丙寅迫害
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【事件】丙寅教獄(朝鮮キリスト教弾圧事件) カテゴリ 歴史 事件 kmpjtkmpjt Comment(0) 現在世界各国に広まっているキリスト教。 19世紀中頃、朝鮮にて大規模なキリスト教弾圧事件が起きたのをご存知だろうか。 1866年3月に朝鮮で起こった事件であり 「丙寅教獄(ヘイインキョウゴク)」と称される。 別名:天主教大弾圧、丙寅邪獄、丙寅教難とも。 朝鮮とフランス間の戦争「丙寅洋擾」のきっかけともなった。 逮捕され、尋問されるベルヌー司祭 背景 ・事件当時は李氏朝鮮の時代であり、実質的に国を治めていたのは興宣大院君と尊称される王父であった。 Heungseon Daewongun Portrait.jpg 興宣大院君 息子である高宗(朝鮮王)が即位当時10代前半であったことから、摂政として実権を握り、鎖国・孤立主義体制を強く推し進めた。 (伝統として、朝鮮は異国との接触を嫌い宗主国(中国)または日本といった限定的な貿易・外交を行うという孤立主義を好んだ) しかし、18世紀後半頃から清(現中国)を通じ、キリスト教は朝鮮に広まってゆく。 フランス宣教師協会のパリ外国宣教会から、布教責任者として派遣されたシメオン=フランソワ・ベルヌー司教は、1859年には朝鮮における信徒数が1万7000名に達したと報告している。 当初、李氏朝鮮はキリスト教を黙認していた。 世界は帝国主義時代の最中であり、ヨーロッパ列強からの干渉も本格化しつつある時代でもあり、朝鮮宮中においてもキリスト勢力は力を持ちつつあった。 妻がクリスチャンということもあり、興宣大院君は本来キリスト教には友好的だったという。 だが後には、12名のフランス人宣教師と2万3000名の信徒を抱えるキリスト教勢力に対して、徹底的な弾圧を行う事になる。 1866年1月、ロシア帝国の南下政策により貿易船が訪れ李氏朝鮮に通商要求がなされた。 人々が混乱するなか、朝鮮宮中のキリスト教勢力はこれを好機とみなし、三国同盟(朝鮮、フランス、イギリス)を結び開国するべきと主張。 (朝鮮半島の宣教師団との繋がりが最も深かったのがフランスである) 興宣大院君はこの計画を受け入れたという。 しかし、結局のところこの計画は失敗に終わる。 同盟計画の頓挫の理由ははっきりしない。 ただ、時間の遅滞によるとされている。 国政は増々混乱した。 ロシア帝国からの圧力、勢いを増すキリスト教勢力、保守的な鎖国主義者。 さらに当時はヨーロッパ勢力によるアヘン戦争(清国VS英国)、アロー戦争(第二次アヘン戦争)といった植民地主義に対する反感、及び太平天国の乱(清国内で起きたキリスト教徒による乱・長髪賊の乱とも)等騒乱が相次ぎ、また国内でも1865年には大飢饉が起き、政情は不安定となった。 宮中の権力争いもあったらしい。 不満のの矛先は執政者に向かい、興宣大院君は人々から大きな非難を受けた。 興宣大院君がキリスト教徒を擁護しすぎるといった世論が爆発する。 宣教師9名の処刑びキリスト教徒8000名を虐殺したという「丙寅教獄」事件は、この非難を終息させるために引き起こされた。 (興宣大院君ははじめからこの計画のは懐疑的であり、「宮中の異教徒を誘い出すために三国同盟の計画を受け入れたフリをした」と主張する説もある) 事件とその影響 ・1866年2月。 興宣大院君により召しだされたベルヌー司祭は、邪教伝道の罪で王国軍に捕えられ、裁判にかけられた。 結果として、12名の宣教師団の内ベルヌー司教ら9名、キリスト教信者の住民ら8000人が処刑されることとなる。虐殺された信者の中には、高宗の乳母も含まれる。 殉教者 ベルヌー司祭 彼らの多くは切頭山にて処刑されたという。 また、この大虐殺を直接指揮した李景夏は武勲をあげたとして名声を得ている。 殉教者 ピエール・アンリ・ドリ 同年6月、生き残った宣教師の1人フェリックス=クレール・リデルが脱獄し逃亡する。 7月には清・天津にあるフランス租界に辿りついた。 報告を受けたピエール=ギュスターヴ・ローズ少将は、宗教弾圧とともに「在外フランス人の通告なき処刑」は国辱であるとし、国際介入を上訴。 「彼らは9名のフランス人を処刑した対価として9000人の死で償う事になるだろう」 ローズ少将の言葉である。 フランスはこの弾圧事件へ抗議し、極東艦隊のほぼ全戦力となる軍艦7隻・兵力約1300名を派遣した。 正式な軍事行動である。 宣教師ら殺害に対する賠償、及び責任者の処罰、通商条約の締結などを要求して江華府を占領するが、興宣大院君はこれらの要求を拒否し撃退している。 現在 ・虐殺されたカトリック教徒達の為に、ソウル市麻浦区合井洞にある龍頭峰が切頭山聖地として整備され追悼施設が設置されている。 1984年、ヨハネ・パウロ2世はフランソワ・ベルヌー司祭ら9名の伝道師を殉教者として列聖した。 1966年、丙寅迫害100周年を記念して切頭山殉教博物館と切頭山巡礼聖堂と共に記念館が着工され、翌年に完成した。 1972年には殉教者記念公園が造成。 後の1984年にはローマ教皇ヨハネ・パウロ2世、1985年にマザー・テレサが訪れている。 19世紀(1800年代)、実は朝鮮王朝は表向きキリスト教を禁じている。 しかし宣教師の入国と、キリスト教信者は増々増え続けた。 宗教弾圧は何度も繰り返されており、多くの信者らが虐殺されていた。 1801年 ・辛酉教獄:清国人宣教師らほか300名あまり処刑。 1839年 ・ 己亥教獄:フランス人宣教師ローラン=マリ=ジョゼフ・アンベールほか200名あまり処刑 1846年 - ・丙午教獄:金大建ほか20名あまり処刑 この弾圧虐殺事件と、フランス軍撃退後、ますます興宣大院君は孤立・排外主義を推し進めてゆく。 この政策路線は、10年後に結ばれる日朝修好条約まで続く。
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【事件】丙寅教獄(朝鮮キリスト教弾圧事件) カテゴリ 歴史 事件 kmpjtkmpjt Comment(0) 現在世界各国に広まっているキリスト教。 19世紀中頃、朝鮮にて大規模なキリスト教弾圧事件が起きたのをご存知だろうか。 1866年3月に朝鮮で起こった事件であり 「丙寅教獄(ヘイインキョウゴク)」と称される。 別名:天主教大弾圧、丙寅邪獄、丙寅教難とも。 朝鮮とフランス間の戦争「丙寅洋擾」のきっかけともなった。 逮捕され、尋問されるベルヌー司祭 背景 ・事件当時は李氏朝鮮の時代であり、実質的に国を治めていたのは興宣大院君と尊称される王父であった。 Heungseon Daewongun Portrait.jpg 興宣大院君 息子である高宗(朝鮮王)が即位当時10代前半であったことから、摂政として実権を握り、鎖国・孤立主義体制を強く推し進めた。 (伝統として、朝鮮は異国との接触を嫌い宗主国(中国)または日本といった限定的な貿易・外交を行うという孤立主義を好んだ) しかし、18世紀後半頃から清(現中国)を通じ、キリスト教は朝鮮に広まってゆく。 フランス宣教師協会のパリ外国宣教会から、布教責任者として派遣されたシメオン=フランソワ・ベルヌー司教は、1859年には朝鮮における信徒数が1万7000名に達したと報告している。 当初、李氏朝鮮はキリスト教を黙認していた。 世界は帝国主義時代の最中であり、ヨーロッパ列強からの干渉も本格化しつつある時代でもあり、朝鮮宮中においてもキリスト勢力は力を持ちつつあった。 妻がクリスチャンということもあり、興宣大院君は本来キリスト教には友好的だったという。 だが後には、12名のフランス人宣教師と2万3000名の信徒を抱えるキリスト教勢力に対して、徹底的な弾圧を行う事になる。 1866年1月、ロシア帝国の南下政策により貿易船が訪れ李氏朝鮮に通商要求がなされた。 人々が混乱するなか、朝鮮宮中のキリスト教勢力はこれを好機とみなし、三国同盟(朝鮮、フランス、イギリス)を結び開国するべきと主張。 (朝鮮半島の宣教師団との繋がりが最も深かったのがフランスである) 興宣大院君はこの計画を受け入れたという。 しかし、結局のところこの計画は失敗に終わる。 同盟計画の頓挫の理由ははっきりしない。 ただ、時間の遅滞によるとされている。 国政は増々混乱した。 ロシア帝国からの圧力、勢いを増すキリスト教勢力、保守的な鎖国主義者。 さらに当時はヨーロッパ勢力によるアヘン戦争(清国VS英国)、アロー戦争(第二次アヘン戦争)といった植民地主義に対する反感、及び太平天国の乱(清国内で起きたキリスト教徒による乱・長髪賊の乱とも)等騒乱が相次ぎ、また国内でも1865年には大飢饉が起き、政情は不安定となった。 宮中の権力争いもあったらしい。 不満のの矛先は執政者に向かい、興宣大院君は人々から大きな非難を受けた。 興宣大院君がキリスト教徒を擁護しすぎるといった世論が爆発する。 宣教師9名の処刑びキリスト教徒8000名を虐殺したという「丙寅教獄」事件は、この非難を終息させるために引き起こされた。 (興宣大院君ははじめからこの計画のは懐疑的であり、「宮中の異教徒を誘い出すために三国同盟の計画を受け入れたフリをした」と主張する説もある) 事件とその影響 ・1866年2月。 興宣大院君により召しだされたベルヌー司祭は、邪教伝道の罪で王国軍に捕えられ、裁判にかけられた。 結果として、12名の宣教師団の内ベルヌー司教ら9名、キリスト教信者の住民ら8000人が処刑されることとなる。虐殺された信者の中には、高宗の乳母も含まれる。 殉教者 ベルヌー司祭 彼らの多くは切頭山にて処刑されたという。 また、この大虐殺を直接指揮した李景夏は武勲をあげたとして名声を得ている。 殉教者 ピエール・アンリ・ドリ 同年6月、生き残った宣教師の1人フェリックス=クレール・リデルが脱獄し逃亡する。 7月には清・天津にあるフランス租界に辿りついた。 報告を受けたピエール=ギュスターヴ・ローズ少将は、宗教弾圧とともに「在外フランス人の通告なき処刑」は国辱であるとし、国際介入を上訴。 「彼らは9名のフランス人を処刑した対価として9000人の死で償う事になるだろう」 ローズ少将の言葉である。 フランスはこの弾圧事件へ抗議し、極東艦隊のほぼ全戦力となる軍艦7隻・兵力約1300名を派遣した。 正式な軍事行動である。 宣教師ら殺害に対する賠償、及び責任者の処罰、通商条約の締結などを要求して江華府を占領するが、興宣大院君はこれらの要求を拒否し撃退している。 現在 ・虐殺されたカトリック教徒達の為に、ソウル市麻浦区合井洞にある龍頭峰が切頭山聖地として整備され追悼施設が設置されている。 1984年、ヨハネ・パウロ2世はフランソワ・ベルヌー司祭ら9名の伝道師を殉教者として列聖した。 1966年、丙寅迫害100周年を記念して切頭山殉教博物館と切頭山巡礼聖堂と共に記念館が着工され、翌年に完成した。 1972年には殉教者記念公園が造成。 後の1984年にはローマ教皇ヨハネ・パウロ2世、1985年にマザー・テレサが訪れている。 19世紀(1800年代)、実は朝鮮王朝は表向きキリスト教を禁じている。 しかし宣教師の入国と、キリスト教信者は増々増え続けた。 宗教弾圧は何度も繰り返されており、多くの信者らが虐殺されていた。 1801年 ・辛酉教獄:清国人宣教師らほか300名あまり処刑。 1839年 ・ 己亥教獄:フランス人宣教師ローラン=マリ=ジョゼフ・アンベールほか200名あまり処刑 1846年 - ・丙午教獄:金大建ほか20名あまり処刑 この弾圧虐殺事件と、フランス軍撃退後、ますます興宣大院君は孤立・排外主義を推し進めてゆく。 この政策路線は、10年後に結ばれる日朝修好条約まで続く。
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