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[[開化天皇]]

第10代崇神天皇(すじんてんのう)、御間城入彦五十瓊殖尊(みまきいりひこいにえ)、御肇国天皇(はつくにしらす)
父・開化天皇(かいかてんのう) 母・伊香色謎命(いかがしこめ)
皇后・御間城姫(みまきひめ)
子・活目入彦五十狭茅尊(垂仁天皇)、彦五十狭茅命、国方姫命
妃・遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまくわしひめ)
妃・尾張大海】媛(おわりおおしあまひめ)

皇居・磯城端籬宮 (しきのみずかきのみや)奈良県桜井市金屋 
陵墓・陵名: 山辺道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)
古墳・柳本行燈山古墳
形状:  前方後円墳、堀。 全長242m、後円部径158m、前方部幅100m、
所在: 奈良県天理市柳本町
現在治定されている景行天皇稜と二転三転した経緯がある。1865年(慶応01年)に行燈山を崇神陵、王之塚を景行陵と治定された。

略歴 (紀元前) 
BC148--開化10年 生誕 
BC130--開化28年01月05日 立太子(19歳で皇太子となる) 
BC97-甲申-崇神01年01月13日 即位 
BC97-甲申-崇神01年02月16日 御間城姫を皇后とする 
BC95-丙戌-崇神03年09月 都を磯城端籬宮に移す(現在の奈良県桜井市金谷付近) 
BC94-丁亥-崇神04年10月23日 詔
「我が皇祖の諸天皇たちがその位に臨まれたのはただ一身のためではない。神や人を整え天下を治めるためである。代々よき政治を広め徳を布かれた。今、自分は大業を承って民をめぐみ養うこととなった。どのようにして皇祖のあとを継ぎ無窮の位を保とうか、群卿百僚たちよ、汝らの忠貞の心を尽くして共に天下を安んずることは、またよいことではないか。」 
BC88-癸巳-崇神10年09月09日 大彦命を北陸に、武渟川別を東海に、吉備津彦を西海に、丹波道主命を丹波にそれぞれ遣わし「教えに従わない者があれば兵をもって討て」と、印綬を授け将軍とした。 
BC50--崇神48年04月19日 活目入彦五十狭茅尊を皇太子とする。 
BC36--崇神62年07月02日 河内の狭山の地に池や溝を掘り民のなりわいを広めるよう詔。この詔を受け、10月には依綱池(よさみのいけ)、11月には苅坂池(かりさかのいけ)と反折池(さかおりのいけ)を造る。 
BC30-辛卯-崇神68年12月05日 崩御 120歳 
BC29-壬辰-垂仁01年08月11日 山辺道上陵に葬られる

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