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***天智天皇(中大兄皇子) [#a3357636]

  生没年:626-671
  父:舒明天皇
    645-668 皇太子
    661-668 称制
    663 白村江の戦い
    668-672 天智天皇
  皇后:倭姫女王(父:古人大兄皇子)
  妃:蘇我越智娘(父:右大臣 蘇我倉山田石川麻呂)
    -667? 大田皇女(夫:天武天皇)
    645-702 ?野讃良皇女
    建皇子
  妃:橘娘(父:左大臣 阿倍内麻呂)
    -699 新田部皇女(夫:天武天皇)
    飛鳥皇子
  采女:伊賀采女宅子娘
    648-672 大友皇子
  妃:蘇我姪娘(父:右大臣 蘇我倉山田石川麻呂)
    661-721 阿閇皇女
    御名部皇女(夫:太政大臣 高市皇子)
  妃:蘇我常陸媛(父:蘇我赤兄)
    -686 山辺皇女(夫:大津皇子)
  妃:忍海色夫古娘(父:忍海造小龍)
    -699 大江皇女(夫:天武天皇)
    -734 泉皇女(斎宮)
    657-691 川嶋皇子(以下保留)
  妃:越道君伊羅都女
    -716 施基皇子
  妃:黒媛(父:栗隈首徳萬)
    -737 水主皇女

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第38代天智天皇、葛城(かつらぎ)、中大兄(なかのおおえ)、天明開別尊(あめみことはるきわけ) 

父・舒明天皇 母・宝皇女(たから)(皇極・斉明) 
皇后・倭姫王(やまとのひめのおおきみ)(古人大兄の娘) 
妃1 蘇我造媛(そがのみやつこひめ)(蘇我倉山田石川麻呂の娘) 
妃2 遠智娘(おちのいらつめ) 
子・大田皇女(おおたのひめみこ)
子・鸕野讃良皇女(うののさらら)(持統天皇) 

妃3・姪娘(めいのいらつめ) 
子・阿陪皇女(あべのひめみこ)(後の元明天皇) 

妃4・伊賀采女宅子娘 
子・伊賀皇子(大友皇子)(弘文天応)

子:志貴親王

皇居・稲淵宮、近江大津宮 

略歴 (7世紀) 
626-丙戌-推古34年 生誕 
644-甲辰-皇極03年01月01日 この年、中臣鎌足と親しくなる 
645-乙巳-皇極04年06月14日 倉山田石川麻呂と蘇我入鹿を斬る相談をする 
645-乙巳-皇極04年06月12日 中臣鎌足らと蘇我入鹿殺害が実行される。
法興寺に入り砦とする。次期天皇の孝徳も参加したとされるが定かではない。 
645-乙巳-皇極04年06月14日 立太子 
645-乙巳-大化01年06月19日 日本初の元号「大化」を決定する 
645-乙巳-大化01年09月03日 古人大兄(舒明天皇と妃法堤郎姫との皇子)が謀反を企てた。
首謀者は古人大兄、蘇我田口臣川掘、物部朴川連椎子、吉備笠臣垂、倭漢文直麻呂、朴市秦造田来津。 
645-乙巳-大化01年09月12日 古人大兄の謀反を吉備笠臣垂(きびのかさのおみしだる)が中大兄に対して自首。
莵田朴室古と高麗宮知に命じて古人大兄を討たせる。古人とその子は殺されその妃妾は自害したという。 
658-戊午-斉明04年11月09日 有馬皇子を謀反の疑いで逮捕・尋問。
有馬皇子は皇太子中大兄皇子を始め皇后にまで見捨てられ、難波宮に憤死された孝徳天皇の皇子で中大兄にとっては邪魔な存在であった・・・というのが真相だろうか? 
661-辛酉-斉明07年07月24日 斉明天皇崩御 
661-辛酉-斉明07年08月23日 難波に到着 
663-癸亥-天智02年08月28日 百済救済の白村江で敗戦 
664-甲子-天智03年02月09日 冠位の増設 
665-乙丑-天智04年02月25日 妹間人大后が薨去 
667-丁卯-天智06年02月27日 斉明天皇と間人大后とを越智崗上陵(おちのおかのうえのみささぎ)に合葬 
667-丁卯-天智06年03月19日 都を近江に移す 
668-庚辰-天智07年01月03日 即位 
668-庚辰-天智07年02月23日 倭姫王(やまとのひめのおおきみ)(古人大兄の娘)を皇后とする。 
669-己巳-天智08年10月10日 落馬した中臣鎌足を見舞う 
669-己巳-天智08年10月15日 中臣鎌足に大職冠の称号と藤原の姓を与える 
669-己巳-天智08年10月16日 忠臣中臣鎌足が死ぬ 
671-壬午-天智10年01月05日 大友皇子を太政大臣に任じる 
671-壬午-天智10年04月25日 漏刻(水時計)を新しい台の上におき鐘、鼓をうち時刻を知らせた。(水落遺跡) 
671-壬午-天智10年10月17日 病気が重くなり大海人皇子に後事を託そうとするが大海人は辞退する。 
671-壬午-天智10年10月19日 大海人は出家し吉野へ 
671-壬午-天智10年12月03日 崩御 46歳 

天智天皇は舒明天皇の皇子で、母は皇極天皇。蘇我蝦夷、入鹿の親子を倒し、孝徳、斉明の皇太子でもあった。
天皇制確立を目標とする政治改革を断行し、公地公民制度の実現をめざした。
白村江(はくすきのえ)での唐・新羅連合軍に大敗した後、都を飛鳥から近江大津宮に移して即位。後世の戸籍の原形でもある「庚午年籍」を作り、近江令を制定し内政を整えた人物でもある。

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