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李朝朝鮮(李氏朝鮮)の時代
 
 モンゴル帝国(元)からの独立を勝ち取った高麗。しかし、この高麗も倭寇(海賊)などの活動により衰退していくことになります。この倭寇の撃退で名を馳せたのが高麗の武将・李成桂(りせいけい)でした。

 李成桂は、1392年に自ら高麗の王に即位します。李成桂は、王に即位すると国号を「朝鮮」としました。ちなみに、朝鮮という呼び名は、以前にも「箕子朝鮮・きしちょうせん」や「衛氏朝鮮・えいしちょうせん」という呼び名がありましたので日本では、これらと分けるために李朝朝鮮または李氏朝鮮と呼ぶことがあります。

 この李朝朝鮮の首都は漢城(ソウル)です。

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 李成桂は、進んで明(中国)の文化や制度を取り入れ、明にならい朱子学(しゅしがく)を官学化したりもしました。今の韓国の国旗は「太極旗」といいますが、あれは朱子学の世界観を図解化したものですね。

 また、この李朝で何と言っても覚えておきたいのがハングル(訓民正音)の制定です。これを制定したのは1146年のこと。制定したのは第4代国王・世宗(せいそう)の時代でした。

 1592年には、この朝鮮に対して豊臣秀吉が侵略のために軍を派遣します。「文禄・慶長の役」ですね。朝鮮の人々がいうところの「壬辰・丁酉(じんしん・ていゆう)の倭乱」です。

 この秀吉軍に激しく対抗し、活躍したのが朝鮮海軍の李舜臣(イスンシン)でした。韓国には現在でも英雄であり、銅像がいたるところに立っています。

 この秀吉の朝鮮侵略の計画は、秀吉の死により日本軍の撤退という形で終わりを告げますが、朝鮮にとっても大きな打撃となりました。

 17世紀前半には、清から攻撃を受け、朝鮮は清の属国となりました。

 日本との関係は1607年。秀吉の死後、朝鮮通信使が日本に送られ関係を修復しました。



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*1392年  高麗(고려)の武将、李成桂(이성계)は、自ら高麗王につき、翌1393年には、国名を「朝鮮」(조선)と改称し、首都を漢陽(今のソウル)に移した。その後、数代にわたり、国としての各種制度・体制を整備していくが、王位継承のもつれから、うちのめされた李成桂は、晩年、仏門に帰依することになる。

*1443年  第四代国王、世宗(세종)の時代は、朝鮮時代の中でも王権が強固で権威も行き届いており、もっとも安定した時代とされている。
この年、世宗王はハングルの基になる訓民正音が作られた。

*1592年  この頃、日本では、豊臣秀吉が日本を統一し、更に勢力拡大のため、大陸進出をはかろうとしていた。そして、1592年、いわゆる文禄の役が発生し、たちまちにして、首都漢城(ソウル)を攻略してしまう。 当時腐敗が進んでいた朝鮮は、なすすべもなく、国土を疲弊してしまった。
やがて、中国から明の援軍が進出して、戦線は膠着し、和議交渉を試みるが失敗に終る。
1597年、日本は再度侵攻し、慶長の役が勃発する。しかし、秀吉の健康が損なわれ、戦争が泥沼状態になり、やがて、秀吉の死去によって、この7年に及ぶ戦乱は終結する。
この動乱により、朝鮮は、政治的にも、経済的にも、また社会的にも、壊滅的な状態に追いやられ、破綻寸前に陥った。

*1609年  その後も、王位継承をめぐる争いは、断続的に発生し、紆余曲折があるが、1609年になって、日本と和約し、外交面での修復が展開されていく。

*17世紀末  党派政争が次第に激しくなり、さまざまな、政策が打ち出され、王権の強化拡大策が試みられる。この頃、中国の清との間で領土問題が発生したり、日本との間では、鬱陵島やその周辺の島々の帰属問題が発生した。当時の江戸幕府は、鬱陵島を朝鮮の領土として承認する協定を締結した。
現在、日韓で懸案の、竹島(独島)の帰属問題は、このときの協定内容に起因する争いである。

*1763年  朝鮮通信使が日本からサツマイモを持ち帰り、朝鮮で食糧対策の一環として取り入れられた。

*18世紀末  中国を経由してカトリックが入ってくる。朝鮮内部では、王朝が強力に推進してきた儒教との対比で、容認派と反対派との抗争が起こり、朝鮮王朝は、1791年、ついにカトリック弾圧を実施した。そして、これを皮切りに、以後数次にわたり、カトリック弾圧が断行され、多くの犠牲者も出した。
このカトリック弾圧に対しては、19世紀になってからも、西洋諸国からの強力な抗議・干渉が、高まって行く。

*1876年  王朝内部の抗争は、絶えることなく続くが、一方で、徐々に迫ってくる諸外国に対しては、とうとう強硬な鎖国政策をとることとなる。だが、これが、後年、朝廷混乱に拍車をかけることになる。
しかし、やがて、1875年、日本軍は、開国を求めて、江華島に侵入し、1876年には、当時の開国派政権との間で、いわゆる江華島条約(日朝修好条規)を締結する。 これに引き続いて、アメリカ、フランス、ロシアなどと、相次いで通商条約を結ぶことになる。

*1894年  甲午農民戦争(東学党の乱)が発生する。党派間のクーデターによる混乱や、外国との開国通商による物価高騰に苦しめられた農民が中心になって蜂起し、官軍と起こした内戦である。この戦争は、政府の要請による清の援軍と日本の介入とにより、官・農民間の和議が成立して終結する。
しかしその後も、清軍と日本軍は、双方が朝鮮に駐屯を続け、ついに、日清戦争が勃発する。この戦争は1895年、日本軍の勝利に終わり、朝鮮は日本の影響下におかれることになる。

*1897年  一方、弱体化してきた朝廷では王妃がロシアに近づき親露政策をとることになったが、これにより、王妃は朝鮮人と日本人の手で惨殺される。更に王は、これに恐怖を感じ、王権は、失墜する。
朝鮮は日本とロシアとの勢力争いの場となってしまった。
1897年、朝鮮は国号を大韓帝国と改称する。
*1904年  日露戦争勃発。日本側の勝利に終る。翌年、第二次日韓協約締結。日本の一連の責任者伊藤博文は、朝鮮の保護国化を推進し、日本政府の早期併合論に反対を唱えていた。
しかし、1909年朝鮮の民族主義運動であった安重根(안중근)によって暗殺されるや、決定的に韓国併合に進んで行った。
*1910年  日韓併合条約締結。韓国は朝鮮と改称され、日本の植民地となる。これにより、518年に及ぶ朝鮮王朝は滅亡した。
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#menu(menu_朝鮮半島の歴史)
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|1392|>|>|''1392年~1637年:明(属国)''&size(6){(よいこの正しい半島歴史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|1392|||COLOR(red):高麗滅亡、李氏朝鮮成立(~1910)&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、李氏朝鮮-高麗滅亡、李氏朝鮮)};||
|1392|||COLOR(red):李氏朝鮮の建国&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1392|||朝鮮の歴史朝鮮半島の歴史/1392&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1392|||''朝鮮王朝[1392~1910年]''&br;15世紀に権力構造が改編され、中央集権体制が強化された。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1392|||CENTER:SIZE(20):朝鮮半島の歴史/1392&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1392|||COLOR(RED):李氏朝鮮王朝建国&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1392|>|>|''''朝鮮王朝、朝鮮時代(1392~1897)''&br;COLOR(blue):朝鮮時代(1392~1897)''&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1392|||''朝鮮王朝[1392~1910年]''&br;15世紀に権力構造が改編され、中央集権体制が強化された。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1392|||''李氏朝鮮(1392~1897)''&br;・一割もいない両班・貴族階級が、中人、常民、賎民、奴婢を支配・樽も車もなく、庶民は白い服しか着なかった・商店も貨幣もない実物経済、御用証人のみ&br;朝鮮は、14世紀末に建国されました。儒教が国の基本理念となり、朝鮮社会全般に大きな影響を与えました。1443年には世宗大王によりハングルが作られました。1592年に壬辰倭乱(文禄・慶長の役)が始まると共に諸外国の勢力が侵入してきたことにより、朝鮮の国力は次第に衰退していきました。&br;モンゴル帝国(元)からの独立を勝ち取った高麗。しかし、この高麗も倭寇(海賊)などの活動により衰退していくことになります。この倭寇の撃退で名を馳せたのが高麗の武将・女真人の李成桂(りせいけい)でした。&br;李成桂は、1392年に自ら高麗の王に即位します。李成桂は、王に即位すると国号を「朝鮮」としました。ちなみに、朝鮮という呼び名は、以前にも「箕子朝鮮・きしちょうせん」や「衛氏朝鮮・えいしちょうせん」という呼び名がありましたので日本では、これらと分けるために李朝朝鮮または李氏朝鮮と呼ぶことがあります。&br;この李朝朝鮮の首都は漢城(ソウル)です。&br;李成桂は、進んで明(中国)の文化や制度を取り入れ、明にならい朱子学(しゅしがく)を官学化したりもしました。今の韓国の国旗は「太極旗」といいますが、あれは朱子学の世界観を図解化したものですね。&br;15世紀に権力構造が改編され、中央集権体制が強化された。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1392|||1392年COLOR(blue):朝鮮建国高麗(??)の武将、李成桂(???)は、自ら高麗王につき、翌1393年には、国名を「朝鮮」(??)と改称し、首都を漢陽(今のソウル)に移した。その後、数代にわたり、国としての各種制度・体制を整備していくが、王位継承のもつれから、うちのめされた李成桂は、晩年、仏門に帰依することになる。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1392|||1392李成桂が高麗の恭譲王から王位を簒奪し、高麗王に即位、明より権知高麗国事として認められる、(権知高麗国事:高麗の政治をあずかっていると云う地位)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1392|||1392年自ら即位し李氏朝鮮を興し、ここに、高麗は、474年の幕を下ろすことになった。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1392|||1392年日本では、南北朝が合一。元が滅んで明の時代になると、倭寇や元を見限り明につき元との戦いで功績をあげた李成桂が立ち上がり、1392年に高句麗を王となる。李成桂は、王位につくやすぐさま、当時誕生したばかりの明王朝に伺いを立て国号を決めて貰っている。李成桂は明から権知朝鮮国事(朝鮮・李氏朝鮮初代の王)に封ぜられた。この時、李成桂は、箕氏朝鮮の旧号「朝鮮」と李成桂の生地「和寧」の二つの名前を持ち出し、明の太祖の朱元璋から「朝鮮」の国号を使うことを許されている。世界史の中で様々な国が存在するが、他国に自国の国号を決めて貰った国など、後にも先にも朝鮮ただ一カ国である。本来ならこの一時を持って、朝鮮が中国の属国であった事を、何よりも物語っているのだが、韓国人はこれでもまだ朝鮮が中国の属国であったことを認めないのである。都は漢陽(ソウル)である。朝鮮は約500年続き、明の朝貢国の時代(1393~1637年)、清の朝貢国の時代(1637~1894年)、欧米や日本が干渉した時代(19世紀後半~1910年)に分けられる。李成桂は儒教を崇拝し、仏教を排斥する政策をとった。しかし、彼は晩年に仏門に帰依するなど儒教も仏教も保護された。明の朝貢国の時代には、文禄・慶長の役と清の侵攻の大きな戦争が発生し国土は焦土と化した。李氏朝鮮(1393~1896)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1392|||COLOR(red):高麗滅亡.李成桂,朝鮮建国&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1392|||科田法実施.全国の土地の大部分を国家の収租地とする&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1392|||近世社会?(~1863)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1392|||朝鮮時代*1392年高麗(??)の武将、李成桂(???)は、自ら高麗王につき、翌1393年には、国名を「朝鮮」(??)と改称し、首都を漢陽(今のソウル)に移した。その後、数代にわたり、国としての各種制度・体制を整備していくが、王位継承のもつれから、うちのめされた李成桂は、晩年、仏門に帰依することになる。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1392|||李成桂、王位に就く、高麗王朝滅亡。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1392|||李成桂が高麗の恭譲王から王位を簒奪し、高麗王に即位、明より権知高麗国事として認められる、(権知高麗国事:高麗の政治をあずかっていると云う地位)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1392|||COLOR(blue):高麗滅亡.朝鮮建国&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1393|||1393李氏朝鮮(1393~1896)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1393|||1393李成桂が権知朝鮮国事に冊され、国号が朝鮮となる、明の皇帝から、新たな国号を「朝鮮」と「和寧」の二案から選んでもらうという形式的手順を踏んだ、内乱(~1400)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1393|||国号を朝鮮とする&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1393|||李成桂が権知朝鮮国事に冊され、国号が朝鮮となる、明の皇帝から、新たな国号を「朝鮮」と「和寧」の二案から選んでもらうという形式的手順を踏んだ、内乱(~1400)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1394|||開城から漢陽(現ソウル)遷都&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1394|||漢陽(現、ソウル)に遷都&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1394|||都を漢陽と定める&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1394|||COLOR(blue):漢陽遷都&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1396|||倭寇の本拠地、対馬に軍隊を派遣、政治と軍事を分離した議政府をつくり、中央集権制度の確立&size(6){(対馬)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1398|||第一次王子の乱.五男芳遠,世子冊封に不満を抱き反乱&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1399|||奴婢弁正都監設置.奴婢の戸籍を管理&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1400|||第二次王子の乱.芳遠の実兄芳幹の乱.芳遠により鎮圧&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1401|||1401明より朝鮮国王の冊封をうける&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1401|||申聞鼓設置.民衆が自由に請願できる制度&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1401|||明より朝鮮国王の冊封をうける&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1402|||1402年COLOR(blue):号牌法の実施&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1402|||16歳以上の男性に身分を問わず身分証(牌)を携帯させる,号牌法実施&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1402|||号牌法を実施&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1402|||COLOR(blue):号牌法実施&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1403|||鋳字所設置&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1403|||COLOR(blue):鋳字所設置&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1404|||室町幕府と国交回復、日朝貿易盛んとなる&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1408|||李成桂死去.73歳&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1411|||漢陽に,人文機関である五部学堂設置.文化水準を高める&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1411|||COLOR(blue):漢陽に五部学堂設置&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1413|||「太祖実録」を編纂.以来,歴代王朝の実録編纂続く&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1413|||朝鮮八道の地方行政組織を完成.中央集権体制を確立&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1413|||両界地域に道制を施行する&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1413|||COLOR(blue):朝鮮八道の地方行政組織%%を%%完成&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1413|||COLOR(blue):「太祖実録」を編纂&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1416|||COLOR(blue):四都設置(-1443)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1418|||《太宗が譲位して、世宗が即位(~1450)》、(儒教の推進による王道政治、現在の朝鮮領土の原型ができる)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1418|||世宗が即位&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1418|||朝鮮王朝第4代王,世宗即位&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1418|||COLOR(blue):世宗即位&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1419|||朝鮮、倭寇征伐を理由として対馬を侵略する。日本、侵略した朝鮮を撃退。(応永の外寇)(アジア-朝鮮-日本-応永)&size(6){(対馬)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1420|||集賢殿拡張.学問的作業だけでなく人材の養成と新文化の定着を図る&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1420|||COLOR(blue):集賢殿拡張&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1423|||「高麗史」編纂.高麗時代の歴史を自主的な視点で整理&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1426|||三浦に倭館を設置し、常住を許可する&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1433|||鴨緑江方面に四郡設置.女真族の侵入を防ぐ&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1433|||朝鮮初期の医書「郷薬集成方」完成.旧来の朝鮮医書の集大成&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1433|||COLOR(blue):%%四軍設置%%&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1434|||COLOR(blue):%%1437%%六鎮設置(-1449)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1437|||豆満江方面に六鎮設置.北方の城壁となし安全を図る&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1438|||日時計製作&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1441|||世界初の測雨器製作.全国各地の降雨量測定&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1441|||COLOR(blue):測雨器製作&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1442|||朝鮮独自の暦書「七政算内編」作製&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1443|||1443年対馬の宗氏、朝鮮と嘉吉条約を結び通商再開。※応仁の乱の最中も無関係に通商。&size(6){(対馬)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1443|||1443年第四代国王、世宗(??)の時代は、朝鮮時代の中でも王権が強固で権威も行き届いており、もっとも安定した時代とされている。この年、世宗王はハングルの基になる訓民正を制定するも、集賢殿の副提学であった雀萬理は「昔から中華の土地では風土が異なっても方言を文字にした例はない」と批判。これに対し世宗は「これは文字ではないので、中華に対しての反逆ではない。訓民正音である。」※訓民正音とは愚かな民に発音を教える記号のこと。&br;また、この李朝で何と言っても覚えておきたいのがハングル(訓民正音)の制定です。これを制定したのは1443%%1146%%年のこと。制定したのは第4代国王・世宗(せいそう)の時代でした。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1443|||訓民正音(ハングル)を草案&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1443|||訓民正音(ハングル)創製&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1443|||訓民正音の制定(1446年公布)、歳遺船(年間渡航許可船)の制度を定める&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1443|||第四代国王、世宗(??)の時代は、朝鮮時代の中でも王権が強固で権威も行き届いており、もっとも安定した時代とされている。この年、世宗王はハングルの基になる訓民正音が作られた。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1443|||癸亥約条(嘉吉条約).対馬の宗氏に通交貿易の条件を与える&size(6){(対馬)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1443|||COLOR(blue):「訓民正音」創製&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1445|||義塩法制定.義塩色という官庁を設け,塩の流通を国家が管理&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1446|||「訓民正音」としてハングル文字が公布&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1446|||義塩色廃止.私売買を禁止.民衆の不満を買う&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1446|||訓民正音(ハングル)を公布&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1446|||COLOR(blue):「訓民正音」領布&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1450|||世宗死去.53歳&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1453|||癸酉靖難、首陽大君の王位纂奪、首陽大君(のちの第7代国王・世祖)が朝廷大臣たちを殺し,政権を掌握&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1455|||首陽大君,端宗を退け第7代王世祖に上がる&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1456|||丙子冕獄(死六臣が処刑される)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1466|||現職官吏だけに土地を支給する,職田法実施&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1466|||職田法(官職についているものだけに田地の給付)の制定&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1466|||COLOR(blue):職田法実施&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1467|||RIGHT:COLOR(green):応仁の乱起こる(~77)''1467''http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1467|||李施愛の乱.中央文臣中心の政治に地方豪族が不満&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1468|||世祖が崩御し睿宗即位(1469年に崩御)、南怡の謀叛事件が起こる&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1469|||「経国大典」完成.朝鮮独自の法典を編纂.統治規制を成文化.&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1470|||成宗の治世に『経国大典』頒布、朝鮮王朝の諸法体系化の完成をみる(~19世紀末)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1470|||「経国大典」完成&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1485|||COLOR(blue):経国大典完成&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1485|||COLOR(blue):%%1169%%「経国大典」完成(-1449)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1498|||士林派に対する弾圧が始まる(戊午士禍)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1498|||戊午士禍&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1504|||甲子士禍.燕山君,母の廃妃関連者を処刑&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1504|||甲子士禍が起こる&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1506|||燕山君がクーデターにより失脚し、中宗が即位(中宗反正)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1506|||朴元宗の乱.燕山君廃位追放.晋城大君が中宗に即位&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1510|||三浦の乱、日本人居留民と朝鮮人が交戦。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1510|||在朝日本人の貿易活動等を統制したため、三港で日本人と援軍の宗軍による暴動が起こる(三浦の乱)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1510|||三浦の乱が起こる&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1510|||三浦倭乱.三浦で起こった日本人居留民の暴動事件.日本との通交中断&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1510|||三浦の乱が起こる&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1510|||COLOR(blue):三浦倭乱&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1510|||三浦の乱(さんぽのらん)李氏朝鮮の三浦(釜山浦・薺浦・塩浦)で起きた対馬の宗氏・恒居倭人(こうきょわじん-貿易の為に朝鮮に居留している日本人)の反乱。&size(6){(対馬)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮、日本-室町時代)};||
|1512|||壬申約条締結.足利幕府と結ぶ.倭人の出入りを制限&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1512|||COLOR(blue):壬申約条&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1519|||己卯士禍.趙光祖の改革に対する中宗と勲旧勢力の親衛クーデター&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1519|||己卯士禍が起こる、(趙光祖の改革政治が挫折)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1543|||1543年COLOR(blue):白雲洞書院設立&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1543|||白雲洞書院(最初の書院)建造.儒教精神の定着に力を注ぐ&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1543|||COLOR(blue):白雲洞書院を%%建造%%建てる&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1545|||乙已士禍&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1545|||仁宗崩御(在位1544年~1545年)、明宗即位乙巳士禍が起こる&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1547|||丁未約条.倭人との交易を許すが規制を強化&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1549|||RIGHT:COLOR(green):ザビエル来日''1549''http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1554|||軍事機構,備辺司設置.倭冦と女真族の侵入に備える&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1554|||COLOR(blue):%%備辺司設置%%&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1555|||1555備辺司設置&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1555|||乙卯倭変.三浦倭乱による貿易規制に対し,倭人が全羅道の一部を占領&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1555|||備辺司設置&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1555|||COLOR(blue):乙卯倭変&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1559|||1559林巨正の乱(~1562)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1559|||林巨正の乱(~1562)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1559|||林巨正の乱.民衆を代弁する義賊.3年間(~1562)政府を悩ます&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1567|||1567《宣祖即位》、勲旧派の終焉、以後、士林派(新進官僚による政治勢力)同士の対立が続く&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1567|||《宣祖即位》、勲旧派の終焉、以後、士林派(新進官僚による政治勢力)同士の対立が続く&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1573|||RIGHT:COLOR(green):室町幕府滅亡''1573''http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1575|||1575東人・西人の党争の始まり(乙亥党論)、陶山書院建立&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1575|||東人・西人の党争の始まり(乙亥党論)、陶山書院建立&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1575|||東人派と西人派の対立(党争の始まり)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1575|||東人派と西人派の対立(党争の始まり)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1582|||マリ,済州島漂着&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1582|||COLOR(blue):%%マリ、済州島漂着%%&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1587|||1587年九州の平定。伴天連追放令(豊臣秀吉)朝鮮国王に入貢要求。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1588|||1588年海賊停止令。琉球国王に入貢要求。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1589|||1589鄭汝立の乱&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1589|||1589年中国征服を狙う豊臣秀吉は、朝鮮に明征討の先鋒になるよう要求してきた。朝鮮は日本の真意を確認するため通信使を派遣した。帰朝した通信使は、「日本は侵攻の準備をしている」と報告したが、「秀吉を恐れる必要はない」との報告もあり、結局、防衛準備を行わなかった。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1589|||鄭汝立の乱&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1590|||RIGHT:COLOR(green):豊臣秀吉の全国統一''1590''http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1591|||1591年&deco(red){豊臣秀吉、インド副王(ポルトガル総督)に入貢要求。};&deco(red){この時、スペイン国王にも入貢要求};&deco(red){フィリピンに入貢要求。};&deco(red){唐陣(朝鮮出兵)を命じる。};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮、インド、スペインフィリピン、日本-)};||
|1592|||''文禄の役''&br;この頃、日本では、豊臣秀吉が日本を統一し、更に勢力拡大のため、大陸進出をはかろうとしていた。そして、1592年、いわゆる文禄の役が発生し、たちまちにして、首都漢城(ソウル)を攻略してしまう。当時腐敗が進んでいた朝鮮は、なすすべもなく、国土を疲弊してしまった。やがて、中国から明の援軍が進出して、戦線は膠着し、和議交渉を試みるが失敗に終る。1597年、日本は再度侵攻し、慶長の役が勃発する。しかし、秀吉の健康が損なわれ、戦争が泥沼状態になり、やがて、秀吉の死去によって、この7年に及ぶ戦乱は終結する。この動乱により、朝鮮は、政治的にも、経済的にも、また社会的にも、壊滅的な状態に追いやられ、破綻寸前に陥った。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1592|||1592壬辰の倭乱・丁西の倭乱(~1598:豊臣秀吉の2度の朝鮮侵攻で、全国土が戦乱の被害をうける)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1592|||壬辰倭乱(文禄の役)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1592|||1592年COLOR(blue):壬辰倭乱この朝鮮に対して豊臣秀吉が侵略のために軍を派遣します。「文禄・慶長の役」ですね。朝鮮の人々がいうところの「壬辰・丁酉(じんしん・ていゆう)の倭乱」です。この秀吉軍に激しく対抗し、活躍したのが朝鮮海軍の李舜臣(イスンシン)でした。韓国には現在でも英雄であり、銅像がいたるところに立っています。この秀吉の朝鮮侵略の計画は、秀吉の死により日本軍の撤退という形で終わりを告げますが、朝鮮にとっても大きな打撃となりました。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1592|||1592年(文禄元年)文禄の役この頃、日本では、豊臣秀吉が日本を統一し、更に勢力拡大のため、大陸進出をはかろうとしていた。日本軍が釜山に上陸し、いわゆる文禄の役が発生し、体制の整わない朝鮮軍は各地で破れ、たちまちにして、首都漢城(ソウル)を攻略し、数ヶ月で朝鮮全土が制圧された。釜山近くの蔚山城の戦いが有名。加藤清正はこの時虎退治をした。当時腐敗が進んでいた朝鮮は、なすすべもなく、国土を疲弊してしまった。朝鮮の国境、豆満江を越えて、満州のオラニンイ(ワルカ)へ支援要請を受けた明軍が到着し、義勇軍が立ち上がると戦線は膠着した。そして、一旦休戦し3年におよぶ和平交渉が始まったが決裂。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1592|||閑山島大捷.李瞬臣勝利&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1592|||壬辰の倭乱・丁西の倭乱(~1598:豊臣秀吉の2度の朝鮮侵攻で、全国土が戦乱の被害をうける)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1592|||壬辰倭乱(文禄の役).1回目の倭国秀吉軍の侵略.漢城陥落&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1592|||COLOR(blue):壬辰倭乱、閑山島大捷&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1592|5|3|朝鮮出兵の一番隊、小西行長・加藤清正が漢城(現在のソウル)に入城&size(6){(日本-日本、朝鮮-戦国時代)};||
|1593|||幸州大捷&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1593|||COLOR(blue):幸州大捷&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1597|||1597年慶長の役日本は再び侵攻してきた。北上する日本軍を漢城付近で明軍が迎え撃ち、泥沼の戦いが続いた。しかし、秀吉の健康が損なわれ、戦争が泥沼状態になり、やがて、秀吉の死去によって、この7年に及ぶ戦乱は終結する。この動乱により、朝鮮は、政治的にも、経済的にも、また社会的にも、壊滅的な状態に追いやられ、破綻寸前に陥った。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1597|||丁酉再乱(慶長の役).2回目の秀吉軍の侵略.&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1597|||丁酉倭乱(慶長の役)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1597|||丁酉再乱(慶長の役)が起こる&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1598|||秀吉死去.倭軍撤収始める&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1599|||1599年秀吉が死去し、日本軍は撤退した。現地の土地を出兵した者がのぞまないため、負けという形になった。この戦乱で朝鮮は崩壊寸前まで追いやられ、明も国力は弱体化し、滅亡の遠因になった。&br;朝鮮出兵→本当は「明」への出兵、唐陣。「明」←→中原のみの国&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1599|||1599年秀吉が死去し、日本軍は撤退した。現地の土地を出兵した者がのぞまないため、負けという形になった。この戦乱で朝鮮は崩壊寸前まで追いやられ、明も国力は弱体化し、滅亡の遠因になった。朝鮮出兵→本当は「明」への出兵、唐陣。「明」←→中原のみの国&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1599|||露梁大捷.李瞬臣流れ弾に当たり戦死.7年間の戦乱を終える&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1600|||RIGHT:COLOR(green):関が原の戦い''1600''http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1603|||RIGHT:COLOR(green):江戸幕府成立''1603''http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1607|||日本と国交回復.朝鮮通信使始まる(~1811)&size(6){(東アジア-朝鮮、日本、李氏朝鮮-)};||
|1607|||1607回答兼刷還使を日本へ派遣する&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1607|||1607年日本との関係は。秀吉の死後、朝鮮通信使が日本に送られ関係を修復しました。朝鮮通信使→人質奪還のための使節。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1607|||回答兼刷還使を日本へ派遣する&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1608|||京幾道で大同法を実施&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1608|||京畿道に大同法実施.土地の結数によって米,布,銭で税を貢納&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1608|||光海君が即位。北人政権が成立。京畿道に大同法を実施&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1608|||COLOR(blue):京畿道に大同法実施&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1609|||日本と己酉約定締結&size(6){(東アジア-朝鮮、日本、李氏朝鮮-)};||
|1609|||1609李氏朝鮮と対馬の宗氏との間で己酉約条(慶長条約)が結ばれ、貿易が再開される&size(6){(対馬)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1609|||1609年その後も、王位継承をめぐる争いは、断続的に発生し、紆余曲折があるが、1609年になって、日本と和約し、外交面での修復が展開されていく。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1609|||1609年日本と和約し外交関係の修復にも力を入れた(朝鮮通信使)。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1609|||その後も、王位継承をめぐる争いは、断続的に発生し、紆余曲折があるが、1609年になって、日本と和約し、外交面での修復が展開されていく。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1609|||己酉約条締結.対馬の宗氏に通交貿易許す.富山(釜山)浦に再び倭館設置&size(6){(対馬)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1609|||李氏朝鮮と対馬の宗氏との間で己酉約条(慶長条約)が結ばれ、貿易が再開される&size(6){(対馬)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1609|||COLOR(blue):日本と己酉約条締結&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1610|||朝鮮の伝統医学の集大成「東医宝鑑」完成&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1610|||COLOR(blue):「東医宝鑑」完成&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1611|||量田実施.農地の実情を調査し国家財源の増大に努める&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1613|||七庶の獄&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1616|||1616光海君の明・金中立外交&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1616|||1616年中国では明が衰え、満州に後金が独立した。#style(class=box_black_swm){{満州・・・非漢字国満州人満州語・・アルタイ語系文字}}&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1616|||1616年中国では明が衰え、満州に後金が独立した。&br;満州・・・非漢字国満州人満州語・・アルタイ語系文字&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1616|||光海君の明・金中立外交&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1616|||琉球から煙草輸入される&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1619|||1619サルホの戦いで後金軍に敗れる&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1619|||サルホの戦いで後金軍に敗れる&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1623|||1623仁祖反正で光海君廃位&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1623|||1623年COLOR(blue):仁祖反正&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1623|||仁祖反正.西人派が北人派を一掃し,仁祖を王に擁立する武力政変&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1623|||仁祖反正で光海君廃位&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1623|||COLOR(blue):仁祖反正&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1624|||李?の乱&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1624|||李ファルの乱.仁祖反正後の論功行賞に対する不満&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1624|||COLOR(blue):李?の乱&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1627|||1627丁卯胡乱(後金の朝鮮侵攻)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1627|||1627年後金(後の清)のヌルハチホンタイジ(女真人・満州人)は明と同盟関係にある朝鮮に侵攻してきた。朝鮮軍は敗北を重ね、皇帝は江華島へ避難した。その後、後金に服従することで講和が成立、交易開始、後金軍は撤退した。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1627|||丁卯胡乱(後金の朝鮮侵攻)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1627|||丁卯胡乱(後金軍の侵入)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1627|||丁卯胡乱.後金(後の清)鴨緑江を越え侵入&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1627|||丁卯胡乱(後金軍の侵入)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1627|||COLOR(blue):丁卯胡乱&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1628|||オランダ人ベルテブレ,済州島漂着.帰化し朝鮮人女性と結婚&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1628|||COLOR(blue):ベルテブレ、済州島漂着&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1629|||平安道・黄海道の流浪民の明火賤集団により漢城攻略&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1631|||鄭斗源,明から千里眼,時計,鉄砲を伝える&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1631|||COLOR(blue):鄭斗源が明から千里鏡、%%時計%%自鳴鍾、%%鉄砲%%火砲などを輸入&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1636|||1636清のホンタイジが朝鮮に親征(丙子胡乱)、朝鮮国王仁祖、南漢山城に篭城、(後金、国号を清とする)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1636|||1636年COLOR(blue):丙子胡乱後金は国号を清とし、清に服従することと明討伐の派遣軍3万の提供を要求してきた。朝鮮はこれを拒否、清は12万の大軍で侵攻してきた。朝鮮軍はなすすべもなく40日あまりで降伏した。朝鮮は明と断交すること、王子を人質に差し出すこと、莫大な賠償金を支払うなどの屈辱的な講和条約を結ばされた。また、朝鮮王の仁祖は、清の皇帝の前で三跪九叩頭の礼を行い、服従する誓いをさせられた。【三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)】中国皇帝に臣下の礼をとるため、三度ひざまずき、九度頭を地にこすりつける儀式。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1636|||清のホンタイジが朝鮮に親征(丙子胡乱)、朝鮮国王仁祖、南漢山城に篭城、(後金、国号を清とする)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1636|||丙子胡乱、清国への朝貢を行う&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1636|||丙子胡乱.清が君臣関係を要求し侵略.世子を人質として清へ送る&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1636|||丙子胡乱、清国への朝貢を行う&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1636|||COLOR(blue):丙子胡乱&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1637|>|>|''1637年~1897年:清(属国)''&size(6){(よいこの正しい半島歴史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|1637|||1637仁祖(朝鮮王)降伏、明に替わり、清の皇帝を認める(大清皇帝功徳碑)、以後、1895年の下関条約締結まで、朝鮮は清に臣従する、小中華思想(朝鮮のみが、中華文明の継承者であるとする)が髙揚&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1637|||仁祖(朝鮮王)降伏、明に替わり、清の皇帝を認める(大清皇帝功徳碑)、以後、1895年の下関条約締結まで、朝鮮は清に臣従する、小中華思想(朝鮮のみが、中華文明の継承者であるとする)が髙揚&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1637|||清の北京に国家使節として燕行使派遣.1894年まで続く&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1645|||昭顕世子,清から化学,カトリック教などの洋書を伝える&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1645|||昭顕世子が清からカトリック書や科学書などを持ち帰る&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1645|||昭顕世子が清からカトリック書や科学書などを持ち帰る&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1645|||COLOR(blue):昭顕世子が清から科学書籍、カトリック書籍など%%の洋書%%を輸入&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1646|||林慶業の乱.下層民衆の反乱.失敗に終わる&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1650|||17世紀この頃の朝鮮半島は中国の清による冊封体制の中にありました。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1650|||17世紀前半清から攻撃を受け、朝鮮は清の属国となりました。朝鮮の朝貢物は女性(生口)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1653|||ハメル,済州島漂着.後に脱出し「朝鮮幽囚記」を著す&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1653|||時憲暦採択.太陰暦と太陽暦を合わせて,二十四節気と1日の時間を計算&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1653|||COLOR(blue):ハメル、済州島漂着&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1653|||COLOR(blue):時憲暦採択&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1654|||1654年COLOR(blue):羅禅征伐&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1654|||第一次羅禪(ロシア)征伐.黒龍江へ侵略した羅禪を清の要請で撃退&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1658|||第二次羅禪征伐.朝鮮の鳥銃軍,再度ロシアを撃退&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1658|||COLOR(blue):第二次羅禅征伐&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1659|||胡西地方に大同法実施.民衆の税負担を減らす&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1659|||COLOR(blue):湖西地方に大同法実施&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1660|||1660己亥礼訟(礼論が起こる)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1660|||己亥礼訟(礼論が起こる)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1662|||堤堰司設置&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1662|||COLOR(blue):堤堰司設置&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1674|||甲寅礼訟により、南人が政権を握る(両班制度の中の党派争い)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1674|||甲虎礼訴が起こり、南人政権が成立&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1678|||常平通宝鋳造.朝鮮後期の法貨の誕生&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1678|||COLOR(blue):常平通宝鋳造&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1680|||1680庚申換局&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1680|||COLOR(blue):西人政権&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1680|||庚申換局.南人派が失脚し西人政権樹立.一党専制化始まる&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1680|||庚申換局&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1680|||酉人政権が成立(庚申換局)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1680|||酉人政権が成立(庚申換局)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1683|||1683西人が老論と少論に分裂&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1683|||西人が老論と少論に分裂&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1688|||京畿道楊州で弥勒信仰者が漢城に侵攻しようとするが失敗&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1689|||1689己巳換局&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1689|||己巳換局&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1689|||己已換局、西人政権が再び南人政権へ&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1689|||己已換局、西人政権が再び南人政権へ&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1694|||1694粛宗の治世に甲戌の獄起こる&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1694|||甲戌換局、西人が再び政権を掌握&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1694|||粛宗の治世に甲戌の獄起こる&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1694|||申戌換局.南人派が小論派除去に失敗して打撃を受ける&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1694|||甲戌換局、西人が再び政権を掌握&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1696|||安龍福,鬱陵島から日本人追放.独島(竹島)を朝鮮領土として主張&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1696|||COLOR(blue):安龍福、欝陵島から日本人を%%追放%%追い払う&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1697|||義賊,張吉山の乱.反政府活動を続けるが最後まで逮捕されず&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1700|||''17世紀末''&br;党派政争が次第に激しくなり、さまざまな、政策が打ち出され、王権の強化拡大策が試みられる。この頃、中国の清との間で領土問題が発生したり、日本との間では、鬱陵島やその周辺の島々の帰属問題が発生した。当時の江戸幕府は、鬱陵島を朝鮮の領土として承認する協定を締結した。現在、日韓で懸案の、竹島(独島)の帰属問題は、このときの協定内容に起因する争いである。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1700|||17世紀この頃の朝鮮半島は中国の清による冊封体制の中にありました。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1700|||17世紀前半清から攻撃を受け、朝鮮は清の属国となりました。朝鮮の朝貢物は女性(生口)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1700|||17世紀末党派政争が次第に激しくなり、さまざまな、政策が打ち出され、王権の強化拡大策が試みられる。この頃、中国の清との間で領土問題が発生したり、日本との間では、鬱陵島やその周辺の島々の帰属問題が発生した。当時の江戸幕府は、鬱陵島を朝鮮の領土として承認する協定を締結した。現在、日韓で懸案の、竹島(独島)の帰属問題は、このときの協定内容に起因する争いである。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1700|||17世紀末党派政争が次第に激しくなり、さまざまな、政策が打ち出され、王権の強化拡大策が試みられる。この頃、中国の清との間で領土問題が発生したり、日本との間では、鬱陵島やその周辺の島々の帰属問題が発生した。当時の江戸幕府は、鬱陵島を朝鮮の領土として承認する協定を締結した。現在、日韓で懸案の、竹島(独島)の帰属問題は、このときの協定内容に起因する争いである。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1708|||全国的に大同法施行.土地所有の程度により税を負担&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1708|||COLOR(blue):全国に大同法施行&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1712|||1712白頭山に定界碑を建立&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1712|||清との領界を定める白頭山定界碑建立&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1712|||白頭山に定界碑を建立&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1712|||COLOR(blue):白頭山定界碑建立&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1716|||RIGHT:COLOR(green):享保の改革''1716''http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1721|||1721景宗の治世に、壬寅の獄起こる(~1722辛壬士禍)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1721|||景宗の治世に、壬寅の獄起こる(~1722辛壬士禍)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1724|||《英祖即位(在~1776)》&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1725|||1725年COLOR(blue):蕩平策実施&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1725|||圧膝刑や死者に罪を追加して再度殺す刑罰を禁止&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1725|||蕩平策実施.党争の悪弊を正し,王権の伸張と不偏不党を図る&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1725|||老論政権成立&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1725|||COLOR(blue):蕩平策実施&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1727|||丁未換局、少論政権成立&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1727|||丁未換局、少論政権成立&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1728|||1728李麟佐の乱&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1728|||李鱗佐の乱.政界から追放された過激派勢力が政権を奪取しようとする&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1728|||李麟佐の乱&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1729|||三覆法制定.死刑囚への初審,再審,三審を認める&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1750|||1750年COLOR(blue):均役法実施&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1750|||均役法実施.奴婢以外の成年男子に軍役を課し,身役と賦役の弊害を正す&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1750|||均役法実施される&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1750|||均役法実施される&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1750|||COLOR(blue):均役法実施&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1759|||「東史綱目」完成.正史の間違いを批判.野史も取り入れる&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1762|||1762英祖の治世に荘献世子事件起こる、精神を病んだ荘献世子が異常な行動を取り、王命により米櫃の中に閉じ込められ、餓死する&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1762|||英祖の治世に荘献世子事件起こる、精神を病んだ荘献世子が異常な行動を取り、王命により米櫃の中に閉じ込められ、餓死する&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1763|||1763年朝鮮通信使が日本からサツマイモを持ち帰り、朝鮮で食糧対策の一環として取り入れられた。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1763|||さつまいも日本より伝来&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1763|||朝鮮通信使が日本からサツマイモを持ち帰り、朝鮮で食糧対策の一環として取り入れられた。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1763|||COLOR(blue):さつまいもの伝来&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1772|||RIGHT:COLOR(green):老中田沼意次、田沼時代が始まる''1772''http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1774|||個人の家での刑罰「濫刑」や,男性器を切り取る「鯨刺」禁止&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1776|||1776年COLOR(blue):奎章閣設置&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1776|||昌徳宮の北苑に奎章閣設置.文芸の中心機関となる&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1776|||COLOR(blue):奎章閣設置&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1782|||RIGHT:COLOR(green):天明の大飢饉(~87)''1782''http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1784|||1784李承薫が天主教の書籍を持ち込む&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1784|||李承薫、北京で洗礼を受けて帰国、伝道を行う&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1784|||李承薫,北京で西洋の神父より洗礼を受け帰国,天主教伝道&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1784|||李承薫が天主教の書籍を持ち込む&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1784|||李承薫、北京で洗礼を受けて帰国、伝道を行う&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1784|||COLOR(blue):李承薫の%%天主教%%カトリック伝道&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1785|||COLOR(blue):「大典通編」完成&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1786|||1786年COLOR(blue):西学禁止&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1786|||西学(天主教)禁じる&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1786|||西学が禁止される&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1786|||西学が禁止される&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1786|||COLOR(blue):西学を禁じる&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1787|||RIGHT:COLOR(green):寛政の改革&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1791|||1791辛亥通共政策(商業における自由売買を決める)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1791|||辛亥通共政策(商業における自由売買を決める)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1796|||1796正祖による水原城(華城)建設、(朝鮮後半の全盛期)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1796|||正祖による水原城(華城)建設、(朝鮮後半の全盛期)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1800|||18世紀中国を経由してカトリックが入ってくる。朝鮮内部では、王朝が強力に推進してきた儒教との対比で、容認派と反対派との抗争が起こり、朝鮮王朝は、1791年、ついにカトリック弾圧を実施した。そして、これを皮切りに、以後数次にわたり、カトリック弾圧が断行され、多くの犠牲者も出した。このカトリック弾圧に対しては、19世紀になってからも、西洋諸国からの強力な抗議・干渉が、高まって行く。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1800|||18世紀中国を経由してカトリックが入ってくる。朝鮮内部では、王朝が強力に推進してきた儒教との対比で、容認派と反対派との抗争が起こり、朝鮮王朝は、1791年、ついにカトリック弾圧を実施した。そして、これを皮切りに、以後数次にわたり、カトリック弾圧が断行され、多くの犠牲者も出した。このカトリック弾圧に対しては、19世紀になってからも、西洋諸国からの強力な抗議・干渉が、高まって行く。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1800|||18世紀末中国を経由してカトリックが入ってくる。朝鮮内部では、王朝が強力に推進してきた儒教との対比で、容認派と反対派との抗争が起こり、朝鮮王朝は、1791年、ついにカトリック弾圧を実施した。そして、これを皮切りに、以後数次にわたり、カトリック弾圧が断行され、多くの犠牲者も出した。このカトリック弾圧に対しては、19世紀になってからも、西洋諸国からの強力な抗議・干渉が、高まって行く。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1801|||アメリカン・ドリームリンカーン(大統領)、ロックフェラー(石油王)、モルガン(銀行王)、カーネギー(鉄鋼王)、フォード(自動車王)、ハリマン(鉄道王)、ピューリツァー(新聞王)など多数。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1801|||1801年COLOR(blue):辛酉迫害&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1801|||辛酉邪獄(天主教徒[カトリック]と中国人神父の殺害)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1801|||辛酉迫害(辛酉邪獄)、天主教に寛大であった時派への弾圧&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1801|||COLOR(blue):辛酉迫害&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1804|||1804《純祖の治世、安東金氏による権勢政治(~1863年)》、士林派の終焉&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1804|||《純祖の治世、安東金氏による権勢政治(~1863年)》、士林派の終焉&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1811|||1811洪景来の乱(~1812地方差別に反発した一揆)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1811|||1811年COLOR(blue):洪景来の乱&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1811|||洪景来の乱(~1812地方差別に反発した一揆)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1811|||洪景来の乱&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1811|||最後の朝鮮通信使,対馬に来着&size(6){(対馬)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1811|||没落両班,洪景来の乱.農民とともに平安道で起こる&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1811|||洪景来の乱&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1811|||COLOR(blue):洪景来の乱&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1825|||RIGHT:COLOR(green):異国船打払令''1825''http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1831|||天主教朝鮮教区設置&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1831|||COLOR(blue):カトリック朝鮮教区設置&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1832|||イギリス船、アートマス号が来航して通商を求める&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1832|||イギリス船ロード・アーマスト号来航し通商を求める&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1832|||イギリス船、アートマス号が来航して通商を求める&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1832|||英国商船来航し、通商をもとめる&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮、イギリス-)};||
|1837|||RIGHT:COLOR(green):大塩平八郎の乱''1837''http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1839|||1839己亥迫害(漢城の天主教徒の弾圧)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1839|||己亥邪獄.フランス人神父と信者多数処刑&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1839|||己亥迫害(漢城の天主教徒の弾圧)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1839|||斥邪綸音公布.民衆に公式にカトリック教を禁じる教書を下す&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1839|||已亥迫害&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1839|||COLOR(blue):己亥迫害&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1845|||イギリスの軍艦サマラン号が済州島と西海岸を不法に測量する&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1846|||1846丙午迫害(天主教徒の漢江畔での処刑)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1846|||フランス軍,カトリック教弾圧に抗議し忠清道に入り書簡を渡す&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1846|||丙午迫害(天主教徒の漢江畔での処刑)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1853|7|8|RIGHT:COLOR(green):日本へアメリカの使節ペリー提督らの黒船が浦賀に来航''1853''(嘉永6年6月3日)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1854|||RIGHT:COLOR(green):日米和親条約締結''1854''http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1856|||RIGHT:COLOR(green):ハリス来日''1856''http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1858|||RIGHT:COLOR(green):日米修好通商条約締結''1858''http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1859|||RIGHT:COLOR(green):安政の大獄''1859''http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1860|||崔済愚,東学(西教のカトリック教に対し,東方の道を立てる)創始&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1860|||COLOR(blue):崔済愚、東学創始&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1861|||金正浩,「大東輿地図」作成.産業,文化への関心を反映&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1861|||COLOR(blue):金正浩、「大東輿地図」をつくる&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1862|||慶州道の晋州地方から農民蜂起始まる&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1862|||1862年COLOR(blue):壬戌農民蜂起&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1862|||慶州道の晋州地方から農民蜂起始まる&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1862|||COLOR(blue):%%壬戌%%農民蜂起&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1863|||1863《哲宗崩御し、高宗即位》、大院君政権の成立(王権強化)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1863|||《哲宗崩御し、高宗即位》、大院君政権の成立(王権強化)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1863|||''近代社会?(~1945)''&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1863|||1863年COLOR(blue):興宣大院君、執権。大院君の鎖国政策。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1863|||高宗即位.父の興宣大院君執権.実権を握る&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1863|||COLOR(blue):高宗即位。興宣大院君執権&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1865|||1865年閔妃が王妃に。#style(class=box_black_swm){{閔妃・・・1851ー95年閔茲暎、公宗の王妃。後の明成皇后。}}&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1865|||1865年閔妃が王妃に。&br;閔妃・・・1851ー95年閔茲暎、公宗の王妃。後の明成皇后。}}&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1865|||壬辰倭乱で焼失した景福宮再建(~1872)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1865|||COLOR(blue):景福宮再建(-1872)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1866|||1866キリスト教を弾圧し、信者1000人の死傷者を出した&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1866|||1866丙寅教獄(フランス人神父を含む多数の天主教徒の処刑により、フランス艦隊の江華島攻撃)、丙寅洋擾(アメリカ武装商船シャーマン号が朝鮮軍人の拉致や発砲を行うも、逆に焼討ちにあい全員殺害される)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1866|||1866年COLOR(blue):丙寅迫害→丙寅洋擾カトリック虐殺→舐めきって準備不足の仏に勝利?ジェネラルシャーマン号事件。アメリカ商船を奇襲、虐殺。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1866|||1866年高宗の王妃に。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1866|||キリスト教を弾圧し、信者1000人の死傷者を出した&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1866|||ドイツの冒険商人,交易を拒否され大院君の父の墓をあばこうとして失敗&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1866|||丙虎邪獄。シャーマン事件&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1866|||丙寅教獄(フランス人神父を含む多数の天主教徒の処刑により、フランス艦隊の江華島攻撃)、丙寅洋擾(アメリカ武装商船シャーマン号が朝鮮軍人の拉致や発砲を行うも、逆に焼討ちにあい全員殺害される)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1866|||丙寅迫害.天主教に対する弾圧.9人のフランス人神父と数千人の信徒が処刑&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1866|||丙寅洋擾.丙寅迫害に対してフランス侵略するが撃退&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1866|||平壌洋擾.アメリカの武装商船ゼネラル・シャーマン号焼打ち&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1866|||丙虎邪獄。シャーマン事件&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1866|||COLOR(blue):丙寅迫害、丙寅洋擾&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1867|||1867年(明治元年)明治政府は宗氏を通じ、王政復古を朝鮮に通達。「皇」「勅」の字の多用に朝鮮が怒り、受け取り拒否。以後、朝鮮は日本使者に非礼。帰国後、全員が「即時征韓論」を唱える。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1867|||RIGHT:COLOR(green):大政奉還、王政復古''1867''http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1868|||RIGHT:COLOR(green):戊辰戦争、明治維新&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1871|||1871年COLOR(blue):辛未洋擾COLOR(black):、米軍、江華島で報復。朝鮮軍敗北も「賛国維持」で勝利と宣伝。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1871|||辛未洋擾、アメリカ艦隊、江華島へ侵攻&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1871|||辛未洋擾.アメリカの艦隊が江華島に侵入,撃退&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1871|||辛未洋擾、アメリカ艦隊、江華島へ侵攻&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1871|||COLOR(blue):辛未洋擾&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1873|||朝鮮で閔氏が政権を奪取&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|1873|||《大院君追放、閔妃を中心にした閔氏政権の成立》&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1873|||1873年大院君失脚により、閔一族の権勢。高宗、親政。&br;同族争いの歴史&br;輿宣大院君━┳━┃高宗━━━閔妃&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1873|||1873年(明治6年)征韓論争&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1873|||大院君政権が倒れ、閔氏政権が成立&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1874|||1874年(明治7年)純宗、出産。高宗、妾に男子有り。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1875|||1875江華島事件(日本が朝鮮との国交通商を要求し武力示威した事件)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1875|||1875年(明治8年)清に息子を王世子と認めてもらう。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1875|||1875年(明治8年)日本軍と朝鮮軍との間で江華島事件(こうかとうじけん)がおきます。これは、日本軍が朝鮮付近の海を測量したのに対して朝鮮軍との間に衝突が起きたのですね。日本に媚びる。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1875|||江華島事件&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1875|||江華島事件(日本が朝鮮との国交通商を要求し武力示威した事件)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1875|||江華島事件。雲揚号が江華島へ侵攻&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1875|||日本の軍艦雲揚号江華島へ侵入.武力示威を展開.永宗島占拠&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1875|||江華島事件。雲揚号が江華島へ侵攻&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1875|||COLOR(blue):雲揚号事件&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1876|||日本と江華島条約(日朝修好条規)締結&size(6){(東アジア-朝鮮、日本、李氏朝鮮-)};||
|1876|||1876日朝修好条規を結ぶ、釜山など三港の開港と自由貿易、開港場の居留地、日本商民への領事裁判権の承認、日本貨幣の流通、輸出入品への関税免除など、参考:、(1880)日本公使の常駐、元山の開港、無関税規定の改定、(1883)仁川の開港&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1876|||1876年COLOR(blue):江華島条約江華島事件の翌年には、日本は朝鮮との間に不平等条約「日朝修好条規」を結ぶことに成功しました。この日朝修好条規により朝鮮は日本に対して釜山、元山、仁川を開港し、開港地には日本の居留地を設定しなければならず、領事裁判権を認め、関税自主権も失うことになります。これによって、日本人が朝鮮に渡って、米の流通を牛耳ってしまうんですね。そして、大量の穀物などが日本に輸入され、朝鮮では穀物の価格がどんどん高くなってしまう事態となります。1876年には、当時の開国派政権との間で、いわゆる江華島条約(日朝修好条規)を締結する。これに引き続いて、アメリカ、フランス、ロシアなどと、相次いで通商条約を結ぶことになる。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1876|||1876年王朝内部の抗争は、絶えることなく続くが、一方で、徐々に迫ってくる諸外国に対しては、とうとう強硬な鎖国政策をとることとなる。だが、これが、後年、朝廷混乱に拍車をかけることになる。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1876|||1876年(明治9年)日朝修好条規清の宗主権を否定両班でない階層は、親日派で近代化を目指す宮中で興宣大院君と閔妃が権力争いを繰り返す日清の条約の後&br;※両班''朝鮮の身分制度''・・・千年にわたる、非人間的な身分制度&br;貴族・・・王族及びその縁者両班・・・特権階級併合前の李氏朝鮮末期、戸籍上の半数中人・・・官僚機構をになう専門職常民・・・多くが小作農、実質的な人権がない常奴の蔑称も七賎・・・賎民階層(商人、船夫、獄卒、逓夫、僧侶、白丁、巫女、李朝時代には妓生(きいせん))白丁は戸籍が無く、性も無い、その他いくつもの禁止事項が。奴婢・・・家畜同然で、他人に売買はされる存在。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1876|||1876年(明治9年)日朝修好条規清の宗主権を否定両班でない階層は、親日派で近代化を目指す宮中で興宣大院君と閔妃が権力争いを繰り返す日清の条約の後&br;※両班''朝鮮の身分制度''・・・千年にわたる、非人間的な身分制度&br;貴族・・・王族及びその縁者&br;両班・・・特権階級併合前の李氏朝鮮末期、戸籍上の半数&br;中人・・・官僚機構をになう専門職&br;常民・・・多くが小作農、実質的な人権がない常奴の蔑称も&br;七賎・・・賎民階層(商人、船夫、獄卒、逓夫、僧侶、白丁、巫女、李朝時代には妓生(きいせん))白丁は戸籍が無く、性も無い、その他いくつもの禁止事項が。&br;奴婢・・・家畜同然で、他人に売買はされる存在。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1876|||RIGHT:COLOR(green):日朝修好条規締結''1867''http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1876|||王朝内部の抗争は、絶えることなく続くが、一方で、徐々に迫ってくる諸外国に対しては、とうとう強硬な鎖国政策をとることとなる。だが、これが、後年、朝廷混乱に拍車をかけることになる。しかし、やがて、1875年、日本軍は、開国を求めて、江華島に侵入し、1876年には、当時の開国派政権との間で、いわゆる江華島条約(日朝修好条規)を締結する。これに引き続いて、アメリカ、フランス、ロシアなどと、相次いで通商条約を結ぶことになる。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1876|||江華条約(日朝修好条規)調印。釜山港開港&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1876|||日朝修好条規を結ぶ、釜山など三港の開港と自由貿易、開港場の居留地、日本商民への領事裁判権の承認、日本貨幣の流通、輸出入品への関税免除など、参考:、(1880)日本公使の常駐、元山の開港、無関税規定の改定、(1883)仁川の開港&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1876|||江華条約(日朝修好条規)調印。釜山港開港&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1876|||COLOR(blue):江華島条約を締結&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1877|||RIGHT:COLOR(green):西南戦争''1877''http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1877|||釜山に日本人居留地設置&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1879|||池錫永,種痘法実施&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1879|||COLOR(blue):池錫永、種痘法実施&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1881|||1881年COLOR(blue):調査視察団(紳士遊覧団)、領選使派遣&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1881|||日本へ紳士遊覧団および清国へ領選使派遣.開化政策を推進&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1881|||COLOR(blue):紳士遊覧団および領選使派遣&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1882|||1882大院君、開化政策の否定とする、壬午軍乱(軍内における棒給などの不満による暴動で、閔政権打倒される)起こる、朝米(朝英・朝独)修好通商条約の締結、清国は壬午軍乱を鎮圧し、ソウルに軍隊を駐留させ、朝中商民水陸貿易章程を締結する、清国による内政干渉がはじまる&br;''壬午事変後の朝鮮''&br;・朝清商民水陸貿易章程で経済的に属国化・馬建忠とメレンドルフが顧問に。閔妃はメレンドルフ(高宗側近)と組みロシアに色目。・・・清の不信。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1882|||1882年COLOR(blue):米朝修好通称条約壬午事変(じんごじへん)COLOR(blue):壬午軍乱(じんごぐんらん)壬午事変というのは、朝鮮にて当時、政権を握っていた閔氏(びんし)人物が日本と友好であったが為、それに反発するグループがクーデターを起こした事件です。結局、これには日本軍、清軍が介入し鎮圧。この事件後、日本はソウルにおける日本軍の駐留権を認めさせ、清も朝鮮に対して軍隊を指導するなど内政干渉を強めていきます。ちなみに、この事件の後、それまで親日的であった閔氏は内政干渉を強める清よりへと傾いていきます。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1882|||1882年大院君、復権。&br;''壬午事変前の改革''&br;閔氏政権vs金弘集・開化政策・清を見習う日本を見習う日本人顧問を呼んで新式訓練(別技軍)&br;''壬午事変''&br;・給与13ヶ月分に旧式軍人が激怒7月23日蜂起・金弘集ら事大党、日本公使館を焼くなどクーデター・大院君が担がれる・閔妃は女官に紛れ脱出→日本を見捨て清(袁世凱)を頼る&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1882|||1882年大院君、復権。&br;''壬午事変前の改革''&br;閔氏政権vs金弘集&br;・開化政策&br;・清を見習う日本を見習う日本人顧問を呼んで新式訓練(別技軍)&br;''壬午事変''&br;・給与13ヶ月分に旧式軍人が激怒7月23日蜂起&br;・金弘集ら事大党、日本公使館を焼くなどクーデター&br;・大院君が担がれる&br;・閔妃は女官に紛れ脱出→日本を見捨て清(袁世凱)を頼る&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1882|||1882年8月30日済物浦条約日本は軍艦5隻に陸軍一個大隊と海軍陸戦隊を載せ、仁川から一気にソウルまで駆け上がり、居留民保護。以下を朝鮮に認めさせる・謝罪・責任者処罰・賠償・公使館警備のための軍隊駐留(再発防止)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1882|||壬午軍乱&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1882|||壬午軍乱&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1882|||壬午軍乱.旧式軍隊への差別待遇に対する不満爆発&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1882|||大院君、開化政策の否定とする、壬午軍乱(軍内における棒給などの不満による暴動で、閔政権打倒される)起こる、朝米(朝英・朝独)修好通商条約の締結、清国は壬午軍乱を鎮圧し、ソウルに軍隊を駐留させ、朝中商民水陸貿易章程を締結する、清国による内政干渉がはじまる&br;''壬午事変後の朝鮮''&br;・朝清商民水陸貿易章程で経済的に属国化&br;・馬建忠とメレンドルフが顧問に。閔妃はメレンドルフ(高宗側近)と組みロシアに色目。・・・清の不信。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1882|||米・英・独と通商条約締結.日本とロシアを牽制&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1882|||壬午軍乱&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1882|||COLOR(blue):壬午軍乱&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1882|||COLOR(blue):%%米英独など%%アメリカ、イギリス、ドイツと通商条約締結&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1883|||元山学舎設立&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1883|||太極旗使用&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1883|||典圜局設置.貨幣発行&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1883|||博文局設立.開化党,朝鮮初の近代的新聞「漢城旬報」発刊&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1883|||COLOR(blue):「漢城旬報」発刊&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1883|||COLOR(blue):曲圜局設置&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1883|||COLOR(blue):元山学舎設立&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1883|||COLOR(blue):大極旗使用&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1884|||1884朝露修好通商条約の締結、甲申政変(甲申事変)、開化派のクーデターは失敗に終わり、事大派の勝利となる&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1884|||1884年12月4日COLOR(blue):甲申事変(こうしんじへん)そして、そのすぐ後、甲申事変が起きます。これは、朝鮮にて清の影響力が強まる中、日本と組んで近代化を目指した方がいい!というグループがクーデターを起こすのです。もちろん彼らは自分達だけでは無理なので日本の軍にも期待しています。それに対して、閔氏は清に援軍を要請します。朝鮮の人々の中でも日本につくか?清につくか?で争いが頻発した時代ですね。しかし、日本も清も本気で戦争を始められる状態では当時なかった。1884年といえば清はベトナムをめぐって清仏戦争を起こしていて、日本も自由民権運動の真っ只中。そこで、両国間の間で天津条約(てんしんじょうやく)というのが結ばれます。これは、とりあえず、両国とも軍を朝鮮から軍を引き上げましょう。また、今後朝鮮への出兵する際には事前に通告をし合うことにしましょう。と約束事を設けたんですね。閔妃失脚も、清の力で復権。&br;''甲申事変''&br;金玉均、竹添進一郎日本公使館の協力を得て、閔氏政権に対して、クーデター&br;1.国王殿下の呼称の廃止皇帝陛下として独立国の君主として振る舞う事。2.清国に対して、朝貢の礼を廃止する事。3.内閣を廃し、税制を改め、宦官の制を廃する事。&br;など、14項目の政策を発表&br;清は、清仏戦争の敗北により、全力を朝鮮に。閔妃は、再び清を頼る。日本軍150対清国1500で銃撃戦。&br;清軍、日本公使館焼き討ち。市街で居留民虐殺。竹添、長崎へ脱出。金玉均、朴永孝も日本へ亡命。3日で、クーデター失敗。清は、大院君を送り出す。&br;''甲申事変後の処理''&br;・閔妃の復讐・開化は要人の家族、凌遅刑・金玉均、暗殺団、組織&br;漢城条約(日本に対して)・謝罪・賠償金&br;事大主義強い方に付く、勝ちそうな方に付く。親清・親露・親日の見方はできない。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1884|||1884年12月4日COLOR(blue):甲申事変(こうしんじへん)そして、そのすぐ後、甲申事変が起きます。これは、朝鮮にて清の影響力が強まる中、日本と組んで近代化を目指した方がいい!というグループがクーデターを起こすのです。もちろん彼らは自分達だけでは無理なので日本の軍にも期待しています。それに対して、閔氏は清に援軍を要請します。朝鮮の人々の中でも日本につくか?清につくか?で争いが頻発した時代ですね。しかし、日本も清も本気で戦争を始められる状態では当時なかった。1884年といえば清はベトナムをめぐって清仏戦争を起こしていて、日本も自由民権運動の真っ只中。そこで、両国間の間で天津条約(てんしんじょうやく)というのが結ばれます。これは、とりあえず、両国とも軍を朝鮮から軍を引き上げましょう。また、今後朝鮮への出兵する際には事前に通告をし合うことにしましょう。と約束事を設けたんですね。閔妃失脚も、清の力で復権。&br;''甲申事変''金玉均、竹添進一郎日本公使館の協力を得て、閔氏政権に対して、クーデター&br;1.国王殿下の呼称の廃止皇帝陛下として独立国の君主として振る舞う事。&br;2.清国に対して、朝貢の礼を廃止する事。&br;3.内閣を廃し、税制を改め、宦官の制を廃する事。&br;など、14項目の政策を発表清は、清仏戦争の敗北により、全力を朝鮮に。閔妃は、再び清を頼る。日本軍150対清国1500で銃撃戦。清軍、日本公使館焼き討ち。市街で居留民虐殺。竹添、長崎へ脱出。金玉均、朴永孝も日本へ亡命。3日で、クーデター失敗。清は、大院君を送り出す。&br;''甲申事変後の処理''&br;・閔妃の復讐・開化は要人の家族、凌遅刑&br;・金玉均、暗殺団、組織漢城条約(日本に対して)&br;・謝罪&br;・賠償金&br;''事大主義''&br;強い方に付く、勝ちそうな方に付く。親清・親露・親日の見方はできない。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1884|||甲申政変&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1884|||甲申政変.開化党による政変革命.清国軍の介入により3日天下に終わる&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1884|||甲申政変(甲申事件)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1884|||朝露修好通商条約の締結、甲申政変(甲申事変)、開化派のクーデターは失敗に終わり、事大派の勝利となる&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1884|||郵政局設置.近代的郵政事業を目指す&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1884|||甲申政変&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1884|||COLOR(blue):郵政局設置&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1884|||COLOR(blue):甲申政変&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1885|||日本と漢城条約の締結、英艦隊、巨文島を占領する、(日清間に天津条約の締結)&size(6){(東アジア-朝鮮、日本、李氏朝鮮-)};||
|1885|||1885日本と漢城条約の締結、英艦隊、巨文島を占領する、(日清間に天津条約の締結)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1885|||1885年4月天津条約・朝鮮より、両軍の撤兵・軍事顧問団不派遣・出兵前に事前通告の原則&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1885|||1885年COLOR(blue):巨文島事件&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1885|||1885年ロシアを後盾にしようとして失敗。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1885|||ソウル・仁川間電信開通&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1885|||巨文島事件.イギリス巨文島を占領,ポール・ハミルトンと命名&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1885|||広恵院設立&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1885|||培材学堂設立&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1885|||COLOR(blue):巨文島事件&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1885|||COLOR(blue):培材学堂設立&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1885|||COLOR(blue):ソウル・仁川間電信開通&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1885|||COLOR(blue):広恵院設立&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1886|||育英公院,梨花学堂設立&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1886|||COLOR(blue):育英公院、梨花学堂設立&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1887|||清国の仲介により,巨文島よりイギリス軍撤退く&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1888|||ドイツでヴィルヘルム2世が即位し、国際政治が大変動。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1889|||1889年COLOR(blue):威鏡道、防穀令実施&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1889|||凶作を理由に咸鏡道に穀物輸出禁止令.日本の反対で解除&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1889|||RIGHT:COLOR(green):大日本帝国憲法発布''1889''http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1889|||COLOR(blue):咸鏡道に防穀令実施&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1890|||山県有朋による「外交政略論」の提出、(朝鮮を日本の利益線とみなし、その防護が国家目標であるとする)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1894|||1894年3月朝鮮で東学党の乱(一次・二次甲午農民戦争)、農民が減税などを訴え起こした乱です。党派間のクーデターによる混乱や、外国との開国通商による物価高騰に苦しめられた農民が中心になって蜂起し、官軍と起こした内戦である。大院君派と閔妃派の対立が深まり、大院君、東学党の大幹部の全?準を食客に。大院君は儒教原理主義を押し立て、清の後ろ盾を頼る。しかし、日本にも色目。閔妃はロシアに色目を使うも、清に媚びる。閔妃が清に出兵要請。東学党二代目教祖雀時亮→排外的西洋文化が、古来文化をこわす。地方役人の賄賂に、地方農民が怒り乱となった。これを鎮圧させる為に閔妃は清に援軍を要請します。これを見た日本も日本の公使館を守るなどの理由で出兵。官・農民間の和議が成立して終結する。閔妃、失脚。しかしその後も、清軍と日本軍は、双方が朝鮮に駐屯を続け、ついに、日清戦争が勃発する。日清戦争で陸上戦闘の主戦場となるこの戦争は1895年、日本軍の勝利に終わり、朝鮮は日本の影響下におかれることになる。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1894|||1894年COLOR(blue):東学農民運動、甲午改革&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1894|||1894年閔妃、金玉均を暗殺。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1894|||1894年6月2日伊藤内閣、解散と開戦を同時決定。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1894|||1894年6月5日朝鮮王朝が清軍に出兵を依頼、朝鮮に出兵。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1894|||1894年6月8日清出兵に伴い日本軍、朝鮮に出兵。日清英露の四国で協議。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1894|||1894年7月22日日本、朝鮮に清軍の撤退を要求。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1894|||1894年7月23日王宮占領。高宗拘束。大院君、第三次政権樹立も、1ヶ月で日本に呆れられる。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1894|||1894年8月1日(明治27年)日清戦争日清両国、宣戦布告。大院君へ引退勧告。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1894|||1894年9月15日平壌攻略。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1894|||1894年9月17日黄海海戦勝利。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1894|||甲午改革.日本の圧力で閔氏政権を倒し,第一次金弘集内閣成立&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1894|||甲午農民政争が始まる&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1894|||東学農民運動.反封建,反侵略の近代民族運動に移っていく&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1894|||RIGHT:COLOR(green):日清戦争(~95)''1894''http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1894|||甲午農民政争が始まる&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1894|||COLOR(blue):東学農民運動、甲午改革&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1894|11|7|大連占領。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1894|11|7|旅順占領。この日清戦争については、ご存知の通り。日本の大勝利により下関条約が結ばれます。大院君、日清戦争中、開化派を弾圧。日本が激怒も、涙の弁明で命乞い。幽閉。#style(class=box_black_swm){{「朝鮮雑記・・・日本人が見た1894年の李氏朝鮮」祥伝社・本間九介(安達九郎)匙や箸などを使わず、すべて手で。小便で顔を荒い、婦女子が陰部を洗う(梅毒など伝染病予防)}}&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1894|11|7|旅順占領。この日清戦争については、ご存知の通り。日本の大勝利により下関条約が結ばれます。大院君、日清戦争中、開化派を弾圧。日本が激怒も、涙の弁明で命乞い。幽閉。&br;「朝鮮雑記・・・日本人が見た1894年の李氏朝鮮」祥伝社・本間九介(安達九郎)匙や箸などを使わず、すべて手で。小便で顔を荒い、婦女子が陰部を洗う(梅毒など伝染病予防)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1895|||1895日清講和条約(下関条約成立、朝鮮が独立国であることを確認)朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止される親露反日政策をとった閔妃(明成皇后)が日本軍守備隊や警察、訓練隊等により殺害される(乙未事変)三浦梧楼の指揮によって殺害されたとする説が一般的だが、他方日本の保守派・右派の間では、それについて確認がとれていないことを強調する立場もある&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1895|||1895年10月8日COLOR(blue):乙未改革閔妃殺害事件(びんひさつがいじけん)(乙未事変)日清戦争による日本の勝利に伴い、朝鮮半島は清の冊封体制から逃れた訳ですが、国内ではこのままでは日本のいいなりになってしまうと危機感が広がっていくわけです。そして、朝鮮の宮廷内では、ロシアと手を組んで日本に対抗しようという動きが出てきます。当時、日本は日清戦争によって獲得した遼東半島をロシアが中心となった三国干渉により清に返還していますから、朝鮮王朝としてはロシアを味方につければ日本もおとなしくなるだろうという考えがあったわけです。当然、日本はこの事態に激怒するわけですが、それにしても恐ろしい事件を引き起こすことになります。1895年10月8日、閔妃殺害事件(びんひさつがいじけん)(乙未事変)です。大院君、三浦梧楼公使と閔妃殺害を計画。閔妃殺害事件後、幽閉。#ref(hbb.jpg,nolink,around,left,画像の説明);閔妃の本当の写真は?閔妃は国王の王妃です。彼女がロシアと手を組もうとしている朝鮮宮廷内の動きの背後にいるのではないか?という日本側の憶測により、閔妃を殺害した上でガソリンにて遺体を妬いてしまうという暴挙をおこします。この閔妃殺害には陸軍600人、民間人47人が参加したとされ、首謀者とされたのが三浦梧楼(ごろう)という人物です。彼は、ソウル公使であったのですが、彼ひとりでこの大事件を画策したというのにはさすがに無理がありますね。そして、結局彼らは証拠不十分ということで処罰されることはありませんでした。この事件の背後にいたのは、日本政府?または、殺害事件の前にも暗殺未遂事件が起きていることから閔妃に不満を持つ宮廷内の人物が日本側と手を組んで?など近年ではさまざまな憶測が飛び交っています。背後に誰がいたのか?それは定かではありませんが、しかし、首謀者が三浦梧楼とされ、彼は処罰されずということで朝鮮国内では日本に対して不満が爆発していくきっかけとなっていきました。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1895|||1895年10月8日COLOR(blue):乙未改革閔妃殺害事件(びんひさつがいじけん)(乙未事変)日清戦争による日本の勝利に伴い、朝鮮半島は清の冊封体制から逃れた訳ですが、国内ではこのままでは日本のいいなりになってしまうと危機感が広がっていくわけです。そして、朝鮮の宮廷内では、ロシアと手を組んで日本に対抗しようという動きが出てきます。当時、日本は日清戦争によって獲得した遼東半島をロシアが中心となった三国干渉により清に返還していますから、朝鮮王朝としてはロシアを味方につければ日本もおとなしくなるだろうという考えがあったわけです。当然、日本はこの事態に激怒するわけですが、それにしても恐ろしい事件を引き起こすことになります。1895年10月8日、閔妃殺害事件(びんひさつがいじけん)(乙未事変)です。大院君、三浦梧楼公使と閔妃殺害を計画。閔妃殺害事件後、幽閉。&br;閔妃の本当の写真は?&br;閔妃は国王の王妃です。彼女がロシアと手を組もうとしている朝鮮宮廷内の動きの背後にいるのではないか?という日本側の憶測により、閔妃を殺害した上でガソリンにて遺体を妬いてしまうという暴挙をおこします。この閔妃殺害には陸軍600人、民間人47人が参加したとされ、首謀者とされたのが三浦梧楼(ごろう)という人物です。彼は、ソウル公使であったのですが、彼ひとりでこの大事件を画策したというのにはさすがに無理がありますね。そして、結局彼らは証拠不十分ということで処罰されることはありませんでした。この事件の背後にいたのは、日本政府?または、殺害事件の前にも暗殺未遂事件が起きていることから閔妃に不満を持つ宮廷内の人物が日本側と手を組んで?など近年ではさまざまな憶測が飛び交っています。&br;背後に誰がいたのか?それは定かではありませんが、しかし、首謀者が三浦梧楼とされ、彼は処罰されずということで朝鮮国内では日本に対して不満が爆発していくきっかけとなっていきました。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1895|||1895年4月三国干渉で親露政策。ドイツフランスロシアロシアと友好関係維持→遼東半島が日本領になると南下政策に支障。日本に圧力→遼東半島を清国に返還。清国より賠償金上乗せ。「朝鮮には貨幣がない」&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1895|||1895年4月17日下関会議。#style(class=box_black_swm){{下関条約の内容1:朝鮮の独立を認めること。(この直後、朝鮮は大韓帝国と国名を変え、独立を宣言します)2:遼東半島(りょうとうはんとう)を日本に譲り渡す。(中国と朝鮮の間にある半島で日本の戦略的にかなり重要な土地です)3:台湾を日本に譲り渡す。(これにより日本は初の海外植民地として台湾を獲得しました。)4:澎湖諸島(ほうこしょとう)を日本に譲り渡す。(これは台湾と中国本土の間の島々。)5:賠償金2億両を日本に支払う。(約3億1000万円。当時の日本の国家予算のなんと2倍以上のお金です)6:日清通商航海条約を結ぶ(清に欧米と同条件の不平等条約を日本とも結ばせた)沙市、重慶、蘇洲、杭洲の開港。?}}朝鮮において重要なのは最初の朝鮮の独立を清に認めさせたというところ!これにより、清による朝鮮の冊封体制は完全に消滅。1897年には朝鮮は大韓帝国と改称することになります。そして、韓国併合。つまりは、日本による朝鮮の植民地化へと進んでいくのです。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1895|||1895年4月17日下関会議。&br;下関条約の内容1:朝鮮の独立を認めること。(この直後、朝鮮は大韓帝国と国名を変え、独立を宣言します)2:遼東半島(りょうとうはんとう)を日本に譲り渡す。(中国と朝鮮の間にある半島で日本の戦略的にかなり重要な土地です)3:台湾を日本に譲り渡す。(これにより日本は初の海外植民地として台湾を獲得しました。)4:澎湖諸島(ほうこしょとう)を日本に譲り渡す。(これは台湾と中国本土の間の島々。)5:賠償金2億両を日本に支払う。(約3億1000万円。当時の日本の国家予算のなんと2倍以上のお金です)6:日清通商航海条約を結ぶ(清に欧米と同条件の不平等条約を日本とも結ばせた)沙市、重慶、蘇洲、杭洲の開港。?&br;朝鮮において重要なのは最初の朝鮮の独立を清に認めさせたというところ!これにより、清による朝鮮の冊封体制は完全に消滅。1897年には朝鮮は大韓帝国と改称することになります。&br;そして、韓国併合。つまりは、日本による朝鮮の植民地化へと進んでいくのです。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1895|||乙未事変.日本公使三浦梧楼の指揮により王妃閔妃暗殺&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1895|||断髪令発布&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1895|||日清講和条約(下関条約成立、朝鮮が独立国であることを確認)朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止される親露反日政策をとった閔妃(明成皇后)が日本軍守備隊や警察、訓練隊等により殺害される(乙未事変)三浦梧楼の指揮によって殺害されたとする説が一般的だが、他方日本の保守派・右派の間では、それについて確認がとれていないことを強調する立場もある&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1895|||日本軍の弾圧&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1895|||RIGHT:COLOR(green):日清講和条約(下関条約)締結。三国干渉。''1895''http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1895|||閔妃殺害事件(乙未事変)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1895|||COLOR(blue):乙未事変%%(閔后弑殺)%%&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1895|||COLOR(blue):兪吉濬「西遊見聞」を書く&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1896|||1896山県・ロバノフ協定&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1896|||1896年大院君、隠居。COLOR(blue):「独立新聞」創刊COLOR(blue):独立協会設立&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1896|||1896年露館播遷高宗、暗殺を恐れロシア公使館に逃げ込む。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1896|||俄館播遷.親露派により国王をロシア公使館へ移す&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1896|||義兵が起こる&br;露館播遷&br;独立協会設立&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1896|||山県・ロバノフ協定&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1896|||徐載弼,アメリカより帰国し「独立新聞」発刊&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1896|||太陽暦採用&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1896|||独立協会を設立.独立門を建てる&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1896|||義兵が起こる&br;露館播遷&br;独立協会設立&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1896|||COLOR(blue):俄館播遷&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1896|||COLOR(blue):「独立新聞」発刊&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1896|||COLOR(blue):独立協会の設立&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||

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