|313|>|>|>|CENTER:SIZE(20):朝鮮半島の歴史/313|h
|313|>|>|''三国時代''&br; 高句麗・百済・新羅が戦争を繰り返した。||
|313|||高句麗,楽浪郡滅亡させる&br;中国の漢が、半島北部に設置して支配下においた楽浪など4郡が、高句麗によって、滅ぼされる。これにより、中国からの支配を追放することになる。&br;''高句麗による楽浪郡の滅亡''&br;紀元前108年に衛氏朝鮮が魏に滅ぼされると朝鮮半島の大部分は長きに渡る中国勢力からの支配を受けることになります。前漢→後漢→魏→晋へと。そんな中、北から朝鮮半島へと勢力拡大を狙う国がありました。中国東北地方から出たツングース系貊族が建てた高句麗です。この高句麗により313年、中国勢力の拠点であった楽浪郡が滅ぼされます。この頃は、中国の晋が滅亡する前後のことですね。さらに、帯方郡も滅ぼされ(高句麗によって滅ぼされたとする書と朝鮮の土着の勢力によって併合されたとする書がある)、これにより朝鮮半島から中国勢力が駆逐されることになります。さぁ、中国勢力を追い出した高句麗は、どんどん南へと勢力拡大を狙います。この頃の朝鮮半島南部は小さな国々が集まり、馬韓(ばかん)、辰韓(しんかん)、弁韓(べんかん)といういわゆる三韓が小国国家郡をつくっていましたが、高句麗の脅威もあり統一の機運が高まります。そして、馬韓が統一され建てられた国家が百済に。辰韓が統一されてできた国が新羅となりました。ちなみに、弁韓の地は統合がうまく進まず、加羅諸国となりますが、後に百済、新羅に統合されます。   これで、高句麗も簡単には朝鮮統一とはいかなくなります。そう朝鮮史上に残る「三国時代」の始まりです。||
|314|||高句麗,帯方郡を亡ぼす(中国の郡県支配終わる)||
|315|||百済の責稽即位(-百済)||
|321|||百済の汾西即位(-百済)||
|324|||百済の比流即位(-百済)||
|331|||COLOR(green):第16代 高句麗王 故国原王(331~371)&br;COLOR(black):大飢饉、人を殺して食べる(-百済)||
|333|||成務333-356(-百済)||
|334|||契王即位ケイ(汾西王の長男)(-百済)||
|335|||日食(-百済)||
|337|||新羅の使者(-百済)||
|344|||COLOR(green):第11代 百済王 契王(344~346)&br;COLOR(black):新羅、倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。||
|345|||新羅、二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。&br;百済の契即位(-百済)||
|346|>|>|''■前期 漢城時期( ? 475年)''(-百済)&br;''中国が五胡十六国の時代''(-百済)||
|346||>|COLOR(RED):朝鮮半島南部に百済建国||
|346|||COLOR(green):第12代 百済王 近肖古王(346~375)&br;COLOR(green):第5代 加羅王 伊尸品王(346~407)&br;COLOR(black):近肖古王の即位。(注:ただし、近肖古王は、第13代の王とされている。)近肖古王の代に、博士高興が文字の記録を始めた。(百済)(百済)&br;近肖古王即位キンショウコ(句、比流王の第2子)(-百済)&br;新羅、倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。&br;中国が五胡十六国の時代(-百済)&br;百済,近肖古王即位&br;百済の照古即位(-百済)&br;''■前期 漢城時期( ? 475年)''&br; ソウル 夢村土城跡&br; 夢村土城の土塁跡(ソウル)  中国の史料の上でも「百済」の存在が明確になるのは、第13代の近肖古王(346年即位)から。この頃の百済の都「漢城」は、ソウルの南、風納土城、夢村土城(現在のオリンピック公園)と考えられています。&br;  近肖古王の時、拡大を続ける高句麗に対抗、百済は平壌まで攻め入り、故国原王を討ち取るものの、のちの高句麗の広開土王に反撃され、そのため、新羅、日本(倭国)と同盟を結ぶようにもなりました。&br;  しかし、475年、高句麗・長寿王に攻め入られ、ついに首都・漢城は落城、時の第21代蓋鹵王は捕らえられ、討死しました。(-百済)&br;&br;346年、近肖古王の即位。&br;近肖古王の代に、博士高興が文字の記録を始めた。(-百済)&br;&br;''百済の建国''(-百済)&br;346年ころ百済の建国 朝鮮半島の南西部にあった馬韓の一小国であった伯済(はくさい・ペクジェ)が、周囲の小国を統合して支配下に置き、慰礼城(いれいじょう・現在の京畿道広州郡・後に漢山城へ移る)を都として、百済(くだら・ペクジェ)に発展した。 伯済の国名は「魏志」韓伝に見え、百済の国名がはじめて現れるのは「晋書」の帝紀咸安二年(372年)正月の条で、このとき百済の近肖古王が東晋に朝貢している。 346年は、近肖古王の即位の年である。(注:ただし、近肖古王は、第13代の王とされている。)(-百済)||
|356|>|>|''新羅の建国''||
|356|||COLOR(green):第17代 新羅王 奈勿尼師今(356~402)&br;COLOR(RED):朝鮮半島南部に新羅建国&br;COLOR(black):新羅,奈勿王即位&br;新羅の建国(-百済)&br;仲哀356-360(-百済)&br;COLOR(black):''三国時代(356ー676)''&br;韓半島とアジアの北東地域を中心に4世紀初め頃から7世紀中頃まで高句麗・百済・新羅が互いに争っていた時代を三国時代といいます。高句麗・百済・新羅が戦争を繰り返した。  :''3世紀頃''三国時代  BC1世紀中頃には漢の支配が弱まり、BC37年に中国の遼寧省付近に伝説の人物朱蒙(しゅもう)が高句麗(こうくり、こま)を建国した。高句麗は次第に四方に勢力を延ばし、楽浪郡や帯方郡を滅ぼした。391年に即位した広開土王(好太王)は遼東に勢力を伸ばし、満州南部から朝鮮半島の大半を領土とした。半島南部では、3世紀頃に三韓(馬韓、辰韓、弁韓)と呼ばれる国が分立し、楽浪郡の支配を受けていた。4世紀中には馬韓を百済(くだら)が、辰韓を新羅(しらぎ)が統一して、朝鮮半島の三国時代が始まった。三国は激しく争い、新羅は他の二国に圧迫されていた。4世紀中頃には日本が弁韓に進出し、任那(みまな:伽耶(かや)とも言う)を支配した。中国を統一した隋は、4度の高句麗遠征に失敗して滅び、次の唐も高句麗遠征に失敗した。新羅は唐との関係を強化し、唐・新羅連合軍は660年に百済を滅し、663年には百済の遺臣とそれを支援する倭国軍(指導者は後の天智天皇の中大兄皇子)を白村江で破った。そして668年には、残った高句麗を滅し、新羅が朝鮮半島を統一した。 新羅は仏教を保護し、民衆の生活も豊かになった。||
|360|||神功360-386(-百済)||
|364|>|>|''百済再建''(-百済)||
|364|||百済再建&br; 漢江付近はこの当時倭国の領域であった。しかしながら、大和朝廷の施政権はほとんど及んでおらず、ほとんど未開地のような情勢であったと思われる。百済としては、まだどこにも所属していないと思い、新しい国として百済再建を諮った。&br; 周辺がほとんど未開の地であるために、少しずつ領土を拡張していった。その中でこの地が倭国領であることを知ったと思われる。&br; 百済王としては、倭国が巨大な領域を占めており、かなりの強国であるという噂を知り、このままこの地を領有していると、何れ倭国と交戦しなければならなくなり、存亡の危機にかかわることになりかねないので、倭国王との接触を図ろうとしたと思われる。&br; その関連記事が神功皇后44年及び46年の記事であろうと思われる。&br; 神功44年 百済王は、卓淳旱岐のもとへ、日本へ渡る道を知っているか三人の使者を送った。&br; 神功46年 斯摩宿禰を卓淳國に遣す。百済との交流が始まる。&br; 神功44年は364年である。百済が建国後200年も倭国の存在を知らないなど考えにくいことであり、この記事は神功皇后ではなく卑弥呼の時代のものと考える。神功44年は中国干支で甲子である。この干支がこの当時の半年一年干支の間違いであるとすれば、同じ甲子となるのはAD204年後半である。よって、卓淳國で使者を送ったのは204年、百済との交流が始まったのは205年となる。(-百済)&br;新羅、倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。||
|366|||新羅に使者(-百済)||
|367|||百済と新羅がともに初めて日本に朝貢した。(「日本書紀」の神功皇后47年の条)(注:もっと後代とする説もある。)(百済)||
|368|||日食 新羅に使者(-百済)||
|369|||高句麗が侵入 百済軍の軍旗に黄色を用いる(-百済)||
|371|||COLOR(green):第17代 高句麗王 小獣林王(371~384)&br;近肖古王,高句麗の平壌城を攻撃.故国原王戦死&br;高句麗が侵入 百済軍は平壌城を攻撃、高句麗王が戦死(-百済)&br;高句麗の平壌城をせめて占拠した。このとき、高句麗の古国原王は流れ矢にあたって戦死した。(注:高句麗が百済を攻めてきて、これを撃破したとする文献もある。)(百済)||
|372|||慰礼城から漢山城(現在の京畿道広州郡・慰礼城と約6.5kmしか離れていない)へ遷都した。(-百済)&br;高句麗,仏教伝来,太学設置.漢学を教える&br;高句麗、仏教の伝来。&br;晋に朝貢(晋書に為鎮東将軍領楽浪太守とあり)(-百済)&br;東晋へ朝貢。百済王余句(近肖古王)が鎮東将軍領楽浪太守の号を授けられる。(-百済)&br;日本へ使節を送り「七支刀(しちしとう)」を贈った。(「日本書紀」の神功皇后52年の条)(-百済)&br;百済,東晋に使節を送る||
|375|||COLOR(green):第13代 百済王 近仇首王(375~384)&br;近仇首王即位キンキュウシュ(須、近肖古王の子)(-百済)&br;高句麗侵入&br;(注記にこの時代に文字を得て事を記すようになったとある)(-百済)&br;百済の貴須即位(-百済)||
|377|||高句麗の平壌城を攻撃(-百済)&br;北朝の前秦へも朝貢。(百済)||
|384|||COLOR(blue):百済、仏教の伝来。&br;COLOR(green):第14代 百済王 枕流王(384~385)&br;COLOR(green):第18代 高句麗王 故国壌王(384~392)&br;COLOR(black):西域の僧侶摩羅難?(まらなんだ)が東晋を経て百済に渡り仏教を伝える。(-百済)&br;百済,仏教伝来(東晋の僧・摩羅難陀).中央集権化の手段として公認&br;百済の枕流即位(-百済)&br;枕流王即位チンリュウ(近仇首王の子)&br;晋に朝貢 仏僧が晋から渡来(-百済)||
|385|||COLOR(green):第15代 百済王 辰斯王(385~392)&br;辰斯王即位シンシ(枕流王の弟)(-百済)&br;百済の辰斯即位(-百済)&br;仏寺を創建(-百済)||
|386|||応神386-402(-百済)&br;高句麗が侵入(-百済)||
|387|||東晋から、百済の太子余暉が使持節都督鎮東将軍百済王の号を授けられる。(-百済)&br;靺鞨が侵入(-百済)||
|389|||高句麗を攻撃(-百済)||
|391|||COLOR(green):高句麗、広開土王即位。&br;COLOR(black):高句麗、そもそも新羅・百残(百済の蔑称か?)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が■を渡り百残・■■・新羅を破り、臣民となしてしまった。 http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png &br;高句麗の広開土王(好太王)即位(-百済)||
|391|||倭が海を渡り百済などを打ち破って臣下とした。(広開土王碑の碑文から)(-百済)||
|391|||靺鞨が侵入(-百済)||
|392|||COLOR(green):第16代 百済王 阿芳王(392~405)||
|392|||COLOR(green):第19代 高句麗王 廣開土王(392~413)||
|392|||阿シン王即位アシン(草冠+辛、阿芳、枕流王の子)(-百済)||
|392|||日食&br;高句麗の広開土王が侵入 多くの領土を奪われる(-百済)||
|392|||百済の阿辛(-百済)||
|393|||新羅、倭人が来て金城を包囲し、5日も解かなかった。||
|395|||高句麗の広開土王と戦うも大敗する(-百済)||
|396|||高句麗,百済を服従させる&br;高句麗の広開土王が、平壌城を奪い返す。(-百済)||
|397|||倭と結んで高句麗と戦うため、百済の太子腆支を倭国へ送る。(-百済)&br;倭国と国交を結び王子の腆支を人質とする(-百済)||
|399|||高句麗、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平譲にでむいた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。&br;高句麗攻撃のための徴発により人々が新羅に逃げる(-百済)||
|400|||COLOR(green):高句麗、南部に出兵して倭を討つ。 ||
|400|||高句麗、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。||
|400|||日食(-百済)||
|402|||COLOR(green):第18代 新羅王 実聖尼師今(402~417)||
|402|||新羅、三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った。||
|402|||仁徳402-434(-百済)||
|402|||百済から倭国へ使者を送る。(-百済)||
|402|||倭国に使者を送り大珠を求む(大珠の意不明)(-百済)||
|403|||倭国から百済へ使者を送る。(-百済)&br;倭国の使者を特に手厚くねぎらう(-百済)||
|404|||高句麗、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。&br;倭軍が帯方界(現在の黄海道)まで進出する。(広開土王碑の碑文から)(-百済)||
|405|||COLOR(green):第17代 百済王 腆支王(405~420)||
|405|||新羅、倭兵が明活城を攻める。||
|405|||百済,阿直岐・博士王仁など日本に渡り漢学伝える||
|405|||百済の阿?王が死去したので、倭国へ送られていた太子腆支が帰国を許され倭人を伴って国境まで来ると、都の解注という者が報告して言うには、「太子の弟の訓解(くんかい)が摂政をして太子の帰りを待つ間に、末弟の?礼(せつれい)が訓解を殺して王となっている。太子は軽々しく入国しないでください。」という。そこで、太子は倭人とともに島にたてこもり、その間に貴族たちが?礼を殺し、太子を迎え入れて腆支王となった。(-百済)||
|405|||百済の直支(-百済)||
|405|||百済阿花王が薨る。天皇は直支王を召して国に帰り王位を嗣ぐようにいい、東韓の地を賜った。||
|405|||腆支王即位テンシ(直支、映、枕流王の子)&br;人質となっていたとき枕流王が死去、弟を殺した末弟が王となったために乞うて&br;倭国の護衛により海中の島にて待機してのち王となる(-百済)||
|406|||晋に朝貢(-百済)||
|407|||COLOR(green):第6代 加羅王 坐知王(407~421)||
|407|||新羅、春三月 倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を攻める。||
|408|||新羅、春二月、王は、倭人が対馬島に軍営を設置し、兵器・武具・資財・食糧を貯え、我が国を襲撃することを企てているとの情報を手に入れた。倭兵が出動する前に、精兵を選んで兵站をしようと考えたが、舒弗邯の未斯品曰く「兵は凶器であり戦は危険な事です。ましてや大海を渡って他国を討伐し、万が一に勝つことができなければ、後で悔やんでも仕方ありません」王はこの意見に従った。||
|409|||倭国の使者が夜明珠を送る 厚く礼遇する(夜明珠の意不明)(-百済)||
|413|||COLOR(green):第20代 高句麗王 長寿王(413~491)||
|414|||COLOR(green):高句麗、広開土王牌(好太王)碑建立。(-百済)||
|416|||東晋から、百済王余映(腆支王)が同様に鎮東将軍百済王の号を授けられる。(-百済)&br;東晋の使者が王を鎮東将軍百済王とする(-百済)||
|417|||COLOR(green):第19代 新羅王 訥祇麻立干(417~458)||
|418|||新羅、高句麗と倭国への人質が逃げ帰った。||
|418|||倭国に白綿を送る(-百済)||
|419|||日食(-百済)||
|420|||COLOR(green):第18代 百済王 久尓王(420~427)||
|420|||久尓辛王即位クニシン(腆支王の長男)(-百済)||
|420|||宋から、百済王余映が使持節都督百済諸軍事鎮東大将軍百済王の号を授けられる。&br;「宋書」東夷百済国伝に、高句麗がほぼ遼東郡を支配し、百済が遼西郡をほぼ支配した、との記述がある。一見不自然であるが、百済は海上交通の技術に優れ、一時的に遼西郡を侵略したのではないかという。(-百済)||
|421|||COLOR(green):第7代 加羅王 吹希王(421~451)||
|421|||倭王讃421(-百済)||
|427|||COLOR(blue):高句麗、平壌遷都。 ||
|427|||COLOR(green):第19代 百済王 毘有王(427~455)||
|427|||ヒ有王即位ヒユウ(田+比、久尓辛王の長男あるいは腆支王の養子)(-百済)||
|427|||高句麗長寿王,国内城から平壌へ遷都||
|428|||倭国の使者(-百済)||
|429|||宋に朝貢(-百済)||
|430|||倭王讃?430(-百済)||
|431|||新羅、倭兵が、東の辺境に攻めて来て、明活城を包囲したが、功なくして退いた。||
|433|||COLOR(green):新羅、百済の同盟成立。||
|433|||新羅・百済同盟成立||
|433|||新羅に使者を送り和親を求む(-百済)||
|433|||''百済と新羅、高句麗に対して同盟を結ぶ''&br;高句麗の南進政策で首都(慰礼城:漢江流域)が陥落されて非常に苦しんだ百済は、首都を熊津(忠清南道の公州)と泗?(忠清南道の扶餘)に移しながら体制を整備して復興を図った。&br;高句麗の南進は韓国の南東部で成長していた新羅にも大きな脅威をあたえた。そこで、新羅と百済は高句麗の攻撃を受けた場合、互いに助け合うという羅済同盟を結んだ。結婚同盟まで発展した百済と新羅の同盟関係は高句麗の度重なる攻撃を防ぐのに大きく役立った。&br;百済と新羅は高句麗の南進政策をある程度防ぎながら国の秩序を立て直すことができた。そのようにして体制を整備して国力を強化した両国は6世紀に入ると高句麗と対抗できる実力を持つようになった。||
|434|||新羅の使者が答礼(-百済)||
|434|||履中434-437(-百済)||
|437|||反正437-439(-百済)||
|438|||COLOR(blue):羅済同盟成立。&br;COLOR(black):倭王珍438(-百済)||
|439|||允恭439-454(-百済)||
|440|||新羅、倭人が、南の辺境に侵入。夏六月にまた東の辺境を攻める。&br;日食(-百済)||
|443|||倭王済443(-百済)||
|443|||倭国王、済が宋に朝貢。安東将軍倭国王の称号を得る||
|444|||新羅、夏四月に、倭兵が金城を十日包囲して、食料が尽きて帰った。||
|447|||干ばつ 新羅への避難民(-百済)||
|451|||COLOR(green):第8代 加羅王 金至知王(451~492)||
|451|||倭王済451(-百済)||
|451|||倭国王、済 使持節都督倭新羅任那加羅慕韓六国諸軍事を加号される||
|454|||安康454-456(-百済)||
|455|||COLOR(green):第20代 百済王 蓋鹵王(455~475)||
|455|||蓋鹵王即位ガイロ(近蓋婁、ヒ有王の長男)(-百済)||
|456|||雄略456-479(-百済)||
|458|||COLOR(green):第20代 新羅王 慈悲麻立干(458~479)||
|459|||新羅、夏四月に、倭人が兵船百余隻を以って東辺を襲い、月城を囲んで進撃したが、追撃してこれを破る。||
|460|||倭王460、名不明(-百済)||
|462|||新羅、夏五月に、倭人が活開城を襲い破り、一千名を捕らえて連れ去った。||
|463|||新羅、倭人が歃良城(梁山)を攻めるも勝てずして去った。||
|468|||日食(-百済)||
|469|||高句麗に侵入(-百済)||
|472|||魏に朝貢&br;魏に高句麗の罪悪を並べ救援を乞う上表文と応答があるが&br;魏が百済を支援しなかったために朝貢をやめる(-百済)||
|475|>|>|''■中期 熊津(公州)時代(475年 ? 538年)''(-百済)||
|475||| 熊津の公山城跡(公州)  長寿王の攻撃から逃れた蓋鹵王の子、文周王は都を熊津(今の忠清南道 公州)に遷すものの、大臣に刺客を送られ、暗殺。しばらく混乱期が続きます。&br;  第24代東城王は、新羅、倭との関係を密にし、南へ領土を広げ 、百済王権と国力の回復に成果を挙げるものの、晩年は飢饉の際にも贅沢浪費をし、臣下によって暗殺されます。(-百済)&br;COLOR(green):高句麗、百済の漢山城を攻略。百済、熊津へ都を遷す。||
|475|||COLOR(green):第21代 百済王 文周王(475~477)||
|475|||高句麗が侵入し蓋鹵王を殺す&br;子の文周等は南へ逃げる(木劦満致らを伴う)(-百済)||
|475|||高句麗の長寿王が3万の兵で百済の王都漢城を包囲し猛攻した。百済の蓋鹵(がいろ)王は脱出しようとして捕らえられた。攻められる前に子の文周らを南に逃した。文周らは熊津(ゆうしん・現在の忠清南道公州邑)に都を置いた。(-百済)||
|475|||高句麗の南進により,百済漢城から熊津(公州)に遷都||
|475|||文周王即位ブンシュウ(ブン洲サンズイ+文、蓋鹵王の子)&br;新羅の援軍をつれて帰国(-百済)||
|476|||新羅、倭人が東辺を攻める。&br;耽羅国(済州島)が朝貢(-百済)||
|477|||COLOR(green):第22代 百済王 三斤王(477~479)即位サンキン(壬乞、文周王の長男 幼年につき解仇が実権)(-百済)||
|477|||新羅、倭人が兵をあげて五道に侵入したが、ついに何の功もなく帰った。||
|477|||倭王武477(-百済)||
|478|||解仇が謀反(-百済)||
|478|||大臣の解仇が刺客を放って文周王を殺し、13歳の三斤が王となる。(-百済)||
|479|||COLOR(green):第21代 新羅王 毘処麻立干(479~500)||
|479|||COLOR(green):第23代 百済王 東城王(479~501)即位トウジョウ(牟大、摩牟、文周王の弟の子)(-百済)||
|479|||解仇らが反乱を起こし、三斤王は真一族の援けを受けて解仇らを討ち取った。&br;次の東城王は、新羅との関係を緊密にし、南へ領土を広げた。(-百済)||
|480|||清寧480-485(-百済)||
|482|||新羅、五月に倭人が辺境を攻める。||
|482|||靺鞨が侵入(-百済)||
|484|||南斉に朝貢するも高句麗がこれを妨害(-百済)||
|485|||顕宗485-488(-百済)||
|485|||新羅に使者(-百済)||
|486|||新羅、夏四月に倭人が辺境を攻める。||
|488|||仁賢488-498(-百済)&br;魏の討伐軍侵入(-百済)||
|491|||COLOR(green):第21代 高句麗王 文咨明王(491~519)||
|491|||飢饉で新羅への避難民(-百済)||
|492|||COLOR(green):第9代 加羅王 鉗知王(492~521)||
|493|||新羅に妃を求める(-百済)||
|494|||新羅に侵入した高句麗軍に対し援軍(-百済)||
|495|||日食&br;高句麗の侵入に新羅が援軍(-百済)||
|498|||武烈498-507(-百済)||
|499|||干ばつ(-百済)||
|500|||COLOR(green):第22代 新羅王 智証麻立干(500~514)||
|500|||家臣が王の浪費をいさめるも聞かれず(-百済)||
|500|||新羅、春三月 倭人が長峯鎮を攻め陥した。||
|501|||COLOR(green):第24代 百済王 武寧王(501~523)即位ブネイ(斯摩、隆、東城王の第2子)(-百済)&br;COLOR(black):東城王が、加林城主に任じられたことを不満とした臣下に殺されると、武寧王が立ってこれを討った。(-百済)||
|502|||飢饉と疫病&br;高句麗を攻撃(-百済)&br;新羅,牛による耕田を始めて実施||
|502|||倭王武502(-百済)||
|503|||COLOR(green):新羅、国号と王号を定める。(アジア-新羅)||
|506|||靺鞨が侵入(-百済)||
|507|||継体507-530(-百済)||
|507|||高句麗侵入(-百済)||
|512|||百済が日本へ使節を送り、任那4県の割譲を要請し、認められる。(「日本書紀」の継体天皇6年の条)(-百済)&br;梁に朝貢&br;高句麗侵入(-百済)||
|513|||百済の将軍らと五経博士(儒教の博士)を日本に派遣し、判跛国(はへこく(はひこく)・現在の慶尚北道星州郡)が百済の己?(こもむ・現在の全羅北道南原郡と任実郡および全羅南道谷城郡)地方を奪ったので審判のうえ返還してほしいと申し出た。判跛国も珍宝を日本に献じて、己?の地を与えてくれるよう願い出たが、日本は己?と帯沙(たさ・現在の慶尚南道河東郡)を百済の領有と認めた。(「日本書紀」の継体天皇7年の条)(-百済)||
|514|||COLOR(green):第23代 新羅王 法興王(514~540)&br;COLOR(black):判跛国は帯沙と子呑(ことむ・位置不明)に城を築き、各地にのろし台を作って日本にそなえた。また、新羅にも侵入して被害を与えている。(「日本書紀」の継体天皇8年の条)(-百済)||
|515|||百済から日本への使節であった将軍らが帰国を願い出たので、物部連を伴って帰国させると、判跛国が軍備を増強しているとの情報を聞き、使節の将軍らは新羅を通って帰国させ、物部連は500人の海軍を率いて帯沙江へ行ったが判跛国軍の襲撃を受け命からがら逃げ延びた。(「日本書紀」の継体天皇9年の条)(-百済)||
|516|||日食(-百済)&br;百済は物部連らを己?で迎え入れ、多くのねぎらい物を与えた。帰国の際には、新たな五経博士を送って先の博士と交代させた。また、これとは別に百済の使節が高句麗の使節を連れて日本へ行った。(「日本書紀」の継体天皇10年の条)(-百済)||
|519|||COLOR(green):第22代 高句麗王 安蔵王(519~531)||
|520|||COLOR(blue):新羅、律令頒布。||
|520|||COLOR(green):新羅、律令を頒布、百官の広服を制定。||
|520|||新羅,律令領布,百官の公服制定||
|521|||COLOR(green):第10代 加羅王 仇衝王(521~562)||
|521|||使者を梁に送り寧東大将軍を授かる(-百済)||
|523|||COLOR(green):第25代 百済王 聖王(523~554)||
|523|||聖王即位セイ(メイジョウ、明+のぎへん+農、武寧王の子)&br;高句麗が侵入(-百済)||
|524|||梁から綏東将軍百済王を受ける(-百済)||
|525|||COLOR(green):百済、武寧王陵を築造する。||
|525|||新羅と国交を結ぶ(-百済)||
|527|||COLOR(blue):新羅、仏教公認。||
|527|||COLOR(green):新羅、仏教を公認。||
|527|||磐井の乱527(-百済)||
|529|||高句麗が侵入(-百済)||
|531|||COLOR(green):第23代 高句麗王 安原王(531~545)||
|531|||安閑531-534(-百済)||
|532|||COLOR(green):新羅、南伽耶の金宮国を併合。  ||
|532|||新羅,金海の金官伽耶を併合||
|532|||任那日本府||
|535|||宣化535-538(-百済)||
|536|||新羅,年号を使用||
|538|>|>|''■後期 泗?(扶余)時代(538年 ? 660年)''(-百済)&br;''三国時代の百済''(-百済)&br;''南扶余''(-百済)||
|538||| 泗?に遷都した聖王(「聖明王」)は、国号も「南扶余」と変えましたが 、その名は定着しなかったようです。&br; 扶余 定林寺 五重塔&br; 滅亡の傷跡を残す定林寺・五重塔  551年、聖王は、新羅・加羅諸国と連合して高句麗と戦い、旧都の漢城地方を取り戻しますが、翌年、高句麗と連合した新羅に奪われ、同盟関係にあった新羅と対立が生じます。そのため聖王は、倭国に援軍を要請、仏像・経典などを送ったのもこの時期です。聖王は、積極的に仏寺の造営をすすめ、王興寺・定林寺などの寺址が扶余で発見されています。しかし、聖王は、554年に新羅との戦いで戦死します。 その後、百済は次第に、かつての宿敵・高句麗と同盟を結ぶようになり、百済最後の王となる第31代義慈王は、執拗に新羅に攻め入ります。国際的にも孤立することとなった新羅は、善徳女王をはじめとして、唐に救援を求めるようになります。&br; はじめは新羅と百済の和平を求めていた唐ですが、百済 義慈王に和平の意思はなく、唐の3度にわたる高句麗制圧も失敗に終わると、唐は新羅と同盟を結び、百済を攻撃する方針に切り替えていきます。&br; こうして半島情勢は、「百済-高句麗」VS「新羅-唐」の対立構造となり、日本(倭国)ががどちらに着くかが外交の焦点となりました。(-百済)&br;COLOR(blue):百済、泗?(しび)遷都。||
|538|||COLOR(green):百済、王都を泗?城(扶余)に遷す。||
|538|||RIGHT:COLOR(green):百済から仏教伝来 ''538年''||
|538|||三国時代の百済&br; 三国時代の地図、5世紀終わり頃&br; By Evawen, Gzhao [GFDL or CC BY 3.0]&br;  第25代 武寧王の時代になって、ようやく百済王権の回復を見せます。しかし、次第に新羅が勢力を伸ばし、高句麗の南部(百済の北側)へと領土を拡大させていきます。 &br;  武寧王の亡き後即位した、第26代 聖王(日本書紀での「聖明王」)は、高句麗からの攻撃を受けたこともあり、538年、都を熊津から、南の 泗?(サビ)、今の扶余へ遷都しました。(-百済)||
|538|||都を熊津から泗?(しひ・現在の忠清南道扶余郡扶余邑)に遷した。錦江によって25kmくだったところで、要害の地から平野を見下ろす丘陵に移った。(百済)||
|538|||都を熊津から泗?(しひ・現在の忠清南道扶余郡扶余邑)に遷した。錦江によって25kmくだったところで、要害の地から平野を見下ろす丘陵に移った。(-百済)||
|538|||都を泗ヒ(さんずい+比)に遷都し国名を南扶餘とする&br;(所夫里とも呼び現在の忠清南道の扶餘市)(-百済)||
|538|||百済,泗ヒ城(扶余)に遷都||
|538|||百済から日本へ仏教が伝えられた。(-百済)||
|538|||百済が日本に仏教を伝えた ||
|538|||百済の聖明王,倭に仏像・経論を送る||
|539|||RIGHT:COLOR(green):聖徳太子(厩戸皇子)摂政 ''539年''||
|539|||欽明539-571(-百済)||
|540|||COLOR(green):第24代 新羅王 真興王(540~576)||
|541|||梁に使者を送り博士、仏典、匠を求めて得る(-百済)||
|545|||COLOR(green):第24代 高句麗王 陽原王(545~559)||
|545|||新羅,「国史」編纂||
|547|||日食(-百済)||
|548|||高句麗がワイ(さんずい+歳)と共に侵入、新羅援軍を得て撃退(-百済)||
|550|||高句麗を攻撃(-百済)||
|551|||百済の聖王は、新羅・加羅諸国と連合して高句麗と戦い、旧王都の漢城地方を取り戻した。(-百済)||
|552|||新羅は一転して高句麗と連合し、漢城地方を新羅に奪われた。百済と加羅(ここでは大加羅国の意)・安羅は日本に救援軍の派遣を依頼した。(-百済)&br;百済聖王30年,達率恕利斯致契が日本に仏教伝える||
|553|||新羅が百済北部を占有する&br;百済王女が新羅へ嫁する(-百済)||
|554|||COLOR(green):第26代 百済王 威徳王(554~598)||
|554|||威徳王即位イトク(昌、聖王の子)&br;高句麗が侵入(-百済)||
|554|||王自ら新羅を攻めるも敗死(-百済)||
|554|||百済の王子の余昌(よしょう・のちの威徳王)は、函山城(かんざんじょう・現在の忠清北道沃川郡沃川邑)の戦いで新羅郡を破り、勢いに乗じて新羅国内へ進撃したが、逆に新羅軍に函山城を奪われて退路を断たれて孤立した。これを救うため父の聖王が函山城を攻めたが、かえって聖王は殺されてしまった。(-百済)||
|559|||COLOR(green):第25代 高句麗王 平原王(559~590)||
|559|||日食(-百済)||
|561|||新羅を攻撃(-百済)||
|562|||加羅諸国が新羅に占領される。(-百済)||
|562|||COLOR(green):新羅、大伽耶(高霊伽耶)を滅ぼす。||
|562|||新羅,大伽耶などの加羅諸国を併合||
|567|||陳へ朝貢(-百済)||
|570|||高斉(北斉)に使者、車騎大将軍帯方郡公百済王を得る(-百済)||
|572|||敏達572-584(-百済)&br;北斉に朝貢(-百済)||
|576|||COLOR(green):第25代 新羅王 真智王(576~579)||
|577|||陳に朝貢&br;新羅が侵入(-百済)||
|578|||北周に朝貢(-百済)||
|579|||COLOR(green):第26代 新羅王 真徳女王(579~632)||
|581|>|>|''中国が隋の時代''(-百済)||
|581|||581年に隋が成立すると、高句麗と百済はすぐに 朝貢した。百済は、隋が成立すると、しきりに高句麗を討つよう要請している。(-百済)&br;隋に朝貢(-百済)||
|584|||陳に朝貢(-百済)||
|585|||用明585-586(-百済)||
|586|||COLOR(green):高句麗、長安城に都を遷す||
|587|||崇峻587-591(-百済)||
|589|||隋が陳を併合 隋の戦船が済州島に漂着し船は百済を経て帰還(-百済)||
|590|||COLOR(green):第26代 高句麗王 嬰陽王(590~618)||
|592|||推古592-628(-百済)||
|595|||高句麗の僧慧慈日本へ,聖徳太子の仏教の師となる||
|597|||百済の王子阿佐を日本に派遣する。(「日本書紀」推古天皇5年の条)(-百済)||
|598|||COLOR(green):第27代 百済王 恵王(598~599)||
|598|||恵王即位ケイ(季、聖王の第2子)(-百済)||
|598|||隋に朝貢し高句麗討伐の許諾を得る&br;高句麗が侵入(-百済)||
|599|||COLOR(green):第28代 百済王 法王(599~600)||
|599|||法王即位ホウ(宣、孝順、恵王の子あるいは威徳王の子)&br;殺生令をだし漁猟の道具を焼く(-百済)||
|600|||COLOR(green):第29代 百済王 武王(600~641)||
|600|||RIGHT:COLOR(green):遣隋使開始 ''600年''||
|600|||武王即位ブ(璋、法王の子)(-百済)||
|600|||仏寺を創建&br;聖徳太子(-百済)||
|602|||新羅を攻撃(-百済)||
|604|||RIGHT:COLOR(green):聖徳太子(厩戸皇子)、十七条の憲法を作る、冠位十二階制を施工 ''604年''||
|605|||新羅が侵入(-百済)||
|607|||RIGHT:COLOR(green):法隆寺建立 ''607年''||
|607|||隋に朝貢&br;隋の使者が倭国へゆくために百済の南路を通る(-百済)||
|611|||隋に朝貢(このとき隋は高句麗討伐の準備中で歓待される)&br;新羅を攻撃(-百済)||
|612|||COLOR(blue):高句麗、薩水大捷。||
|612|||COLOR(green):隋の煬帝、高句麗を攻撃(薩水の戦い)||
|612|||薩水大捷.高句麗の乙支文徳将軍,薩水で隋軍を撃破||
|613|||百済人味摩之,伎楽舞を日本に伝える||
|616|||新羅を攻撃(-百済)||
|618|>|>|''中国が唐の時代''(-百済)||
|618|||COLOR(green):第27代 高句麗王 栄留王(618~642)&br;COLOR(black):新羅が侵入(-百済)&br;唐が成立する。(-百済)||
|621|||唐に朝貢(-百済)||
|623|||新羅を攻撃(-百済)||
|624|||高句麗へ,唐より道教伝来||
|624|||唐に朝貢し帯方郡主百済王を得る&br;新羅を攻撃(-百済)||
|624|||百済、高句麗、新羅があいついで唐に朝貢した。(-百済)||
|625|||唐に朝貢(-百済)||
|626|||唐への使者を高句麗が妨害(-百済)||
|627|||新羅へ旧領奪回を目すも、新羅の唐への使者で中止する&br;唐の太宗が百済新羅両国へ和平の命を下す&br;百済は陳謝の使者を送る(-百済)||
|628|||新羅を攻撃(-百済)||
|629|||舒明629-641(-百済)||
|630|||RIGHT:COLOR(green):遣唐使開始 ''630年''||
|631|||唐に朝貢(-百済)||
|632|||COLOR(green):第27代 新羅王 善徳女王(632~646)&br;COLOR(black):新羅攻撃 唐に朝貢(-百済)||
|633|||新羅攻撃(-百済)||
|636|||漢江流域の孤立をねらって、新羅の独山城(どくさんじょう・現在の忠清北道槐山郡)を襲う。(百済)&br;  645年、唐が高句麗に出兵すると、新羅も呼応して出兵したが、失敗に終わり、その間に百済は新羅の西部と加羅地方を侵略した。&br;  642年、百済は、新羅の国西四十余城(秋風嶺以東、洛東江中流以西の地域か)を奪い、さらに新羅の唐への要衝路である党項城(とうこうじょう・現在の京畿道華城郡)を高句麗とともに襲い、南部の中心地である大耶城(だいやじょう・現在の慶尚南道陜川郡)を奪って、大耶州の都督(長官)品釈(ひんしゃく)夫妻を殺した。(-百済)||
|636|||唐に朝貢(-百済)||
|640|||王子を唐に派遣し国学を学ぶを求める(-百済)||
|641|||COLOR(green):第30代 百済王 義慈王(641~660)||
|641|||義慈王即位ギジ(武王の子)(-百済)||
|642|||COLOR(green):高句麗、淵蓋蘇文が権力掌握||
|642|||COLOR(green):第28代 高句麗王 宝蔵王(642~648)||
|642|||皇極642-644&br;唐の使者が帯方郡主百済王を与える(-百済)||
|642|||高句麗,淵蓋蘇文が宝蔵王を擁し権力掌握||
|642|||唐に朝貢&br;新羅を攻撃(-百済)||
|643|||高句麗と和睦し新羅を攻撃 新羅は唐に救援を求める(-百済)||
|644|||COLOR(green):唐、高句麗の攻撃を宣布(?648年)||
|644|||唐に朝貢 太宗は両国を諭す(-百済)||
|644|||唐の太宗,高句麗を攻撃(~648)||
|645|||唐が高句麗に出兵すると、新羅が呼応して出兵したが、失敗に終わり、その間に百済は新羅の西部と加羅地方を侵略した。(-百済)||
|645|||COLOR(green):高句麗、安市城の戦いで唐に勝利||
|645|||RIGHT:COLOR(green):大化の改新 ''645年''||
|645|||孝徳645-654(-百済)||
|645|||高句麗,安市城の戦いで唐軍に勝利||
|645|||唐が高句麗に出兵すると、新羅が呼応して出兵したが、失敗に終わり、その間に百済は新羅の西部と加羅地方を侵略した。(百済)||
|645|||唐が高句麗を攻めるを知って新羅を攻撃(-百済)||
|647|||COLOR(green):第28代 新羅王 真徳女王(647~654)||
|647|||新羅,世界最古の天文台,瞻星台建造||
|647|||新羅を攻めるも敗北(-百済)||
|647|||新羅王子金春秋(後の武烈王)来日||
|648|||新羅を攻めるも再び敗北(-百済)||
|651|||唐に朝貢 太宗再び諭す&br;(新羅の使者もあり太宗はその言上の理を認める)(-百済)||
|653|||倭国と国交を結ぶ&br;高句麗、靺鞨とともに新羅を攻撃(-百済)||
|654|||COLOR(green):第29代 新羅王 太宗武烈王(654~661)||
|654|||新羅,武烈王即位||
|655|||高句麗と百済の連合軍が、新羅の北部の33城を奪い、新羅は唐に救援軍を要請した。唐は遼東郡に出兵したが、大きな効果はなかった。(-百済)||
|655|||斉明655-660&br;新羅は危急を唐に知らせる(-百済)||
|658|||658~659年の唐による第3回の高句麗への出兵が行なわれるが、これが失敗に終わると、唐は百済を攻撃することにした。(-百済)||
|660|||''■百済滅亡と白村江の戦(660-663年)''&br;扶余 扶蘇山城より眺める白馬江&br; 扶蘇山城より白馬江を望む  660年、ついに唐は13万人の大軍を動員、新羅の5万の兵と連合して、百済に攻め入ります。&br;  百済軍は、黄山之原(現在の忠清南道 論山)において決戦に挑み、善戦するも新羅軍に大敗してしまいます。&br;  一方、唐軍を白江(現在の白馬江。錦江の中流 扶余付近)に引き込む作戦に出ますが、唐軍に 泗?城(扶余・扶蘇山城)を包囲されてしまいます。一時義慈王は旧都の熊津城(錦江の中流域)に脱れますが降伏し、ついに百済は滅亡したのでした。(-百済)||
|660|||660年、唐は水陸13万人の大軍を動員し、山東半島から出発し、新羅軍も5万人の兵で出陣した。新羅軍は黄山之原(現在の忠清南道論山郡)で勝利し、唐軍は白江(現在の錦江の中流扶余邑付近の別称)の伎伐浦(ぎばつぽ)で百済軍を破り、王都の泗?城(しひじょう・錦江の下流域)を攻めた。百済王はいったん旧都の熊津城(錦江の中流域)にのがれたが、皇太子らとともに降伏し、百済は滅亡した。 百済の滅亡後、664年まで、王族の福信・僧道?(どうちん)・日本へおくられていた王子豊璋などが、高句麗や日本の大和朝廷の支援を受けて執拗に唐・新羅連合軍と戦っている。日本からは3万7千人余りの軍を送り(百済)||
|660|||COLOR(blue):百済が、新羅と唐によって滅ぼされる。||
|660|||COLOR(green):新羅と、唐と連合して百済を滅ぼす||
|660|||新羅、唐と連合した百済を滅ぼした||
|660|||新羅・唐の連合軍により百済滅亡||
|660|||唐は13万の軍を率い新羅も5万をもってこれに従う(-百済)||
|660|||百済が、新羅と唐によって滅ぼされる。||
|661|||COLOR(green):第30代 新羅王 文武王(661~681)||
|661|||COLOR(green):第31代 百済王 豊璋王(661~663)||
|661|||天智661-670&br;義慈王は籠城戦と白江で迎え撃つの2案を議する&br;百済軍敗北(-百済)||
|662|||白村江の戦い.新羅・唐軍に倭軍大敗||
|662|||扶餘豊(王)が残兵を率いて戦う&br;唐新羅連合軍は救援の倭軍の軍船400艘を白江に焼く&br;百済軍と倭軍は唐に降伏し、扶餘豊は行方不明となる&br;唐の高宗は扶餘隆を都督とする(-百済)||
|663|||錦江河口で2日間にわたって唐・新羅の連合軍と戦ったが大敗した。古名をとって、「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」と呼ばれる。(百済)||
|663|||COLOR(green):新羅、唐の連合軍、日本軍を白村江で撃退(白村江の戦い)||
|663|||新羅、倭国の水軍が来て、百済を助ける。||
|663|||白村江の戦い ||
|663|||''白村江の戦い 錦江河口付近''&br; 白村江?錦江河口付近(群山) 百済の滅亡後も、百済の遺臣たちは百済復興を願い、各地で抵抗を続け、人質として日本へおくられていた百済の王子豊璋も、高句麗や日本(斉明天皇、中大兄皇子ら)の支援を受けて、唐・新羅連合軍と戦いますが、内部分裂を起こしてしまいます。&br;日本(倭国)からも、3万7千人余りの軍が送られ、豊璋らとともに、663年、「白村江」(今の錦江?)の河口付近で、唐・新羅の連合軍と戦いますが、結果、大敗に終わりました。日本史上の「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」です。(-百済)||
|664||| 百済の滅亡後、664年まで、王族の福信・僧道?(どうちん)・日本へおくられていた王子豊璋などが、高句麗や日本の大和朝廷の支援を受けて執拗に唐・新羅連合軍と戦っている。日本からは3万7千人余りの軍を送り、663年に、錦江河口で2日間にわたって唐・新羅の連合軍と戦ったが大敗した。古名をとって、「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」と呼ばれる。(-百済)||
|665|||扶餘隆が新羅と盟誓を結ぶ(-百済)||
|668|||COLOR(blue):高句麗が、新羅と唐によって滅ぼされる。||
|668|||COLOR(green):新羅、唐と連合して高句麗を滅ぼす||
|668|||高句麗が、新羅と唐によって滅ぼされる。 ||
|668|||高句麗滅亡||
|668|||百済滅亡についで、唐・新羅連合軍は、668年に高句麗を滅ぼし、これによって三国時代は終わり、統一新羅の時代がはじまりました。(-百済)||
|670|||新羅、十二月 倭国が国号を日本と改めた。自ら言うところでは、日の出る所に近いから、これをもって名としたとの事である。||
|671|||弘文671-672(-百済)||
|672|||RIGHT:COLOR(green):壬申の乱が起こる ''672年''||
|673|||天武673-685(-百済)||
|676||| 新羅、半島を統一  ||
|676|||676-679 扶餘隆高句麗にて死去&br;唐の則天武后はその孫に高句麗(百済)王を名乗らせるが領土なく絶える(-百済)||
|676|||COLOR(blue):新羅が、唐を追い出し、三国を統一することになる。ここに統一新羅が誕生する。||
|676|||COLOR(green):新羅、三国統一||
|676|||新羅,三国統一.高句麗の北半分唐の領土となる||
|676|||新羅が、唐を追い出し、三国を統一することになる。ここに統一新羅が誕生する。 統一新羅時代||
|676|>|>|''朝鮮半島、三国時代~新羅による朝鮮統一~''&br; 紀元前108年より長きに渡る中国勢力からの支配を受けていた朝鮮。しかし、それも中国東北地方から出た民族が建てた国、高句麗により中国勢力の拠点、楽浪郡が滅ぼされると(313年)朝鮮半島内における激しい争いの幕開けとなります。朝鮮半島の南にある小国は、まとまり始め百済、新羅が誕生。朝鮮半島の三国時代の始まりです。  &ref(image1201.jpg,nolink,画像の説明);    さぁ、上の図を見れば圧倒的に有利なのは高句麗ですね。4世紀後半、高句麗は中国の東北地方から朝鮮半島の北の大半を領土とし全盛期を迎えます。   しかし、これは中国にとってはやっかいです。これ以上、高句麗には力をつけて欲しくはないところ・・・。6世紀後半から7世紀前半に高句麗は、中国(隋・ずい)から再三に渡って攻撃を受けることになります。ですが、この頃の高句麗は超つよく、その攻撃をすべて跳ね返す!   ですが、その頃、南で着実に勢力を伸ばしている国がありました。新羅です。新羅は、地図を見ればわかるように朝鮮半島の東側だから中国からは遠い。ということは、中国にとって新羅は直接の脅威ではなかったわけです。新羅は、中国との良好な関係を保ちながら、百済、高句麗の領土を削っていきます。   この新羅の勢力拡大に脅威を抱いた高句麗は百済と同盟を結ぶことになります。6世紀後半のことです。   高句麗は、隋からの攻撃を受けながら、新羅の動きにも目を光らせていなければならなかった訳ですね。   そして、中国でも大きな動きが起こります。隋が滅び、かわり唐が中国を支配しました。この唐と新羅は同盟を結ぶことになります。660年のことです。   唐と手を組んだ新羅はさっそく連合軍を率いて百済を滅亡(660年8月)。この戦いは、日本も大きく関わっています。白村江の戦い(はくすきのえ・はくそんこうのたたかい)です。日本は百済を助ける為に大軍を送り込みますが、残念ながら敗退します。  :''668年'' そして、新羅は高句麗も滅ぼしました。||
|676|>|>|''統一新羅と後三国時代[676~918年]''&br; 新羅は骨品制〔こっぴんせい〕という貴族制度を通して王権を強化した。華やかな文化が花開いた。手工業や商業が活発になり、絹織物、金銀細工、螺鈿漆器、人参などを唐や日本に輸出して富を得た。  末期には、王権が弱くなり地方では豪族勢力が成長して、後高句麗、後百済などという国をたて、ふたたび三国が鼎立することになった。||
|676|>|>|''統一新羅時代(676ー935)''&br;統一後の新羅は文化・芸術の興隆に努め、特に仏教文化はこの時期に黄金期を迎えます。しかし、貴族層の間での覇権争いにより次第に国力が衰退していき、結局935年に高麗に併合されてしまいました。    しか~し!百済、高句麗を滅ぼした新羅。この新羅が今度は唐にとっては目障りです。なんと、共に戦った新羅と唐が戦争状態になります。670年のことです。この争いは6年続きます。||
|676|||平壌(ぴょんやん)に設置されていた唐の安東都護府(あんとうとごふ)が遼陽(りょうよう)まで撤退するとCOLOR(blue):新羅による朝鮮半島の統一COLOR(black):が達成されました。当時の国王は文武王(ぶんぶほう)です。||
|681|||COLOR(green):第31代 新羅王 神文王(681~692)||
|682|||新羅,国学を設立.博士と助教を決め儒学を教える||
|685|||COLOR(blue):九州五小京設置||
|685|||九州五小京設置.中央集権的地方統治制度を作り,地方を支配||
|686|||持統686-696(-百済)||
|687|||COLOR(green):新羅、九州五京の郡県制を確率||
|692|||COLOR(green):第32代 新羅王 孝昭王(692~702)||
|697|||文武697-700(-百済)||
|698|||COLOR(red):高句麗の将軍出身の大祚栄,震国(後の渤海)建国||
|698|||新羅、三月に日本国から使臣が来たので、王は崇礼殿で引見した。||
|698|||中国の唐の内政混乱に乗じて、営州に強制移住させられていた高句麗の遺民たちが、大祚栄(テジョヨン)の指揮の下、旧高句麗の地に帰還し、震国を建国する。幾たびか唐の討伐を凌ぎつつ勢力を拡大し、ついに、713年、唐に独立を認めさせ、渤海(パレ)が誕生した。 渤海は、926年の滅亡まで、200年余り続いた。 ||
|698|>|>|''南北国時代(698ー918)''&br;COLOR(blue):南北国時代(698ー918)||
|698|>|>|''渤海(698年-926年)- 高句麗の滅亡後、遺民らが建国した国家''&br;  :''698年'' COLOR(green):高句麗、大祚栄、渤海国を建国  :''698年'' 中国の唐の内政混乱に乗じて、営州に強制移住させられていた高句麗の遺民たちが、大祚栄(テジョヨン)の指揮の下、旧高句麗の地に帰還し、震国を建国する。幾たびか唐の討伐を凌ぎつつ勢力を拡大し、ついに、  COLOR(blue):渤海の建国   #style(class=box_black_swm){{ ''震国(696ー)'' ''渤海(713ー926)''  渤海は高句麗が滅びる頃に誕生しました。渤海は、高句麗の将軍である大祚栄が高句麗の難民たちからなる兵士たちと共に建国した国です。一時期は、中国の北東地域までを占める領土を有するほどの国力を保持していました。その当時、中国の唐は渤海を「海の東に隆盛した国(海東盛国)」と呼ぶほどでした。渤海は高句麗のかつての領土を回復し、高句麗を継承した国であるという点で歴史的に重要な意味を持っています。  }}  RIGHT:COLOR(green):大宝律令制定 ''701年''  RIGHT:COLOR(green):平城京遷都 ''710年''  :''713年'' 大祚栄は713年に唐から渤海国王に冊封され、それ以後震国は渤海国を国号とした。  渤海(パレ)は、926年の滅亡まで、200年余り続いた。  RIGHT:COLOR(green):渤海使来朝 ''727年''  :''788年'' COLOR(green):新羅、読書三品科を設ける  RIGHT:COLOR(green):平安京遷都 ''794年''  RIGHT:COLOR(green):最澄、空海が入唐 ''804年''  :''828年'' COLOR(blue):張保皐、清海鎮設置||
|702|||COLOR(green):第33代 新羅王 聖徳王(702~737)||
|703|||新羅、日本国から使臣が来たが、みんなで二百四名であった。||
|713|||国号を震国から渤海へと改める||
|718|||漏刻(水時計)製作||
|719|||大祚栄死去||
|722|||新羅,農民に丁田支給.官吏に官僚田支給し税を納めさせる||
|722|||新羅、日本の賊の路を遮断した。||
|731|||新羅、日本国の兵船三百隻が海を越えて、東辺を襲う。||
|737|||COLOR(green):第34代 新羅王 孝成王(737~742)||
|742|||COLOR(green):第35代 新羅王 景徳王(742~765)||
|742|||新羅、日本の国使が来たが、これを受け付けなかった。||
|751|||仏国寺と石窟庵を建立||
|753|||新羅、秋八月に日本国使が来た。高慢無礼と判断し、王は接見しなかった。||
|765|||COLOR(green):第36代 新羅王 恵恭王(765~780)||
|780|||COLOR(green):第37代 新羅王 宣徳王(780~785)||
|785|||COLOR(green):第38代 新羅王 元聖王(785~798)||
|788|||新羅,学問の成績により官吏を任命する読書三品科設置.||
|799|||COLOR(green):第39代 新羅王 昭聖王(799~800)||
|800|||COLOR(green):第40代 新羅王 哀荘王(800~809)||
|802|||新羅、冬十二月、均貞に大阿?の官を授けて、仮の王子にして、日本国への人質にしようとしたが、均貞がこれを断った。||
|802|||入唐僧の順応と理貞により慶尚南道に海印寺創立||
|804|||新羅、夏五月 日本国が使臣を派遣して、黄金三百両を進上した。||
|806|||新羅、春三月 日本国使臣が来たので、王は朝元殿で引見した。||
|808|||新羅、春二月に日本国の使臣が来た。王は厚い礼で、これを待遇した。||
|809|||COLOR(green):第41代 新羅王 憲徳王(809~826)||
|826|||COLOR(green):第42代 新羅王 興徳王(826~836)||
|828|||新羅の張保皐,清海鎮設置.南海と黄海の海上交通を支配.貿易独占||
|834|||百官の服色制度公布.冠帽や服装の型,色,形によって官位を見分ける||
|836|||COLOR(green):第43代 新羅王 僖康王(836~838)||
|838|||COLOR(green):第44代 新羅王 閔哀王(838~839)||
|839|||COLOR(green):第45代 新羅王 神武王(839)||
|839|||COLOR(green):第46代 新羅王 文聖王(839~857)||
|857|||COLOR(green):第47代 新羅王 憲安王(857~861)||
|861|||COLOR(green):第48代 新羅王 景文王(861~875)||
|864|||新羅、夏四月に日本国の使臣が来た。||
|875|||COLOR(green):第49代 新羅王 憲康王(875~886)||
|879|||新羅、八月に日本国の使臣が来た。王はこれを朝元殿で引見した。||
|882|||新羅、夏四月に日本国王が使臣を派遣して、黄金三百両と明珠十箇を進上した。||
|886|||COLOR(green):第50代 新羅王 定康王(886~887)||
|887|||COLOR(green):第51代 新羅王 真聖女王(887~897)||
|888|||新羅,歴代の郷歌を集めた「三代目」編纂||
|892|>|>|''後三国時代(892年 - 936年)''||
|892|>|>|''後百済 (892年-936年)''||
|894||>|RIGHT:COLOR(green):遣唐使廃止 ''894年''||
|894|||後高句麗(894年-918年)→高麗&br;9~10世紀頃 繁栄を誇った新羅であるが、8世紀末頃から王都内で反乱や内紛が相次ぎ、加えて農民たちの蜂起もあって、新羅朝廷の統治能力は、弱体化していた。9世紀 地方の豪族達も反乱を起こし、新羅の政権から離脱していった。中でも、甄萱(キョオヌウォン)、梁吉(ヤンキル)、弓裔(クンイェ)らが有力な勢力であった。  そして、これらの勢力によって、新羅は、3つに分裂することになる。900年 即ち、甄萱がにCOLOR(blue):後百済を建国COLOR(black):し、弓裔は898年に後高句麗を建国したのである。||
|894|>|>|''後高句麗[894年-918年]''→高麗||
|896|>|>|COLOR(green):''甄萱が後百済を建国''||
|896|||王建,弓裔に帰服しその部将となる||
|896|||赤袴の乱.真聖女王10年,王都西部で民乱起こる||
|897|||COLOR(green):第52代 新羅王 孝恭王(897~912)||
|900|||*9~10世紀頃 繁栄を誇った新羅であるが、8世紀末頃から王都内で反乱や内紛が相次ぎ、加えて農民たちの蜂起もあって、新羅朝廷の統治能力は、弱体化していた。 9世紀になると地方の豪族達も反乱を起こし、新羅の政権から離脱していった。中でも、甄萱(キョオヌウォン)、梁吉(ヤンキル)、弓裔(クンイェ)らが有力な勢力であった。 そして、これらの勢力によって、新羅は、3つに分裂することになる。 即ち、甄萱が900年に後百済を建国し、弓裔は898年に後高句麗を建国したのである。 ||
|900|||COLOR(red):甄萱,後百済建国.現在の全羅道と忠清道を支配||
|901|||COLOR(blue):後高句麗を建国||
|901|||COLOR(green):弓裔,後高句麗建国||
|901|||COLOR(red):弓裔,後高句麗建国.(後三国時代のはじまり)||
|901|>|>|''後高句麗建国''||
|911|||弓裔,国号を泰封とする||
|912|||COLOR(green):第53代 新羅王 神徳王(912~917)||
|917|||COLOR(green):第54代 新羅王 景明王(917~924)||
|918|||9世紀になると新羅は内紛のため分裂状態となり、918年に後高句麗の将軍王建が高麗をたて、朝鮮半島を統一した。高麗は仏教を保護し、唐と宋の制度を取り入れて栄えた。||
|918|||COLOR(red):王建,弓裔を追放し高麗建国||
|918|||こうして、新羅、後百済、後高句麗の3国が鼎立する中で、弓裔の下にいた王建(ワンゴン)は、傲慢な弓裔を滅ぼし、  新たにCOLOR(blue):高麗(コリョ)を建国COLOR(black):し、自ら王を名乗る。  王建は、次第に地方の豪族たちをまとめあげ、||
|918|||王建、弓裔を退けて高麗を建国する。||
|918|||高麗を建てた。 ||
|918|>|>|''高麗王朝[918~1392年]''&br; 中国の科挙制度が導入され、儒教を統治思想として中央集権的な体制が整備された。||
|918|||高麗時代(918ー1392)''&br;高麗・・・モンゴル人→女真人→満州人 高麗は、918年に建国されました。この時期、国教として定められていた仏教は、政治と文化に大きな影響を及ぼしながら更に発展しました。高麗青磁やユネスコ世界文化遺産にも指定されている八万大蔵経、直指心経などの重要な遺産もこの時期に作られました。特に、直指心経は世界最初の金属活字で印刷された仏教経典で、グーテンベルク聖書よりも78年前に作られたものです。そんな高麗も14世紀後半からは次第に国力が衰えていきました。  676年に新羅によって朝鮮半島初の統一がなされますが、8世紀末から9世紀まで王位継承の争いが起こり、地方でも農民が反乱を起したり、飢饉に見舞われたりと新羅は国力を失っていきます。 そんな中、有力な豪族たちが新羅を分裂させ国を建国していきました。後三国時代といわれる時代です。 この争いを制したのは高麗。高麗は935年に新羅を併合すると、936年には後百済を滅ぼし朝鮮半島を統一しました。 高麗の建国者は王建(おうけん)。首都は開城(かいじょう)です。 この高麗。現在、韓国のことをKoreaといいますよね。これは、高麗を表すKoryoが変化したものだといいます。当時、高麗は青磁(せいじ)という陶磁器を輸出し世界に名を知られることになりましたので、この高麗のイメージが強かったのでしょうね。 また、高麗は日本ともちょっと因縁があります。そう元寇です。 高麗は1259年にフビライ=ハンの率いるモンゴル(元)軍の侵攻により属国となります。これに対して、高麗は三別抄(さんべつしょう)と呼ばれる選抜部隊が奮闘し対抗するのですが、これも1273年には完全に鎮圧されてしまいます。そして、1274年には元により高麗水軍を前面に立てた日本攻撃が始まるのです。文永の役ですね。さらに1281年には再び日本に攻めてきます。弘安の役です。 この高麗は、1356年に元から独立しますが、同時期に頻繁に発生していた倭寇(わこう・海賊)に悩まされ、高麗は徐々に衰退していくことになります。 中国の科挙制度が導入され、儒教を統治思想として中央集権的な体制が整備された。||
|918|||中世社会 ?(~1392)||
|919|||開城に都をおいた||
|919|||高麗,開城を都に定める||
|924|||COLOR(green):第55代 新羅王 景哀王(924~927)||
|926|||COLOR(blue):渤海滅亡||
|926|||契丹、渤海を滅ぼす||
|926|||契丹により,渤海滅亡||
|926|||渤海を滅ぼした北方民族契丹(きったん)は、急速に勢力を強め、高麗との国境付近まで版図を広げ、||
|927|||COLOR(green):第56代 新羅王 敬順王(927~935)||
|935|||高麗は新羅を併合し、COLOR(blue):新羅滅亡COLOR(black):そして、||
|935|||新羅の敬順王,高麗に投降し新羅滅亡||
|935|||新羅の敬順王が高麗に降り新羅滅亡||
|935|||新羅を降伏させた||
|936|||こうして、新羅、後百済、後高句麗の3国が鼎立する中で、弓裔の下にいた王建(ワンゴン)は、傲慢な弓裔を滅ぼし、918年、新たに高麗(コリョ)を建国し、自ら王を名乗る。 王建は、次第に地方の豪族たちをまとめあげ、935年には、新羅を併合、そして、936年には、後百済を滅ぼして、高麗が、半島の再統一をなしとげる。このときの首都は、開城(ケソン)におかれた。 高麗時代 ||
|936|||後百済を滅ぼし、半島を統一||
|936|||後百済を滅ぼして、高麗が、半島の再統一(COLOR(blue):後三国統一)をなしとげる。このときの首都は、開城(ケソン)におかれた。||
|936|>|>|''高麗,後百済を滅ぼし後三国統一''||
|936|||高麗、後百済を滅ぼして朝鮮半島を再統一||
|956|||もともと官民でありながら奴婢になった者を開放させる,奴婢按検法実施||
|956|||奴婢按検法を実施||
|958|||COLOR(blue):科挙制実施||
|958|||科挙制度を実施||
|958|||光宗の代,実力本位で官吏を採用する,科挙制度実施||
|976|||田柴科実施.地位により田地と柴地に差異を設けて分ける||
|976|||田柴科制度を実施||
|983|||COLOR(blue):十二牧設置||
|983|||全国に十二牧設置,三省,六部,七寺を定める||
|992|||中央に国子監設置.地方に郷校設置し儒学など強化||
|993|||1019年 実に数次にわたって、高麗に侵攻してきた。 だが、高麗は、これらの侵攻をことごとく撃退してしまうと、やがて、契丹の目は西方に向き、やがて、高麗は安定を取り戻す。||
|993|||926年、渤海を滅ぼした北方民族契丹(きったん)は、急速に勢力を強め、高麗との国境付近まで版図を広げ、993年から、1019年まで、実に数次にわたって、高麗に侵攻してきた。 だが、高麗は、これらの侵攻をことごとく撃退してしまうと、やがて、契丹の目は西方に向き、やがて、高麗は安定を取り戻す。 ||
|993|||契丹が何度も侵入し、高麗と激しい戦闘を繰り返した。契丹が西に去ると今度は女真が台頭し金を建国した。高麗は、金に朝貢して国内を安定させた。||
|993|||契丹が高麗に侵攻||
|993|||契丹の第一次侵攻.高麗国境を襲う.和約を結ぶ||
|996|||朝鮮における最初の鋳造貨幣,鉄銭(乾元重宝)の鋳造||
|998|||品階(階級)制を布く.王侯貴族,文武臣,僧侶など18科に分ける||
|1009|||康兆の政変.武臣の康兆が王権交代を図る.後に契丹に殺される||
|1019|||COLOR(blue):亀州大捷||
|1019|||RIGHT:COLOR(green):刀伊(女真族)の侵入 ''1019年''||
|1019|||帰州大捷.契丹軍,開京付近まで侵攻するが,帰州で敗退||
|1019|||姜邯賛が契丹を破る(亀州の戦い)||
|1076|||田柴科改定,官制改革.文武官僚の地位にしたがって柴地を与える||
|1086|||義天,教蔵都監を設置して「続蔵経」を組み版||
|1087|||「高麗大蔵経」完成||
|1097|||鋳銭都監設置.災害などの貧民救済に備える||
|1102|||海東通宝鋳造.農業中心社会のため広く流通せず||
|1107|||COLOR(blue):尹?、女真征伐||
|1107|||尹グァン,別武班を率いて女真征伐||
|1126|||COLOR(blue):李資謙の乱||
|1126|||李資謙の乱.門閥社会が進んだ結果の権力争い||
|1127|||地方郡県に国立の儒学校,郷校設立||
|1129|||李資謙の乱が起こる||
|1135|||COLOR(blue):西京遷都運動||
|1135|||妙清の西京遷都運動.金富軾の官軍に鎮圧される||
|1135|||妙清の乱が起こる||
|1145|||金富軾らが「三国史記」を編纂||
|1146|||第四代国王世宗がハングル(訓民正音)を制定するも集賢殿の副提学であった雀萬理は昔から、中華の土地では風土が異なってる方言を文字にした例はないと批判。これに対し世宗は「これは文字ではないので中華に対しての反逆ではない。訓民正音である。」訓民正音とは愚かな民に発音を教える記号。||
|1147|||同性婚,近親婚を禁止||
|1156|||RIGHT:COLOR(green):保元の乱 ''1156年''||
|1159|||RIGHT:COLOR(green):平治の乱 ''1159年''||
|1167|||RIGHT:COLOR(green):平氏の全盛、平清盛太政大臣になる ''1167''http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png||
|1170|||COLOR(blue):武臣政変||
|1170|||鄭仲夫ら武臣が政権を奪取||
|1170|||武臣政変.文臣中心から武臣政権になり,権力争い起こる||
|1171|||武人たちがクーデター ||
|1176|||公州(忠南道)鳴鶴所の亡尹・亡所尹が公州占領する民乱||
|1179|||慶大升,都房(私兵集団)政治||
|1182|||全州(全羅南道)民乱.官奴が中心になり州の官吏を襲撃||
|1185|||RIGHT:COLOR(green):平氏滅亡 ''1185''http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png||
|1192|||RIGHT:COLOR(green):源頼朝征夷大将軍となる ''1192''http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png||
|1196|||崔忠献、武臣政権を奪取(~1258)&br;崔忠献執権.慶大升死後政権を執る||
|1198|||万積の乱.公私奴隷開放をかかげ開京で乱を起こそうとして失敗||
|1219|||RIGHT:COLOR(green):北条氏の執権政治始まる ''1219''http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png||
|1219|||蒙古と通交||
|1221|||RIGHT:COLOR(green):承久の乱 ''1221''http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png||
|1224|||モンゴル使臣が高麗内で遭難する事件が発生するや、急速に関係が悪化、国交を断絶する。モンゴルによる高麗への侵入がはじまり、首都を江華島に移す。 徹底抗戦するも、数度にわたるモンゴル侵入で、高麗はすっかり疲弊し、結局、||
|1231|||COLOR(blue):モンゴルの侵入COLOR(black):が始まった。高麗は都を江華島に移して抗戦したが、国土はモンゴル軍に蹂躙された。&br;COLOR(blue):モンゴル侵入  北方でモンゴル帝国が台頭する。高麗はモンゴル帝国と平和的な関係を維持してきたが、&br;COLOR(black):モンゴルが高麗に侵攻&br;北方でモンゴル帝国が台頭する。高麗はモンゴル帝国と平和的な関係を維持してきたが、1224年、モンゴル使臣が高麗内で遭難する事件が発生するや、急速に関係が悪化、国交を断絶する。モンゴルによる高麗への侵入がはじまり、首都を江華島に移す。 徹底抗戦するも、数度にわたるモンゴル侵入で、高麗はすっかり疲弊し、結局、1259年、高麗はモンゴルに服属することになる。 &br;蒙古の使者殺害を機に,蒙古が高麗へ第一次侵入.講和を結ぶ||
|1232|||RIGHT:COLOR(green):貞永式目制定 ''1232''http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png||
|1232|||江華島に遷都.蒙古と戦う&br;崔氏政権、王都を開京から江華島に遷す||
|1234|||西洋より200年も早く金属活字で「詳定古今礼文」刊行(現存しない)||
|1236|||高麗大蔵教(経・律・論など三蔵の仏教経典の総称)刻印(木版印刷)(~1251)&br;高麗大蔵経の製作を開始する||
|1258|||崔氏政権が崩壊||
|1259|||高麗,蒙古軍に降伏&br;高麗はモンゴルに服属することになる。&br;高麗はモンゴル帝国に服属し、30年に及ぶ抵抗は終わった。  元の属国となった高麗は、二度の日本侵攻(元寇)の前線基地となり、多大な負担を強いられた。&br;高麗王朝、モンゴルに降伏||
|1270|||COLOR(blue):開京遷都&br;COLOR(black):三別抄(精鋭軍隊)の対蒙抗争.開京遷都に反旗を翻すが失敗&br;武臣政権が終わり、開京に再遷都。三別抄の戦い始まる。&br;蒙古と講和を結び,開京遷都||
|1274|||RIGHT:COLOR(green):文永の役・水際撃退 ''1274''http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png||
|1274|||モンゴル軍と高麗軍が日本へ侵略&br;一方モンゴルのグビライは、日本を服従させようとして、2度にわたり、日本侵攻を行ったが失敗した。 このとき、高麗は全線基地としての役割を命じられるが、多大な負担を強いられた。 (~1281)&br;高麗と元の第一次日本侵略%%征伐%%(文永の役)||
|1281|||RIGHT:COLOR(green):弘安の役・艦隊決戦 ''1281''http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png||
|1281|||モンゴル軍と高麗軍が再び日本侵略&br;元の第二次日本侵略(弘安の役).暴風雨に遭い撤退||
|1304|||安コウの主張により国学に大成殿設置||
|1314|||萬巻堂設置||
|1333|||RIGHT:COLOR(green):鎌倉幕府滅亡 ''1333''http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png||
|1338|||RIGHT:COLOR(green):室町幕府成立 ''1338''http://www.0o0d.com/img/flags/16/Japan.png||
|1350|||倭寇の動きが活発化し、また紅巾賊に都を占拠される事件も発生した。||
|1356|||COLOR(blue):双城摠管府回復&br;COLOR(black):恭愍王、反元(モンゴル)運動を開始||
|1359|||紅巾賊(明の成立の契機となった宗教的農民反乱軍)の侵入(~1361)||
|1363|||文益漸,元から木綿の種を伝え,衣生活に大革新をもたらす||
|1364|||高麗,倭冦対策で倭人万戸府設置||
|1376|||崔瑩,倭冦征伐||
|1377|||「直指心経」印刷.世界最初の金属活字本として公認&br;崔茂宣の建議で火薬武器製造(火トゥ都監設置)||
|1380|||李成桂,倭冦討伐||
|1388|||COLOR(blue):威化島回軍  武人李成桂はクーデターを興して政権を掌握すると、親明派の支持を受けて体制を固め、&br;COLOR(black):威化島回軍.李成桂反対派の崔瑩を除去.昌王を王位に就ける&br;李成桂、威化島で引き返して政権を奪う(威化島回軍)&br;14世紀に入り元が衰え始めると、高麗は元と断交し、北方を奪還して、モンゴル侵入以前の領域を回復する。 一方、活発化してきた倭寇に苦しむことになる。しかし、高麗軍の有力武将らが、次第に倭寇に打撃を加え、その脅威は減少する。 やがて、中国が明に変わると、高麗内で親元派と親明派との抗争が絶えなかった。1388年、武人李成桂はクーデターを興して政権を掌握すると、親明派の支持を受けて体制を固め、1392年、自ら即位し李氏朝鮮を興し、ここに、高麗は、474年の幕を下ろすことになった。 ||
|1389|||李成桂一派により,昌王廃位恭譲王即位&br;倭冦の拠点である対馬征伐||
|1392|||朝鮮の歴史 朝鮮半島の歴史/1392||
|1392|>|>|''朝鮮王朝[1392~1910年]''&br; 15世紀に権力構造が改編され、中央集権体制が強化された。||
|2009|>|>| LINK 縄文と古代文明を探求しよう! ≫ NHKスペシャル「日本と朝鮮半島2000年」第2回放映(2009年6月17日付)(-百済)||
|2012|>|>|【LINK】&br; LINK 水.土壌.心の汚染や、アジア太平洋の利権を現場で考え真実を伝える ≫ 朝鮮半島南部の前方後円墳&任那日本府&ヒスイ製勾玉は糸魚川のみ産地(2012年3月17日付)(-百済)||
|2013||| *** [#d48af428] http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-2/ad346a.htm ---- http://www.iokikai.or.jp/kodai.kudara.html ---- http://www.nikomaru.jp/korea/krtour/krtour_baekjehistory ---- http://www.geocities.jp/mb1527/N3-19-4kudarasaiken.html (-百済)||
|2013|>|>|LINK News U.S. 中国・韓国・在日朝鮮人崩壊ニュース ≫ 韓国人「日本人は百済系だからウリ達と兄弟ニダ!!」 ← バカ  今の韓国人は百済とは何の関係もなし!!!!! そもそも日本は百済を統治する立場に!!!!! 劣等遺伝子民族は真の歴史を知り発狂憤死すべきである!!!! 2ch「天皇が半島の子孫なら、なぜ『日王』などと呼ぶのか。嘘と妄想と手のひら返しを繰り返しすぎだろ」(2013年5月1日付)&br;  このサイトのコメントとして、次の記述がある。太字は、当サイト管理人による。&br; 『★現天皇のゆかり発言で有名になった桓武天皇の母親の高野新笠の系図&br; 武寧王[461年日本生まれ第25代百済王(在位501-523年)]&br; 純陀太子  在日1世(日本に人質に)&br; 斯我君   在日2世&br; 法師君   在日3世&br; 雄蘇利紀君 在日4世&br; 和史宇奈羅 在日5世(和氏に改名して日本に帰化)&br; 和史粟勝  在日6世&br; 和史浄足  在日7世&br; 和史武助  在日8世&br; 和史乙継  在日9世(娘を天皇家に嫁がせて高野姓を賜る)&br; 高野朝臣新笠 在日10世―桓武天皇[第50代天皇(在位781-806年)]&br; ・・・つまり桓武天皇の母親の高野新笠は10代前に渡来し、6代前に日本に帰化した百済系10世なのです。&br; 彼女の百済系の割合は1/(2^10)=0.00098。パーセントにすると0.098%となります。&br; 逆に日本系の割合は99.902%で、血筋から見ても帰化している事から見ても正真正銘の日本人です。&br; ましてや125代の今上天皇との関係は「0」と言って差し支えありません。&br; また「百済≠韓国」である事も強調しておきます。&br; さらに「武寧王の父の東城王は日本(倭)からやって来た」と韓国の古文書に書かれている事も付け加えておきます。&br; そして桓武天皇が即位したのは781年・・・つまり660年百済滅亡の121年後なのです。百済の政治的な関わりは「0」です。 』(-百済)||
|552|||COLOR(blue):百済、日本に仏教を伝える&br;&br;COLOR(black):『日本書紀』によると、日本に仏教が伝来したのは飛鳥時代、552年(欽明十三年)に百済の聖明王から釈迦仏の金銅像と経論他が贈られた時だとされている。しかし、現在では『上宮聖徳法王帝説』(聖徳太子の伝記)や『元興寺伽藍縁起』(元興寺の成り立ち・変遷を記述したもの)を根拠に538年(宣化三年)に仏教が伝えられたと考えられ、歴史の教科書にも538年が掲載されている||
|1174|||COLOR(blue):鄭仲夫、政房設置(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|502|||COLOR(blue):新羅、牛耕実施(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|503|||COLOR(blue):新羅、国号と王号を定める(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|536|||COLOR(blue):新羅、年号使用(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|834|||COLOR(blue):百宮の服色制度の公布(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|996|||COLOR(blue):鉄銭(乾元重宝)の鋳造(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|313|||COLOR(blue):高句麗、楽浪郡を滅亡させる(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|372|||COLOR(blue):高句麗、仏教伝来、大学設置(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|372|||COLOR(blue):百済、東晋に使節を送る(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|384|||COLOR(blue):百済、仏教伝来(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|405|||COLOR(blue):百済、日本に漢学伝える(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|427|||COLOR(blue):高句麗、平壤遷都(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|520|||COLOR(blue):新羅、律令領布、百官の公服を制定(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|527|||COLOR(blue):新羅、仏教%%を%%公認(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|538|||COLOR(blue):百済、都を泗?城に移す(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|545|||COLOR(blue):新羅、国史編纂(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|552|||COLOR(blue):百済、日本に仏教を伝える(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|612|||COLOR(blue):高句麗、薩水大捷(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|624|||COLOR(blue):高句麗、唐から道教伝来(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|645|||COLOR(blue):高句麗、安市城の戦いに勝利(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|647|||COLOR(blue):新羅、瞻星台建立(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|660|||COLOR(blue):百済滅亡(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|668|||COLOR(blue):高句麗滅亡(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|676|||COLOR(blue):新羅、三国統一(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|682|||COLOR(blue):新羅、国学を建てる(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|685|||COLOR(blue):新羅、九州五小京設置(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|698|||COLOR(blue):渤海の建国(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|722|||COLOR(blue):新羅、丁田支給(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|751|||COLOR(blue):仏国寺と石窟庵%%を建てる%%の再建始まる(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|788|||COLOR(blue):新羅、読書三品科設置(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|828|||COLOR(blue):張保皐、青海鎮設置(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|888|||COLOR(blue):新羅、「三代目」編纂(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|900|||COLOR(blue):甄萱、後百済建国(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|901|||COLOR(blue):弓裔、後高句麗建国(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|918|||COLOR(blue):王建、高麗建国(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|926|||COLOR(blue):渤海滅亡(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|935|||COLOR(blue):新羅滅亡(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|936|||COLOR(blue):高麗、後三国の統一(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|956|||COLOR(blue):奴婢按検法実施(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|976|||COLOR(blue):田柴科実施(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|983|||COLOR(blue):全国に一二牧設置、三省六都を定める(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|992|||COLOR(blue):国子監設置(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|1009|||COLOR(blue):康兆の政変(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|1019|||COLOR(blue):亀州大捷(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|1076|||COLOR(blue):田柴科改定、官制改革(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|1086|||COLOR(blue):義天、教蔵都監を%%設置して%%置き「続蔵経」を%%組み版%%刻む(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|1097|||COLOR(blue):鋳銭都監設置(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|1102|||COLOR(blue):海東通宝鋳造(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|1107|||COLOR(blue):尹權、女真征伐(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|1126|||COLOR(blue):李資謙の乱(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|1135|||COLOR(blue):妙清の西京遷都運動(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|1145|||COLOR(blue):金富軾「三国史記」編纂(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|1170|||COLOR(blue):武臣政変(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|1179|||COLOR(blue):%%慶大升、都房政治%%(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|1196|||COLOR(blue):崔忠献執権(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|1198|||COLOR(blue):万積の乱(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|1219|||COLOR(blue):%%蒙古%%モンゴルと通交(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|1231|||COLOR(blue):%%蒙古%%モンゴルの第一次侵入(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|1232|||COLOR(blue):江華島に遷都(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|1234|||COLOR(blue):金属活字で「詳定古今礼文」を刊行(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|1236|||COLOR(blue):高麗「大蔵経」を%%刻印%%刻む(-1251)(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|1270|||COLOR(blue):開京に遷都(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|1270|||COLOR(blue):三別抄の対%%蒙%%モンゴル抗争(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|1274|||COLOR(blue):高麗・元の第一次日本征伐(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|1280|||COLOR(blue):%%僧一然「三国遺事」編纂%%(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|1304|||COLOR(blue):安王向の主張%%により%%で国学に大成殿%%設置%%を建てる(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|1314|||COLOR(blue):萬巻堂の設置(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|1359|||COLOR(blue):紅巾賊の侵入(-1361)(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|1363|||COLOR(blue):文益斬、元から木綿の種を%%伝える%%もたらす(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|1376|||COLOR(blue):崔瑩、倭寇征伐(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|1377|||COLOR(blue):崔茂宣の建議で火薬武器製造(火桶都監設置)(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|1377|||COLOR(blue):「直指心体要節」印刷(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|1388|||COLOR(blue):威化島回軍(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|1389|||COLOR(blue):朴威、対馬%%島%%征伐(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|433|||COLOR(blue):新羅、百済同盟成立(アジア-朝鮮)&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};||
|314|||314年~676年:晋宋梁陳隋唐(属国) &deco(silver,white,9){よいこの正しい半島歴史年表};||
|690|||690年~900年:渤海(属国) &deco(silver,white,9){よいこの正しい半島歴史年表};||

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