藤井松平家(上山藩)
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藤井松平家(上山藩)
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***藤井松平家 上山(かみのやま)藩 白丸片喰 [#n26e1d45] 3万石 出羽村山郡上山(山形県上山市) 譜代 城主 移封加減増履歴・貞享3年→大和興留1万石・元禄6年→備中庭瀬3万石・元禄10年→出羽上山 江戸城詰席・帝鑑之間 子爵 上屋敷・麻布新堀端 家数・全領地2200軒 嘉永5年(1852)現在 ■藩祖信通の父信之は播磨明石から大和郡山へ、その後に老中へ進んで下総古河へ移封されるが、明石の時代に幕命により陽明学の熊沢蕃山(くまざわばんざん)を預かっている。 監視させるために幕府は預けたのであるが、熊沢蕃山の思想(山林保護・参勤交代の廃止・浪人の救済など)に信之は傾倒していったようである。 信之は貞享3年に没するが、この年に蕃山は「大学或問」(だいがくわくもん)を著わし、この書において幕府を批判したため、幕命により信之の嫡男で家督を継いだ忠之のもとで禁固処分とされる。 蕃山は元禄3年に73歳で忠之のもとで没するが、忠之は父の信之と同様に蕃山を師事していたようで、治水工事に蕃山の意見を採り入れているとされる(古河に遺る蕃山堤など)。 忠之は元禄6年11月24日に「発狂」により除封されるのであるが、その日の前日夕刻に老中戸田忠昌の内意を伝える3人の使者を上屋敷に迎え入れ、使者が帰ったその夜、忠之は小刀で唐紙を切り、髪を髻から断ち切った。これを乱心とされたのである。 忠之が除封されたこの頃は、将軍綱吉が元禄3年に上野忍ヶ岡にあった朱子学の林羅山により開設された聖堂を本郷湯島に移して庇護した時代である。幕府は忠之の日頃の言動に蕃山の影響力を見ていたものと思われる。 藩祖・信通(のぶみち) 松平信之の次男 母は小出吉英の娘(吉英は当時出石藩主だが、子孫は無嗣除封) 生没・延宝4年(1676)~享保7年(1722) 貞享3年(1686)父の遺領古河9万石の内1万石を分与される、元禄6年(1693)父の遺領を相続した兄忠之の※発狂により古河8万石は除封されるも、信通には名跡として1万石が加増される 従五位下越中守 正室・備中松山藩板倉重常の娘 子女・2代長恒 養女(信通の叔父松平忠栄の娘)→水口藩加藤明治室 2代・長恒(ながつね) 信通次男 母は熊谷氏 生没・正徳4年(1714)~安永8年(1779) 家督・享保7年(1722)相続 享保17年(1732)隠居 正室・なし 子女・養子信将(3代) 3代・信将(のぶまさ) 上田藩松平忠昭の五男 母は鈴木氏 生没・享保2年(1717)~宝暦11年(1761) 家督・享保17年(1732)相続 従五位下山城守 正室・大垣藩戸田氏長の娘 継室・津山藩松平宣富の娘 子女・4代信亨 養女(上田藩松平忠昭の子忠隆の娘)→四辻公亨室 4代・信亨(のぶつら) 信将長男 母は某氏 生没・延享2年(1745)~寛政8年(1796) 家督・宝暦11年(1761)相続 従五位下山城守 寛政2年(1790)隠居 正室・長州藩毛利重就の娘 子女・5代信古 信愛(信古養子、6代) 女子→信愛養女 5代・信古(のぶふる) 信亨長男 母は鳥居氏 生没・明和6年(1769)~寛政8年(1796) 家督・寛政2年(1790)相続 従五位下山城守 正室・島原藩松平忠恕の娘 子女・養子信愛(6代) 6代・信愛(のぶざね) 4代信亨の四男 母は某氏 生没・安永8年(1779)~文化2年(1805) 家督・寛政8年(1796)相続 従五位下山城守 正室・杵築藩松平親貞の娘 子女・養子信行(7代) 養女(信亨の娘)→信行室 7代・信行(のぶゆき) 津山藩松平康哉の四男 母は某氏 生没・寛政2年(1790)~明治6年(1873) 家督・文化2年(1805)相続 従五位下安房守 天保2年(1831)隠居 正室・信愛の養女 継室・篠山藩青山忠講の娘 子女・8代信宝 女子→一関藩田村邦顕室 女子→福江藩五島盛成室、後に旗本松平信順室 8代・信宝(のぶみち) 信行長男 母は三橋氏 生没・文化14年(1817)~明治5年(1872) 家督・天保2年(1831)相続 従五位下中務少輔 文久2年(1862)隠居 正室・新庄藩戸沢正胤の娘 継室・宮津藩本庄宗発の娘 子女・9代信庸 信安 女子→麻田藩青木重義室、後に関宿藩久世広業室 9代・信庸(のぶつね) 信宝長男 母は土屋氏 生没・弘化元年(1844)~大正7年(1918) 家督・文久2年(1862)相続 慶応4年(1868)奥羽越列藩同盟に参加し、隠居謹慎を命ぜられるも、養子信安に上山2万7000石が新たに与えられる 従五位下山城守 正室・唐津藩小笠原長国の娘 子女・養子信安(信庸の弟) 女子→高知新田藩山内豊福室
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***藤井松平家 上山(かみのやま)藩 白丸片喰 [#n26e1d45] 3万石 出羽村山郡上山(山形県上山市) 譜代 城主 移封加減増履歴・貞享3年→大和興留1万石・元禄6年→備中庭瀬3万石・元禄10年→出羽上山 江戸城詰席・帝鑑之間 子爵 上屋敷・麻布新堀端 家数・全領地2200軒 嘉永5年(1852)現在 ■藩祖信通の父信之は播磨明石から大和郡山へ、その後に老中へ進んで下総古河へ移封されるが、明石の時代に幕命により陽明学の熊沢蕃山(くまざわばんざん)を預かっている。 監視させるために幕府は預けたのであるが、熊沢蕃山の思想(山林保護・参勤交代の廃止・浪人の救済など)に信之は傾倒していったようである。 信之は貞享3年に没するが、この年に蕃山は「大学或問」(だいがくわくもん)を著わし、この書において幕府を批判したため、幕命により信之の嫡男で家督を継いだ忠之のもとで禁固処分とされる。 蕃山は元禄3年に73歳で忠之のもとで没するが、忠之は父の信之と同様に蕃山を師事していたようで、治水工事に蕃山の意見を採り入れているとされる(古河に遺る蕃山堤など)。 忠之は元禄6年11月24日に「発狂」により除封されるのであるが、その日の前日夕刻に老中戸田忠昌の内意を伝える3人の使者を上屋敷に迎え入れ、使者が帰ったその夜、忠之は小刀で唐紙を切り、髪を髻から断ち切った。これを乱心とされたのである。 忠之が除封されたこの頃は、将軍綱吉が元禄3年に上野忍ヶ岡にあった朱子学の林羅山により開設された聖堂を本郷湯島に移して庇護した時代である。幕府は忠之の日頃の言動に蕃山の影響力を見ていたものと思われる。 藩祖・信通(のぶみち) 松平信之の次男 母は小出吉英の娘(吉英は当時出石藩主だが、子孫は無嗣除封) 生没・延宝4年(1676)~享保7年(1722) 貞享3年(1686)父の遺領古河9万石の内1万石を分与される、元禄6年(1693)父の遺領を相続した兄忠之の※発狂により古河8万石は除封されるも、信通には名跡として1万石が加増される 従五位下越中守 正室・備中松山藩板倉重常の娘 子女・2代長恒 養女(信通の叔父松平忠栄の娘)→水口藩加藤明治室 2代・長恒(ながつね) 信通次男 母は熊谷氏 生没・正徳4年(1714)~安永8年(1779) 家督・享保7年(1722)相続 享保17年(1732)隠居 正室・なし 子女・養子信将(3代) 3代・信将(のぶまさ) 上田藩松平忠昭の五男 母は鈴木氏 生没・享保2年(1717)~宝暦11年(1761) 家督・享保17年(1732)相続 従五位下山城守 正室・大垣藩戸田氏長の娘 継室・津山藩松平宣富の娘 子女・4代信亨 養女(上田藩松平忠昭の子忠隆の娘)→四辻公亨室 4代・信亨(のぶつら) 信将長男 母は某氏 生没・延享2年(1745)~寛政8年(1796) 家督・宝暦11年(1761)相続 従五位下山城守 寛政2年(1790)隠居 正室・長州藩毛利重就の娘 子女・5代信古 信愛(信古養子、6代) 女子→信愛養女 5代・信古(のぶふる) 信亨長男 母は鳥居氏 生没・明和6年(1769)~寛政8年(1796) 家督・寛政2年(1790)相続 従五位下山城守 正室・島原藩松平忠恕の娘 子女・養子信愛(6代) 6代・信愛(のぶざね) 4代信亨の四男 母は某氏 生没・安永8年(1779)~文化2年(1805) 家督・寛政8年(1796)相続 従五位下山城守 正室・杵築藩松平親貞の娘 子女・養子信行(7代) 養女(信亨の娘)→信行室 7代・信行(のぶゆき) 津山藩松平康哉の四男 母は某氏 生没・寛政2年(1790)~明治6年(1873) 家督・文化2年(1805)相続 従五位下安房守 天保2年(1831)隠居 正室・信愛の養女 継室・篠山藩青山忠講の娘 子女・8代信宝 女子→一関藩田村邦顕室 女子→福江藩五島盛成室、後に旗本松平信順室 8代・信宝(のぶみち) 信行長男 母は三橋氏 生没・文化14年(1817)~明治5年(1872) 家督・天保2年(1831)相続 従五位下中務少輔 文久2年(1862)隠居 正室・新庄藩戸沢正胤の娘 継室・宮津藩本庄宗発の娘 子女・9代信庸 信安 女子→麻田藩青木重義室、後に関宿藩久世広業室 9代・信庸(のぶつね) 信宝長男 母は土屋氏 生没・弘化元年(1844)~大正7年(1918) 家督・文久2年(1862)相続 慶応4年(1868)奥羽越列藩同盟に参加し、隠居謹慎を命ぜられるも、養子信安に上山2万7000石が新たに与えられる 従五位下山城守 正室・唐津藩小笠原長国の娘 子女・養子信安(信庸の弟) 女子→高知新田藩山内豊福室
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