石川麻呂
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石川麻呂
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[[天皇家]] 名前 蘇我石川麻呂、蘇我倉山田麻呂、倉山田臣、山田臣、山田大臣 親族 父 倉麻呂(蘇我馬子の子) 母 妻 子 興子(こごし) 遠智娘(天智天皇の妃) 乳娘(ちのいらつめ)(孝徳天皇の妃) 造媛(みやつこひめ)(中大兄の妃) 兄弟 赤兄(あかえ) 連子(むらじこ)(石川安麻呂の父) 略歴(07世紀) 生年月日不詳 蘇我倉麻呂の子として生まれる。 645-乙巳-皇極04年06月08日 中大兄皇子や中臣鎌足らから蘇我入鹿の殺害計画を打ち明けられ同意する。 当日に「三韓の上表文」を読む役を引き受ける。 645-乙巳-皇極04年06月12日 三韓の調べを貢ぐ日 、上表文を読み上げているが、緊張感から冷や汗と震えを蘇我入鹿に咎められたという。直後、入鹿殺害は実行される。 645-乙巳-皇極04年06月13日 入鹿殺害の功でか、右大臣となる。 649-己酉-大化05年03月24日 異母弟阿倍内麻呂に密告される 孝徳天皇は、石川麻呂を救うべく奔走したといわれるが、中大兄と鎌足の筋書き通りに事は進む。 難波を逃れてくるのを大和でで山田寺の造営中であった長子の興子(こごし)は今木(高市)で迎える。 649-己酉-大化05年03月25日 孝徳天皇もやむなく「石川麻呂謀反」に同意させられ兵を派遣する。 興子は小墾田宮を焼き追討軍に対抗しようとしたが石川麻呂はそれを許さず、山田寺で「願はくはわが生生世世(しょうじょうせぜ)に君王を怨み奉らじ」として妻子8人とともに自害して果てたとされている。 書紀では、後に無実であったことが分かり後悔したとあるが、中大兄は、密告した蘇我日向を筑紫大宰帥に任じるなど事件に関与する人物を宮から遠ざけ、真相解明をしようとする動きを封じてしまっ ている。最初から鎌足と中大兄により仕組まれた謀反劇であったという説もある。 この時すでに実権は孝徳天皇にはなく、中大兄と鎌足にあったのでしょう。 関連
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[[天皇家]] 名前 蘇我石川麻呂、蘇我倉山田麻呂、倉山田臣、山田臣、山田大臣 親族 父 倉麻呂(蘇我馬子の子) 母 妻 子 興子(こごし) 遠智娘(天智天皇の妃) 乳娘(ちのいらつめ)(孝徳天皇の妃) 造媛(みやつこひめ)(中大兄の妃) 兄弟 赤兄(あかえ) 連子(むらじこ)(石川安麻呂の父) 略歴(07世紀) 生年月日不詳 蘇我倉麻呂の子として生まれる。 645-乙巳-皇極04年06月08日 中大兄皇子や中臣鎌足らから蘇我入鹿の殺害計画を打ち明けられ同意する。 当日に「三韓の上表文」を読む役を引き受ける。 645-乙巳-皇極04年06月12日 三韓の調べを貢ぐ日 、上表文を読み上げているが、緊張感から冷や汗と震えを蘇我入鹿に咎められたという。直後、入鹿殺害は実行される。 645-乙巳-皇極04年06月13日 入鹿殺害の功でか、右大臣となる。 649-己酉-大化05年03月24日 異母弟阿倍内麻呂に密告される 孝徳天皇は、石川麻呂を救うべく奔走したといわれるが、中大兄と鎌足の筋書き通りに事は進む。 難波を逃れてくるのを大和でで山田寺の造営中であった長子の興子(こごし)は今木(高市)で迎える。 649-己酉-大化05年03月25日 孝徳天皇もやむなく「石川麻呂謀反」に同意させられ兵を派遣する。 興子は小墾田宮を焼き追討軍に対抗しようとしたが石川麻呂はそれを許さず、山田寺で「願はくはわが生生世世(しょうじょうせぜ)に君王を怨み奉らじ」として妻子8人とともに自害して果てたとされている。 書紀では、後に無実であったことが分かり後悔したとあるが、中大兄は、密告した蘇我日向を筑紫大宰帥に任じるなど事件に関与する人物を宮から遠ざけ、真相解明をしようとする動きを封じてしまっ ている。最初から鎌足と中大兄により仕組まれた謀反劇であったという説もある。 この時すでに実権は孝徳天皇にはなく、中大兄と鎌足にあったのでしょう。 関連
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