古代史の真実・・・・朝鮮半島は中国人の国だった
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古代史の真実・・・・朝鮮半島は中国人の国だった
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古代史の真実・・・・朝鮮半島は中国人の国だった 紀元前の朝鮮半島は、箕子、衛氏という中国大陸からの亡命者および彼らに従って流入してきた中国人が支配していた。 漢の武帝により朝鮮が征服された後は、4郡に分けられて漢の直轄地とされたが、後に楽浪郡と玄菟郡の2つの郡に統一された。 公孫氏 2世紀後半、後漢の地方官であった公孫度は遼東太守に任命されたが、そのまま自立して半独立政権をうち立てた。 朝鮮半島では、楽浪郡に進出し、三世紀初めには度の嫡子、康は、楽浪郡の南に帯方郡を置いて南方の韓、倭(これは日本本土ではない。韓半島南部にいた倭人である)東方の濊を支配した。 康の子、淵のときになって魏に叛き、燕王を称した(236年)。 その後、238年司馬懿の討伐を受けて滅亡する。 帯方郡 公孫康が帯方郡を創設して韓半島を支配してから32年間、韓半島は公孫氏の支配に服していたが、公孫淵の滅亡とともに帯方郡は魏の直轄地となり、それは晋の時代まで続いた。 313年、高句麗が楽浪郡を占領した為、帯方郡は機能不全に陥り、帯方郡は滅亡する。 朝鮮半島は、公孫氏滅亡後、魏、続いて晋の直轄地となり、帯方郡太守の支配下に置かれた。 三国史記によると、百済、新羅は、このころすでに建国されていた筈だが、そのようなものは影も形も無い。 百済は紀元前18年、新羅が紀元前57年に建国されたことになっているが、この建国された国というものは、村落が数個集まって国と称していたもので、後世の我々の考えるような国ではない。 新羅 魏志韓伝によると、 「半島東半分の辰韓には、初めは6国あり後に分かれて12国、弁辰も12国、併せて24国である。弁辰と辰韓は雑居している。」 この内の斯盧国が後の新羅と言われているが、この頃は、数個の部落連合体よりなる小さな国である。 「大国は4~5千家、小国は6~7百家、併せて4~5万戸。辰朝12国は辰王に属するが、辰王は自立して王となることはできない。」 また、この国の人々は、前述の如く越や楚からの亡民で、越人は辰国、楚人は弁辰に分かれて国を作ったのである。 そうであるならば、斯盧国は越人の国であり、新羅も越人の国であるということが言えよう。 それが証拠に、以下の記述もある。 「その古老は世に伝えていう。古の亡人が秦の労役を逃れて韓国に来たのを、馬韓がその東の地を割いて与えた」 百済 魏志韓伝によると、50余の国に分かれ、そのうち、伯済国が後の百済であると言われている。 大国は万余戸、小国は数千戸、併せて十余万戸である。 「三国史記」によれば、高句麗二代目の瑠璃王の異母弟、温祚が馬韓に入り百済を建国したという。 ということは、百済は楚人の国であるということができる。 楚人の国である「濊」の主体が北に移って扶餘を建て、その一部が分かれて高句麗を建国したのであるから、その末裔である百済王は、当然楚人の血を濃厚に受け継いでいることになる。 こうして朝鮮半島の古代史を俯瞰してみると、歴代、この地を支配していた民族は、全て中国からの流民であることがわかる。 箕子は殷の王族、衛氏は燕、濊とその一部が移動して建てた扶餘、高句麗は楚人、馬韓は箕子の後裔であるから殷、辰韓は越人、弁辰は楚人である。 また、一時は漢の直接支配を受け、一時は公孫氏がこれを支配したこともある。 つまり、三世紀までの朝鮮半島は、常に中国本国や中国諸国の亡民に支配されていた。 そこには、朝鮮半島地生えの王朝など影も形もなかった。 はっきり言うと、古代朝鮮は中国人の国であったのである。 中国の文献だから中国に都合のよいように書いてあるのはあたりまえではないかと言われるむきもあろう。 しかし、古代には中国人という観念そのものが存在しなかった。 彼らは自分たちを楚、燕、越、斉などの古代国家の人間とは自覚していても、中国人とは思う筈はなかったのである。 最近中国が、高句麗は中国であったなどと言い出して韓国と言い争いをしているようだが、実は、高句麗はおろか、朝鮮半島全体が中国人の国であったのである。
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古代史の真実・・・・朝鮮半島は中国人の国だった 紀元前の朝鮮半島は、箕子、衛氏という中国大陸からの亡命者および彼らに従って流入してきた中国人が支配していた。 漢の武帝により朝鮮が征服された後は、4郡に分けられて漢の直轄地とされたが、後に楽浪郡と玄菟郡の2つの郡に統一された。 公孫氏 2世紀後半、後漢の地方官であった公孫度は遼東太守に任命されたが、そのまま自立して半独立政権をうち立てた。 朝鮮半島では、楽浪郡に進出し、三世紀初めには度の嫡子、康は、楽浪郡の南に帯方郡を置いて南方の韓、倭(これは日本本土ではない。韓半島南部にいた倭人である)東方の濊を支配した。 康の子、淵のときになって魏に叛き、燕王を称した(236年)。 その後、238年司馬懿の討伐を受けて滅亡する。 帯方郡 公孫康が帯方郡を創設して韓半島を支配してから32年間、韓半島は公孫氏の支配に服していたが、公孫淵の滅亡とともに帯方郡は魏の直轄地となり、それは晋の時代まで続いた。 313年、高句麗が楽浪郡を占領した為、帯方郡は機能不全に陥り、帯方郡は滅亡する。 朝鮮半島は、公孫氏滅亡後、魏、続いて晋の直轄地となり、帯方郡太守の支配下に置かれた。 三国史記によると、百済、新羅は、このころすでに建国されていた筈だが、そのようなものは影も形も無い。 百済は紀元前18年、新羅が紀元前57年に建国されたことになっているが、この建国された国というものは、村落が数個集まって国と称していたもので、後世の我々の考えるような国ではない。 新羅 魏志韓伝によると、 「半島東半分の辰韓には、初めは6国あり後に分かれて12国、弁辰も12国、併せて24国である。弁辰と辰韓は雑居している。」 この内の斯盧国が後の新羅と言われているが、この頃は、数個の部落連合体よりなる小さな国である。 「大国は4~5千家、小国は6~7百家、併せて4~5万戸。辰朝12国は辰王に属するが、辰王は自立して王となることはできない。」 また、この国の人々は、前述の如く越や楚からの亡民で、越人は辰国、楚人は弁辰に分かれて国を作ったのである。 そうであるならば、斯盧国は越人の国であり、新羅も越人の国であるということが言えよう。 それが証拠に、以下の記述もある。 「その古老は世に伝えていう。古の亡人が秦の労役を逃れて韓国に来たのを、馬韓がその東の地を割いて与えた」 百済 魏志韓伝によると、50余の国に分かれ、そのうち、伯済国が後の百済であると言われている。 大国は万余戸、小国は数千戸、併せて十余万戸である。 「三国史記」によれば、高句麗二代目の瑠璃王の異母弟、温祚が馬韓に入り百済を建国したという。 ということは、百済は楚人の国であるということができる。 楚人の国である「濊」の主体が北に移って扶餘を建て、その一部が分かれて高句麗を建国したのであるから、その末裔である百済王は、当然楚人の血を濃厚に受け継いでいることになる。 こうして朝鮮半島の古代史を俯瞰してみると、歴代、この地を支配していた民族は、全て中国からの流民であることがわかる。 箕子は殷の王族、衛氏は燕、濊とその一部が移動して建てた扶餘、高句麗は楚人、馬韓は箕子の後裔であるから殷、辰韓は越人、弁辰は楚人である。 また、一時は漢の直接支配を受け、一時は公孫氏がこれを支配したこともある。 つまり、三世紀までの朝鮮半島は、常に中国本国や中国諸国の亡民に支配されていた。 そこには、朝鮮半島地生えの王朝など影も形もなかった。 はっきり言うと、古代朝鮮は中国人の国であったのである。 中国の文献だから中国に都合のよいように書いてあるのはあたりまえではないかと言われるむきもあろう。 しかし、古代には中国人という観念そのものが存在しなかった。 彼らは自分たちを楚、燕、越、斉などの古代国家の人間とは自覚していても、中国人とは思う筈はなかったのである。 最近中国が、高句麗は中国であったなどと言い出して韓国と言い争いをしているようだが、実は、高句麗はおろか、朝鮮半島全体が中国人の国であったのである。
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