網野善彦『「日本」とは何か』日本の歴史00(Historical)
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網野善彦『「日本」とは何か』日本の歴史00(Historical)
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[[書評(Historical)]] #menu(menu_Historical) ''網野善彦『「日本」とは何か』'' 網野善彦『「日本」とは何か』日本の歴史00、講談社、2000年 この本は、講談社の『日本の歴史』全26巻の第00巻として書かれたものです。 網野善彦は、これより以前から、「日本」について様々な議論を提示してきました。 例えば、『東と西の語る日本の古代史』や『日本論の視座』などです。 こうした氏の著書で展開される「日本」観は、ある意味では非常に新しく、またある意味では、非常に古いものである、と言うことが出来ます。 網野は、この『「日本」とは何か』において、何度も、「日本列島が一つである」という発想を批判します。 戦後の「単一民族神話」とも言うべき、「日本」観、「日本民族」観への批判です。 網野は、このように強調します。 「ここで再三のくり返しになるが、あらためて強調しておきたいのは、「日本人」という語は日本国の国制の下にある人間集団をさす言葉であり、この言葉の意味はそれ以上でも以下でもないということである。」(p.87) これは、「はるか昔から日本列島には日本民族と称すべき民族が住んでいた」という従来の発想を徹底して批判したものです。 津田左右吉や和辻哲郎、それに柳田國男らの「島国日本」という発想と、それに付随してきた温厚で単一的な農耕民族という発想はもとより、江上波夫などの騎馬民族説もまた、そういった「単一民族」観の枠内にあると、私は見なしています。 なぜなら、そうした発想は、「日本人の起源」という問題意識の延長にあり、津田と江上の違いは、日本人が何処から来たか、という点においてのみであると言って良いからです。 網野の主張は、この「日本人の起源」という発想を、根本から疑うものです。 「聖徳太子は倭人であり、日本国の成立以前であるから厳密には日本人ではない」というようなことを網野は繰り返し述べていますが、これは、単なる用語法についてとやかく言っているのではなく、その背後にある「日本」「日本人」に対する偏見の打破に向けられているのだということです。 しかしながら、私からすれば、網野の言い方は、やや問題があるようにも思えます。 網野は、「民族」の問題を除外します。 これは、確かに、必要な措置かもしれません。 しかし、網野の意見に拠れば、今、アイヌという国が無い以上、アイヌ人はいない、ということになります。 これは網野にとっても、困った問題でしょう。 だから、今の議論から、「民族」の問題をひとまず除外しておくのです。 おそらく、「民族」にせよ「国家」にせよ、それらは、それ自体として存在していると言うよりは、関係において捉えるべきなのだろうと思います。 ですから、網野が、「日本」という意識は外国勢力(異域・異界)を意識した時に形成されると言っているのは、「国家」や「民族」がまさに「関係」の所産であることを物語っているのだろうという気がします。 網野のこうした「日本」論は、そうした意味で多くの可能性を含んでいるのであり、注目していいと思います。
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[[書評(Historical)]] #menu(menu_Historical) ''網野善彦『「日本」とは何か』'' 網野善彦『「日本」とは何か』日本の歴史00、講談社、2000年 この本は、講談社の『日本の歴史』全26巻の第00巻として書かれたものです。 網野善彦は、これより以前から、「日本」について様々な議論を提示してきました。 例えば、『東と西の語る日本の古代史』や『日本論の視座』などです。 こうした氏の著書で展開される「日本」観は、ある意味では非常に新しく、またある意味では、非常に古いものである、と言うことが出来ます。 網野は、この『「日本」とは何か』において、何度も、「日本列島が一つである」という発想を批判します。 戦後の「単一民族神話」とも言うべき、「日本」観、「日本民族」観への批判です。 網野は、このように強調します。 「ここで再三のくり返しになるが、あらためて強調しておきたいのは、「日本人」という語は日本国の国制の下にある人間集団をさす言葉であり、この言葉の意味はそれ以上でも以下でもないということである。」(p.87) これは、「はるか昔から日本列島には日本民族と称すべき民族が住んでいた」という従来の発想を徹底して批判したものです。 津田左右吉や和辻哲郎、それに柳田國男らの「島国日本」という発想と、それに付随してきた温厚で単一的な農耕民族という発想はもとより、江上波夫などの騎馬民族説もまた、そういった「単一民族」観の枠内にあると、私は見なしています。 なぜなら、そうした発想は、「日本人の起源」という問題意識の延長にあり、津田と江上の違いは、日本人が何処から来たか、という点においてのみであると言って良いからです。 網野の主張は、この「日本人の起源」という発想を、根本から疑うものです。 「聖徳太子は倭人であり、日本国の成立以前であるから厳密には日本人ではない」というようなことを網野は繰り返し述べていますが、これは、単なる用語法についてとやかく言っているのではなく、その背後にある「日本」「日本人」に対する偏見の打破に向けられているのだということです。 しかしながら、私からすれば、網野の言い方は、やや問題があるようにも思えます。 網野は、「民族」の問題を除外します。 これは、確かに、必要な措置かもしれません。 しかし、網野の意見に拠れば、今、アイヌという国が無い以上、アイヌ人はいない、ということになります。 これは網野にとっても、困った問題でしょう。 だから、今の議論から、「民族」の問題をひとまず除外しておくのです。 おそらく、「民族」にせよ「国家」にせよ、それらは、それ自体として存在していると言うよりは、関係において捉えるべきなのだろうと思います。 ですから、網野が、「日本」という意識は外国勢力(異域・異界)を意識した時に形成されると言っているのは、「国家」や「民族」がまさに「関係」の所産であることを物語っているのだろうという気がします。 網野のこうした「日本」論は、そうした意味で多くの可能性を含んでいるのであり、注目していいと思います。
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