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|年|月|日|人物・出来事  _地域_国・時代_|№|h
|1336|**|**|建武中興→室町時代(1336 - 1573) (アジア-日本-室町時代)||
|1336|||尊氏東上、湊川の戦、正成戦死 (アジア-日本-延元)||
|1336|||貞久、重久篤兼に肝付氏の属城加瀬田城を攻めさせる (アジア-日本-延元)||
|1336|||  (アジア-日本-延元(南朝))||
|1336|||北山文化||
|1336|2|29|延元(えんげん)(1336.2.29-1339) (アジア-日本-延元《南朝》)||
|1336|8|15|COLOR(green):北朝2代 光明天皇 (アジア-日本-)||
|1336|||├ 南北朝時代(1336 - 1392)||
|1338|||COLOR(blue):尊氏、征夷大将軍となる (アジア-日本-延元)||
|1338|||  (アジア-日本-暦応(北朝))||
|1338|||英仏の百年戦争はじまる  (欧州-)||
|1338|||足利尊氏が幕府を開く(南北朝時代へ) (アジア-日本-)||
|1338|8|28|暦応(北朝)(りゃくおう)(1338.8.28-1341) (アジア-日本-暦応(北朝))||
|1339|||後醍醐天皇死去 (アジア-日本-延元)||
|1339|||英仏間に百年戦争はじまる(~1453) ||
|1339|8|15|COLOR(green):第97代 後村上天皇 (アジア-日本-)||
|1340|||貞久、市来時家を攻め下す (アジア-日本-興国)||
|1340|||幕府、武士の寺社本所領押領を断罪 (アジア-日本-興国)||
|1340|||  (アジア-日本-興国(南朝))||
|1340|4|28|興国(こうこく)(1340.4.28-1345) (アジア-日本-興国《南朝》)||
|1341|||足利直義、天竜寺船を元に派遣 (アジア-日本-興国)||
|1342|||征西将軍懐良親王、薩洲津につき上陸谷山城にはいる (アジア-日本-興国)||
|1342|||  (アジア-日本-康永(北朝))||
|1342|4|27|康永(北朝)(こうえい)(1342.4.27-1344) (アジア-日本-康永(北朝))||
|1343|||北畠親房ら吉野へ帰還 (アジア-日本-興国)||
|1344|||東大寺僧徒、八幡神輿を奉じ入京 (アジア-日本-興国)||
|1345|||  (アジア-日本-貞和(北朝))||
|1345|10|21|貞和(北朝)(じょうわ)(1345.10.21-1349) (アジア-日本-貞和(北朝))||
|1346|||諸国の関料・津料を停止 (アジア-日本-正平)||
|1346|||足利直義、貞久・宗久に伊集院忠国鮫島・蓮道を討たせる (アジア-日本-正平)||
|1346|||  (アジア-日本-正平(南朝))||
|1346|||イスラムのイブン=バツータが元の大都に来る  (アジア-)||
|1346|12|8|正平(しょうへい)(1346.12.8-1369) (アジア-日本-正平《南朝》)||
|1347|||. 宮方、谷山城に入る 官軍熊野水軍の応援で東福寺城を攻める 谷山の官軍勝つ (アジア-日本-正平)||
|1347|||ヨーロッパにペスト(黒死病)が流行(~1350)  (欧州-)||
|1347|||このころハンザ同盟の全盛期 ||
|1348|||四条畷の戦=楠木正行、高師直と戦い敗死 (アジア-日本-正平)||
|1348|||足利直義、貞久に畠山直顕など宮方軍を討つことを命じる (アジア-日本-正平)||
|1348|10|27|COLOR(green):北朝3代 崇光天皇 (アジア-日本-)||
|1349|||尊氏の長子足利直冬、長門探題となる (アジア-日本-正平)||
|1350|||  (アジア-日本-観応(北朝))||
|1350|||観応の乱=足利尊氏、直義兄弟の不仲 (アジア-日本-正平)||
|1350|||COLOR(red):タイのアユチア朝成立  (アジア-)||
|1350|2|27|観応(北朝)(かんおう)(1350.2.27-1351) (アジア-日本-観応(北朝))||
|1351|||島津氏久、筑前国月隈・金隈合戦に従軍 (アジア-日本-正平)||
|1351|||南北朝和議なる 翌年破る (アジア-日本-正平)||
|1351|||徐寿輝 (アジア-日本-天完)||
|1351|||紅巾の乱  (アジア-)||
|1352|||足利義詮、島津一族に伊東祐氏と畠山直顕を討たせる (アジア-日本-正平)||
|1352|||足利尊氏、直義を鎌倉で毒殺 (アジア-日本-正平)||
|1352|||  (アジア-日本-文和(北朝))||
|1352|8|17|COLOR(green):北朝4代 後光厳天皇 (アジア-日本-)||
|1352|9|27|文和(北朝)(ぶんわ)(1352.9.27-1355) (アジア-日本-文和(北朝))||
|1353|||. 義詮、貞久・執院氏に命じ畠山直顕・伊東祐氏を荘より遂う (アジア-日本-正平)||
|1354|||張士誠  (中国-呉)||
|1354|||近江に土一揆おこる*1428年(正長1) の徳政一揆参照 (アジア-日本-正平)||
|1354|||オスマン・トルコにガリポリを奪われる (欧州-ローマ)||
|1355|||伏見の土民一揆 (アジア-日本-正平)||
|1355|||韓林児  (中国-宋)||
|1356|||金印勅書 ||
|1356|3|28|延文(北朝)(えんぶん)(1356.3.28-1360) (アジア-日本-延文(北朝))||
|1358|||足利尊氏死去 (アジア-日本-正平)||
|1358|||仏でジャックリーの乱  (欧州-)||
|1359|||筑後川の戦=懐良親王ら、少弐頼尚を破る (アジア-日本-正平)||
|1360|||明玉珍 (アジア-夏(中国)-)||
|1360|||陳友諒 (アジア-漢(中国)-)||
|1360|||. 日向国畠山直顕、島津氏久と盟約し南九州より撤退 (アジア-日本-正平)||
|1360|||永楽帝・生  (アジア-中国)||
|1361|||  (アジア-日本-康安(北朝))||
|1361|||南朝軍京都を攻め、将軍義詮、近江に逃げる (アジア-日本-正平)||
|1361|||和泉・牛尿・馬越氏ら反島津氏的南朝方国人、一揆 (アジア-日本-正平)||
|1361|3|29|康安(北朝)(こうあん)(1361.3.29) (アジア-日本-康安(北朝))||
|1362|||  (アジア-日本-貞治(北朝))||
|1362|9|23|貞治(北朝)(じょうじ)(1362.9.23-1367) (アジア-日本-貞治(北朝))||
|1363|||陳理 (アジア-漢(中国)-)||
|1364|||朱元璋   (中国-呉)||
|1365|||オスマン・トルコにアドリアノープルを奪われる (欧州-ローマ)||
|1366|||明昇 (アジア-夏(中国)-)||
|1366|||高麗、倭寇の禁圧を求める (アジア-日本-正平)||
|1367|||高麗使来たり、倭寇の禁圧を求む (アジア-日本-正平)||
|1368|||  (アジア-日本-応安(北朝))||
|1368|||COLOR(blue):足利義満、将軍となる (アジア-日本-正平)||
|1368|||和泉・牛尿・渋谷氏ら反島津氏的南朝方国人、一揆 (アジア-日本-正平)||
|1368|||COLOR(red):元滅亡、明・朱氏・・ 太祖洪武帝(朱元璋)が即位(明の成立) -1398(アジア-明)||
|1368|||明朝の成立(1368-1644) (アジア-中国)||
|1368|2|18|応安(北朝)(おうあん)(1368.2.18-1374) (アジア-日本-応安(北朝))||
|1368|3||COLOR(green):第98代 長慶天皇 (アジア-日本-)||
|1369|||明、倭寇禁圧を征西将軍に請う (アジア-日本-正平)||
|1369|||COLOR(red):チムール帝国の成立  (アジア-)||
|1369|||中央アジアにチムール帝国が起こる   (アジア-)||
|1370|||昭宗アユルシリダラ  (アジア-モンゴル・北元)||
|1370|||東国大風・大飢饉 (アジア-日本-建徳)||
|1370|||  (アジア-日本-建徳(南朝))||
|1370|7|24|建徳(けんとく)(1370.7.24-1371) (アジア-日本-建徳《南朝》)||
|1371|||今川貞世、九州探題となる (アジア-日本-建徳)||
|1371|3|23|COLOR(green):北朝5代 後円融天皇 (アジア-日本-)||
|1372|||諸国に段銭賦課 (アジア-日本-文中)||
|1372|||  (アジア-日本-文中(南朝))||
|1372|10|4|文中(ぶんちゅう)(1372.10.4-1374) (アジア-日本-文中《南朝》)||
|1375|||  (アジア-日本-永和(北朝))||
|1375|||高麗使来日、倭寇の禁圧を求める (アジア-日本-天授)||
|1375|||  (アジア-日本-天授(南朝))||
|1375|2|27|永和(北朝)(えいわ)(1375.2.27-1378) (アジア-日本-永和(北朝))||
|1375|5|27|天授(てんじゅ)(1375.5.27-1380) (アジア-日本-天授《南朝》)||
|1377|||高麗、倭寇の禁圧を要請 (アジア-日本-天授)||
|1377|||肥前・薩摩・大隈・日向国人による反島津氏的一揆結成 (アジア-日本-天授)||
|1378|||天元帝トグス・テムル  (アジア-モンゴル・北元)||
|1378|||足利義満、室町に花の御所をつくり、移る (アジア-日本-天授)||
|1378|||教会の大分裂(シスマ)  (欧州-)||
|1378|||教会分裂(~1417) ||
|1379|||  (アジア-日本-康暦(北朝))||
|1379|3|22|康暦(北朝)(こうりゃく)(1379.3.22-1380) (アジア-日本-康暦(北朝))||
|1380|||明、倭寇の禁圧を求める (アジア-日本-天授)||
|1381|||  (アジア-日本-永徳(北朝))||
|1381|||  (アジア-日本-弘和(南朝))||
|1381|||イギリスに農民一揆が起こる(ワット・タイラー)   (欧州-)||
|1381|||英でワット=タイラーの乱  (欧州-)||
|1381|2|1|弘和(こうわ)(1381.2.1-1383) (アジア-日本-弘和《南朝》)||
|1381|2|24|永徳(北朝)(えいとく)(1381.2.24-1383) (アジア-日本-永徳(北朝))||
|1382|4|11|COLOR(green):第100代 後小松天皇 (アジア-日本-)||
|1383|||義満、准三后となる 明の洪武帝日本と団交 (アジア-日本-弘和)||
|1383|10||COLOR(green):第99代 後亀山天皇 (アジア-日本-)||
|1384|||  (アジア-日本-元中(南朝))||
|1384|||  (アジア-日本-至徳(北朝))||
|1384|2|27|至徳(北朝)(しとく)(1384.2.27-1386) (アジア-日本-至徳(北朝))||
|1384|4|28|元中(げんちゅう)(1384.4.28-1392) (アジア-日本-元中《南朝》)||
|1385|||. 下相良氏、国人一揆より離反、国人一揆は弱体化し瓦解 (アジア-日本-元中)||
|1386|||明の軍人林賢の陰謀発覚し、日本と通交断絶 (アジア-日本-元中)||
|1387|||  (アジア-日本-嘉慶(北朝))||
|1387|8|23|嘉慶(北朝)(かけい)(1387.8.23-1388) (アジア-日本-嘉慶(北朝))||
|1388|||倭寇、高麗の光州を陥し、州都を焼く (アジア-日本-元中)||
|1389|||高麗兵、対馬に寇する (アジア-日本-元中)||
|1389|||  (アジア-日本-康応(北朝))||
|1389|2|9|康応(北朝)(こうおう)(1389.2.9) (アジア-日本-康応(北朝))||
|1390|||土岐の乱=幕府、美濃守護土岐康行を討つ (アジア-日本-元中)||
|1390|||島津久氏、伊集院に妙円寺を創建 (アジア-日本-元中)||
|1390|||  (アジア-日本-明徳(北朝))||
|1390|3|26|明徳(北朝)(めいとく)(1390.3.26-) (アジア-日本-明徳(北朝))||
|1391|||明徳の乱 (アジア-日本-元中)||
|1392|||COLOR(red):高麗滅亡、李氏朝鮮成立(~1910)   (アジア-朝鮮)||
|1392|||COLOR(red):李氏朝鮮の建国(女真人)  (アジア-朝鮮)||
|1392|||南北朝合一 (アジア-日本-元中)||
|1393|||幕府、土倉・酒屋役の制を定める(課税恒常化) (アジア-日本-明徳)||
|1394|||室町時代 (アジア-日本-応永)||
|1394|||足利義満、太政大臣となる (アジア-日本-応永)||
|1394|||島津元久、福昌寺を創建 (アジア-日本-応永)||
|1394|||鎌倉時代 (アジア-日本-室町時代)||
|1394|7|5|応永(おうえい)(1394.7.5-1427) (アジア-日本-応永)||
|1396|||オスマン・トルコにコンスタンティノポリスを包囲される -1402(欧州-ローマ)||
|1397|||デンマーク王の統治下に入る  (欧州-ISL)||
|1397|||義満、金閣を造営 (アジア-日本-応永)||
|1397|||薩摩国北部国人、反島津国人一揆を組織 (アジア-日本-応永)||
|1398|||幕府、三管・四職・七頭を定める (アジア-日本-応永)||
|1398|||明・朱氏・・ 建文帝  (アジア-中国/明)||
|1398|||惠宗建文帝(朱允炆)   (アジア-中国/明)||
|1399|||応永の乱 (アジア-日本-応永)||
|1399|||COLOR(green):建文帝・即位 -1402(アジア-中国/明)||
|1400|||了俊、義満に追討され降る (アジア-日本-応永)||
|1401|||義満、明と国交回復 (アジア-日本-応永)||
|1401|||総州家島津伊久ら鶴田氏を攻め、奥州家 (アジア-日本-応永)||
|1401|||島津元久は鶴田氏援助のため市来忠家を攻める (アジア-日本-応永)||
|1401|||室町幕府が明と国交を開く  (アジア-)||
|1402|||義満、倭冠を禁止 明の国書を受く (アジア-日本-応永)||
|1402|||成祖永楽帝(朱棣)   (アジア-中国/明)||
|1402|||明・朱氏・・ 成祖永楽帝(朱棣)  (アジア-中国/明)||
|1402|||COLOR(green):永楽帝、靖難の変で建武帝を破り、即位  (アジア-中国/明)||
|1402|||アンゴラの戦い ~チムールがオスマン・トルコを破る   (アジア-)||
|1402|||オスマン=トルコの中絶  (アジア-)||
|1402|||ボヘミアのフスが宗教改革を唱える  (欧州-)||
|1403|||朝鮮で活字ができる   (アジア-)||
|1403|||COLOR(green):永楽帝・即位 -1424(アジア-中国/明)||
|1404|||足利幕府伊久・元久の両者を和解させる (アジア-日本-応永)||
|1404|||明と勘合貿易はじまる (アジア-日本-応永)||
|1405|||永楽帝、第1回の南海遠征  (アジア-中国/明)||
|1405|||鄭和の遠征がはじまる  (アジア-)||
|1407|||伊久の子守久・忠朝らが元久と争う (アジア-日本-応永)||
|1407|||前年倒壊の太政官庁造営に、諸国に段銭 (アジア-日本-応永)||
|1408|||足利義満死去 (アジア-日本-応永)||
|1409|||京都・諸国の率分関を廃止 (アジア-日本-応永)||
|1410|||永楽帝、モンゴル遠征  (アジア-中国/明)||
|1411|||元久没  島津久豊、強引に家督相続し、清水城に移る (アジア-日本-応永)||
|1411|||明と国交一時中絶(明使を拒絶) (アジア-日本-応永)||
|1412|||久豊、伊東祐安と戦い、末吉に敗退 (アジア-日本-応永)||
|1412|||東寺修造料として諸国に段銭 棟別銭を賦課 (アジア-日本-応永)||
|1412|8|29|COLOR(green):第101代称光天皇 (アジア-日本-)||
|1413|||. 久豊、菱刈攻めで吉田へ進む 伊集院頼久清水城を陥れる  久豊と頼久のあいだで跡目争そい (アジア-日本-応永)||
|1414|||コンスタンツ宗教会議  (欧州-)||
|1415|||上杉氏憲、足利持氏の怒りに触れ隠退 (アジア-日本-応永)||
|1416|||上杉氏憲反し、鎌倉を攻める 翌年討滅される (アジア-日本-応永)||
|1419|||朝鮮、倭寇征伐を理由として対馬を侵略する。日本、侵略した朝鮮を撃退。 (応永の外寇)(アジア-朝鮮-日本-応永)||
|1419|||ドイツでフス戦争が始まる(~1436)   (欧州-)||
|1421|||永楽帝、南京から北京に遷都   (アジア-中国/明)||
|1422|||総州家島津守久、肥前国に出奔 (アジア-日本-応永)||
|1423|||幕府、今川範政らに足利持氏追討を命ず (アジア-日本-応永)||
|1424|||諸国に飢饉、疱瘡流行 (アジア-日本-応永)||
|1424|||仁宗洪熙帝(朱高熾)   (アジア-中国/明)||
|1424|||明・朱氏・・ 洪煕帝  (アジア-中国/明)||
|1425|||. 久豊没 子忠国が跡をつぐ (アジア-日本-応永)||
|1425|||宣宗宣徳帝(朱瞻基)   (アジア-中国/明)||
|1425|||明・朱氏・・ 宣徳帝  (アジア-中国/明)||
|1425|||COLOR(green):洪煕帝・即位 (アジア-中国/明)||
|1426|||近江坂本の馬借一揆 興福寺五重塔なる (アジア-日本-応永)||
|1426|||COLOR(green):宣徳帝・即位 -1435(アジア-中国/明)||
|1427|||幕府、赤松満祐を討つ 満祐降伏 (アジア-日本-応永)||
|1428|||  (アジア-日本-正長)||
|1428|||正長の土一揆 (アジア-日本-正長)||
|1428|4|27|正長(しょうちょう)(1428.4.27) (アジア-日本-正長)||
|1428|7|28|COLOR(green):第102代 後花園天皇 (アジア-日本-)||
|1429|||  (アジア-日本-永享)||
|1429|||播磨の土一揆 (アジア-日本-永享)||
|1429|||ジャンヌ=ダルク  (欧州-)||
|1429|||フランスの少女ジャンヌ・ダルクがオルレアンの包囲を破る   (欧州-)||
|1429|||1429 琉球統一 (アジア-日本-)||
|1429|||第一尚氏王統(1429 - 1470)||
|1429|9|5|永享(えいきょう)(1429.9.5-1440) (アジア-日本-永享)||
|1430|||島津忠国、真幸院徳満城に島津久林を殺す 総州家滅亡 (アジア-日本-永享)||
|1432|||伊集院・牛尿・渋谷・菱刈氏ら反島津一揆を結成 (アジア-日本-永享)||
|1432|||足利義教、明と国交回復 遣明船を送る (アジア-日本-永享)||
|1434|||明使とともに勘合貿易船を派遣 (アジア-日本-永享)||
|1434|||メディチ家がフィレンツェ支配  (欧州-)||
|1435|||幕府、延暦寺・五山の悪僧を斬る (アジア-日本-永享)||
|1435|||英宗正統帝(朱祁鎮)   (アジア-中国/明)||
|1435|||明・朱氏・・ 正統帝  (アジア-中国/明)||
|1436|||COLOR(green):正統帝・即位 -1449(アジア-中国/明)||
|1438|||永享の乱(→1439) (アジア-日本-永享)||
|1438|||ハプスブルグ家のドイツ支配  (欧州-)||
|1439|||上杉憲実、足利学校を復興する (アジア-日本-永享)||
|1440|||結城合戦=結城氏朝が持氏の遺子を擁して挙兵、敗北 (アジア-日本-永享)||
|1441|||嘉吉の乱=赤松満祐父子、将軍義教を殺す (アジア-日本-嘉吉)||
|1441|||島津忠国、幕府の命で大覚寺門跡義昭を討つ (アジア-日本-嘉吉)||
|1441|||  (アジア-日本-嘉書)||
|1441|2|17|嘉吉(かきつ)(1441.2.17-1443) (アジア-日本-嘉吉)||
|1443|||対馬の宗貞盛、朝鮮と交易の役を定める (アジア-日本-嘉吉)||
|1444|||  (アジア-日本-文安)||
|1444|||内裏造営の段銭諸国に課す (アジア-日本-文安)||
|1444|2|5|文安(ぶんあん)(1444.2.5-1448) (アジア-日本-文安)||
|1445|||.. (アジア-日本-文安)||
|1447|||山城西岡の土一揆、洛中に侵入、徳政を要求 (アジア-日本-文安)||
|1449|||  (アジア-日本-宝徳)||
|1449|||幕府、持氏の末子茂氏を鎌倉公方とする (アジア-日本-宝徳)||
|1449|||代宗景泰帝(朱祁鈺)   (アジア-中国/明)||
|1449|||明・朱氏・・ 景泰帝  (アジア-中国/明)||
|1449|||土木の変(オイラートが明皇帝を捕らえる)  (アジア-)||
|1449|7|28|宝徳(ほうとく)(1449.7.28-1451) (アジア-日本-宝徳)||
|1450|||長尾景仲ら茂氏を襲う (アジア-日本-宝徳)||
|1450|||島津氏、反島津国一揆を鎮圧 (アジア-日本-宝徳)||
|1450|||ドイツのグーテンベルクが活版印刷術を発明   (欧州-)||
|1450|||活版印刷術の発明  (欧州-)||
|1450|||COLOR(green):景泰帝・即位 -1457(アジア-中国/明)||
|1451|||琉球商船、兵庫に到着 (アジア-日本-宝徳)||
|1452|||  (アジア-日本-享徳)||
|1452|||細川勝元、管領となる (アジア-日本-享徳)||
|1452|7|25|享徳(きょうとく)(1452.7.25-1454) (アジア-日本-享徳)||
|1453|||オスマン・トルコが東ローマ帝国を滅ぼす ||
|1453|||コンスタンティノポリス陥落し、ビザンティン帝国滅亡 (欧州-ローマ)||
|1454|||山城の徳政一揆 享徳の徳政令 (アジア-日本-享徳)||
|1455|||足利成氏、古河に敗走(古河公方の初め) (アジア-日本-享徳)||
|1455|||  (アジア-日本-康正)||
|1455|||イギリスでばら戦争(~1485)   (欧州-)||
|1455|7|25|康正(こうしょう)(1455.7.25-1456) (アジア-日本-康正)||
|1456|||幕府、造内裏段銭・棟別銭を諸国に課す (アジア-日本-享徳)||
|1457|||大田道灌、江戸城を築く (アジア-日本-享徳)||
|1457|||  (アジア-日本-長禄)||
|1457|||英宗天順帝(朱祁鎮)-第六代正統帝の重祚。   (アジア-中国/明)||
|1457|||明・朱氏・・ 天順帝  (アジア-中国/明)||
|1457|||COLOR(green):天順帝・即位 -1464(アジア-中国/明)||
|1457|9|28|長禄(ちょうろく)(1457.9.28-1459) (アジア-日本-長禄)||
|1459|||諸関を廃し、京に関所を設け、関銭を神宮造営に (アジア-日本-享徳)||
|1460|||  (アジア-日本-寛正)||
|1460|||寛正の大飢饉 (アジア-日本-寛正)||
|1460|12|21|寛正(かんしょう)(1460.12.21-1465) (アジア-日本-寛正)||
|1462|||山城の土一揆 京畿の土一揆 (アジア-日本-寛正)||
|1463|||京都の土一揆、徳政を要求 (アジア-日本-寛正)||
|1464|||義政、弟浄土寺義尋を養子とする (アジア-日本-寛正)||
|1464|||憲宗成化帝(朱見深)   (アジア-中国/明)||
|1464|||明・朱氏・・ 成化帝  (アジア-中国/明)||
|1464|7|19|COLOR(green):第103代 後土御門天皇 (アジア-日本-)||
|1465|||山城の土一揆、徳政を要求 (アジア-日本-寛正)||
|1465|||COLOR(green):成化帝・即位 -1487(アジア-中国/明)||
|1466|||  (アジア-日本-文正)||
|1466|||斯波義廉・義敏、家督を争う (アジア-日本-文正)||
|1466|2|28|文正(ぶんしょう)(1466.2.28) (アジア-日本-文正)||
|1467|||  (アジア-日本-応仁)||
|1467|||応仁の乱(→1477) (アジア-日本-応仁)||
|1467|||日本で応仁の乱 (アジア-日本-)||
|1467|3|5|応仁(おうにん)(1467.3.5-1468) (アジア-日本-応仁)||
|1468|||勝元、管領となる (アジア-日本-応仁)||
|1469|||  (アジア-日本-文明)||
|1469|4|28|文明(ぶんめい)(1469.4.28-1486) (アジア-日本-文明)||
|1470|||第二尚氏王統(1470 - 1879)||
|1471|||桜島黒神村で大噴火 (アジア-日本-文明)||
|1471|||蓮如、越前に吉崎道場を創建 (アジア-日本-文明)||
|1472|||近江坂本の馬借一揆 (アジア-日本-文明)||
|1473|||細川勝元死去、義政、将軍を辞し、義尚継ぐ (アジア-日本-文明)||
|1474|||義政、朝鮮に明の勘合符を求める (アジア-日本-文明)||
|1476|||桜島大噴火 (アジア-日本-文明)||
|1477|||応仁の乱終結、京都焦土と化す (アジア-日本-文明)||
|1477|||島津忠昌に背いた国久・季久が降伏する (アジア-日本-文明)||
|1478|||. 幕府、忠昌に遣明使船保護を依頼する (アジア-日本-文明)||
|1479|||蓮如、山科に本願寺を創立 (アジア-日本-文明)||
|1479|||COLOR(red):スペイン王国の成立(カスチラとアラゴンの合同)  (欧州-)||
|1480|||農民の疲弊甚だしく、各地に一揆起こる (アジア-日本-文明)||
|1480|||幕府、島津忠昌に琉球貿易回復を催促させる (アジア-日本-文明)||
|1480|||COLOR(red):モスクワ大公国独立   (欧州-)||
|1481|||足利義政、勘合船を朝鮮に派遣 (アジア-日本-文明)||
|1481|||琉球紋船来航 (アジア-日本-文明)||
|1483|||義政、東山に銀閣を営む (アジア-日本-文明)||
|1483|||幕府、周璋遣明につき島津一族に警衛を命ずる (アジア-日本-文明)||
|1484|||. 伊作久逸、飫肥の新納忠続を攻める (アジア-日本-文明)||
|1485|||山城・大和河内土一揆(自治を実行) (アジア-日本-文明)||
|1485|||COLOR(red):英のチューダー朝成立  (欧州-)||
|1486|||京都に徳政一揆 (アジア-日本-文明)||
|1487|||  (アジア-日本-長享)||
|1487|||孝宗弘治帝(朱祐樘)   (アジア-中国/明)||
|1487|||明・朱氏・・ 弘治帝  (アジア-中国/明)||
|1487|7|2|長享(ちょうきょう)(1487.7.2-1488) (アジア-日本-長享)||
|1488|||加賀に一向一揆(翌年守護を自殺させる) (アジア-日本-長享)||
|1488|||バーソロミュー=ディアスが喜望峰に達する  (アフリカ-)||
|1488|||バーソロミュー・ディアスが喜望峰を発見   (アフリカ-)||
|1488|||COLOR(green):弘治帝・即位 -1505(アジア-中国/明)||
|1489|||  (アジア-日本-延徳)||
|1489|8|21|延徳(えんとく)(1489.8.21-1491) (アジア-日本-延徳)||
|1490|||京都に土一揆 (アジア-日本-延徳)||
|1491|||北条早雲、伊豆を攻略(戦国時代始まる) (アジア-日本-延徳)||
|1492|||  (アジア-日本-室町(戦国)時代)||
|1492|||  (アジア-日本-明応)||
|1492|||コロンブスが新大陸を到達   (北米-アメリカ)||
|1492|||コロンブスが西インド諸島に達する  (北米-アメリカ)||
|1492|7|19|明応(めいおう)(1492.7.19-1500) (アジア-日本-明応)||
|1493|||細川政元、将軍に反す (アジア-日本-明応)||
|1493|||└ 戦国時代(1493 - 1573)||
|1493|||応仁の乱||
|1493|||東山文化||
|1493|||コロンブスによりアンティグア「発見」 (中南米-アンティグア・バーブーダ-明応)||
|1494|||「三国志演義」なる  (アジア-)||
|1494|||教皇境界線の決定  (欧州-)||
|1495|||北条早雲、大森氏を追い、小田原城に入る (アジア-日本-明応)||
|1496|||蓮如、大阪石山別院を築く(石山本願寺) (アジア-日本-明応)||
|1497|||カボットが北アメリカを探検  (北米-アメリカ)||
|1498|||バスコ・ダ・ガマがインド航路を発見   (アジア-)||
|1498|||バスコダ=ガマがアフリカ南端を周りカリカットに達する  (アフリカ-)||
|1500|||アーカンソー州、16世紀半ば以降ミシシッピ川中流の西岸に広がる領域はスペインとフランスが支配権を握っていた  (北米-アメリカ/アーカンソー州)||
|1500|||幕府、初めて撰銭を禁ず(撰銭令) (アジア-日本-明応)||
|1500|10|25|COLOR(green):第104代 後柏原天皇 (アジア-日本-)||
|1501|||  (アジア-日本-文亀)||
|1501|||朝廷、幕府に即位礼の費用を求める (アジア-日本-文亀)||
|1501|||アメリゴ=ベスプッチがブラジル沿岸を南下  (欧州/南米-/ブラジル)||
|1501|2|29|文亀(ぶんき)(1501.2.29-1503) (アジア-日本-文亀)||
|1503|||幕府、勘合符を朝鮮に求める (アジア-日本-文亀)||
|1504|||  (アジア-日本-永正)||
|1504|||京都に土一揆、幕府徳政令を承認 (アジア-日本-永正)||
|1504|2|3|永正(えいしょう)(1504.2.3-1520) (アジア-日本-永正)||
|1505|||武宗正徳帝(朱厚照)   (アジア-中国/明)||
|1505|||明・朱氏・・ 正徳帝  (アジア-中国/明)||
|1506|||加賀・能登一向宗徒、越前守護と争う (アジア-日本-永正)||
|1506|||島津忠昌、肝付兼久を討つ (アジア-日本-永正)||
|1506|||イタリアのセント・ピーター寺院が完成   (欧州-)||
|1506|||COLOR(green):正徳帝・即位 -1521(アジア-中国/明)||
|1507|||大内義興、義稙を奉じて上洛を企てる (アジア-日本-永正)||
|1508|||. 島津忠昌清水城にて自殺 (アジア-日本-永正)||
|1508|||ミケランジェロがシスチン礼拝堂壁画に着手  (欧州-)||
|1509|||対馬島民、朝鮮を侵す (アジア-日本-永正)||
|1509|||エラスムスの「痴愚神礼賛」なる  (欧州-)||
|1510|||この年以降薩摩・大隈・日向の三国乱れる (アジア-日本-永正)||
|1510|||三浦の乱 (アジア-日本-永正)||
|1510|||ポルトガルがインドのゴアを占領  (アジア-)||
|1510|||ポルトガルがインドのゴアを占領 ||
|1511|||山城の土一揆、徳政を要求 (アジア-日本-永正)||
|1512|||対馬の宗氏、朝鮮と壬申約定を締結す (アジア-日本-永正)||
|1513|||マキャベリの「君主論」なる  (欧州-)||
|1515|||蝦夷の乱平定(1513→) (アジア-日本-永正)||
|1516|||島津忠隆、備中の三宅国秀を坊津で討つ (アジア-日本-永正)||
|1516|||幕府、大内氏に遣明船を管理させる (アジア-日本-永正)||
|1516|||トマス=モアの「ユートピア」なる  (欧州-)||
|1517|||今川氏親、遠江国引間城に斯波義凌逵を攻略 (アジア-日本-永正)||
|1517|||ルターの「95か条の意見書」  (欧州-)||
|1517|||ルター宗教改革 ||
|1518|||忠隆、書を琉球王に送る 琉球王尚真、薩摩へ来航 (アジア-日本-永正)||
|1519|||マゼランの一行が世界周航に出発(~1522)  (欧州-)||
|1519|||レオナルド=ダ=ヴィンチが死去  (欧州-)||
|1519|||マゼラン船隊が世界一周(~1522) ||
|1520|||京畿に土一揆、幕府徳政令を発す (アジア-日本-永正)||
|1520|||細川氏、遣明船を種子島で建造 (アジア-日本-永正)||
|1520|10|29|フェルディナンド・マゼランがマゼラン海峡を「発見」。 ||
|1521|||  (アジア-日本-大永)||
|1521|||足利義晴、征夷大将軍となる (アジア-日本-大永)||
|1521|||琉球紋船到来 種子島忠時、使節を那覇に遣わす (アジア-日本-大永)||
|1521|||世宗嘉靖帝(朱厚熜)   (アジア-中国/明)||
|1521|||明・朱氏・・ 嘉靖帝  (アジア-中国/明)||
|1521|||コルテスがメキシコを占領  (欧州/南米-アメリカ)||
|1521|8|23|大永(だいえい)(1521.8.23-1527) (アジア-日本-大永)||
|1522|||大内義興、義稙を報じて上洛を企てる (アジア-日本-大永)||
|1522|||COLOR(green):嘉靖帝・即位 -1567(アジア-中国/明)||
|1523|||細川高国・大内義興の各使者、明の寧波にて争う 細川高国、島津忠朝・種子島氏に遣明船警護を依頼 (アジア-日本-大永)||
|1523|||このころ倭寇 (アジア-日本-)||
|1524|||北条氏綱、江戸城を奪取 (アジア-日本-大永)||
|1524|||ドイツ農民戦争(~1525)   (欧州-)||
|1524|||ドイツ農民戦争がはじまる  (欧州-)||
|1525|||. 島津忠良、武具を琉球王に贈る (アジア-日本-大永)||
|1526|||幕府、徳政を行う (アジア-日本-大永)||
|1526|||琉球王尚真、島津忠良に絹糸を贈る (アジア-日本-大永)||
|1526|||COLOR(red):インドにムガール帝国が成立(~1858)   (アジア-インド)||
|1526|4|29|COLOR(green):第105代 後奈良天皇 (アジア-日本-)||
|1527|||帖佐地頭島津昌久、加治木地頭伊地知重貞とともに背く  忠良、加治木・帖佐を陥し、昌久を誅す (アジア-日本-大永)||
|1528|||  (アジア-日本-享禄)||
|1528|||細川・大内の使者、明の寧波で争う (アジア-日本-享録)||
|1528|8|2|享禄(きょうろく)(1528.8.2-1531) (アジア-日本-享禄)||
|1529|||大内義隆、島津忠朝に対明貿易復活斡旋を依頼 (アジア-日本-享録)||
|1529|||天 竺人、周防に来着、眼鏡・望遠鏡を伝える (アジア-日本-享録)||
|1529|||王陽明の死  (アジア-)||
|1530|||大内氏、遣明船を種子島で建造 (アジア-日本-享録)||
|1530|||幕府、徳政令を発布 (アジア-日本-享録)||
|1531|||明が一条鞭法を実施  (アジア-中国/明)||
|1531|||加賀に一向一揆 (アジア-日本-享録)||
|1532|||  (アジア-日本-天文)||
|1532|||島津忠朝、北郷忠相とともに伊東義祐を高城に破る (アジア-日本-天文)||
|1532|||法華一揆、山科本願寺を焼く (アジア-日本-天文)||
|1532|7|29|天文(てんぶん)(1532.7.29-1554) (アジア-日本-天文)||
|1533|||石見の大森銀山を開発 (アジア-日本-天文)||
|1533|||忠良、南郷城を攻め桑波田孫六を殺す (アジア-日本-天文)||
|1533|||インカ帝国、滅亡   (南米-インカ帝国)||
|1533|||ロシアのイワン4世(雷帝)即位  (欧州-)||
|1534|||紀伊に惣国一揆成立 (アジア-日本-天文)||
|1534|||イエズス会(耶蘇会)成立   (欧州-)||
|1534|||イエズス会の創立  (欧州-)||
|1534|||イギリス国教会の成立  (欧州-)||
|1535|||勝久、実久と谷山で戦い敗北 (アジア-日本-天文)||
|1536|||天文法華の乱 (アジア-日本-天文)||
|1537|||今川義元、武田信虎と同盟し北条氏綱と絶交 (アジア-日本-天文)||
|1537|||忠良、実久と紫原に戦う (アジア-日本-天文)||
|1538|||国府台の戦い…北条氏綱、足利義明を破る (アジア-日本-天文)||
|1538|||インドでナーナク(シーク教の創始者)死亡  (アジア-)||
|1539|||貴久、実久軍を紫原に破る (アジア-日本-天文)||
|1539|||陸奥会津に百姓一揆 (アジア-日本-天文)||
|1540|||諸国に悪疫流行 (アジア-日本-天文)||
|1540|||明船、種子島竹崎浦へ漂着 (アジア-日本-天文)||
|1541|||ポルトガル船、豊後に漂着 (アジア-日本-天文)||
|1541|||貴久、伊集院忠郎に樺山氏を助けさせる (アジア-日本-天文)||
|1541|||島津忠広・北郷忠相ら樺山幸久を攻める (アジア-日本-天文)||
|1541|||カルビンが宗教改革を開始  (欧州-)||
|1541|||カルバン宗教改革 ||
|1542|||今川義元、織田信秀と戦う (アジア-日本-天文)||
|1542|||忠良・貴久、北原祐兼と結ぶ 島津忠広、北郷忠孝肝付軍と戦う (アジア-日本-天文)||
|1542|||フランシスコ=ザビエルがゴアに来る  (アジア-)||
|1543|||ポルトガル船種子島に、鉄砲伝来 (アジア-日本-天文)||
|1543|||コペルニクスの「天体の回転について」発刊  (欧州-)||
|1543|||日本の種子島にポルトガル人が漂着(鉄砲の伝来) (アジア-日本-)||
|1543|||コペルニクスが「地動説」を唱える ||
|1544|||ポルトガル船、薩摩に貿易を求める (アジア-日本-天文)||
|1546|||ポルトガル船薩摩領内に来航 (アジア-日本-天文)||
|1546|||北条氏康、扇谷上杉氏を破る (アジア-日本-天文)||
|1547|||大内義隆、最後の遣明船を出す (アジア-日本-天文)||
|1548|||斎藤利政、織田信秀と和睦し、娘を信長の妻に (アジア-日本-天文)||
|1549|||ザビエル鹿児島に上陸 キリスト教伝来 (アジア-日本-天文)||
|1550|||ポルトガル船、はじめて平戸に入港 (アジア-日本-天文)||
|1550|||貴久、伊集院より鹿児島に移り、内城を築造して居城 (アジア-日本-天文)||
|1551|||ポルトガル船、豊後に来航 (アジア-日本-天文)||
|1552|||ポルトガル船鹿児島に来航 (アジア-日本-天文)||
|1552|||関東管領上杉憲政、越後長尾影虎を頼る (アジア-日本-天文)||
|1553|||川中島の戦 (アジア-日本-天文)||
|1553|||ブルボン朝  (欧州-)||
|1554|||祁答院・入来院・蒲生ら連合して島津氏に背く (アジア-日本-天文)||
|1554|||武田信玄、今川義元と結び北条氏康と戦う (アジア-日本-天文)||
|1555|||  (アジア-日本-弘治)||
|1555|||貴久軍、祁答院良重を破る (アジア-日本-弘治)||
|1555|||織田信長清洲へ入城 元就、陶晴賢を厳島で破る (アジア-日本-弘治)||
|1555|||アウグスブルグの宗教和議  (欧州-)||
|1555|10|23|弘治(こうじ)(1555.10.23-1557) (アジア-日本-弘治)||
|1556|||結城政勝「結城家法度」制定 (アジア-日本-弘治)||
|1556|||島津忠将ら蒲生を攻める 貴久南林寺を建立 (アジア-日本-弘治)||
|1556|||島津忠親、肝付氏の大崎城を粉砕 (アジア-日本-弘治)||
|1556|||アクバル大帝が即位(~1605)   ( -)||
|1557|||蒲生範清降る (アジア-日本-弘治)||
|1557|||豊後府内にイエズス会の病院設立 (アジア-日本-弘治)||
|1557|10|27|COLOR(green):第106代 正親町天皇 (アジア-日本-)||
|1558|||  (アジア-日本-永禄)||
|1558|||肝付氏、北郷時久を討つ (アジア-日本-永録)||
|1558|||イギリスのエリザベス1世即位  (欧州-)||
|1558|||イギリスのエリザベス(1世)女王が即位(~1603)   (欧州-)||
|1558|2|28|永禄(えいろく)(1558.2.28-1569) (アジア-日本-永禄)||
|1559|||上杉謙信、将軍義輝に謁す (アジア-日本-永録)||
|1560|||ポルトガル船2艘島津領に来航 (アジア-日本-永録)||
|1560|||桶狭間の戦 信長今川義元を破る (アジア-日本-永録)||
|1561|||影虎、関東管領となり上杉氏を継ぐ (アジア-日本-永録)||
|1562|||徳川家康、織田信長と同盟 (アジア-日本-永録)||
|1562|||北原氏に内紛ありついに自滅 (アジア-日本-永録)||
|1562|||フランスのユグノー戦争はじまる(~1598)  (欧州-)||
|1562|||ユグノー戦争(~1598) ||
|1563|||貴久、伊東氏と戦い敗北 (アジア-日本-永録)||
|1563|||三河国一向一揆 (アジア-日本-永録)||
|1565|||三好、松永ら将軍義輝を殺す (アジア-日本-永録)||
|1566|||伊東義祐、三の山で義久・義弘と戦う (アジア-日本-永録)||
|1566|||尼子義久、毛利元就に降る (アジア-日本-永録)||
|1566|||明・朱氏・・ 穆宗隆慶帝(朱載?)  (アジア-中国/明)||
|1566|||グレシャムがロンドン取引所を設立  (欧州-)||
|1567|||義久、菱刈氏を攻め馬越城を陥す (アジア-日本-永録)||
|1567|||信長、斎藤竜興の稲葉山城を陥落させ岐阜城と改め入城 (アジア-日本-永録)||
|1567|||COLOR(green):隆慶帝・即位 -1572(アジア-中国/明)||
|1568|||信長入洛 全国の関所を撤廃 (アジア-日本-永録)||
|1569|||貴久・義久、大口城を攻める (アジア-日本-永録)||
|1569|||信長、撰銭令 信長内裏を修復 (アジア-日本-永録)||
|1570|||明で「西遊記」なる  (アジア-中国/明)||
|1570|||  (アジア-日本-元亀)||
|1570|||姉川の戦…信長・家康、朝井・朝倉連合軍を破る (アジア-日本-元亀)||
|1570|||04/23 元亀(げんき)(1570.4.23-1572) (アジア-日本-元亀)||
|1571|||肝付氏の兵船、鹿児島を襲う (アジア-日本-元亀)||
|1571|||信長、比叡山延暦寺を焼き打ち (アジア-日本-元亀)||
|1571|||(スペイン・ベネチアVSオスマン=トルコ)  (欧州-)||
|1571|||スペイン人がフィリピン群島を占領し、マニラ市をつくる   (欧州-)||
|1571|||レパントの海戦  (欧州-)||
|1572|||三方ケ原の戦 (アジア-日本-元亀)||
|1572|||島津兵、肝付兵を破る (アジア-日本-元亀)||
|1572|||明・朱氏・・ 神宗万暦帝(朱翊鈞)  (アジア-中国/明)||
|1572|||フランスでセント・バーソロミュー事件(バーソロミューの大虐殺)   (欧州-)||
|1573|**|**|室町時代→安土桃山時代(1573 - 1603) (アジア-日本-安土桃山時代)||

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