• 追加された行はこの色です。
  • 削除された行はこの色です。
  • 南北国時代 へ行く。

#menu(menu_朝鮮半島の歴史)


| | | |CENTER:&size(20){朝鮮半島の歴史};&size(6){(東アジア-朝鮮-先史時代)};||h
|676|>|>|''三国時代→統一新羅時代''&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|676|||''朝鮮半島、三国時代~新羅による朝鮮統一~''&br;紀元前108年より長きに渡る中国勢力からの支配を受けていた朝鮮。しかし、それも中国東北地方から出た民族が建てた国、高句麗により中国勢力の拠点、楽浪郡が滅ぼされると(313年)朝鮮半島内における激しい争いの幕開けとなります。朝鮮半島の南にある小国は、まとまり始め百済、新羅が誕生。朝鮮半島の三国時代の始まりです。&ref(image1201.jpg,nolink,画像の説明);さぁ、上の図を見れば圧倒的に有利なのは高句麗ですね。4世紀後半、高句麗は中国の東北地方から朝鮮半島の北の大半を領土とし全盛期を迎えます。しかし、これは中国にとってはやっかいです。これ以上、高句麗には力をつけて欲しくはないところ・・・。6世紀後半から7世紀前半に高句麗は、中国(隋・ずい)から再三に渡って攻撃を受けることになります。ですが、この頃の高句麗は超つよく、その攻撃をすべて跳ね返す!ですが、その頃、南で着実に勢力を伸ばしている国がありました。新羅です。新羅は、地図を見ればわかるように朝鮮半島の東側だから中国からは遠い。ということは、中国にとって新羅は直接の脅威ではなかったわけです。新羅は、中国との良好な関係を保ちながら、百済、高句麗の領土を削っていきます。この新羅の勢力拡大に脅威を抱いた高句麗は百済と同盟を結ぶことになります。6世紀後半のことです。高句麗は、隋からの攻撃を受けながら、新羅の動きにも目を光らせていなければならなかった訳ですね。そして、中国でも大きな動きが起こります。隋が滅び、かわり唐が中国を支配しました。この唐と新羅は同盟を結ぶことになります。660年のことです。唐と手を組んだ新羅はさっそく連合軍を率いて百済を滅亡(660年8月)。この戦いは、日本も大きく関わっています。白村江の戦い(はくすきのえ・はくそんこうのたたかい)です。日本は百済を助ける為に大軍を送り込みますが、残念ながら敗退します。:''668年''そして、新羅は高句麗も滅ぼしました。&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|676|||''統一新羅時代(676ー935)''&br;統一後の新羅は文化・芸術の興隆に努め、特に仏教文化はこの時期に黄金期を迎えます。しかし、貴族層の間での覇権争いにより次第に国力が衰退していき、結局935年に高麗に併合されてしまいました。しか~し!百済、高句麗を滅ぼした新羅。この新羅が今度は唐にとっては目障りです。なんと、共に戦った新羅と唐が戦争状態になります。670年のことです。この争いは6年続きます。&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|676|||新羅,三国統一.高句麗の北半分唐の領土となる&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|676|||新羅、半島を統一&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|676|||COLOR(blue):新羅が、唐を追い出し、三国を統一することになる。ここに統一新羅が誕生する。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|676|||COLOR(green):新羅、三国統一&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|676|||新羅が、唐を追い出し、三国を統一することになる。ここに統一新羅が誕生する。統一新羅時代&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|676|||''統一新羅と後三国時代[676~918年]''&br;新羅は骨品制〔こっぴんせい〕という貴族制度を通して王権を強化した。華やかな文化が花開いた。手工業や商業が活発になり、絹織物、金銀細工、螺鈿漆器、人参などを唐や日本に輸出して富を得た。末期には、王権が弱くなり地方では豪族勢力が成長して、後高句麗、後百済などという国をたて、ふたたび三国が鼎立することになった。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|676|||平壌(ぴょんやん)に設置されていた唐の安東都護府(あんとうとごふ)が遼陽(りょうよう)まで撤退するとCOLOR(blue):新羅による朝鮮半島の統一COLOR(black):が達成されました。当時の国王は文武王(ぶんぶほう)です。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|676|||COLOR(blue):新羅、三国統一&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|676|||676-679扶餘隆高句麗にて死去&br;唐の則天武后はその孫に高句麗(百済)王を名乗らせるが領土なく絶える&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|681|||COLOR(green):第31代新羅王神文王(681~692)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|682|||新羅,国学を設立.博士と助教を決め儒学を教える&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|682|||COLOR(blue):新羅、国学を建てる&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|685|||COLOR(blue):九州五小京設置&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|685|||九州五小京設置.中央集権的地方統治制度を作り,地方を支配&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|685|||COLOR(blue):新羅、九州五小京設置&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|686|||持統686-696&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|687|||COLOR(green):新羅、九州五京の郡県制を確率&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|690|>|>|''690年~900年:渤海(属国)''&size(6){(よいこの正しい半島歴史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|690|||690年~900年:渤海(属国)&deco(silver,white,9){よいこの正しい半島歴史年表};&size(6){(東アジア-朝鮮、渤海-)};||
|692|||COLOR(green):第32代新羅王孝昭王(692~702)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|697|||文武697-700&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|698|||''南北国時代(698ー918)''&br;COLOR(blue):南北国時代(698ー918)&size(6){(東アジア-朝鮮-南北国時代)};||
|698|||COLOR(red):高句麗の将軍出身の大祚栄,震国(後の渤海)建国&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|698|||中国の唐の内政混乱に乗じて、営州に強制移住させられていた高句麗の遺民たちが、大祚栄(テジョヨン)の指揮の下、旧高句麗の地に帰還し、震国を建国する。幾たびか唐の討伐を凌ぎつつ勢力を拡大し、ついに、713年、唐に独立を認めさせ、渤海(パレ)が誕生した。渤海は、926年の滅亡まで、200年余り続いた。&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|698|||''渤海(698年-926年)-高句麗の滅亡後、遺民らが建国した国家''&br;:''698年''COLOR(green):高句麗、大祚栄、渤海国を建国:''698年''中国の唐の内政混乱に乗じて、営州に強制移住させられていた高句麗の遺民たちが、大祚栄(テジョヨン)の指揮の下、旧高句麗の地に帰還し、震国を建国する。幾たびか唐の討伐を凌ぎつつ勢力を拡大し、ついに、COLOR(blue):渤海の建国#style(class=box_black_swm){{''震国(696ー)''''渤海(713ー926)''渤海は高句麗が滅びる頃に誕生しました。渤海は、高句麗の将軍である大祚栄が高句麗の難民たちからなる兵士たちと共に建国した国です。一時期は、中国の北東地域までを占める領土を有するほどの国力を保持していました。その当時、中国の唐は渤海を「海の東に隆盛した国(海東盛国)」と呼ぶほどでした。渤海は高句麗のかつての領土を回復し、高句麗を継承した国であるという点で歴史的に重要な意味を持っています。}}RIGHT:COLOR(green):大宝律令制定''701年''RIGHT:COLOR(green):平城京遷都''710年'':''713年''大祚栄は713年に唐から渤海国王に冊封され、それ以後震国は渤海国を国号とした。渤海(パレ)は、926年の滅亡まで、200年余り続いた。RIGHT:COLOR(green):渤海使来朝''727年'':''788年''COLOR(green):新羅、読書三品科を設けるRIGHT:COLOR(green):平安京遷都''794年''RIGHT:COLOR(green):最澄、空海が入唐''804年'':''828年''COLOR(blue):張保皐、清海鎮設置&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗、渤海-)};||
|698|||新羅、三月に日本国から使臣が来たので、王は崇礼殿で引見した。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|698|||COLOR(blue):渤海の建国&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、渤海-)};||
|702|||COLOR(green):第33代新羅王聖徳王(702~737)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|703|||新羅、日本国から使臣が来たが、みんなで二百四名であった。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|713|||国号を震国から渤海へと改める&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-奈良時代)};||
|718|||漏刻(水時計)製作&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|719|||大祚栄死去&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|722|||新羅,農民に丁田支給.官吏に官僚田支給し税を納めさせる&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|722|||新羅、日本の賊の路を遮断した。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|722|||COLOR(blue):新羅、丁田支給&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|731|||新羅、日本国の兵船三百隻が海を越えて、東辺を襲う。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|737|||COLOR(green):第34代新羅王孝成王(737~742)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|742|||COLOR(green):第35代新羅王景徳王(742~765)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|742|||新羅、日本の国使が来たが、これを受け付けなかった。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|751|||仏国寺と石窟庵を建立&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|751|||COLOR(blue):仏国寺と石窟庵%%を建てる%%の再建始まる&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|753|||新羅、秋八月に日本国使が来た。高慢無礼と判断し、王は接見しなかった。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|765|||COLOR(green):第36代新羅王恵恭王(765~780)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|780|||COLOR(green):第37代新羅王宣徳王(780~785)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|785|||COLOR(green):第38代新羅王元聖王(785~798)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|788|||新羅,学問の成績により官吏を任命する読書三品科設置.&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|788|||COLOR(blue):新羅、読書三品科設置&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|799|||COLOR(green):第39代新羅王昭聖王(799~800)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|800|||COLOR(green):第40代新羅王哀荘王(800~809)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|802|||新羅、冬十二月、均貞に大阿?の官を授けて、仮の王子にして、日本国への人質にしようとしたが、均貞がこれを断った。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|802|||入唐僧の順応と理貞により慶尚南道に海印寺創立&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|804|||新羅、夏五月日本国が使臣を派遣して、黄金三百両を進上した。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|806|||新羅、春三月日本国使臣が来たので、王は朝元殿で引見した。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|808|||新羅、春二月に日本国の使臣が来た。王は厚い礼で、これを待遇した。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|809|||COLOR(green):第41代新羅王憲徳王(809~826)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|826|||COLOR(green):第42代新羅王興徳王(826~836)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|828|||新羅の張保皐,清海鎮設置.南海と黄海の海上交通を支配.貿易独占&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|828|||COLOR(blue):張保皐、青海鎮設置&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|834|||百官の服色制度公布.冠帽や服装の型,色,形によって官位を見分ける&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|834|||COLOR(blue):百宮の服色制度の公布&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|836|||COLOR(green):第43代新羅王僖康王(836~838)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|838|||COLOR(green):第44代新羅王閔哀王(838~839)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|839|||COLOR(green):第45代新羅王神武王(839)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|839|||COLOR(green):第46代新羅王文聖王(839~857)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|857|||COLOR(green):第47代新羅王憲安王(857~861)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|861|||COLOR(green):第48代新羅王景文王(861~875)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|864|||新羅、夏四月に日本国の使臣が来た。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅、日本-平安時代)};||
|875|||COLOR(green):第49代新羅王憲康王(875~886)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|879|||新羅、八月に日本国の使臣が来た。王はこれを朝元殿で引見した。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|882|||新羅、夏四月に日本国王が使臣を派遣して、黄金三百両と明珠十箇を進上した。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|886|||COLOR(green):第50代新羅王定康王(886~887)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|887|||COLOR(green):第51代新羅王真聖女王(887~897)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|888|||新羅,歴代の郷歌を集めた「三代目」編纂&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|888|||COLOR(blue):新羅、「三代目」編纂&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|892|>|>|''後三国時代(892年-936年)''&size(6){(東アジア-朝鮮-後三国時代)};||
|892|||COLOR(red):''後百済(892年-936年)''&size(6){(東アジア-朝鮮、後百済-)};||
|892||>|新羅が衰退(後三国時代へ)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||

トップ   編集 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS