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チ ベ ッ ト の 歴 史

西藏(チベット)は中国の南西部辺境にあります。

 チベットに住むチベット族は、旧石器時代新石器時代からの長い歴史を持ち、紀元前からすでに中原に住む漢族とつながりをもっていた。チベット神話伝説によりますと、チベット族の先祖は一匹の猿と岩の精女とであった。この夫婦から生れた子供達は、半猿半人で、すでに直立していたが、全身を毛で覆われ、清くのつぺりした顔をしていた。また、ある所伝によりますと、尻尾がついていたという(他の所伝では、すでに尾はなかった)。先祖の猿は、その子供たちに、住むべき場所として南方の森を指定しました。彼等はそこで牝猿と一緒になって増殖していった。「夏になれば、雨と太陽とにいためつけられ、冬になれば、雪と風とに悩まされました。彼等には、定まった食物もなければ、衣服もなかった。」観 音の化身である彼等の先祖はこれをみて憐み、彼等に『六種の穀物』(蕎麦、大麦、芥子、等。しかし、このテキスト はもっと前の箇所で五穀、すなわち、大麦、小麦、米、胡麻、豆を挙げている)をもたらした。こうして、ヤルルン地方のソタンで最初の畠がつくられ、猿人どもは少しずつ人間の形をとっていった。

 最初の諸種族はmiuと呼ばれた。この語は、今日、『倭人』、『小人』を意味する。恐らく、中国語の(獺猴)に由来するのであろう。獺猴は猿を意味するが、古代の羌族は猿を自分たちの先祖としていたのです。 

唐代(618~907)になると、漢族とチベット族は王室の間で結婚したり条約を結んだりして、政治経済文化のうえで密接に結び付き、統一国家をつくるための厚い基盤を固めました。いまも、チベット自治区ラサのポタラ宮には、641年に唐の王室から吐蕃王ソンツェン=カンポのもとに降嫁した文成公主の像がまつられています。また、大昭寺の前の広場にはお互いが盟約を結んだことにちなんで823年に建てられた「唐蕃会盟碑」が立っています。17世紀の清朝の皇帝はダライ・ラマとパンチェン・ラマの政治的地位と宗教上の地位を定め、チベット駐在大臣を置いてチベット地方行政の監督にあたらせた。チベットと四川・雲南・青海との境界も正確に決めらた。清朝はチベットの古い制度を改革し行政機能を整備した。

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吐番王国最盛期の版図

 1840年のアヘン戦争以来、帝国主義列強が中国侵略に乗り出し、中国は半植民地化の道をたどりはじめた。イギリスはたびたびチベットに攻め入り、一時はラサを占領し、13世ダライを追放した。1904~1906年に行われた中英交渉で、イギリスはチベットに対する中国の主権を認めたにもかかわらず、さまざまな策謀を練ってチベットを手に入れようとした。1911年の秋に辛亥革命が起こって清朝が倒され、中華民国が成立した。中華民国は発足するとすぐ漢族・満州族・回族・チベット族などを一体とした共和国であることを宣言した。イギリスは混乱に乗じてチベット駐在大使を追放させ、チベット地方政府を扇動して独立を宣言させた。しかし、ダライもパンチェンも、祖国の統一を守り中央政府を擁護することをくりかえし表明した。13世ダライは1930年「わたしが最も心から望んでいるのは中国の真の平和統一である」と語った。帝国主義者の侵略・挑発によって生じたチベットの混乱は正常化され、チベットと祖国との絆はさらに強められた。1949年、中国の人民解放戦争が決定的な勝利をおさめ、中華人民共和国が成立した。アメリカ・イギリス帝国主義者は、たびだび「チベット独立」を画策したが、全中国の完全解放をなし遂げつつあった人民解放軍は1950年に昌都(チャムド)に達し、翌51年、中央政府とチベット地方政府との間で「チベット平和解放の方法に関する中央人民政府とチベット地方政府の取り決め」が調印された。

 チベットが平和のうちに解放されました。しかし、祖国の懐に抱かれるのに我慢できない者たちがいた。それは中国で社会主義化が急速に進むとともにダライ・ラマを擁(よう)する農奴主(のうどしゅ)と外国の反中国勢力団体が警戒感が高まって、彼らはたびたび妨害・破壊工作を続け、ついに1959年に武力反乱を起こした。

 14世ダライ自らの希望でチベット軍医講堂での観劇が決まった際、反乱分子たちは「漢人がダライを拉致しようとしている」とか「毒殺しようとしてる」とかのデマを飛ばして市民を扇動し、当日2,000人あまりの市民を脅迫してダライの住むノルブリンカに行かせた。彼らはダライを脅迫してラサから連れ出し、反乱武装勢力の根拠地、南部のロカ地区に赴いた。

 ダライがラサを離れてから、反乱分子は約7,000人をかき集めて党・政府・軍の機関に全面的な攻撃を始めた。しかし、人民解放軍は愛国的なチベット族人民の支持を得て、わずか2日でラサ市内の反乱を完全にしずめた。ロカ地区に逃げていた反乱分子たちは反乱失敗後、インドに逃げた。

 民主改革によって、チベット人民は残酷な封建農奴制から抜け出し、歴史上はじめて人身の自由を獲得した。土地改革に着手し、民主主義が実施され、65年には、中国政府によってチベット 自治区が成立した。

 チベット 自治区が成立してから、農民や牧畜民の生産意欲は大いに高まり、現代工業がスタートした。チベット人民の生活水準は著しく向上した。

 「文化大革命」のあいだ、チベットは中国のその他の地方と同じように、信仰の自由が妨害され、多くの宗教施設が壊されたが、文革終結後、チベットでは再び信仰の自由が全面的に貫かれるようになった。宗教活動は復活し、政府の援助のもとで壊された寺院などが積極的に再建されている。1995年、ポタラ宮殿の改修工事が終了し、チベット自治区は創立30周年を迎えた。

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data_チベットの歴史
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http://www.gesanmedo.or.jp/uli016.html
http://www.tibethouse.jp/history/

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