古代史のための用語集(Historical)
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古代史のための用語集(Historical)
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[[Historical]] #menu(menu_Historical) ''古代史のための用語集'' Author: KAWANISHI Yoshihiro [あ] [か] [さ] [た] [な] [は] [ま] [や] [ら] [わ] あ 天照大神 (あまてるおほかみ) 通例、「あまてらすおほみかみ」。これは、あくまで敬語読み。 記紀神話における、太陽神であり、皇祖神。 記紀神話では、「いざなぎ」「いざなみ」の子で、「すさのを」の姉とされている。 大国主神に「国譲り」を迫り、「ににぎ」を「葦原中国」に降臨させた。 壹与 (いちよ(?)) 倭国の女王。卑弥呼の後、13歳で即位。魏、晋に遣使している。 【出典】壹与<魏志倭人伝> 臺与<後漢書> 磐井 (いはゐ) 継体天皇の時代(6世紀)の九州の有力者。九州において、筑紫・火・豊の三国に君臨し、新羅・百済・加羅等とも関係があったという。継体天皇と対立し、殺害された。筑後の岩戸山古墳はその墓と言われている。。 【古田武彦説】九州王朝の王者。 【出典】竺紫君石井<継体記> 筑紫国造磐井<継体紀> 殷 (いん) 中国古代の王朝。始め商といった。のち殷に都を移したので、殷と呼ばれる。紂王のとき、周・武王により滅亡。二十八代六百四十四年。 淮南子 (えなんじ) 【書名】漢・淮南王劉安(?-122)編。二十一巻。漢の儒学推進に対して道家・法家・墨家・兵家などの諸子百家の論説を集めるが、基調となったのは道家の老荘思想。 延喜式 (えんぎしき) 【書名】平安時代。藤原時平・紀長谷雄ら。宮中の儀式等をまとめる。五十巻。 大国主命 (おほくにぬしのみこと) 出雲の主神。 「おほなむち」「八千矛神」「葦原醜男」等多数の名がある。 『出雲風土記』においては「天下造らしし神」とされる。 「すさのを」の子とも五世孫ともいう。 記紀においては、天照大神によって、「国譲り」を迫られ、隠居したとされる。 大和の「大物主」と習合され、同一視されたが、本来別の神であろう。 後には、「大黒天」とも習合された。 か 夏 (か) 中国最古とされる王朝。禹が建国。殷の湯王により滅亡。十七代四百五十八年。 加羅 (から) 朝鮮半島南部の地域。駕洛・加羅・加邪など多数の表記は、すべて同一地域を指すものか不明。「任那」と同じとする説もあるが、未詳。 →任那 漢委奴国王印 (かんのいどこくおうのいん(?)) 志賀島で発見された金印。印文に、「漢委奴国王」とある。後漢書の記述に依り、後漢の時代に倭王に下賜されたものであることがわかる。 【亀井南冥・竹田定良他説】「委奴国」は「倭国」と同じで「やまとのくに」と読む。金印を授与されたのは、天皇家。(亀井南冥『金印弁或問』1784年、竹田定良ら『金印議』1784年) 【上田秋成説】「委奴国」は「いとこく」と読み、「伊都国」と同じ。金印を授与されたのは、伊都国王。(上田秋成『漢委奴国王金印考』1784年) 【三宅米吉説】「かんのわのなのこくおう」と読み、金印を授与されたのは「倭」の小国「奴国」の王。(三宅米吉『漢委奴国王印考』1872年) 【古田武彦説】「かんのいどこくおう」と二段に読み、「委奴国」は、「倭国」とほぼ同じ意味。この金印を授与されたのは、九州王朝。(古田武彦『失われた九州王朝』1973年) 漢 (かん) 1)前漢。 2)後漢。 →前漢、 後漢 漢書 (かんじょ) 【書名】後漢・班固撰。前漢一代の歴史書。紀伝体の正史。百二十巻。地理志、燕地の「楽浪海中に倭人あり…」の一句は有名。 →前漢 魏 (ぎ) 1)三国の一。曹丕(三国志の英雄・曹操の子)が後漢をついで建国。晋によって滅亡。五代四十六年(220-245) 2)北魏。 →北魏 記紀神話 (ききしんわ) 『古事記』第一巻、『日本書紀』第一、二巻に載せる神話。 「いざなぎ」→「天照大神」→(出雲神話)→「ににぎ」→「山幸」→「うがやふきあへず」と続き、神武天皇に至るまでを語る。 主に筑紫と出雲を舞台とする神話。 【河西コメント】記紀神話が「日本神話」の全てと思われがちであるが、「富士山」「琵琶湖」等があらわれず、とても日本全国を網羅した神話ではない。 →日本書紀 魏書 (ぎしょ) 【書名】北斉・魏収撰。百十四巻。 →北魏 魏志倭人伝 (ぎしわじんでん) 【書名(通称)】晋・陳寿撰『三国志』の魏志、東夷伝、倭人条。邪馬壹国、卑弥呼の記事を載せ、多くの論争を引き起こしている。 →三国志、 邪馬壹国 紀伝体 (きでんたい) 歴史書の記述方法。帝王の伝記を記す「帝紀」と、臣下の伝記を記す「列伝」とに分けて、人物を中心に歴史を記録する。中国正史では、司馬遷がはじめに行って以来、紀伝体が主流となった。 【河西コメント】我が国では「日本書紀」が紀伝体(ただし列伝を欠く)である。これを編年体と見なす論者があるが、非。書紀の体裁は「帝紀」である。次の「続日本紀」は編年体であり、これと比較すれば明らかである。 →編年体 旧事紀 (きゅうじき) 【書名】「くじき」とも読まれる。先代旧事本紀。 →先代旧事本紀 九州年号 (きゅうしゅうねんごう) 【古田武彦説】「大宝」(701)以前の年号。『二中歴』『如是院年代記』等中世の多数の文献に見える。鶴峯戊申『襲国偽僭考』で、九州年号の称が見られる。いわゆる「逸年号」。善記→大化(大長)に至る。寺社の縁起類にも多くの例が発見されている。 →二中歴 九州 (きゅうしゅう) 1)中国全土のこと。古くは「禹」の領域を九州と言い、後、中国王朝の領域をすべて九州と呼ぶ。 2)日本における、いわゆる「九州」地方。 【古田武彦説】(1)の派生。日本列島において、倭国の領域を指す。「畿内」と同一の発想による命名。 九州王朝 (きゅうしゅうおうちょう) 【古田武彦説】邪馬壹国(魏志倭人伝)~多利思北孤の[イ妥](タイ)国(隋書)、旧唐書の倭国に至る、九州に本拠を置く日本列島の統一王朝。弥生前期~670(或は700)まで続いたとされる。(白村江の戦で事実上滅亡)近畿王朝(天皇家)はその分家。古田武彦が提唱。古田武彦著『「邪馬台国」はなかった』・『失われた九州王朝』(ともに現、朝日文庫)等参照 旧唐書 (きゅうとうじょ) 【書名】「くとうじょ」とも読まれる。五代・劉[日句]著。倭国伝と日本伝を持つ。後、改変され「新唐書」となるが、唐初に関しては、旧唐書が詳しい。二百巻。 →唐、 新唐書 百済本記 (くだらほんき) 【書名】『日本書紀』引用の百済系史書の一。 継体紀、欽明紀に引用。百済王なら、武寧王から威徳王までの三代(五〇一~五五七)。 「任那日本府」の記事を載せる。 百済記・百済新撰とともに、成立・著者等一切不明。 →百済記、 百済新撰 百済 (くだら) 朝鮮半島西南部に興った国。始祖温祚。中国史上には4世紀頃から見える。「三国志」の「伯済国」が前身だとも言うが、未詳。始祖温祚は扶余の出という。『日本書紀』においては、「任那」をめぐり、「日本」側と協力関係にあった、とされる。660年、唐・新羅連合軍により滅亡。 百済記 (くだらき) 【書名】『日本書紀』に引用された史書。 神功紀から応神紀にかけてと、雄略紀に引用されている。百済の王で言うと、肖古王から蓋鹵王までの九代(三四六~四七五)。 その逸文は『日本書紀』にしか見えず、成立年・著者等、一切不明である。 恐らく、百済人の手において完成されたものと思われるが、未詳。 ただし、記載された内容については、信用してよいとされる。 →百済本記、 百済新撰 百済新撰 (くだらしんせん) 【書名】『日本書紀』に引用された百済系史書の一。 雄略紀と武烈紀に引用されている。百済王では、蓋鹵王から武寧王まで五代(四五五~五二三)。 武寧王(斯麻王)の記載があり、記述が韓国公州にて発見された武寧王碑と一致するため、その記載内容には信頼を置いて良い。 →百済本記、 百済記 国譲り (くにゆずり) 天照大神は、出雲の大国主神に対し、「葦原中国」の割譲を迫った。この後、「天孫降臨」へと繋がる事件。 【古田武彦説】この前提には、大国主=主、天照=従の関係が有る。これを覆したのがこの事件。中国で言う「禅譲」である。 景行九州遠征 (けいこうきゅうしゅうえんせい) 『日本書紀』景行紀にみえる、景行天皇による九州遠征。『古事記』には見えない。 【津田左右吉説】六世紀史官による造作。史実ではない。 【古田武彦説】実際は、九州王朝の王者の業績を景行天皇のものとして記したものと言う。 呉 (ご) 1)周の初、泰伯が建てた国。二十五代七百五十九年。倭人伝の中には「倭は呉の泰伯の後」という記事が存在するものもある。 【出典】其の俗、男子皆点して文す。其の旧語を聞くに、自ら太伯の後と謂ふ。<魏略、韓苑所引> 2)三国の一。孫権が建国。晋により滅亡。四代六十年(221-280) 高句麗 (こうくり) 朝鮮半島北部に興った国。始祖朱蒙は扶余の出という。中国史には、後漢書で初めてその名が見えるので、少なくとも、一世紀頃には成立していたものと見なされている。長年、倭王と朝鮮半島の覇を競った。668年、唐により滅亡。 後漢 (ごかん) 前漢が新(王莽)にとってかわられた後、劉秀(光武帝)によって再興。黄巾の乱の後、事実上滅亡。魏王曹丕に禅譲。十二代百九十六年(25-220) →漢 後漢書 (ごかんじょ) 【書名】南朝劉宋・范曄(398-445)撰。後漢一代の歴史書。百二十巻。同時代史料ではないが、重用される。 古語拾遺 (こごしゅうい) 【書名】斎部廣成著。大同2年(807年)。 古事記 (こじき) 712年。太安万侶編。三巻。「日本」の歴史について、神代より顕宗天皇までの説話と推古天皇までの系図を収録。天武天皇の命により、稗田阿礼が誦習した記録を、太安万侶がまとめたもの。 【津田左右吉説】「帝紀」と「旧辞」を太安万侶が一つにまとめたもの。 【河西説】「旧辞」のみをまとめたもの。→「古事記の成立」 さ 三国遺事 (さんごくいじ) 【書名】13世紀末頃。高麗・僧一然撰。三国史記の後に、史記にもれた説話を収集し、収録した説話集。 三国志 (さんごくし) 【書名】晋・陳寿(233-297)著。後漢滅亡後の三国時代の騒乱を綴った「魏志」「呉志」「蜀志」の三部からなる正史。晋朝の編纂である為、魏を正統としている。六十五巻。 →魏志倭人伝 三国史記 (さんごくしき) 【書名】1145年、高麗・金富軾撰。高句麗・新羅・百済の三国をそれぞれ別々の紀として記述した史書。現存する最古の朝鮮半島史書である。 史記 (しき) 【書名】漢・司馬遷(前145?-前86?)撰。黄帝から前漢の武帝までの二千四百年間に及ぶ通史。最初の紀伝体の正史。百三十巻。 周 (しゅう) 1)武王の時、殷の紂王を倒し、鎬京(現、西安の西北)に都し、のち洛邑(現、洛陽付近)に都した国。前256年、秦により滅亡。三十七代。 2)北周。 3)則天武后が一時称した国名(690-705) →北周 尚書 (しょうしょ) 【書名】五経の一。漢代には「書」、宋(趙氏)代以降には「書経」ともいう。夏・殷・周から秦の穆公までの政治に関する記録。二十巻。 続日本紀 (しょくにほんぎ) 【書名】桓武天皇延暦十六年(797年)、藤原継縄撰。「六国史」の一。文武天皇(位697-707)より、桓武天皇(位781-806)の延暦十年(791年)までを編年体で叙述。記録性が強く、書いてある内容については、信頼してよい。 蜀 (しょく) 蜀漢。三国の一。劉備が建国。成都に都す。魏によって滅亡。二代四十三年(221-263) 新羅 (しらぎ) 朝鮮半島東南部に興った国。中国史上に登場するのは4世紀頃から。「辰韓」の「斯盧国」が前身とも言われるが、未詳。始祖朴赫居世。『日本書紀』においては、「任那」をめぐる強力な対立国として描かれている。7世紀後半には、唐と結び、百済を滅亡させ、高句麗を打ち破り、朝鮮半島を統一する。 新唐書 (しんとうじょ) 【書名】欧陽脩・宋祁(998-1061)撰。旧唐書に続く。唐代後半に詳しい。旧唐書の倭国伝・日本伝併載から、日本伝のみに変更した。全二百二十五巻。 →唐、 旧唐書 秦 (しん) 1)戦国七雄の一。始皇帝のとき、天下統一。劉邦により滅亡。三代十五年(前221-前206) 2)前秦。苻健が長安に建国(351-394) 3)後秦。姚萇が前秦を滅ぼし、建国(384-417) 4)西秦。乞伏乾帰が建国(385-431) 晋 (しん) 司馬炎が魏に代わって建国。始め洛陽、後に長安に都したが、316年に匈奴の侵入を受け建業に移った。匈奴侵入以前を西晋、侵入後を東晋ともいう。十五代百五十六年(西晋265-316、東晋317-420) →東晋、 晋書 晋書 (しんじょ) 【書名】唐・房玄齢(?-648)ら撰。全百三十巻。648年。 →晋 神武東征 (じんむとうせい) 初代の天皇と伝えられる神武天皇が九州の地から大和へ移動し、即位したという説話。 【河西コメント】九州における一豪族だった神武が東なる地に活路を求め、大和へ侵入した事件。はじめ、大阪湾からの侵入を図ったが、長髄彦にはばまれ挫折。後、吉野川を遡っての奇襲作戦に転じ、成功。ただし、神武の時点では「国家」(どんな形式であろうとも)の様相は持っておらず、崇神の代になってようやくその兆しが芽生えたものと思われる。これが、近畿王朝の始めであり、後の「日本」となる。 隋 (ずい) 北朝の一。楊堅が周を滅ぼし建国。南朝の陳をも滅ぼし、南北朝を統一。唐により滅亡。三代三十八年(581-618) →隋書 隋書 (ずいしょ) 【書名】唐・魏徴(580-643)撰。[イ妥]国伝(隋書では「倭国」でなく「[イ妥]国」と記す)における「日の出ずる処の天子」の文言は著名。 →隋 帥升 (すいしょう(?)) 倭王。後漢安帝永初元年(107)年に遣使した倭王。倭人中で中国史料に名を載せる、最古の人物。 斉 (せい) 1)南斉。 2)北斉。 →南斉書、 南斉、 北斉 山海経 (せんかいきょう) 【書名】著者未詳。前漢・劉秀、建平元年(前6)編。中国国内外の地理・民俗を綴った書で、儒家らの語る伝説とは異質の神話・伝承を残す。 前漢 (ぜんかん) 劉邦が秦を滅ぼして建国。王莽に取って代わられるまで。(前202-前8) →漢書、 漢 戦国策 (せんごくさく) 【書名】著者不明。漢・劉向(前77-前6)編。戦国七雄の時代から秦始皇帝の統一までの歴史を国別に綴る。三十三編。 先代旧事本紀 (せんだいきゅうじほんぎ) 【書名】平安朝頃か。推古朝時代の編纂と序文にあるが、疑われている。理由は以下のとおり。 1.内容が記紀を踏まえたものであること。 2.推古朝以降の記事を収録していること。 所謂「偽書」と見なされているが、「天孫本紀」「国造本紀」はそれぞれ、「物部氏伝承」「国造史料」として注目されている。 →旧事紀 宋 (そう) 南朝の一。劉裕により建国。斉により滅亡。八代五十九年(420-479) →宋書 宋書 (そうじょ) 【書名】梁・沈約(441-513)撰。南朝劉宋の同時代史。所謂「倭の五王」を載せ、注目されている。 →宋、 倭五王 た 多利思北孤 (たりしほこ(?)) 隋書にあらわれる[イ妥]国王。自ら天子を称し、煬帝の怒りを買った。仏教に厚く、政を聴く際も「結跏趺座」していたと言う。 【通説】天皇の称号「たらしひこ」を人名として記載したもの。 【直木孝次郎説】聖徳太子のこと。(直木孝次郎『日本の歴史』2, 1973年) 【古田武彦説】九州王朝の王のことであり、天皇家とは無関係。(古田武彦『失われた九州王朝』1973年) 短里 (たんり) 【古田武彦説】『魏志』の里単位は、漢や唐のそれよりも短い「短里」であるとする。漢・唐の一里=433~435メートルだが、魏・晋の一里=75メートルとする。周に起源があり、「千里馬」も漢・唐の千里なら、433~435キロであり馬の1日の移動距離としてはありえないが、一里=75メートルとすれば、75キロであり、「優秀な馬」なら何とか達成可能な距離である。 【谷本茂説】『周碑算経』の里単位も同様に、一里=75メートルと見なすべきである。 朝鮮 (ちょうせん) 1)箕子朝鮮。周の初、箕子が建てたとされる国。少なくとも、秦末漢初には実在し、衛満によって滅ぼされた。 2)衛氏朝鮮。衛満が亡命先で朝鮮王準から国を奪って建国。漢の武帝によって滅ぼされた。 陳 (ちん) 南朝の一。陳覇先が建国。隋によって滅亡(557-589) 通典 (つてん) 【書名】唐・杜祐編。801年。二百巻。政治上参考になるような古来の事実を集めた本。 天孫降臨 (てんそんこうりん) 「国譲り」の後、天照大神は、その孫・ににぎを「筑紫日向高千穂クシフル峯」に降臨させた説話。 【古田武彦説】弥生時代前期の実在の事件と見られる。実際には、壱岐・対馬の「天国」による、北部九州への侵略戦争。九州王朝の成立期である。 天皇 (てんのう) 日本の「最高位」の称号。(現代史における定義は、今の記述から省いておく) 7世紀頃からその使用が認められる。 【古田武彦説】最初に「天皇」号を名乗ったのは九州王朝。 【河西説】あくまで、「天皇家」が名乗った称号。 唐 (とう) 李淵が隋を滅ぼし建国。二十代二百八十九年(618-907) →新唐書、 旧唐書 唐会要 (とうかいよう) 【書名】宋・王傅編。北宋の建隆二(981)年。百巻。唐代の法令をまとめた書。 東晋 (とうしん) →晋 な 南史 (なんし) 【書名】唐・李延寿撰。659年。南北朝時代の南朝の歴史をまとめた書。北朝の歴史をまとめた『北史』と対を成す。 →北史 南斉 (なんせい) 南朝の一。蕭道成が建国。梁により滅亡。七代二十四年(479-502) →南斉書、 斉 南斉書 (なんせいじょ) 【書名】梁・蕭子顕撰。全五十九巻。 →倭五王、 南斉、 斉 二中歴 (にちゅうれき) 【書名】文保2年(1318)~延元4年(1339)に一旦成立。 文安年間(1444~8)頃、最終成立。 『掌中歴』と『懐中歴』の二書をあわせた辞典。 「年代歴」には、多くの逸年号を載せる。 →九州年号 二倍年暦 (にばいねんれき) 【古田武彦説】「二倍年暦」は古田武彦の命名。 最初に提唱したのは安本美典。 「一年二季暦」などの呼称もある。 魏志倭人伝の中に載せる魏略に、 「其の俗、正歳四節を知らず。但、春耕秋収を計りて年紀と為す」 とあり、ここから、倭人の暦は春耕と秋収を基準とした暦であるとする説。 今の1年365日の間に、年の区切りが二つあるので、この暦では、2年が経過することになる。 魏志倭人伝・記紀に見える長寿は、この反映と考えられる。 例えば神武天皇は古事記に依れば139歳で没したと言うが、二倍年暦だとすれば、実際は、68.5歳である。 日本 (にほん) 言わずと知れた我が国の国号。7世紀頃からその使用が見られるようになる。 【河西説】「日本」の国号は古く、神武が大和に移ってくる以前から、もともと近畿地方に住んでいた人々の国の呼称として用いられていた「ひのもと(日下)」であろう。後に、天皇家が自国の国号として継承したものと見られる。7世紀まで中国側の文献に見えないのは、「倭国」=九州王朝の傘下にいたためで、天皇家が「倭国」にとってかわった後、正式に国号となった。→「倭国と日本」 →倭、 大倭 日本書紀 (にほんしょき) 【書名】元正天皇養老四年(720年)、舎人親王撰。「六国史」の一。神代より持統天皇(位686-697)までを紀伝体で叙述。ただし、帝紀のみであって、列伝はない。継体天皇以降の叙述は一般的に信憑性が高いと言われており、特に推古天皇(位592-628)以後はかなり信頼できるとされる。全三十巻。 →記紀神話 は 白村江の戦 (はくすきのえのたたかい) 百済滅亡後、百済の再興を支持した倭国と、新羅・唐が衝突した戦争。百済の白江にて行われた。倭国軍は唐軍に大敗を喫した。 【古田武彦説】これによって倭国(=九州王朝)は滅亡したと考えられる。 卑弥呼 (ひみこ) 倭国の女王。魏に使いを送り、明帝を喜ばせた。倭国の戦乱の後、大人たちにより共立。倭人国三十国を統括するが、女王に属さぬ倭人国・狗奴国との対立の中で死す。 【出典】卑弥呼<三国志、魏志、倭人伝> 俾弥呼<三国志、魏志、明帝紀> 卑弥乎<三国史記、新羅本紀、阿達羅尼師今> →邪馬壹国 編年体 (へんねんたい) 歴史書の記述方法。年月を追って順次事件を記載して行く方法。古くから歴史書としてはポピュラーな形式だったが、「史記」が紀伝体をとって以来、正史の座は紀伝体の書に譲る。唐以降に再び盛んになり「資治通鑑」などは著名。 →紀伝体 北魏 (ほくぎ) 東晋の時、鮮卑の拓跋桂が建国。北朝の始。(386-534) →魏書、 魏 北史 (ほくし) 【書名】唐・李延寿撰。659年。南北朝時代の北朝の歴史をまとめた書。南朝の歴史をまとめた『南史』と対を成す。 →南史 北周 (ほくしゅう) 南北朝時代の北朝の一。宇文覚が建国。隋によって滅亡。五代二十五年(556-581) →周 北斉 (ほくせい) 北朝の一。高洋が建国。後周により滅亡。五代二十九年(549-577) →斉 ま 万葉集 (まんようしゅう) 【書名】日本最古の歌集。雄略天皇以降、奈良時代まで。 その歌風は総じて素朴といわれる。 任那日本府 (みまなにほんふ) 雄略紀から欽明紀にかけて登場する、任那における「日本」の施設。詳細は不明。実在すら疑われている。 【古田武彦説】九州王朝の任那における施設。 【河西コメント】あくまで、「日本」すなわち、天皇家の施設と見る。 任那 (みまな) 朝鮮半島南部の地域。古くから、韓人・倭人が雑居し、5~6世紀には新羅・百済・倭が久しくこの地域をめぐって対立した。加羅・駕洛などともいい、また小国連合であることが示唆されているが、未詳。 →加羅 文選 (もんぜん) 【書名】南朝梁の昭明太子(蕭統、501-531)撰。周から梁までの千年間の詩文約八百編を選ぶ。中国最古の選集。三十巻。 や 邪馬壹国 (やまいちこく(?)) いわゆる「邪馬台国」。ただし、「魏志倭人伝」による限り、「邪馬壹国」と記されている。 →卑弥呼、 魏志倭人伝、 邪馬台国 邪馬台国 (やまたいこく) 1) 魏志倭人伝に登場する卑弥呼の国の通称。本来は、魏志倭人伝に関する限り「邪馬壹国」と記述されている。 【松下見林説】「壹」は「臺」の誤り。 【古田武彦説】「壹」は「臺」の誤りではない。 2) 後漢書に登場する倭王の都。こちらは「邪馬臺国」で正しい。 「読み」に関して 【森博達説】「やまたいこく」では呉音と漢音を混交させた読みであり正しくない。「やまだい」(呉音)、「やばたい」(漢音)。 【河西コメント】「やまたい」なる読みは、もともと「やまと」に近い読みであると考えられた故のこと。本居宣長、新井白石に起源がある読み方。 →邪馬壹国 大倭 (やまと) 現在の奈良県の旧国名=大和。 【河西コメント】やまと(山跡)に「大倭」の字をつけたのは天武朝の頃。倭(わ)国=九州王朝の王位を簒奪し、首都を「やまと」に遷した際の命名と思われる。ここで、「倭」は国号から小国名に落とされたのである。 →倭、 日本 ら 梁 (りょう) 南朝の一。蕭衍により建国(502-557) →梁書 梁書 (りょうじょ) 【書名】唐・姚思廉、636年撰。 →梁、 倭五王 わ 倭 (わ(ゐ)) 中国史上に名を残す、日本列島の古代王朝。 【河西コメント】「倭国」の国号は九州王朝が名乗ったものであり、天皇家は一貫して「日本」を称した。 →日本、 大倭 倭五王 (わのごおう) 宋書から梁書の倭国伝に記された、「讃」「珍」「済」「興」「武」の五人の倭王。 【松下見林説】讃=履中、珍=反正、済=允恭、興=安康、武=雄略 【星野恒説】讃=仁徳、珍=反正、済=允恭、興=安康、武=雄略 【前田直典説】讃=応神、珍=仁徳、済=允恭、興=安康、武=雄略 【水野祐説】讃=仁徳、珍=反正、済=允恭、興=木梨軽皇子、武=雄略 【古田武彦説】系譜からいって、天皇家には当たらない為、九州王朝の王者と考えられる。 →宋書、 梁書、 南斉書 RIGHT:歴史学の方法に関連しそうな人たち(Historical)
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[[Historical]] #menu(menu_Historical) ''古代史のための用語集'' Author: KAWANISHI Yoshihiro [あ] [か] [さ] [た] [な] [は] [ま] [や] [ら] [わ] あ 天照大神 (あまてるおほかみ) 通例、「あまてらすおほみかみ」。これは、あくまで敬語読み。 記紀神話における、太陽神であり、皇祖神。 記紀神話では、「いざなぎ」「いざなみ」の子で、「すさのを」の姉とされている。 大国主神に「国譲り」を迫り、「ににぎ」を「葦原中国」に降臨させた。 壹与 (いちよ(?)) 倭国の女王。卑弥呼の後、13歳で即位。魏、晋に遣使している。 【出典】壹与<魏志倭人伝> 臺与<後漢書> 磐井 (いはゐ) 継体天皇の時代(6世紀)の九州の有力者。九州において、筑紫・火・豊の三国に君臨し、新羅・百済・加羅等とも関係があったという。継体天皇と対立し、殺害された。筑後の岩戸山古墳はその墓と言われている。。 【古田武彦説】九州王朝の王者。 【出典】竺紫君石井<継体記> 筑紫国造磐井<継体紀> 殷 (いん) 中国古代の王朝。始め商といった。のち殷に都を移したので、殷と呼ばれる。紂王のとき、周・武王により滅亡。二十八代六百四十四年。 淮南子 (えなんじ) 【書名】漢・淮南王劉安(?-122)編。二十一巻。漢の儒学推進に対して道家・法家・墨家・兵家などの諸子百家の論説を集めるが、基調となったのは道家の老荘思想。 延喜式 (えんぎしき) 【書名】平安時代。藤原時平・紀長谷雄ら。宮中の儀式等をまとめる。五十巻。 大国主命 (おほくにぬしのみこと) 出雲の主神。 「おほなむち」「八千矛神」「葦原醜男」等多数の名がある。 『出雲風土記』においては「天下造らしし神」とされる。 「すさのを」の子とも五世孫ともいう。 記紀においては、天照大神によって、「国譲り」を迫られ、隠居したとされる。 大和の「大物主」と習合され、同一視されたが、本来別の神であろう。 後には、「大黒天」とも習合された。 か 夏 (か) 中国最古とされる王朝。禹が建国。殷の湯王により滅亡。十七代四百五十八年。 加羅 (から) 朝鮮半島南部の地域。駕洛・加羅・加邪など多数の表記は、すべて同一地域を指すものか不明。「任那」と同じとする説もあるが、未詳。 →任那 漢委奴国王印 (かんのいどこくおうのいん(?)) 志賀島で発見された金印。印文に、「漢委奴国王」とある。後漢書の記述に依り、後漢の時代に倭王に下賜されたものであることがわかる。 【亀井南冥・竹田定良他説】「委奴国」は「倭国」と同じで「やまとのくに」と読む。金印を授与されたのは、天皇家。(亀井南冥『金印弁或問』1784年、竹田定良ら『金印議』1784年) 【上田秋成説】「委奴国」は「いとこく」と読み、「伊都国」と同じ。金印を授与されたのは、伊都国王。(上田秋成『漢委奴国王金印考』1784年) 【三宅米吉説】「かんのわのなのこくおう」と読み、金印を授与されたのは「倭」の小国「奴国」の王。(三宅米吉『漢委奴国王印考』1872年) 【古田武彦説】「かんのいどこくおう」と二段に読み、「委奴国」は、「倭国」とほぼ同じ意味。この金印を授与されたのは、九州王朝。(古田武彦『失われた九州王朝』1973年) 漢 (かん) 1)前漢。 2)後漢。 →前漢、 後漢 漢書 (かんじょ) 【書名】後漢・班固撰。前漢一代の歴史書。紀伝体の正史。百二十巻。地理志、燕地の「楽浪海中に倭人あり…」の一句は有名。 →前漢 魏 (ぎ) 1)三国の一。曹丕(三国志の英雄・曹操の子)が後漢をついで建国。晋によって滅亡。五代四十六年(220-245) 2)北魏。 →北魏 記紀神話 (ききしんわ) 『古事記』第一巻、『日本書紀』第一、二巻に載せる神話。 「いざなぎ」→「天照大神」→(出雲神話)→「ににぎ」→「山幸」→「うがやふきあへず」と続き、神武天皇に至るまでを語る。 主に筑紫と出雲を舞台とする神話。 【河西コメント】記紀神話が「日本神話」の全てと思われがちであるが、「富士山」「琵琶湖」等があらわれず、とても日本全国を網羅した神話ではない。 →日本書紀 魏書 (ぎしょ) 【書名】北斉・魏収撰。百十四巻。 →北魏 魏志倭人伝 (ぎしわじんでん) 【書名(通称)】晋・陳寿撰『三国志』の魏志、東夷伝、倭人条。邪馬壹国、卑弥呼の記事を載せ、多くの論争を引き起こしている。 →三国志、 邪馬壹国 紀伝体 (きでんたい) 歴史書の記述方法。帝王の伝記を記す「帝紀」と、臣下の伝記を記す「列伝」とに分けて、人物を中心に歴史を記録する。中国正史では、司馬遷がはじめに行って以来、紀伝体が主流となった。 【河西コメント】我が国では「日本書紀」が紀伝体(ただし列伝を欠く)である。これを編年体と見なす論者があるが、非。書紀の体裁は「帝紀」である。次の「続日本紀」は編年体であり、これと比較すれば明らかである。 →編年体 旧事紀 (きゅうじき) 【書名】「くじき」とも読まれる。先代旧事本紀。 →先代旧事本紀 九州年号 (きゅうしゅうねんごう) 【古田武彦説】「大宝」(701)以前の年号。『二中歴』『如是院年代記』等中世の多数の文献に見える。鶴峯戊申『襲国偽僭考』で、九州年号の称が見られる。いわゆる「逸年号」。善記→大化(大長)に至る。寺社の縁起類にも多くの例が発見されている。 →二中歴 九州 (きゅうしゅう) 1)中国全土のこと。古くは「禹」の領域を九州と言い、後、中国王朝の領域をすべて九州と呼ぶ。 2)日本における、いわゆる「九州」地方。 【古田武彦説】(1)の派生。日本列島において、倭国の領域を指す。「畿内」と同一の発想による命名。 九州王朝 (きゅうしゅうおうちょう) 【古田武彦説】邪馬壹国(魏志倭人伝)~多利思北孤の[イ妥](タイ)国(隋書)、旧唐書の倭国に至る、九州に本拠を置く日本列島の統一王朝。弥生前期~670(或は700)まで続いたとされる。(白村江の戦で事実上滅亡)近畿王朝(天皇家)はその分家。古田武彦が提唱。古田武彦著『「邪馬台国」はなかった』・『失われた九州王朝』(ともに現、朝日文庫)等参照 旧唐書 (きゅうとうじょ) 【書名】「くとうじょ」とも読まれる。五代・劉[日句]著。倭国伝と日本伝を持つ。後、改変され「新唐書」となるが、唐初に関しては、旧唐書が詳しい。二百巻。 →唐、 新唐書 百済本記 (くだらほんき) 【書名】『日本書紀』引用の百済系史書の一。 継体紀、欽明紀に引用。百済王なら、武寧王から威徳王までの三代(五〇一~五五七)。 「任那日本府」の記事を載せる。 百済記・百済新撰とともに、成立・著者等一切不明。 →百済記、 百済新撰 百済 (くだら) 朝鮮半島西南部に興った国。始祖温祚。中国史上には4世紀頃から見える。「三国志」の「伯済国」が前身だとも言うが、未詳。始祖温祚は扶余の出という。『日本書紀』においては、「任那」をめぐり、「日本」側と協力関係にあった、とされる。660年、唐・新羅連合軍により滅亡。 百済記 (くだらき) 【書名】『日本書紀』に引用された史書。 神功紀から応神紀にかけてと、雄略紀に引用されている。百済の王で言うと、肖古王から蓋鹵王までの九代(三四六~四七五)。 その逸文は『日本書紀』にしか見えず、成立年・著者等、一切不明である。 恐らく、百済人の手において完成されたものと思われるが、未詳。 ただし、記載された内容については、信用してよいとされる。 →百済本記、 百済新撰 百済新撰 (くだらしんせん) 【書名】『日本書紀』に引用された百済系史書の一。 雄略紀と武烈紀に引用されている。百済王では、蓋鹵王から武寧王まで五代(四五五~五二三)。 武寧王(斯麻王)の記載があり、記述が韓国公州にて発見された武寧王碑と一致するため、その記載内容には信頼を置いて良い。 →百済本記、 百済記 国譲り (くにゆずり) 天照大神は、出雲の大国主神に対し、「葦原中国」の割譲を迫った。この後、「天孫降臨」へと繋がる事件。 【古田武彦説】この前提には、大国主=主、天照=従の関係が有る。これを覆したのがこの事件。中国で言う「禅譲」である。 景行九州遠征 (けいこうきゅうしゅうえんせい) 『日本書紀』景行紀にみえる、景行天皇による九州遠征。『古事記』には見えない。 【津田左右吉説】六世紀史官による造作。史実ではない。 【古田武彦説】実際は、九州王朝の王者の業績を景行天皇のものとして記したものと言う。 呉 (ご) 1)周の初、泰伯が建てた国。二十五代七百五十九年。倭人伝の中には「倭は呉の泰伯の後」という記事が存在するものもある。 【出典】其の俗、男子皆点して文す。其の旧語を聞くに、自ら太伯の後と謂ふ。<魏略、韓苑所引> 2)三国の一。孫権が建国。晋により滅亡。四代六十年(221-280) 高句麗 (こうくり) 朝鮮半島北部に興った国。始祖朱蒙は扶余の出という。中国史には、後漢書で初めてその名が見えるので、少なくとも、一世紀頃には成立していたものと見なされている。長年、倭王と朝鮮半島の覇を競った。668年、唐により滅亡。 後漢 (ごかん) 前漢が新(王莽)にとってかわられた後、劉秀(光武帝)によって再興。黄巾の乱の後、事実上滅亡。魏王曹丕に禅譲。十二代百九十六年(25-220) →漢 後漢書 (ごかんじょ) 【書名】南朝劉宋・范曄(398-445)撰。後漢一代の歴史書。百二十巻。同時代史料ではないが、重用される。 古語拾遺 (こごしゅうい) 【書名】斎部廣成著。大同2年(807年)。 古事記 (こじき) 712年。太安万侶編。三巻。「日本」の歴史について、神代より顕宗天皇までの説話と推古天皇までの系図を収録。天武天皇の命により、稗田阿礼が誦習した記録を、太安万侶がまとめたもの。 【津田左右吉説】「帝紀」と「旧辞」を太安万侶が一つにまとめたもの。 【河西説】「旧辞」のみをまとめたもの。→「古事記の成立」 さ 三国遺事 (さんごくいじ) 【書名】13世紀末頃。高麗・僧一然撰。三国史記の後に、史記にもれた説話を収集し、収録した説話集。 三国志 (さんごくし) 【書名】晋・陳寿(233-297)著。後漢滅亡後の三国時代の騒乱を綴った「魏志」「呉志」「蜀志」の三部からなる正史。晋朝の編纂である為、魏を正統としている。六十五巻。 →魏志倭人伝 三国史記 (さんごくしき) 【書名】1145年、高麗・金富軾撰。高句麗・新羅・百済の三国をそれぞれ別々の紀として記述した史書。現存する最古の朝鮮半島史書である。 史記 (しき) 【書名】漢・司馬遷(前145?-前86?)撰。黄帝から前漢の武帝までの二千四百年間に及ぶ通史。最初の紀伝体の正史。百三十巻。 周 (しゅう) 1)武王の時、殷の紂王を倒し、鎬京(現、西安の西北)に都し、のち洛邑(現、洛陽付近)に都した国。前256年、秦により滅亡。三十七代。 2)北周。 3)則天武后が一時称した国名(690-705) →北周 尚書 (しょうしょ) 【書名】五経の一。漢代には「書」、宋(趙氏)代以降には「書経」ともいう。夏・殷・周から秦の穆公までの政治に関する記録。二十巻。 続日本紀 (しょくにほんぎ) 【書名】桓武天皇延暦十六年(797年)、藤原継縄撰。「六国史」の一。文武天皇(位697-707)より、桓武天皇(位781-806)の延暦十年(791年)までを編年体で叙述。記録性が強く、書いてある内容については、信頼してよい。 蜀 (しょく) 蜀漢。三国の一。劉備が建国。成都に都す。魏によって滅亡。二代四十三年(221-263) 新羅 (しらぎ) 朝鮮半島東南部に興った国。中国史上に登場するのは4世紀頃から。「辰韓」の「斯盧国」が前身とも言われるが、未詳。始祖朴赫居世。『日本書紀』においては、「任那」をめぐる強力な対立国として描かれている。7世紀後半には、唐と結び、百済を滅亡させ、高句麗を打ち破り、朝鮮半島を統一する。 新唐書 (しんとうじょ) 【書名】欧陽脩・宋祁(998-1061)撰。旧唐書に続く。唐代後半に詳しい。旧唐書の倭国伝・日本伝併載から、日本伝のみに変更した。全二百二十五巻。 →唐、 旧唐書 秦 (しん) 1)戦国七雄の一。始皇帝のとき、天下統一。劉邦により滅亡。三代十五年(前221-前206) 2)前秦。苻健が長安に建国(351-394) 3)後秦。姚萇が前秦を滅ぼし、建国(384-417) 4)西秦。乞伏乾帰が建国(385-431) 晋 (しん) 司馬炎が魏に代わって建国。始め洛陽、後に長安に都したが、316年に匈奴の侵入を受け建業に移った。匈奴侵入以前を西晋、侵入後を東晋ともいう。十五代百五十六年(西晋265-316、東晋317-420) →東晋、 晋書 晋書 (しんじょ) 【書名】唐・房玄齢(?-648)ら撰。全百三十巻。648年。 →晋 神武東征 (じんむとうせい) 初代の天皇と伝えられる神武天皇が九州の地から大和へ移動し、即位したという説話。 【河西コメント】九州における一豪族だった神武が東なる地に活路を求め、大和へ侵入した事件。はじめ、大阪湾からの侵入を図ったが、長髄彦にはばまれ挫折。後、吉野川を遡っての奇襲作戦に転じ、成功。ただし、神武の時点では「国家」(どんな形式であろうとも)の様相は持っておらず、崇神の代になってようやくその兆しが芽生えたものと思われる。これが、近畿王朝の始めであり、後の「日本」となる。 隋 (ずい) 北朝の一。楊堅が周を滅ぼし建国。南朝の陳をも滅ぼし、南北朝を統一。唐により滅亡。三代三十八年(581-618) →隋書 隋書 (ずいしょ) 【書名】唐・魏徴(580-643)撰。[イ妥]国伝(隋書では「倭国」でなく「[イ妥]国」と記す)における「日の出ずる処の天子」の文言は著名。 →隋 帥升 (すいしょう(?)) 倭王。後漢安帝永初元年(107)年に遣使した倭王。倭人中で中国史料に名を載せる、最古の人物。 斉 (せい) 1)南斉。 2)北斉。 →南斉書、 南斉、 北斉 山海経 (せんかいきょう) 【書名】著者未詳。前漢・劉秀、建平元年(前6)編。中国国内外の地理・民俗を綴った書で、儒家らの語る伝説とは異質の神話・伝承を残す。 前漢 (ぜんかん) 劉邦が秦を滅ぼして建国。王莽に取って代わられるまで。(前202-前8) →漢書、 漢 戦国策 (せんごくさく) 【書名】著者不明。漢・劉向(前77-前6)編。戦国七雄の時代から秦始皇帝の統一までの歴史を国別に綴る。三十三編。 先代旧事本紀 (せんだいきゅうじほんぎ) 【書名】平安朝頃か。推古朝時代の編纂と序文にあるが、疑われている。理由は以下のとおり。 1.内容が記紀を踏まえたものであること。 2.推古朝以降の記事を収録していること。 所謂「偽書」と見なされているが、「天孫本紀」「国造本紀」はそれぞれ、「物部氏伝承」「国造史料」として注目されている。 →旧事紀 宋 (そう) 南朝の一。劉裕により建国。斉により滅亡。八代五十九年(420-479) →宋書 宋書 (そうじょ) 【書名】梁・沈約(441-513)撰。南朝劉宋の同時代史。所謂「倭の五王」を載せ、注目されている。 →宋、 倭五王 た 多利思北孤 (たりしほこ(?)) 隋書にあらわれる[イ妥]国王。自ら天子を称し、煬帝の怒りを買った。仏教に厚く、政を聴く際も「結跏趺座」していたと言う。 【通説】天皇の称号「たらしひこ」を人名として記載したもの。 【直木孝次郎説】聖徳太子のこと。(直木孝次郎『日本の歴史』2, 1973年) 【古田武彦説】九州王朝の王のことであり、天皇家とは無関係。(古田武彦『失われた九州王朝』1973年) 短里 (たんり) 【古田武彦説】『魏志』の里単位は、漢や唐のそれよりも短い「短里」であるとする。漢・唐の一里=433~435メートルだが、魏・晋の一里=75メートルとする。周に起源があり、「千里馬」も漢・唐の千里なら、433~435キロであり馬の1日の移動距離としてはありえないが、一里=75メートルとすれば、75キロであり、「優秀な馬」なら何とか達成可能な距離である。 【谷本茂説】『周碑算経』の里単位も同様に、一里=75メートルと見なすべきである。 朝鮮 (ちょうせん) 1)箕子朝鮮。周の初、箕子が建てたとされる国。少なくとも、秦末漢初には実在し、衛満によって滅ぼされた。 2)衛氏朝鮮。衛満が亡命先で朝鮮王準から国を奪って建国。漢の武帝によって滅ぼされた。 陳 (ちん) 南朝の一。陳覇先が建国。隋によって滅亡(557-589) 通典 (つてん) 【書名】唐・杜祐編。801年。二百巻。政治上参考になるような古来の事実を集めた本。 天孫降臨 (てんそんこうりん) 「国譲り」の後、天照大神は、その孫・ににぎを「筑紫日向高千穂クシフル峯」に降臨させた説話。 【古田武彦説】弥生時代前期の実在の事件と見られる。実際には、壱岐・対馬の「天国」による、北部九州への侵略戦争。九州王朝の成立期である。 天皇 (てんのう) 日本の「最高位」の称号。(現代史における定義は、今の記述から省いておく) 7世紀頃からその使用が認められる。 【古田武彦説】最初に「天皇」号を名乗ったのは九州王朝。 【河西説】あくまで、「天皇家」が名乗った称号。 唐 (とう) 李淵が隋を滅ぼし建国。二十代二百八十九年(618-907) →新唐書、 旧唐書 唐会要 (とうかいよう) 【書名】宋・王傅編。北宋の建隆二(981)年。百巻。唐代の法令をまとめた書。 東晋 (とうしん) →晋 な 南史 (なんし) 【書名】唐・李延寿撰。659年。南北朝時代の南朝の歴史をまとめた書。北朝の歴史をまとめた『北史』と対を成す。 →北史 南斉 (なんせい) 南朝の一。蕭道成が建国。梁により滅亡。七代二十四年(479-502) →南斉書、 斉 南斉書 (なんせいじょ) 【書名】梁・蕭子顕撰。全五十九巻。 →倭五王、 南斉、 斉 二中歴 (にちゅうれき) 【書名】文保2年(1318)~延元4年(1339)に一旦成立。 文安年間(1444~8)頃、最終成立。 『掌中歴』と『懐中歴』の二書をあわせた辞典。 「年代歴」には、多くの逸年号を載せる。 →九州年号 二倍年暦 (にばいねんれき) 【古田武彦説】「二倍年暦」は古田武彦の命名。 最初に提唱したのは安本美典。 「一年二季暦」などの呼称もある。 魏志倭人伝の中に載せる魏略に、 「其の俗、正歳四節を知らず。但、春耕秋収を計りて年紀と為す」 とあり、ここから、倭人の暦は春耕と秋収を基準とした暦であるとする説。 今の1年365日の間に、年の区切りが二つあるので、この暦では、2年が経過することになる。 魏志倭人伝・記紀に見える長寿は、この反映と考えられる。 例えば神武天皇は古事記に依れば139歳で没したと言うが、二倍年暦だとすれば、実際は、68.5歳である。 日本 (にほん) 言わずと知れた我が国の国号。7世紀頃からその使用が見られるようになる。 【河西説】「日本」の国号は古く、神武が大和に移ってくる以前から、もともと近畿地方に住んでいた人々の国の呼称として用いられていた「ひのもと(日下)」であろう。後に、天皇家が自国の国号として継承したものと見られる。7世紀まで中国側の文献に見えないのは、「倭国」=九州王朝の傘下にいたためで、天皇家が「倭国」にとってかわった後、正式に国号となった。→「倭国と日本」 →倭、 大倭 日本書紀 (にほんしょき) 【書名】元正天皇養老四年(720年)、舎人親王撰。「六国史」の一。神代より持統天皇(位686-697)までを紀伝体で叙述。ただし、帝紀のみであって、列伝はない。継体天皇以降の叙述は一般的に信憑性が高いと言われており、特に推古天皇(位592-628)以後はかなり信頼できるとされる。全三十巻。 →記紀神話 は 白村江の戦 (はくすきのえのたたかい) 百済滅亡後、百済の再興を支持した倭国と、新羅・唐が衝突した戦争。百済の白江にて行われた。倭国軍は唐軍に大敗を喫した。 【古田武彦説】これによって倭国(=九州王朝)は滅亡したと考えられる。 卑弥呼 (ひみこ) 倭国の女王。魏に使いを送り、明帝を喜ばせた。倭国の戦乱の後、大人たちにより共立。倭人国三十国を統括するが、女王に属さぬ倭人国・狗奴国との対立の中で死す。 【出典】卑弥呼<三国志、魏志、倭人伝> 俾弥呼<三国志、魏志、明帝紀> 卑弥乎<三国史記、新羅本紀、阿達羅尼師今> →邪馬壹国 編年体 (へんねんたい) 歴史書の記述方法。年月を追って順次事件を記載して行く方法。古くから歴史書としてはポピュラーな形式だったが、「史記」が紀伝体をとって以来、正史の座は紀伝体の書に譲る。唐以降に再び盛んになり「資治通鑑」などは著名。 →紀伝体 北魏 (ほくぎ) 東晋の時、鮮卑の拓跋桂が建国。北朝の始。(386-534) →魏書、 魏 北史 (ほくし) 【書名】唐・李延寿撰。659年。南北朝時代の北朝の歴史をまとめた書。南朝の歴史をまとめた『南史』と対を成す。 →南史 北周 (ほくしゅう) 南北朝時代の北朝の一。宇文覚が建国。隋によって滅亡。五代二十五年(556-581) →周 北斉 (ほくせい) 北朝の一。高洋が建国。後周により滅亡。五代二十九年(549-577) →斉 ま 万葉集 (まんようしゅう) 【書名】日本最古の歌集。雄略天皇以降、奈良時代まで。 その歌風は総じて素朴といわれる。 任那日本府 (みまなにほんふ) 雄略紀から欽明紀にかけて登場する、任那における「日本」の施設。詳細は不明。実在すら疑われている。 【古田武彦説】九州王朝の任那における施設。 【河西コメント】あくまで、「日本」すなわち、天皇家の施設と見る。 任那 (みまな) 朝鮮半島南部の地域。古くから、韓人・倭人が雑居し、5~6世紀には新羅・百済・倭が久しくこの地域をめぐって対立した。加羅・駕洛などともいい、また小国連合であることが示唆されているが、未詳。 →加羅 文選 (もんぜん) 【書名】南朝梁の昭明太子(蕭統、501-531)撰。周から梁までの千年間の詩文約八百編を選ぶ。中国最古の選集。三十巻。 や 邪馬壹国 (やまいちこく(?)) いわゆる「邪馬台国」。ただし、「魏志倭人伝」による限り、「邪馬壹国」と記されている。 →卑弥呼、 魏志倭人伝、 邪馬台国 邪馬台国 (やまたいこく) 1) 魏志倭人伝に登場する卑弥呼の国の通称。本来は、魏志倭人伝に関する限り「邪馬壹国」と記述されている。 【松下見林説】「壹」は「臺」の誤り。 【古田武彦説】「壹」は「臺」の誤りではない。 2) 後漢書に登場する倭王の都。こちらは「邪馬臺国」で正しい。 「読み」に関して 【森博達説】「やまたいこく」では呉音と漢音を混交させた読みであり正しくない。「やまだい」(呉音)、「やばたい」(漢音)。 【河西コメント】「やまたい」なる読みは、もともと「やまと」に近い読みであると考えられた故のこと。本居宣長、新井白石に起源がある読み方。 →邪馬壹国 大倭 (やまと) 現在の奈良県の旧国名=大和。 【河西コメント】やまと(山跡)に「大倭」の字をつけたのは天武朝の頃。倭(わ)国=九州王朝の王位を簒奪し、首都を「やまと」に遷した際の命名と思われる。ここで、「倭」は国号から小国名に落とされたのである。 →倭、 日本 ら 梁 (りょう) 南朝の一。蕭衍により建国(502-557) →梁書 梁書 (りょうじょ) 【書名】唐・姚思廉、636年撰。 →梁、 倭五王 わ 倭 (わ(ゐ)) 中国史上に名を残す、日本列島の古代王朝。 【河西コメント】「倭国」の国号は九州王朝が名乗ったものであり、天皇家は一貫して「日本」を称した。 →日本、 大倭 倭五王 (わのごおう) 宋書から梁書の倭国伝に記された、「讃」「珍」「済」「興」「武」の五人の倭王。 【松下見林説】讃=履中、珍=反正、済=允恭、興=安康、武=雄略 【星野恒説】讃=仁徳、珍=反正、済=允恭、興=安康、武=雄略 【前田直典説】讃=応神、珍=仁徳、済=允恭、興=安康、武=雄略 【水野祐説】讃=仁徳、珍=反正、済=允恭、興=木梨軽皇子、武=雄略 【古田武彦説】系譜からいって、天皇家には当たらない為、九州王朝の王者と考えられる。 →宋書、 梁書、 南斉書 RIGHT:歴史学の方法に関連しそうな人たち(Historical)
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