人名よ
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横道正光(よこじ まさみつ) ????~1570 ○兵庫介 久盛 ◇父:横道清高 弟:横道源助高光、権介高宗 出雲・尼子氏臣。月山富田城落城後、降伏して安芸に送られる当主義久に随行しようとし認められず、しばらく大和・松永久秀の下に身を寄せたという。やがて久秀の下を去り、尼子勝久を擁して主家再興の為尽力、各地を転戦。出雲・布部山城の戦いで、姪婿中井善左衛門に討たれた。尼子十勇士の1人。 横田高松(よこた たかとし) ????~1548 ○備中守 ◇養子:横田(原)十郎兵衛康景 近江佐々木源氏流にて伊勢の出。甲斐・武田氏に仕える。敵の動きを察知し、戦術を先読みすることに優れていたという。しかし、信濃・砥石城攻略の際、先鋒として参加するが、戦局は不利となって殿で退却中、追撃を受け戦死した。後に当主信玄は「武偏者なら横田や原美濃のようになれ」と話していたという。 吉江景資(よしえ かげすけ) 1527~1582 ○織部助 ◇父:吉江常陸介宗信 子:吉江長秀、備前守景盛(中条景泰)、長忠 越後・長尾(上杉)氏臣。春日山城を謙信の留守中よく守った。下野・佐野城を任せられ、後に越中攻めに参陣。織田信長軍の越中攻略の際、魚津城を守って戦死した12将の1人。 吉岡長増(よしおか ながます) ????~1573 ○宗歓 左衛門尉 左衛門大夫 越前守 ◇父:吉岡鑑興 吉弘氏、臼杵氏と並ぶ豊後・大友義鎮の三家老の1人。大友能直孫頼宗末流。将軍家との交渉に力を発揮すると共に、智将として周防・大内氏、後には安芸・毛利氏との戦いを総括し、策を用いてその侵攻を阻んでいる。 吉弘鑑理(よしひろ あきまさ) ????~1571 ○太郎 鑑直 左近大夫 伊予守 ◇父:吉弘氏直 室:大友義鑑女 子:吉弘鎮信、鎮種(高橋紹運) 吉岡氏、臼杵氏と並ぶ豊後・大友義鎮の三家老の1人。吉弘氏は大友氏祖能直の子泰広を祖とする。外交面で能力を発揮、軍事面においても1534年勢場ヶ原で周防・大内勢を撃破する等、筑前方面の攻略、謀反の鎮圧にと活躍した。薩摩・島津氏との日向・耳川の合戦において、角隈石宗と共に自重を訴えるが衆議一致せず、敵中に突撃し戦死した。 吉弘鎮種(よしひろ しげたね) 1548~1586→高橋紹運 米倉重継(よねくら しげつぐ) ????~1575 ○宗継 丹後守 ◇子:米倉忠継、信継 甲斐・武田氏臣。当主信玄の旗本五人衆の1人に数えられる程の剛の者。矢や鉄砲玉を防ぐ為、青竹を重ね油を塗って作った楯“竹束”の考案者。この兵器は中国の三国時代にも登場しており、重継が兵法書に通じていたと思われる。ちなみに車輪をつけた物もあり、“車竹束”と呼ばれた。長篠合戦ではこれを活用できたかどうかはわからないが、戦死。 依岡左京進(よりおか さきょうしん) ????~1586 ◇子:依岡源兵衛(弥次郎)、久介 土佐・一条氏臣であったが、主家内紛の際に土佐・長宗我部氏の元に走る。1581年伊予・北之川親安攻めで勇猛な働きを見せた。豊後・戸次川の合戦において戦死した。
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横道正光(よこじ まさみつ) ????~1570 ○兵庫介 久盛 ◇父:横道清高 弟:横道源助高光、権介高宗 出雲・尼子氏臣。月山富田城落城後、降伏して安芸に送られる当主義久に随行しようとし認められず、しばらく大和・松永久秀の下に身を寄せたという。やがて久秀の下を去り、尼子勝久を擁して主家再興の為尽力、各地を転戦。出雲・布部山城の戦いで、姪婿中井善左衛門に討たれた。尼子十勇士の1人。 横田高松(よこた たかとし) ????~1548 ○備中守 ◇養子:横田(原)十郎兵衛康景 近江佐々木源氏流にて伊勢の出。甲斐・武田氏に仕える。敵の動きを察知し、戦術を先読みすることに優れていたという。しかし、信濃・砥石城攻略の際、先鋒として参加するが、戦局は不利となって殿で退却中、追撃を受け戦死した。後に当主信玄は「武偏者なら横田や原美濃のようになれ」と話していたという。 吉江景資(よしえ かげすけ) 1527~1582 ○織部助 ◇父:吉江常陸介宗信 子:吉江長秀、備前守景盛(中条景泰)、長忠 越後・長尾(上杉)氏臣。春日山城を謙信の留守中よく守った。下野・佐野城を任せられ、後に越中攻めに参陣。織田信長軍の越中攻略の際、魚津城を守って戦死した12将の1人。 吉岡長増(よしおか ながます) ????~1573 ○宗歓 左衛門尉 左衛門大夫 越前守 ◇父:吉岡鑑興 吉弘氏、臼杵氏と並ぶ豊後・大友義鎮の三家老の1人。大友能直孫頼宗末流。将軍家との交渉に力を発揮すると共に、智将として周防・大内氏、後には安芸・毛利氏との戦いを総括し、策を用いてその侵攻を阻んでいる。 吉弘鑑理(よしひろ あきまさ) ????~1571 ○太郎 鑑直 左近大夫 伊予守 ◇父:吉弘氏直 室:大友義鑑女 子:吉弘鎮信、鎮種(高橋紹運) 吉岡氏、臼杵氏と並ぶ豊後・大友義鎮の三家老の1人。吉弘氏は大友氏祖能直の子泰広を祖とする。外交面で能力を発揮、軍事面においても1534年勢場ヶ原で周防・大内勢を撃破する等、筑前方面の攻略、謀反の鎮圧にと活躍した。薩摩・島津氏との日向・耳川の合戦において、角隈石宗と共に自重を訴えるが衆議一致せず、敵中に突撃し戦死した。 吉弘鎮種(よしひろ しげたね) 1548~1586→高橋紹運 米倉重継(よねくら しげつぐ) ????~1575 ○宗継 丹後守 ◇子:米倉忠継、信継 甲斐・武田氏臣。当主信玄の旗本五人衆の1人に数えられる程の剛の者。矢や鉄砲玉を防ぐ為、青竹を重ね油を塗って作った楯“竹束”の考案者。この兵器は中国の三国時代にも登場しており、重継が兵法書に通じていたと思われる。ちなみに車輪をつけた物もあり、“車竹束”と呼ばれた。長篠合戦ではこれを活用できたかどうかはわからないが、戦死。 依岡左京進(よりおか さきょうしん) ????~1586 ◇子:依岡源兵衛(弥次郎)、久介 土佐・一条氏臣であったが、主家内紛の際に土佐・長宗我部氏の元に走る。1581年伊予・北之川親安攻めで勇猛な働きを見せた。豊後・戸次川の合戦において戦死した。
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