大中臣輔親
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大中臣輔親
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***大中臣輔親 [#e04411e2] 大中臣輔親(?-1038) ①父:能宣 母:藤原清兼女 ②子供:伊勢大輔 ③平安中期歌人。 ④正三位神祇伯。祭主。 [中臣氏] #style(class=box_blue_ssm){{ }} 大中臣輔親 生没年:954-1038 父:伊勢神宮祭主 大中臣能宣 号:四条、岩出 中古三十六歌仙 986 文章生 988 勘解由判官 991 従五位下 995 美作守 1001 伊勢神宮祭主 1007 従五位上 1007 正五位下 1010 従四位下 1012 従四位上 1016 正四位下 1022-1038 神祗伯 1034 従三位 1036 正三位 妻:蔵命婦 女: 輔隆 ?-1062? 中古三十六歌仙 伊勢大輔(筑前守 高階成順室) 守孝 #style(class=box_blue_ssm){{ }} 大中臣輔親 おおなかとみのすけちか 天暦八~長暦二(954-1038) 祭主頼基の孫。祭主神祇伯能宣の子。母は越後守藤原清兼女。子に伊勢大輔がいる。 寛和二年(986)、文章生に補せられる。永延二年(988)、勘解由判官。永祚二年(990)、皇太后宮権少進。正暦二年(991)、従五位下。その後美作介を経て、長保三年(1001)、伊勢神宮祭主となり、ついで神祇権大副に任ぜられる。寛弘五年(1008)、神祇大副。同六年、従四位下。治安二年 (1022)、神祇伯。長元九年(1036)、正三位に至る。長暦二年(1038)六月二日、月次使として伊勢下向の途中に薨じた。八十五歳。 大中臣家重代歌人として名声高く、屏風歌などで活躍した。三条・後一条・後朱雀三代の天皇の大嘗会和歌を詠進。長元八年(1035)には関白左大臣頼通家歌合で判者を務める。拾遺集初出。勅撰入集三十一首。家集『輔親卿集』がある。中古三十六歌仙。
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***大中臣輔親 [#e04411e2] 大中臣輔親(?-1038) ①父:能宣 母:藤原清兼女 ②子供:伊勢大輔 ③平安中期歌人。 ④正三位神祇伯。祭主。 [中臣氏] #style(class=box_blue_ssm){{ }} 大中臣輔親 生没年:954-1038 父:伊勢神宮祭主 大中臣能宣 号:四条、岩出 中古三十六歌仙 986 文章生 988 勘解由判官 991 従五位下 995 美作守 1001 伊勢神宮祭主 1007 従五位上 1007 正五位下 1010 従四位下 1012 従四位上 1016 正四位下 1022-1038 神祗伯 1034 従三位 1036 正三位 妻:蔵命婦 女: 輔隆 ?-1062? 中古三十六歌仙 伊勢大輔(筑前守 高階成順室) 守孝 #style(class=box_blue_ssm){{ }} 大中臣輔親 おおなかとみのすけちか 天暦八~長暦二(954-1038) 祭主頼基の孫。祭主神祇伯能宣の子。母は越後守藤原清兼女。子に伊勢大輔がいる。 寛和二年(986)、文章生に補せられる。永延二年(988)、勘解由判官。永祚二年(990)、皇太后宮権少進。正暦二年(991)、従五位下。その後美作介を経て、長保三年(1001)、伊勢神宮祭主となり、ついで神祇権大副に任ぜられる。寛弘五年(1008)、神祇大副。同六年、従四位下。治安二年 (1022)、神祇伯。長元九年(1036)、正三位に至る。長暦二年(1038)六月二日、月次使として伊勢下向の途中に薨じた。八十五歳。 大中臣家重代歌人として名声高く、屏風歌などで活躍した。三条・後一条・後朱雀三代の天皇の大嘗会和歌を詠進。長元八年(1035)には関白左大臣頼通家歌合で判者を務める。拾遺集初出。勅撰入集三十一首。家集『輔親卿集』がある。中古三十六歌仙。
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