諏訪家(高島藩)
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諏訪家(高島藩)
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[[江戸大名公家]] 諏訪家 高島藩 諏訪梶の葉 3万石 信濃諏訪郡高島(長野県諏訪市) 譜代 城主 移封加減増履歴・文禄元年→上野惣社1万2000石・慶長6年→信濃高島2万7000石・元和4年→3万2000石・明暦3年→3万石 専売品&専売開始年・生糸(慶応2年) 江戸城詰席・帝鑑之間 子爵 上屋敷・芝将監橋角(安永)→西の丸下(文久)→蛎殻町(明治) 人口・家中(小者まで含む)4961人、郷村寺社5万7151人 明治2年現在 藩祖の父諏訪頼忠は、従兄弟にあたる諏訪氏宗家の頼重が武田信玄に敗れ自刃した後、信玄に仕え諏訪神社の大祝(おおはふり)となる。武田家が滅びると信濃高遠城に入り諏訪氏の再興を図るも、徳川家康に敗れ臣従することになる。 諏訪神社の大祝について。 「祝」はハフリと読むがハウリ、ホウリとなまって読まれることもある。令義解(りょうのぎげ 養老律令の律の刑法ではなく令の行政法についての公的な註釈書、平安初期に編纂)では祝部(はふりべ)と称し、「祭にあたって賛辞(たたえごと)を掌る者」とされ、一般の神社に置かれた神職の一つであった。 当初は国司がその神社の神戸(かんべ 神社に属して神社の祭祀や修繕など経済的に支えた民間の衆)の中から選任された者を任命したというが、時代が下るにつれ自称されるようになり、祝の家は世襲固定化していき、員数も増えたといわれる。 員数が増える中で中世以降、祝の家の上座に大祝を置く神社が生じてくる。諏訪神社の他に上下賀茂神社、大神神社、住吉神社、大山祇神社などがそれで、中でも諏訪神社の大祝(諏訪神社下社は武居祝 たけいほうり)は神意の伝宣者として勢力を持ち、在地武士団の有力な長となった。大祝の諏訪宗家を中心とする武士団は神家党(じんけとう)と呼ばれた。 藩祖・頼水(よりみず) 諏訪頼忠の長男 母は向山氏 生没・元亀元年(1570)~寛永18年(1641) 天正18年(1590)家督を継ぎ、文禄元年(1592)上野惣社1万2000石を領有す 慶長6年(1601)信濃高島2万7000石へ移封 元和4年(1618)5000石を加増される 従五位下因幡守 寛永17年(1640)隠居 正室・飯山藩本多康重の娘 子女・2代忠恒 頼郷(別家) 頼長(別家) 女子→上野沼田藩土岐定義室 2代・忠恒(ただつね) 頼水長男 母は正室本多康重の娘 生没・文禄4年(1595)~明暦3年(1657) 家督・寛永17年(1640)相続 従五位下出雲守 正室・臼杵藩稲葉典通の娘 子女・女子→牛久藩山口弘隆室 3代忠晴 頼蔭(別家) 頼久(別家) 盛條(別家) 3代・忠晴(ただはる) 忠恒長男 母は正室稲葉典通の娘 生没・寛永16年(1639)~元禄8年(1695) 家督・明暦3年(1657)相続 従五位下因幡守 正室・延岡藩内藤忠興の養女 子女・4代忠虎 養女(大炊御門経孝の娘)→交代寄合最上義雅室(義雅の2代前の義俊は57万石の山形藩主、その後家中騒動から除封、名跡相続が許され近江大森1万石に封ぜられるも病没、後継の子義智が幼少のため5000石を減封され旗本) 頼基(諏訪神社大祝諏訪頼隆養子) 4代・忠虎(ただとら) 忠晴三男 母は正室内藤忠興の娘 生没・寛文3年(1663)~享保16年(1731) 家督・元禄8年(1695)相続 従五位下安芸守 正室・福井藩松平忠昌の子昌勝の娘(昌勝は越前松岡藩主、後に廃藩、本家福井藩併合) 子女・忠尋(病没) 養子忠林(5代) 女子→伊予吉田藩伊達村信室 女子→飯山藩本多助有室 女子→忠林室 5代・忠林(ただとき) 旗本諏訪頼篤の次男 母は正木氏 生没・元禄16年(1703)~明和7年(1770) 家督・享保16年(1731)相続 従五位下因幡守 宝暦13年(1763)隠居 正室・忠虎の娘 子女・6代忠厚 女子→西尾藩松平乗完室 6代・忠厚(ただあつ) 忠林の四男 母は金坂氏 生没・延享3年(1746)~文化9年(1812) 家督・宝暦13年(1763)相続 従五位下安芸守 天明元年(1781)隠居 正室・福山藩阿部正福の娘 子女・7代忠粛 頼庸 7代・忠粛(ただかた) 忠厚長男 母は木村氏 生没・宝暦13年(1763)~文政5年(1822) 家督・天明元年(1781)相続 従五位下因幡守 文化13年(1816)隠居 正室・西尾藩松平乗完の娘 子女・8代忠恕 8代・忠恕(ただみち) 忠粛の子 母は某氏 生没・寛政12年(1800)~嘉永4年(1851) 家督・文化13年(1816)相続 従五位下伊勢守 天保11年(1840)隠居 正室・桑名藩松平定信の娘 子女・9代忠誠 頼威(旗本諏訪頼永養子) 女子→館山藩稲葉正巳室 女子→武蔵金沢藩米倉昌言室 女子→飯山藩本多助実室 9代・忠誠(ただまさ) 忠恕の子 母は某氏 生没・文政4年(1821)~明治31年(1898) 家督・天保11年(1840)相続 元治元年(1864)老中に進む 従四位下侍従 明治元年(1868)隠居 正室・福知山藩朽木綱條の娘 継室・棚倉藩松平康任の娘 継室・西尾藩松平乗寛の娘 子女・養子忠礼(10代、8代忠恕の子頼威の子) 女子→忠礼室
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[[江戸大名公家]] 諏訪家 高島藩 諏訪梶の葉 3万石 信濃諏訪郡高島(長野県諏訪市) 譜代 城主 移封加減増履歴・文禄元年→上野惣社1万2000石・慶長6年→信濃高島2万7000石・元和4年→3万2000石・明暦3年→3万石 専売品&専売開始年・生糸(慶応2年) 江戸城詰席・帝鑑之間 子爵 上屋敷・芝将監橋角(安永)→西の丸下(文久)→蛎殻町(明治) 人口・家中(小者まで含む)4961人、郷村寺社5万7151人 明治2年現在 藩祖の父諏訪頼忠は、従兄弟にあたる諏訪氏宗家の頼重が武田信玄に敗れ自刃した後、信玄に仕え諏訪神社の大祝(おおはふり)となる。武田家が滅びると信濃高遠城に入り諏訪氏の再興を図るも、徳川家康に敗れ臣従することになる。 諏訪神社の大祝について。 「祝」はハフリと読むがハウリ、ホウリとなまって読まれることもある。令義解(りょうのぎげ 養老律令の律の刑法ではなく令の行政法についての公的な註釈書、平安初期に編纂)では祝部(はふりべ)と称し、「祭にあたって賛辞(たたえごと)を掌る者」とされ、一般の神社に置かれた神職の一つであった。 当初は国司がその神社の神戸(かんべ 神社に属して神社の祭祀や修繕など経済的に支えた民間の衆)の中から選任された者を任命したというが、時代が下るにつれ自称されるようになり、祝の家は世襲固定化していき、員数も増えたといわれる。 員数が増える中で中世以降、祝の家の上座に大祝を置く神社が生じてくる。諏訪神社の他に上下賀茂神社、大神神社、住吉神社、大山祇神社などがそれで、中でも諏訪神社の大祝(諏訪神社下社は武居祝 たけいほうり)は神意の伝宣者として勢力を持ち、在地武士団の有力な長となった。大祝の諏訪宗家を中心とする武士団は神家党(じんけとう)と呼ばれた。 藩祖・頼水(よりみず) 諏訪頼忠の長男 母は向山氏 生没・元亀元年(1570)~寛永18年(1641) 天正18年(1590)家督を継ぎ、文禄元年(1592)上野惣社1万2000石を領有す 慶長6年(1601)信濃高島2万7000石へ移封 元和4年(1618)5000石を加増される 従五位下因幡守 寛永17年(1640)隠居 正室・飯山藩本多康重の娘 子女・2代忠恒 頼郷(別家) 頼長(別家) 女子→上野沼田藩土岐定義室 2代・忠恒(ただつね) 頼水長男 母は正室本多康重の娘 生没・文禄4年(1595)~明暦3年(1657) 家督・寛永17年(1640)相続 従五位下出雲守 正室・臼杵藩稲葉典通の娘 子女・女子→牛久藩山口弘隆室 3代忠晴 頼蔭(別家) 頼久(別家) 盛條(別家) 3代・忠晴(ただはる) 忠恒長男 母は正室稲葉典通の娘 生没・寛永16年(1639)~元禄8年(1695) 家督・明暦3年(1657)相続 従五位下因幡守 正室・延岡藩内藤忠興の養女 子女・4代忠虎 養女(大炊御門経孝の娘)→交代寄合最上義雅室(義雅の2代前の義俊は57万石の山形藩主、その後家中騒動から除封、名跡相続が許され近江大森1万石に封ぜられるも病没、後継の子義智が幼少のため5000石を減封され旗本) 頼基(諏訪神社大祝諏訪頼隆養子) 4代・忠虎(ただとら) 忠晴三男 母は正室内藤忠興の娘 生没・寛文3年(1663)~享保16年(1731) 家督・元禄8年(1695)相続 従五位下安芸守 正室・福井藩松平忠昌の子昌勝の娘(昌勝は越前松岡藩主、後に廃藩、本家福井藩併合) 子女・忠尋(病没) 養子忠林(5代) 女子→伊予吉田藩伊達村信室 女子→飯山藩本多助有室 女子→忠林室 5代・忠林(ただとき) 旗本諏訪頼篤の次男 母は正木氏 生没・元禄16年(1703)~明和7年(1770) 家督・享保16年(1731)相続 従五位下因幡守 宝暦13年(1763)隠居 正室・忠虎の娘 子女・6代忠厚 女子→西尾藩松平乗完室 6代・忠厚(ただあつ) 忠林の四男 母は金坂氏 生没・延享3年(1746)~文化9年(1812) 家督・宝暦13年(1763)相続 従五位下安芸守 天明元年(1781)隠居 正室・福山藩阿部正福の娘 子女・7代忠粛 頼庸 7代・忠粛(ただかた) 忠厚長男 母は木村氏 生没・宝暦13年(1763)~文政5年(1822) 家督・天明元年(1781)相続 従五位下因幡守 文化13年(1816)隠居 正室・西尾藩松平乗完の娘 子女・8代忠恕 8代・忠恕(ただみち) 忠粛の子 母は某氏 生没・寛政12年(1800)~嘉永4年(1851) 家督・文化13年(1816)相続 従五位下伊勢守 天保11年(1840)隠居 正室・桑名藩松平定信の娘 子女・9代忠誠 頼威(旗本諏訪頼永養子) 女子→館山藩稲葉正巳室 女子→武蔵金沢藩米倉昌言室 女子→飯山藩本多助実室 9代・忠誠(ただまさ) 忠恕の子 母は某氏 生没・文政4年(1821)~明治31年(1898) 家督・天保11年(1840)相続 元治元年(1864)老中に進む 従四位下侍従 明治元年(1868)隠居 正室・福知山藩朽木綱條の娘 継室・棚倉藩松平康任の娘 継室・西尾藩松平乗寛の娘 子女・養子忠礼(10代、8代忠恕の子頼威の子) 女子→忠礼室
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