有馬家(丸岡藩)
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有馬家(丸岡藩)
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[[江戸大名公家]] 有馬家 丸岡藩 五つ瓜に唐花 5万石 越前坂井郡丸岡(福井県坂井市丸岡町) 譜代格 城主 移封加減増履歴・天正14年→肥前日野江4万石・慶長19年→日向延岡5万3000石・元禄4年→越後糸魚川5万石・元禄8年→越前丸岡 江戸城詰席・帝鑑之間 子爵 上屋敷・幸橋之内(安永)→ 芝宇田川町(文久)→一橋御門外(明治) 参勤・参府は6月で丑卯巳未酉亥の年、帰国も6月で子寅辰午申戌の年 人口・元禄8年(1695)頃→全領地2万1782人、城下2579人 藩祖・晴信(はるのぶ) 有馬義直の次男 母は某氏 生没・永禄10年(1567)~慶長18年(1613) 天正14年(1586)肥前日野江4万石を領有す 慶長14年(1609)長崎に来航したポルトガル船デウス号を晴信が撃沈、同船に前年マカオで晴信の持ち船の乗組員50余人が殺された事件に関与した人物ベッソアが乗船していたためであった。 慶長17年(1612)岡本大八事件により所領収公、甲斐都留郡へ配流され、翌慶長18年斬罪 岡本大八事件とは、家康の側近本多正純の与力岡本大八が、晴信を欺いて賄賂を詐取しこことを指す。岡本は先年のデウス号撃沈の功により、晴信の領地加増の内意が主人本多正純に達しているが、希望の領地があれば幕閣へ斡旋すると、晴信に持ち掛けた。晴信は父祖の代に領有し現在は龍造寺氏から鍋島氏の領地となっている旧領を取り戻したいと熱望していたので、岡本に多額の金品を斡旋用に渡した。ところが1年以上経っても岡本から連絡がないため、晴信は直接本多正純に問い合わせた。これにより岡本の賄賂着服が露見するが、逆恨みした岡本が晴信の長崎奉行暗殺計画を暴露する。これにより岡本は火刑、晴信も領地没収、配流・斬罪となった。岡本、晴信ともキリシタンだったことから禁教令発布の端緒となった 従五位下修理大夫 正室・家臣山田純規の娘 継室・今出川晴季(14代経季の祖父)の娘 子女・2代直純 女子→今出川季持室、後に離縁 2代・直純(なおずみ) 晴信長男 母は正室山田純規の娘 生没・天正14年(1586)~寛永18年(1641) 家康に近侍し、慶長17年(1612)父晴信の所領を与えられる 慶長19年(1614)1万3000石を加増され、日向延岡へ移封 従五位下左衛門佐 正室・家康の養女国姫(岡崎藩本多忠政の娘) 子女・3代康純 女子→岡崎藩本多政勝室 女子→本多政勝養妹 女子→館林藩秋元富朝室 3代・康純(やすすみ) 直純長男 母は正室徳川家康の養女国姫 生没・慶長18年(1613)~元禄5年(1692) 家督・寛永18年(1641)相続 従五位下左衛門佐 延宝7年(1679)隠居 正室・水野忠清の娘(信濃松本藩主、子孫は刃傷事件により除封、が、名跡相続が許され沼津藩水野家として存続) 継室・白河藩阿部忠秋の養女 子女・4代清純 女子→大村藩大村純長室 純息(別家) 純富(別家) 女子→近江大溝藩分部嘉高室 4代・清純(きよすみ) 康純長男 母は継室阿部忠秋の養女 生没・正保元年(1644)~元禄15年(1702) 家督・延宝7年(1679)相続、弟純息に1800石、純富に1000石分与 元禄4年(1691)領内不行届につき領地収公、許されて同年越後糸魚川へ移封 従五位下左衛門佐 正室・岸和田藩岡部行隆の娘 継室・竜野藩脇坂安政の娘 子女・5代一準 女子→櫛羅藩永井直亮室 5代・一準(かずのり) 清純長男 母は皆吉氏 生没・元禄10年(1697)~宝暦7年(1757) 家督・元禄16年(1703)相続 正徳元年(1711)譜代に准ぜられ、帝鑑之間詰となる 従五位下左衛門佐 享保18年(1733)隠居 正室・長州藩毛利吉広の養女(長門府中藩毛利匡広の娘) 子女・6代孝純 女子→鯖江藩間部詮方室 女子→広瀬藩松平近輝室 女子→加納藩永井直陳の嫡子尚俶と婚約も相手病没により、岡部藩安部信允室 重広(長州藩毛利重就養子) 6代・孝純(たかすみ) 一準長男 母は山本氏 生没・正徳5年(1715)~宝暦7年(1757) 家督・享保18年(1723)相続 従五位下日向守 正室・淀藩稲葉正知の娘 子女・忠可(山崎藩本多忠堯養子) 7代允純 7代・允純(まさすみ) 孝純の子 母は正室稲葉正知の娘 生没・延享4年(1747)~安永元年(1772) 家督・宝暦7年(1757)相続 従五位下左衛門佐 正室・今治藩松平定温の娘 子女・8代誉純 8代・誉純(しげすみ) 允純長男 母は村田氏 生没・明和3年(1766)~天保7年(1836) 家督・安永元年(1772)相続 従五位下左兵衛佐 天保元年(1830)隠居 正室・淀藩稲葉正弘の娘 子女・養子久昵(薩摩藩島津重豪の子) 養子徳純(9代) 女子→9代徳純室 9代・徳純(のりずみ) 高田藩榊原正敦の子 母は某氏 生没・文化元年(1804)~天保8年(1837) 家督・天保元年(1830)相続 従五位下左衛門佐 正室・誉純の娘 子女・養子温純(10代) 朗次(美作勝山藩三浦義次養子) 10代・温純(はるずみ) 旗本戸田純佑の長男 母は某氏 生没・文政12年(1829)~安政2年(1855) 家督・天保9年(1838)相続 従四位下日向守 正室・今治藩松平勝道の養女 継室・高田藩榊原政養の娘 継室・大垣藩戸田氏正の娘 子女・養子道純(11代) 女子→高田藩榊原政敬室 11代・道純(みちずみ) 山崎藩本多忠鄰の子 母は某氏 生没・天保8年(1837)~明治36年(1903) 家督・安政2年(1855)相続 従五位下遠江守 正室・宇都宮藩戸田忠温の娘
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[[江戸大名公家]] 有馬家 丸岡藩 五つ瓜に唐花 5万石 越前坂井郡丸岡(福井県坂井市丸岡町) 譜代格 城主 移封加減増履歴・天正14年→肥前日野江4万石・慶長19年→日向延岡5万3000石・元禄4年→越後糸魚川5万石・元禄8年→越前丸岡 江戸城詰席・帝鑑之間 子爵 上屋敷・幸橋之内(安永)→ 芝宇田川町(文久)→一橋御門外(明治) 参勤・参府は6月で丑卯巳未酉亥の年、帰国も6月で子寅辰午申戌の年 人口・元禄8年(1695)頃→全領地2万1782人、城下2579人 藩祖・晴信(はるのぶ) 有馬義直の次男 母は某氏 生没・永禄10年(1567)~慶長18年(1613) 天正14年(1586)肥前日野江4万石を領有す 慶長14年(1609)長崎に来航したポルトガル船デウス号を晴信が撃沈、同船に前年マカオで晴信の持ち船の乗組員50余人が殺された事件に関与した人物ベッソアが乗船していたためであった。 慶長17年(1612)岡本大八事件により所領収公、甲斐都留郡へ配流され、翌慶長18年斬罪 岡本大八事件とは、家康の側近本多正純の与力岡本大八が、晴信を欺いて賄賂を詐取しこことを指す。岡本は先年のデウス号撃沈の功により、晴信の領地加増の内意が主人本多正純に達しているが、希望の領地があれば幕閣へ斡旋すると、晴信に持ち掛けた。晴信は父祖の代に領有し現在は龍造寺氏から鍋島氏の領地となっている旧領を取り戻したいと熱望していたので、岡本に多額の金品を斡旋用に渡した。ところが1年以上経っても岡本から連絡がないため、晴信は直接本多正純に問い合わせた。これにより岡本の賄賂着服が露見するが、逆恨みした岡本が晴信の長崎奉行暗殺計画を暴露する。これにより岡本は火刑、晴信も領地没収、配流・斬罪となった。岡本、晴信ともキリシタンだったことから禁教令発布の端緒となった 従五位下修理大夫 正室・家臣山田純規の娘 継室・今出川晴季(14代経季の祖父)の娘 子女・2代直純 女子→今出川季持室、後に離縁 2代・直純(なおずみ) 晴信長男 母は正室山田純規の娘 生没・天正14年(1586)~寛永18年(1641) 家康に近侍し、慶長17年(1612)父晴信の所領を与えられる 慶長19年(1614)1万3000石を加増され、日向延岡へ移封 従五位下左衛門佐 正室・家康の養女国姫(岡崎藩本多忠政の娘) 子女・3代康純 女子→岡崎藩本多政勝室 女子→本多政勝養妹 女子→館林藩秋元富朝室 3代・康純(やすすみ) 直純長男 母は正室徳川家康の養女国姫 生没・慶長18年(1613)~元禄5年(1692) 家督・寛永18年(1641)相続 従五位下左衛門佐 延宝7年(1679)隠居 正室・水野忠清の娘(信濃松本藩主、子孫は刃傷事件により除封、が、名跡相続が許され沼津藩水野家として存続) 継室・白河藩阿部忠秋の養女 子女・4代清純 女子→大村藩大村純長室 純息(別家) 純富(別家) 女子→近江大溝藩分部嘉高室 4代・清純(きよすみ) 康純長男 母は継室阿部忠秋の養女 生没・正保元年(1644)~元禄15年(1702) 家督・延宝7年(1679)相続、弟純息に1800石、純富に1000石分与 元禄4年(1691)領内不行届につき領地収公、許されて同年越後糸魚川へ移封 従五位下左衛門佐 正室・岸和田藩岡部行隆の娘 継室・竜野藩脇坂安政の娘 子女・5代一準 女子→櫛羅藩永井直亮室 5代・一準(かずのり) 清純長男 母は皆吉氏 生没・元禄10年(1697)~宝暦7年(1757) 家督・元禄16年(1703)相続 正徳元年(1711)譜代に准ぜられ、帝鑑之間詰となる 従五位下左衛門佐 享保18年(1733)隠居 正室・長州藩毛利吉広の養女(長門府中藩毛利匡広の娘) 子女・6代孝純 女子→鯖江藩間部詮方室 女子→広瀬藩松平近輝室 女子→加納藩永井直陳の嫡子尚俶と婚約も相手病没により、岡部藩安部信允室 重広(長州藩毛利重就養子) 6代・孝純(たかすみ) 一準長男 母は山本氏 生没・正徳5年(1715)~宝暦7年(1757) 家督・享保18年(1723)相続 従五位下日向守 正室・淀藩稲葉正知の娘 子女・忠可(山崎藩本多忠堯養子) 7代允純 7代・允純(まさすみ) 孝純の子 母は正室稲葉正知の娘 生没・延享4年(1747)~安永元年(1772) 家督・宝暦7年(1757)相続 従五位下左衛門佐 正室・今治藩松平定温の娘 子女・8代誉純 8代・誉純(しげすみ) 允純長男 母は村田氏 生没・明和3年(1766)~天保7年(1836) 家督・安永元年(1772)相続 従五位下左兵衛佐 天保元年(1830)隠居 正室・淀藩稲葉正弘の娘 子女・養子久昵(薩摩藩島津重豪の子) 養子徳純(9代) 女子→9代徳純室 9代・徳純(のりずみ) 高田藩榊原正敦の子 母は某氏 生没・文化元年(1804)~天保8年(1837) 家督・天保元年(1830)相続 従五位下左衛門佐 正室・誉純の娘 子女・養子温純(10代) 朗次(美作勝山藩三浦義次養子) 10代・温純(はるずみ) 旗本戸田純佑の長男 母は某氏 生没・文政12年(1829)~安政2年(1855) 家督・天保9年(1838)相続 従四位下日向守 正室・今治藩松平勝道の養女 継室・高田藩榊原政養の娘 継室・大垣藩戸田氏正の娘 子女・養子道純(11代) 女子→高田藩榊原政敬室 11代・道純(みちずみ) 山崎藩本多忠鄰の子 母は某氏 生没・天保8年(1837)~明治36年(1903) 家督・安政2年(1855)相続 従五位下遠江守 正室・宇都宮藩戸田忠温の娘
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