばし、高句麗や烏桓を討伐した。 記録にはないが百済はこの頃、遼東にあり、公孫度の攻撃を頻繁に受けていたと思われる。これが、温祚13年の「楽浪が国境を侵している」という記事につながるのである。 百済が遷都したと思われる197年には高句麗山上王が即位しているが、王位継承をめぐって高句麗で大騒乱が起こっている。 第9代高句麗王故国川王が王子のいないままにて死去した。その王妃の于氏は初め喪を伏せたまま、すぐ下の弟である発岐に王位を継ぐことを勧めた。発岐は王の死を知らなかったために于氏の勧めが不遜であると責めたため、于氏は延優の元へ行き延優に王位に継ぐことを勧めた。延優はこれに応え、翌日早朝に延優は王位に就いた山上王である。発岐は王位に就き損ねたことを不服として、遼東太守の公孫度と結託し武力侵攻を行うが、王位簒奪に失敗した。 『唐会要』百済伝には「百済は高句麗に国を破られた」と記録されており、その年が山上王の即位年だとすると、次のような推定が成り立つ。 百済は公孫度の攻撃に破れて遼東の属国のような状態になっていた。このような時に、高句麗王子発岐が公孫度を頼ってきた。公孫度はこれを契機に高句麗を侵略しようと百済に命じて高句麗を攻撃させた。百済は公孫度の命令にやむなく従って高句麗を攻撃したが、高句麗によって公孫度と共に破れてしまった。 高句麗のこの攻撃で百済は領土を失って、遷都を決断したのではないかと推定する。遼東半島から海に逃げ、半島に沿って南下し、漢江(韓国ソウル市)付近に上陸したものと考えられる。(-百済) 百済の多婁即位(-百済)
- 188 年
- 新羅を攻撃(-百済)
- 189 年
- 日食(-百済)
- 193 年
- 新羅、倭人が大飢饉となり千余人にも及ぶ避難民到来。
- 194 年
- 高句麗,春窮期に穀物を貸し与え,秋の収穫後返済する,賑貸法実施
- 196 年
- 第10代 新羅王 奈解尼師今(196~230)
- 197 年
- 第10代 高句麗王 山上王(197~227)
- 199 年
- 第2代 加羅王 居登王(199~259)
新羅へ侵入(-百済)
- 201 年
- 新羅との衝突
百済は領地拡張する中で、新羅の領域内にも入り込む結果になり、しばしば新羅と衝突することになった。新羅は倭国領内の一領域なのであるが、次第に独立国の様相を持ち始め大和朝廷との対立がしばしば起こっていた。(-百済) 新羅はAD201年、倭人である脱解が第4代新羅王に即位し、大和朝廷との和解をはかろうと202年倭国との間で使者の交換をした。 新羅本紀脱解王3年 夏五月、倭国と国交を結び、互いに使者を交換した。 この当時卑弥呼は独自の情報網により、おそらく百済が侵入していることは知っていたと思われるが、百済の活用を考えて様子を探っていたのではあるまいか。 このような時に百済が西から新羅の国境侵犯をしてきたのである。ここで、百済と新羅の国境争いが起こった。 (-百済)
- 203 年
- 新羅本紀 脱解王5年(AD203年前半) 馬韓の将軍新羅に投降
馬韓は新羅の北西、百済の北の領域に存在した諸国の総称である。その馬韓の将軍が新羅に投降したのである。馬韓はこの頃公孫康率いる楽浪郡に攻め立てられ、楽浪郡に所属するようになった時期である。それを嫌った将軍が新羅に投降したものと考えられる。 この203年には、楽浪郡の攻撃が百済の北辺に迫っていたといえる。百済としては楽浪郡を迎え撃たなければならず、新羅と争っている余裕はなく、AD204年前半、新羅に使者を出して、新羅との間の国境を確定させようとした。それが、以下の記録である。(-百済)
- 204 年
- 百済本紀 多婁王36年(AD204年前半) 使者を新羅に派遣して会見を乞うたが聞かなかった。
新羅本紀 脱解王7年(AD204年前半) 百済王が地境を拓定するために会見を乞うたが合わなかった。 この時、脱解王は百済王に使者を出し、「その地は倭国領である。倭王卑弥呼の許可は取ってあるのか。そうでなければ倭国に滅ぼされるぞ」とでも脅しを入れたと思われる。(-百済) 孝元204-225(-百済)
- 205 年
- 倭国との交渉
百済王は早速その実態を調べたことであろう。その結果、今都としている漢江周辺は間違いなく倭国領であり、このまま放置していたのでは倭国との戦いが始まるのは確実であると思った。北から楽浪郡、南から倭国に攻められたのでは百済の滅亡は日を見るよりも明らかだった。百済の選択肢は二つだった。楽浪郡の支配下に下るか、倭国と組んで楽浪郡と対峙するかである。 焦った百済王は早速倭国との交渉に入ることにしたが、倭国とのパイプがないために、伽耶の卓淳旱岐のもとへ三人の使者を送り、倭国との橋渡しをしてもらうように頼んだのである。卓淳旱岐が倭国に使者を送り、倭王卑弥呼との連絡を取ったのである。 卑弥呼は百済からの挨拶を待っていたのである。卑弥呼の情報網により、百済は遼東を追い出されて、領地を失った国であること、楽浪郡の勢力がすぐ北まで攻め依ってきていること。新羅と対立関係にあることなどを既に知っていた。 百済を倭国領から追い出してしまえば、彼らは住むところを失うので、窮鼠猫を咬むの例えにもある通り、倭国に対して宣戦布告をしてくる可能性がある。今、倭国内は倭の大乱を終えたばかりで、安定状況になく、海外遠征での戦いは避けたい気持ちがあった。また、新羅が朝鮮半島で幅を利かせており、新羅に対抗できる国が朝鮮半島には存在していない。また、北からの楽浪郡の侵入を阻止しなければならないという思いもあった。伽耶諸国を強く育てる対策は打ったが、まだ実用段階ではなかった。 百済は新羅と対立関係にある実力を持った国なので、百済が新羅に対抗できる国となれば、新羅の朝鮮半島での横暴も抑えられると思ったのではないか。 このような思いもあって、卑弥呼は百済からの使者に会ったのである。 百済としても、倭国との交渉が決裂してこの領地を追い出されてしまえば行くところもなく、なんとか倭国に漢江周辺の地の領有を認めてもらおうと、最高の対応で礼儀正しく卑弥呼に会ったのであろう。 卑弥呼としては百済に漢江周辺の領有を任せる代わりに次のような条件を出したと思われる。 ① 毎年貢物をよこすこと。 ② 新羅に対抗し、新羅の横暴を止めること ③ 朝廷からの使者が大陸に渡る時の橋渡しをすること。 ④ 朝鮮半島や大陸の情報を知りうる限り、朝廷に伝えること。 ⑤ 楽浪郡の北からの侵入を阻止すること。 百済としては倭国と戦争したり、追い出されることに比べればたやすいことであり、百済王は承諾した。卑弥呼としても、朝廷の力で朝鮮半島の倭の領域を統治するのは大変であることと、楽浪郡や高句麗が何れ朝鮮半島に進出してきて、朝鮮半島が戦乱状態になることを予想しており、百済がその防波堤になってくれることを願っていた。AD205年を境に倭国と百済との強力な同盟関係が成立した。 三国史記・・修正年・・百済本紀・・新羅本紀 63・・204・・使者を新羅に派遣して会見を乞うたが聞かなかった・・百済王が地境を拓定するために会見を乞うた 64・・204・・蛙山城を攻めたが勝てなかった。・・百済が蛙山城・狗壌城を攻撃した。 66・・205・・蛙山城を攻めとったが暫らくして破れた・・百済が蛙山城を攻めとったが奪回した。 70・・207・・新羅を攻めた・・百済が攻めてきた。 74・・209・・新羅を攻めた・・百済が辺境を侵したのでこれを防いだ。 75・・210・・蛙山城を攻め落とした・・ 76・・210・・蛙山城を奪回された・・蛙山城を奪回した。 84・・214・・・・百済が辺境を侵した 85・・215・・新羅の辺境を侵した・・ 百済は倭国の了解のもと遠慮なく新羅と戦えるようになり、頻繁に新羅と戦うこととなった。(-百済)
- 206 年
- 後漢,公孫康が帯方郡設置
- 210 年
- 靺鞨が侵入(-百済)
- 211 年
- 百済の己婁即位(-百済)
- 212 年
- 日食(-百済)
- 214 年
- 第6代 百済王 仇首王(214~234)
仇首王即位キュウシュ(貴須、肖古王の長男 身長七尺という)(-百済) 靺鞨と戦闘(-百済)
- 216 年
- 靺鞨が侵入(-百済)
- 218 年
- 新羅を攻撃(-百済)
- 221 年
- 日食(-百済)
- 222 年
- 新羅を攻撃
日食(-百済)
- 224 年
- 新羅が侵入(-百済)
- 225 年
- 開化225-248(-百済)
- 227 年
- 第11代 高句麗王 東川王(227~248)
- 230 年
- 第11代 新羅王 助賁尼師今(230~247)
- 232 年
- 新羅、夏四月に倭人が金城を包囲。
- 233 年
- 新羅、五月 倭兵が東辺を攻めた。
- 234 年
- 第7代 百済王 古尓王(234~286)
古尓王即位コニ(蓋婁王の第2子)(-百済) 沙伴王即位サハン(仇首王の長男、幼少のため古尓王が継承)(-百済)
- 236 年
- 百済の蓋婁即位(-百済)
- 238 年
- 天地を祭るために太鼓と笛を用いる(-百済)
- 240 年
- 新羅を攻撃(-百済)
- 246 年
- 魏と高句麗が合して侵入(-百済)
- 247 年
- 第12代 新羅王 沾解尼師今(247~261)
干ばつ多発(-百済)
- 248 年
- 第12代 高句麗王 中川王(248~270)
崇神248-273(-百済)
- 249 年
- 新羅、夏四月に倭人が舒弗邯、于老を殺した。
- 255 年
- 新羅を攻撃(-百済)
百済の肖古即位(-百済)
- 258 年
- 靺鞨が使者(-百済)
- 259 年
- 第3代 加羅王 麻品王(259~291)
- 260 年
- 官位を制定 官人の服飾は紫、緋色、青の順と定める(-百済)
百済(古爾王),十六官等と公服制定
- 261 年
- 新羅と和親を求めるも得られず(-百済)
- 262 年
- 第13代 新羅王 味鄒尼師今(262~284)
- 266 年
- 新羅を攻めるも敗退(-百済)
- 270 年
- 第13代 高句麗王 西川王(270~292)
- 273 年
- 垂仁273-311(-百済)
- 279 年
- 百済の仇首即位(-百済)
- 284 年
- 第14代 新羅王 儒礼尼師今(284~298)
- 286 年
- 第8代 百済王 責稽王(286~298)
新羅と和親を求める(-百済) 責稽王即位セキケイ(青稽、古尓王の子)帯方の王妃を妃とする 高句麗の帯方攻撃に対して援軍(-百済)
- 287 年
- 新羅、夏四月に倭人が一礼部を襲う。
- 289 年
- 新羅、夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。
- 289 年
- 百済の古爾即位(-百済)
百済の沙伴即位(-百済)
- 291 年
- 第4代 加羅王 居叱弥王(291~346)
- 292 年
- 第14代 高句麗王 烽上王(292~300)
新羅、夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。
- 294 年
- 新羅、夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。
- 295 年
- 新羅、春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
- 298 年
- 第15代 新羅王 基臨尼師今(298~310)
第9代 百済王 汾西王(298~304) 漢が貊人とともに侵入 責稽王戦死(-百済) 汾西王即位フンセイ(責稽王の長男)(-百済)
- 300 年
- 第15代 高句麗王 美川王(300~331)
新羅、春正月に、倭国と使者を派遣し合った。
- 304 年
- 第10代 百済王 比流王(304~344)
楽浪を攻撃するも楽浪の刺客により汾西王殺される(-百済) 比流王即位ヒリュウ(仇首王の第2子)(-百済)
- 308 年
- 日食(-百済)
- 310 年
- 第16代 新羅王 訖解尼師今(310~356)
- 311 年
- 景行311-333(-百済)
- 312 年
- 新羅、春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、王は阿?の急利の娘を倭国に送った。
- 313 年
- 三国時代
高句麗・百済・新羅が戦争を繰り返した。朝鮮半島の歴史/313
- 313 年
- 高句麗,楽浪郡滅亡させる
中国の漢が、半島北部に設置して支配下においた楽浪など4郡が、高句麗によって、滅ぼされる。これにより、中国からの支配を追放することになる。
- 313 年
- 高句麗による楽浪郡の滅亡
紀元前108年に衛氏朝鮮が魏に滅ぼされると朝鮮半島の大部分は長きに渡る中国勢力からの支配を受けることになります。前漢→後漢→魏→晋へと。そんな中、北から朝鮮半島へと勢力拡大を狙う国がありました。中国東北地方から出たツングース系貊族が建てた高句麗です。この高句麗により313年、中国勢力の拠点であった楽浪郡が滅ぼされます。この頃は、中国の晋が滅亡する前後のことですね。さらに、帯方郡も滅ぼされ(高句麗によって滅ぼされたとする書と朝鮮の土着の勢力によって併合されたとする書がある)、これにより朝鮮半島から中国勢力が駆逐されることになります。さぁ、中国勢力を追い出した高句麗は、どんどん南へと勢力拡大を狙います。この頃の朝鮮半島南部は小さな国々が集まり、馬韓(ばかん)、辰韓(しんかん)、弁韓(べんかん)といういわゆる三韓が小国国家郡をつくっていましたが、高句麗の脅威もあり統一の機運が高まります。そして、馬韓が統一され建てられた国家が百済に。辰韓が統一されてできた国が新羅となりました。ちなみに、弁韓の地は統合がうまく進まず、加羅諸国となりますが、後に百済、新羅に統合されます。 これで、高句麗も簡単には朝鮮統一とはいかなくなります。そう朝鮮史上に残る「三国時代」の始まりです。
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Last-modified: 2019-05-26 (日) 12:04:10
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