内藤家(高遠藩)
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内藤家(高遠藩)
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[[内藤家]] ***内藤家 高遠藩 下がり藤 3万3000石 [#n592107f] 信濃伊那郡高遠(長野県伊那市高遠町) 譜代 城主 正保城絵図・高遠城 移封加減増履歴・貞享元年→常陸下野上総の内で1万3000石・貞享2年→3万3000石・元禄4年→信濃高遠 江戸城詰席・雁之間 子爵 上屋敷・小川町 人口・城下町2336人、家数222軒 元禄4年(1691)現在 大名の内藤一族の関係は、各家藩祖の項を読んでも判然としないと思われ、こちらを参照されたい 藩祖・重頼(しげより) 内藤正勝の長男(正勝の父は関東総奉行を務めた清成、正勝の兄に清次、清政がおり二人とも前後して家督を継ぎ清政の代に無嗣除封となるが、正勝に名跡相続が許された経緯がある) 母は備中松山藩板倉重宗の娘 生没・寛永5年(1628)~元禄3年(1690) 寛永7年(1630)父の正勝は安房勝山2万石を領したが、嫡子重頼が幼少のため1万5000石は収公され、重頼には5000石が与えられる 貞享元年(1684)書院番頭、大番頭、側衆、将軍綱吉の世子徳松の傳役(もりやく)を歴任し、この年に若年寄に進み、合わせて1万3000石となる、その後、大坂城代、京都所司代を務める 従四位下侍従兼大和守 正室・旗本久世広当の娘 子女・養子清枚(2代) 2代・清枚(きよかず) 旗本水野守政の次男 母は藩祖重頼の父正勝の娘 生没・正保2年(1645)~正徳4年(1714) 家督・元禄3年(1690)相続 従五位下駿河守 正室・なし 子女・3代頼卿 女子→丹南藩高木正陳の嫡子正府室、死別後に旗本片桐満記室、後に亀山藩松平信岑室、後に離縁 女子→福知山藩朽木玄綱室 3代・頼卿(よりのり) 清枚三男 母は某氏 生没・元禄10年(1697)~享保20年(1735) 家督・正徳4年(1714)相続 従五位下大和守 正室・豊後府内藩松平近禎の娘 子女・養子頼由(4代) 4代・頼由(よりゆき) 加納藩永井直敬の五男 母は正室永井直右の娘 生没・宝永6年(1709)~安永9年(1780) 家督・享保20年(1735)相続 従五位下大和守 安永5年(1776)隠居 正室・棚倉藩松平康豊の娘、後に離縁 子女・養子頼寛(岩村田藩内藤正敬の次男、病没) 養子頼多(尾張藩徳川宗勝の七男、病没) 養子頼尚(5代) 5代・頼尚(よりたか) 村上藩内藤信興の三男 母は某氏 生没・宝暦2年(1752)~安永5年(1776) 家督・安永5年(1776)相続 従五位下伊賀守 正室・掛川藩太田資俊の娘 子女・女子→熊本新田藩細川利庸室 女子→壬生藩鳥居忠燾室 女子→飯野藩保科正徳室、後に離縁 養子長好(6代) 6代・長好(ながよし) 頼由の養子頼多の長男 母は某氏 生没・明和6年(1769)~寛政3年(1791) 家督・安永5年(1776)相続 従五位下大和守 正室・福知山藩朽木玄綱の娘 子女・養子頼以(7代) 7代・頼以(よりもち) 福島藩板倉勝矩の五男 母は某氏 生没・安永5年(1776)~安政3年(1856) 家督・寛政3年(1791)相続 従五位下大和守 文政3年(1820)隠居 正室・淀藩稲葉正誼の娘 子女・8代頼寧 8代・頼寧(よりやす) 頼以三男 母は某氏 生没・寛政12年(1800)~文久2年(1862) 家督・文政3年(1820)相続 従五位下駿河守 安政6年(1859)隠居 正室・姫路藩酒井忠道の娘 継室・姫路藩酒井忠実の養女(横須賀藩西尾忠善の娘) 子女・頼愛(病没) 9代頼直 信敬(小島藩松平信書養子) 女子→白河藩阿部正備室 女子→伯太藩渡辺章綱室 9代・頼直(よりなお) 頼寧七男 母は某氏 生没・天保11年(1840)~明治12年(1879) 家督・安政6年(1859)相続 戊辰戦争で功があり、明治2年(1869)賞典金2000両を下賜される 従五位下若狭守 正室・宇都宮藩戸田忠温の娘
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[[内藤家]] ***内藤家 高遠藩 下がり藤 3万3000石 [#n592107f] 信濃伊那郡高遠(長野県伊那市高遠町) 譜代 城主 正保城絵図・高遠城 移封加減増履歴・貞享元年→常陸下野上総の内で1万3000石・貞享2年→3万3000石・元禄4年→信濃高遠 江戸城詰席・雁之間 子爵 上屋敷・小川町 人口・城下町2336人、家数222軒 元禄4年(1691)現在 大名の内藤一族の関係は、各家藩祖の項を読んでも判然としないと思われ、こちらを参照されたい 藩祖・重頼(しげより) 内藤正勝の長男(正勝の父は関東総奉行を務めた清成、正勝の兄に清次、清政がおり二人とも前後して家督を継ぎ清政の代に無嗣除封となるが、正勝に名跡相続が許された経緯がある) 母は備中松山藩板倉重宗の娘 生没・寛永5年(1628)~元禄3年(1690) 寛永7年(1630)父の正勝は安房勝山2万石を領したが、嫡子重頼が幼少のため1万5000石は収公され、重頼には5000石が与えられる 貞享元年(1684)書院番頭、大番頭、側衆、将軍綱吉の世子徳松の傳役(もりやく)を歴任し、この年に若年寄に進み、合わせて1万3000石となる、その後、大坂城代、京都所司代を務める 従四位下侍従兼大和守 正室・旗本久世広当の娘 子女・養子清枚(2代) 2代・清枚(きよかず) 旗本水野守政の次男 母は藩祖重頼の父正勝の娘 生没・正保2年(1645)~正徳4年(1714) 家督・元禄3年(1690)相続 従五位下駿河守 正室・なし 子女・3代頼卿 女子→丹南藩高木正陳の嫡子正府室、死別後に旗本片桐満記室、後に亀山藩松平信岑室、後に離縁 女子→福知山藩朽木玄綱室 3代・頼卿(よりのり) 清枚三男 母は某氏 生没・元禄10年(1697)~享保20年(1735) 家督・正徳4年(1714)相続 従五位下大和守 正室・豊後府内藩松平近禎の娘 子女・養子頼由(4代) 4代・頼由(よりゆき) 加納藩永井直敬の五男 母は正室永井直右の娘 生没・宝永6年(1709)~安永9年(1780) 家督・享保20年(1735)相続 従五位下大和守 安永5年(1776)隠居 正室・棚倉藩松平康豊の娘、後に離縁 子女・養子頼寛(岩村田藩内藤正敬の次男、病没) 養子頼多(尾張藩徳川宗勝の七男、病没) 養子頼尚(5代) 5代・頼尚(よりたか) 村上藩内藤信興の三男 母は某氏 生没・宝暦2年(1752)~安永5年(1776) 家督・安永5年(1776)相続 従五位下伊賀守 正室・掛川藩太田資俊の娘 子女・女子→熊本新田藩細川利庸室 女子→壬生藩鳥居忠燾室 女子→飯野藩保科正徳室、後に離縁 養子長好(6代) 6代・長好(ながよし) 頼由の養子頼多の長男 母は某氏 生没・明和6年(1769)~寛政3年(1791) 家督・安永5年(1776)相続 従五位下大和守 正室・福知山藩朽木玄綱の娘 子女・養子頼以(7代) 7代・頼以(よりもち) 福島藩板倉勝矩の五男 母は某氏 生没・安永5年(1776)~安政3年(1856) 家督・寛政3年(1791)相続 従五位下大和守 文政3年(1820)隠居 正室・淀藩稲葉正誼の娘 子女・8代頼寧 8代・頼寧(よりやす) 頼以三男 母は某氏 生没・寛政12年(1800)~文久2年(1862) 家督・文政3年(1820)相続 従五位下駿河守 安政6年(1859)隠居 正室・姫路藩酒井忠道の娘 継室・姫路藩酒井忠実の養女(横須賀藩西尾忠善の娘) 子女・頼愛(病没) 9代頼直 信敬(小島藩松平信書養子) 女子→白河藩阿部正備室 女子→伯太藩渡辺章綱室 9代・頼直(よりなお) 頼寧七男 母は某氏 生没・天保11年(1840)~明治12年(1879) 家督・安政6年(1859)相続 戊辰戦争で功があり、明治2年(1869)賞典金2000両を下賜される 従五位下若狭守 正室・宇都宮藩戸田忠温の娘
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