水野家(沼津藩)
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水野家(沼津藩)
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[[江戸大名公家]] 水野家 沼津藩 丸に立て沢潟 5万石 駿河駿東郡沼津(静岡県沼津市) 譜代 城主 移封加減増履歴・明和5年→三河大浜1万3000石・安永6年→駿河沼津2万石・文政12年→5万石 江戸城詰席・帝鑑之間 子爵 上屋敷・辰ノ口北角(安永)→大名小路(文久)→外桜田(明治) ■当家は水野忠重の三男忠清(結城藩藩祖勝成の弟)を家祖としている。 当家は信濃松本7万石を領有していたが、水野忠恒(酒好きで奇行癖があったらしい)が当主だった享保10年(1725)、忠恒が江戸城において長門府中藩毛利匡広の養嗣子師就へ刃傷沙汰に及び、除封されてしまう。 名跡相続は忠恒の叔父にあたる忠穀に許されたが、大名としての存続ではなく7000石の旗本としてであった。 大名に再び復すのは刃傷事件から約40年後、忠穀の長男である忠友の時代となる。 ■明治元年(1869)徳川将軍家の駿河入封により上総菊間に移される。 藩祖・忠友(ただとも) 旗本水野忠穀の長男 母は某氏 生没・享保16年(1731)~享和2年(1802) 寛保2年(1742)遺跡7000石を相続 明和5年(1768)側衆より若年寄に進み、加増されて1万3000石となる 安永6年(1777)側用人に進む 天明元年(1781)老中格 天明5年(1785)老中に進み3万石を領有す 天明8年(1788)老中を辞任 従四位下侍従兼出羽守 正室・小諸藩牧野康周の娘 子女・養子忠徳(田沼意次の四男、天明6年に離縁) 養子忠成(2代) 女子→郡上藩青山幸完室 女子→忠徳と離縁後に忠成室 2代・忠成(ただあきら) 旗本岡野知暁の次男 母は旗本奥田忠英の娘 生没・宝暦12年(1762)~天保5年(1834) 家督・分家水野忠隣の養子となり、その遺跡を継いでいたが、天明6年(1786)忠友の養子となり、享和2年(1802)に忠友の遺領を相続する 文化14年(1817)老中(格)に進み、翌年老中 従四位下侍従兼出羽守 正室・忠友の娘 子女・3代忠義 3代・忠義(ただよし) 忠成長男 母は某氏 生没・寛政4年(1792)~天保13年(1842) 家督・天保5年(1834)相続 従五位下出羽守 正室・西尾藩松平乗寛の娘 子女・4代忠武 忠良(忠武養子、5代) 女子→菰野藩土方雄嘉室 4代・忠武(ただたけ) 忠義次男 母は某氏 生没・文政7年(1824)~弘化元年(1844) 家督・天保13年(1842)相続 従五位下出羽守 正室・長州藩毛利斉熙の娘 子女・養子忠良(5代) 5代・忠良(ただなが) 3代忠義の次男 母は某氏 生没・天保5年(1834)~安政5年(1858) 家督・弘化元年(1844)相続 従五位下出羽守 正室・不詳 子女・養子忠寛(6代) 6代・忠寛(ただひろ) 旗本水野忠紹の長男 母は某氏 生没・文化4年(1807)~明治7年(1874) 家督・安政5年(1858)相続 安政6年(1859)側用人となる 文久2年(1862)側用人を辞任し隠居 従四位下出羽守 正室・牧野忠救の娘(忠救から4代後の忠泰は越後三根山藩藩祖となっている) 子女・養子忠誠(7代) 7代・忠誠(ただのぶ) 岡崎藩本多忠考の四男 母は某氏 生没・天保5年(1834)~慶応2年(1866) 家督・文久2年(1862)相続 慶応2年(1866)老中に進む 従四位下出羽守 正室・不詳 子女・養子忠敬(8代) 8代・忠敬(ただのり) 旗本水野忠明の次男 母は某氏 生没・嘉永4年(1851)~明治40年(1907) 家督・慶応2年(1866)相続 従五位下出羽守 正室・大多喜藩松平正和の娘
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[[江戸大名公家]] 水野家 沼津藩 丸に立て沢潟 5万石 駿河駿東郡沼津(静岡県沼津市) 譜代 城主 移封加減増履歴・明和5年→三河大浜1万3000石・安永6年→駿河沼津2万石・文政12年→5万石 江戸城詰席・帝鑑之間 子爵 上屋敷・辰ノ口北角(安永)→大名小路(文久)→外桜田(明治) ■当家は水野忠重の三男忠清(結城藩藩祖勝成の弟)を家祖としている。 当家は信濃松本7万石を領有していたが、水野忠恒(酒好きで奇行癖があったらしい)が当主だった享保10年(1725)、忠恒が江戸城において長門府中藩毛利匡広の養嗣子師就へ刃傷沙汰に及び、除封されてしまう。 名跡相続は忠恒の叔父にあたる忠穀に許されたが、大名としての存続ではなく7000石の旗本としてであった。 大名に再び復すのは刃傷事件から約40年後、忠穀の長男である忠友の時代となる。 ■明治元年(1869)徳川将軍家の駿河入封により上総菊間に移される。 藩祖・忠友(ただとも) 旗本水野忠穀の長男 母は某氏 生没・享保16年(1731)~享和2年(1802) 寛保2年(1742)遺跡7000石を相続 明和5年(1768)側衆より若年寄に進み、加増されて1万3000石となる 安永6年(1777)側用人に進む 天明元年(1781)老中格 天明5年(1785)老中に進み3万石を領有す 天明8年(1788)老中を辞任 従四位下侍従兼出羽守 正室・小諸藩牧野康周の娘 子女・養子忠徳(田沼意次の四男、天明6年に離縁) 養子忠成(2代) 女子→郡上藩青山幸完室 女子→忠徳と離縁後に忠成室 2代・忠成(ただあきら) 旗本岡野知暁の次男 母は旗本奥田忠英の娘 生没・宝暦12年(1762)~天保5年(1834) 家督・分家水野忠隣の養子となり、その遺跡を継いでいたが、天明6年(1786)忠友の養子となり、享和2年(1802)に忠友の遺領を相続する 文化14年(1817)老中(格)に進み、翌年老中 従四位下侍従兼出羽守 正室・忠友の娘 子女・3代忠義 3代・忠義(ただよし) 忠成長男 母は某氏 生没・寛政4年(1792)~天保13年(1842) 家督・天保5年(1834)相続 従五位下出羽守 正室・西尾藩松平乗寛の娘 子女・4代忠武 忠良(忠武養子、5代) 女子→菰野藩土方雄嘉室 4代・忠武(ただたけ) 忠義次男 母は某氏 生没・文政7年(1824)~弘化元年(1844) 家督・天保13年(1842)相続 従五位下出羽守 正室・長州藩毛利斉熙の娘 子女・養子忠良(5代) 5代・忠良(ただなが) 3代忠義の次男 母は某氏 生没・天保5年(1834)~安政5年(1858) 家督・弘化元年(1844)相続 従五位下出羽守 正室・不詳 子女・養子忠寛(6代) 6代・忠寛(ただひろ) 旗本水野忠紹の長男 母は某氏 生没・文化4年(1807)~明治7年(1874) 家督・安政5年(1858)相続 安政6年(1859)側用人となる 文久2年(1862)側用人を辞任し隠居 従四位下出羽守 正室・牧野忠救の娘(忠救から4代後の忠泰は越後三根山藩藩祖となっている) 子女・養子忠誠(7代) 7代・忠誠(ただのぶ) 岡崎藩本多忠考の四男 母は某氏 生没・天保5年(1834)~慶応2年(1866) 家督・文久2年(1862)相続 慶応2年(1866)老中に進む 従四位下出羽守 正室・不詳 子女・養子忠敬(8代) 8代・忠敬(ただのり) 旗本水野忠明の次男 母は某氏 生没・嘉永4年(1851)~明治40年(1907) 家督・慶応2年(1866)相続 従五位下出羽守 正室・大多喜藩松平正和の娘
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