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  • data_奈良時代 へ行く。

| | | |CENTER:&size(20){奈良時代[710 - 793]};&size(6){(日本-日本-飛鳥時代 → 奈良時代)};||h
|710|>|>|''飛鳥時代→奈良時代[710 - 794]''&size(6){(日本-日本-飛鳥時代 → 奈良時代)};||
|710|||天平文化&size(6){(日本-日本-飛鳥時代 → 奈良時代)};||
|710|||奈良平城京に遷都&size(6){(日本-日本-飛鳥時代 → 奈良時代)};||
|710|||元明天皇が都を奈良県奈良市付近の平城京(長安の模倣)へ遷都「あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり」万葉集で平城京の見事さを詠んだ歌。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代 → 奈良時代)};||
|710|||薩摩国は舎人を、日向国は采女を貢ぐことを命ず&size(6){(日本-日本-飛鳥時代 → 奈良時代)};||
|710|||RIGHT:COLOR(green):平城京遷都&size(6){(東アジア-日本、朝鮮、高句麗、渤海-)};||
|710|2|11|信濃国で疫病がはやる。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代 → 奈良時代)};||
|710|3|10|元明天皇が藤原京から平城京に都を移す。748年まで8代の天皇の都となる。&size(6){(日本-日本-飛鳥時代 → 奈良時代)};||
|710|9|18|全国の銀銭の使用を禁止&size(6){(日本-日本-飛鳥時代 → 奈良時代)};||
|710|10|1|日蝕&size(6){(日本-日本-飛鳥時代 → 奈良時代)};||
|711|||イスラム軍がイベリア半島へ進出&size(6){(--)};||
|711|||イスラム軍がイベリア半島へ進出&size(6){(欧州-ヨーロッパ-奈良時代)};||
|711|||サラセン人が西ゴートを滅ぼし、サラセン文化がヨーロッパに広まる&size(6){(欧州- ヨーロッパ-奈良時代)};||
|711|||COLOR(red):西ゴート王国滅亡&size(6){(欧州-ヨーロッパ-奈良時代)};||
|711|||サラセン人が西ゴートを滅ぼす。&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|711|||西ゴート人の王国滅亡&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|711|||COLOR(red):西ゴート王国滅亡&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|711|||はじめて諸国に駅を置く 私鋳銭を禁ず&size(6){(日本-日本-)};||
|711|9|18|元明天皇の詔勅により太安麻呂が『古事記』の編纂に着手&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|711|9|18|元明天皇の詔勅により太安麻呂が『古事記』の編纂に着手&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|711|12|20|「蓄銭叙位令」布告。銭貨の流通を図る為、貯蓄量に応じて位階を授ける&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|711|12|20|「蓄銭叙位令」布告。銭貨の流通を図る為、貯蓄量に応じて位階を授ける&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|712|||COLOR(green):玄宗・即位&size(6){(--)};||
|712|||唐・李氏・・玄宗&size(6){(東アジア-唐-奈良時代)};||
|712|||唐の玄宗が即位→開元の治&size(6){(東アジア-唐-奈良時代)};||
|712|||日本最古の歴史書「古事記(こじき)」がつくられた稗田阿礼(ひえだのあれ)、太安万侶(おおのやすまろ)による。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|712|1|18|稗田阿礼が誦習していた帝記などを太安万侶が筆録した『古事記』が完成し、元明天皇に献上&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|713|||このころ唐の長安繁栄&size(6){(--)};||
|713|||玄宗の開元の治(-741)&size(6){(--)};||
|713|||COLOR(red):渤海が建国&size(6){(アジア-、震国:渤海-奈良時代)};||
|713|||COLOR(red):渤海の成立&size(6){(アジア-、震国:渤海-奈良時代)};||
|713|||COLOR(red):大祚栄は713年に国号を渤海国と改める、渤海の成立&size(6){(-、震国:渤海-)};||
|713|||大祚栄は713年に唐から渤海国王に冊封され、それ以後震国は渤海国を国号とした。渤海(パレ)は、926年の滅亡まで、200年余り続いた。&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗、震国:渤海-)};||
|713|||国号を震国から渤海へと改める&size(6){(東アジア-朝鮮、震国:渤海-奈良時代)};||
|713|||玄宗の開元の治(-741)&size(6){(東アジア-唐-奈良時代)};||
|713|||このころ唐の長安繁栄&size(6){(東アジア-唐-奈良時代)};||
|713|||丹後国・美作国を設ける&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|713|||日向国の曽於・大隈・姶羅を割いて大隈国を設ける&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|713|||日本最古の地理書「風土記(ふどき)」がつくられた&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|713|||丹後国・美作国を設ける&size(6){(日本-日本-)};||
|713|||日向国の曽於・大隈・姶羅を割いて大隈国を設ける&size(6){(日本-日本-)};||
|713|4|3|丹後・美作・大隅の3国を設置&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|713|5|25|山背国に乳牛を飼育する戸を50戸指定。恐らく典薬寮に所属して牛乳や乳製品を朝廷に貢納する乳戸のことであるが、このとき乳戸自体が初めて設置されたのかそれとも山背に設置されたのが初めてなのかは明らかでない。古代においては牛乳や乳製品も生産され、飲用及び食用にされていた。乳製品としては蘇の存在が知られるが、具体的にどのようなものであったのかは不明である。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|714|||奄美・石垣島・久米島の島人来る&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|714|2|22|甕原(みかのはら)へ行幸(後の恭仁宮)&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|714|3|13|出羽国で初めて養蚕を行わせる。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|714|6|25|首(聖武天皇)立太子&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|715|||府浪人に逃亡地で調庸を課す&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|715|||府浪人に逃亡地で調庸を課す&size(6){(日本-日本-)};||
|715|||09/02 霊亀(れいき)(715.9.2-716)&size(6){(日本-日本-)};||
|715|||09/02 COLOR(green):第44代 元正天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|715|9|2|COLOR(SandyBrown):第44代元正天皇&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|715|9|2|霊亀(れいき)(715.9.2-716)&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|715|9|2|瑞亀献上により霊亀[れいき]に改元。717年に養老に改元&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|715|9|2|COLOR(SandyBrown):元明天皇が退位して元正天皇が即位。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|715|9|3|瑞亀献上により霊亀[れいき]に改元。717年に養老に改元&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|716|||吉備真備・僧玄昉ら入唐&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|716|8|11|白壁王(光仁天皇)の父志貴親王が死去&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|717|||イサウリア朝レオン3世の反乱&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-奈良時代)};||
|717|||カール・マルテル、フランクの実権掌握&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|717|||イスラム軍、コンスタンティノープル包囲(~718)、レオン3世これを撃退&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|717|||百姓の違法出家を禁じ、行基の活動を禁圧&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|717|||百姓の違法出家を禁じ、行基の活動を禁圧&size(6){(日本-日本-)};||
|717|||11/17 養老(ようろう)(717.11.17-723)&size(6){(日本-日本-)};||
|717|11|17|養老(ようろう)(717.11.17-723)&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|717|11|17|元正天皇が行幸して「養老の滝」を命名したことに因み霊亀から養老に改元&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|718|||漏刻(水時計)製作&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|718|||能登・安房・石城・石背国設置&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|718|||藤原不比等が養老律令(ようりょうりつりょう)を選定&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|718|9|23|法興寺を平城に移し寺名を元興寺と改める&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|719|||アングロ・サクソンのボニファティウス、ゲルマニア布教本格的に開始&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|719|||大祚栄死去&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|719|||按察使を諸国に置く(畿内・西海道を除く)&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|719|||按察使を諸国に置く(畿内・西海道を除く)&size(6){(日本-日本-)};||
|720|||舎人親王ら「日本書記」を撰進&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|720|||隼人反乱、大伴旅人(征夷大将軍)を派遣&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|720|||舎人親王(とねりしんのう)らにより日本書紀がつくられた藤原不比等が死去&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|720|||日本書紀 舎人親王&size(6){(日本-日本-)};||
|720|5|21|「日本書記」が完成する。舎人親王らが『日本書紀』30巻と系図1巻を完成し撰上&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|720|8|3|藤原不比等歿(廷臣,中臣鎌足の子)<数え62歳>&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|721|6|26|信濃に諏訪国が設置される&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|721|12|7|元明天皇崩御(阿閇皇女,日本根子天津御代豐國成姫天皇)(天皇(43代))<61歳>&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|722|||春秋の記述、この年から始まる&size(6){(--)};||
|722|||新羅,農民に丁田支給.官吏に官僚田支給し税を納めさせる&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|722|||新羅、日本の賊の路を遮断した。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|722|||COLOR(blue):新羅、丁田支給&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|722|||良田百万石の開墾を計画&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|722|||良田百万石の開墾を計画&size(6){(日本-日本-)};||
|723|||三世一身の法制定&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|723|||大隈・薩摩の隼人が朝貢&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|723|||三世一身法(さんぜいっしんのほう)の施行墾田(こんでん)の奨励、墾田は3世まで私有地となる。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|723|7|6|古事記を編纂した太安萬侶が死亡&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|724|||陸奥国に多賀城を築く&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|724|||COLOR(SandyBrown):聖武天皇が即位する聖武天皇は藤原不比等の娘婿であり、聖武天皇の后は藤原不比等の娘である。この頃より藤原四兄弟が台頭する。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|724|||02/04 神亀(じんき)(724.2.4-728)&size(6){(日本-日本-)};||
|724|||02/04 COLOR(green):第45代 聖武天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|724|2|4|COLOR(SandyBrown):第45代聖武天皇&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|724|2|4|白亀出現の瑞祥により養老から神龜に改元。729年に天平に改元&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|724|2|4|COLOR(SandyBrown):元正天皇が譲位し、首皇子が即位して第45代天皇・聖武天皇となる。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|724|2.4||神亀(じんき)(724.2.4-728)&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|724|11|8|平城京の美観の為、高位の者と富者に瓦葺き丹塗りを許可&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|726|||ビザンツ・キリスト教の聖像崇拝禁止令&size(6){(--)};||
|726|||東ローマ皇帝レオ3世が偶像崇拝禁止令を出す&size(6){(--)};||
|726|||聖像破壊運動(イコノクラスム)~787&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-奈良時代)};||
|726|||ビザンツ・キリスト教の聖像崇拝禁止令&size(6){(欧州-ヨーロッパ-奈良時代)};||
|726|||ビザンティン皇帝レオン3世、偶像禁止令を出す。イコノクラスムの発端(~843)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|727|||RIGHT:COLOR(green):渤海使来朝&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗、震国:渤海-)};||
|727|||渤海国使、出羽国に初めて来着&size(6){(日本-日本、震国:渤海-奈良時代)};||
|728|12|27|聖武天皇が、「金光明経」10巻ずつ計640巻を諸国に与える&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|729|||長屋王(天武皇孫)、謀反で糾問 自殺&size(6){(日本-日本-)};||
|729|||08/05 天平(てんぴょう)(729.8.5-748)&size(6){(日本-日本-)};||
|729|2|12|長屋王が謀叛の疑いで邸宅を包囲され自害&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|729|8|5|「天王貴平知百年」の文字を背に負った瑞亀の献上により天平[てんぴょう/てんぴやう]に改元。749年に天平感宝に改元&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|729|8|10|藤原不比等の娘・光明子が聖武天皇の妃に。初の皇族以外の皇后であった。以後、延々と藤原氏の皇后が続く。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|729|8.5||天平(てんぴょう)(729.8.5-748)&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|730|||教皇グレゴリウス2世、レオン3世を破門&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|730|||皇后宮職に施薬院をおく諸国に防人を置く&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|730|||大隈・薩摩両国で班田制導入を断念、墾田とする&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|730|||光明皇后が奈良興福寺に五重塔を建立&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|731|||新羅、日本国の兵船三百隻が海を越えて、東辺を襲う。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|731|||宇合・藤原麻呂・葛城王ら6人を参議とする&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|731|7|25|大伴旅人薨ず。67歳&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|732|||(フランク軍がイスラム軍を撃退)&size(6){(--)};||
|732|||トゥール・ポワティエ間の戦い。フランク王国vsウマイヤ朝(フランク勝利)&size(6){(西欧-フランス、ドイツ、イタリア-)};||
|732|||ツール・ポアチエの戦い&size(6){(欧州-ヨーロッパ-奈良時代)};||
|732|||トゥール・ポアチエの戦いで、フランクの宮宰カール・マルテル、イスラム軍を破る(フランク軍がイスラム軍を撃退)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|732|||新羅使の来貢を3年に一度とする&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|732|12|17|河内国の丹比郡狭山の下の池を築く。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|733|||出羽柵を秋田に移す&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|733|||大炊(淳仁天皇)生誕&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|734|4|7|大きな地震。家が倒潰し圧死するもの多数。山が壊れ川がふさがり、地割れが方々に起こる。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|735|||吉備真美・玄昉ら唐より帰り、諸物を献上&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|735|4|25|阿倍仲麻呂と唐に渡った吉備真備が帰朝し、持ち帰った書物などを聖武天皇に献上&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|735|11|14|日本書記の編纂者の舎人親王が死去。日本書紀の編纂については実質的編纂ではなくおそらくは名誉職であったと思われます。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|736|||遣新羅使船、対馬の浅茅浦、竹敷浦に泊し、遣新羅大使阿部朝臣継麻呂の詠んだ歌が後に万葉集に収録される。&size(6){(対馬)};&size(6){(日本-日本-)};||
|737|||COLOR(green):第34代新羅王孝成王(737~742)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|737|||藤原不比等の四子死去&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|737|||山部皇子(桓武天皇)生誕&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|737|||行基が河内弘川寺で修行&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|737|||藤原四兄弟が天然痘で死去この頃から橘諸兄(たちばなのもろえ)が台頭する。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|737|||対馬・壱岐に派遣されていた東国の防人約2千人の任を解き、九州の兵士が代わって防衛の任に就く。&size(6){(対馬)};&size(6){(日本-日本-)};||
|737|3|3|聖武天皇が、諸国に対し高さ一丈六尺の釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ、釈尊)の造営と大般若経(だいはんにゃきょう)一部の書写を命ずる&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|738|||橘諸兄、右大臣となる&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|738|1|13|阿倍(孝謙天皇)立太子&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|739|||イタリア、ランゴバルド王国軍のローマ包囲&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|739|||大宰府管内以外の軍団廃止&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|740|||藤原広嗣の乱藤原氏一族の勢力が弱まった為、勢力を取り戻そうとした反乱。結果は失敗して殺害された。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|740|||藤原広嗣の乱 藤原広嗣の乱に隼人動員&size(6){(日本-日本-)};||
|740|6|29|聖武天皇が、国毎に法華経十部の書写とあわせて七重塔一基の建立を命ず&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|740|12|15|聖武天皇が山背国相楽郡の恭仁宮へ遷都。難波京遷都まで3年間の都となる&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|741|||各国に国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)が建立&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|741|||. 国分寺建立の詔&size(6){(日本-日本-)};||
|741|2|14|聖武天皇が国分寺・国分尼寺建立の詔を出す&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|742|||COLOR(green):第35代新羅王景徳王(742~765)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|742|||新羅、日本の国使が来たが、これを受け付けなかった。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|742|||近江紫香楽に離宮を造営&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|743|||墾田永代私有令制定…墾田の永久使用を認める&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|743|||墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)の施行墾田の奨励、墾田は永久に私有地となる。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|743|2|11|佐渡国を越後国に合併&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|743|5|27|「墾田永年私財法」の勅令。開墾した土地の私有を許可&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|743|10|15|聖武天皇が東大寺大仏建立の詔を発する&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|744|||ウイグル族がモンゴル統一&size(6){(東アジア-モンゴル-奈良時代)};||
|744|||難波京に遷都&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|744|2|26|聖武天皇が恭仁宮から難波宮に遷都&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|745|||唐の楊貴妃&size(6){(東アジア-唐-奈良時代)};||
|745|||平城京に都を復す玄昉、筑紫に左遷&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|745|||東大寺大仏殿蘆舎那佛の政策を開始。当時は東大寺は金鐘寺と呼ばれていた。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|745|||平城京に都を復す 玄昉、筑紫に左遷&size(6){(日本-日本-)};||
|745|1|21|民間僧の行基が大僧正となる&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|745|5|11|聖武天皇が都を平城京に戻す&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|745|6|5|天平14年以来廃止になっていた大宰府を復活。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|745|9|17|聖武天皇が重病に陥る&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|746|||諸寺が墾田・園地を競い買うことを禁止&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|746|6|21|大伴家持が越中国使に任命される&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|746|10|6|この日聖武天皇、元正上皇、光明皇后は金鍾寺(後の東大寺)に行幸、盧舎那仏に対し一万五千七百余の灯火をともす燃灯供養の法要を行わせている。また、夜には数千の僧侶に灯火をかかげて仏像の周囲を三周させ、深夜になって平城宮に戻っている。おそらく、後の東大寺の大仏の原型の塑像が完成したのではないかとみられている。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|747|||東大寺大仏鋳造開始&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|747|9|29|前年に完成した東大寺大仏の原型を元に、大仏の鋳造を開始&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|748|4|21|元正天皇崩御&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|749|||仲麻呂、大納言兼紫微中台の長官となる 大仏鋳造完成&size(6){(日本-日本-)};||
|749|||07/02 COLOR(green):第46代 孝謙天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|749|2|22|陸奥国から日本で初めて産出された黄金が献上される&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|749|4|14|陸奥からの黄金献上により天平から天平感宝(てんぴょうかんぽう)(749.4.14)に改元。同年07月に天平勝宝に改元している。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|749|7|2|天平勝宝(てんぴょうしょうほう)(749.7.2-756)&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|749|7|2|COLOR(SandyBrown):第46代孝謙天皇&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|749|7|2|COLOR(SandyBrown):聖武天皇が退位して、皇太子・阿倍内親王が即位し第46代孝謙天皇になる。同時に天平感宝から天平勝宝[てんぴょうしょうほう/てんぴやうしようほう]に改元。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|749|9|29|大仏の鋳造終了&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|750|||COLOR(red):サラセン帝国にアッバーズ朝成立、ウマイア朝滅亡&size(6){(アジア--奈良時代)};||
|750|||古代ローマが建国される&size(6){(--)};||
|750|||COLOR(red):サラセン帝国にアッバーズ朝成立、ウマイア朝滅亡&size(6){(--)};||
|750|||COLOR(red):アッバス朝成立、ウマイヤ朝滅亡&size(6){(--)};||
|751|||タラス河畔の戦い&size(6){(アジア--奈良時代)};||
|751|||製紙法が西方へ伝わる&size(6){(アジア--奈良時代)};||
|751|||中国から製紙法が西方に伝わる&size(6){(--)};||
|751|||タラス河畔の戦い&size(6){(--)};||
|751|||製紙法が西方へ伝わる&size(6){(--)};||
|751|||COLOR(red):フランク王国のカロリング朝&size(6){(--)};||
|751|||中国から製紙法が西方に伝わる&size(6){(--)};||
|751|||COLOR(red):フランク王国のカロリング朝&size(6){(西欧-フランス、ドイツ、イタリア-奈良時代)};||
|751|||COLOR(red):小ピピン、フランク王となり(~768)、フランク王国のカロリング朝始まる(~987)&size(6){(西欧-フランス、ドイツ、イタリア-)};||
|751|||フランク王国のピピン3世がゲルマン王となる(カロリング朝)&size(6){(西欧-フランス、ドイツ、イタリア-)};||
|751|||ランゴバルド人、ラベンナを占領&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|751|||仏国寺と石窟庵を建立&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|751|||COLOR(blue):仏国寺と石窟庵%%を建てる%%の再建始まる&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|751|||唐から製紙法が西方に伝わる&size(6){(東アジア-唐-奈良時代)};||
|751|||日本最古の漢詩集「懐風藻(かいふうそう)」がつくられた&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|752|||東大寺大仏開眼供養&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|752|||奈良の東大寺に大仏ができる(奈良の大仏)&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|752|4|9|奈良・東大寺の蘆舎那仏の開眼供養&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|753|||新羅、秋八月に日本国使が来た。高慢無礼と判断し、王は接見しなかった。&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|753|||鑑真(がんじん)が来日して唐招提寺(とうしょうだいじ)を建立&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|753|||唐の鑑真が日本・阿児奈波島に漂着&size(6){(日本-日本-)};||
|753|10|29|鑑真和上が揚州を出発&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|753|12|19|志那の僧鑑真が6度目の渡航で漸く日本に到着&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|753|12|20|遣唐副使大伴古麻呂(おおとものこまろ)に伴われ高僧鑑真(がんじん)が薩摩に到着&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|754|||(ローマ教皇領のはじめ)&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-奈良時代)};||
|754|||ピピンの寄進&size(6){(欧州-ヨーロッパ-奈良時代)};||
|754|||小ピピン、ランゴバルド王を破り、その領土を教皇に献上(教皇領の始)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|754|||唐の鑑真が日本へ&size(6){(東アジア-唐-奈良時代)};||
|754|1|12|大宰府に到着した鑑真、遣唐副使大伴古麻呂は平城京に鑑真が到着したことを知らせる書状を発した&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|754|1|16|大宰府からの鑑真到着の知らせが都の天皇の元に届いた。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|754|2|4|唐の高僧・鑑真が奈良の都に入京&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|754|9|22|恵美押勝によって唐風の名称に変更されていた役職名がもとに戻される&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|755|||安史の乱はじまる(-763)&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|756|||唐・李氏・・ 粛宗&size(6){(--)};||
|756|||(イスラム帝国の分裂)&size(6){(--)};||
|756|||COLOR(red):後ウマイア朝の成立&size(6){(--)};||
|756|||COLOR(green):粛宗・即位&size(6){(--)};||
|756|||ブルガリアと抗争~759&size(6){(西欧-イタリア、ブルガリア、ローマ-奈良時代)};||
|756|||イスラム帝国の分裂&size(6){(欧州-ヨーロッパ-奈良時代)};||
|756|||COLOR(red):後ウマイア朝の成立&size(6){(欧州-ヨーロッパ-奈良時代)};||
|756|||ピピンの寄進-ローマ教皇にラヴェンナ地方を寄進する&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|756|||イベリア半島に後ウマイヤ朝が誕生する&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|756|||カロリング・ルネサンス-宮廷学校や学問の奨励など8世紀中~9世紀&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|756|||唐・李氏・・粛宗&size(6){(東アジア-唐-奈良時代)};||
|756|||藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の権力が増大、橘諸兄が引退する東大寺の正倉院(しょうそういん)ができる(校倉造-あぜくらづくり)&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|756|5|1|聖武法皇の病気平癒を願い伊勢神宮に奉幣。この年の全国の租税を免除した。善行による仏のご加護を願ったと思われる。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|756|5|2|聖武天皇崩御。前日の善行の効果もむなしく、内裏正殿において崩御する。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|756|5|19|聖武上皇を佐保山陵に葬る&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|757|||養老律令施行 橘奈良麻呂の変&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|757|||養老律令を施行(大宝律令の法令不備や文言の修正)&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|757|4|4|大炊皇子(淳仁天皇)立太子&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|757|8|18|天平宝字(てんぴょうほうじ)(757.8.18-764)&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|757|8|18|蚕が「五月八日開下帝釈標知天皇命百年息」の文字を成したことにより天平勝宝九歳から天平宝字[てんぴょうほうじ/てんぴやうほうじ]に改元。765年に天平神護に改元&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|758|||諸道に問民苦使を遣わす&size(6){(--)};||
|758|||諸道に問民苦使を遣わす&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|758|||08/01 COLOR(green):第47代 淳仁天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|758|8|1|COLOR(SandyBrown):孝謙天皇が退位して舎人親王の第七王子・大炊王が即位し第47代淳仁天皇となる。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|758|8|18|蚕が「五月八日開下帝釈標知天皇命百年息」の文字を成したことにより天平宝字[てんぴょうほうじ/てんぴやうほうじ]に改元。765年に天平神護に改元&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|758|8|25|恵美押勝(えみのおしかつ、藤原仲麻呂)は、唐の則天武后などの例にならい、主要な政府機関や役職の名称を唐風に変更させる。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|759|||諸国に常平倉を置く&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|759|||日本最古の和歌集「万葉集(まんようしゅう)」がつくられた山上憶良(やまのうえのおくら)による貧窮問答歌など。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|759|8|3|鑑真が唐律招提寺(後の唐招提寺)を建立&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|760|||恵美押勝(仲麻呂)、大師(太政大臣)となる&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|760|3|16|和同開珎の偽作が出回った為、万年通宝・太平元宝・開基勝宝を鋳造&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|761|||道鏡(どうきょう)が孝謙天皇(女帝)に取り入り台頭する&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|762|||COLOR(green):代宗・即位&size(6){(--)};||
|762|||唐・李氏・・代宗&size(6){(東アジア-唐-奈良時代)};||
|762|||孝謙上皇、押勝の擁する淳仁天皇を非難&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|762|||孝謙上皇、押勝の擁する淳仁天皇を非難&size(6){(日本-日本-)};||
|763|||鑑真(がんじん)が死去、彫像がつくられた(日本最古の肖像彫刻)&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|763|||渤海使、安史の乱…中国唐時代の大反乱…を報じる&size(6){(日本-日本、震国:渤海-奈良時代)};||
|764|||恵美押勝の乱&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|764|||藤原仲麻呂の乱孝謙天皇・道鏡と藤原仲麻呂の権力争いで、藤原仲麻呂が敗北。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|764|||10/09 COLOR(green):第48代 称徳天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|764|9|11|藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱勃発。孝謙上皇の寵臣・道鏡を除こうとする謀叛が発覚&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|764|9|20|藤原仲麻呂(恵美押勝)を追討していた藤原蔵下麻呂(くらじまろ)らはこの日平城京に凱旋。しかし、道鏡法師が大臣禅師に任ぜらる。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|764|10|9|COLOR(SandyBrown):第48代称徳天皇&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|764|10|9|COLOR(SandyBrown):藤原仲麻呂の乱に加わったとして淳仁天皇を廃して元孝謙天皇(阿倍)が第48代稱徳天皇として即位&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|764|10|14|淳仁天皇(淡路廃帝)が淡路島に流される&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|765|||COLOR(green):第36代新羅王恵恭王(765~780)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|765|||道鏡太政大臣となる寺院以外の新墾田を禁ず&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|765|||道鏡が太政大臣禅師となる&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|765|||道鏡太政大臣となる 寺院以外の新墾田を禁ず&size(6){(日本-日本-)};||
|765|||01/07 天平神護(てんぴょうじんご)(765.1.7-766)&size(6){(日本-日本-)};||
|765|1|7|天平神護(てんぴょうじんご)(765.1.7-766)&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|765|1|7|天平宝字から天平神護に改元&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|765|10|23|淳仁天皇崩御(大炊王,淡路廢帝)(天皇(47代))<33歳>&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|766|||道鏡、法王の位を授けられる&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|766|10|20|隅寺毘沙門天像から仏舎利出現により道鏡を法王とする。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|766|10|21|吉備眞備を右大臣に任命&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|766|10|22|淡路の淡路の帝(淳仁天皇)は幽閉先から逃亡を図る&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|767|||陸奥の伊治城完成&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|767|4|14|東院の玉殿完成。この日新たに平城宮東院の玉殿(ぎょくでん)が完成し、群臣が参会して完成披露を行った。この玉殿は瑠璃(るり)色の瓦で屋根を葺き、柱や壁には藻績(そうき、水草)の文様が描かれており、人々はこれを「玉(たま)の宮」と呼んだという。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|767|8|16|天平神護から神護景雲に改元&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|767|8|18|天台宗の開祖最澄生誕&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|767|8.16||神護景雲(じんごけいうん)(767.8.16-769)&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|768|||このころから、ヨーロッパが封建制度の時代に向かう&size(6){(--)};||
|768|||カール大帝(~814)&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-奈良時代)};||
|768|||カール1世がフランク王国の王となる&size(6){(西欧-フランス、ドイツ、イタリア-)};||
|768|||このころから、ヨーロッパが封建制度の時代に向かう&size(6){(欧州-ヨーロッパ-奈良時代)};||
|768|||カール大帝、フランク王となる(~814)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|768|||筑前の怡土城完成&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|768|||筑前の怡土城完成&size(6){(日本-日本-)};||
|768|9|7|嵯峨天皇生誕(神野親王)(天皇(52代),三筆の一人)[842年歿]&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|769|||和気清麻呂、道鏡を大隈に配置流&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|769|9|25|道鏡の皇位への野望を宇佐八幡の神託で退けた和氣清麻呂が、稱徳天皇の怒りを買い大隅国へ配流される。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|770|||周の東遷 →東周時代&size(6){(--)};||
|770|||道鏡を下野(栃木)薬師寺に追放&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|770|||光仁天皇が、父志貴親王を「春日宮天皇」と追尊する&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|770|||宇佐八幡宮神託事件の翌年、道鏡が失脚して藤原百川(ふじはらのももかわ)が台頭&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|770|||08/04 COLOR(green):第49代 光仁天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|770|||10/01 宝亀(ほうき)(770.10.1-780)&size(6){(日本-日本-)};||
|770|8|4|COLOR(SandyBrown):第49代光仁天皇&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|770|8|4|稱徳天皇/孝謙天皇崩御(阿倍内親王,高野姫)(天皇(46,48代))<53歳>白壁王(光仁天皇)が立太子&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|770|8|21|皇太子白壁王(光仁天皇)は令旨(りょうじ、命令)を下し、稱徳天皇の寵愛を受けていた道鏡法師を造下野国薬師寺別当に左遷し、即日出発を命じた。また道鏡に取り入り、彼を皇位につけよ、という偽の神託をお膳立てした中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)を種子島守に左遷する。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|770|8|22|道鏡の弟弓削浄人らを土佐に配流した。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|770|9|6|大隅国へ配流されていた和氣清麻呂が、稱徳天皇崩御・道鏡失脚に伴い都に召還&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|770|10|1|宝亀(ほうき)(770.10.1-780)&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|770|10|1|COLOR(SandyBrown):瑞亀献上により神護景雲から宝龜[ほうき]に改元。天智天皇の孫・白壁王が即位し第49代天皇・光仁天皇になる&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|770|10|8|右大臣吉備真備、致仕(引退)を乞う。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|771|||武蔵国を東山道から東海道に編入&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|772|||カール大帝、ザクセンと戦う(~804)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|772|||再び墾田の私有を許す&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|773|1|2|山部皇子(桓武天皇)立太子&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|774|||カール大帝、ランゴバルド王国を滅ぼす&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|774|||諸国、飢饉陸奥国、蝦夷反乱&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|774|||空海生誕&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|774|8|15|安殿(平城天皇)生誕&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|775|3|14|中将姫没&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|776|||ギリシアで第1回オリンピア競技&size(6){(-ギリシア-)};||
|776|||出羽国志波村の蝦夷反乱&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|776|11|26|陸奥の軍三千人を発し胆沢(岩手県見水沢市)の賊を討たせる。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|777|||陸奥・出羽の軍、出羽の蝦夷に敗れる&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|778|||カール大帝のスペイン遠征&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|779|||唐・李氏・・徳宗&size(6){(東アジア-唐-奈良時代)};||
|779|||COLOR(green):徳宗・即位&size(6){(東アジア-唐-)};||
|780|||COLOR(green):第37代新羅王宣徳王(780~785)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|780|||唐、両税法を施工&size(6){(東アジア-唐-奈良時代)};||
|780|||唐、両税法を施行&size(6){(東アジア-唐-奈良時代)};||
|780|||陸奥国上治郡司、伊治呰麻呂が反乱&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|781|||中宮職を設置藤原小黒麻呂、蝦夷を平定&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|781|||中宮職を設置 藤原小黒麻呂、蝦夷を平定&size(6){(日本-日本-)};||
|781|||04/03 COLOR(green):第50代 桓武天皇&size(6){(日本-日本-)};||
|781|1|1|天応(てんおう)(781.1.1)&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|781|1|1|美雲の瑞祥により宝亀から天應[てんおう]に改元。782年に延暦に改元&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|781|4|3|COLOR(SandyBrown):第50代桓武天皇&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|781|4|3|COLOR(SandyBrown):第49代光仁天皇が病気のため退位し、山部親王が即位し第50代天皇・桓武天皇となる&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|781|7|7|記録に残る富士山の最古の噴火&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|781|8|21|孝謙天皇(称徳天皇)の信認を得て権力を振るっていた道鏡が、稱徳天皇崩御により失脚し下野・薬師寺別当に配流&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|781|12|23|光仁天皇崩御(白壁王,天宗高紹天皇)(天皇(49代))<数え73歳>&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|782|>|>|''平安時代''&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|782|||氷上川継、謀反の嫌疑で伊豆に配流&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|782|||08/19 延暦(えんりゃく)(782.8.19-805)&size(6){(日本-日本-)};||
|782|1|11|因幡守に任じられた氷上真人川継(ひかみのまひとかわつぐ)が謀反。発覚し逃走。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|782|1|13|地震発生(どの程度かは不明)&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|782|1|13|因幡守に任じられた氷上真人川継(ひかみのまひとかわつぐ)が葛上郡で捕らえられる。死罪は免れ、伊豆国三嶋(伊豆諸島)に流罪となる。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|782|1|16|従5位下の氷上真人川継(ひかみのまひとかわつぐ)が因幡守に任じられる。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|782|2|19|地震(程度は不明)&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|782|8|19|延暦(えんりゃく)(782.8.19-805)&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|782|8|19|天応から延暦[えんりゃく]に改元。806年に大同に改元&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|784|11|11|桓武天皇が平城京から都を京都府向日市付近の山背(山城)長岡京へ遷都(長岡京遷都)&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|785|||COLOR(green):第38代新羅王元聖王(785~798)&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|785|||「万葉集」編者大伴家持死(716→)&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|785|8|28|大伴家持歿。歌人,で『万葉集』の撰者<数え68歳>&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|785|9|23|夜、長岡京遷都責任者藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が至近距離から弓で射られ重体。この日、桓武天皇は平城京に行幸していた&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|785|9|24|長岡京遷都責任者、藤原種継(ふじわらのたねつぐ)は前日の事件による怪我で死亡。平城宮で知らせを受けた桓武天皇は、急遽長岡京へ戻り、責任者探索を始める。大伴継人(おおとものつぐひと)、大伴竹良(おおとものちくら)らが捕らわれ、犯人として即日処刑された。また首謀者として故大伴家持(おおとものやかもち)は官位を剥奪され、その子大伴永主(おおとものながぬし)は隠岐に流された。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|785|11|25|第51代平城天皇立太子&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|786|||~サラセン文化の全盛&size(6){( - 、 -奈良時代)};||
|786|||アッパーズ朝のカリフ・ハールーン・アッラーシード(~809)&size(6){(- 、 -奈良時代)};||
|786|||大伴(淳和天皇)生誕&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|786|9|7|神野(嵯峨天皇)生誕&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|787|||第2回ニカイア公会議(イコン論争に終止符)&br;このころよりノルマン人のイングランド侵入始まる&size(6){(西欧-イギリス-)};||
|788|||COLOR(green):新羅、読書三品科を設ける&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗、渤海-)};||
|788|||新羅,学問の成績により官吏を任命する読書三品科設置.&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|788|||COLOR(blue):新羅、読書三品科設置&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、新羅-奈良時代)};||
|788|||最澄、比叡山延暦寺を建立&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|789|||デーン人のイングランド侵入開始&size(6){(西欧-イギリス-)};||
|789|||大墓阿弓流為、蝦夷征討軍を大破&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|791|||カール大帝、アバール人を討つ(~796)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};||
|791|||豊後・日向・大隈国で飢饉&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|791|9|16|平城宮の諸門を長岡宮に移転。この時点で遷都からすでに7年経過していることは、長岡遷都の難易度を物語っている。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|791|9|17|この時点で遷都からすでに7年経過していることは、長岡遷都の難易度を物語っている。&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|792|||軍団を廃し、健児を置く(陸奥・出羽等を除く)&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|793|3|29|遷都予定の平安宮の調査が行われる&size(6){(日本-日本-奈良時代)};||
|794|||RIGHT:COLOR(green):平安京遷都&size(6){(東アジア-朝鮮、高句麗、渤海-)};||
|794|>|>|''奈良時代→平安時代-[794年~1185年]''&size(6){(日本-日本-奈良時代 → 平安時代)};||
|794|||桓武天皇が京都市中心部にある平安京に遷都&size(6){(日本-日本-奈良時代 → 平安時代)};||
|794|||弘仁・&size(6){(日本-日本-奈良時代 → 平安時代)};||
|794|6|13|桓武天皇の命を受けた坂上田村麻呂が蝦夷征討に出発&size(6){(日本-日本-奈良時代 → 平安時代)};||
|794|10|22|平安遷都。桓武天皇が長岡京から山背国の新都(平安京)に入京&size(6){(日本-日本-奈良時代 → 平安時代)};||
|794|11|8|桓武天皇が、山背国を山城国と改め、新京を「平安京」と称する詔を発布&size(6){(日本-日本-奈良時代 → 平安時代)};||

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