毛利家(徳山藩)
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毛利家(徳山藩)
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[[江戸大名公家]] 毛利家 徳山藩 達磨沢潟 4万石 周防都濃郡徳山(山口県周南市) 外様 城主格(天保7年) 移封加減増履歴・寛永11年→4万5000石・慶安3年→周防徳山・享保元年→除封・享保4年→周防徳山3万石・天保7年→4万石 専売品&専売開始年・紙(寛文5年) 江戸城詰席・柳之間 子爵 上屋敷・赤坂今井谷 参勤・供数150人、道中費用は銀75貫目(年代不詳) 人口・全領地→寛政10年(1798)4万3593人 弘化 3年(1846)6万5077人 藩祖・就隆(なりたか) 毛利輝元の次男 母は児玉元良の娘(元良は毛利家家臣) 生没・慶長7年(1602)~延宝7年(1679) 寛永11年(1634)兄の本家長州藩藩祖秀就より4万5000石を分与される 慶安3年(1650)居所を都濃郡野上に定め、名を徳山と改めて町づくりを始める 従五位下日向守 正室・長門府中藩毛利秀元の娘 継室・中川重政の娘(重政は信長の使番=黒母衣衆、その後、家康に仕える) 子女・女子→葉室頼孝室 女子→安房勝山藩酒井忠国室 2代元賢 元次(元賢養子、3代) 女子→下総高岡藩井上政蔽室 2代・元賢(もとかた) 就隆五男 母は継室中川重政の娘 生没・寛文10年(1670)~元禄3年(1690) 家督・延宝7年(1679)相続 従五位下日向守 正室・小浜藩酒井忠直の娘 子女・養子元次(3代) 3代・元次(もとつぐ) 藩祖就隆の四男 母は某氏 生没・寛文7年(1667)~享保4年(1719) 家督・元禄3年(1690)相続 正徳5年(1715)万役山(まんにゃくやま)事件が起き、翌正徳6年徳山藩は除封される 万役山事件とは、徳山藩と本家長州藩の境界域にある万役山で百姓親子が境界より若干徳山領にあった松の木一本を伐採したことに始まる 伐採した松木を百姓親子が持ち帰ろうとしているところを、徳山藩の山廻り役人が見咎め、口論の末に百姓親子を殺傷する、これが引き金となり徳山藩と本家長州藩が対立してしまう 本家は伐採地を長州藩領とし徳山藩の山廻り役の死罪を要求し、徳山藩は伐採地は徳山領であり最初に手を出したのは百姓親子だとして互いに譲らず、遂に本家として面目が立たない長州藩が幕府に徳山藩主元次の隠居とその嫡子元堯の家督相続を願い出る ところが、幕府の裁定は長州藩でも予想外の徳山藩除封というものであった、徳山藩の所領地は本家長州藩へ返還され、徳山藩主元次は出羽新庄藩へお預けとなる ここに奈古屋里人(なごやりじん)という者が登場する、彼は今回の事件で徳山藩主元次を諫言し追放された老臣であったが、彼を中心に徳山藩再興運動が起こる、百姓姿で江戸へ上り「徳山御領百姓中」の名で書いた嘆願書を幕閣要人らの屋敷への投げ文を繰り返す、これが幕閣を動かし、また本家長州藩の力添えもあって享保4年(1719)5月に徳山藩再興が許されることになる 従五位下飛騨守 正室・新見藩関長政の養女 継室・常陸府中藩松平頼隆の娘 子女・女子→小見川藩内田正偏室 4代元堯 女子→淀藩稲葉正恒室 広豊(元堯養子、5代) 4代・元堯(もとたか) 元次次男 母は某氏 生没・元禄15年(1702)~享保6年(1721) 家督・享保4年(1719)旧領の内3万石が復され、当主となる 従五位下日向守 正室・なし 子女・養子広豊(5代) 5代・広豊(ひろとよ) 3代元次の三男 母は某氏 生没・宝永6年(1709)~安永2年(1773) 家督・享保6年(1721)相続 従五位下山城守 宝暦8年(1758)隠居 正室・尼崎藩松平忠喬の娘 子女・6代広寛 女子→八条隆輔室 経倫(岩国藩吉川経永養子) 就馴(広寛養子、7代) 女子→姉小路公聡室 6代・広寛(ひろとも) 広豊次男 母は某氏 生没・享保20年(1735)~明和元年(1764) 家督・宝暦8年(1758)相続 従五位下志摩守 正室・広島新田藩浅野長賢の娘 子女・養子就馴(7代) 7代・就馴(たかよし) 5代広豊の11男 母は某氏 生没・寛延3年(1750)~文政11年(1828) 家督・明和元年(1764)相続 従五位下石見守 寛政9年(1797)隠居 正室・新見藩関政富の娘 子女・女子→安中藩板倉勝意室 8代広鎮 女子→岩国藩吉川経礼室 8代・広鎮(ひろしげ) 就馴次男 母は正室関氏 生没・安永6年(1777)~慶応元年(1865) 家督・寛政9年(1797)相続 従五位下日向守 天保8年(1837)隠居 正室・伊達氏 継室・秋元氏 子女・9代元蕃 志朝(館林藩秋元久朝養子) 元徳(長州藩毛利敬親養子) 9代・元蕃(もとみつ) 広鎮七男 母は秋元氏 生没・文化13年(1816)~明治17年(1884) 家督・天保8年(1837)相続 第二次長州征討、鳥羽伏見、青森箱館の戦いに歴戦して勲功を立てる、明治2年賞典禄8000石を下賜され、さらに5000石を3年間給される 明治2年(1869)徳山藩知事 明治4年(1871)徳山藩領を本家長州藩に返還する 従三位淡路守 正室・長州藩毛利斉熙の娘
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[[江戸大名公家]] 毛利家 徳山藩 達磨沢潟 4万石 周防都濃郡徳山(山口県周南市) 外様 城主格(天保7年) 移封加減増履歴・寛永11年→4万5000石・慶安3年→周防徳山・享保元年→除封・享保4年→周防徳山3万石・天保7年→4万石 専売品&専売開始年・紙(寛文5年) 江戸城詰席・柳之間 子爵 上屋敷・赤坂今井谷 参勤・供数150人、道中費用は銀75貫目(年代不詳) 人口・全領地→寛政10年(1798)4万3593人 弘化 3年(1846)6万5077人 藩祖・就隆(なりたか) 毛利輝元の次男 母は児玉元良の娘(元良は毛利家家臣) 生没・慶長7年(1602)~延宝7年(1679) 寛永11年(1634)兄の本家長州藩藩祖秀就より4万5000石を分与される 慶安3年(1650)居所を都濃郡野上に定め、名を徳山と改めて町づくりを始める 従五位下日向守 正室・長門府中藩毛利秀元の娘 継室・中川重政の娘(重政は信長の使番=黒母衣衆、その後、家康に仕える) 子女・女子→葉室頼孝室 女子→安房勝山藩酒井忠国室 2代元賢 元次(元賢養子、3代) 女子→下総高岡藩井上政蔽室 2代・元賢(もとかた) 就隆五男 母は継室中川重政の娘 生没・寛文10年(1670)~元禄3年(1690) 家督・延宝7年(1679)相続 従五位下日向守 正室・小浜藩酒井忠直の娘 子女・養子元次(3代) 3代・元次(もとつぐ) 藩祖就隆の四男 母は某氏 生没・寛文7年(1667)~享保4年(1719) 家督・元禄3年(1690)相続 正徳5年(1715)万役山(まんにゃくやま)事件が起き、翌正徳6年徳山藩は除封される 万役山事件とは、徳山藩と本家長州藩の境界域にある万役山で百姓親子が境界より若干徳山領にあった松の木一本を伐採したことに始まる 伐採した松木を百姓親子が持ち帰ろうとしているところを、徳山藩の山廻り役人が見咎め、口論の末に百姓親子を殺傷する、これが引き金となり徳山藩と本家長州藩が対立してしまう 本家は伐採地を長州藩領とし徳山藩の山廻り役の死罪を要求し、徳山藩は伐採地は徳山領であり最初に手を出したのは百姓親子だとして互いに譲らず、遂に本家として面目が立たない長州藩が幕府に徳山藩主元次の隠居とその嫡子元堯の家督相続を願い出る ところが、幕府の裁定は長州藩でも予想外の徳山藩除封というものであった、徳山藩の所領地は本家長州藩へ返還され、徳山藩主元次は出羽新庄藩へお預けとなる ここに奈古屋里人(なごやりじん)という者が登場する、彼は今回の事件で徳山藩主元次を諫言し追放された老臣であったが、彼を中心に徳山藩再興運動が起こる、百姓姿で江戸へ上り「徳山御領百姓中」の名で書いた嘆願書を幕閣要人らの屋敷への投げ文を繰り返す、これが幕閣を動かし、また本家長州藩の力添えもあって享保4年(1719)5月に徳山藩再興が許されることになる 従五位下飛騨守 正室・新見藩関長政の養女 継室・常陸府中藩松平頼隆の娘 子女・女子→小見川藩内田正偏室 4代元堯 女子→淀藩稲葉正恒室 広豊(元堯養子、5代) 4代・元堯(もとたか) 元次次男 母は某氏 生没・元禄15年(1702)~享保6年(1721) 家督・享保4年(1719)旧領の内3万石が復され、当主となる 従五位下日向守 正室・なし 子女・養子広豊(5代) 5代・広豊(ひろとよ) 3代元次の三男 母は某氏 生没・宝永6年(1709)~安永2年(1773) 家督・享保6年(1721)相続 従五位下山城守 宝暦8年(1758)隠居 正室・尼崎藩松平忠喬の娘 子女・6代広寛 女子→八条隆輔室 経倫(岩国藩吉川経永養子) 就馴(広寛養子、7代) 女子→姉小路公聡室 6代・広寛(ひろとも) 広豊次男 母は某氏 生没・享保20年(1735)~明和元年(1764) 家督・宝暦8年(1758)相続 従五位下志摩守 正室・広島新田藩浅野長賢の娘 子女・養子就馴(7代) 7代・就馴(たかよし) 5代広豊の11男 母は某氏 生没・寛延3年(1750)~文政11年(1828) 家督・明和元年(1764)相続 従五位下石見守 寛政9年(1797)隠居 正室・新見藩関政富の娘 子女・女子→安中藩板倉勝意室 8代広鎮 女子→岩国藩吉川経礼室 8代・広鎮(ひろしげ) 就馴次男 母は正室関氏 生没・安永6年(1777)~慶応元年(1865) 家督・寛政9年(1797)相続 従五位下日向守 天保8年(1837)隠居 正室・伊達氏 継室・秋元氏 子女・9代元蕃 志朝(館林藩秋元久朝養子) 元徳(長州藩毛利敬親養子) 9代・元蕃(もとみつ) 広鎮七男 母は秋元氏 生没・文化13年(1816)~明治17年(1884) 家督・天保8年(1837)相続 第二次長州征討、鳥羽伏見、青森箱館の戦いに歴戦して勲功を立てる、明治2年賞典禄8000石を下賜され、さらに5000石を3年間給される 明治2年(1869)徳山藩知事 明治4年(1871)徳山藩領を本家長州藩に返還する 従三位淡路守 正室・長州藩毛利斉熙の娘
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