• 追加された行はこの色です。
  • 削除された行はこの色です。
  • 飛鳥時代 へ行く。

| | | |CENTER:&size(20){飛鳥時代};&size(6){(日本-日本-古墳時代→飛鳥時代)};||h
|592|>|>|''古墳時代 → 飛鳥時代[592年~710年]''&size(6){(日本-日本-古墳時代→飛鳥時代)};||
|592|||隋、均田制を実施&size(6){(東アジア-隋-隋)};||
|592|10||法興寺の仏堂と歩廊に着工 '''''10.4''''' 崇峻天皇が謙譲された山猪を前にして「いつの日か、この山猪のごとくいやなあいつの首を落としてやろう」と言われたという。この噂を耳にした蘇我馬子が一ヶ月後の凶行に及ぶこととなったのか?&size(6){(日本-日本-古墳時代→飛鳥時代)};||
|592|11|3|蘇我馬子の命令で東漢直駒に崇峻天皇を暗殺&size(6){(日本-日本-古墳時代→飛鳥時代)};||
|592|12|8|COLOR(SandyBrown):敏達天皇の皇后だった額田部皇女(豐御食炊屋姫)が日本初の女帝として即位。第33代天皇・推古天皇となる&size(6){(日本-日本-古墳時代→飛鳥時代)};||
|593|||用明天皇を科長に改葬&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|593|||田村皇子(舒明天皇)生誕。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|593|4|10|聖徳太子が推古天皇の摂政に就任。国政総理の職掌を皇室に取り戻す&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|593|9|20|塔の心柱を建てる。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|593|12|7|仏舎利を心礎の中に安置。(推古天皇)&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|594|||宝皇女(皇極、斉明)生誕&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|595|||高句麗の僧慧慈日本へ,聖徳太子の仏教の師となる&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|596|||軽(孝徳天皇)生誕&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|596|11||法興寺落成。蘇我馬子の長子善徳臣が寺司に任じられ、高麗から帰化した、慧慈(えじ)、慧聡(えそう)の二人の僧がこの日から住まいした。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|597|||グレゴリウス1世、カンタベリーのアウグスティヌスをイングランドに派遣、イングランドにキリスト教復活&br;6世紀末、イギリスヘプターキー時代出現&br;6~7世紀、スラブ民族の一部、ドナウ川を渡ってバルカン半島に侵入&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};||
|597|||百済の王子阿佐を日本に派遣する。(「日本書紀」推古天皇5年の条)&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|598|||高句麗、靺鞨の人々を率いて遼西に進入したが、隋の高句麗遠征(第一次遠征)を引き起こす&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|598|||COLOR(green):第27代百済王恵王(598~599)&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|598|||恵王即位ケイ(季、聖王の第2子)&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|598|||隋に朝貢し高句麗討伐の許諾を得る&br;高句麗が侵入&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|599|||COLOR(green):第28代百済王法王(599~600)&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|599|||法王即位ホウ(宣、孝順、恵王の子あるいは威徳王の子)&br;殺生令をだし漁猟の道具を焼く&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|599|4|27|地震&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|600|||アヴァール族、ドナウ川以北に撤退スラヴ族、バルカン半島を南下&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};||
|600|||新羅征討計画。計3回の討伐で第一次は新羅の降伏。残りの2回は失敗におわる-603&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅、日本-)};||
|600|||COLOR(green):第29代百済王武王(600~641)&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|600|||武王即位ブ(璋、法王の子)&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|600|||仏寺を創建&br;聖徳太子&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|600|||百済、《百済武王(600~641)即位》&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|600|||RIGHT:COLOR(green):遣隋使開始''600年''&size(6){(東アジア-朝鮮、隋-)};||
|601|||聖徳太子、班鳩宮をつくる&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|601|11|5|新羅を攻める軍議&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|602|||新羅、百済との阿莫城での会戦では大勝する&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|602|||百済僧観勒、暦法などを伝える&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|602|||新羅を攻撃&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|602|||中国の玄奘三蔵生誕&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|602|4|1|来目皇子が筑紫に向け出発&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|602|5|25|来目皇子を新羅攻略の将軍とし軍兵25000人が授けられる。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|602|6|3|来目皇子は病気となり征討の役を果たせなくなる。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|603|||小墾田宮に移る 冠位十二階制定 太秦に広隆寺建立&size(6){(--)};||
|603|||ササン朝ペルシアと抗争~628&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};||
|603|||新羅、高句麗が北漢山城に侵入するも撃退する&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|603|||小墾田宮に移る冠位十二階制定太秦に広隆寺建立&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|603|||冠位十二階を制定。氏姓制度にとらわれずに能力主義で人材を登用をする&size(6){(日本-日本-)};||
|603|2|4|来目皇子が薨去(後に河内の埴生山に葬られる)&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|603|4|1|来目皇子の兄当麻皇子(たいまのみこ)を新羅征討将軍とする。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|603|7|1|当麻皇子が難波を出発したが播磨で同行していた妻が薨じ引き返してしまい征討は中止される。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|603|10|4|推古天皇が小墾田宮へ移る(奈良県明日香村)&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|603|11|1|秦河勝が聖徳太子から仏像を受け京都・太秦に蜂岡寺(広隆寺)を造営&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|603|12|5|冠位を施工。大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智、の12階。階毎に色が決まっていた。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|604|||役人に初めて冠位を与える 十七条憲法制定&size(6){(--)};||
|604|||COLOR(green):隋・楊氏・・ 煬帝が即位&size(6){(--)};||
|604|||RIGHT:COLOR(green):聖徳太子(厩戸皇子)、十七条の憲法を作る、冠位十二階制を施工''604年''&size(6){(東アジア-朝鮮、日本-)};||
|604|||役人に初めて冠位を与える十七条憲法制定(和の精神、天皇へ服従、官吏の心得)&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|604|||COLOR(SandyBrown):隋・楊氏・・煬帝が即位(~618)&size(6){(東アジア-隋-)};||
|604|1|1|諸臣に冠位を授けられ位付けされる&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|605|||新羅が侵入&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|605|||煬帝が大運河の工事に着手&size(6){(アジア-隋-)};||
|605|||煬帝が大運河を開く&size(6){(アジア-隋-)};||
|605|4|1|推古天皇が丈6尺の仏像を作ると詔(飛鳥大仏) '''''4.8.''''' 飛鳥大仏が完成し元興寺に納められる&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|606|5|5|飛鳥大仏を作った鞍作鳥仏師に大仁の位と水田20町を与えられる。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|606|7||推古天皇の命により聖徳太子が勝鬘経の講義を3日間にわたって行う&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|607|||高句麗、東突厥に使者を派遣してため&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|607|||RIGHT:COLOR(green):法隆寺建立''607年''&size(6){(東アジア-朝鮮、日本-)};||
|607|||隋に朝貢&br;隋の使者が倭国へゆくために百済の南路を通る&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|607|||第2回遣随使&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|607|||法隆寺創建&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|607|||奈良に法隆寺(玉虫厨子(たまむしのずし)、釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)、百済観音像(くだらかんのんぞう)など)を建立(世界最古の木造建造物)&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|607|||敬神の詔 法隆寺建立 小野妹子らを遣隋使として派遣&size(6){(日本-日本-)};||
|607|||小野妹子を隋に遣隋使。聖徳太子が煬帝へ当てた手紙「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々」。隋と倭を対等関係にしようとした。&size(6){(東アジア-隋、日本-)};||
|607|7|3|小野妹子が、隋の皇帝に宛てた「日出づる處の天子、日没する處の天子に致す。恙なきや」の国書を持参して出発&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|608|||新羅、高句麗の侵入により牛鳴山城を陥落させられる&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|608|||遣隋使小野妹子帰国&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|608|||遣隋使小野妹子一行・隋使裴世清一行が対馬を通る。&size(6){(対馬)};&size(6){(日本-日本-)};||
|608|||第3回遣随使「東の天皇、敬しみて西の皇帝に申し上げる。」の国書。天皇号の始まり&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|608|4||隋からの客を同行して小野妹子帰国&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|608|9|5|小野妹子は隋からの客に同行し大使として再び隋へ&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|609|||肥後国に百済人80余人漂着&size(6){(日本-日本、百済-飛鳥時代)};||
|609|9||小野妹子帰国&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|610|||マホメット(ムハンマド)がイスラム教・創始の布教を開始&size(6){(アジア--)};||
|610|||COLOR(red):マホメットのイスラム教成立&size(6){( - -)};||
|610|||ヘラクレイオス朝ヘラクレイオスの反乱&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};||
|610|||ビザンティン帝国のヘラクレイオス1世即位(~641)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|610|||高句麗僧、紙・墨・絵具の製法を伝える&size(6){(日本-日本、高句麗-飛鳥時代)};||
|611|||新羅、隋に高句麗討伐を求める&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|611|||隋に朝貢(このとき隋は高句麗討伐の準備中で歓待される)&br;新羅を攻撃&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|612|||百済人味摩之,伎楽舞を日本に伝える&size(6){(日本-呉(くれ)、百済、日本-)};||
|612|||COLOR(blue):高句麗、薩水大捷。&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|612|||COLOR(green):隋の煬帝、高句麗を攻撃(薩水の戦い)&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|612|||薩水大捷.高句麗の乙支文徳将軍,薩水で隋軍を撃破&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|612|||COLOR(blue):高句麗、薩水大捷&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|612|||高句麗、隋の第二次高句麗遠征(100万)では隋軍を壊滅させる&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|612|||新羅、隋の高句麗遠征&br;百済とは?岑城・母山城付近で激しく戦うが敗戦する&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|612|||推古天皇の母の堅塩姫を欽明天皇稜(檜隈坂合陵)に合葬する。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|612|2|20|欽明天皇の妃、推古天皇の母でもあった蘇我堅塩媛を桧隈大陵に葬る&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|613|||クロタール2世、フランクを再統一&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|613|||高句麗、第三次遠征でも隋軍を退ける&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|613|||難波より大和に至る大道開通&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|613|9|15|聖徳太子が『維摩経義琉[ゆいまきょうぎしょ]』を著す&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|614|||高句麗、第四次遠征でも隋軍を退け、隋の衰亡を早めさせるきっかけをつくる&br;百済からは石頭城で捕虜三千人、新羅からは捕虜八千人と牛鳴山城を得る&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|614|||犬上御田鍬を隋に派遣(翌年帰国)&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|616|||西ゴート人、イベリア半島を完全支配&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|616|||ビザンティン帝国、ササン朝ペルシアにエジプトを奪わる&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|616|||新羅を攻撃&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|616|||百済、新羅の母山城を攻撃&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|616|||掖玖人30人(南方の屋久島島民)来渡&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|617|||COLOR(green):恭帝・即位&size(6){(--)};||
|617|||隋・楊氏・・恭帝&size(6){(東アジア-隋-隋)};||
|618|||隋が滅亡、唐が中国を統一&size(6){(--)};||
|618|||李淵(りえん)を初代皇帝として、一時武則天(則天武后)による簒奪を受けましたが(周:684~705 )、基本的には李氏20代、約300年続きました。特に2代太宗の治世を「貞観の治」、6代玄宗の治世前半を「開元の治」といい、唐の最盛期です。&size(6){(--)};||
|618|||皇帝を頂点とする中央集権型の国家体制を確立し、その政治体制は朝鮮や日本などの周辺国家にも広く影響を与えました。外戚をはじめとする貴族・権臣勢力や、安史の乱以降は藩鎮勢力、晩期になると宦官達にも悩まされ、皇帝は権限を失い国家は衰退します。王仙芝、黄巣の乱などの混乱の末、哀帝(李祝)が朱全忠(後梁の太祖)に位を譲り、滅亡しました。&size(6){(--)};||
|618|||弱小中央政権と地方政権が乱立し、有力な節度使や州の行政長官が自ら「公」や「王」と称し、自分たちの支配が及ぶ土地で勝手気ままに暴君として君臨していました。そのような中で四方を山に守られた四川には唐から亡命した高官や詩人、芸術家の避難場所となりました。なお、現在の省区分はこの時代にさかのぼります。&size(6){(--)};||
|618|||COLOR(red):煬帝が自殺、隋が滅亡。唐の成立(618-907)、中国を統一&size(6){(--)};||
|618|||COLOR(green):唐・李氏・・ 高祖・即位&size(6){(--)};||
|618|||高句麗、《栄留王(618~642)》&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|618||>|''中国が唐の時代''&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|618|||COLOR(green):第27代高句麗王栄留王(618~642)&br;COLOR(black):新羅が侵入&br;唐が成立する。&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|618|||COLOR(red):618年、唐が成立する。&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|618|||唐・李氏・・高祖&size(6){(東アジア-唐-唐)};||
|618|||隋が滅亡、唐が中国を統一(~907)&size(6){(東アジア-唐-唐)};||
|618|||618-隋滅亡し、唐建国李淵(りえん)を初代皇帝として、一時武則天(則天武后)による簒奪を受けましたが(周:684~705 )、基本的には李氏20代、約300年続きました。特に2代太宗の治世を「貞観の治」、6代玄宗の治世前半を「開元の治」といい、唐の最盛期です。皇帝を頂点とする中央集権型の国家体制を確立し、その政治体制は朝鮮や日本などの周辺国家にも広く影響を与えました。外戚をはじめとする貴族・権臣勢力や、安史の乱以降は藩鎮勢力、晩期になると宦官達にも悩まされ、皇帝は権限を失い国家は衰退します。王仙芝、黄巣の乱などの混乱の末、哀帝(李祝)が朱全忠(後梁の太祖)に位を譲り、滅亡しました。&size(6){(東アジア-唐-唐)};||
|618|||COLOR(red):隋の滅亡、唐の成立&size(6){(東アジア-隋-隋)};||
|620|||この年、聖徳太子は自分の墓所を造営する(大阪府南河内郡太子町叡福寺)&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|620|10||欽明稜(檜隈坂合陵)で欽明天皇と堅塩姫を祀る大柱の儀式が行われた。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|620|12|1|聖徳太子が蘇我馬子らとともに『天皇記』『国記』を編纂&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|621|||唐に朝貢&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|621|||新羅来貢し、初めて上表する&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|621|2|5|聖徳太子が薨去。蘇我一族の専横がはじまる&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|622|||ヘジラ(マホマットがメジナへ)聖遷&size(6){(アジア--)};||
|622|||マホメットがメジナに逃れる(ヘジラ・回教紀元元年)&size(6){( - -)};||
|622|||新興宗教イスラム教誕生。&size(6){(イスラエルの歴史)};&size(6){(中東-イスラエル-)};||
|622|||ビザンティン帝国、エジプト・シリア・アルメニアを奪回&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|622|||高句麗、唐に対して、捕虜の交換を互いにおこなう&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|622|||聖徳太子死去&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|623|||百済、新羅を攻撃&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|623|||留学生恵日ら帰国、唐との国交を建言&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|624|||高句麗へ,唐より道教伝来&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|624|||COLOR(blue):高句麗、唐から道教伝来&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|624|||高句麗、唐から高句麗に道士が派遣され、王は国人とともに『老子』の講義を受ける&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|624|||唐に朝貢し帯方郡主百済王を得る&br;新羅を攻撃&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|624|||百済、高句麗、新羅があいついで唐に朝貢した。&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|624|||蘇我馬子、葛城県を要求、天皇許さず&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|625|||イングランドでノーサンブリア王国がケント王国を併合&size(6){(西欧-イギリス-)};||
|625|||高句麗、唐に仏教・道教の学生僧を送る&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|625|||唐に朝貢&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|626|||COLOR(green):唐・李氏・・ 太宗・即位 →貞観の治&size(6){(--)};||
|626|||アヴァール族とスラヴ族、コンスタンティノポリスを攻撃&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};||
|626|||新羅、高句麗と百済とが和解してともに新羅に当たる状況となる&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|626|||唐への使者を高句麗が妨害&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|626|||唐・李氏・・太宗&size(6){(東アジア-唐-唐)};||
|626|||COLOR(SandyBrown):唐の太宗が即位→貞観の治&size(6){(東アジア-唐-唐)};||
|626|||蘇我馬子死し、その子蝦夷、大臣となる長雨による大飢饉&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|626|||葛城皇子(天智天皇)生誕&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|626|5|20|大臣蘇我馬子歿。桃原墓に葬られる(現在の石舞台といわれている)。年齢は76歳だと思われる&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|626|5|20|蘇我馬子死し、その子蝦夷、大臣となる 長雨による大飢饉&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|627|||ビザンティン皇帝ヘラクレイオス1世、ホスロー2世を破る&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|627|||ニネヴェの戦い-東ローマ帝国vsペルシア(東ローマ勝利)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|627|||新羅へ旧領奪回を目すも、新羅の唐への使者で中止する&br;唐の太宗が百済新羅両国へ和平の命を下す&br;百済は陳謝の使者を送る&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|627|||貞観の治(-649)&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|628|||新羅を攻撃&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|628|3|2|皆既日食(日本書紀)&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|628|3|7|第33代推古天皇が崩御(75歳)&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|628|9|24|推古天皇を竹田皇子陵に追葬する。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|629|||新羅、高句麗と娘臂城で戦い、勝利を得る&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|629|||唐の玄奘がインド旅行へ出発&size(6){(東アジア-唐-唐)};||
|629|||田部(耕地民)連を掖玖(やく)に派遣&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|629|1|4|COLOR(SandyBrown):田村皇子が即位し第34代舒明天皇となる&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|629|1|4|COLOR(green):第34代 舒明天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|630|||アラブの征服(シリア、メソポタミア、イラン、エジプト)(~651)&size(6){(中東-イラン、シリア、メソポタミア、エジプト-)};||
|630|||高句麗、[唐、東突厥を一旦滅ぼす]&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|630|||RIGHT:COLOR(green):遣唐使開始''630年''&size(6){(東アジア-朝鮮、唐-)};||
|630|8|5|犬上御田鍬・藥師惠日を第1回遣唐使として唐に派遣される。第6回(669)頃まで壱岐・対馬を経由するコースを利用。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|630|10|2|舒明天皇が都を岡本宮に移す&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|631|||高句麗、扶余城から東南の渤海湾に至るおよそ千里の長城を築き、唐の侵略に備える&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|631|||唐に朝貢&size(6){(東アジア-朝鮮、百済、唐-)};||
|631|||百済王子豊璋、人質として来日&size(6){(日本-日本、百済-飛鳥時代)};||
|632|||マホメットの死(正統カリフ時代へ)&size(6){(アジア--)};||
|632|||新羅、《善徳女王(632~647)即位》&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|632|||COLOR(green):第27代新羅王善徳女王(632~646)&br;COLOR(black):新羅攻撃唐に朝貢&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|632|||犬上御田鍬、唐使高表仁を伴い帰国&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|632|10|4|第1回遣唐使が帰国&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|633|||新羅、西武国境地帯に百済の侵入&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|633|||新羅攻撃&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|634|||伝説による役小角(役行者)の生誕&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|634|8||南の空に彗星が現れる。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|635|||新羅、唐から《柱国・楽浪郡公・新羅王》の爵号を継承する&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|635|3||彗星は廻って東の空に見える&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|635|7||剣池に1本の茎に二つの花が咲く蓮があった。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|636|||ヤルムークの戦い、シリアをイスラムに奪われる&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};||
|636|||ビザンティン帝国、イスラム軍に敗北&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|636|||ヤルムークの戦い-東ローマ帝国vs正統カリフ(カリフ勝利)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|636|||新羅、百済が独山城を襲撃しようとして潜んでいたところを、殲滅&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|636|||漢江流域の孤立をねらって、新羅の独山城(どくさんじょう・現在の忠清北道槐山郡)を襲う。(百済)&br;645年、唐が高句麗に出兵すると、新羅も呼応して出兵したが、失敗に終わり、その間に百済は新羅の西部と加羅地方を侵略した。&br;642年、百済は、新羅の国西四十余城(秋風嶺以東、洛東江中流以西の地域か)を奪い、さらに新羅の唐への要衝路である党項城(とうこうじょう・現在の京畿道華城郡)を高句麗とともに襲い、南部の中心地である大耶城(だいやじょう・現在の慶尚南道陜川郡)を奪って、大耶州の都督(長官)品釈(ひんしゃく)夫妻を殺した。&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|636|||唐に朝貢&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|636|||大旱魃で飢饉広がる&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|636|||干ばつで国中の人が飢える&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|636|1|1|日食&size(6){(東アジア-日本、百済-飛鳥時代)};||
|636|5||洪水災害&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|636|6||岡本宮が火災&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|637|||イスラム教徒、エルサレム(ビザンティン帝国領)を征服&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|638|||聖地エルサレムがイスラム帝国の支配下に置かれる(~1099年)&size(6){(イスラエルの歴史)};&size(6){(中東-イスラエル-)};||
|638|||セルビア人とクロアチア人をアヴァール族対策でバルカン半島中部に定着させる&size(6){(西欧-イタリア、ローマ、クロアチア、セルビア-)};||
|638|||新羅、高句麗が七重城に攻め入が、撃退&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|638|||百済、新羅の独山城を攻撃&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|638|7|19|大風で立木や家を壊す&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|639|1|12|空に雲がないのに雷が鳴る&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|639|12|14|舒明天皇が伊予温湯宮(愛媛県松山市の道後温泉)へ行幸。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|639|12|14|百済川(曽我川)(奈良県広陵町)に九重の塔を建てる(百済寺)&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|640|||高句麗、[唐が高昌国を服属させる]&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|640|||新羅、唐の国子監に数多く留学生を派遣&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|640|||王子を唐に派遣し国学を学ぶを求める&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|640|||高向玄理・南淵請安ら帰国&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|641|||イスラム軍のエジプト(ビザンティン帝国領)攻撃、翌年アレクサンドリア占領&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|641|||COLOR(green):第30代百済王義慈王(641~660)&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|641|||義慈王即位ギジ(武王の子)&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|641|||百済、《百済義慈王(641~660)即位》&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|641|3|15|蘇我石川麻呂の発願による山田寺(浄土寺)の造営が始まる。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|641|10|9|第34代舒明天皇崩御(49歳)。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|642|||ニハーヴァンドの戦い&size(6){( - -)};||
|642|||アレクサンドリアをイスラムに奪われる&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};||
|642|||COLOR(green):高句麗、淵蓋蘇文が権力掌握&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|642|||COLOR(green):第28代高句麗王宝蔵王(642~648)&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|642|||高句麗,淵蓋蘇文が宝蔵王を擁し権力掌握&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|642|||高句麗、《宝蔵王(642~668)》&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|642|||新羅、百済に西部40余城・大耶城も陥落し、高句麗に援軍求めるが得られず&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|642|||皇極642-644&br;唐の使者が帯方郡主百済王を与える&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|642|||唐に朝貢&br;新羅を攻撃&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|642|||蝦夷の子蘇我入鹿執政となる&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|642|||この年蝦夷は今木(御所市東南)に双墓を造り大きい方を自分の墓とし小さい方を入鹿の墓とした。このとき使役した部民が聖徳太子養育のため定められた部民であったため上宮大娘姫(過密宮のいらつめ)(聖徳太子の母)は怒る&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|642|1|15|COLOR(SandyBrown):舒明天皇の皇后・寶皇女が即位し第35代天皇・皇極天皇に&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|642|1|15|01/15 COLOR(green):第35代 皇極天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|642|9|19|皇極天皇が蘇我蝦夷に板蓋宮を造ることを命じる&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|642|9|21|越(こし)の国の辺境に住む蝦夷数千人が大和政権に帰順&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|642|12|13|舒明天皇の喪葬の儀が行われる。皇極はこの日に豊浦宮から小墾田宮に移る&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|642|12|21|舒明天皇を滑谷岡(なめはざまのおか)に奉葬する。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|643|||新羅、善徳女王が唐に救援を求めたが、唐の皇族を新羅王に据えることを求めてきた&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|643|||高句麗と和睦し新羅を攻撃新羅は唐に救援を求める&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|643|||百済、高句麗と同盟(麗済同盟)&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|643|||入鹿、山背大兄王を襲い、王一族自害&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|643|4|28|皇極天皇が飛鳥板蓋宮に都を移す&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|643|5|16|月食&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|643|9|6|舒明天皇を押坂陵に改葬する。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|643|9|11|吉備姫薨去(皇極と孝徳の母)&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|643|9|17|吉備姫の葬儀&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|643|10|6|蘇我蝦夷が自分の子である入鹿に勝手に紫冠を授け大臣としてしまう。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|643|10|12|蘇我入鹿が独断で上宮(山背大兄王)を配して古人大兄(舒明天皇の皇子)を天皇にしようとする。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|643|11|1|天皇位を争って敗れた聖徳太子の子・山背大兄王を蘇我入鹿が急襲する。一時は生駒に逃れるが、再び斑鳩に戻った所を包囲され自害。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|644|||COLOR(green):唐、高句麗の攻撃を宣布(?648年)&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|644|||唐の太宗,高句麗を攻撃(~648)&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|644|||高句麗、唐、高句麗に侵攻(647,648)&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|644|||唐に朝貢太宗は両国を諭す&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|644|11||蘇我蝦夷が甘樫丘に息子と自分の家を建てる。蝦夷の家を上宮門(かみのみかど)、入鹿の家を谷宮門(はざまのみかど)と呼んだ&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|645|||COLOR(green):高句麗、安市城の戦いで唐に勝利&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|645|||高句麗,安市城の戦いで唐軍に勝利&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|645|||唐が高句麗に出兵すると、新羅が呼応して出兵したが、失敗に終わり、その間に百済は新羅の西部と加羅地方を侵略した。(百済)&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|645|||COLOR(blue):高句麗、安市城の戦いに勝利&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|645|||新羅、唐から帰国した慈蔵法師の発願で皇龍寺の九重塔を創建&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|645|||RIGHT:COLOR(green):大化の改新''645年''&size(6){(東アジア-朝鮮、日本-)};||
|645|||唐が高句麗に出兵すると、新羅が呼応して出兵したが、失敗に終わり、その間に百済は新羅の西部と加羅地方を侵略した。&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|645|||唐が高句麗を攻めるを知って新羅を攻撃&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|645|||唐が高句麗に出兵すると、新羅が呼応して出兵したが、失敗に終わり、その間に百済は新羅の西部と加羅地方を侵略した。&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|645|||中大兄皇子(のちの天智天皇)・中臣鎌足ら、蘇我入鹿を殺す大化の改新戸籍作成男女良賎の法制定年号制定。日本独自の年号を使用&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|645|||この年、?野讃良皇女(後の持統天皇)生誕&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|645|||COLOR(SandyBrown):大化の改新(たいかのかいしん)。中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)が蘇我入鹿、蘇我蝦夷を殺害して蘇我一族の体制を崩した。孝徳天皇が即位して、改革を進め都を大阪府大阪市の難波へ遷都&size(6){(日本-日本-)};||
|645|||乙巳の変、中大兄皇子(のちの天智天皇)・中臣鎌足ら、蘇我入鹿を殺す 大化の改新 戸籍作成 男女良賎の法制定 年号制定&size(6){(日本-日本-)};||
|645|6|8|蘇我倉山田石川麻呂が、中大兄、中臣鎌足らから蘇我入鹿殺害を打ち明けられ同意。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|645|6|12|三韓の調べを貢ぐ日&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|645|6|13|中大兄らが蘇我入鹿を宮の大極殿で殺害する(いわゆる大化の改新)&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|645|6|13|蘇我入鹿の父蝦夷が自分の屋敷に火をかけ自害。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|645|6|14|COLOR(SandyBrown):皇極天皇が退位。弟、軽、第36代孝徳天皇が即位&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|645|6|14|葛城皇子(天智天皇)が立太子&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|645|6|19|大化(たいか)(645.6.19-650)&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|645|6|19|大化の改新で蘇我氏を倒した中大兄皇子が、日本初の元号「大化」[たいか/たいくわ]を定めました。以来「平成」まで247の元号が定められています。650年に白雉に改元&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|645|6|19|大化(たいか)(645.6.19-649)&size(6){(日本-日本-)};||
|645|8|5|鐘匱[しょうき]の制。朝廷が、国民の直訴を受附ける投書箱を設置&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|645|8|8|孝徳天皇が百済大寺に僧尼を集め仏教興隆の詔を発表&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|645|9|12|古人大兄の謀反発覚。古人は中大兄が差し向けた兵に討たれる。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|645|10|10|第36代孝徳天皇崩御。59歳&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|645|12|9|孝徳天皇が難波長柄豊碕宮に遷都&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|646|||大化改新の詔を発布東国の国司を任命薄葬令=墳墓葬送の制&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|646|||改新の詔(公地公民制、班田収授法の制定)&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|646|1|1|「大化改新の詔」を発布。孝徳天皇、中大兄皇子(後の天智天皇)の下で政治の新体制が発足&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|646|3|22|「薄葬令」発布。大規模な墓の建設や家来等を殉死させることが禁止された&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|647|||七色十三階の冠位を制定 渟足柵(ぬたりのき) を設ける&size(6){(--)};||
|647|||COLOR(green):第28代新羅王真徳女王(647~654)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|647|||新羅,世界最古の天文台,瞻星台建造&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|647|||新羅王子金春秋(後の武烈王)来日&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|647|||COLOR(blue):新羅、瞻星台建立&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|647|||新羅、女王の廃位を求めて内乱&br;《真徳女王(647~654)即位》&br;唐から真徳女王に対する<柱国・楽浪郡王>の冊封が行なわれる&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|647|||新羅を攻めるも敗北&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|647|||七色十三階の冠位を制定渟足柵(ぬたりのき)を設ける&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|648|||キプロスをイスラムに奪われる&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};||
|648|||新羅、百済に侵攻されるが金?信の活躍で撃退に成功&br;唐に百済討伐の援軍を願い出、了承を得る&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|648|||新羅を攻めるも再び敗北&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|648|||磐船柵(いわふねのき)を設ける&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|648|||伊賀(弘文天皇)生誕&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|649|||COLOR(green):唐・李氏・・ 高宗・即位&size(6){(--)};||
|649|||イスラム軍、キプロスを占領&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|649|||新羅、唐の衣冠礼服の制度をとりいれる&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|649|||唐・李氏・・高宗&size(6){(東アジア-唐-唐)};||
|649|||冠位19階を制定し、八省百官をおく&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|649|3|24|右大臣倉山田石川麻呂に謀反を計画していると石川麻呂の異母弟阿倍内麻呂が密告&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|649|3|25|謀叛の疑いをかけられた右大臣蘇我石川麻呂が、中大兄皇子(天智天皇)に攻められ難波から大和へ脱出、氏寺である山田寺で自害&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|650|||650年頃&br;突厥(西トルコ帝国)分裂し滅び、ハザール人支配を離れる。&br;ハザール王国の建国。&size(6){(イスラエルの歴史)};&size(6){(中東-イスラエル-)};||
|650|||新羅、唐の年号を用いるようにする&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|650|||長門国から献上された白雉により改元&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|650|2|15|白雉(はくち)(650.2.15-654)孝徳天皇崩御後使わなくなった。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|650|2|15|宍戸国司からの白い雉の献上により大化白雉に改元。654年の孝徳天皇崩御まで使用&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|651|||ササン朝ペルシャ滅亡&size(6){(中東-イラン、ペルシャ-)};||
|651|||イスラム軍、小アジアのビサンティン領を攻撃&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|651|||新羅、唐制にならった大幅な官制改革を実施&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|651|||唐に朝貢 太宗再び諭す&br;(新羅の使者もあり太宗はその言上の理を認める)&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|652|||シチリア・ロードス島をイスラムに奪われる&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};||
|652|||新羅、理方府(立法)を新設&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|652|||戸籍作成、里・五保の制最初の班田収受を施行&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|653|||倭国と国交を結ぶ&br;高句麗、靺鞨とともに新羅を攻撃&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|653|||遣唐使船、薩摩之曲・竹嶋之間(薩摩竹島)で沈没&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|653|||中大兄、天皇と不和になり飛鳥に移る&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|654|||COLOR(green):第29代新羅王太宗武烈王(654~661)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|654|||新羅,武烈王即位&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|654|||新羅、《武烈王(654~661)即位》&br;理法府格60余条を制定し、新羅における律令制度の基盤を整備&br;官位の低い貴族を能力本位で要職につけることで王権の強化にも努めた&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|654|||玄理らを唐に派遣&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|654|10|10|第36代孝徳天皇崩御これ以降元号の使用をなぜか中断する&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|655|||アフリカをイスラムに奪われる&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};||
|655|||高句麗、唐、高句麗に侵攻(658,659,661~662)&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|655|||百済、新羅、百済の刀比川城を攻撃&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|655|||新羅、高句麗・靺鞨・百済の連合軍が攻め入って北部辺境の33城が奪われ、唐に救援を求めた&br;唐、高句麗を攻撃&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|655|||高句麗と百済の連合軍が、新羅の北部の33城を奪い、新羅は唐に救援軍を要請した。唐は遼東郡に出兵したが、大きな効果はなかった。&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|655|||新羅は危急を唐に知らせる&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|655|||蝦夷・隼人が多数服属隼人衆上京&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|655|1|3|COLOR(SandyBrown):皇極天皇が板蓋宮で再び即位し第37代天皇・斉明天皇になる&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|655|1|3|COLOR(green):第37代 斉明天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|656|||斉明天皇が多武峰(とうのみね)の頂上に周りを取り巻く垣を築き両槻宮を造営。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|657|||百済、王の庶子41人を佐平の官に任命&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|657|||13歳の?野讃良皇女(後の持統天皇)が大海人皇子(天武天皇)に嫁ぐ&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|658|||阿部比羅夫、蝦夷を打つ 有間皇子謀反で処刑&size(6){(--)};||
|658|||658~659年の唐による第3回の高句麗への出兵が行なわれるが、これが失敗に終わると、唐は百済を攻撃することにした。&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|658|||阿部比羅夫、蝦夷を打つ有間皇子謀反で処刑&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|658|11|9|有馬皇子を謀反の疑いで逮捕・尋問。有馬皇子は皇太子中大兄皇子を始め皇后にまで見捨てられ、難波宮に憤死された孝徳天皇の皇子で中大兄(天智天皇)にとっては邪魔な存在であった・・・というのが真相だろうか?&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|658|11|11|蘇我赤兄の謀略により謀叛の疑いで捕えられた有馬皇子が紀伊・藤白坂で処刑&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|659|||新羅、百済、侵攻してくる&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|659|7|3|坂合部石布(さかいべのいわしき)、津守吉祥(つもりのきさ)を遣唐使として唐に派遣&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|659|10|30|この年07月03日に出発した遣唐使、坂合部石布と津守吉祥が唐の皇帝(高宗皇帝)に謁見。行程は出発して4ヶ月かかった事になる&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|660|||660年、唐は水陸13万人の大軍を動員し、山東半島から出発し、新羅軍も5万人の兵で出陣した。新羅軍は黄山之原(現在の忠清南道論山郡)で勝利し、唐軍は白江(現在の錦江の中流扶余邑付近の別称)の伎伐浦(ぎばつぽ)で百済軍を破り、王都の泗 城(しひじょう・錦江の下流域)を攻めた。百済王はいったん旧都の熊津城(錦江の中流域)にのがれたが、皇太子らとともに降伏し、百済は滅亡した。百済の滅亡後、664年まで、王族の福信・僧道?(どうちん)・日本へおくられていた王子豊璋などが、高句麗や日本の大和朝廷の支援を受けて執拗に唐・新羅連合軍と戦っている。日本からは3万7千人余りの軍を送り(百済)&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|660|||COLOR(blue):百済が、新羅と唐によって滅ぼされる。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|660|||COLOR(green):新羅と、唐と連合して百済を滅ぼす&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|660|||新羅、唐の連合軍により百済滅亡&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|660|||百済が、新羅と唐によって滅ぼされる。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|660|||新羅、唐・新羅連合軍による百済滅亡&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|660|||耽羅:耽牟羅:屯羅、(百済滅亡)&size(6){(東アジア-朝鮮、耽羅:耽牟羅:屯羅-)};||
|660|||百済、唐・新羅に敗れ、百済の遺臣が救いを求める&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|>|>|>|''■百済滅亡と白村江の戦(660-663年)''&br;扶余扶蘇山城より眺める白馬江&br;扶蘇山城より白馬江を望む660年、ついに唐は13万人の大軍を動員、新羅の5万の兵と連合して、百済に攻め入ります。&br;百済軍は、黄山之原(現在の忠清南道論山)において決戦に挑み、善戦するも新羅軍に大敗してしまいます。&br;一方、唐軍を白江(現在の白馬江。錦江の中流扶余付近)に引き込む作戦に出ますが、唐軍に泗 城(扶余・扶蘇山城)を包囲されてしまいます。一時義慈王は旧都の熊津城(錦江の中流域)に脱れますが降伏し、ついに百済は滅亡したのでした。&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|660|||唐は13万の軍を率い新羅も5万をもってこれに従う&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|660|||COLOR(blue):百済滅亡&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|660|||660年、唐は水陸13万人の大軍を動員し、山東半島から出発し、新羅軍も5万人の兵で出陣した。新羅軍は黄山之原(現在の忠清南道論山郡)で勝利し、唐軍は白江(現在の錦江の中流扶余邑付近の別称)の伎伐浦(ぎばつぽ)で百済軍を破り、王都の泗 城(しひじょう・錦江の下流域)を攻めた。百済王はいったん旧都の熊津城(錦江の中流域)にのがれたが、皇太子らとともに降伏し、百済は滅亡した。&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|660|||百済、唐・新羅連合軍、百済を滅ぼす&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|661|||(ムアウィア1世がシーア派を打倒しカリフとなる。)&size(6){(アジア--)};||
|661|||COLOR(red):ウマイア朝(サラセン帝国)成立(~750)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|661|||COLOR(green):第30代新羅王文武王(661~681)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|661|||新羅、唐・新羅連合軍による高句麗侵攻の途上で病死&br;《文武王(661~681)即位》&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|661|||耽羅:耽牟羅:屯羅、王子の阿波伎らを派遣して日本に対して初めて朝貢を行った&size(6){(東アジア-朝鮮、耽羅:耽牟羅:屯羅-)};||
|661|||斉明天皇・中大兄、百済再興のため出発&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|661|||COLOR(green):第31代百済王豊璋王(661~663)&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|661|||義慈王は籠城戦と白江で迎え撃つの2案を議する&br;百済軍敗北&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|661|||安閉皇女(元明天皇)生誕&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|661|1|6|斉明天皇は百済級援軍を率いて出航。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|661|1|8|大伯皇女生誕(母は太田皇女)&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|661|3|25|01月06日に難波を出航した斉明天皇が娜大津(なのおおつ、博多)に到着&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|661|7|24|皇極天皇/斉明天皇崩御。(寳皇女,天豐財重日足姫尊)(天皇(35,37代))<68歳>崩御により中大兄皇子が天皇を称制&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|661|12|30|斉明天皇らが百斉救援軍を見送る為に伊予・熱田津[にぎたつ]に宿泊。額田王が「熱田津に船乗せむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」と詠む&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|662|||白村江の戦い.新羅・唐軍に倭軍大敗&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅、唐、百済、倭-)};||
|662|||扶餘豊(王)が残兵を率いて戦う&br;唐新羅連合軍は救援の倭軍の軍船400艘を白江に焼く&br;百済軍と倭軍は唐に降伏し、扶餘豊は行方不明となる&br;唐の高宗は扶餘隆を都督とする&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅、唐、百済、倭-)};||
|662|||耽羅:耽牟羅:屯羅、新羅の文武王に来降し、これ以後は新羅の属国となった&size(6){(東アジア-朝鮮、耽羅:耽牟羅:屯羅-)};||
|662|||阿曇比羅夫、百済再興に向かう&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|663|||白村江(はくすきのえ)の戦い。朝鮮半島の白村江での倭・百済連合軍と唐・新羅連合軍との戦いで唐の勝利。倭は敗戦の影響で西日本各地に山城を築き防人を配備して大宰府を設置した。更に都を近江大津宮に遷都する。&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|663|||新羅、[百済・倭国連合]と[唐・新羅連合]との[白村江の戦い]で、&br;倭国の水軍を壊滅させ、百済の再興の望みを断ち切る&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|663|||白村江の戦い&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅、唐、百済、日本-)};||
|663|||百済が唐に滅ぼされる&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅、唐、百済、倭-)};||
|663|||錦江河口で2日間にわたって唐・新羅の連合軍と戦ったが大敗した。古名をとって、「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」と呼ばれる。(百済)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅、唐、百済、倭-)};||
|663|||COLOR(green):新羅、唐の連合軍、日本軍を白村江で撃退(白村江の戦い)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅、唐、百済、倭-)};||
|663|||新羅、倭国の水軍が来て百済を助ける。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅、唐、百済、倭-)};||
|663|||''白村江の戦い錦江河口付近''&br;白村江?錦江河口付近(群山)百済の滅亡後も、百済の遺臣たちは百済復興を願い、各地で抵抗を続け、人質として日本へおくられていた百済の王子豊璋も、高句麗や日本(斉明天皇、中大兄皇子ら)の支援を受けて、唐・新羅連合軍と戦いますが、内部分裂を起こしてしまいます。&br;日本(倭国)からも、3万7千人余りの軍が送られ、豊璋らとともに、663年、「白村江」(今の錦江?)の河口付近で、唐・新羅の連合軍と戦いますが、結果、大敗に終わりました。日本史上の「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」です。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅、唐、百済、倭-)};||
|663|||百済、倭国の百済救援軍、白村江で唐軍に大敗&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|663|||大津皇子生誕(母は太田皇女)&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|663|||国号が倭から日本になる(7世紀後半&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|663|8|27|白村江[はくすきのえ(はくそんこう)]の戦い。百済の遺民およびこれを支援する日本軍と、百済を滅ぼした唐・新羅軍との戦い。日本側が敗北する&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|664|||対馬・壱岐・筑紫などに防人を置き筑紫に水城&size(6){(--)};||
|664|||百済の滅亡後、664年まで、王族の福信・僧道?(どうちん)・日本へおくられていた王子豊璋などが、高句麗や日本の大和朝廷の支援を受けて執拗に唐・新羅連合軍と戦っている。日本からは3万7千人余りの軍を送り、663年に、錦江河口で2日間にわたって唐・新羅の連合軍と戦ったが大敗した。古名をとって、「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」と呼ばれる。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅、唐、百済、倭-)};||
|664|||冠位二十六階制定&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|664|||対馬・壱岐・筑紫などに防人を置き筑紫に水城、近衛遷都で防衛を固める&size(6){(対馬)};&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|664|||玄奘三蔵歿&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|664|||対馬国に防人を配置し、烽台8カ所を設置する。&size(6){(対馬)};&size(6){(日本-日本-)};||
|664|2|9|「甲子の改革令」発布。26階の新しい冠位を制定&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|665|||前郡におく 長門・筑紫に山城を築く&size(6){(--)};||
|665|||耽羅:耽牟羅:屯羅、日本へ使者を送って来朝した&size(6){(東アジア-朝鮮、耽羅:耽牟羅:屯羅-)};||
|665|||唐使来日、入京百済人400人余を近江国神&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|665|||扶餘隆が新羅と盟誓を結ぶ&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|665|||前郡におく長門・筑紫に山城を築く&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|666|||新羅、唐に対して高句麗討伐の出兵を求め、唐の高句麗への攻撃が開始&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|666|||耽羅:耽牟羅:屯羅、王子の始如らを日本に派遣して朝貢した&size(6){(東アジア-朝鮮、耽羅:耽牟羅:屯羅-)};||
|666|||百済人2000人を東国に移す&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|667|||耽羅:耽牟羅:屯羅、佐平の椽磨らを日本に派遣して朝貢した&size(6){(東アジア-朝鮮、耽羅:耽牟羅:屯羅-)};||
|667|||近江大津宮に遷都大和・讃岐・対馬に築城&size(6){(対馬)};&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|667|||対馬国に金田城を築く。&size(6){(対馬)};&size(6){(日本-日本-)};||
|667|3|19|中大兄皇子(後の天智天皇)が近江・大津京に遷都&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|668|||01/03 COLOR(green):第38代 天智天皇&size(6){(--)};||
|668|||靺鞨は668年、高句麗が唐の攻勢を受けて滅亡&size(6){(--)};||
|668|||高句麗、唐・新羅連合軍が高句麗を滅ぼす&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|668|||COLOR(blue):高句麗が、新羅と唐によって滅ぼされる。&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗、新羅、唐-)};||
|668|||COLOR(green):新羅、唐と連合して高句麗を滅ぼす&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗、新羅、唐-)};||
|668|||高句麗が、新羅と唐によって滅ぼされる。&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗、新羅、唐-)};||
|668|||COLOR(blue):高句麗滅亡&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗、新羅、唐-)};||
|668|||百済滅亡についで、唐・新羅連合軍は、668年に高句麗を滅ぼし、これによって三国時代は終わり、統一新羅の時代がはじまりました。&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗、百済、新羅、唐-)};||
|668|||新羅、新羅も唐軍に合流して平壌の長安城を攻め、高句麗を滅ぼす&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|668|||渤海、唐により高句麗滅亡、平壌に安東都護府を設置&br;高句麗遺民は満洲の営州(遼寧省朝陽)に強制連行される&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|668|||近江令を制定&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|668|||太田皇女歿&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|668|1|3|COLOR(SandyBrown):第38代天智天皇&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|668|1|3|COLOR(SandyBrown):大化改新後、皇太子として政治の実権を握っていた中大兄皇子が即位。第38代天皇・天智天皇になる&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|668|2|27|太田皇女を斉明陵に合装する&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|669|||高句麗、唐、安東都護府を設置&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|669|||耽羅:耽牟羅:屯羅、王子の久麻伎らを送って日本に朝貢した&br;日本は耽羅王に五穀の種を賜い、その上で耽羅の王子らは帰国した&size(6){(東アジア-朝鮮、耽羅:耽牟羅:屯羅-)};||
|669|||百済人700余人を近江国蒲生郡におく&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|669|||鎌足危篤に際し、大織冠と藤原姓を与える&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|669|5|5|中臣鎌足が天皇のお供の狩の最中に落馬骨折。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|669|10|10|天智天皇は自ら中臣鎌足を見舞う&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|669|10|15|臨終に際して中臣鎌足が天智天皇から藤原の姓を賜る&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|669|10|16|藤原鎌足死去&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|670|||初の全国的な戸籍をつくる 美濃に不破関を設置&size(6){(--)};||
|670|||新羅、唐と争い、百済故地を収める(~676)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|670|||新羅、十二月倭国が国号を日本と改めた。自ら言うところでは、日の出る所に近いから、これをもって名としたとの事である。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅、倭:日本-)};||
|670|||初の全国的な戸籍をつくる美濃に不破関を設置&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|670|||日本初の戸籍(庚午年籍-こうごのねんじゃく)を作成する&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|670|4|30|法隆寺が落雷により全焼&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|671|||大友皇子、太政大臣になる 天智天皇没&size(6){(--)};||
|671|||渤海、唐・新羅戦争始まる&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|671|||大友皇子、太政大臣になる天智天皇が崩御&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|671|||対馬国与良の地(現在の厳原町国分付近)に国府を置く。対馬島で産出した銀を朝廷に献上する。日本で最初の銀の産出。以後、対馬の調として銀が納められる。&size(6){(対馬)};&size(6){(日本-日本-)};||
|671|4|25|漏刻(水時計)と鐘鼓による時報を開始&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|671|10||大友皇子(弘文天皇)立太子&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|671|11|10|唐使など二千人が47隻の舟で来朝。人数があまり多数のためにこのまま行ったら日本側が驚いて侵攻軍と間違えて迎撃するだろう、ということでまず4人が先行して大船団が来ることを告げに来たという。一行は翌年5月に帰国とあるが、大半は日本への亡命希望者だと思われます。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|671|12|3|天智天皇崩御(中大兄皇子,天命開別尊)(天皇(38代))<46歳>&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|671|12|5|COLOR(green):第39代 弘文天皇&size(6){(--)};||
|671|12|5|COLOR(SandyBrown):第39代弘文天皇即位&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|672|||RIGHT:COLOR(green):壬申の乱が起こる''672年''&size(6){(東アジア-朝鮮、日本-)};||
|672|||壬申の乱&size(6){(日本-日本-)};||
|672|>|>|''擦文時代(7世紀-13世紀)''&size(6){(日本-日本-)};||
|672|||白鳳文化&size(6){(日本-日本-)};||
|672|||壬申の乱(古代史上最大の内乱)。大友皇子(弘文天皇)と弟の大海人皇子が皇位継承の争い。大海人皇子の勝利で天武天皇となる。&size(6){(日本-日本-)};||
|672|2|23|弘文天皇崩御(大友皇子)(天皇(39代))<25歳>壬申の乱で破れ自害&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|672|6|24|出家・隠棲していた大海人皇子(後の天武天皇)が弘文天皇を討つ為に吉野を出発。いわゆる壬申の乱の始り&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|672|7|21|壬申の乱。瀬田川の戦い。大海人皇子の軍と弘文天皇(大友皇子)の近江朝廷軍が瀬田川で戦闘。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|673|||耽羅:耽牟羅:屯羅、王子の久麻藝や都羅宇麻らを送って日本に朝貢した&size(6){(東アジア-朝鮮、耽羅:耽牟羅:屯羅-)};||
|673|2|23|大海人皇子が立太子&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|673|2|27|COLOR(SandyBrown):大海人皇子が即位し第40代天皇・天武天皇となる&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|673|2|27|COLOR(green):第40代 天武天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|674|||イスラムにコンスタンティノポリスを包囲される~678&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};||
|674|||イスラム軍、コンスタンティノープルを包囲(~678)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|674|||ウマイヤ朝が東ローマ帝国のコンスタンティノープルを包囲する。東ローマ帝国はギリシアの火で撃退する。-678,717年&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|674|||新羅、高句麗王(安勝を報徳王として)、新羅に亡命してきたのを金馬渚に冊封した&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|675|||諸氏の部曲を廃止し、王臣・諸寺に与えた山林などを没収&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|675|||伝説によれば役小角が「金剛蔵王権現」を祈り出す。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|675|1|5|天武天皇が、天文を観察し吉凶を占う為の日本初の占星台を設置&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|675|4|17|狩漁(罠や落とし穴、武器を用いた仕掛け設置)と食肉(牛・馬・犬・猿・鶏)の制限を命ず。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|676|>|>|''三国時代→統一新羅時代''&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|676|||''朝鮮半島、三国時代~新羅による朝鮮統一~''&br;紀元前108年より長きに渡る中国勢力からの支配を受けていた朝鮮。しかし、それも中国東北地方から出た民族が建てた国、高句麗により中国勢力の拠点、楽浪郡が滅ぼされると(313年)朝鮮半島内における激しい争いの幕開けとなります。朝鮮半島の南にある小国は、まとまり始め百済、新羅が誕生。朝鮮半島の三国時代の始まりです。&ref(image1201.jpg,nolink,画像の説明);さぁ、上の図を見れば圧倒的に有利なのは高句麗ですね。4世紀後半、高句麗は中国の東北地方から朝鮮半島の北の大半を領土とし全盛期を迎えます。しかし、これは中国にとってはやっかいです。これ以上、高句麗には力をつけて欲しくはないところ・・・。6世紀後半から7世紀前半に高句麗は、中国(隋・ずい)から再三に渡って攻撃を受けることになります。ですが、この頃の高句麗は超つよく、その攻撃をすべて跳ね返す!ですが、その頃、南で着実に勢力を伸ばしている国がありました。新羅です。新羅は、地図を見ればわかるように朝鮮半島の東側だから中国からは遠い。ということは、中国にとって新羅は直接の脅威ではなかったわけです。新羅は、中国との良好な関係を保ちながら、百済、高句麗の領土を削っていきます。この新羅の勢力拡大に脅威を抱いた高句麗は百済と同盟を結ぶことになります。6世紀後半のことです。高句麗は、隋からの攻撃を受けながら、新羅の動きにも目を光らせていなければならなかった訳ですね。そして、中国でも大きな動きが起こります。隋が滅び、かわり唐が中国を支配しました。この唐と新羅は同盟を結ぶことになります。660年のことです。唐と手を組んだ新羅はさっそく連合軍を率いて百済を滅亡(660年8月)。この戦いは、日本も大きく関わっています。白村江の戦い(はくすきのえ・はくそんこうのたたかい)です。日本は百済を助ける為に大軍を送り込みますが、残念ながら敗退します。:''668年''そして、新羅は高句麗も滅ぼしました。&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|676|||''統一新羅時代(676ー935)''&br;統一後の新羅は文化・芸術の興隆に努め、特に仏教文化はこの時期に黄金期を迎えます。しかし、貴族層の間での覇権争いにより次第に国力が衰退していき、結局935年に高麗に併合されてしまいました。しか~し!百済、高句麗を滅ぼした新羅。この新羅が今度は唐にとっては目障りです。なんと、共に戦った新羅と唐が戦争状態になります。670年のことです。この争いは6年続きます。&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|676|||新羅,三国統一.高句麗の北半分唐の領土となる&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗-)};||
|676|||COLOR(blue):新羅、唐を追い出し、三国を統一することになる。ここに統一新羅が誕生する。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|676|||COLOR(green):新羅、三国統一&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|676|||新羅が、唐を追い出し、三国を統一することになる。ここに統一新羅が誕生する。統一新羅時代&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|676|||''統一新羅と後三国時代[676~918年]''&br;新羅は骨品制〔こっぴんせい〕という貴族制度を通して王権を強化した。華やかな文化が花開いた。手工業や商業が活発になり、絹織物、金銀細工、螺鈿漆器、人参などを唐や日本に輸出して富を得た。末期には、王権が弱くなり地方では豪族勢力が成長して、後高句麗、後百済などという国をたて、ふたたび三国が鼎立することになった。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|676|||平壌(ぴょんやん)に設置されていた唐の安東都護府(あんとうとごふ)が遼陽(りょうよう)まで撤退するとCOLOR(blue):新羅による朝鮮半島の統一COLOR(black):が達成されました。当時の国王は文武王(ぶんぶほう)です。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|676|||COLOR(blue):新羅、三国統一&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|676|||新羅、高僧の義湘に浮石寺を創建させる&br;唐、熊津都護府・安東都護府を撤収する&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|676|||渤海、新羅が朝鮮半島を統一(首都は慶州)&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|676|||676-679扶餘隆高句麗にて死去&br;唐の則天武后はその孫に高句麗(百済)王を名乗らせるが領土なく絶える&size(6){(東アジア-朝鮮、百済-)};||
|676|5|7|下野(しもつけ)(現在の栃木県)は前年凶作であったと思われる。この日下野から民衆が自分の子を売ることに許可を求めてきている。・・・・許可は下りなかった。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|676|10|3|神に新穀を捧げる相嘗[あいなめ]祭を初めて挙行&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|677|11|1|筑紫大宰(つくしのおおみこともち、後の大宰府)から赤烏が献上された&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|678|12|4|蘇我石川麻呂の発願による飛鳥・山田寺の金銅丈六仏が鋳造される&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|679|||ブルガリア人、ドナウ下流に王国建設&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|679|||逢坂山に関を設置&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|679|||多禰島(種子島)に使いを派遣&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|680|||飛鳥寺を官寺に入れる&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|680|11|12|天武天皇が皇后の病気恢復を祈り薬師寺の造営を発願。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|681|||ブルガール人のバルカン定住を認め、ブルガリア王国建国&size(6){(西欧-イタリア、ブルガリア、ローマ-)};||
|681|||COLOR(green):第31代新羅王神文王(681~692)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|681|||渤海、《神文王(681~692)即位》&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|681|||多禰島(種子島)使人ら多禰国図を献ず&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|681|||律令の編纂を開始&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|681|||橘寺が失火により十房を失う&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|681|2|25|天武天皇が律令の制定を命ずる。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|681|3|17|天武天皇が川島皇子と忍壁皇子に帝記の編纂を命ずる&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|682|||大隈隼人・阿多隼人上京方物を献ず 多禰が&size(6){(--)};||
|682|||新羅,国学を設立.博士と助教を決め儒学を教える&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|682|||COLOR(blue):新羅、国学を建てる&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|682|||渤海、礼部の配下に国学を創立&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|682|||王臣の食封を没収す&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|682|||大隈隼人・阿多隼人上京方物を献ず多禰が&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|682|||島・掖玖島など服属&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|683|||大津皇子、国政に参画&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|683|||珂瑠皇子生誕。(文武天皇)&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|684|||渤海、安勝の一族の反乱、報徳国を滅ぼす(統一の完了)&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|684|||唐・李氏・・COLOR(green):中宗・即位&size(6){(東アジア-唐-唐)};||
|684|||唐・李氏・・COLOR(green):睿宗・即位&size(6){(東アジア-唐-唐)};||
|684|10|1|「八色の姓[やくさのかばね]」を制定。真人[まひと]・朝臣[あそみ]・宿禰[すくね]・忌寸[いみき]・道師[みちのし]・臣[おみ]・連[むらじ]・稲置[いなぎ]の8種&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|684|10|14|白鳳南海地震。亥の刻(午後十時頃)、大地震が発生した。国中で人々が泣き叫んで逃げまどい、山は崩れ川が湧いた&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|684|11|21|流星が雨のように降った&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|684|11|23|再び流星が降った。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|685|||COLOR(blue):九州五小京設置&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|685|||九州五小京設置.中央集権的地方統治制度を作り,地方を支配&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|685|||COLOR(blue):新羅、九州五小京設置&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|685|9|10|伊勢神宮が、20年ごとに社殿を新しくする「式年遷宮の制」を定めた。この制度は現在も継続中です。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|686|||渤海、高句麗、滅亡&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|686|||大津皇子の変=謀反の嫌疑で捕らえられ自害&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|686|7|2|朱鳥(しゅちょう)(686.7.2)天武天皇崩御後使わなくなった。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|686|7|20|白雉から朱鳥に改元。同年9月9日の天武天皇崩御まで使用することになる。天武の都に飛鳥浄御原宮の名称が定められた&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|686|9|9|天武天皇が崩御(大海人皇子,?天渟中原瀛真人)(天皇(第40代))、天武天皇崩御により皇后・{盧鳥}野讃良[うののさらら]皇女が政務を行う(後の持統天皇)こととなった&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|686|10|1|大津皇子が謀叛の疑いで皇太子・草壁皇子に捕えられる。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|686|10|4|捕らえられていた大津皇子が自害&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|687|||中ピピン、全フランク王国宮宰となる&size(6){(西欧-フランス、ドイツ、イタリア-)};||
|687|||COLOR(green):新羅、九州五京の郡県制を確率&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|687|||渤海、祖廟を祭る五廟の制度を整備し、儒教理念の明確化、郡県制の確立&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|687|||高句麗の渡来人を常陸国に新羅の渡来人を下毛野国におく&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|689|||渤海、租米による俸禄制を始める&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|689|||筑紫大宰栗田真人、隼人174人と布・牛皮・鹿皮を献ず&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|689|||飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)が施行(体系的な法典)&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|689|||新羅の渡来人を下毛野国におく 飛鳥浄御原令施行&size(6){(日本-日本-)};||
|690|||唐の建国&size(6){(--)};||
|690|||唐・李氏・・ COLOR(green):則天武后・即位&size(6){(--)};||
|690|||イングランドでウェセックス王国優勢となる&size(6){(西欧-イギリス-)};||
|690|||COLOR(SandyBrown):BGCOLOR(#EEEEEE):''則天武后''唐の高宗の皇后であったが、664年に実権を握り、690年に国号を周に改め、中国史上、唯一の女性の皇帝となる。科挙官僚の登用など見るべき施策も多いが、一方で醜聞も多く、評価は二面的である。705年の死に伴い、国号は唐に復されたが、次の中宗の時には皇后の韋后が政治を乱し、則天武后と併せて「武韋の禍」ともいわれる。 655年、唐の高宗の皇后となったが、高宗が病弱であったことから、664年から政治の実権を握って「垂簾の政」(背後の簾(すだれ)の中から皇后が皇帝を操って行う政治)を行った。則天武后は、唐王室の李一族など北朝以来の貴族勢力(関隴集団。長安付近に土着した鮮卑系貴族で、関隴とは陝西省・甘粛省一帯を言う。)を一掃した。高宗の死後、実子の中宗・睿宗を相次いで廃帝として、690年、自ら皇帝として即位、聖神皇帝と称し、国号を周(武周)に改め、都を洛陽として神都と改称した。中国史上、唯一の女帝(在位690~705年)である。&size(6){(東アジア-周、唐-唐)};||
|690|>|>|''690年~900年:渤海(属国)&deco(silver,white,9){よいこの正しい半島歴史年表};''&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|690|||COLOR(SandyBrown):唐・李氏・・則天武后則天武后が即位して国号を周とする&size(6){(東アジア-唐-唐)};||
|690|||武韋の禍はじまる&size(6){(東アジア-唐-)};||
|690|||戸令により戸籍をつくらせる&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|690|1|1|COLOR(green):第41代 持統天皇&size(6){(--)};||
|690|1|1|COLOR(SandyBrown):第41代持統天皇&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|690|1|1|COLOR(SandyBrown):天武天皇の皇后盧鳥}野讃良皇女が即位し第41代持統天皇となる&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|691|||奴婢、陵戸の制を定める&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|691|||7世紀末期矢立山古墳(厳原町)&size(6){(対馬)};&size(6){(日本-日本-)};||
|692|||ビザンティン帝国、イスラム軍に大敗&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|692|||COLOR(green):第32代新羅王孝昭王(692~702)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|692|||渤海、《孝昭王(692~702)即位》&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|694|||都を奈良県橿原市(かしはらし)の藤原京(長安の模倣)に遷都&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|694|12|6|持統天皇が飛鳥浄御原宮から藤原京に遷都&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|695|||ビザンティン帝国、無政府状態続く(~716)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|696|||COLOR(red):大祚栄が出て、高句麗を復興させるとして、696年に遼東地方に震国を建てた。&size(6){(東アジア-、震国:渤海-)};||
|697|||08/01 COLOR(green):第42代 文武天皇&size(6){(--)};||
|697|||カルタゴ、イスラム軍に占領される&size(6){(アフリカ-チュニジア、イスラム-)};||
|697|||渤海、契丹・李尽忠の乱&br;靺鞨の乞乞仲象、乞四比羽らが東走&br;唐、契丹族の反乱により安東都護府を廃して、都護府とする&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|697|||藤原不比等(ふじわらのふひと)の娘が文武天皇の后になる&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|697|8|1|COLOR(SandyBrown):持統天皇が孫の珂瑠皇子に譲位。第42代文武天皇となる。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|698|||COLOR(red):震国(のちの渤海)成立&size(6){(東アジア-中国、震国:渤海-)};||
|698|||''南北国時代(698ー918)''&br;COLOR(blue):南北国時代(698ー918)&size(6){(東アジア-朝鮮-南北国時代)};||
|698|||COLOR(red):高句麗の将軍出身の大祚栄,震国(後の渤海)建国&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗、震国:渤海-)};||
|698|||中国の唐の内政混乱に乗じて、営州に強制移住させられていた高句麗の遺民たちが、大祚栄(テジョヨン)の指揮の下、旧高句麗の地に帰還し、震国を建国する。幾たびか唐の討伐を凌ぎつつ勢力を拡大し、ついに、713年、唐に独立を認めさせ、渤海(パレ)が誕生した。渤海は、926年の滅亡まで、200年余り続いた。&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗、震国:渤海-)};||
|698|||''渤海(698年-926年)-高句麗の滅亡後、遺民らが建国した国家''&br;:''698年''COLOR(green):高句麗、大祚栄、渤海国を建国:''698年''中国の唐の内政混乱に乗じて、営州に強制移住させられていた高句麗の遺民たちが、大祚栄(テジョヨン)の指揮の下、旧高句麗の地に帰還し、震国を建国する。幾たびか唐の討伐を凌ぎつつ勢力を拡大し、ついに、COLOR(blue):渤海の建国&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗、震国:渤海-)};||
|698|||''震国(696ー)''&br;''渤海(713ー926)''&br;&br;渤海は高句麗が滅びる頃に誕生しました。渤海は、高句麗の将軍である大祚栄が高句麗の難民たちからなる兵士たちと共に建国した国です。一時期は、中国の北東地域までを占める領土を有するほどの国力を保持していました。その当時、中国の唐は渤海を「海の東に隆盛した国(海東盛国)」と呼ぶほどでした。渤海は高句麗のかつての領土を回復し、高句麗を継承した国であるという点で歴史的に重要な意味を持っています。&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗、震国:渤海-)};||
|698|||新羅、三月に日本国から使臣が来たので、王は崇礼殿で引見した。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|698|||COLOR(blue):渤海の建国&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|698|||渤海、日本国からきた使者を崇礼殿で引見&br;大祚栄、震国の建国(吉林省敦化付近:東牟山)&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|698|||公私奴婢の逃亡多く、笞刑を定める&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|698|10|4|藤原京に天武天皇の発願による薬師寺が建立&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|699|||渤海、唐への朝貢を再開&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|699|5|24|修験道の開祖・役行者(役小角)が弟子の讒言により伊豆に流罪となる&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|700|||道昭(行基の師)没し、火葬する(火葬の初め)&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|700|3|10|法相宗の僧・道昭が火葬される。記録上日本初の火葬&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|701|||RIGHT:COLOR(green):大宝律令制定&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗、渤海-)};||
|701|||日本の大宝律令が制定&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|701|||流刑されていた役小角が戻される。この年、雲心寺(観心寺)を開く&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|701|||首(聖武天皇)生誕&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|701|||大宝律令(たいほうりつりょう)を施行(本格的な法典)。編纂は忍壁皇子(おさかべのみこ)、藤原不比等で、この頃から藤原不比等が台頭するようになる。&size(6){(日本-日本-)};||
|701|||対馬島で産出したと称した金を朝廷に献上。日本で最初の金の産出を慶祝して「大宝」の年号を建てる。&size(6){(対馬)};&size(6){(日本-日本-)};||
|701|3|21|大宝(たいほう)(701.3.21-703)&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|701|3|21|対馬からの金の献上により朱鳥から大寶(大宝)に改元。この日、官名と位号の制度を改正&size(6){(対馬)};&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|701|3|26|丹波国では3日間連続で地震が続いた。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|701|8|3|藤原不比等らによる「大宝律令」の編纂が完了&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|702|||COLOR(green):第33代新羅王聖徳王(702~737)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|702|||渤海、《聖徳王(702~737)即位》&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|702|||初めて度量を諸国に分かつ律令を分かつ薩摩国・多禰国を置く&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|702|2|29|前年に制定された「大宝律令」を諸国に頒布&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|702|3|5|因幡、伯耆、隠岐に蝗の被害&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|702|6|7|上野国に疫病発生&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|702|6|28|藤原京の12門の一つ海犬飼門に落雷&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|702|12|22|持統天皇崩御({盧鳥}野讚良皇女,高天原廣野姫尊)(天皇(41代),天武天皇の皇后)<数え58歳>&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|703|||新羅、日本国から使臣が来たが、みんなで二百四名であった。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-)};||
|703|10||持統上皇葬送の儀&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|703|12|26|持統天皇を天武陵に合葬する。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|704|||渤海、『最勝王経』&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|704|||疾病・飢饉の流行&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|704|5|1|慶雲(けいうん)(704.5.1-707)&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|704|5|10|雲の瑞祥により慶雲に改元。708年に和銅に改元&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|704|8|5|伊勢、伊賀の二国に蝗の被害&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|705|||周終わり。唐復活&size(6){(東アジア-周、唐-唐)};||
|705|||渤海、大門芸が唐に入侍&br;唐による侍御史を震国に派遣&br;安東都督府復活&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|705|||渤海、大飢饉~706&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-)};||
|705|9|15|膳広国(かしわでのひろくに)という豊前国京都郡の郡庁次官がこの日突然死する。3日後の17日に生き返った。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|705|9|17|3日前に死んだはずの膳広国(かしわでのひろくに)が生き返った。話によれば、使者に連れられ大河を渡り・・・黄金の宮殿で閻魔大王に会い、死んだ先妻や、父と会う・・・・さらに迷っていると子供が現れ門へ導き生き返った。その子供こそ彼が幼い頃書写した観音経だったという。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|706|||田租の法を改め、1町22束を15束とする&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|707|||07/17 COLOR(green):第43代 元明天皇&size(6){(--)};||
|707|6|15|第42代文武天皇崩御(25歳)&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|707|7|17|COLOR(SandyBrown):天智天皇の第四皇女・阿閇皇女が即位し第43代天皇・元明天皇に&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|707|11|20|文武天皇を檜隈安古山陵に葬る&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|708|||武蔵国、和銅を献上 銀銭・銅銭を鋳造&size(6){(--)};||
|708|>|>|''古墳後期/奈良時代''&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|708|||和同開珎(わどうかいちん)が発行される(日本初の通貨)&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|708|1|11|和銅(わどう)(708.1.11-714)&size(6){(--)};||
|708|1|11|武蔵国秩父郡から朝廷に和銅を献上銀銭・銅銭を鋳造されたことを記念して慶雲から和銅(わどう)(708.1.11-714)に改元&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|708|2|15|元明天皇が平城京造営の詔を布告&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|708|5|11|銀銭「和同開珎」を鋳造。日本初の国産貨幣&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|708|8|10|銅銭「和同開珎」を発行&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|708|9|30|造平城京司任命。阿倍宿奈麻呂(あべのすくなまろ)、多治比池守(たじひのいけもり)の二人を造平城京司長官に、中臣人足(なかとみのひとたり)、小野広人(おののひろひと)、小野馬養(おののうまかい)の三人を次官、坂上忍熊(さかのうえのおしくま)を大匠(おおだくみ、技術上の責任者)以下数名を任命する。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|708|10|2|平城京を造営、遷都することを伊勢神宮に報告&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|708|12|5|平城京造営地鎮祭実施&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|709|||巨勢麻呂・佐伯石湯、蝦夷を平定&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|709|||薩摩隼人郡司以下188人朝貢&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|709|6|9|上総、越中に疫病流行。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
|709|10|13|白壁王生誕。後の光仁天皇&size(6){(日本-日本-飛鳥時代)};||
| | | |CENTER:&size(20){奈良時代[710 - 793]};&size(6){(日本-日本-飛鳥時代 → 奈良時代)};||
|710|>|>|''飛鳥時代→奈良時代[710 - 794]''&size(6){(日本-日本-飛鳥時代 → 奈良時代)};||
|710|||天平文化&size(6){(日本-日本-飛鳥時代 → 奈良時代)};||
|710|||奈良平城京に遷都&size(6){(日本-日本-飛鳥時代 → 奈良時代)};||
|710|||元明天皇が都を奈良県奈良市付近の平城京(長安の模倣)へ遷都「あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり」万葉集で平城京の見事さを詠んだ歌。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代 → 奈良時代)};||
|710|||薩摩国は舎人を、日向国は采女を貢ぐことを命ず&size(6){(日本-日本-飛鳥時代 → 奈良時代)};||
|710|||RIGHT:COLOR(green):平城京遷都&size(6){(東アジア-日本、朝鮮、高句麗、渤海-)};||
|710|2|11|信濃国で疫病がはやる。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代 → 奈良時代)};||
|710|3|10|元明天皇が藤原京から平城京に都を移す。748年まで8代の天皇の都となる。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代 → 奈良時代)};||
|710|9|18|全国の銀銭の使用を禁止&size(6){(日本-日本-飛鳥時代 → 奈良時代)};||
|710|10|1|日蝕&size(6){(日本-日本-飛鳥時代 → 奈良時代)};||

トップ   編集 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS