聖武天皇
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聖武天皇
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***聖武天皇(首皇子) [#re02e0e5] 生没年:701-756 父:文武天皇 714-724 皇太子 724-749 聖武天皇 皇后:光明皇后 藤原安宿媛(父:贈太政大臣正一位 藤原不比等) 718-770 阿部内親王 727-728 基王(夭折) 夫人:県犬養広刀自(父:県犬養唐) -775 井上内親王(夫:光仁天皇) 727-744 安積親王 不破内親王(夫:塩焼王) 夫人:正二位 広岡古那可智(父:侍従 橘佐為) 妃:(父:贈左大臣正一位 藤原房前) 妃:(父:大宰帥従一位 藤原武智麿) #style(class=box_blue_ssm){{ }} [[天皇家]] 名前 第45代 聖武天皇(しょうむてんのう)、首(おびと)、天璽国押開豊桜彦尊(あめしるしくにおしはるきとよさくらひこ) 親族 父=文武天皇 母=藤原宮子 皇后=藤原安宿媛(ふじわらのあすかべ)(光明子・光明皇后) 子 孝謙天皇 皇居 平城宮、恭仁宮、難波宮、紫香楽宮(離宮)(滋賀県甲賀郡信楽町) 陵墓 陵墓名:佐保山南陵(さぼやまのみなみのみささぎ) 形状:山形 所在地:奈良市法蓮町 聖武天皇陵墓看板 聖武天皇陵墓参道 聖武天皇陵墓 聖武天皇皇后墓 御陵印 略歴 (8世紀) 701-辛丑-大宝01年 生誕 714-甲寅-和銅07年06月25日 立太子 724-甲子-神亀01年02月04日 叔母にあたる元正天皇の譲位により即位 24歳 この日、一品の舎人親王に500戸加増、二本の新田部親王には一品を、従二位の長屋王には正二位を、その他の叙位を行っている。 724-甲子-神亀01年02月06日 母である正一位の藤原夫人(宮子)を尊び大夫人(おおきさき)と称することとするなどの叙位を行う。 724-甲子-神亀01年03月01日 吉野宮へ行幸 724-甲子-神亀01年03月03日 平城宮へ還幸 724-甲子-神亀01年03月22日 母藤原宮子を大夫人と呼ぶことについて長屋王から異論がでる。 大夫人(おおきさき)は撤回され「皇太夫人」または「大御租」とすることとなった。 724-甲子-神亀01年10月05日 紀伊国へ行幸 724-甲子-神亀01年10月07日 紀伊国那賀郡玉垣の勾頓宮に到着 724-甲子-神亀01年10月08日 海部郡玉津島(和歌浦の玉津神社あたり)の頓宮に至り10日ほど滞在。 724-甲子-神亀01年10月12日 離宮を岡の西(神社の西北)に造る 724-甲子-神亀01年10月21日 平城宮への帰途につき和泉国所石(大阪府高石市所石)の頓宮(かりみや)に到着 724-甲子-神亀01年10月23日 平城宮に帰還 725-乙丑-神亀02年10月10日 難波宮に行幸。 726-丙寅-神亀03年10月07日 播磨国印南野に行幸 726-丙寅-神亀03年10月10日 印南野の邑美頓宮(おみのかりみや)(明石郡邑美郷)に至る 726-丙寅-神亀03年10月19日 帰途につき難波宮に至る。 726-丙寅-神亀03年10月26日 従三位の藤原朝臣宇合を知造難波宮事(造営長官)に任じる。 726-丙寅-神亀03年10月29日 平城宮に帰着 727-丁卯-神亀04年01月01日 朝賀の儀は雨天中止 727-丁卯-神亀04年01月03日 大極殿で官人の朝賀を受ける 727-丁卯-神亀04年05月04日 甕原離宮(みかのはら)へ行幸(後の恭仁京) 727-丁卯-神亀04年05月06日 平城宮に帰還 727-丁卯-神亀04年閏09月29日 光明子に皇子誕生 727-丁卯-神亀04年11月21日 藤原夫人(光明子)に食封千戸を賜う 728-戊辰-神亀05年12月27日 「金光明経」 10巻ずつ計640巻を諸国に与える 729-己巳-神亀年02月10日 長屋王が国家を倒そうとしているとの密告 734-甲戌-天平06年03月10日 難波宮に行幸 734-甲戌-天平06年03月17日 難波宮を出発し竹原井頓宮に宿泊(現在の大阪府柏原市) 734-甲戌-天平06年03月19日 平城宮に帰る 736-丙子-天平08年03月01日 甕原離宮へ行幸 736-丙子-天平08年03月05日 平城宮に帰る 736-丙子-天平08年06月27日 吉野離宮へ行幸 736-丙子-天平08年07月13日 平城宮に帰る 737-丁丑-天平09年03月03日 諸国に対し高さ一丈六尺の釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ、釈尊)の造営と大般若経一部の書写を命ずる。 738-戊寅-天平10年01月13日 阿倍内親王(孝謙天皇)を皇太子とする。 740-庚辰-天平12年02月07日 難波宮に行幸 740--庚辰-天平12年02月19日 平城宮に帰る 740-庚辰-天平12年06月29日 国毎に法華経十部の書写とあわせて七重塔一区の建立を命ずる 740-庚辰-天平12年10月29日 伊勢国に行幸 740-庚辰-天平12年10月30日 伊勢国名張郡に到着 740-庚辰-天平12年11月02日 伊勢国壱志郡の河口頓宮に到着。関宮と称した。この日から10日間留まる。 740-庚辰-天平12年11月12日 河口を出発 740-庚辰-天平12年11月26日 美濃国当芸郡に到着 740-庚辰-天平12年12月13日 志賀の山寺(崇福寺)に行幸し仏を拝む 740-庚辰-天平12年12月15日 恭仁京に行幸し、ここを都と定め造営を開始する。 741-辛巳-天平13年02月14日 国分寺建立の詔。諸国に七重塔を中心に僧寺・尼寺を整備、僧寺は金光明四天王護国之寺と名づけて僧二十名を置き、封戸(ふこ、そこからの税収を私有できる公民)五十戸と水田十町を施入、尼寺は法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)と名づけ尼十名を置き、水田十町を施入することを命ぜられた。国分寺造営の詔である。 743-癸未-天平15年10月15日 東大寺大仏建立の詔 744-乙申-天平16年02月26日 恭仁宮から難波宮に遷都 745-乙酉-天平17年01月01日 朝賀の儀は中止される 745-乙酉-天平17年01月21日 行基法師を大僧正に任じる 745-乙酉-天平17年04月 離宮紫香楽宮付近で放火と見られる火災が頻発する。 745-乙酉-天平17年05月10日 05月01日からこの日まで連日の地震。火災(放火)や地震の頻発で多勢の人が平城京に戻り甲賀宮の治安は最悪となる 745-乙酉-天平17年05月11日 恭仁京から平城京に行幸。都を平城京に戻す 745-乙酉-天平17年08月28日 難波宮に行幸する。 745-乙酉-天平17年09月17日 重病に陥る 745-乙酉-天平17年09月25日 病状が多少好転したのか平城京に還幸。 745-乙酉-天平17年12月15日 恭仁宮の武器を平城京に運ばせる 746-丙戌-天平18年01月01日 朝賀の儀は取止め 746-丙戌-天平18年10月06日 この日、元正上皇、光明皇后を伴い金鍾寺(こんしゅじ)に行幸、盧舎那仏に対し15700の灯火をともす燃灯供養法要が行われた。また、夜には数千の僧侶に灯火をかかげて仏像の周囲を三周させた。深夜にいたって平城宮に還幸。 金鍾寺は後に東大寺となっていく寺だが、むろん大仏はまだ完成していない。おそらくは鋳型が完成したか、鋳型の元となる雄型が完成したものと思われる。 747-丁亥-天平19年09月29日 東大寺の大仏の鋳造が始まる 754-甲午-天平勝宝06年07月19日 母である太皇太后藤原宮子が平城宮の中宮で崩ずる。 756-丙申-天平勝宝08年05月02日 崩御 56歳
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***聖武天皇(首皇子) [#re02e0e5] 生没年:701-756 父:文武天皇 714-724 皇太子 724-749 聖武天皇 皇后:光明皇后 藤原安宿媛(父:贈太政大臣正一位 藤原不比等) 718-770 阿部内親王 727-728 基王(夭折) 夫人:県犬養広刀自(父:県犬養唐) -775 井上内親王(夫:光仁天皇) 727-744 安積親王 不破内親王(夫:塩焼王) 夫人:正二位 広岡古那可智(父:侍従 橘佐為) 妃:(父:贈左大臣正一位 藤原房前) 妃:(父:大宰帥従一位 藤原武智麿) #style(class=box_blue_ssm){{ }} [[天皇家]] 名前 第45代 聖武天皇(しょうむてんのう)、首(おびと)、天璽国押開豊桜彦尊(あめしるしくにおしはるきとよさくらひこ) 親族 父=文武天皇 母=藤原宮子 皇后=藤原安宿媛(ふじわらのあすかべ)(光明子・光明皇后) 子 孝謙天皇 皇居 平城宮、恭仁宮、難波宮、紫香楽宮(離宮)(滋賀県甲賀郡信楽町) 陵墓 陵墓名:佐保山南陵(さぼやまのみなみのみささぎ) 形状:山形 所在地:奈良市法蓮町 聖武天皇陵墓看板 聖武天皇陵墓参道 聖武天皇陵墓 聖武天皇皇后墓 御陵印 略歴 (8世紀) 701-辛丑-大宝01年 生誕 714-甲寅-和銅07年06月25日 立太子 724-甲子-神亀01年02月04日 叔母にあたる元正天皇の譲位により即位 24歳 この日、一品の舎人親王に500戸加増、二本の新田部親王には一品を、従二位の長屋王には正二位を、その他の叙位を行っている。 724-甲子-神亀01年02月06日 母である正一位の藤原夫人(宮子)を尊び大夫人(おおきさき)と称することとするなどの叙位を行う。 724-甲子-神亀01年03月01日 吉野宮へ行幸 724-甲子-神亀01年03月03日 平城宮へ還幸 724-甲子-神亀01年03月22日 母藤原宮子を大夫人と呼ぶことについて長屋王から異論がでる。 大夫人(おおきさき)は撤回され「皇太夫人」または「大御租」とすることとなった。 724-甲子-神亀01年10月05日 紀伊国へ行幸 724-甲子-神亀01年10月07日 紀伊国那賀郡玉垣の勾頓宮に到着 724-甲子-神亀01年10月08日 海部郡玉津島(和歌浦の玉津神社あたり)の頓宮に至り10日ほど滞在。 724-甲子-神亀01年10月12日 離宮を岡の西(神社の西北)に造る 724-甲子-神亀01年10月21日 平城宮への帰途につき和泉国所石(大阪府高石市所石)の頓宮(かりみや)に到着 724-甲子-神亀01年10月23日 平城宮に帰還 725-乙丑-神亀02年10月10日 難波宮に行幸。 726-丙寅-神亀03年10月07日 播磨国印南野に行幸 726-丙寅-神亀03年10月10日 印南野の邑美頓宮(おみのかりみや)(明石郡邑美郷)に至る 726-丙寅-神亀03年10月19日 帰途につき難波宮に至る。 726-丙寅-神亀03年10月26日 従三位の藤原朝臣宇合を知造難波宮事(造営長官)に任じる。 726-丙寅-神亀03年10月29日 平城宮に帰着 727-丁卯-神亀04年01月01日 朝賀の儀は雨天中止 727-丁卯-神亀04年01月03日 大極殿で官人の朝賀を受ける 727-丁卯-神亀04年05月04日 甕原離宮(みかのはら)へ行幸(後の恭仁京) 727-丁卯-神亀04年05月06日 平城宮に帰還 727-丁卯-神亀04年閏09月29日 光明子に皇子誕生 727-丁卯-神亀04年11月21日 藤原夫人(光明子)に食封千戸を賜う 728-戊辰-神亀05年12月27日 「金光明経」 10巻ずつ計640巻を諸国に与える 729-己巳-神亀年02月10日 長屋王が国家を倒そうとしているとの密告 734-甲戌-天平06年03月10日 難波宮に行幸 734-甲戌-天平06年03月17日 難波宮を出発し竹原井頓宮に宿泊(現在の大阪府柏原市) 734-甲戌-天平06年03月19日 平城宮に帰る 736-丙子-天平08年03月01日 甕原離宮へ行幸 736-丙子-天平08年03月05日 平城宮に帰る 736-丙子-天平08年06月27日 吉野離宮へ行幸 736-丙子-天平08年07月13日 平城宮に帰る 737-丁丑-天平09年03月03日 諸国に対し高さ一丈六尺の釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ、釈尊)の造営と大般若経一部の書写を命ずる。 738-戊寅-天平10年01月13日 阿倍内親王(孝謙天皇)を皇太子とする。 740-庚辰-天平12年02月07日 難波宮に行幸 740--庚辰-天平12年02月19日 平城宮に帰る 740-庚辰-天平12年06月29日 国毎に法華経十部の書写とあわせて七重塔一区の建立を命ずる 740-庚辰-天平12年10月29日 伊勢国に行幸 740-庚辰-天平12年10月30日 伊勢国名張郡に到着 740-庚辰-天平12年11月02日 伊勢国壱志郡の河口頓宮に到着。関宮と称した。この日から10日間留まる。 740-庚辰-天平12年11月12日 河口を出発 740-庚辰-天平12年11月26日 美濃国当芸郡に到着 740-庚辰-天平12年12月13日 志賀の山寺(崇福寺)に行幸し仏を拝む 740-庚辰-天平12年12月15日 恭仁京に行幸し、ここを都と定め造営を開始する。 741-辛巳-天平13年02月14日 国分寺建立の詔。諸国に七重塔を中心に僧寺・尼寺を整備、僧寺は金光明四天王護国之寺と名づけて僧二十名を置き、封戸(ふこ、そこからの税収を私有できる公民)五十戸と水田十町を施入、尼寺は法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)と名づけ尼十名を置き、水田十町を施入することを命ぜられた。国分寺造営の詔である。 743-癸未-天平15年10月15日 東大寺大仏建立の詔 744-乙申-天平16年02月26日 恭仁宮から難波宮に遷都 745-乙酉-天平17年01月01日 朝賀の儀は中止される 745-乙酉-天平17年01月21日 行基法師を大僧正に任じる 745-乙酉-天平17年04月 離宮紫香楽宮付近で放火と見られる火災が頻発する。 745-乙酉-天平17年05月10日 05月01日からこの日まで連日の地震。火災(放火)や地震の頻発で多勢の人が平城京に戻り甲賀宮の治安は最悪となる 745-乙酉-天平17年05月11日 恭仁京から平城京に行幸。都を平城京に戻す 745-乙酉-天平17年08月28日 難波宮に行幸する。 745-乙酉-天平17年09月17日 重病に陥る 745-乙酉-天平17年09月25日 病状が多少好転したのか平城京に還幸。 745-乙酉-天平17年12月15日 恭仁宮の武器を平城京に運ばせる 746-丙戌-天平18年01月01日 朝賀の儀は取止め 746-丙戌-天平18年10月06日 この日、元正上皇、光明皇后を伴い金鍾寺(こんしゅじ)に行幸、盧舎那仏に対し15700の灯火をともす燃灯供養法要が行われた。また、夜には数千の僧侶に灯火をかかげて仏像の周囲を三周させた。深夜にいたって平城宮に還幸。 金鍾寺は後に東大寺となっていく寺だが、むろん大仏はまだ完成していない。おそらくは鋳型が完成したか、鋳型の元となる雄型が完成したものと思われる。 747-丁亥-天平19年09月29日 東大寺の大仏の鋳造が始まる 754-甲午-天平勝宝06年07月19日 母である太皇太后藤原宮子が平城宮の中宮で崩ずる。 756-丙申-天平勝宝08年05月02日 崩御 56歳
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