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朝鮮半島・高麗の時代
 
 676年に新羅によって朝鮮半島初の統一がなされますが、8世紀末から9世紀まで王位継承の争いが起こり、地方でも農民が反乱を起したり、飢饉に見舞われたりと新羅は国力を失っていきます。

 そんな中、有力な豪族たちが新羅を分裂させ国を建国していきました。後三国時代といわれる時代です。

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 この争いを制したのは高麗。高麗は935年に新羅を併合すると、936年には後百済を滅ぼし朝鮮半島を統一しました。

 高麗の建国者は王建(おうけん)。首都は開城(かいじょう)です。

 この高麗。現在、韓国のことをKoreaといいますよね。これは、高麗を表すKoryoが変化したものだといいます。当時、高麗は青磁(せいじ)という陶磁器を輸出し世界に名を知られることになりましたので、この高麗のイメージが強かったのでしょうね。

 また、高麗は日本ともちょっと因縁があります。そう元寇です。

 高麗は1259年にフビライ=ハンの率いるモンゴル(元)軍の侵攻により属国となります。これに対して、高麗は三別抄(さんべつしょう)と呼ばれる選抜部隊が奮闘し対抗するのですが、これも1273年には完全に鎮圧されてしまいます。そして、1274年には元により高麗水軍を前面に立てた日本攻撃が始まるのです。文永の役ですね。さらに1281年には再び日本に攻めてきます。弘安の役です。

 この高麗は、1356年に元から独立しますが、同時期に頻繁に発生していた倭寇(わこう・海賊)に悩まされ、高麗は徐々に衰退していくことになります。
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*993~1019年  926年、渤海を滅ぼした北方民族契丹(きったん)は、急速に勢力を強め、高麗との国境付近まで版図を広げ、993年から、1019年まで、実に数次にわたって、高麗に侵攻してきた。
だが、高麗は、これらの侵攻をことごとく撃退してしまうと、やがて、契丹の目は西方に向き、やがて、高麗は安定を取り戻す。

*1231年  北方でモンゴル帝国が台頭する。高麗はモンゴル帝国と平和的な関係を維持してきたが、1224年、モンゴル使臣が高麗内で遭難する事件が発生するや、急速に関係が悪化、国交を断絶する。モンゴルによる高麗への侵入がはじまり、首都を江華島に移す。 徹底抗戦するも、数度にわたるモンゴル侵入で、高麗はすっかり疲弊し、結局、1259年、高麗はモンゴルに服属することになる。
*1274~1281年 一方モンゴルのグビライは、日本を服従させようとして、2度にわたり、日本侵攻を行ったが失敗した。
このとき、高麗は全線基地としての役割を命じられるが、多大な負担を強いられた。

*1388年  14世紀に入り元が衰え始めると、高麗は元と断交し、北方を奪還して、モンゴル侵入以前の領域を回復する。
一方、活発化してきた倭寇に苦しむことになる。しかし、高麗軍の有力武将らが、次第に倭寇に打撃を加え、その脅威は減少する。
やがて、中国が明に変わると、高麗内で親元派と親明派との抗争が絶えなかった。1388年、武人李成桂はクーデターを興して政権を掌握すると、親明派の支持を受けて体制を固め、1392年、自ら即位し李氏朝鮮を興し、ここに、高麗は、474年の幕を下ろすことになった。
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#menu(menu_朝鮮半島の歴史)
| | | |CENTER:&size(20){朝鮮半島の歴史};&size(6){(東アジア-朝鮮-先史時代)};||h
|936|||COLOR(blue):高麗、後三国の統一&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|936|||後百済を滅ぼして、高麗が、半島の再統一(COLOR(blue):後三国統一)をなしとげる。このときの首都は、開城(ケソン)におかれた。&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗,後百済-)};||
|936|||高麗、後百済を滅ぼして朝鮮半島を再統一&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、後百済-)};||
|936|||こうして、新羅、後百済、後高句麗の3国が鼎立する中で、弓裔の下にいた王建(ワンゴン)は、傲慢な弓裔を滅ぼし、918年、新たに高麗(コリョ)を建国し、自ら王を名乗る。王建は、次第に地方の豪族たちをまとめあげ、935年には、新羅を併合、そして、936年には、後百済を滅ぼして、高麗が、半島の再統一をなしとげる。このときの首都は、開城(ケソン)におかれた。高麗時代&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅、後百済、後高句麗-)};||
|956|||もともと官民でありながら奴婢になった者を開放させる,奴婢按検法実施&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|956|||奴婢按検法を実施&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|956|||COLOR(blue):奴婢按検法実施&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|958|||COLOR(blue):科挙制実施&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|958|||科挙制度を実施&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|958|||光宗の代,実力本位で官吏を採用する,科挙制度実施&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|976|||田柴科実施.地位により田地と柴地に差異を設けて分ける&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|976|||田柴科制度を実施&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|976|||COLOR(blue):田柴科実施&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|983|||COLOR(blue):十二牧設置&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|983|||全国に十二牧設置,三省,六部,七寺を定める&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|983|||COLOR(blue):全国に一二牧設置、三省六都を定める&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|992|||中央に国子監設置.地方に郷校設置し儒学など強化&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|992|||COLOR(blue):国子監設置&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|993|||1019年実に数次にわたって、高麗に侵攻してきた。だが、高麗は、これらの侵攻をことごとく撃退してしまうと、やがて、契丹の目は西方に向き、やがて、高麗は安定を取り戻す。&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、契丹-)};||
|993|||契丹が何度も侵入し、高麗と激しい戦闘を繰り返した。契丹が西に去ると今度は女真が台頭し金を建国した。高麗は、金に朝貢して国内を安定させた。&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、契丹-)};||
|993|||契丹が高麗に侵攻&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、契丹-)};||
|993|||契丹の第一次侵攻.高麗国境を襲う.和約を結ぶ&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、契丹-)};||
|993|||926年、渤海を滅ぼした北方民族契丹(きったん)は、急速に勢力を強め、高麗との国境付近まで版図を広げ、993年から、1019年まで、実に数次にわたって、高麗に侵攻してきた。だが、高麗は、これらの侵攻をことごとく撃退してしまうと、やがて、契丹の目は西方に向き、やがて、高麗は安定を取り戻す。&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、渤海、契丹-)};||
|996|||朝鮮における最初の鋳造貨幣,鉄銭(乾元重宝)の鋳造&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|996|||COLOR(blue):鉄銭(乾元重宝)の鋳造&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|998|||品階(階級)制を布く.王侯貴族,文武臣,僧侶など18科に分ける&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1009|||康兆の政変.武臣の康兆が王権交代を図る.後に契丹に殺される&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1009|||COLOR(blue):康兆の政変&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1019|||COLOR(blue):亀州大捷&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1019|||帰州大捷.契丹軍,開京付近まで侵攻するが,帰州で敗退&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、契丹-)};||
|1019|||姜邯賛が契丹を破る(亀州の戦い)&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、契丹-)};||
|1019|||COLOR(blue):亀州大捷&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、契丹-)};||
|1019|||RIGHT:COLOR(green):刀伊(女真族)の侵入''1019年''&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、刀伊-)};||
|1076|||田柴科改定,官制改革.文武官僚の地位にしたがって柴地を与える&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1076|||COLOR(blue):田柴科改定、官制改革&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1086|||義天,教蔵都監を設置して「続蔵経」を組み版&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1086|||COLOR(blue):義天、教蔵都監を%%設置して%%置き「続蔵経」を%%組み版%%刻む&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1087|||「高麗大蔵経」完成&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1097|||鋳銭都監設置.災害などの貧民救済に備える&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1097|||COLOR(blue):鋳銭都監設置&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1102|||海東通宝鋳造.農業中心社会のため広く流通せず&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1102|||COLOR(blue):海東通宝鋳造&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1107|||COLOR(blue):尹グァン、女真征伐&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、女真-)};||
|1107|||尹グァン,別武班を率いて女真征伐&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、女真-)};||
|1107|||COLOR(blue):尹權、女真征伐&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、女真-)};||
|1126|>|>|''1126年~1234年:金(属国)''&size(6){(よいこの正しい半島歴史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|1126|||COLOR(blue):李資謙の乱&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1126|||李資謙の乱.門閥社会が進んだ結果の権力争い&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1126|||COLOR(blue):李資謙の乱&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1127|||地方郡県に国立の儒学校,郷校設立&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1129|||李資謙の乱が起こる&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1135|||COLOR(blue):西京遷都運動&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1135|||妙清の西京遷都運動.金富軾の官軍に鎮圧される&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1135|||妙清の乱が起こる&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1135|||COLOR(blue):妙清の西京遷都運動&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1145|||COLOR(blue):金富軾「三国史記」編纂&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1146|||第四代国王世宗がハングル(訓民正音)を制定するも集賢殿の副提学であった雀萬理は昔から、中華の土地では風土が異なってる方言を文字にした例はないと批判。これに対し世宗は「これは文字ではないので中華に対しての反逆ではない。訓民正音である。」訓民正音とは愚かな民に発音を教える記号。&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1147|||同性婚,近親婚を禁止&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1159|||RIGHT:COLOR(green):平治の乱''1159年''&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1170|||COLOR(blue):武臣政変&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1170|||鄭仲夫ら武臣が政権を奪取&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1170|||武臣政変.文臣中心から武臣政権になり,権力争い起こる&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1170|||COLOR(blue):武臣政変&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1171|||武人たちがクーデター&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1174|||COLOR(blue):鄭仲夫、政房設置&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1176|||公州(忠南道)鳴鶴所の亡尹・亡所尹が公州占領する民乱&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1179|||慶大升,都房(私兵集団)政治&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1179|||COLOR(blue):%%慶大升、都房政治%%&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1182|||全州(全羅南道)民乱.官奴が中心になり州の官吏を襲撃&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1185|||RIGHT:COLOR(green):平氏滅亡''1185''&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1192|||RIGHT:COLOR(green):源頼朝征夷大将軍となる''1192''&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1196|||崔忠献、武臣政権を奪取(~1258)&br;崔忠献執権.慶大升死後政権を執る&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1196|||COLOR(blue):崔忠献執権&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1198|||万積の乱.公私奴隷開放をかかげ開京で乱を起こそうとして失敗&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1198|||COLOR(blue):万積の乱&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1219|||RIGHT:COLOR(green):北条氏の執権政治始まる''1219''&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1219|||蒙古と通交&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1219|||COLOR(blue):%%蒙古%%モンゴルと通交&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1221|||RIGHT:COLOR(green):承久の乱''1221''&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1224|||モンゴル使臣が高麗内で遭難する事件が発生するや、急速に関係が悪化、国交を断絶する。モンゴルによる高麗への侵入がはじまり、首都を江華島に移す。徹底抗戦するも、数度にわたるモンゴル侵入で、高麗はすっかり疲弊し、結局、&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1231|||COLOR(blue):モンゴルの侵入COLOR(black):が始まった。高麗は都を江華島に移して抗戦したが、国土はモンゴル軍に蹂躙された。&br;COLOR(blue):モンゴル侵入北方でモンゴル帝国が台頭する。高麗はモンゴル帝国と平和的な関係を維持してきたが、&br;COLOR(black):モンゴルが高麗に侵攻&br;北方でモンゴル帝国が台頭する。高麗はモンゴル帝国と平和的な関係を維持してきたが、1224年、モンゴル使臣が高麗内で遭難する事件が発生するや、急速に関係が悪化、国交を断絶する。モンゴルによる高麗への侵入がはじまり、首都を江華島に移す。徹底抗戦するも、数度にわたるモンゴル侵入で、高麗はすっかり疲弊し、結局、1259年、高麗はモンゴルに服属することになる。&br;蒙古の使者殺害を機に,蒙古が高麗へ第一次侵入.講和を結ぶ&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1231|||COLOR(blue):%%蒙古%%モンゴルの第一次侵入&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1232|||RIGHT:COLOR(green):貞永式目制定''1232''&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1232|||江華島に遷都.蒙古と戦う&br;崔氏政権、王都を開京から江華島に遷す&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1232|||COLOR(blue):江華島に遷都&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1234|||西洋より200年も早く金属活字で「詳定古今礼文」刊行(現存しない)&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1234|||COLOR(blue):金属活字で「詳定古今礼文」を刊行&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1236|||高麗大蔵教(経・律・論など三蔵の仏教経典の総称)刻印(木版印刷)(~1251)&br;高麗大蔵経の製作を開始する&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1236|||COLOR(blue):高麗「大蔵経」を%%刻印%%刻む(-1251)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1258|||崔氏政権が崩壊&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1259|>|>|''1259年~1356年:モンゴル(属国)''&size(6){(よいこの正しい半島歴史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|1259|||高麗,蒙古軍に降伏&br;高麗はモンゴルに服属することになる。&br;高麗はモンゴル帝国に服属し、30年に及ぶ抵抗は終わった。元の属国となった高麗は、二度の日本侵攻(元寇)の前線基地となり、多大な負担を強いられた。&br;高麗王朝、モンゴルに降伏&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、モンゴル-)};||
|1270|||COLOR(blue):開京に遷都&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1270|||COLOR(blue):開京遷都&br;COLOR(black):三別抄(精鋭軍隊)の対蒙抗争.開京遷都に反旗を翻すが失敗&br;武臣政権が終わり、開京に再遷都。三別抄の戦い始まる。&br;蒙古と講和を結び,開京遷都&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、モンゴル-)};||
|1270|||COLOR(blue):三別抄の対%%蒙%%モンゴル抗争&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、モンゴル-)};||
|1274|||RIGHT:COLOR(green):文永の役・水際撃退''1274''&size(6){(対馬)};&size(6){(日本、東アジア-日本、朝鮮、高麗、モンゴル-鎌倉時代)};||
|1274|||モンゴル軍と高麗軍が日本へ侵略&br;一方モンゴルのグビライは、日本を服従させようとして、2度にわたり、日本侵攻を行ったが失敗した。このとき、高麗は全線基地としての役割を命じられるが、多大な負担を強いられた。(~1281)&br;高麗と元の第一次日本侵略%%征伐%%(文永の役)&size(6){(対馬)};&size(6){(日本、東アジア-日本、朝鮮、高麗、モンゴル-)};||
|1274|||COLOR(blue):高麗・元の第一次日本征伐&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(対馬、国史年表)};&size(6){(日本、東アジア-日本、朝鮮、高麗、モンゴル-)};||
|1274|||元寇-文永の役(ぶんえいのえき)元・高麗軍(約3万人)は対馬・壱岐に続いて博多湾から上陸するが日本軍の奮闘と暴風雨で退却。&size(6){(対馬)};&size(6){(日本、東アジア-日本、朝鮮、高麗、モンゴル-鎌倉時代)};||
|1274|||元寇(文永の役)、元・高麗軍4万人が小茂田浜に来襲、対馬守護代宗資国以下80余騎戦死。島民被害甚大。&size(6){(対馬)};&size(6){(日本、東アジア-日本、朝鮮、高麗、モンゴル-)};||
|1274|10|5|元軍が対馬・壱岐に初来襲。文永の役が始る&size(6){(対馬)};&size(6){(日本、東アジア-日本、朝鮮、高麗、モンゴル-鎌倉時代)};||
|1280|||COLOR(blue):%%僧一然「三国遺事」編纂%%&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1281|||RIGHT:COLOR(green):弘安の役・艦隊決戦''1281''&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1281|||モンゴル軍と高麗軍が再び日本侵略&br;元の第二次日本侵略(弘安の役).%%暴風雨に遭い撤退%%&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、モンゴル-)};||
|1304|||安コウの主張により国学に大成殿設置&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1304|||COLOR(blue):安王向の主張%%により%%で国学に大成殿%%設置%%を建てる&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1314|||萬巻堂設置&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1314|||COLOR(blue):萬巻堂の設置&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1333|||RIGHT:COLOR(green):鎌倉幕府滅亡''1333''&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1338|||RIGHT:COLOR(green):室町幕府成立''1338''&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1350|||倭寇の動きが活発化し、また紅巾賊に都を占拠される事件も発生した。&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1356|||COLOR(blue):双城摠管府回復&br;COLOR(black):恭愍王、反元(モンゴル)運動を開始&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1359|||紅巾賊(明の成立の契機となった宗教的農民反乱軍)の侵入(~1361)&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1359|||COLOR(blue):紅巾賊の侵入(-1361)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1363|||文益漸,元から木綿の種を伝え,衣生活に大革新をもたらす&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1363|||COLOR(blue):文益斬、元から木綿の種を%%伝える%%もたらす&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1364|||高麗,倭冦対策で倭人万戸府設置&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1376|||崔瑩,倭冦征伐&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1376|||COLOR(blue):崔瑩、倭寇征伐&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1377|||「直指心経」印刷.世界最初の金属活字本として公認&br;崔茂宣の建議で火薬武器製造(火トゥ都監設置)&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1377|||COLOR(blue):崔茂宣の建議で火薬武器製造(火桶都監設置)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1377|||COLOR(blue):「直指心体要節」印刷&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1380|||李成桂,倭冦討伐&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1388|||COLOR(blue):威化島回軍武人李成桂はクーデターを興して政権を掌握すると、親明派の支持を受けて体制を固め、&br;COLOR(black):威化島回軍.李成桂反対派の崔瑩を除去.昌王を王位に就ける&br;李成桂、威化島で引き返して政権を奪う(威化島回軍)&br;14世紀に入り元が衰え始めると、高麗は元と断交し、北方を奪還して、モンゴル侵入以前の領域を回復する。一方、活発化してきた倭寇に苦しむことになる。しかし、高麗軍の有力武将らが、次第に倭寇に打撃を加え、その脅威は減少する。やがて、中国が明に変わると、高麗内で親元派と親明派との抗争が絶えなかった。1388年、武人李成桂はクーデターを興して政権を掌握すると、親明派の支持を受けて体制を固め、1392年、自ら即位し李氏朝鮮を興し、ここに、高麗は、474年の幕を下ろすことになった。&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1388|||COLOR(blue):威化島回軍&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1389|||李成桂一派により,昌王廃位恭譲王即位&br;倭冦の拠点である対馬征伐&size(6){(対馬)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1389|||COLOR(blue):朴威、対馬%%島%%征伐&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(対馬、国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗-)};||
|1392|>|>|''1392年~1637年:明(属国)''&size(6){(よいこの正しい半島歴史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮-)};||
|1392|||COLOR(red):高麗滅亡、李氏朝鮮成立(~1910)&size(6){(東アジア-朝鮮、高麗、李氏朝鮮-高麗滅亡、李氏朝鮮)};||
|1392|||COLOR(red):李氏朝鮮の建国&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1392|||朝鮮の歴史朝鮮半島の歴史/1392&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1392|||''朝鮮王朝[1392~1910年]''&br;15世紀に権力構造が改編され、中央集権体制が強化された。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1392|||CENTER:SIZE(20):朝鮮半島の歴史/1392&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1392|||COLOR(RED):李氏朝鮮王朝建国&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1392|>|>|''''朝鮮王朝、朝鮮時代(1392~1897)''&br;COLOR(blue):朝鮮時代(1392~1897)''&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1392|||''朝鮮王朝[1392~1910年]''&br;15世紀に権力構造が改編され、中央集権体制が強化された。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1392|||''李氏朝鮮(1392~1897)''&br;・一割もいない両班・貴族階級が、中人、常民、賎民、奴婢を支配・樽も車もなく、庶民は白い服しか着なかった・商店も貨幣もない実物経済、御用証人のみ&br;朝鮮は、14世紀末に建国されました。儒教が国の基本理念となり、朝鮮社会全般に大きな影響を与えました。1443年には世宗大王によりハングルが作られました。1592年に壬辰倭乱(文禄・慶長の役)が始まると共に諸外国の勢力が侵入してきたことにより、朝鮮の国力は次第に衰退していきました。&br;モンゴル帝国(元)からの独立を勝ち取った高麗。しかし、この高麗も倭寇(海賊)などの活動により衰退していくことになります。この倭寇の撃退で名を馳せたのが高麗の武将・女真人の李成桂(りせいけい)でした。&br;李成桂は、1392年に自ら高麗の王に即位します。李成桂は、王に即位すると国号を「朝鮮」としました。ちなみに、朝鮮という呼び名は、以前にも「箕子朝鮮・きしちょうせん」や「衛氏朝鮮・えいしちょうせん」という呼び名がありましたので日本では、これらと分けるために李朝朝鮮または李氏朝鮮と呼ぶことがあります。&br;この李朝朝鮮の首都は漢城(ソウル)です。&br;李成桂は、進んで明(中国)の文化や制度を取り入れ、明にならい朱子学(しゅしがく)を官学化したりもしました。今の韓国の国旗は「太極旗」といいますが、あれは朱子学の世界観を図解化したものですね。&br;15世紀に権力構造が改編され、中央集権体制が強化された。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1392|||1392年COLOR(blue):朝鮮建国高麗(??)の武将、李成桂(???)は、自ら高麗王につき、翌1393年には、国名を「朝鮮」(??)と改称し、首都を漢陽(今のソウル)に移した。その後、数代にわたり、国としての各種制度・体制を整備していくが、王位継承のもつれから、うちのめされた李成桂は、晩年、仏門に帰依することになる。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1392|||1392李成桂が高麗の恭譲王から王位を簒奪し、高麗王に即位、明より権知高麗国事として認められる、(権知高麗国事:高麗の政治をあずかっていると云う地位)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1392|||1392年自ら即位し李氏朝鮮を興し、ここに、高麗は、474年の幕を下ろすことになった。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1392|||1392年日本では、南北朝が合一。元が滅んで明の時代になると、倭寇や元を見限り明につき元との戦いで功績をあげた李成桂が立ち上がり、1392年に高句麗を王となる。李成桂は、王位につくやすぐさま、当時誕生したばかりの明王朝に伺いを立て国号を決めて貰っている。李成桂は明から権知朝鮮国事(朝鮮・李氏朝鮮初代の王)に封ぜられた。この時、李成桂は、箕氏朝鮮の旧号「朝鮮」と李成桂の生地「和寧」の二つの名前を持ち出し、明の太祖の朱元璋から「朝鮮」の国号を使うことを許されている。世界史の中で様々な国が存在するが、他国に自国の国号を決めて貰った国など、後にも先にも朝鮮ただ一カ国である。本来ならこの一時を持って、朝鮮が中国の属国であった事を、何よりも物語っているのだが、韓国人はこれでもまだ朝鮮が中国の属国であったことを認めないのである。都は漢陽(ソウル)である。朝鮮は約500年続き、明の朝貢国の時代(1393~1637年)、清の朝貢国の時代(1637~1894年)、欧米や日本が干渉した時代(19世紀後半~1910年)に分けられる。李成桂は儒教を崇拝し、仏教を排斥する政策をとった。しかし、彼は晩年に仏門に帰依するなど儒教も仏教も保護された。明の朝貢国の時代には、文禄・慶長の役と清の侵攻の大きな戦争が発生し国土は焦土と化した。李氏朝鮮(1393~1896)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1392|||COLOR(red):高麗滅亡.李成桂,朝鮮建国&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1392|||科田法実施.全国の土地の大部分を国家の収租地とする&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1392|||近世社会?(~1863)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1392|||朝鮮時代*1392年高麗(??)の武将、李成桂(???)は、自ら高麗王につき、翌1393年には、国名を「朝鮮」(??)と改称し、首都を漢陽(今のソウル)に移した。その後、数代にわたり、国としての各種制度・体制を整備していくが、王位継承のもつれから、うちのめされた李成桂は、晩年、仏門に帰依することになる。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1392|||李成桂、王位に就く、高麗王朝滅亡。&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1392|||李成桂が高麗の恭譲王から王位を簒奪し、高麗王に即位、明より権知高麗国事として認められる、(権知高麗国事:高麗の政治をあずかっていると云う地位)&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||
|1392|||COLOR(blue):高麗滅亡.朝鮮建国&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、李氏朝鮮-)};||

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