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[[独り言(Historical)]] #menu(menu_Historical) 14-Nov-2004 昨日、今日(11月13日、14日)と、(財)大学セミナーハウス主催の「公開セミナー 海のロマンと日本の古代―古田武彦先生を囲んで―」に参加してきました。 同館館長の荻上紘一さんのご厚意で招いていただいたものです。 今日は、それを簡単にですがレポートしたいと思います。 このセミナーは、3つのテーマにしたがって、古田氏がまず講演し、その後、ディスカッションというか、古田氏への質疑応答という形で2日間に渡って行なわれました。 まず、1日目。 最初のテーマは「国引き伝説と出雲王朝」。古田氏の講演は、しかしながら、「国譲り」説話のほうへ重点が置かれ、「国引き」は少し触れるだけに留まってしまいました。 しかし、「国引き」をめぐる、壮大な解釈は、(知ってはいたものですが)興味深いものだと思います。 …で、このセミナーのコーディネーターでもある荻上さんのお図らいで、私に質問の機会が与えられました。 古田氏は、講演の最後に、「天照大神とスサノヲが姉弟で、大国主がスサノヲの5~6世孫であるのはおかしい。あとから大国主がスサノヲの5~6世孫である伝承が付け加えられたと考えるのは、不自然だから、天照大神とスサノヲが姉弟である、と言うほうがあとから付加された改竄神話である」という主旨の発言をされたので、その点について質問しました。 要するに、天照大神とスサノヲが姉弟であるという「格付け」は「国譲り」より後に付加された、「弥生の新作神話」である。 それは、スサノヲを天照大神より格下の乱暴者とするための作為である、というわけです。 私は、この「改作」の時期を「国譲り」及び「天孫降臨」の直後と見なしましたので、そう考えると、「改作」の時には、今いる天照大神は、過去のスサノヲの姉である、ということになり、おかしい、と質問したのでした。 これは、古田氏によれば、「改作」の時期は、それよりもっと後の時代であり、その時には、天照大神は「神」として扱われていたから、不自然ではない、という回答でした。 後から考えてみれば、もし、古田氏の言うとおりであれば、天照大神が「神」になるほど、つまり、はるか昔のスサノヲとの世代差が問題とは感じなくなるほど時が流れていれば、「改作」の「リアリティ」というか、切実さが失われるわけで、それは、近畿天皇家の史官による造作と言う津田説とあまり変わり無いのではないか、という気もします。 また、隠岐島の八幡浩二さんからは、隠岐の黒曜石についての貴重な情報と、黒曜石の鏃などの実物を見せていただきました。 次に、当初の予定を変更して、古田氏の最近の研究「トーマス福音書についての新発見」と、その研究に影響を与えたと言う松本郁子氏「太田覚眠」についての発表がありました。 松本さんのそれは、「ロシアに渡った浄土真宗僧の太田覚眠は、ロシアにおいてそれまでの愛国的思想から変化が見られる」という主旨で、それがロシアにいる娼婦の影響によるものであるとのことでした。 要するに、覚眠は、娼婦との付き合いの中で、一種の「癒し(性的な意味というよりは、より精神的な)」を得て、思想に影響するに至った、とのことのようです。 そして、古田氏によれば、イエスもまた、サロメ(銀の皿の人とは別)という娼婦との「一夜」に対して、同じような「癒し」を得ていたのではないか、ということを「発見」した、と言います。 なるほど、ここで言っている「癒し」とは、性的な意味でもなく、しかし、特別高尚な意味でも無いように思います。 ちょうど、高級官僚が SM クラブに通うのと同じように、「面倒な人間関係を壊してくれる」関係に、一種の「癒し」を覚える、ということは、よくあることで、イエスにせよ、そうしたことはあったのだろう、という気もします。 (別に、SM クラブに行く高級官僚の気持ちが分かる、というわけではありませんよ*^^*;) また、「トーマス福音書」には、人間イエスの「人間くささ」が随所に現われており、その点で注目すべきものだ、とのことでした。 イエスの読解に関しては、柄谷行人氏が田川健三氏『イエスという男』について語った「場所についての三章」の解読が、わたしにとって最も強烈であり、残念ながら、古田氏の読解は、その枠を超えてはいないと、率直に言って感じました。 これについては、別に述べる機会があれば、述べてみたいと思います。 1日目のセッションはここまでで、夕食・懇親会となりました。 懇親会では、古田氏のお孫さん、古田氏が松本深志高校教諭だったころの教え子(荻上さんも松本深志高校卒だそうです)、昭和薬科大学教授の頃の同僚、と、古田氏ゆかりの方々が次々に登場され、楽しいエピソードを聞かせてくださいました。 そして、2日目。 次のテーマは「天孫降臨と九州王朝」。古田氏の講演は、多岐に渡り、そのせいか、イマイチピンボケしているような印象を受けてしまいましたが、天孫降臨から、日本まで、つまり、九州王朝の始原から終焉までを網羅したものでした。 ここでも私は、質問の機会を与えていただき、例の「倭国と日本」の論点を質問したのですが、どうも、要点を短く伝えようとしすぎたせいか、うまく質問の意図が伝わらずに、歯がゆい思いをしたのでした。 修行が足りませんね(苦笑)。 ところで、ここで、古田氏は興味深い新説を話してくださいました。 それは、(言っていいのかな?)「磐井の乱=継体の乱は、なかった」というものでした。 詳しい説明は、後々古田氏が書かれるでしょうから、ここでは書きませんが、率直に言って、疑問です。 これで、「倭国と日本」の最大の留保であった「百済本紀の記事」について、古田氏自身が「磐井説」を撤回したので、今度の古田氏の立論次第では、より自信を持って、「倭国と日本」のテーマを古田氏にぶつける機会が巡ってきたのかもしれません。 まぁ、古田氏が発表されたものを読んでから、考えることにしましょう。 次に、「古代日本の国際交流」。ここでは、古田氏は、例の「裸国・黒歯国」のテーマ、南米との関係について語りました。 これは、私も好きなテーマであり、「海のロマン」と題した今回のセミナーにぴったりのお話だったと思います。 最後に、古田氏が事前に参加者から寄せられた質問に、すべて答える、というサービスがあり、参加者も皆、貴重な機会に満足そうでした。 私は、最近の私自身のテーマである、「単一民族神話批判と天皇家中心主義批判」ということで、網野氏の研究についてのコメントを求めましたが、基本的には、同じ路線であることは、読みとっているようでしたので、目的はある程度達したのだろうと思います。 これについては、後々、じっくり述べさせていただきたいと思います。 古田さんは、2日間ほとんどしゃべりっぱなしで、周りが心配するほど元気に、お話を聞かせてくださいました。 お疲れ様でした。 また、横田さんにも久しぶりにお会いすることが出来、貴重な古田氏に関する資料を戴きました。ありがとうございます。 最後に、荻上さん、それから、広報の伴さん、本当にお疲れ様でした。 07-Nov-2004 今日は、『魏志倭人伝』の行路記事を、文面の味わいを重視しながら、徹底的に読んでみたいと思います。 まず、私は、現代中国語を知っているわけではありません。知っているのはあくまで漢文であり、現代中国語を必ずしも読み書きできるかといえば、そうではありません。 ましてや、話したり聞いたりすることは、なおさら出来ないわけです。 とはいえ、漢文の味わいのようなものは、理解できるつもりであり、幸いなことに、我々の用いる日本語というのは、純粋な「日本語」の文法だけでなく、漢文の素養を多少なりとも持っていなければ、うまく表現できない場合があるわけで、そうした意味で、漢文の味わいは、それなりに理解できるものだと言うことが出来ると思います。 中野雅弘さんが、掲示板で、次のようなことを挙げてくださいました。 中国語は、基本的には動詞を中心として、その左に主語と称するもの、右に目的語(または補語)がつきます。 左の主語と称する話題の対象となる主語は、それこそ自明の場合は簡単に省略されてしまいます。しかし、自明の里説などのように、述語句(結語)の数詞を省略することなど、文章作法からしてあり得ないことです。 こうしたことは、実は、我々中国語を話せない日本人もよく理解できるはずだと私は思います。 つまり、漢語熟語です。 単純にいえば、漢文の一部を日本語の一部として使用しているわけです。 (極端な例を挙げると分かり易いので)「人面魚」は「魚」で「魚面人」は「人」です。 「在日米軍」は「米軍」ですが、「日米軍」なんてのがあったら、「日本とアメリカの共同軍」ということになります。 「和牛」は「牛の種類」、「国産牛」は「国内で生産された牛」のこと。つまり「国産牛」は「ホルスタイン牛」かもしれません。 「従軍記者」は「軍の一部」ではなく、「軍医」は「軍の一部」。 こうした単語の構成は、漢文の一部を用いているのであり、ここで挙げた例で言えば、「在日米軍/日米軍」「国産牛/和牛」「従軍記者/軍医」の対比は、「動詞」の有無によっている、と解説することが出来ます。 前者は動詞をそれぞれ含んでおり(「在」「産」「従」)、それにより前後の語との関係が結ばれています。 後者は単に名詞をつなぎ合わせたものであり、形成された語の属性の一部と言いましょうか、形容句と言いましょうか、そういう関係を結んでいます。 そう考えてみれば、中野さんが「動詞を中心」とおっしゃったことの意味は、わかりやすいのでは無いかと思います。 もちろん、日本語の中の漢字熟語には、「日本の流儀で」作られたものもあり、「和製英語」と同じで、カタカナ語を多く知っていれば英語を知っている、とは言えないように、やはり中国語を知っている、とは言えませんが。 ちなみに、日本語では、漢語を含め、外来語は、決まって「名詞」になる、のが通例で、他の品詞にするには、「な・の(形容詞化)」「する・る(動詞化)」「だ(形容動詞化)」などが必要です。 「従軍する」「従軍の」「ビッグな」「サボる」などなどです。 さて、魏志倭人伝に戻りましょう。 従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国、七千余里、始度一海、千余里至対海国、…。又南渡一海千余里、名曰瀚海、至一大国、…。又渡一海、千余里至末盧国、…。東南陸行五百里、到伊都国、…。東南至奴国百里、…。東行至不弥国百里、…。南至投馬国、水行二十日、…。南至邪馬壹国、女王之所都、水行十日、陸行一月、…。次有斯馬国、次…、次有奴国、此女王境界所尽。其南有狗奴国、…。自郡至女王国万二千余里。(句読点は中華書局本に基づく) 行路記事を中心に、一万二千里の部分までを引用しておきました。 句点(「。」)ごとに、一つずつ見ていきましょう。 従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国、七千余里、始度一海、千余里至対海国、…。 動詞を全部抜き出すと、 「従」「至」、「循」「水行」、「歴」、「南」「東」、「到」、「度」、「至」、…。 となります。最初の「従郡至倭」は、「郡を出発して倭に着く」ということです。 しかし、ここで文章が終わった、と言うことではなくて、まだ続きます。ですから、訓読の場合、「郡より倭に至るには」と「には」をつけて、主題化します。 以降の文は、この「従郡至倭」を主題とした行路文である、という表示です。 次に、「水行」ですが、「水」は「行」を修飾しており、この二語で「水路を行く」ことを示す動詞である、と見るべきでしょう。 各々「循海岸」は次の「水行」に係っており、「歴韓国」は「乍南乍東」に係っています。 つまり、「水行」と「乍南乍東」という行路を、地形的に説明したものである、と言えます。 ですから、「海岸に沿った後水行した」「韓国を訪れた後南や東に移動した」ではなく、「海岸に沿っての水行」「韓国を訪れての南や東への移動」と言うことです。 次の「到其北岸狗邪韓国」は、「其北岸」と「狗邪韓国」は同格であり、「其北岸」である「狗邪韓国」です。つまり、「狗邪韓国に到る」ということになります。 「循海岸水行」から「狗邪韓国」までの文を受けて「七千余里」と言っています。 ここで一旦区切ってもよいようです。中華書局は区切っていませんが。 さて、次の、「始度一海」ですが、これは、「始めて一海を度る」で問題ありませんが、次の「千余里」が問題です。 当然、前を受けて、「一海を度る」その渡海の距離が千余里である、と言うことです。 この点は、中野さんも同じように読んでいるようです。 私もそれでいいと思います。 で、「至対海国」と続くのですから、「千余里」の後、至る、ということです。 中野さんは、「時系列」と言う言葉を使われましたが、仰るとおりだと思います。 又南渡一海千余里、名曰瀚海、至一大国、…。又渡一海、千余里至末盧国、…。 この「一大国」「末盧国」の過程は、対海国と同様であり、千余里とは、厳密な言い方をすれば、「渡海」の距離です。 このことは、一大国の前に「瀚海」の記述があることからも確認できます。ここで言う「千余里」とは、「瀚海」通過の為の距離であり、やはり「渡海」の距離である、というのが厳密です。 東南陸行五百里、到伊都国、…。 これも、なるほど、中野さんの仰るように、「東南陸行」を受ける形で、「五百里」とあり、「陸行」という行路を指して、この行路が五百里である、と表示しています。 その後、「伊都国」に到るわけです。 しかし、ここの場合は、ニュアンスの違いがあっても、微妙なもので、それほど、大きな問題ではないのかもしれませんけれど、ね。 まぁ、今は、そういった味わいを大事にして読んでいますので、そういうニュアンスの違いがありそうだ、ということです。 東南至奴国百里、…。 ここの表示は、また、異なります。先に「東南」の方向で次に「至奴国」とあります。 ここには、「行」という動詞がありません。 これをよく考えて見ましょう。 古田武彦氏は、この違いを「実地に行き至ったか」という観点から説明し、動詞の無いものは、「行き至っていない」と主張しました。 川村明氏も、同様のことを漢書から言っています。 私も、基本的にこの解釈でよい、と考えますが、「実地に」という説明は、この際、誤解を生むのでは無いか、と思います。 また、「有」という語を用いた場合との区別がつきません。 「東南有奴国百里」(これなら「東南百里、有奴国」とか「有奴国、東南百里」のほうが自然?) これでしたら、確実に、奴国までの百里は、地図上の話をしているのであり、東南方向へ百里のところに奴国はある、と言っているのですから、確実に方向は直線方向、距離は直線距離である、と言っていいでしょう。 (「在」との違いは、読者にとって既知か未知かによる。「有」は未知、「在」は既知というニュアンスを持つ) ですから、これとも微妙に違う、と考えておいたほうがいいでしょう。 古田氏の挙げた、「四至」の例と、川村氏の挙げた「動詞の先行しない「至」」の例を見てみましょう。 其在周成、管、蔡不静、懲難念功、乃使邵康公賜斉太公履、東至於海、西至於河、南至於穆陵、北至於無棣、五侯九伯、実得征之。<魏志、武帝紀> これは、曹操が魏公になる時の献帝の詔の一節です。ここで言っているのは、周の成王が(召(=邵)公を通じて)斉の太公(所謂「太公望」)に、大きな権限を与えたという故事を言っているのであり、ここで言う「四至」は、「斉」の監視下に入る領域を指しています。 ですから、もちろん、「実地に行くこと」ではないのですが、ポイントは、この「四至」の起点は、全て「斉」である、ということです。 中心地(あえて、曖昧に言うべきだと思いますが)から、見て、それぞれの東西南北を言っているのであって、始めの「東至於海」から次の「西至於河」へ続く時、「斉から東へ海まで」「斉から西へ河(もちろん黄河)まで」と言うように、起点が一旦「斉」に戻る、ということです。 (「斉」の中心地がどこか、などという野暮なことを言うべきでは無いでしょう。都の営丘(臨[シ[巛/田]])は、地形的な中心から見て東側にあります。ここではそんなことは問題ではなく、「斉」の領域が問題なのですから、地形的な中心と言ってもいいでしょうし、そもそも距離は問題ではない、と言うことも出来ます) 次に、川村氏の挙げた漢書の例を見てみましょう。 川村氏の説明を聞きます。 20 且末國、王治且末城。 去長安六千八百二十里。…。 (1) 西北至都護治所二千二百五十八里。 北接尉犂。 (2) 南至小宛可三日行。…。 西通精絶二千里。(同、同頁) 21 小宛國、王治扞零城。 去長安七千二百一十里。…。 (1) 西北至都護治所二千五百五十八里。 東與[女若]羌接、辟南不當道。(同、同頁) (用例、以下略―河西注) …また、20(2)の「南至小宛可三日行」も、小宛国まで実際に行ってしまうという意味ではない。なぜなら、そうだとすると、その次の「西通精絶二千里」の起点は小宛国だということになってしまうが、小宛国を起点にした文はすべて次の21の中にまとめられているのだから、そのようなことはありえない。『漢書』西域伝と魏志倭人伝 つまり、ここでも、「至」は、「実際に行ってしまう」という意味ではない、という説明の裏には、次の「方角付きの指定」の起点が、一旦、元の場所に戻る、ということを川村氏は言っています。 「南至小宛国」と「西通精絶」とは共に「且末国から南」「且末国から西」という地域を表わしています。 古田氏や川村氏の言う「実際に行く」という表現は、このように、「起点が動くか否か」という言い方で表現できると思います。 そして、このほうが、厳密に言えば、正しいだろうと思います。 ですから、「東南至奴国百里」は、「行路に含めない傍線行程」であろうと考えられます。 ここで言う、「傍線行程」とは、しかしながら、「魏使は奴国に行っていない」ことを意味しません。 そうではなく、今の行路記事上、「起点が動かない」という意味なのです。 次の、 東行至不弥国百里、…。 の「起点」は、「奴国」に移動しているのではなく、「伊都国」に一旦戻る、ということです。 さらに、ここには「行」がありますから、次の 南至投馬国、水行二十日、…。南至邪馬壹国、女王之所都、水行十日、陸行一月、…。 は、共に「不弥国」を「起点」とするのです。 「投馬国」のほうは、「行」がありませんから、これは「起点」が移動しません。 (ちなみに、「水行二十日」とか「水行十日」という時の「行」は、後の日数を「所要日数」として示す為に必要な文字であり、ここでの議論では分けておく必要があります。 漢書でも、「三日行」とかと表示していますが、「起点」の問題には関わりがありません) さて、これは、「日本語」としてもよく考えてみる必要があります。 「東行至不弥国」を「東へ行けば、不弥国に至る」と読みたくなってしまいます。 ここでいう「行けば(或いは「行くと」)」は、仮定の意味を含んでおり、これなら、「起点の移動」を含まない表現になります。 ですが、漢書・魏志の例でも分かるように、「行」がある場合は「起点の移動」を含む表現であると考えるべきですから、ここで「行けば」という「訳」は、厳密に言えば、誤訳なのだと思います。 「行くと」なら、幾分、仮定の意味は弱まりますが、ここはやはり「東へ不弥国まで行く。(その行路は)百里である」ということなのです。 さて、次に、「南至邪馬壹国、女王之所都、水行十日、陸行一月」です。 ここは「(不弥国から)南へ、邪馬壹国に至る。(邪馬壹国は)女王の都する所である。(女王の都する所は)水行十日、陸行一月で(着く)」というように読んでいく(基本的に漢文は前から後ろへ関連していく)と、「女王の都する所」を求めてやってきたこの文脈(「郡より倭に至るには…」)から言えば、ひとまず、一定のゴールに達したと考えることが出来ます。 これは、中野さんのご意見に賛成です。 もう少し、発展させてみると、ここまで、「距離」の表示は、「行路」を厳密に受けてきました。 「七千里」は「(郡から)循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国」の全体を、 「千里」はそれぞれ「度一海」を、「五百里」は「東南陸行」を、「(奴国の)百里」は、「(伊都国から)東南至奴国」を、 「百里」は、「(伊都国から)東行至不弥国」をです。 中野さんが「路」を付けてみたらよい、と仰っていましたが、そのとおりだと思います。 ですから、「水行二十日」は「(不弥国から)南至投馬国」の「路」がこの距離である、と言っています(距離を日程によって表現しています)。 次に「水行十日、陸行一月」は、どうでしょうか。 これは、「(不弥国から)南至邪馬壹国」の「路」を指しているのではなく、「女王の都する所」を受けています。 「女王の都する所」という一句によって、「郡より倭に至る」のひとまずの終点を迎えたのですから、ここまでの「路」のことを「水行十日、陸行一月」と言っているのです。 その後、「次有…」と次々に国名を列挙します。 これは、「有」の語が示すように、地図上の話になります。 ちょうど、目的地である「女王之所都」に到達してから、残りの国々を、指を指して確認している感じでしょう。 そうして、倭国を俯瞰し終わった後、総里程「一万二千里」を表示して、この「行路記事」は完結します。 なるほど、中野さんが、「邪馬壹国の記述は、この記事のまだ途中にある」ということを仰っていましたが、そのとおりですね。 16-Oct-2004 掲示板で、激しい議論を展開中ですが、その中で、私は一つの新しい解釈に到達しました。 それをここで述べてみたいと思います。 問題になるのは、「対海国」「一大国」の「半周」という解釈です。 古田氏の立論に拠れば、この「半周」の行程は、「陸路」と見なすことになります。 私もその立場で考えてきました。 しかし、なるほど、宮津さんの言うように、「船で島を訪れて、半周して、別の岸から離れていく」という行路は、不自然である、という指摘は、確かにそのとおりであるように思います。 私は、これに対して、「陳寿の机上の算法のことであり、実際の行路とは必ずしも一致しない」という点を強調してきました。 この反論も、私にとって、十分、合理性のある説明だと考えています。 とはいえ、「不自然だ」という論者に対して、説得的であるか、と言えば、そうではない、ということでしょう。 さて、今回、じっくり考えてみると、この「対海国」「一大国」を「陸行」と特定したことは、誤りでは無いか、と考えるようになりました。 古田氏は、「対海国」の記事中に「土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿の径の如し」とあることから、陸行と判断したようです。 もちろん、「対海国」「一大国」に到達した、ということは、「上陸した」ということであり、それは間違いありません。 しかし、実際には、停泊した港から、島を巡り、停泊した港から次の目的地に向かって出発すると言うことが、宮津さんも(おそらく他の論者から見ても)自然のことであり、自然にそう考えればよい、と私も考えるようになりました。 ところが、この場合、実際に地図に描いてみれば分かりますが、各々の島を「水行」で「半周」することになるのです。 対海国通過の経路 一大国通過の経路 地図中で、青く示した部分が、それぞれの「渡海千里」部分です。 どこに泊まるか、が問題になりますが、それぞれ、「厳原」「郷ノ浦」としてみました。何処であっても、それほど大きくは変わらないと思います。 で、当然ですが、「対海国」まで「度一海千里」なのですから、対馬の沿岸部を回ることは、厳密に言えば、「度一海」には適さないわけです。 そうすれば、「対馬の島の目前まで来て、港に着くために島を半周する」という行程は、「方400里」という島の大きさによって示されてる、と見ることが出来ます。 また、もし、浅茅湾のどこかに寄航したなら、次の「一大国」に向かうまでに、必ず、島を半周してから、「南渡一海千里」しなければならないわけです。 いきなり「浅茅湾」から、南に海を渡れない、のですから。 実際に考えてみれば、この「半周」という行程は、「水行」と考えると、行路として何も不自然では無いことが分かります。 「一大国」に関しても同じです。 陳寿は、狗邪韓国→対海国→一大国→末盧国の行路を(四分方向では)「南北」の行路と認識していたのであり、つまり、一直線上、と考えていたようです。 そのような理解をしたとき、先述来の図 <図>半周読法とは「島を半周するように二辺を通過する」と見なして計算する方法である。 は、よく理解できるものとなるかと思います。 これは、「半周する」という読解に対して、「そんな読みは不自然だ」「認めない」と言う論者への反駁として見出した、一つの解釈です。 こう解釈すると、より「実地に即した」解釈であり、「半周」という計算方法が、思ったほど不自然なものではない、と考えることが出来るのでは無いでしょうか。 03-Oct-2004 掲示板で様々な方と意見の交換をさせていただいていますが、そこでつとに感じることを今日は書きたいと思います。 それは、私が「同語反復」或いは「循環論法」と批判するような議論についてです。 私がどういった論法に対してそのような言い方をするのかと言いますと、次のような場合です。 A であると私は見なしたから、この文献は B と読むべきであり、B と読めるから A が事実であることが確認される。 この場合、結局、文献を B と読むことの根拠は、A であり、A は彼の「想像」に過ぎない。 そうしてみると、結局、文献を経由したように見えて、「私は A だと思う。故に A である。」と言っているのであって、これでは、まさに「何でもあり」となってしまうわけです。 それを私は批判します。 これが「同語反復」、「循環論法」と、私が言う事態です。 しかしながら、誰もが、こうしたことを「知っていて」行なっているわけではありません。 「そう信じている」と言ってもいいですが。 では、何故、このような事態を招いてしまうのでしょうか。 それは、古代史に対する論者の「思考方法」に原因がある、と、私は最近見るようになりました。 私は、古代史の「方法」にこだわらなければならない、と思っています。 何も改まって言うことではありませんけれど、ね。 その方法とは、史料に基づくこと、という一点に尽きます。 歴史の登場人物は、当然のことながら、ほとんどの場合、既にこの世を去っており、その人物を直接知る人さえ、既にいないのが普通です。 卑弥呼にせよ、織田信長にせよ、ね。 まぁ、これが明治維新の登場人物ともなれば、かすかに覚えている人物が残っていることもありますけれど、ね。 ですから、私たちは、歴史の登場人物を全く知らない。 何から得るのか、と言えば、それが「史料」からなのであり、史料―文献だけではなく、遺物、遺跡、口承伝承その他様々なもの―無くしては、私たちは何も知らない、と言っていいでしょう。 逆に言えば、私たちは、史料しか知らない。 私たちの目の前にあるのは、史料だけであり、古代の大地が目の前に広がっているのでも、卑弥呼のような人物が目の前にいるわけでもありません。 これは、当然のことです。 しかしながら、私たちは、つい、ひとつのことを忘れてしまう。 私たちが論じる対象は、確かに「古代史」というジャンルに属します。 しかしながら、私が話す相手は、常に現代の人物であり、私は、現代と言う時間を離れることはありません。 古代史論者は、常に現代の人間である、ということです。 この言い方は誤解を招く恐れもありますね。 例えば、本居宣長は、近世の人物であり、近世史の論者から言えば、まさに歴史上の登場人物です。 しかし、宣長も、古代に関しては、私たちと同程度に無知である、と言っていいでしょう。 彼も、卑弥呼には会ったこともなければ、卑弥呼を知る人物に会ったこともない。 例えば、太安万侶に関しても、卑弥呼に関して言えば、私たちと同程度に無知です。 私たちよりも豊富な史料を目にすることは出来たかもしれませんが、ね。 そうしたことを含めた意味で、私たちが議論の際に相手にするのは、古代史に関して無知な人物である、と言えます。 自分自身も含めて、ね。 だから、私たちは、常に、無知な私たちが、「古代史」について語る場合に、「私は何故そう考えるのか」を問わなければなりません。 そして、それは、史料に結び付いていなければならない。 「つまり、この史料のこの部分から、私はそう考える」 これが、私が問う「根拠」です。 この妥当性、合理性を議論するのが、「古代史」に関する議論の全てです。 それ以外のものは何も無い。 よくある間違いは、ここで言う「根拠」を、古代の大地に、或いは登場人物に求めてしまうこと。 陳寿でも、太安万侶でもかまいませんが、ある記述があるとき、「私は A だと思う」と考えた後、その根拠として、その時代背景を考えてしまう、と言う間違いです。 「これこれ、こういう事情があったから、私は A だと考える」と言ってしまうのです。 完全に、古代に身をおいてしまう。 自分が古代に関して無知な現代人であることを忘れて、古代に身をおいて、確かに、古代の大地がその人の脳裡には鮮明に浮かんでいるのかもしれませんが、それが「史実」のように見なしてしまう。 このとき、「私は A だと考える。だからこの文献は B と読むべきであり、だから、A は事実である」と言ってしまうのです。 私は、ここで「A に根拠は無いではないか」と問うわけですが、「古代の時代背景」が返ってくる。 つまり、その論者は本当に「古代の時代背景」が揺ぎ無い事実のように見えており、それが確固とした「根拠」としてその論者を支えているのです。 ですが、それは、想像に過ぎません。 私が「根拠」を問うとき、それは常に現代人に対して、何故そう考えるのかを問うており、その人物が、古代を知っているとはさらさら考えていない。 ですから、そのような人物―もちろん、自分自身も含めて―がいくら古代を活き活きと描いてみたところで、それは、所詮、想像なのであり、私が問いたいのは、その「想像」の根拠なのです。 こうした点が、「同語反復」という事態を招くのだろうと思います。 そして、大抵は、その論者自身が、自らの陥っている事態に気が付いていない。 問われるべきは、常に「方法」であり、「古代史の世界」ではないと言うことを、私は強調したいと思います。 19-Sep-2004 お久しぶりです。 今回は、掲示板で、巫女さんからご指摘のあった、人口の問題を考えてみたいと思います。 巫女さんは、「邪馬台国」畿内説の根拠として、鬼頭宏氏による人口推計を挙げられました。 鬼頭宏「明治以前日本の地域人口」『上智経済論集』41巻1・2号 1996 によると、弥生時代の人口は、 東北:3万3千 関東:9万9千 中部:16万 近畿:10万 中国地方:6万6千 四国:3万 九州:10万5千 同じく奈良時代には、(このころ、1戸あたり平均10人程度) 東北:28万(~2万8千戸) 関東:78万(~7万8千戸) 中部:86万(~8万6千戸) 近畿:96万(~9万6千戸) 中国地方:79万(~7万9千戸) 四国:28万(~2万8千戸) 九州:56万(~5万6千戸) (もとは地域をもっと細分化してあって、東奥羽・西奥羽・北関東・南関東・ 北陸・東山・東海・畿内・畿内周辺・山陰・山陽・四国・北九州・南九州と なっていたのを、地域をまとめ合わせて加算した。) 邪馬台国時代の人口は、奈良時代と弥生時代の間のはずだから、 九州だけで7万戸は無理です。 ちなみに九州北半部だけで7万なんてのならば、なおさら無理です。 まず、この推計について、解説しておきましょう。 弥生時代の推計に関しては、以下の方法がとられています。 1.各時代・各地域の遺跡の分布状況を調べる。 2.基礎の人口として奈良時代(八世紀)の人口推計を用いる。 3.関東地方のデータから基礎となる集落規模を推定する。 4.関東地方の八世紀の人口推計から、集落あたりの人口を算出する。 5.この関東地方の集落あたり人口から、各時代・地域の比率によって各時代・地域の人口を推定する。 要するに、遺跡数から地域ごとの比率及び時代ごとの比率をを算出し、それに基礎となるデータを掛け合わせて算出すると言う方法です。 鬼頭氏自身も考慮していますが、この方法には限界があり、一つには、今発見されている遺跡の数が、当時の状況を反映したものであるか不明である、という点。 たとえば九州と関東では地理的条件の違いから、九州のほうが発見数が少なくなってしまっている、という反論も実際にあり、こうした点には考慮は必要です。 さて、このデータは、こういうものです。 これ自身、一つの方法として、もちろん、限界もあるのは誰もが承知で、一つの方法として有意義なものであり、参考にはなる資料です。 問題は、このデータを「畿内説」の根拠に挙げる巫女さんの側にあります。 これが「畿内説」の根拠になるのでしょうか。 >邪馬台国時代の人口は、奈良時代と弥生時代の間のはずだから、 >九州だけで7万戸は無理です。 と言いますが、同じことを近畿に対しても言うことの出来る、データです。 この推計では、弥生時代の全人口は、59万4千人とされていますが、鬼頭氏自身、 「つぎに三世紀の邪馬台国時代の人口についてであるが、『魏志倭人伝』にある邪馬台国以下二十九ヵ国の戸数から、一八〇万人以上あったと推計できる」(『人口から読む日本の歴史』講談社学術文庫、2000年) と言っており、鬼頭氏自身も、この差異についてこれ以上言及してはいませんが、これを不自然とは見なしていないようです。 私の考えでは、そういう疑いは、むしろ順序が逆であり、推計の計算式のほうを、『魏志倭人伝』を利用して見直す必要はあっても、逆はありません。 それは、「歴史人口学」そのものの成立に関わる問題です。 文献及び考古学的出土事実が第一資料であり、推計はあくまで、それを基礎にした推計であって、推計のほうを優先して第一資料である文献のほうを訂正するということは、それこそ、慎重に慎重を重ねても重ねすぎることは無いくらいです。 もちろん、鬼頭氏はそのことを知っているからこそ、まかり間違っても、「だから倭人伝は間違っている」などとは言わないのです。 (一般的な倭人伝不信論に配慮して、計算式の修正までは踏み込まない、という事情は、もしかするとあるのかもしれませんけれど、ね) そういうわけで、これを「畿内説」の根拠にしようという巫女さんの目論見は、あくまで、そう結び付けた巫女さんだけの議論であり、推計を行なった鬼頭氏とは関係がありません。 結び付けるには、もう少し、慎重な議論を必要とするのだろうと思います。 30-Jul-2004 お久しぶりです。 最近、少し、行き詰ってます…。 まぁ、とは言ってもそんなに切羽詰った話じゃありませんけどね。 さて、今、私が興味を持っているのは、「国家」についての議論です。 大きなテーマですね。 私も、何度か独り言で、取り上げたことはあります。 いくつかの視点があります。 一つは古田武彦の「国家」観について。 私は、古田の国家観は、彼自身が思っている以上に、重要なもののように見えています。 「豪族と王朝」の問題…、「国家の基準」問題。 これは、古田の国家観の特徴と、私が勝手に思っているものですが、この点においてこそ「九州王朝説の意義」は、検討されるべきです。 「古代史の論点」における、私の議論が中座してしまっているのは、しかしながら、この点には多くの準備が必要であり、私の現在の状況ではその準備が整っていない、と私は判断したからです。 これについては、おそらく、古田武彦だけを論じていても仕方のないことでしょう。 所謂「戦後歴史学」の主要な論者を対象にしていかなければ、議論は進まない、と考えています。 同時に、「国家」というのは、非常に大きな影響がある問題です。 右といわず左といわず、あらゆる思想家を相手にしなければならないかもしれません。 近代史、世界史、哲学といった論者と向き合うことも必要でしょう。 まずは、戦後歴史学から考えることにしましょう。 まだ、何もまとまりませんが、ここで、それを少しずつでも述べておくことは、私にとっても有益なことのように思います。 戦後の、「科学的」な歴史学者は、皆、こういいます。 「何を以って国家と言うのか、その基準が大事だ」と。 例えば、「邪馬台国」を以って「国家」というような論者は、「国」という語に引きずられた、非科学的・通俗的な理解に過ぎない、と。 「邪馬台国」が「国家」である、と主張したければ、「邪馬台国」の制度の如何なる部分が国家であり、如何なる構造が国家なのか、それを説明しなければならない、と。 これは、一見、尤もな意見であるように聞こえます。 しかし、この議論は、実は奇妙なのです。 「邪馬台国」は「国」とあるから、「国」だ。 という素朴な主張を何故否定しなければならないのでしょう。 それは、現在の、何らかの国家観を以って、当時の国を判断すべき、という考えからです。 津田左右吉は、「概念」を歴史学に持ち込むことを拒否しました。 このことは、多くの戦後の歴史家を困惑させました。 一般に彼のこうした発言は、「マルクス主義」への反発によると見られています。 彼の主張が「象徴天皇制」の源泉となったこともあり、彼の「天皇制擁護」の立場と、「反マルクス主義」―所謂「反共」姿勢は、「マルクス主義」がその中心的存在となっていた戦後歴史学によって、黙殺されたのだといっていいでしょう。 井上光貞は、「自分は津田史学の亜流と言われてもいい」と言ったそうですが、津田のこういった主張だけは、彼の受け入れるところとはならなかったようです。 今の議論に接続させて言えば、「国家」という概念を持ち込むことを津田は拒否します。 津田が言うのは、史料批判上の問題です。 史料に基づいて「国家」を論じるならば、史料に基づいて「国家」概念を帰納しなければならない。 だから、現在の概念によって史料を解するべきではない、という、この点において、マルクス主義のそれとは相容れないのです。 それは、実は、マックス・ヴェーバーも警戒していることでした。 社会学が「客観性」を維持する為には、その概念の限界を知る必要があり、通俗マルクス主義のような魔力に満ちた「国家観」は、警戒すべきである、ということです。 もちろん、このことは、一般にも理解はされているでしょうけれど、先ほどの「戦後史学」の言い分は、この点において微妙な問題を有しています。 (これは、「戦後史学が誤っている」と言いたいのではありません。「戦後史学」がこのようなアプローチを採っていることにはもちろん、しっかりした理由があり、この点において歴史学は有意義な学問として存在しえているということは、事実なのです) 国家の基準、ですが、所謂「マルクス主義」の論者からは、エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』や、『反デューリング論』をベースにした議論が、その他の論者からも、古くはロストウ、ヴェーバー、ヘーゲル、ウィットフォーゲルなどなど、様々な分野から国家の基準を持ち込み、各々の議論を展開しています。 これはこれとして、歴史学としては有意義なことでしょう。 それは事実です。 しかし、例えば、石母田正は、「アジア的生産様式」を見出しましたが、これは、あくまでも「律令国家」を日本における古代国家の成立と位置づけた上でのことであり、これを基準に例えば「古墳時代は国家段階か」を論じることは、同語反復であり、無意味なのです。 何から概念を抽出し、何に適用していくのか。 このことを忘れてはならないでしょう。 そうした意味では、古田武彦が、「縄文には縄文の国家があり、弥生には弥生の国家がある」という単純な指摘は、重要なのです。 ここに「意義」があります。 ふむ。 やはり、まとまりませんね。 まぁ、今日のところはこの辺で。 13-Jun-2004 最近、皇太子殿下の「発言」が世間を騒がせています。 私は、彼の言い分を聞いて、彼の生の訴えを聞いたような気持ちがしますね。要するに彼は、彼ら皇族の人々の行動があまりに制限され、それが皇太子妃殿下の「負担」となっていることを訴えたかったのだと思います。 そう言えば、私が小学生の時、昭和天皇が亡くなりました。 あの時、昭和天皇の容体が、刻一刻とニュース速報として流され、今日は何回下血しただとか、そういったことが詳しく報じられ、「意識がなくても心肺機能は年明けまで何としてでも維持させるのでは」とか、「年明けまで発表しないのでは」と実しやかに噂され、「人の死」よりも、何か大きな力が、昭和天皇の周りを動いているような感覚を、子供ながらに感じたものです。 その時、私たち子供の間では、「皇族は可哀想だ」ということが、誰が始めに言ったか覚えてませんが、少なくとも私は確かにそう思ったのでした。 「結婚」の話題についてもそうです。 子供であった私の目には、彼らが、普通に生活できないことを「可哀想だ」という感覚で見ていたのを思い出します。 確かに、今でも、皇族の「発言」は全て宮内庁の役人が考えたものであり、彼らは彼らの考えを言ってはいない(言うことが許されない)、と私は本気で信じており、その意味で彼らは「権威」であるどころか、私にとって「哀れ」に映っていたのです。 今、日本で一番「権利」を剥奪され、「自由」から遠いところに取り残された「階級」が皇室である、と、少なくとも子供であった私の目には映っており、その意味で、皇室を巡る大人の勝手な議論とは、ほど遠い感覚を覚えていたのでした。 そうしたわけで、今回の皇太子殿下の発言は、血の通ったものであり、少しほっとした思いで、聴くことの出来るものだと思います。 さて、こうした皇太子殿下の「発言」を受けて、俄かに「女性天皇」の議論が、再度、脚光を浴びることとなっています。 皇太子妃殿下の「ストレス」の原因が、「お世継ぎ」問題にあるのだとすれば、「女性天皇」は、その解決の一つの策だ、というわけです。 これについて、私は、過去にも「独り言」を述べたことがあります(08-Dec-2001)。 今は、これについても多少考えも深まりましたし、もう一度、述べておかなければならないこともあると思います。 まず、「皇室典範」には、男性だけが天皇になれる、とあります。 これが、「女性天皇」が今の制度ではありえない所以なのですが、これを改定して、「女性天皇」を認めようじゃないか、というのが、今の議論です。 これの何が問題なのでしょうか。 たとえば、こういうことです。 今、皇族の女性が、誰かと結婚した場合(仮に「鈴木さん」としましょう)、その皇族の女性は、「鈴木さん」のところに嫁ぐわけですから、「鈴木姓」を名乗ることになります。 ですから、皇族を離れ、「野に下る」ことになります。 当然、彼女の子は、「鈴木さん家の子」であり、「皇族」ではなくなる、という家族制度上の問題があります。 だから、「彼女」にも「その子」にも、皇位継承権は無い、というわけです。 このあたりに、「女性天皇」の難しさがあります。 過去の「女性天皇」は、ほとんどが前の天皇の「皇后」か「母」であり、この「血統」上の問題をクリアしていたから、「天皇」になれたのです。 (この言い方は多少問題があるかもしれません。しかし、少なくとも結果的にはこの問題をクリアしていた、ということは出来ると思います) 少なくとも今の「皇位継承」に関して、もっとも重要なのは、「血統」であり、それも、生物学的に血を継いでいるかではなく、家族制度の問題なのです。 ですから、それを取っ払ってしまえばいいじゃないか、生物学的に血を継いでいれば、「女性天皇」でもいいじゃないか、という意見が出るわけです。 その際、「夫婦別姓」とか、「男女平等」とか、そういう如何にも近現代的な、「革新的」な見方を主張して、「新しい皇位継承制度」を主張するものがいるかもしれません。 ですが、そういう論者は、実は、何も考えていない。 「天皇」とは、何かと言うことを。 今の、家族制度上の「血統」を継ぐものでなければ、天皇にはなれない、という今の制度を、例えば、「女性天皇」を認めて、その子にも皇位継承権を認めたとしましょう。 それは、単に新しい家族制度を作っただけのことであり、たったそれだけのことでは、おそらく、その論者は、自分の主張が単にそれだけのことであることを理解することさえ出来ていないでしょう。 ですから、実は何も考えていない。 こう問うて見ましょう。 では、「女性天皇」の夫に、皇位継承権が無いのはなぜか。 これを認めないのは、単に「血統」を家族制度の従来のものから、単に DNA の結合に求めただけに過ぎず、相も変わらず、天皇家の「神秘性」は少しも損なわれることは無いのです。 もし、これを認めるなら、どんな一般人にも「皇位継承権」を認めるべきであり、「皇族の女性に見初められること」を「皇位継承の条件」に据えることは、ナンセンスに近いでしょう。 それなら、「選挙」で決めますか? これを、「愚かな極論」である、と感じる人は、是非、「なぜそれを認めることが出来ないのか」を考えて欲しい。 私は、天皇家の「神秘性」を剥ぐことを問題にしたいのではないのです。 問題は、こうした「神秘性」を見ることをせずに、その「神秘性」の保存に無自覚的に加担するような、自称知識人の言説のほうです。 「女性天皇」を認めるべきだ、と主張する論者は、どういうわけか、自分が「皇国思想」を免れた「思想的自由人」を、「革新的な健全な発想の持ち主」であることを主張し、「旧態依然」とした保守的な論者を斬って、ひどく「上機嫌」な感じがするのです。 ですが、実は、「神秘性」は、こうした論者によって、守られていくのであって、どんなに表面的に旧制度を批判しようと、こうした論者がいる限り、天皇家の「神秘性」は安泰なのだ、と言うべきです。 そういうわけで、まだまだ「天皇制」は、安泰のようです。 これを「安堵」と釈るか、「皮肉」と釈るかは、読んだ方にお任せします(笑)。 05-Jun-2004 今日は、古代史を少し離れ、「自己責任」について、改めて考えてみたいと思います。 「自己責任」なる言葉は、もちろん、最近の流行でもありますが、先の「イラク人質事件」で、一人歩き(?)していた言葉です。 個々の議論はさておき、私は、彼らの家族が、なぜ責められなければならなかったのか、を少し考えてみたいのです。 さて、先日、イラクでもうひとつ悲しい事件がありました。 ジャーナリストの橋田信介さんと小川功太郎さんが襲撃を受けて亡くなりました。 しかしながら、橋田さんの奥様(幸子さん)の毅然として気丈な、そして「爽やか」な対応に、私は胸を打たれる思いがしました。 橋田さんは、確かに、ずっと戦争ジャーナリズムに携わっており、その危険は熟知していたであろうと思います。 奥様も、それを認識しており、覚悟を決めていたのだなぁと、そう感じました。 橋田さんは、「人質事件」で「自己責任」が云々されていたころ、テレビに出演して、彼なりの「自己責任」を語っていました。 それは、「危険は覚悟のうえ」ということでした。 まさに、そうした「覚悟」を、橋田さんの奥様は、体現されていたのだなと思います。 そしてこれが、彼らの「自己責任」ということなのでしょう。 そうしてみると、「人質事件」で語られていた「自己責任」とは、一体、何なのでしょうか。 どこから議論はおかしくなってしまったのでしょうか。 それを考えておく必要があります。 やはり、「あれ」はおかしかった。橋田さんが身をもってそれを正してくれた、というのは、あまりにご都合主義的な言い方かもしれませんが、ここらで振り返っておくことは、どうしても必要なことと思われます。 さて、まず、違いを見出しておかなければならないのは、「家族」の言動です。 これは、あえて指摘するまでも無いのかもしれません。 もちろん、状況は違います。 あの場面での、「家族」の、あの言動は、家族として当然のことであり、当然の感情だと思います。 ですが、「家族」がああ言ってしまったがために、おかしな「自己責任」論を招来してしまった、というのは、残念ながら事実だと言っていいでしょう。 「自己責任」論は、「家族」の言動に対する反発であることは、確かです。 しかし、私は、どうしても、どちらの言い分にも、納得することが出来ません。 それは、おそらく、「言った内容」ではなく「言った口」が問題なのだろうと思います。 ところで、お金を貸し借りした際、絶対に争わない為の心構え…って知ってますか。 「借金は必ず返す」でしょうか。それとも「貸した金のことは忘れる」でしょうか。 どちらも半分当っていて、半分はずれています。 「借金は必ず返すべきだ」と貸したほうが言うことも、「貸した金のことは忘れろ」と借りたほうが言うことも、むしろ争いの種です。 人は「倫理」と言うとき、全ての当事者に、「公平な」命題を持ち出したがります。 負債者と債権者は、同じ立場ではありません。 ですから、負債者と債権者に一律に課せられるような「倫理」を求めるべきではないのです。 負債者は「借金は必ず返すべきだ」と言うべきですし、債権者は「貸した金のことは忘れるべき」なのです。 「自己責任」論では、「国家の責務」と「個人の自由」が争われたように思います。 しかし、知らず知らずのうちに「家族」は「国家の責務」を求め、政府は「個人の自由」を求めてしまった。 これが、争いの原因なのです。 どちらも、言っている内容は正しい。なのに、反発を招く。 それは、「日本人特有の判官贔屓」でも、「安っぽい感情論」でもなく、「倫理」そのものが持たねばならない、「言動の力」とでも言うべき作用によるものなのです。 これが、「自己責任」があらぬ方向へ流れてしまった、原因なのだと思います。 しかし、最後に強調しておかなければなりません。 「あれ」は、関わった全ての人々が、きっと、自らの意思で、自らの正しいと思う行動をとった結果です。 「後悔先に立たず」とは、「先見の明がないことを歎く言葉」ではありません。 「あのときああしていればよかった」という後悔は、常に後から見出されるのであり、原因は、常に結果から遡って発見されるのです。 その事実を簡明に語っているのだといったほうがいいでしょう。 「反省」は、もちろん、あらゆる人々にとって(もちろん私にとっても)必要なことでしょう。 それは、ことが起ってしまった後に、初めて為される。そういうものです。 ですから、「彼ら」には、これに「懲りず」に、是非、彼らの正しいと思うことを、堂々とやってもらいたいという気持ちです。 休日は家でのうのうと古代史の思索にふけっているような輩に言われる筋合いは無いでしょうけれど(笑)。 陰ながら応援したい、というのが今の素直な気持ちです。 31-May-2004 先日(5/30)、歴研の大会に参加してきました。 簡単にですが、ご報告です。 今回の「報告」は、「古代史部会」と「アジア前近代史部会」の合同で、それぞれ古代史から河内春人「『天下』論」、アジア前近代史から山田智「漢代専制的皇帝権の形成過程」とが発表されました。 二つは、王権論という点で共通のテーマを持っており、各々の立場から、議論を深めようと言う意図があったようです。 まず、河内報告のほうは、権力とそれを支えるイデオロギー論の立場から、「支配の正当化」「世界観」「アイデンティティ」の三つの視点から、王権の特徴を捉えようと言うものでした。 倭の五王時代の「世界観」は、中国を中心にしており、したがって支配は中国の天子によって正当化されます。 その後、隋代には倭王は「天子」を称しますが、この頃には、「アメ」と言う擬人化された「正当化の保証権威」と、「アメノシタ」を統治する王としての「治天下王」との関係が捉えられます。 次に、律令以降、天皇は「現神」となり、「アメ」は「皇祖」に位置づけられ、これが「保証権威」となります。 こうした河内報告は、一つ一つの論点を見ていくと、それほど違和感を覚えるようなものではありません。 この取り組みの方向性は、非常に興味深いものだと思います。 しかし、例えば、「天下」をキーワードと見なし、そこから「世界観」を探っていく河内報告の場合、「天下」の語義、用法に対する検証が、その立論の基礎となります。 この点において、例えば『出雲風土記』の「所造天下之大神」に触れていなかったり、江田船山・稲荷山の両鉄剣の「治天下」の解釈が相変わらず「天皇」との結びつけを前提としている点などは、一層の検証を求められるべきことだと思います。(両鉄剣を「天皇」に結び付ける最大の根拠が「天下」である、ということを忘れるべきではないでしょう) 次の山田報告は、今まで中国史における皇帝権力の議論が、皇帝そのものの権力体勢だけを問題にしていたのに対し、別のアプローチとして、国家の「構造」の面から、具体的には「家産」から迫ろうと言うものでした。 これは、日本古代史における「ミヤケ」「部民」といった、天皇家の財政基盤に対する研究の成果を参照したもののようです。 なるほど、確かにこの点においては日本古代史には多くの研究の蓄積があり、こういったアプローチを中国史において試みる、というのも一つの方法として興味深いものです。 日本古代史、中国古代史の両側面から、互いに論じ合っていく今回のスタイルは、なかなかに興味深いもので、実りある議論であったのではないかと思います。 ちなみに、例によって(?)、「懇親会」にはしっかり参加し、おまけに古代史部会の二次会・三次会にまでちゃっかりお邪魔しちゃいました。 鈴木靖民さん、吉村武彦さんと言った方々と(直接お話は出来ませんでしたが)一緒に楽しい時間をすごすことが出来たのは、よかったです。 発表者の河内さんとは、少しだけお話しすることが出来ましたし、他にも多くの研究者の方たちとお話できて楽しかったです。 30-Apr-2004 先日、ねたろうさんから、音価推定についての質問を受けました。 私自身もうろ覚えであり、多少の誤解もありましたので、少し、整理しておきたいと思います。 さて、「奴」を「な」と読むことについてですが、論点は二つあります。 一つは、簡単に言えば、中国語では「奴」は何と発音されていたか、という問題です。 もう一つは、『魏志倭人伝』の「奴国」は、日本語では何という国の名前なのか、という問題。 これは、区別しなければなりません。 第一の中国語の音価推定の問題からじっくり見てみましょう。 まず、中国語音韻は次のような体系から考えられます。 1.現代中国語(北京・広東などで異なる音韻体系) 2.切韻体系(魏晋南北朝から隋唐の所謂「中古音」) 3.詩経体系(『詩経』から推定される所謂「上古音」) もちろん、細かく見ていけば、当然、唐の頃に大きな音価の変動があったといわれていますし、南北朝時代の音韻も複雑なものです。 更に、日本の呉音・漢音・唐音・宋音などを考慮に入れれば、もっと多くの議論が可能です。 今問題となるのは、「中古音」と「上古音」です。 中古音は、『切韻』系列の韻書から導き出される音韻体系です。 (ここで「音韻」「音価」という語について、私なりの解釈を加えておきます。「音韻」とは、その言語を話す人々にとって「違う」と認識できる、或いは認識している音の差異のことであり、「音韻」体系は「示差的なシステム」或いは「関係のシステム」である、と言っていいでしょう。常にある音韻は他の音韻と「違う」ということによってのみ存在するのであり、これは、どの言語でもそのように言うことが出来ます。一方、音価は、ある音韻を実際に何と「発音」しているか、つまり「どんな風に口を動かし、舌を使い、息を操るのか」が問題なのであり、音韻とは別個のものです。日本語でも「が」という音韻に対し、[ga][nga](正しい表記ではありませんが)のいずれの音価も存在するのは有名な話です) 韻書から、声母・韻母・声調が導き出されます。これによって、「中古音」の音価が推定されるわけです。 そして、上古音は、『詩経』に収められた詩の韻によって導き出された音韻体系です。 ここで、よくある間違いを指摘しておかなければなりません。 上古音・中古音というのは、あくまで現代の学者の、とりあえずの区分です。 今言ったように、中古音は『切韻』(の系列の韻書)に、上古音は『詩経』によっています。 間違ってはいけないのは、これを歴史的実体と思ってはいけません。 あくまで言語学上の、認識論上措定される対象なのだと言うことです。 当然ながら、言語は同じ時代でも地域によって異なりますし、世代によっても異なります。個人差だってあります。 おそらく『詩経』と『切韻』の間には違いがあり、別々の体系のように見えますが、間違っても、「上古音」がある時期に「中古音」に切り替わった、などと考えてはいけません。 理論的対象と、歴史的実体は、区別しておかなければなりません。 さて、前置きが長くなりましたが、問題の「奴」は、中古音では〔摸〕韻に属します。これはつまり[-o]という音価であると推定されています。 ところがこの〔模〕韻は、他の中古音の〔麻〕韻や〔魚〕韻と同じく、『詩経』の音韻体系では、〔魚〕韻に属すとされます。 この音価が、様々な理由から[a]であろうと推定されています。([am][an][au]などもあるらしい) したがって、「奴」は、日本語で近い音で言うなら、中古音なら「の」、上古音なら「な」というわけです。 (このことと、同じ中古音でも南方系では「の」、北方系では「ど」という音価の違いとは区別する必要があるように思います。「の」「ど」の違いの場合、あるいは「ぬ」の場合は、他の音との関係と言う意味では何も変わっておらず、したがって音韻体系はほとんど同じ、と言っていいでしょう。更にここに「呉音」「漢音」を含むと、話はややこしくなります) さて、次に『魏志倭人伝』の「奴」を何と読むか、という問題。 これを考える為には、いろいろ複雑なのです。 まず第一に、これを音訳した人が、中国人なのか、日本人なのか、朝鮮人なのか、という問題。 中国人であれば、中国語の音韻体系をそのまま適用するという仮説が成り立ちます(これもこの時点で仮説です。なぜなら、厳密には音訳者その人の「音韻体系」が、既存の音韻体系と全く同じである保証が無いからです)。 当然、日本人なら日本語の呉音や漢音といった体系が適用できるでしょう。 森博達氏は、中国人による音訳と見ているようです。 少なくとも中国語の、しかも中古音の体系を踏まえていると見ています。 しかし、ここからが重要です。 では、「奴」は何と読むのか。 ここから言えば「の」である、というべきでしょう。 しかし、森氏は、違うことを言い出します。 「奴国」は「那の津」の「な」に比定されるから、ここでは「な」と読むらしい。 したがって、これを「な」と読むのであれば、この「奴」だけは、上古音なのだろう。 と言うのです。 順番を間違えてはいけません。 「奴」は上古音である→「奴」は「な」と読む ではなく、 「奴」は「な」と読む→「奴」は上古音である という順序なのです。 これを逆転させることは出来ません。 これを間違えるのは、論理上、あまりに初歩的なミスであるのですが、一旦「奴」は上古音である、という指摘がなされると、その「結果」だけが一人歩きしてしまいます。 私が「重要なポイントは、「奴」を「な」と読む根拠は、まず「那の津」であるということなのです。」と言ったのは、この点です。 (森氏以前に「上古音」を持ち出した論者はいますが、彼らがこれが上古音である、という推定を行なったのは、まず「奴」を「な」と読むはずだから、という点が出発点です。或いは、上古音・中古音という用語の、或いは『切韻』(もととなった韻書は三世紀の成立)以前には中古音は無い、という誤った認識から、「金印の頃に淵源する奴国」は上古音であると言っているのです。先にも言ったとおり、中古音は、理論上の存在であり、実際にそれそのものが歴史上存在したと考えるべきではありません。『切韻』は当然、それ以前からの音韻体系を基礎にしており、仮説として「金印」の時代に適用できる可能性は排除できません。別の体系を仮定するのであれば、その「仮の音韻体系」を理論的に構築する必要があります) ふむ。 非常にややこしい問題を多く含みますが、私なりに整理すると、こういう感じです。 18-Apr-2004 今回は、歴史学の方法について、また、考えてみようと思います。 よく、歴史学の方法は、検察官や探偵の仕事と比較されます。 なるほど、確かに、似ている気もします。 物的証拠、状況証拠、証言を集めて、過去の事実を明らかにする、という点では、よく似ている、と言っていいでしょう。 ですから、推理小説の名探偵が「邪馬台国」の謎に挑む、なんてのも可能なわけです。 この点を踏まえて、これら検察の仕事や、名探偵の仕事を少し考えて見ましょう。 まず、検察の仕事ですが、確かに同じようにして様々な証拠を使って、過去の事実を明らかにしていく作業のように見えます。 しかし、大事な点は、それが事実であると認められるかどうかは、裁判の結果にかかっている、という点です。 どんなに検察が重要な証拠だといっても、裁判官がその証拠能力を認めない限り、それは一つの仮説の域を出ません。 ですから、弁護側は様々な戦術で、これを決定不能な方向にもっていくことが出来ます。 それが裁判です。 裁判官の決定に対しては、それが裁判のシステム上決められたとおりの、つまり裁判のシステムの一部としての異議申し立てでない限り、一切不服を述べることは出来ません。 裁判官の決定は、強大な権力によってはじめて為されるものです。 (三権の一角を担う) この「権力」の問題なくして、検察の仕事を語るわけには行きません。 検察も弁護士も、法というシステムに組み込まれた一つだからです。 そうしてみると、推理小説などの名探偵の仕事にも、不可欠なものがあります。 それは、作者という権力による決定です。 具体的には、名探偵の推理を跡付ける為の、具体的な展開が、名探偵が推理を披露した後で、用意されなければなりません。 「助手や依頼人が感心する」「犯人が自白する」「都合よく決定的な物証(犯人/被害者の手紙や犯行現場の写真のような)が見つかる」「警察が動く」といったことが必要なのです。 この中のどれ一つとして行われないまま、推理小説が終わってしまえば、「ホントかよ~」という読者の声が聞こえてくることは必至でしょう。 こうして、必ず、推理小説の最後には、作者によって、名探偵に都合のいい舞台が設定される必要があるのです。 それは、作者の「神のような権力」によって行なわれます。 これはこれで、詳細に検討してみると面白いのかもしれませんね。 ところで、歴史学においてはどうでしょうか。 ある学説が、一つの学説として、まさに「認められる」必要のあるものであるという事実は、見過ごしてはなりません。 フォイアアーベントは、科学的真理を決定するのはプロパガンダである、と言っていますし、クーンは、理論の優劣を測るような客観的なデータは存在せず、真理は専門家集団の「発明」でありその宣伝・説得・政治闘争により選択される、と言っています。 ニーチェは、「真理への意志は権力への意志である」と言いましたが、そうしたことが、まさに歴史学においても言えることなのです。 (このようなことは、西洋の大物哲学者の大仰な言説を持ち出さなくてもいいのかもしれません。例えば井上光貞は、「ぼくが九州説というものをとっているのは、東京大学にいるからとっているといって間違いない」と言っています。ここから東大/京大という学閥闘争への批判へ進むのはかまいませんが、井上は、「真理」についての事実を率直に述べたものと見ていいと思います) 私は、「真実は一つ」とか「何処から見ても山は山」みたいなことを言ったこともあります。 それはそれとして、私の信条としては、そのとおりだと思っていますが、だからといって、この事実から目をそらすつもりはありません。 よく「古田説はなぜ受け入れられないのか」という問いを、古田武彦の支持者は発します。 多くの場合、「学界の退廃・腐敗」といったような見方や、「学界の信仰」というような見方で片付けてしまいがちですが、(古田自身がその最たるものと言えるでしょう)それは、違います。 それはあまりに無邪気で純真無垢な見方だと言ってもいいのかもしれません。 無邪気とか純真とか無垢とかという言葉を私は決していい意味で使ってはいません。 そもそも、彼らの本質が本当にそのようなものであるかどうか、私は疑問だと思うからです。 本当にそこまでガキではないだろう、と言いたい。 ですから、それは、おそらく、事実から目をそらすような行為か、そうでないなら、自らの倫理的な要請を他に押し付ける独善主義かのいずれかに過ぎないでしょう。 この言い方は、多少酷かもしれません。 しかし、その意味では、プロパガンダに精を出す安本美典のほうがはるかに事実を見ており、その事実に対して素直である、と言っていいでしょう。 「古田説はなぜ受け入れられないのか」という問いの回答は、このあたりにある、と見ています。 しかしながら、私は、「誰もが思わずうなずいてしまうような方法もあるはずだ」という信条を持っています。 それは、根拠のない信念に過ぎません。 ですが、私は、そのことには、何の躊躇もしないでしょう。 そこで「うろたえる」というまさにそのことが、「根拠がなければならない」という、まさに根拠のない信念に支えられたものなのですから。 私は、学問には「ルール」だけが必要だ、と言ったことがあります。 そこで言う「ルール」とは、「誰もが思わずうなずいてしまうような、誰が考えても同じ結果になってしまうような仕方で説明する」ということに他なりません。 「数字」を使うのも、「形式」を使うのも、「観念」や「理論」を使うのも、いいでしょう。 「誰が見ても、考えても同じであるようなもの」のことを「客観的」というのであり、そういう方法だけを使い、認める。 それが学問の「ルール」だと思っています。 しかしながら、「誰が見ても同じ」であるかどうかは、「客観的には測定不可能」ということなのです。 そこで「政治力」が働きます。 ですが、たとえ、「建前」だけであっても、「誰が見ても同じ」ということにこだわり続けることが必要です。 その「ルール」が守られている限り、学問はどこまでいっても学問なのであり、有益なのです。 そのために必要なら、数値化もしますし、形式化もしますし、理論化もします。 それだけのことです。 あまり、堅苦しく考えるのは、好きではありません。 私が歴史をやるのは、「楽しいから」であり、「娯楽」に過ぎません。 それでいいのだ。(笑) 17-Apr-2004 人質事件は、この一週間で随分と動きました。 事件の経過はもちろんですが、世論も随分変わったものだと思います。 先週の独り言で、私は、「彼らが無事助かって帰国すれば、そして今の緊迫感が安堵感に変われば、必ずや、彼らを非難する論者が現われるであろうことを、予言しておきます」と言いましたが、そのとおりの状況となりました。 「自己責任」という言葉が、政府関係者からもマスコミでも大いに言われています。 政府からそれが出るのは、先週も言ったとおり、自衛隊派遣のロジックの延長線上ですから、当然のことです。 しかし、「無謀な雪山登山」に喩える例をよく聞きますが、それもまた違うと思います。 なぜなら「雪山」は自然ですが、「イラク」は国――要するに人の集まりだからです。 もちろん、「雪山」だろうと「イラク」だろうと、救出後の「被災者/被害者」がさらされる非難の一部は、「自分達がこんなに心配してやったのにその態度はなんだ」とかそういう次元の低い感情論であり、単なる自惚れた自称知識人或いは偽善者の見え透いた自己満足を満たしたい欲求から来るものに過ぎません。 そういった感情的な非難は、マスコミ論や大衆の心理といったものを分析する上では、興味深いサンプルとなるでしょう。 当然ながら、それとは少し次元を異にする批判も存在します。 今、私が関心があるのは、そちらのほうです。 人質となった3人と、それから新たに拉致されたという2人は、それぞれ、ボランティア活動家/フリー・ライター/フリー・カメラマン/フリー・ジャーナリスト/ NGO 活動家だそうです。 大きく、「慈善事業家」と「ジャーナリスト」とに分けられるでしょうか。 私は、彼らの活動を直接取材したわけではありませんし、マスコミで一般的に言われている情報を鵜呑みにした程度です。 今井紀明氏などは、「フリー・ライター」という肩書きですが、実際は劣化ウラン弾を非難する立場から、その実情を取材しようと志したもの、とのことで、単純な意味でのジャーナリストとは、少し違うのかもしれません。 とはいえ、「ジャーナリスト」の多くは、「イラク」の実情を、「戦争」の実情を取材したいと言う気持ちから、敢えて危険な地へ乗り込んでいるので、どの「ジャーナリスト」も少なからず、そうした側面を持っていると言うことも、忘れるわけにはいかないでしょう。 それでも、大局的に見て、このような認識で大過ないだろうと思います。 批判の中には、彼らのこうした活動を制限するような議論があります。 先に言ったような「感情論」も、最終的にそのようなものを招来してしまいます。 しかしながら、例えば、ジャーナリズムは、政府とは一歩距離を置いて、自由に動き回れる、そういう立場を基本的に望んでいるはずです。 所謂「イラク戦争」の最中も、バグダッドには多くのジャーナリストが残り、米軍に従軍さえした。 従軍記者は、(軍事的必要は理解しつつも)報道内容が制限されることを歎き、バグダッドの記者は、少しでも「前線」を捉えようと、銃撃の中へ出向いたりもした。 ですから、今の「イラク」にジャーナリストが「勝手に」入り込んでいることは、むしろ、当然のことです。 それを失えば、ジャーナリズムは、「文春出版差し止め」以上のものを失うことになるでしょう。 今は、そのことにあまり目が向けられていない気がします。 或いは、それを失うことは無い、とタカをくくっているのでしょうか。 NGO の活動は、その名(非政府組織=NonGovernmental Organization)が示すとおり、政府でないことが重要です。 ですから、彼らの活動が、政府の活動(「イラク」なら「自衛隊」)ともちろん対立する必要はありませんが、政府によって制限されるべき謂われは無いのです。 個人のボランティア活動家も、おそらくは、同じような理想を持って活動しているのでしょう。 それを制限することそれ自身は、「身の危険」という文字通り「リスク」と、天秤にかけても、答えは一様ではないはずです。 こういえば、「今はそんな状況ではない」という声が上がるかもしれません。 しかし、おそらく彼/彼女らに言わせれば、そうであるからこそ、その活動が重要なのだ、と言うでしょう。 今回の人質解放の理由に、彼らの活動内容を評価したことが挙がっている点は、忘れてはなりません。 ともかく、今回の事件は、「自衛隊」議論が、「派遣」の側にむしろ有利に働きそうな気がします。 たとえ、一人一人の発言が、それ自身としては、決して「派遣」を望んでいなくても、です。 もう一度申し上げますが、私のこの「発言」が、結果として、何をもたらすか、それは未知数です。 10-Apr-2004 大きな事件がおきてしまいました。イラクで日本人が拘束され、自衛隊の撤退を迫っています。 もちろん、人命のかかった事態であり、軽はずみには何かを申し上げるべき状況ではないのですが、でも、少し考えてみなければいけないことがあるように思います。 あらかじめ、申し上げておきますが、今回の彼ら――ムジャヒディン旅団を名乗る集団の行動は、卑劣であり、卑怯なテロです。 人質となった三人の無事を祈る気持ちは、私も替わるところはありません。 それに、私は、何らかの政治的主張をここで展開したいのでもありません。 私が注目しているのは、彼らテロリストの言動ではなく、国内の、様々な論者の言説です。 とは言っても、私が目にしえた人々――つまり、テレビによく出てくるような人々の発言が主です。 今回の事件を以て、「だから自衛隊を撤退すべきだ」という人々がいます。 自衛隊の派遣の為に今回の事件がおきた、と見なす論者がいます。 私の見たところでは、NGO やその他のボランティア活動を積極的にされている方々に、そのような発言が多いように感じます。 彼らの言うところは、「日本はこれまで特別に扱われてきた。しかし、自衛隊を派遣することによってその特別な地位を失い、他の国と同列だ、と見なされてしまった。だから、テロリストから敵と見なされてしまうのだ」というような主旨だといっていいでしょう。 その際、自衛隊が撤退すれば、彼らが帰ってくる、という担保はあるのか、とか、そもそも自衛隊が行っていなければ、彼らがこんな目に会うことはなかった、と言えるのかとかという議論は、とりあえず、措いておかれます。 一方、「だから自衛隊が行かなければいけないのだ」という論理が可能であることに注意してください。 そもそも、「自衛隊は戦争に行くのではない。人道復興支援に行くのだ。今のイラクの情勢を考えれば、そのような活動は、民間人ではなく、少なくとも自分の身を守ることの出来る自衛隊が行かなければならない」というのが、派遣のロジックだったことを思い出す必要があります。 今は、何より人質の人命が優先されるべき時ですから、表立っては言わないかもしれません。 しかし、彼らが無事助かって帰国すれば、そして今の緊迫感が安堵感に変われば、必ずや、彼らを非難する論者が現われるであろうことを、予言しておきます。 「どうして、あんな危険な状況なのに、あんな危険な場所へ行ったんだ」と。 それは、自衛隊派遣のロジックの延長線上にあります。 おおよそ、論理とは、そういうものです。 私が、私自身としては、事実を単に「見た」つもりで、このように述べても、私の発言の中に政治的な意図を見出そうとする人がいるかもしれません。 いや、見てしまう人がいるかもしれません。 それは、一面では正しいのかもしれません。私が、一人の人間として、社会に、この日本社会に関わっている以上、そして、この「独り言」が、その表題に反して、社会の人々(それはあまり多くはないかもしれませんが)へ向けられたものである以上、不可避的なものかもしれません。 今回の人質事件の対応は、あくまで、人命を尊重した上で、「犯罪」への対応として、対応を考えるのが、もっともよいのではないかと思います。 「自衛隊派遣」という国家の政策を、そこで云々すること自体が、彼らの思惑の内部にいるのだ、と言ってもいいでしょう。 ですから、素人の私が述べるべきことはないように思います。 ちょうど、誘拐事件の対応について、云々するだけの技量がないのと同じように。 (もちろん、これについても、述べることがあるかもしれませんが) このテロは、彼らの思惑とは逆に、自衛隊を撤退させにくくしてしまった、という指摘もあります。 今の危険な情勢――特に、今、自衛隊は、情勢悪化を受け駐屯地外の活動を「自粛」している――を考えれば、自衛隊の撤退はありえないことではなかったのに、このテロが余計なことをしてくれたおかげで、「テロに屈するな」で世論がかえって固まる可能性がある、というのです。 なるほど、この指摘は的を射ています。 そこから考えれば、「人命の為に自衛隊を撤退させよ」と声高々に述べてしまうことが、逆に、自衛隊撤退を遅らせるのかもしれません。 現実には、論理は、その「位置」あるいは「状況」によって、本人の意図とは全く違うところへ、物事を運んでいってしまうものです。 それを計算した上で発言することが、「政治力」だとすれば、私は、この「独り言」が何をもたらすのかは、正直、分かりません。 何ももたらさないのかもしれません。 しかしながら、「人命」を言いながら、無自覚的に、何かを運んでしまうイデオローグたちには、危険を感じずにはいられないのです。 戦前の議論が、もちろん、制限されていたとはいえ、軍国主義/皇国思想/国体思想の原理主義者はかえっていなかったことは、調べてみればすぐに分かることです。 むしろ、人道主義者や女性解放論者などの言説が、結果的に、そういったロジックを形成するのを助けてしまった、という一面をわすれるべきではありません。 政治力は、論理とは別のところで働きます。 論理的には決定不可能であることを、政治力が決定する、という事態は、しばしばあります。 問題は、それを「論理の力である」と誤解することです。 ナショナリズムにせよ、今回の問題にせよ、それを容易に混同してしまうことに、「厄介」さがあります。 自衛隊派遣/撤退は、論理的には、どちらでもよい(どちらに有利な論理を産むことが出来る/どんな論理が有利であるかを恣意的に決めることが出来る)。 それを決定するのは、政治力なのだ、と言ってもいいでしょう。 それにしても、(何でもいいから)人質の三人が無事解放されることを願います。 1-Mar-2004 昨日、一昨日 (2/28-2/29) と考古文化研究会の第一回研修旅行~備中編~へ参加させていただいてました。 それを簡単にですがご報告したいと思います。 まず、一日目。 はじめに鬼ノ城に向かいました。非常に眺めがよく、吉備の平野を一望でき、ここがこの地を守る上で、重要な山城であることが印象に残りました。 七世紀から八世紀の築城である、とのことで、同じ時代には「高安城」や「大野城」などがあり、壬申の乱、或いは白村江の直後の不安定な時期に作られたもの、との見方が強いようです。 そうしたことから、「吉備大宰」の「石川王」との関係も考えられるようです。 しかしながら、地元では「温羅(うら)」伝説との絡みで語られています。 この伝説もなかなか興味深いものです。 それはさておき、道が険しかった・・・。 ここが間違いなく「堅固な山城」であるということを身をもって実感しました(笑)。 次に楯築墳丘墓へ。ここでは、この遺跡の発掘者でもある近藤義郎氏が、自らユーモアをふんだんに交えた貴重な解説を披露して下さいました。 また、楯築神社(楯衝宮)の御神体である弧帯石も、普段は見ることが出来ないそうですが、特別に見せていただきました。 見るからに不思議な石で、楯築の丘上の立石と相まって、かつての信仰の跡を見るような気がします。 それから、近藤氏とともに鯉喰神社墳丘墓へ。ここも楯築同様、弥生の墳丘墓であり、墳墓の両側に延びた突出部が特徴的であるとのことです。 楯築、鯉喰ともに、先の「温羅」伝説との関係を持っています。 もっとも、こちらは弥生墳丘墓で、鬼ノ城は七世紀ですから、全く時代は異なりますが。 それにしても、鬼ノ城があったところは、弥生時代でも、一つの重要な軍事上のポイントであったろうことは想像できますから、そういった関係を考えてもいいのかもしれません。 もちろん、それ以前に、「温羅」が中世の、中世的な説話に過ぎない可能性もありますが、ね。 さて、その後、作山古墳を見、ホテル(国民宿舎)へ。 ここで高橋護氏の「講演」を聞きました。と言っても、既にお酒も入っていましたが。 高橋氏の「作山の被葬者は倭王である」という指摘は、興味深いものでした。 ただ、「巨大さ」から「大王クラス」と見、だから「倭王」という論法は、実のところ、近畿の巨大古墳を盾に、だから天皇家は日本列島を支配していた、という論法と変わりは無く、ですから、前方後円墳をバックに天皇家の日本列島統一を説く論者に対する反駁としては、非常に意味を持ちますが、私はすぐには従えません。 もちろん、吉備と大和或いは河内の関係、というのは一方的な支配関係と見る必要は無く、むしろ吉備の側が優位に立っていた、という指摘は重要だと思います。 二日目。 こうもり塚、江崎古墳と、吉備独特の横穴式石室を見ました。 それから、宮山墳丘墓群、三笠山古墳、天望台古墳へ。 宮山墳丘墓が、前方後円墳の祖形である、という西さんの指摘は興味深いものでした。 埴輪もそうですが、吉備から近畿への伝播、という方向性は、動かせないものになってきているようです。 また、吉備では、土器を中心とした編年がかなり進んでおり、その点が近畿の錯綜した状況とは違うようです。 近畿の考古学編年というか、考古学の全体に対しては、私も同じような印象を持っており、全面的な見直しが必要なのでは無いか、と思います。 そして、造山古墳、千足古墳へ。 造山の頂上には、長持式石棺があり、これが肥後の鴨籠古墳と同型であるようです。石も肥後の千束のものだそうです。 また、近くの千足古墳も、肥後とのかかわりが指摘されています。 二日間の研修旅行は、非常に中身が濃く、まだまだ書き足りないことが山ほどありますが、この辺にしておきたいと思います。 (特に個人的なエピソードまで語ったら、それこそ書ききれません・・・^^) 私としては、 THE 古墳 NET 首長さんや、市民の古代研究会・関東の横山さん、柳川さんなどに始めてお会いでき、うれしく思いました。 また、西森さん、中岡さん、水井さん、そしてもちろん西さんご夫妻、考古文化研究会の皆様本当にお疲れ様でした! 22-Feb-2004 今日は、「私は何故歴史をやるのか」を考えてみたいと思います。 何を改まって・・・と思われるかもしれませんね。 まぁ、深い意味は無いのですが、「歴史」という学問について、考えてみたいとは、前々から思っていたことなのです。 よく「歴史とは」という形で、この学問について考えるという問題設定を耳にします。 ベルンハイム『歴史とは何ぞや』、E.H.カー『歴史とは何か』などなど、です。 しかし、こういう問い方はおそらく不毛なのです。 そもそも私にとって、学問などというものは娯楽であり、道楽なのです。 ですから、「歴史とは何か」と問われても、私には、「歴史は歴史だ」としか答えようがありません。 このように問うのは、実は、「歴史という学問には一体どういう意味があるのか」「何のために歴史学は存在するのか」という問いを含意しており、それに答えようとしているのです。 ですが、それは、「野球」とは何か、「野球というスポーツにはどういう意味があるのか」を問うのと同じく、不毛なのです。 もし、そのように問えば、答えは決まっています。 「野球を通じてチームワークの大切さを学ぶんだ」とか「野球を通じて努力することの大切さを学ぶんだ」などと言うほど胡散臭いものはありません。 本気でそんなことの為に野球少年が目を輝かせているわけが無いでしょう。 歴史についても同じことが言えます。 歴史とは、物語ることだ、とよく言います。 最近では、それを逆手にとって、だから「客観的な歴史はありえないんだ」と居直ったり、罵ったりする輩がいます。 ですが、そういう論者こそ、実は転倒しているのです。 それは、その論者が「客観的な歴史」なるものを、それまでいかに「信じ込んでいたのか」を示すに過ぎません。 ようやく、「客観性」というものが、いかに難しいことであるかを知ったに過ぎません。 歴史は勝者の側から書かれる、だとか、立場が違えば歴史の叙述が全く異なる、などということは、おおよそ、歴史好きにとって常識的な事柄だというべきです。 「勝てば官軍」という言葉があります。 今更「客観的な歴史」の難しさを説くような論者は、この言葉の意味を、今やっと理解できるようになった、と言うに過ぎません。 さて、物語る、ということの意味は、文字通り受け取るべきです。 虚構としての小説や物語や映画や叙事詩があります。 それと史実としての歴史書やドキュメンタリーや報道との間にあるのは、ほんのわずかの違いでしかありません。 読者や受け手が、それを虚構として受け取るか、史実として受け取るか、の違いです。 文学理論家や一部の哲学者のように、虚構を特権視すべき謂われはありませんし、それ以上に史実を特権視すべき謂われもありません。 ですから、「歴史を学ぶ意味は、過去の事実から教訓を学び取ることだ」というような言説は、もちろん、間違いとは言いませんが、私はこう言いたい。 「それは虚構からでも学べるのだ」と。 史実としての三国志や戦国時代、その他の様々な人間模様、そこから学ぶべきことは多くあります。 ですが、それは、例えば『三国志演義』や『スターウォーズ』や『ハムレット』や『指輪物語(映画「ロード・オブ・ザ・リング」の原作)』からは、学び取れないものなのか。 これらの作品が古今東西に関わらず、人間を描き出している以上、そこから多くの感銘や教訓めいたものを学び取ることはたやすいことです。 そういう意味では、歴史も映画も小説も、変わることは無い。 「娯楽作品だから」というのは、ただの言い訳です。 歴史を娯楽として楽しむことは、いけないことなのでしょうか。 現に多くの人がそうやって楽しんでいます。 もし、史実と虚構の間に差をつけるとすれば、ちょうど、スポーツがそうであるように、誰かの作り出した虚構よりも、筋書きの無いドラマである現実のほうが、私たちに訴えるものが強烈なものがある、ということは出来ると思います。 ですが、スポーツを題材にした虚構も、楽しく、感動し、涙できるものです。 歴史の法則を学ぶんだ、という論者がいるかもしれません。 また、現在の原因としての過去を知るんだという論者がいるかもしれません。 そのように言うことは、おおよそ転倒していると言うべきでしょう。 何をか―原因と結果をです。 長くなるのであまり詳しくは申し上げられませんが、今、私は、ニーチェ、ウィトゲンシュタイン、フロイト、マルクス、ヴォルフ、それに津田左右吉や古田武彦、柄谷行人といった論者の言説に共通した見方を見出しています。 それは、歴史を「見る」という立場です。 たとえば、「国家」とは何かを予め決めておいて、古代のいつごろそういう「国家」は発生したのか、という問題設定をしてしまう歴史家は多い。 ですが、それは、原因と結果を取り違えているのだと言わざるを得ません。 彼らが共通して言うのは、むしろ、逆です。 古代をじっくり「見る」ことによって、そこから「国家」の概念を得、更には現代の「国家」観の成立の事情を暴露する。 それが大事なのだと思います。 現代から過去を見るのではなく、過去から現代を見るのだ、と言ってもいいでしょう。 文献学者としてのニーチェは、そのことを強調していたのだと言っても過言では無いと思います。 うん、やはり取り留めのない話になってしまいましたね。 まぁ、このへんで。 07-Feb-2004 今日は、前回の続きです。 というよりは、私自身が常々思っていた、今の古代史「業界」の問題をじっくり考えてみたいと思います。 さて、「邪馬台国」がどこにあったか、という議論ですが、その候補地は既に百を超えていると言われています。 そういった中で、また新たな「邪馬台国」論を産出しよう、ということは、それ自体は問題ではないけれど、何故そうしなければならないのか、という理由というか、動機をきちんと見つめなおす必要があると、私は考えます。 言い方を換えると、今「邪馬台国」の候補地が百あって、自分は新たに百一個目を追加登録しようとしているのか、それとも、他の百個の候補地は全て間違いで、自分が唯一の候補地を掲げようとしているのか、ということです。 もし、単に百一個目を追加して、自分も「邪馬台国」論者の仲間入りをしたい、というだけなら、それは私にとって全く価値のないものですし、おそらく、真摯に古代史を探究している多くの方々から言わせれば、甚だ迷惑な行為だと言わざるを得ません。 今でこそ、幸いにして、「邪馬台国」そのものが流行としては下火ですから、「町おこし」とか、「知的ファッション」として、「邪馬台国」を語ろうなどという論者は、多くはないのだろうと思いますが、「邪馬台国」が一つのブームとして、或いは「業界」として捉えられているような側面は、否めないだろうと思います。 これは、何も私が今始めて指摘したようなことでは、さらさらなくて、既に古くから指摘されていることではあります。 私は、新たに「邪馬台国」論を唱えるということは、つまり、他の全ての「邪馬台国」候補地を否定することと等しいのだ、と考えます。 一つの論説を唱えるということは、他の対立する論説を否定するということと同じことなのです。 だから、唱えてはだめだ、と言いたいのではありません。 むしろ、逆です。 「邪馬台国」候補地が百を超える、と私は言いました。 そういう状況を、何も不思議に感じない、という神経のほうが麻痺しているのです。 「邪馬台国」論を唱える為には、他の説との徹底的な対決を避けて通るべきではないのです。 一つの宿痾は、まさに、対決の回避にあると言っていいでしょう。 他説を批判することをしない論者というものは、自説を批判することもしていない。 本当の意味で、批判的に他説も自説もじっくり検討していないから、「批判」と「罵詈雑言」を区別できない。 他者から自説に対する指摘を受ければ、それを「中傷」としか受け取れず、自らが他説を批判しようとすれば、「中傷」しかできない。 それに、対立する説に対して、「私を信じなさい」「あなたは真実を知らない」以上のことを言うことが出来ない。 それが、今のアマチュア論者の陥っている、「病」なのだと思います。 正直に申し上げますと、今回の宮津論文は、もちろん、こういった病に骨の髄まで冒されている、とは思えません。 重症の患者は、何人か知っていますが、宮津さんは、はるかに(比較することも躊躇われるほど)健全な方です。 ですが、他説への批判を回避してしまっている、という点に、一種の「危うさ」を覚えるのです。 私が予め挙げておいた論点のいずれに対しても、また、各個の独自の論点に対しても、先行して、別のことを言っている論者がいることをご存知のはずなのに、それとの対決が無い、或いは足りないのでは無いか、と見ています。 ですから、私が批判しようにも、私自身の意見というよりも、「誰某は、こう言ってますよ」「誰某は違うと言ってましたがどうなんですか」という以上の議論のしようがない、そのことを問題視したのです。 よく「アマチュアだから」という言い訳を聞きます。 少し考えて見ましょう。 私は、「学問」というものは、例えば野球やサッカーなどのスポーツと大して変わるものではない、と思っています。 そこには、「ルール」がある。 いいえ、ルールだけが重要なのです。 小さな子供の頃、空き地や広場のようなところで、「あっちの電柱が一塁で、あそこの木が二塁」なんて言ってゴムボールとおもちゃのバットで野球をしたものです。 おんなじようにサッカーもやりましたね。近くの家の門の幅をゴールにしたりして。 (よい子はあぶないから道路で遊ぶのはやめましょう。笑) 別に立派な施設や、そろいのユニフォームや、高等な技術は要らない。 野球もサッカーも、そうやって遊ぶ子供のほうが、本当の楽しさを知っているものです。 それはさておき、野球にもサッカーにもプロがいますし、草野球・草サッカーといったアマチュアも盛んです。 では、アマチュアの「野球選手」は、「アマチュアだから」という理由で、ルールをおろそかにしますか。 しません。 ルールを壊してしまえば、「野球」そのものが楽しくなくなってしまうことを知っているからです。 学問も同じです。 プロ(つまりアカデミックな学者)であろうとアマチュアであろうと、学問のルールは守らなくてはいけません。 理由は簡単です。 「楽しくなくなる」からです。 「能力が無い」という言葉もよく耳にします。 謙遜の辞なら結構ですが、本当にそう思っているとしたら、せめて「キャッチボール」や「バットのスイング」くらいは出来るようになってください。 他説に対して、「ここが納得できない」とか「こうは考えられないか」とか、そういう意見を持ち、それを語ることは、その程度の能力だと私は思います。 それが出来ないはずが無いでしょう、と私は言いたい。 剛速球や、ホームランを放つには、もちろんそれなりの鍛錬と才能が必要なのでしょうが。 今や、インターネットで、どんな素人でも、自分の意見を公にすることが出来るようになりました。 そういう意味の手軽さは、我々にとって歓迎すべきことですし、私自身が今、その恩恵を十分に享けています。 小さな子供が、どんなに幼稚であっても、野球やサッカーのルールを守るように、我々も学問のルールを守らなければいけない。 そう思います。 01-Feb-2004 随分、お久しぶりになってしまいました。独り言です。 今回は、宮津徳也氏の「邪馬台国」論についてです。(http://www.mctv.ne.jp/~kawai/vtec/text2/91yamata.html) 宮津氏からは、今回の公開に先駆けて、メールでいくつかの意見を求められ、それにお答えしたという経緯があります。 それらを踏まえつつ、意見を述べさせていただきたいと思います。 さて、宮津氏は、その論の冒頭に、古田氏による「邪馬壹国」読解の三つの問題点を挙げています。 帯方郡から邪馬壹国までの旅程距離の算出に島の大きさを加えるなど無理がある 水行十日陸行一月を郡から女王国までの総日程とするのは恣意的である 投馬国は女王国以北に位置しない この三点について、私は宮津氏に対し、既にメールで意見を述べていたのでした。 それを以下に記します。 -----Original Message----- From: KAWANISHI Yoshihiro [mailto:y-kawanishi@pop06.odn.ne.jp] Sent: Monday, January 05, 2004 10:21 PM To: 'Vtec' Subject: RE: 新春歓喜 1.対馬や壱岐の面積から辺の長さまで距離に加えるのは道程記事としては普通ではない。無理がある。 この点については、古田氏の言うところを代弁すると、「結果として、部分里程が総里程となる計算方法は他に無い」ということにつきます。 「部分里程の総和=総里程」という等式は、古田氏にとって常識と見えています。 ですから、「無理がある」と言えば、「じゃぁ、どうやれば部分里程の総和=総里程となるのだ」と問い返されます(予言)。その答えを用意しておくか、「部分里程の総和≠総里程」という仮説を徹底的に論証するほか無いでしょう。 そうでない限り建設的に議論は進まないでしょう。 2.水行十日陸行1月を郡から女王国の総日程と見るのは恣意的である。 これは、私も実は、そのように感じてもいます。 しかしながら、「日程」である以上、「里程」とは別に考えるべき、ということは言えると思います。 (2001年4月12日の独り言(…Historicalの一発目!)を参照) 私は…いまだに答えが見つかってません(汗)。 3.投馬国は女王国以北になっていない。 「「投馬国」を南九州とすると、「女王国」より、ずっと南となる。しかるに、「自女王国以北」とあるのは、矛盾するのではないか、というのである。 しかし、これも、原文脈に対する、「粗放な読み方」にもとづく論難というほかない。なぜなら、『三国志』の表記法によるかぎり、「自女王国以北」(女王国より以北)は、「自(より)」の字の示すように、「女王国以北」の「行路」をさしている。だから、この句を訳せば、「女王国より北の国々」ではなく、「女王国より北の、行路の国々」となるのである。この「行路」とは、すなわち、「狗邪韓国―邪馬壹国」の「主線行路」と、「奴国」「投馬国」という、二つの「傍線行路」の国である。」(『「邪馬台国」はなかった』第四章、三) これが、古田氏の主張である以上、これを踏まえた上で、批判を組み立てなければ、乗り越えることにはならないでしょう。 私は、この部分に関しては、古田氏の解釈で、問題ないのかな、と思います。 (この読解に関しては、古田氏より前に、井上光貞氏も同じような解釈をしていたと思います。 以来、「邪馬台国」九州説では、わりと受け入れられている説です。) これらに対し、宮津氏の論考は、その答えを用意できているのでしょうか。 一つずつ見ていきましょう。 1.について。 これは、宮津氏の論考を読んでも、何も回答が示されていないと言わざるを得ません。 ですから「予言」どおり、古田氏から当然出てくるであろう「反論」を、私が代わりに述べます。 というより、既にこの議論に対する反論は、古田氏自身が示しているのです。 これに対して、”漢文の文脈上、「水行十日陸行一月」を、古田のように、総日程とは読めない”と難ずる論者がある(たとえば、井上光貞氏・張明澄氏等)。 では問おう。”「水行十日陸行一月」を部分行程にした場合、どのようにしたら、区間里程の総計が総里程になりうるか”と。 井上氏の依拠された榎一雄説の場合、「陸行一月」を「千五百里」に”換算”する手法だった。これも、倭人伝に記載されていない「里程」数値を算出するものだ。だから、決して先の命題を満足させているとはいいえないのである。 (中略) いずれにおいても、「わたしの漢文理解からいえば『水行十日・陸行一月』は部分行程だ」と、一方で断言しながら、他方では部分と全体の論理を無視する、あるいは維持できない。そういう結果に陥っているのである。それでも「わたしの文脈理解が正しい」と断言しつづけるとしたら、わたしはそれを主観主義とよばざるをえないのである。 これに対し、学問研究のとるべき王道、それは、万人の首肯すべき自明の命題、部分と全体の論理に従った解読法を採用する。これが真の客観主義である。」(古田『「風土記」にいた卑弥呼』) 奥野正男氏は、「対海国・一大国」について、それぞれ一辺通過と考えられた。それぞれ「四百里」「三百里」だから、計「七百里」である。当然これだけでは、足りない。そこで 八百余里―伊都国→邪馬台国 を「部分」として加算され、これを付加すると、”区間里程の総計は、総里程になる”と見なされるのだ(『邪馬台国はここだ』『邪馬台国発掘』)。 だが、これは変だ。なぜなら、右の「伊都国→邪馬台国」間の距離など、倭人伝には、一切書かれていない。氏の計算では、「帯方郡治→伊都国」間が「一万二千二百余里」となって、まだ「八百余里」足らない。そこで、その不足分を「伊都国→邪馬台国」の「区間里程」として、別定されたのである。それを付加された。 これでは、計算が合うのが当たり前。およそ、合わないはずがない。なぜなら”合うように「八百里」という数値を算出された”のであるから。(同書) 以上に尽きます。 宮津氏が「千三百里」を「不弥国→邪馬壹国」間の距離と判定し、それゆえ、「区間里程の総計=総里程」を維持していると考えるなら、それは、奥野氏と同じ、論理上の誤りを犯していることになります。 実は、古田氏の主張するところを言葉を換えて述べるなら、「陳寿は全ての部分行程を明示しているはずだ」というのが、古田氏の言い分なのです。 私は率直に申し上げて、この命題は自明であるかどうか、判断がつきません。 迷うと言うことは、「自明」ではないのでしょうね(笑)。 しかしながら、この点を反論しなくては、古田氏への反論としては、形を成さないのです。 先のメールでは、この点が必ずしも、明確ではなかったのかもしれません。 ですが、私はそのように考えています。 (この点については、私自身の解読には達していませんので、こういうお茶を濁すような言い方になってしまうことをご了承ください) 2.について。 結果的に宮津氏の読解は、これら「日程」を「里程」と同様に見ることになっているような、気がしますが、いかがなのでしょうか。 3.について。 新たな論点はありません。 さて、それ以外に、宮津氏の今回示されたテーマについていくつか述べておきましょう。 1.陸行一月→一日の改定について。 これは、古田氏以前に逆戻りですね。戻るのは結構ですが、この点に関する様々な古田氏の議論、他の議論を飛び越えて、また、同じように「一日の誤りと見るしかない」という一言で済まされるのでしたら、まさに「後退」と言わざるを得ません。 また、『隋書』を持ち出していますが、『隋書』は『隋書』であり、後代史書なのですから、これは恣意的です。 2.伊都国王について。 伊都国と邪馬壹国とが覇権を争っていた、とは、興味深い考察ですが、魏志には、そのようには記されていません。 「世世王有るも皆女王に統属す」と言っているのですから、代々皆女王に属していると考えるべきなのです。 それを別様に、考えるのは、何か別の資料的根拠を、徹底して論じなければならないでしょう。 これこれこういうわけであるから、魏志のこの記事は訂正しなければならない、と。 3.委奴国について。 これは王道ですね。 ですから、古田氏から提出されているさまざまな議論に反論する用意が必要でしょう。 全体的に言って、もちろん、宮津氏に限ったことではないのですが、あまりに、先行説に対して注意を欠いているのでは無いでしょうか。 古田氏の『「邪馬台国」はなかった』の前半分は、他説との「対決」に終始しています。 現在の、乱立する「邪馬台国」論に対して、慎重に、考証として最低限の用意をすれば、そのような事態はやむをえないところなのです。 私は、(すでに三品彰英氏の『邪馬台国研究総覧』で指摘されていることですが)こういった、一種の手軽さが、「邪馬台国問題」を解決から遠ざけているのだと思えてなりません。 別に私は高度なことを言っているのではありません。 我々は、既に多くの説を知っている。にも関わらず、どの説にも満足せずに「新説」を提起する。 ならば、それまでの説のどこが納得できないのか、それまでの説はなぜ駄目なのか。 それを述べることは、最低限のマナーだと思います。 別に、高度な技術や、高尚な議論を用意する必要はありません。 「知らない」ものは「知らない」でもいいし、「素人には理解できん」でもいいのです。 (様々な説に一生懸命言及しようとしている論者に対してなら、抜け漏れや理解不足、勘違いがあったとしても、 「ああ、たまたま知らなかったんだな」といって、読んだ方が教えてくれます) 繰り返します。 これは、古代史「業界」全体の問題だと思います。 「私の邪馬台国論」大いに結構ですが、この点に配慮を欠いては、何にもなりません。 あえて苦言を呈させていただきました。
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[[独り言(Historical)]] #menu(menu_Historical) 14-Nov-2004 昨日、今日(11月13日、14日)と、(財)大学セミナーハウス主催の「公開セミナー 海のロマンと日本の古代―古田武彦先生を囲んで―」に参加してきました。 同館館長の荻上紘一さんのご厚意で招いていただいたものです。 今日は、それを簡単にですがレポートしたいと思います。 このセミナーは、3つのテーマにしたがって、古田氏がまず講演し、その後、ディスカッションというか、古田氏への質疑応答という形で2日間に渡って行なわれました。 まず、1日目。 最初のテーマは「国引き伝説と出雲王朝」。古田氏の講演は、しかしながら、「国譲り」説話のほうへ重点が置かれ、「国引き」は少し触れるだけに留まってしまいました。 しかし、「国引き」をめぐる、壮大な解釈は、(知ってはいたものですが)興味深いものだと思います。 …で、このセミナーのコーディネーターでもある荻上さんのお図らいで、私に質問の機会が与えられました。 古田氏は、講演の最後に、「天照大神とスサノヲが姉弟で、大国主がスサノヲの5~6世孫であるのはおかしい。あとから大国主がスサノヲの5~6世孫である伝承が付け加えられたと考えるのは、不自然だから、天照大神とスサノヲが姉弟である、と言うほうがあとから付加された改竄神話である」という主旨の発言をされたので、その点について質問しました。 要するに、天照大神とスサノヲが姉弟であるという「格付け」は「国譲り」より後に付加された、「弥生の新作神話」である。 それは、スサノヲを天照大神より格下の乱暴者とするための作為である、というわけです。 私は、この「改作」の時期を「国譲り」及び「天孫降臨」の直後と見なしましたので、そう考えると、「改作」の時には、今いる天照大神は、過去のスサノヲの姉である、ということになり、おかしい、と質問したのでした。 これは、古田氏によれば、「改作」の時期は、それよりもっと後の時代であり、その時には、天照大神は「神」として扱われていたから、不自然ではない、という回答でした。 後から考えてみれば、もし、古田氏の言うとおりであれば、天照大神が「神」になるほど、つまり、はるか昔のスサノヲとの世代差が問題とは感じなくなるほど時が流れていれば、「改作」の「リアリティ」というか、切実さが失われるわけで、それは、近畿天皇家の史官による造作と言う津田説とあまり変わり無いのではないか、という気もします。 また、隠岐島の八幡浩二さんからは、隠岐の黒曜石についての貴重な情報と、黒曜石の鏃などの実物を見せていただきました。 次に、当初の予定を変更して、古田氏の最近の研究「トーマス福音書についての新発見」と、その研究に影響を与えたと言う松本郁子氏「太田覚眠」についての発表がありました。 松本さんのそれは、「ロシアに渡った浄土真宗僧の太田覚眠は、ロシアにおいてそれまでの愛国的思想から変化が見られる」という主旨で、それがロシアにいる娼婦の影響によるものであるとのことでした。 要するに、覚眠は、娼婦との付き合いの中で、一種の「癒し(性的な意味というよりは、より精神的な)」を得て、思想に影響するに至った、とのことのようです。 そして、古田氏によれば、イエスもまた、サロメ(銀の皿の人とは別)という娼婦との「一夜」に対して、同じような「癒し」を得ていたのではないか、ということを「発見」した、と言います。 なるほど、ここで言っている「癒し」とは、性的な意味でもなく、しかし、特別高尚な意味でも無いように思います。 ちょうど、高級官僚が SM クラブに通うのと同じように、「面倒な人間関係を壊してくれる」関係に、一種の「癒し」を覚える、ということは、よくあることで、イエスにせよ、そうしたことはあったのだろう、という気もします。 (別に、SM クラブに行く高級官僚の気持ちが分かる、というわけではありませんよ*^^*;) また、「トーマス福音書」には、人間イエスの「人間くささ」が随所に現われており、その点で注目すべきものだ、とのことでした。 イエスの読解に関しては、柄谷行人氏が田川健三氏『イエスという男』について語った「場所についての三章」の解読が、わたしにとって最も強烈であり、残念ながら、古田氏の読解は、その枠を超えてはいないと、率直に言って感じました。 これについては、別に述べる機会があれば、述べてみたいと思います。 1日目のセッションはここまでで、夕食・懇親会となりました。 懇親会では、古田氏のお孫さん、古田氏が松本深志高校教諭だったころの教え子(荻上さんも松本深志高校卒だそうです)、昭和薬科大学教授の頃の同僚、と、古田氏ゆかりの方々が次々に登場され、楽しいエピソードを聞かせてくださいました。 そして、2日目。 次のテーマは「天孫降臨と九州王朝」。古田氏の講演は、多岐に渡り、そのせいか、イマイチピンボケしているような印象を受けてしまいましたが、天孫降臨から、日本まで、つまり、九州王朝の始原から終焉までを網羅したものでした。 ここでも私は、質問の機会を与えていただき、例の「倭国と日本」の論点を質問したのですが、どうも、要点を短く伝えようとしすぎたせいか、うまく質問の意図が伝わらずに、歯がゆい思いをしたのでした。 修行が足りませんね(苦笑)。 ところで、ここで、古田氏は興味深い新説を話してくださいました。 それは、(言っていいのかな?)「磐井の乱=継体の乱は、なかった」というものでした。 詳しい説明は、後々古田氏が書かれるでしょうから、ここでは書きませんが、率直に言って、疑問です。 これで、「倭国と日本」の最大の留保であった「百済本紀の記事」について、古田氏自身が「磐井説」を撤回したので、今度の古田氏の立論次第では、より自信を持って、「倭国と日本」のテーマを古田氏にぶつける機会が巡ってきたのかもしれません。 まぁ、古田氏が発表されたものを読んでから、考えることにしましょう。 次に、「古代日本の国際交流」。ここでは、古田氏は、例の「裸国・黒歯国」のテーマ、南米との関係について語りました。 これは、私も好きなテーマであり、「海のロマン」と題した今回のセミナーにぴったりのお話だったと思います。 最後に、古田氏が事前に参加者から寄せられた質問に、すべて答える、というサービスがあり、参加者も皆、貴重な機会に満足そうでした。 私は、最近の私自身のテーマである、「単一民族神話批判と天皇家中心主義批判」ということで、網野氏の研究についてのコメントを求めましたが、基本的には、同じ路線であることは、読みとっているようでしたので、目的はある程度達したのだろうと思います。 これについては、後々、じっくり述べさせていただきたいと思います。 古田さんは、2日間ほとんどしゃべりっぱなしで、周りが心配するほど元気に、お話を聞かせてくださいました。 お疲れ様でした。 また、横田さんにも久しぶりにお会いすることが出来、貴重な古田氏に関する資料を戴きました。ありがとうございます。 最後に、荻上さん、それから、広報の伴さん、本当にお疲れ様でした。 07-Nov-2004 今日は、『魏志倭人伝』の行路記事を、文面の味わいを重視しながら、徹底的に読んでみたいと思います。 まず、私は、現代中国語を知っているわけではありません。知っているのはあくまで漢文であり、現代中国語を必ずしも読み書きできるかといえば、そうではありません。 ましてや、話したり聞いたりすることは、なおさら出来ないわけです。 とはいえ、漢文の味わいのようなものは、理解できるつもりであり、幸いなことに、我々の用いる日本語というのは、純粋な「日本語」の文法だけでなく、漢文の素養を多少なりとも持っていなければ、うまく表現できない場合があるわけで、そうした意味で、漢文の味わいは、それなりに理解できるものだと言うことが出来ると思います。 中野雅弘さんが、掲示板で、次のようなことを挙げてくださいました。 中国語は、基本的には動詞を中心として、その左に主語と称するもの、右に目的語(または補語)がつきます。 左の主語と称する話題の対象となる主語は、それこそ自明の場合は簡単に省略されてしまいます。しかし、自明の里説などのように、述語句(結語)の数詞を省略することなど、文章作法からしてあり得ないことです。 こうしたことは、実は、我々中国語を話せない日本人もよく理解できるはずだと私は思います。 つまり、漢語熟語です。 単純にいえば、漢文の一部を日本語の一部として使用しているわけです。 (極端な例を挙げると分かり易いので)「人面魚」は「魚」で「魚面人」は「人」です。 「在日米軍」は「米軍」ですが、「日米軍」なんてのがあったら、「日本とアメリカの共同軍」ということになります。 「和牛」は「牛の種類」、「国産牛」は「国内で生産された牛」のこと。つまり「国産牛」は「ホルスタイン牛」かもしれません。 「従軍記者」は「軍の一部」ではなく、「軍医」は「軍の一部」。 こうした単語の構成は、漢文の一部を用いているのであり、ここで挙げた例で言えば、「在日米軍/日米軍」「国産牛/和牛」「従軍記者/軍医」の対比は、「動詞」の有無によっている、と解説することが出来ます。 前者は動詞をそれぞれ含んでおり(「在」「産」「従」)、それにより前後の語との関係が結ばれています。 後者は単に名詞をつなぎ合わせたものであり、形成された語の属性の一部と言いましょうか、形容句と言いましょうか、そういう関係を結んでいます。 そう考えてみれば、中野さんが「動詞を中心」とおっしゃったことの意味は、わかりやすいのでは無いかと思います。 もちろん、日本語の中の漢字熟語には、「日本の流儀で」作られたものもあり、「和製英語」と同じで、カタカナ語を多く知っていれば英語を知っている、とは言えないように、やはり中国語を知っている、とは言えませんが。 ちなみに、日本語では、漢語を含め、外来語は、決まって「名詞」になる、のが通例で、他の品詞にするには、「な・の(形容詞化)」「する・る(動詞化)」「だ(形容動詞化)」などが必要です。 「従軍する」「従軍の」「ビッグな」「サボる」などなどです。 さて、魏志倭人伝に戻りましょう。 従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国、七千余里、始度一海、千余里至対海国、…。又南渡一海千余里、名曰瀚海、至一大国、…。又渡一海、千余里至末盧国、…。東南陸行五百里、到伊都国、…。東南至奴国百里、…。東行至不弥国百里、…。南至投馬国、水行二十日、…。南至邪馬壹国、女王之所都、水行十日、陸行一月、…。次有斯馬国、次…、次有奴国、此女王境界所尽。其南有狗奴国、…。自郡至女王国万二千余里。(句読点は中華書局本に基づく) 行路記事を中心に、一万二千里の部分までを引用しておきました。 句点(「。」)ごとに、一つずつ見ていきましょう。 従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国、七千余里、始度一海、千余里至対海国、…。 動詞を全部抜き出すと、 「従」「至」、「循」「水行」、「歴」、「南」「東」、「到」、「度」、「至」、…。 となります。最初の「従郡至倭」は、「郡を出発して倭に着く」ということです。 しかし、ここで文章が終わった、と言うことではなくて、まだ続きます。ですから、訓読の場合、「郡より倭に至るには」と「には」をつけて、主題化します。 以降の文は、この「従郡至倭」を主題とした行路文である、という表示です。 次に、「水行」ですが、「水」は「行」を修飾しており、この二語で「水路を行く」ことを示す動詞である、と見るべきでしょう。 各々「循海岸」は次の「水行」に係っており、「歴韓国」は「乍南乍東」に係っています。 つまり、「水行」と「乍南乍東」という行路を、地形的に説明したものである、と言えます。 ですから、「海岸に沿った後水行した」「韓国を訪れた後南や東に移動した」ではなく、「海岸に沿っての水行」「韓国を訪れての南や東への移動」と言うことです。 次の「到其北岸狗邪韓国」は、「其北岸」と「狗邪韓国」は同格であり、「其北岸」である「狗邪韓国」です。つまり、「狗邪韓国に到る」ということになります。 「循海岸水行」から「狗邪韓国」までの文を受けて「七千余里」と言っています。 ここで一旦区切ってもよいようです。中華書局は区切っていませんが。 さて、次の、「始度一海」ですが、これは、「始めて一海を度る」で問題ありませんが、次の「千余里」が問題です。 当然、前を受けて、「一海を度る」その渡海の距離が千余里である、と言うことです。 この点は、中野さんも同じように読んでいるようです。 私もそれでいいと思います。 で、「至対海国」と続くのですから、「千余里」の後、至る、ということです。 中野さんは、「時系列」と言う言葉を使われましたが、仰るとおりだと思います。 又南渡一海千余里、名曰瀚海、至一大国、…。又渡一海、千余里至末盧国、…。 この「一大国」「末盧国」の過程は、対海国と同様であり、千余里とは、厳密な言い方をすれば、「渡海」の距離です。 このことは、一大国の前に「瀚海」の記述があることからも確認できます。ここで言う「千余里」とは、「瀚海」通過の為の距離であり、やはり「渡海」の距離である、というのが厳密です。 東南陸行五百里、到伊都国、…。 これも、なるほど、中野さんの仰るように、「東南陸行」を受ける形で、「五百里」とあり、「陸行」という行路を指して、この行路が五百里である、と表示しています。 その後、「伊都国」に到るわけです。 しかし、ここの場合は、ニュアンスの違いがあっても、微妙なもので、それほど、大きな問題ではないのかもしれませんけれど、ね。 まぁ、今は、そういった味わいを大事にして読んでいますので、そういうニュアンスの違いがありそうだ、ということです。 東南至奴国百里、…。 ここの表示は、また、異なります。先に「東南」の方向で次に「至奴国」とあります。 ここには、「行」という動詞がありません。 これをよく考えて見ましょう。 古田武彦氏は、この違いを「実地に行き至ったか」という観点から説明し、動詞の無いものは、「行き至っていない」と主張しました。 川村明氏も、同様のことを漢書から言っています。 私も、基本的にこの解釈でよい、と考えますが、「実地に」という説明は、この際、誤解を生むのでは無いか、と思います。 また、「有」という語を用いた場合との区別がつきません。 「東南有奴国百里」(これなら「東南百里、有奴国」とか「有奴国、東南百里」のほうが自然?) これでしたら、確実に、奴国までの百里は、地図上の話をしているのであり、東南方向へ百里のところに奴国はある、と言っているのですから、確実に方向は直線方向、距離は直線距離である、と言っていいでしょう。 (「在」との違いは、読者にとって既知か未知かによる。「有」は未知、「在」は既知というニュアンスを持つ) ですから、これとも微妙に違う、と考えておいたほうがいいでしょう。 古田氏の挙げた、「四至」の例と、川村氏の挙げた「動詞の先行しない「至」」の例を見てみましょう。 其在周成、管、蔡不静、懲難念功、乃使邵康公賜斉太公履、東至於海、西至於河、南至於穆陵、北至於無棣、五侯九伯、実得征之。<魏志、武帝紀> これは、曹操が魏公になる時の献帝の詔の一節です。ここで言っているのは、周の成王が(召(=邵)公を通じて)斉の太公(所謂「太公望」)に、大きな権限を与えたという故事を言っているのであり、ここで言う「四至」は、「斉」の監視下に入る領域を指しています。 ですから、もちろん、「実地に行くこと」ではないのですが、ポイントは、この「四至」の起点は、全て「斉」である、ということです。 中心地(あえて、曖昧に言うべきだと思いますが)から、見て、それぞれの東西南北を言っているのであって、始めの「東至於海」から次の「西至於河」へ続く時、「斉から東へ海まで」「斉から西へ河(もちろん黄河)まで」と言うように、起点が一旦「斉」に戻る、ということです。 (「斉」の中心地がどこか、などという野暮なことを言うべきでは無いでしょう。都の営丘(臨[シ[巛/田]])は、地形的な中心から見て東側にあります。ここではそんなことは問題ではなく、「斉」の領域が問題なのですから、地形的な中心と言ってもいいでしょうし、そもそも距離は問題ではない、と言うことも出来ます) 次に、川村氏の挙げた漢書の例を見てみましょう。 川村氏の説明を聞きます。 20 且末國、王治且末城。 去長安六千八百二十里。…。 (1) 西北至都護治所二千二百五十八里。 北接尉犂。 (2) 南至小宛可三日行。…。 西通精絶二千里。(同、同頁) 21 小宛國、王治扞零城。 去長安七千二百一十里。…。 (1) 西北至都護治所二千五百五十八里。 東與[女若]羌接、辟南不當道。(同、同頁) (用例、以下略―河西注) …また、20(2)の「南至小宛可三日行」も、小宛国まで実際に行ってしまうという意味ではない。なぜなら、そうだとすると、その次の「西通精絶二千里」の起点は小宛国だということになってしまうが、小宛国を起点にした文はすべて次の21の中にまとめられているのだから、そのようなことはありえない。『漢書』西域伝と魏志倭人伝 つまり、ここでも、「至」は、「実際に行ってしまう」という意味ではない、という説明の裏には、次の「方角付きの指定」の起点が、一旦、元の場所に戻る、ということを川村氏は言っています。 「南至小宛国」と「西通精絶」とは共に「且末国から南」「且末国から西」という地域を表わしています。 古田氏や川村氏の言う「実際に行く」という表現は、このように、「起点が動くか否か」という言い方で表現できると思います。 そして、このほうが、厳密に言えば、正しいだろうと思います。 ですから、「東南至奴国百里」は、「行路に含めない傍線行程」であろうと考えられます。 ここで言う、「傍線行程」とは、しかしながら、「魏使は奴国に行っていない」ことを意味しません。 そうではなく、今の行路記事上、「起点が動かない」という意味なのです。 次の、 東行至不弥国百里、…。 の「起点」は、「奴国」に移動しているのではなく、「伊都国」に一旦戻る、ということです。 さらに、ここには「行」がありますから、次の 南至投馬国、水行二十日、…。南至邪馬壹国、女王之所都、水行十日、陸行一月、…。 は、共に「不弥国」を「起点」とするのです。 「投馬国」のほうは、「行」がありませんから、これは「起点」が移動しません。 (ちなみに、「水行二十日」とか「水行十日」という時の「行」は、後の日数を「所要日数」として示す為に必要な文字であり、ここでの議論では分けておく必要があります。 漢書でも、「三日行」とかと表示していますが、「起点」の問題には関わりがありません) さて、これは、「日本語」としてもよく考えてみる必要があります。 「東行至不弥国」を「東へ行けば、不弥国に至る」と読みたくなってしまいます。 ここでいう「行けば(或いは「行くと」)」は、仮定の意味を含んでおり、これなら、「起点の移動」を含まない表現になります。 ですが、漢書・魏志の例でも分かるように、「行」がある場合は「起点の移動」を含む表現であると考えるべきですから、ここで「行けば」という「訳」は、厳密に言えば、誤訳なのだと思います。 「行くと」なら、幾分、仮定の意味は弱まりますが、ここはやはり「東へ不弥国まで行く。(その行路は)百里である」ということなのです。 さて、次に、「南至邪馬壹国、女王之所都、水行十日、陸行一月」です。 ここは「(不弥国から)南へ、邪馬壹国に至る。(邪馬壹国は)女王の都する所である。(女王の都する所は)水行十日、陸行一月で(着く)」というように読んでいく(基本的に漢文は前から後ろへ関連していく)と、「女王の都する所」を求めてやってきたこの文脈(「郡より倭に至るには…」)から言えば、ひとまず、一定のゴールに達したと考えることが出来ます。 これは、中野さんのご意見に賛成です。 もう少し、発展させてみると、ここまで、「距離」の表示は、「行路」を厳密に受けてきました。 「七千里」は「(郡から)循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国」の全体を、 「千里」はそれぞれ「度一海」を、「五百里」は「東南陸行」を、「(奴国の)百里」は、「(伊都国から)東南至奴国」を、 「百里」は、「(伊都国から)東行至不弥国」をです。 中野さんが「路」を付けてみたらよい、と仰っていましたが、そのとおりだと思います。 ですから、「水行二十日」は「(不弥国から)南至投馬国」の「路」がこの距離である、と言っています(距離を日程によって表現しています)。 次に「水行十日、陸行一月」は、どうでしょうか。 これは、「(不弥国から)南至邪馬壹国」の「路」を指しているのではなく、「女王の都する所」を受けています。 「女王の都する所」という一句によって、「郡より倭に至る」のひとまずの終点を迎えたのですから、ここまでの「路」のことを「水行十日、陸行一月」と言っているのです。 その後、「次有…」と次々に国名を列挙します。 これは、「有」の語が示すように、地図上の話になります。 ちょうど、目的地である「女王之所都」に到達してから、残りの国々を、指を指して確認している感じでしょう。 そうして、倭国を俯瞰し終わった後、総里程「一万二千里」を表示して、この「行路記事」は完結します。 なるほど、中野さんが、「邪馬壹国の記述は、この記事のまだ途中にある」ということを仰っていましたが、そのとおりですね。 16-Oct-2004 掲示板で、激しい議論を展開中ですが、その中で、私は一つの新しい解釈に到達しました。 それをここで述べてみたいと思います。 問題になるのは、「対海国」「一大国」の「半周」という解釈です。 古田氏の立論に拠れば、この「半周」の行程は、「陸路」と見なすことになります。 私もその立場で考えてきました。 しかし、なるほど、宮津さんの言うように、「船で島を訪れて、半周して、別の岸から離れていく」という行路は、不自然である、という指摘は、確かにそのとおりであるように思います。 私は、これに対して、「陳寿の机上の算法のことであり、実際の行路とは必ずしも一致しない」という点を強調してきました。 この反論も、私にとって、十分、合理性のある説明だと考えています。 とはいえ、「不自然だ」という論者に対して、説得的であるか、と言えば、そうではない、ということでしょう。 さて、今回、じっくり考えてみると、この「対海国」「一大国」を「陸行」と特定したことは、誤りでは無いか、と考えるようになりました。 古田氏は、「対海国」の記事中に「土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿の径の如し」とあることから、陸行と判断したようです。 もちろん、「対海国」「一大国」に到達した、ということは、「上陸した」ということであり、それは間違いありません。 しかし、実際には、停泊した港から、島を巡り、停泊した港から次の目的地に向かって出発すると言うことが、宮津さんも(おそらく他の論者から見ても)自然のことであり、自然にそう考えればよい、と私も考えるようになりました。 ところが、この場合、実際に地図に描いてみれば分かりますが、各々の島を「水行」で「半周」することになるのです。 対海国通過の経路 一大国通過の経路 地図中で、青く示した部分が、それぞれの「渡海千里」部分です。 どこに泊まるか、が問題になりますが、それぞれ、「厳原」「郷ノ浦」としてみました。何処であっても、それほど大きくは変わらないと思います。 で、当然ですが、「対海国」まで「度一海千里」なのですから、対馬の沿岸部を回ることは、厳密に言えば、「度一海」には適さないわけです。 そうすれば、「対馬の島の目前まで来て、港に着くために島を半周する」という行程は、「方400里」という島の大きさによって示されてる、と見ることが出来ます。 また、もし、浅茅湾のどこかに寄航したなら、次の「一大国」に向かうまでに、必ず、島を半周してから、「南渡一海千里」しなければならないわけです。 いきなり「浅茅湾」から、南に海を渡れない、のですから。 実際に考えてみれば、この「半周」という行程は、「水行」と考えると、行路として何も不自然では無いことが分かります。 「一大国」に関しても同じです。 陳寿は、狗邪韓国→対海国→一大国→末盧国の行路を(四分方向では)「南北」の行路と認識していたのであり、つまり、一直線上、と考えていたようです。 そのような理解をしたとき、先述来の図 <図>半周読法とは「島を半周するように二辺を通過する」と見なして計算する方法である。 は、よく理解できるものとなるかと思います。 これは、「半周する」という読解に対して、「そんな読みは不自然だ」「認めない」と言う論者への反駁として見出した、一つの解釈です。 こう解釈すると、より「実地に即した」解釈であり、「半周」という計算方法が、思ったほど不自然なものではない、と考えることが出来るのでは無いでしょうか。 03-Oct-2004 掲示板で様々な方と意見の交換をさせていただいていますが、そこでつとに感じることを今日は書きたいと思います。 それは、私が「同語反復」或いは「循環論法」と批判するような議論についてです。 私がどういった論法に対してそのような言い方をするのかと言いますと、次のような場合です。 A であると私は見なしたから、この文献は B と読むべきであり、B と読めるから A が事実であることが確認される。 この場合、結局、文献を B と読むことの根拠は、A であり、A は彼の「想像」に過ぎない。 そうしてみると、結局、文献を経由したように見えて、「私は A だと思う。故に A である。」と言っているのであって、これでは、まさに「何でもあり」となってしまうわけです。 それを私は批判します。 これが「同語反復」、「循環論法」と、私が言う事態です。 しかしながら、誰もが、こうしたことを「知っていて」行なっているわけではありません。 「そう信じている」と言ってもいいですが。 では、何故、このような事態を招いてしまうのでしょうか。 それは、古代史に対する論者の「思考方法」に原因がある、と、私は最近見るようになりました。 私は、古代史の「方法」にこだわらなければならない、と思っています。 何も改まって言うことではありませんけれど、ね。 その方法とは、史料に基づくこと、という一点に尽きます。 歴史の登場人物は、当然のことながら、ほとんどの場合、既にこの世を去っており、その人物を直接知る人さえ、既にいないのが普通です。 卑弥呼にせよ、織田信長にせよ、ね。 まぁ、これが明治維新の登場人物ともなれば、かすかに覚えている人物が残っていることもありますけれど、ね。 ですから、私たちは、歴史の登場人物を全く知らない。 何から得るのか、と言えば、それが「史料」からなのであり、史料―文献だけではなく、遺物、遺跡、口承伝承その他様々なもの―無くしては、私たちは何も知らない、と言っていいでしょう。 逆に言えば、私たちは、史料しか知らない。 私たちの目の前にあるのは、史料だけであり、古代の大地が目の前に広がっているのでも、卑弥呼のような人物が目の前にいるわけでもありません。 これは、当然のことです。 しかしながら、私たちは、つい、ひとつのことを忘れてしまう。 私たちが論じる対象は、確かに「古代史」というジャンルに属します。 しかしながら、私が話す相手は、常に現代の人物であり、私は、現代と言う時間を離れることはありません。 古代史論者は、常に現代の人間である、ということです。 この言い方は誤解を招く恐れもありますね。 例えば、本居宣長は、近世の人物であり、近世史の論者から言えば、まさに歴史上の登場人物です。 しかし、宣長も、古代に関しては、私たちと同程度に無知である、と言っていいでしょう。 彼も、卑弥呼には会ったこともなければ、卑弥呼を知る人物に会ったこともない。 例えば、太安万侶に関しても、卑弥呼に関して言えば、私たちと同程度に無知です。 私たちよりも豊富な史料を目にすることは出来たかもしれませんが、ね。 そうしたことを含めた意味で、私たちが議論の際に相手にするのは、古代史に関して無知な人物である、と言えます。 自分自身も含めて、ね。 だから、私たちは、常に、無知な私たちが、「古代史」について語る場合に、「私は何故そう考えるのか」を問わなければなりません。 そして、それは、史料に結び付いていなければならない。 「つまり、この史料のこの部分から、私はそう考える」 これが、私が問う「根拠」です。 この妥当性、合理性を議論するのが、「古代史」に関する議論の全てです。 それ以外のものは何も無い。 よくある間違いは、ここで言う「根拠」を、古代の大地に、或いは登場人物に求めてしまうこと。 陳寿でも、太安万侶でもかまいませんが、ある記述があるとき、「私は A だと思う」と考えた後、その根拠として、その時代背景を考えてしまう、と言う間違いです。 「これこれ、こういう事情があったから、私は A だと考える」と言ってしまうのです。 完全に、古代に身をおいてしまう。 自分が古代に関して無知な現代人であることを忘れて、古代に身をおいて、確かに、古代の大地がその人の脳裡には鮮明に浮かんでいるのかもしれませんが、それが「史実」のように見なしてしまう。 このとき、「私は A だと考える。だからこの文献は B と読むべきであり、だから、A は事実である」と言ってしまうのです。 私は、ここで「A に根拠は無いではないか」と問うわけですが、「古代の時代背景」が返ってくる。 つまり、その論者は本当に「古代の時代背景」が揺ぎ無い事実のように見えており、それが確固とした「根拠」としてその論者を支えているのです。 ですが、それは、想像に過ぎません。 私が「根拠」を問うとき、それは常に現代人に対して、何故そう考えるのかを問うており、その人物が、古代を知っているとはさらさら考えていない。 ですから、そのような人物―もちろん、自分自身も含めて―がいくら古代を活き活きと描いてみたところで、それは、所詮、想像なのであり、私が問いたいのは、その「想像」の根拠なのです。 こうした点が、「同語反復」という事態を招くのだろうと思います。 そして、大抵は、その論者自身が、自らの陥っている事態に気が付いていない。 問われるべきは、常に「方法」であり、「古代史の世界」ではないと言うことを、私は強調したいと思います。 19-Sep-2004 お久しぶりです。 今回は、掲示板で、巫女さんからご指摘のあった、人口の問題を考えてみたいと思います。 巫女さんは、「邪馬台国」畿内説の根拠として、鬼頭宏氏による人口推計を挙げられました。 鬼頭宏「明治以前日本の地域人口」『上智経済論集』41巻1・2号 1996 によると、弥生時代の人口は、 東北:3万3千 関東:9万9千 中部:16万 近畿:10万 中国地方:6万6千 四国:3万 九州:10万5千 同じく奈良時代には、(このころ、1戸あたり平均10人程度) 東北:28万(~2万8千戸) 関東:78万(~7万8千戸) 中部:86万(~8万6千戸) 近畿:96万(~9万6千戸) 中国地方:79万(~7万9千戸) 四国:28万(~2万8千戸) 九州:56万(~5万6千戸) (もとは地域をもっと細分化してあって、東奥羽・西奥羽・北関東・南関東・ 北陸・東山・東海・畿内・畿内周辺・山陰・山陽・四国・北九州・南九州と なっていたのを、地域をまとめ合わせて加算した。) 邪馬台国時代の人口は、奈良時代と弥生時代の間のはずだから、 九州だけで7万戸は無理です。 ちなみに九州北半部だけで7万なんてのならば、なおさら無理です。 まず、この推計について、解説しておきましょう。 弥生時代の推計に関しては、以下の方法がとられています。 1.各時代・各地域の遺跡の分布状況を調べる。 2.基礎の人口として奈良時代(八世紀)の人口推計を用いる。 3.関東地方のデータから基礎となる集落規模を推定する。 4.関東地方の八世紀の人口推計から、集落あたりの人口を算出する。 5.この関東地方の集落あたり人口から、各時代・地域の比率によって各時代・地域の人口を推定する。 要するに、遺跡数から地域ごとの比率及び時代ごとの比率をを算出し、それに基礎となるデータを掛け合わせて算出すると言う方法です。 鬼頭氏自身も考慮していますが、この方法には限界があり、一つには、今発見されている遺跡の数が、当時の状況を反映したものであるか不明である、という点。 たとえば九州と関東では地理的条件の違いから、九州のほうが発見数が少なくなってしまっている、という反論も実際にあり、こうした点には考慮は必要です。 さて、このデータは、こういうものです。 これ自身、一つの方法として、もちろん、限界もあるのは誰もが承知で、一つの方法として有意義なものであり、参考にはなる資料です。 問題は、このデータを「畿内説」の根拠に挙げる巫女さんの側にあります。 これが「畿内説」の根拠になるのでしょうか。 >邪馬台国時代の人口は、奈良時代と弥生時代の間のはずだから、 >九州だけで7万戸は無理です。 と言いますが、同じことを近畿に対しても言うことの出来る、データです。 この推計では、弥生時代の全人口は、59万4千人とされていますが、鬼頭氏自身、 「つぎに三世紀の邪馬台国時代の人口についてであるが、『魏志倭人伝』にある邪馬台国以下二十九ヵ国の戸数から、一八〇万人以上あったと推計できる」(『人口から読む日本の歴史』講談社学術文庫、2000年) と言っており、鬼頭氏自身も、この差異についてこれ以上言及してはいませんが、これを不自然とは見なしていないようです。 私の考えでは、そういう疑いは、むしろ順序が逆であり、推計の計算式のほうを、『魏志倭人伝』を利用して見直す必要はあっても、逆はありません。 それは、「歴史人口学」そのものの成立に関わる問題です。 文献及び考古学的出土事実が第一資料であり、推計はあくまで、それを基礎にした推計であって、推計のほうを優先して第一資料である文献のほうを訂正するということは、それこそ、慎重に慎重を重ねても重ねすぎることは無いくらいです。 もちろん、鬼頭氏はそのことを知っているからこそ、まかり間違っても、「だから倭人伝は間違っている」などとは言わないのです。 (一般的な倭人伝不信論に配慮して、計算式の修正までは踏み込まない、という事情は、もしかするとあるのかもしれませんけれど、ね) そういうわけで、これを「畿内説」の根拠にしようという巫女さんの目論見は、あくまで、そう結び付けた巫女さんだけの議論であり、推計を行なった鬼頭氏とは関係がありません。 結び付けるには、もう少し、慎重な議論を必要とするのだろうと思います。 30-Jul-2004 お久しぶりです。 最近、少し、行き詰ってます…。 まぁ、とは言ってもそんなに切羽詰った話じゃありませんけどね。 さて、今、私が興味を持っているのは、「国家」についての議論です。 大きなテーマですね。 私も、何度か独り言で、取り上げたことはあります。 いくつかの視点があります。 一つは古田武彦の「国家」観について。 私は、古田の国家観は、彼自身が思っている以上に、重要なもののように見えています。 「豪族と王朝」の問題…、「国家の基準」問題。 これは、古田の国家観の特徴と、私が勝手に思っているものですが、この点においてこそ「九州王朝説の意義」は、検討されるべきです。 「古代史の論点」における、私の議論が中座してしまっているのは、しかしながら、この点には多くの準備が必要であり、私の現在の状況ではその準備が整っていない、と私は判断したからです。 これについては、おそらく、古田武彦だけを論じていても仕方のないことでしょう。 所謂「戦後歴史学」の主要な論者を対象にしていかなければ、議論は進まない、と考えています。 同時に、「国家」というのは、非常に大きな影響がある問題です。 右といわず左といわず、あらゆる思想家を相手にしなければならないかもしれません。 近代史、世界史、哲学といった論者と向き合うことも必要でしょう。 まずは、戦後歴史学から考えることにしましょう。 まだ、何もまとまりませんが、ここで、それを少しずつでも述べておくことは、私にとっても有益なことのように思います。 戦後の、「科学的」な歴史学者は、皆、こういいます。 「何を以って国家と言うのか、その基準が大事だ」と。 例えば、「邪馬台国」を以って「国家」というような論者は、「国」という語に引きずられた、非科学的・通俗的な理解に過ぎない、と。 「邪馬台国」が「国家」である、と主張したければ、「邪馬台国」の制度の如何なる部分が国家であり、如何なる構造が国家なのか、それを説明しなければならない、と。 これは、一見、尤もな意見であるように聞こえます。 しかし、この議論は、実は奇妙なのです。 「邪馬台国」は「国」とあるから、「国」だ。 という素朴な主張を何故否定しなければならないのでしょう。 それは、現在の、何らかの国家観を以って、当時の国を判断すべき、という考えからです。 津田左右吉は、「概念」を歴史学に持ち込むことを拒否しました。 このことは、多くの戦後の歴史家を困惑させました。 一般に彼のこうした発言は、「マルクス主義」への反発によると見られています。 彼の主張が「象徴天皇制」の源泉となったこともあり、彼の「天皇制擁護」の立場と、「反マルクス主義」―所謂「反共」姿勢は、「マルクス主義」がその中心的存在となっていた戦後歴史学によって、黙殺されたのだといっていいでしょう。 井上光貞は、「自分は津田史学の亜流と言われてもいい」と言ったそうですが、津田のこういった主張だけは、彼の受け入れるところとはならなかったようです。 今の議論に接続させて言えば、「国家」という概念を持ち込むことを津田は拒否します。 津田が言うのは、史料批判上の問題です。 史料に基づいて「国家」を論じるならば、史料に基づいて「国家」概念を帰納しなければならない。 だから、現在の概念によって史料を解するべきではない、という、この点において、マルクス主義のそれとは相容れないのです。 それは、実は、マックス・ヴェーバーも警戒していることでした。 社会学が「客観性」を維持する為には、その概念の限界を知る必要があり、通俗マルクス主義のような魔力に満ちた「国家観」は、警戒すべきである、ということです。 もちろん、このことは、一般にも理解はされているでしょうけれど、先ほどの「戦後史学」の言い分は、この点において微妙な問題を有しています。 (これは、「戦後史学が誤っている」と言いたいのではありません。「戦後史学」がこのようなアプローチを採っていることにはもちろん、しっかりした理由があり、この点において歴史学は有意義な学問として存在しえているということは、事実なのです) 国家の基準、ですが、所謂「マルクス主義」の論者からは、エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』や、『反デューリング論』をベースにした議論が、その他の論者からも、古くはロストウ、ヴェーバー、ヘーゲル、ウィットフォーゲルなどなど、様々な分野から国家の基準を持ち込み、各々の議論を展開しています。 これはこれとして、歴史学としては有意義なことでしょう。 それは事実です。 しかし、例えば、石母田正は、「アジア的生産様式」を見出しましたが、これは、あくまでも「律令国家」を日本における古代国家の成立と位置づけた上でのことであり、これを基準に例えば「古墳時代は国家段階か」を論じることは、同語反復であり、無意味なのです。 何から概念を抽出し、何に適用していくのか。 このことを忘れてはならないでしょう。 そうした意味では、古田武彦が、「縄文には縄文の国家があり、弥生には弥生の国家がある」という単純な指摘は、重要なのです。 ここに「意義」があります。 ふむ。 やはり、まとまりませんね。 まぁ、今日のところはこの辺で。 13-Jun-2004 最近、皇太子殿下の「発言」が世間を騒がせています。 私は、彼の言い分を聞いて、彼の生の訴えを聞いたような気持ちがしますね。要するに彼は、彼ら皇族の人々の行動があまりに制限され、それが皇太子妃殿下の「負担」となっていることを訴えたかったのだと思います。 そう言えば、私が小学生の時、昭和天皇が亡くなりました。 あの時、昭和天皇の容体が、刻一刻とニュース速報として流され、今日は何回下血しただとか、そういったことが詳しく報じられ、「意識がなくても心肺機能は年明けまで何としてでも維持させるのでは」とか、「年明けまで発表しないのでは」と実しやかに噂され、「人の死」よりも、何か大きな力が、昭和天皇の周りを動いているような感覚を、子供ながらに感じたものです。 その時、私たち子供の間では、「皇族は可哀想だ」ということが、誰が始めに言ったか覚えてませんが、少なくとも私は確かにそう思ったのでした。 「結婚」の話題についてもそうです。 子供であった私の目には、彼らが、普通に生活できないことを「可哀想だ」という感覚で見ていたのを思い出します。 確かに、今でも、皇族の「発言」は全て宮内庁の役人が考えたものであり、彼らは彼らの考えを言ってはいない(言うことが許されない)、と私は本気で信じており、その意味で彼らは「権威」であるどころか、私にとって「哀れ」に映っていたのです。 今、日本で一番「権利」を剥奪され、「自由」から遠いところに取り残された「階級」が皇室である、と、少なくとも子供であった私の目には映っており、その意味で、皇室を巡る大人の勝手な議論とは、ほど遠い感覚を覚えていたのでした。 そうしたわけで、今回の皇太子殿下の発言は、血の通ったものであり、少しほっとした思いで、聴くことの出来るものだと思います。 さて、こうした皇太子殿下の「発言」を受けて、俄かに「女性天皇」の議論が、再度、脚光を浴びることとなっています。 皇太子妃殿下の「ストレス」の原因が、「お世継ぎ」問題にあるのだとすれば、「女性天皇」は、その解決の一つの策だ、というわけです。 これについて、私は、過去にも「独り言」を述べたことがあります(08-Dec-2001)。 今は、これについても多少考えも深まりましたし、もう一度、述べておかなければならないこともあると思います。 まず、「皇室典範」には、男性だけが天皇になれる、とあります。 これが、「女性天皇」が今の制度ではありえない所以なのですが、これを改定して、「女性天皇」を認めようじゃないか、というのが、今の議論です。 これの何が問題なのでしょうか。 たとえば、こういうことです。 今、皇族の女性が、誰かと結婚した場合(仮に「鈴木さん」としましょう)、その皇族の女性は、「鈴木さん」のところに嫁ぐわけですから、「鈴木姓」を名乗ることになります。 ですから、皇族を離れ、「野に下る」ことになります。 当然、彼女の子は、「鈴木さん家の子」であり、「皇族」ではなくなる、という家族制度上の問題があります。 だから、「彼女」にも「その子」にも、皇位継承権は無い、というわけです。 このあたりに、「女性天皇」の難しさがあります。 過去の「女性天皇」は、ほとんどが前の天皇の「皇后」か「母」であり、この「血統」上の問題をクリアしていたから、「天皇」になれたのです。 (この言い方は多少問題があるかもしれません。しかし、少なくとも結果的にはこの問題をクリアしていた、ということは出来ると思います) 少なくとも今の「皇位継承」に関して、もっとも重要なのは、「血統」であり、それも、生物学的に血を継いでいるかではなく、家族制度の問題なのです。 ですから、それを取っ払ってしまえばいいじゃないか、生物学的に血を継いでいれば、「女性天皇」でもいいじゃないか、という意見が出るわけです。 その際、「夫婦別姓」とか、「男女平等」とか、そういう如何にも近現代的な、「革新的」な見方を主張して、「新しい皇位継承制度」を主張するものがいるかもしれません。 ですが、そういう論者は、実は、何も考えていない。 「天皇」とは、何かと言うことを。 今の、家族制度上の「血統」を継ぐものでなければ、天皇にはなれない、という今の制度を、例えば、「女性天皇」を認めて、その子にも皇位継承権を認めたとしましょう。 それは、単に新しい家族制度を作っただけのことであり、たったそれだけのことでは、おそらく、その論者は、自分の主張が単にそれだけのことであることを理解することさえ出来ていないでしょう。 ですから、実は何も考えていない。 こう問うて見ましょう。 では、「女性天皇」の夫に、皇位継承権が無いのはなぜか。 これを認めないのは、単に「血統」を家族制度の従来のものから、単に DNA の結合に求めただけに過ぎず、相も変わらず、天皇家の「神秘性」は少しも損なわれることは無いのです。 もし、これを認めるなら、どんな一般人にも「皇位継承権」を認めるべきであり、「皇族の女性に見初められること」を「皇位継承の条件」に据えることは、ナンセンスに近いでしょう。 それなら、「選挙」で決めますか? これを、「愚かな極論」である、と感じる人は、是非、「なぜそれを認めることが出来ないのか」を考えて欲しい。 私は、天皇家の「神秘性」を剥ぐことを問題にしたいのではないのです。 問題は、こうした「神秘性」を見ることをせずに、その「神秘性」の保存に無自覚的に加担するような、自称知識人の言説のほうです。 「女性天皇」を認めるべきだ、と主張する論者は、どういうわけか、自分が「皇国思想」を免れた「思想的自由人」を、「革新的な健全な発想の持ち主」であることを主張し、「旧態依然」とした保守的な論者を斬って、ひどく「上機嫌」な感じがするのです。 ですが、実は、「神秘性」は、こうした論者によって、守られていくのであって、どんなに表面的に旧制度を批判しようと、こうした論者がいる限り、天皇家の「神秘性」は安泰なのだ、と言うべきです。 そういうわけで、まだまだ「天皇制」は、安泰のようです。 これを「安堵」と釈るか、「皮肉」と釈るかは、読んだ方にお任せします(笑)。 05-Jun-2004 今日は、古代史を少し離れ、「自己責任」について、改めて考えてみたいと思います。 「自己責任」なる言葉は、もちろん、最近の流行でもありますが、先の「イラク人質事件」で、一人歩き(?)していた言葉です。 個々の議論はさておき、私は、彼らの家族が、なぜ責められなければならなかったのか、を少し考えてみたいのです。 さて、先日、イラクでもうひとつ悲しい事件がありました。 ジャーナリストの橋田信介さんと小川功太郎さんが襲撃を受けて亡くなりました。 しかしながら、橋田さんの奥様(幸子さん)の毅然として気丈な、そして「爽やか」な対応に、私は胸を打たれる思いがしました。 橋田さんは、確かに、ずっと戦争ジャーナリズムに携わっており、その危険は熟知していたであろうと思います。 奥様も、それを認識しており、覚悟を決めていたのだなぁと、そう感じました。 橋田さんは、「人質事件」で「自己責任」が云々されていたころ、テレビに出演して、彼なりの「自己責任」を語っていました。 それは、「危険は覚悟のうえ」ということでした。 まさに、そうした「覚悟」を、橋田さんの奥様は、体現されていたのだなと思います。 そしてこれが、彼らの「自己責任」ということなのでしょう。 そうしてみると、「人質事件」で語られていた「自己責任」とは、一体、何なのでしょうか。 どこから議論はおかしくなってしまったのでしょうか。 それを考えておく必要があります。 やはり、「あれ」はおかしかった。橋田さんが身をもってそれを正してくれた、というのは、あまりにご都合主義的な言い方かもしれませんが、ここらで振り返っておくことは、どうしても必要なことと思われます。 さて、まず、違いを見出しておかなければならないのは、「家族」の言動です。 これは、あえて指摘するまでも無いのかもしれません。 もちろん、状況は違います。 あの場面での、「家族」の、あの言動は、家族として当然のことであり、当然の感情だと思います。 ですが、「家族」がああ言ってしまったがために、おかしな「自己責任」論を招来してしまった、というのは、残念ながら事実だと言っていいでしょう。 「自己責任」論は、「家族」の言動に対する反発であることは、確かです。 しかし、私は、どうしても、どちらの言い分にも、納得することが出来ません。 それは、おそらく、「言った内容」ではなく「言った口」が問題なのだろうと思います。 ところで、お金を貸し借りした際、絶対に争わない為の心構え…って知ってますか。 「借金は必ず返す」でしょうか。それとも「貸した金のことは忘れる」でしょうか。 どちらも半分当っていて、半分はずれています。 「借金は必ず返すべきだ」と貸したほうが言うことも、「貸した金のことは忘れろ」と借りたほうが言うことも、むしろ争いの種です。 人は「倫理」と言うとき、全ての当事者に、「公平な」命題を持ち出したがります。 負債者と債権者は、同じ立場ではありません。 ですから、負債者と債権者に一律に課せられるような「倫理」を求めるべきではないのです。 負債者は「借金は必ず返すべきだ」と言うべきですし、債権者は「貸した金のことは忘れるべき」なのです。 「自己責任」論では、「国家の責務」と「個人の自由」が争われたように思います。 しかし、知らず知らずのうちに「家族」は「国家の責務」を求め、政府は「個人の自由」を求めてしまった。 これが、争いの原因なのです。 どちらも、言っている内容は正しい。なのに、反発を招く。 それは、「日本人特有の判官贔屓」でも、「安っぽい感情論」でもなく、「倫理」そのものが持たねばならない、「言動の力」とでも言うべき作用によるものなのです。 これが、「自己責任」があらぬ方向へ流れてしまった、原因なのだと思います。 しかし、最後に強調しておかなければなりません。 「あれ」は、関わった全ての人々が、きっと、自らの意思で、自らの正しいと思う行動をとった結果です。 「後悔先に立たず」とは、「先見の明がないことを歎く言葉」ではありません。 「あのときああしていればよかった」という後悔は、常に後から見出されるのであり、原因は、常に結果から遡って発見されるのです。 その事実を簡明に語っているのだといったほうがいいでしょう。 「反省」は、もちろん、あらゆる人々にとって(もちろん私にとっても)必要なことでしょう。 それは、ことが起ってしまった後に、初めて為される。そういうものです。 ですから、「彼ら」には、これに「懲りず」に、是非、彼らの正しいと思うことを、堂々とやってもらいたいという気持ちです。 休日は家でのうのうと古代史の思索にふけっているような輩に言われる筋合いは無いでしょうけれど(笑)。 陰ながら応援したい、というのが今の素直な気持ちです。 31-May-2004 先日(5/30)、歴研の大会に参加してきました。 簡単にですが、ご報告です。 今回の「報告」は、「古代史部会」と「アジア前近代史部会」の合同で、それぞれ古代史から河内春人「『天下』論」、アジア前近代史から山田智「漢代専制的皇帝権の形成過程」とが発表されました。 二つは、王権論という点で共通のテーマを持っており、各々の立場から、議論を深めようと言う意図があったようです。 まず、河内報告のほうは、権力とそれを支えるイデオロギー論の立場から、「支配の正当化」「世界観」「アイデンティティ」の三つの視点から、王権の特徴を捉えようと言うものでした。 倭の五王時代の「世界観」は、中国を中心にしており、したがって支配は中国の天子によって正当化されます。 その後、隋代には倭王は「天子」を称しますが、この頃には、「アメ」と言う擬人化された「正当化の保証権威」と、「アメノシタ」を統治する王としての「治天下王」との関係が捉えられます。 次に、律令以降、天皇は「現神」となり、「アメ」は「皇祖」に位置づけられ、これが「保証権威」となります。 こうした河内報告は、一つ一つの論点を見ていくと、それほど違和感を覚えるようなものではありません。 この取り組みの方向性は、非常に興味深いものだと思います。 しかし、例えば、「天下」をキーワードと見なし、そこから「世界観」を探っていく河内報告の場合、「天下」の語義、用法に対する検証が、その立論の基礎となります。 この点において、例えば『出雲風土記』の「所造天下之大神」に触れていなかったり、江田船山・稲荷山の両鉄剣の「治天下」の解釈が相変わらず「天皇」との結びつけを前提としている点などは、一層の検証を求められるべきことだと思います。(両鉄剣を「天皇」に結び付ける最大の根拠が「天下」である、ということを忘れるべきではないでしょう) 次の山田報告は、今まで中国史における皇帝権力の議論が、皇帝そのものの権力体勢だけを問題にしていたのに対し、別のアプローチとして、国家の「構造」の面から、具体的には「家産」から迫ろうと言うものでした。 これは、日本古代史における「ミヤケ」「部民」といった、天皇家の財政基盤に対する研究の成果を参照したもののようです。 なるほど、確かにこの点においては日本古代史には多くの研究の蓄積があり、こういったアプローチを中国史において試みる、というのも一つの方法として興味深いものです。 日本古代史、中国古代史の両側面から、互いに論じ合っていく今回のスタイルは、なかなかに興味深いもので、実りある議論であったのではないかと思います。 ちなみに、例によって(?)、「懇親会」にはしっかり参加し、おまけに古代史部会の二次会・三次会にまでちゃっかりお邪魔しちゃいました。 鈴木靖民さん、吉村武彦さんと言った方々と(直接お話は出来ませんでしたが)一緒に楽しい時間をすごすことが出来たのは、よかったです。 発表者の河内さんとは、少しだけお話しすることが出来ましたし、他にも多くの研究者の方たちとお話できて楽しかったです。 30-Apr-2004 先日、ねたろうさんから、音価推定についての質問を受けました。 私自身もうろ覚えであり、多少の誤解もありましたので、少し、整理しておきたいと思います。 さて、「奴」を「な」と読むことについてですが、論点は二つあります。 一つは、簡単に言えば、中国語では「奴」は何と発音されていたか、という問題です。 もう一つは、『魏志倭人伝』の「奴国」は、日本語では何という国の名前なのか、という問題。 これは、区別しなければなりません。 第一の中国語の音価推定の問題からじっくり見てみましょう。 まず、中国語音韻は次のような体系から考えられます。 1.現代中国語(北京・広東などで異なる音韻体系) 2.切韻体系(魏晋南北朝から隋唐の所謂「中古音」) 3.詩経体系(『詩経』から推定される所謂「上古音」) もちろん、細かく見ていけば、当然、唐の頃に大きな音価の変動があったといわれていますし、南北朝時代の音韻も複雑なものです。 更に、日本の呉音・漢音・唐音・宋音などを考慮に入れれば、もっと多くの議論が可能です。 今問題となるのは、「中古音」と「上古音」です。 中古音は、『切韻』系列の韻書から導き出される音韻体系です。 (ここで「音韻」「音価」という語について、私なりの解釈を加えておきます。「音韻」とは、その言語を話す人々にとって「違う」と認識できる、或いは認識している音の差異のことであり、「音韻」体系は「示差的なシステム」或いは「関係のシステム」である、と言っていいでしょう。常にある音韻は他の音韻と「違う」ということによってのみ存在するのであり、これは、どの言語でもそのように言うことが出来ます。一方、音価は、ある音韻を実際に何と「発音」しているか、つまり「どんな風に口を動かし、舌を使い、息を操るのか」が問題なのであり、音韻とは別個のものです。日本語でも「が」という音韻に対し、[ga][nga](正しい表記ではありませんが)のいずれの音価も存在するのは有名な話です) 韻書から、声母・韻母・声調が導き出されます。これによって、「中古音」の音価が推定されるわけです。 そして、上古音は、『詩経』に収められた詩の韻によって導き出された音韻体系です。 ここで、よくある間違いを指摘しておかなければなりません。 上古音・中古音というのは、あくまで現代の学者の、とりあえずの区分です。 今言ったように、中古音は『切韻』(の系列の韻書)に、上古音は『詩経』によっています。 間違ってはいけないのは、これを歴史的実体と思ってはいけません。 あくまで言語学上の、認識論上措定される対象なのだと言うことです。 当然ながら、言語は同じ時代でも地域によって異なりますし、世代によっても異なります。個人差だってあります。 おそらく『詩経』と『切韻』の間には違いがあり、別々の体系のように見えますが、間違っても、「上古音」がある時期に「中古音」に切り替わった、などと考えてはいけません。 理論的対象と、歴史的実体は、区別しておかなければなりません。 さて、前置きが長くなりましたが、問題の「奴」は、中古音では〔摸〕韻に属します。これはつまり[-o]という音価であると推定されています。 ところがこの〔模〕韻は、他の中古音の〔麻〕韻や〔魚〕韻と同じく、『詩経』の音韻体系では、〔魚〕韻に属すとされます。 この音価が、様々な理由から[a]であろうと推定されています。([am][an][au]などもあるらしい) したがって、「奴」は、日本語で近い音で言うなら、中古音なら「の」、上古音なら「な」というわけです。 (このことと、同じ中古音でも南方系では「の」、北方系では「ど」という音価の違いとは区別する必要があるように思います。「の」「ど」の違いの場合、あるいは「ぬ」の場合は、他の音との関係と言う意味では何も変わっておらず、したがって音韻体系はほとんど同じ、と言っていいでしょう。更にここに「呉音」「漢音」を含むと、話はややこしくなります) さて、次に『魏志倭人伝』の「奴」を何と読むか、という問題。 これを考える為には、いろいろ複雑なのです。 まず第一に、これを音訳した人が、中国人なのか、日本人なのか、朝鮮人なのか、という問題。 中国人であれば、中国語の音韻体系をそのまま適用するという仮説が成り立ちます(これもこの時点で仮説です。なぜなら、厳密には音訳者その人の「音韻体系」が、既存の音韻体系と全く同じである保証が無いからです)。 当然、日本人なら日本語の呉音や漢音といった体系が適用できるでしょう。 森博達氏は、中国人による音訳と見ているようです。 少なくとも中国語の、しかも中古音の体系を踏まえていると見ています。 しかし、ここからが重要です。 では、「奴」は何と読むのか。 ここから言えば「の」である、というべきでしょう。 しかし、森氏は、違うことを言い出します。 「奴国」は「那の津」の「な」に比定されるから、ここでは「な」と読むらしい。 したがって、これを「な」と読むのであれば、この「奴」だけは、上古音なのだろう。 と言うのです。 順番を間違えてはいけません。 「奴」は上古音である→「奴」は「な」と読む ではなく、 「奴」は「な」と読む→「奴」は上古音である という順序なのです。 これを逆転させることは出来ません。 これを間違えるのは、論理上、あまりに初歩的なミスであるのですが、一旦「奴」は上古音である、という指摘がなされると、その「結果」だけが一人歩きしてしまいます。 私が「重要なポイントは、「奴」を「な」と読む根拠は、まず「那の津」であるということなのです。」と言ったのは、この点です。 (森氏以前に「上古音」を持ち出した論者はいますが、彼らがこれが上古音である、という推定を行なったのは、まず「奴」を「な」と読むはずだから、という点が出発点です。或いは、上古音・中古音という用語の、或いは『切韻』(もととなった韻書は三世紀の成立)以前には中古音は無い、という誤った認識から、「金印の頃に淵源する奴国」は上古音であると言っているのです。先にも言ったとおり、中古音は、理論上の存在であり、実際にそれそのものが歴史上存在したと考えるべきではありません。『切韻』は当然、それ以前からの音韻体系を基礎にしており、仮説として「金印」の時代に適用できる可能性は排除できません。別の体系を仮定するのであれば、その「仮の音韻体系」を理論的に構築する必要があります) ふむ。 非常にややこしい問題を多く含みますが、私なりに整理すると、こういう感じです。 18-Apr-2004 今回は、歴史学の方法について、また、考えてみようと思います。 よく、歴史学の方法は、検察官や探偵の仕事と比較されます。 なるほど、確かに、似ている気もします。 物的証拠、状況証拠、証言を集めて、過去の事実を明らかにする、という点では、よく似ている、と言っていいでしょう。 ですから、推理小説の名探偵が「邪馬台国」の謎に挑む、なんてのも可能なわけです。 この点を踏まえて、これら検察の仕事や、名探偵の仕事を少し考えて見ましょう。 まず、検察の仕事ですが、確かに同じようにして様々な証拠を使って、過去の事実を明らかにしていく作業のように見えます。 しかし、大事な点は、それが事実であると認められるかどうかは、裁判の結果にかかっている、という点です。 どんなに検察が重要な証拠だといっても、裁判官がその証拠能力を認めない限り、それは一つの仮説の域を出ません。 ですから、弁護側は様々な戦術で、これを決定不能な方向にもっていくことが出来ます。 それが裁判です。 裁判官の決定に対しては、それが裁判のシステム上決められたとおりの、つまり裁判のシステムの一部としての異議申し立てでない限り、一切不服を述べることは出来ません。 裁判官の決定は、強大な権力によってはじめて為されるものです。 (三権の一角を担う) この「権力」の問題なくして、検察の仕事を語るわけには行きません。 検察も弁護士も、法というシステムに組み込まれた一つだからです。 そうしてみると、推理小説などの名探偵の仕事にも、不可欠なものがあります。 それは、作者という権力による決定です。 具体的には、名探偵の推理を跡付ける為の、具体的な展開が、名探偵が推理を披露した後で、用意されなければなりません。 「助手や依頼人が感心する」「犯人が自白する」「都合よく決定的な物証(犯人/被害者の手紙や犯行現場の写真のような)が見つかる」「警察が動く」といったことが必要なのです。 この中のどれ一つとして行われないまま、推理小説が終わってしまえば、「ホントかよ~」という読者の声が聞こえてくることは必至でしょう。 こうして、必ず、推理小説の最後には、作者によって、名探偵に都合のいい舞台が設定される必要があるのです。 それは、作者の「神のような権力」によって行なわれます。 これはこれで、詳細に検討してみると面白いのかもしれませんね。 ところで、歴史学においてはどうでしょうか。 ある学説が、一つの学説として、まさに「認められる」必要のあるものであるという事実は、見過ごしてはなりません。 フォイアアーベントは、科学的真理を決定するのはプロパガンダである、と言っていますし、クーンは、理論の優劣を測るような客観的なデータは存在せず、真理は専門家集団の「発明」でありその宣伝・説得・政治闘争により選択される、と言っています。 ニーチェは、「真理への意志は権力への意志である」と言いましたが、そうしたことが、まさに歴史学においても言えることなのです。 (このようなことは、西洋の大物哲学者の大仰な言説を持ち出さなくてもいいのかもしれません。例えば井上光貞は、「ぼくが九州説というものをとっているのは、東京大学にいるからとっているといって間違いない」と言っています。ここから東大/京大という学閥闘争への批判へ進むのはかまいませんが、井上は、「真理」についての事実を率直に述べたものと見ていいと思います) 私は、「真実は一つ」とか「何処から見ても山は山」みたいなことを言ったこともあります。 それはそれとして、私の信条としては、そのとおりだと思っていますが、だからといって、この事実から目をそらすつもりはありません。 よく「古田説はなぜ受け入れられないのか」という問いを、古田武彦の支持者は発します。 多くの場合、「学界の退廃・腐敗」といったような見方や、「学界の信仰」というような見方で片付けてしまいがちですが、(古田自身がその最たるものと言えるでしょう)それは、違います。 それはあまりに無邪気で純真無垢な見方だと言ってもいいのかもしれません。 無邪気とか純真とか無垢とかという言葉を私は決していい意味で使ってはいません。 そもそも、彼らの本質が本当にそのようなものであるかどうか、私は疑問だと思うからです。 本当にそこまでガキではないだろう、と言いたい。 ですから、それは、おそらく、事実から目をそらすような行為か、そうでないなら、自らの倫理的な要請を他に押し付ける独善主義かのいずれかに過ぎないでしょう。 この言い方は、多少酷かもしれません。 しかし、その意味では、プロパガンダに精を出す安本美典のほうがはるかに事実を見ており、その事実に対して素直である、と言っていいでしょう。 「古田説はなぜ受け入れられないのか」という問いの回答は、このあたりにある、と見ています。 しかしながら、私は、「誰もが思わずうなずいてしまうような方法もあるはずだ」という信条を持っています。 それは、根拠のない信念に過ぎません。 ですが、私は、そのことには、何の躊躇もしないでしょう。 そこで「うろたえる」というまさにそのことが、「根拠がなければならない」という、まさに根拠のない信念に支えられたものなのですから。 私は、学問には「ルール」だけが必要だ、と言ったことがあります。 そこで言う「ルール」とは、「誰もが思わずうなずいてしまうような、誰が考えても同じ結果になってしまうような仕方で説明する」ということに他なりません。 「数字」を使うのも、「形式」を使うのも、「観念」や「理論」を使うのも、いいでしょう。 「誰が見ても、考えても同じであるようなもの」のことを「客観的」というのであり、そういう方法だけを使い、認める。 それが学問の「ルール」だと思っています。 しかしながら、「誰が見ても同じ」であるかどうかは、「客観的には測定不可能」ということなのです。 そこで「政治力」が働きます。 ですが、たとえ、「建前」だけであっても、「誰が見ても同じ」ということにこだわり続けることが必要です。 その「ルール」が守られている限り、学問はどこまでいっても学問なのであり、有益なのです。 そのために必要なら、数値化もしますし、形式化もしますし、理論化もします。 それだけのことです。 あまり、堅苦しく考えるのは、好きではありません。 私が歴史をやるのは、「楽しいから」であり、「娯楽」に過ぎません。 それでいいのだ。(笑) 17-Apr-2004 人質事件は、この一週間で随分と動きました。 事件の経過はもちろんですが、世論も随分変わったものだと思います。 先週の独り言で、私は、「彼らが無事助かって帰国すれば、そして今の緊迫感が安堵感に変われば、必ずや、彼らを非難する論者が現われるであろうことを、予言しておきます」と言いましたが、そのとおりの状況となりました。 「自己責任」という言葉が、政府関係者からもマスコミでも大いに言われています。 政府からそれが出るのは、先週も言ったとおり、自衛隊派遣のロジックの延長線上ですから、当然のことです。 しかし、「無謀な雪山登山」に喩える例をよく聞きますが、それもまた違うと思います。 なぜなら「雪山」は自然ですが、「イラク」は国――要するに人の集まりだからです。 もちろん、「雪山」だろうと「イラク」だろうと、救出後の「被災者/被害者」がさらされる非難の一部は、「自分達がこんなに心配してやったのにその態度はなんだ」とかそういう次元の低い感情論であり、単なる自惚れた自称知識人或いは偽善者の見え透いた自己満足を満たしたい欲求から来るものに過ぎません。 そういった感情的な非難は、マスコミ論や大衆の心理といったものを分析する上では、興味深いサンプルとなるでしょう。 当然ながら、それとは少し次元を異にする批判も存在します。 今、私が関心があるのは、そちらのほうです。 人質となった3人と、それから新たに拉致されたという2人は、それぞれ、ボランティア活動家/フリー・ライター/フリー・カメラマン/フリー・ジャーナリスト/ NGO 活動家だそうです。 大きく、「慈善事業家」と「ジャーナリスト」とに分けられるでしょうか。 私は、彼らの活動を直接取材したわけではありませんし、マスコミで一般的に言われている情報を鵜呑みにした程度です。 今井紀明氏などは、「フリー・ライター」という肩書きですが、実際は劣化ウラン弾を非難する立場から、その実情を取材しようと志したもの、とのことで、単純な意味でのジャーナリストとは、少し違うのかもしれません。 とはいえ、「ジャーナリスト」の多くは、「イラク」の実情を、「戦争」の実情を取材したいと言う気持ちから、敢えて危険な地へ乗り込んでいるので、どの「ジャーナリスト」も少なからず、そうした側面を持っていると言うことも、忘れるわけにはいかないでしょう。 それでも、大局的に見て、このような認識で大過ないだろうと思います。 批判の中には、彼らのこうした活動を制限するような議論があります。 先に言ったような「感情論」も、最終的にそのようなものを招来してしまいます。 しかしながら、例えば、ジャーナリズムは、政府とは一歩距離を置いて、自由に動き回れる、そういう立場を基本的に望んでいるはずです。 所謂「イラク戦争」の最中も、バグダッドには多くのジャーナリストが残り、米軍に従軍さえした。 従軍記者は、(軍事的必要は理解しつつも)報道内容が制限されることを歎き、バグダッドの記者は、少しでも「前線」を捉えようと、銃撃の中へ出向いたりもした。 ですから、今の「イラク」にジャーナリストが「勝手に」入り込んでいることは、むしろ、当然のことです。 それを失えば、ジャーナリズムは、「文春出版差し止め」以上のものを失うことになるでしょう。 今は、そのことにあまり目が向けられていない気がします。 或いは、それを失うことは無い、とタカをくくっているのでしょうか。 NGO の活動は、その名(非政府組織=NonGovernmental Organization)が示すとおり、政府でないことが重要です。 ですから、彼らの活動が、政府の活動(「イラク」なら「自衛隊」)ともちろん対立する必要はありませんが、政府によって制限されるべき謂われは無いのです。 個人のボランティア活動家も、おそらくは、同じような理想を持って活動しているのでしょう。 それを制限することそれ自身は、「身の危険」という文字通り「リスク」と、天秤にかけても、答えは一様ではないはずです。 こういえば、「今はそんな状況ではない」という声が上がるかもしれません。 しかし、おそらく彼/彼女らに言わせれば、そうであるからこそ、その活動が重要なのだ、と言うでしょう。 今回の人質解放の理由に、彼らの活動内容を評価したことが挙がっている点は、忘れてはなりません。 ともかく、今回の事件は、「自衛隊」議論が、「派遣」の側にむしろ有利に働きそうな気がします。 たとえ、一人一人の発言が、それ自身としては、決して「派遣」を望んでいなくても、です。 もう一度申し上げますが、私のこの「発言」が、結果として、何をもたらすか、それは未知数です。 10-Apr-2004 大きな事件がおきてしまいました。イラクで日本人が拘束され、自衛隊の撤退を迫っています。 もちろん、人命のかかった事態であり、軽はずみには何かを申し上げるべき状況ではないのですが、でも、少し考えてみなければいけないことがあるように思います。 あらかじめ、申し上げておきますが、今回の彼ら――ムジャヒディン旅団を名乗る集団の行動は、卑劣であり、卑怯なテロです。 人質となった三人の無事を祈る気持ちは、私も替わるところはありません。 それに、私は、何らかの政治的主張をここで展開したいのでもありません。 私が注目しているのは、彼らテロリストの言動ではなく、国内の、様々な論者の言説です。 とは言っても、私が目にしえた人々――つまり、テレビによく出てくるような人々の発言が主です。 今回の事件を以て、「だから自衛隊を撤退すべきだ」という人々がいます。 自衛隊の派遣の為に今回の事件がおきた、と見なす論者がいます。 私の見たところでは、NGO やその他のボランティア活動を積極的にされている方々に、そのような発言が多いように感じます。 彼らの言うところは、「日本はこれまで特別に扱われてきた。しかし、自衛隊を派遣することによってその特別な地位を失い、他の国と同列だ、と見なされてしまった。だから、テロリストから敵と見なされてしまうのだ」というような主旨だといっていいでしょう。 その際、自衛隊が撤退すれば、彼らが帰ってくる、という担保はあるのか、とか、そもそも自衛隊が行っていなければ、彼らがこんな目に会うことはなかった、と言えるのかとかという議論は、とりあえず、措いておかれます。 一方、「だから自衛隊が行かなければいけないのだ」という論理が可能であることに注意してください。 そもそも、「自衛隊は戦争に行くのではない。人道復興支援に行くのだ。今のイラクの情勢を考えれば、そのような活動は、民間人ではなく、少なくとも自分の身を守ることの出来る自衛隊が行かなければならない」というのが、派遣のロジックだったことを思い出す必要があります。 今は、何より人質の人命が優先されるべき時ですから、表立っては言わないかもしれません。 しかし、彼らが無事助かって帰国すれば、そして今の緊迫感が安堵感に変われば、必ずや、彼らを非難する論者が現われるであろうことを、予言しておきます。 「どうして、あんな危険な状況なのに、あんな危険な場所へ行ったんだ」と。 それは、自衛隊派遣のロジックの延長線上にあります。 おおよそ、論理とは、そういうものです。 私が、私自身としては、事実を単に「見た」つもりで、このように述べても、私の発言の中に政治的な意図を見出そうとする人がいるかもしれません。 いや、見てしまう人がいるかもしれません。 それは、一面では正しいのかもしれません。私が、一人の人間として、社会に、この日本社会に関わっている以上、そして、この「独り言」が、その表題に反して、社会の人々(それはあまり多くはないかもしれませんが)へ向けられたものである以上、不可避的なものかもしれません。 今回の人質事件の対応は、あくまで、人命を尊重した上で、「犯罪」への対応として、対応を考えるのが、もっともよいのではないかと思います。 「自衛隊派遣」という国家の政策を、そこで云々すること自体が、彼らの思惑の内部にいるのだ、と言ってもいいでしょう。 ですから、素人の私が述べるべきことはないように思います。 ちょうど、誘拐事件の対応について、云々するだけの技量がないのと同じように。 (もちろん、これについても、述べることがあるかもしれませんが) このテロは、彼らの思惑とは逆に、自衛隊を撤退させにくくしてしまった、という指摘もあります。 今の危険な情勢――特に、今、自衛隊は、情勢悪化を受け駐屯地外の活動を「自粛」している――を考えれば、自衛隊の撤退はありえないことではなかったのに、このテロが余計なことをしてくれたおかげで、「テロに屈するな」で世論がかえって固まる可能性がある、というのです。 なるほど、この指摘は的を射ています。 そこから考えれば、「人命の為に自衛隊を撤退させよ」と声高々に述べてしまうことが、逆に、自衛隊撤退を遅らせるのかもしれません。 現実には、論理は、その「位置」あるいは「状況」によって、本人の意図とは全く違うところへ、物事を運んでいってしまうものです。 それを計算した上で発言することが、「政治力」だとすれば、私は、この「独り言」が何をもたらすのかは、正直、分かりません。 何ももたらさないのかもしれません。 しかしながら、「人命」を言いながら、無自覚的に、何かを運んでしまうイデオローグたちには、危険を感じずにはいられないのです。 戦前の議論が、もちろん、制限されていたとはいえ、軍国主義/皇国思想/国体思想の原理主義者はかえっていなかったことは、調べてみればすぐに分かることです。 むしろ、人道主義者や女性解放論者などの言説が、結果的に、そういったロジックを形成するのを助けてしまった、という一面をわすれるべきではありません。 政治力は、論理とは別のところで働きます。 論理的には決定不可能であることを、政治力が決定する、という事態は、しばしばあります。 問題は、それを「論理の力である」と誤解することです。 ナショナリズムにせよ、今回の問題にせよ、それを容易に混同してしまうことに、「厄介」さがあります。 自衛隊派遣/撤退は、論理的には、どちらでもよい(どちらに有利な論理を産むことが出来る/どんな論理が有利であるかを恣意的に決めることが出来る)。 それを決定するのは、政治力なのだ、と言ってもいいでしょう。 それにしても、(何でもいいから)人質の三人が無事解放されることを願います。 1-Mar-2004 昨日、一昨日 (2/28-2/29) と考古文化研究会の第一回研修旅行~備中編~へ参加させていただいてました。 それを簡単にですがご報告したいと思います。 まず、一日目。 はじめに鬼ノ城に向かいました。非常に眺めがよく、吉備の平野を一望でき、ここがこの地を守る上で、重要な山城であることが印象に残りました。 七世紀から八世紀の築城である、とのことで、同じ時代には「高安城」や「大野城」などがあり、壬申の乱、或いは白村江の直後の不安定な時期に作られたもの、との見方が強いようです。 そうしたことから、「吉備大宰」の「石川王」との関係も考えられるようです。 しかしながら、地元では「温羅(うら)」伝説との絡みで語られています。 この伝説もなかなか興味深いものです。 それはさておき、道が険しかった・・・。 ここが間違いなく「堅固な山城」であるということを身をもって実感しました(笑)。 次に楯築墳丘墓へ。ここでは、この遺跡の発掘者でもある近藤義郎氏が、自らユーモアをふんだんに交えた貴重な解説を披露して下さいました。 また、楯築神社(楯衝宮)の御神体である弧帯石も、普段は見ることが出来ないそうですが、特別に見せていただきました。 見るからに不思議な石で、楯築の丘上の立石と相まって、かつての信仰の跡を見るような気がします。 それから、近藤氏とともに鯉喰神社墳丘墓へ。ここも楯築同様、弥生の墳丘墓であり、墳墓の両側に延びた突出部が特徴的であるとのことです。 楯築、鯉喰ともに、先の「温羅」伝説との関係を持っています。 もっとも、こちらは弥生墳丘墓で、鬼ノ城は七世紀ですから、全く時代は異なりますが。 それにしても、鬼ノ城があったところは、弥生時代でも、一つの重要な軍事上のポイントであったろうことは想像できますから、そういった関係を考えてもいいのかもしれません。 もちろん、それ以前に、「温羅」が中世の、中世的な説話に過ぎない可能性もありますが、ね。 さて、その後、作山古墳を見、ホテル(国民宿舎)へ。 ここで高橋護氏の「講演」を聞きました。と言っても、既にお酒も入っていましたが。 高橋氏の「作山の被葬者は倭王である」という指摘は、興味深いものでした。 ただ、「巨大さ」から「大王クラス」と見、だから「倭王」という論法は、実のところ、近畿の巨大古墳を盾に、だから天皇家は日本列島を支配していた、という論法と変わりは無く、ですから、前方後円墳をバックに天皇家の日本列島統一を説く論者に対する反駁としては、非常に意味を持ちますが、私はすぐには従えません。 もちろん、吉備と大和或いは河内の関係、というのは一方的な支配関係と見る必要は無く、むしろ吉備の側が優位に立っていた、という指摘は重要だと思います。 二日目。 こうもり塚、江崎古墳と、吉備独特の横穴式石室を見ました。 それから、宮山墳丘墓群、三笠山古墳、天望台古墳へ。 宮山墳丘墓が、前方後円墳の祖形である、という西さんの指摘は興味深いものでした。 埴輪もそうですが、吉備から近畿への伝播、という方向性は、動かせないものになってきているようです。 また、吉備では、土器を中心とした編年がかなり進んでおり、その点が近畿の錯綜した状況とは違うようです。 近畿の考古学編年というか、考古学の全体に対しては、私も同じような印象を持っており、全面的な見直しが必要なのでは無いか、と思います。 そして、造山古墳、千足古墳へ。 造山の頂上には、長持式石棺があり、これが肥後の鴨籠古墳と同型であるようです。石も肥後の千束のものだそうです。 また、近くの千足古墳も、肥後とのかかわりが指摘されています。 二日間の研修旅行は、非常に中身が濃く、まだまだ書き足りないことが山ほどありますが、この辺にしておきたいと思います。 (特に個人的なエピソードまで語ったら、それこそ書ききれません・・・^^) 私としては、 THE 古墳 NET 首長さんや、市民の古代研究会・関東の横山さん、柳川さんなどに始めてお会いでき、うれしく思いました。 また、西森さん、中岡さん、水井さん、そしてもちろん西さんご夫妻、考古文化研究会の皆様本当にお疲れ様でした! 22-Feb-2004 今日は、「私は何故歴史をやるのか」を考えてみたいと思います。 何を改まって・・・と思われるかもしれませんね。 まぁ、深い意味は無いのですが、「歴史」という学問について、考えてみたいとは、前々から思っていたことなのです。 よく「歴史とは」という形で、この学問について考えるという問題設定を耳にします。 ベルンハイム『歴史とは何ぞや』、E.H.カー『歴史とは何か』などなど、です。 しかし、こういう問い方はおそらく不毛なのです。 そもそも私にとって、学問などというものは娯楽であり、道楽なのです。 ですから、「歴史とは何か」と問われても、私には、「歴史は歴史だ」としか答えようがありません。 このように問うのは、実は、「歴史という学問には一体どういう意味があるのか」「何のために歴史学は存在するのか」という問いを含意しており、それに答えようとしているのです。 ですが、それは、「野球」とは何か、「野球というスポーツにはどういう意味があるのか」を問うのと同じく、不毛なのです。 もし、そのように問えば、答えは決まっています。 「野球を通じてチームワークの大切さを学ぶんだ」とか「野球を通じて努力することの大切さを学ぶんだ」などと言うほど胡散臭いものはありません。 本気でそんなことの為に野球少年が目を輝かせているわけが無いでしょう。 歴史についても同じことが言えます。 歴史とは、物語ることだ、とよく言います。 最近では、それを逆手にとって、だから「客観的な歴史はありえないんだ」と居直ったり、罵ったりする輩がいます。 ですが、そういう論者こそ、実は転倒しているのです。 それは、その論者が「客観的な歴史」なるものを、それまでいかに「信じ込んでいたのか」を示すに過ぎません。 ようやく、「客観性」というものが、いかに難しいことであるかを知ったに過ぎません。 歴史は勝者の側から書かれる、だとか、立場が違えば歴史の叙述が全く異なる、などということは、おおよそ、歴史好きにとって常識的な事柄だというべきです。 「勝てば官軍」という言葉があります。 今更「客観的な歴史」の難しさを説くような論者は、この言葉の意味を、今やっと理解できるようになった、と言うに過ぎません。 さて、物語る、ということの意味は、文字通り受け取るべきです。 虚構としての小説や物語や映画や叙事詩があります。 それと史実としての歴史書やドキュメンタリーや報道との間にあるのは、ほんのわずかの違いでしかありません。 読者や受け手が、それを虚構として受け取るか、史実として受け取るか、の違いです。 文学理論家や一部の哲学者のように、虚構を特権視すべき謂われはありませんし、それ以上に史実を特権視すべき謂われもありません。 ですから、「歴史を学ぶ意味は、過去の事実から教訓を学び取ることだ」というような言説は、もちろん、間違いとは言いませんが、私はこう言いたい。 「それは虚構からでも学べるのだ」と。 史実としての三国志や戦国時代、その他の様々な人間模様、そこから学ぶべきことは多くあります。 ですが、それは、例えば『三国志演義』や『スターウォーズ』や『ハムレット』や『指輪物語(映画「ロード・オブ・ザ・リング」の原作)』からは、学び取れないものなのか。 これらの作品が古今東西に関わらず、人間を描き出している以上、そこから多くの感銘や教訓めいたものを学び取ることはたやすいことです。 そういう意味では、歴史も映画も小説も、変わることは無い。 「娯楽作品だから」というのは、ただの言い訳です。 歴史を娯楽として楽しむことは、いけないことなのでしょうか。 現に多くの人がそうやって楽しんでいます。 もし、史実と虚構の間に差をつけるとすれば、ちょうど、スポーツがそうであるように、誰かの作り出した虚構よりも、筋書きの無いドラマである現実のほうが、私たちに訴えるものが強烈なものがある、ということは出来ると思います。 ですが、スポーツを題材にした虚構も、楽しく、感動し、涙できるものです。 歴史の法則を学ぶんだ、という論者がいるかもしれません。 また、現在の原因としての過去を知るんだという論者がいるかもしれません。 そのように言うことは、おおよそ転倒していると言うべきでしょう。 何をか―原因と結果をです。 長くなるのであまり詳しくは申し上げられませんが、今、私は、ニーチェ、ウィトゲンシュタイン、フロイト、マルクス、ヴォルフ、それに津田左右吉や古田武彦、柄谷行人といった論者の言説に共通した見方を見出しています。 それは、歴史を「見る」という立場です。 たとえば、「国家」とは何かを予め決めておいて、古代のいつごろそういう「国家」は発生したのか、という問題設定をしてしまう歴史家は多い。 ですが、それは、原因と結果を取り違えているのだと言わざるを得ません。 彼らが共通して言うのは、むしろ、逆です。 古代をじっくり「見る」ことによって、そこから「国家」の概念を得、更には現代の「国家」観の成立の事情を暴露する。 それが大事なのだと思います。 現代から過去を見るのではなく、過去から現代を見るのだ、と言ってもいいでしょう。 文献学者としてのニーチェは、そのことを強調していたのだと言っても過言では無いと思います。 うん、やはり取り留めのない話になってしまいましたね。 まぁ、このへんで。 07-Feb-2004 今日は、前回の続きです。 というよりは、私自身が常々思っていた、今の古代史「業界」の問題をじっくり考えてみたいと思います。 さて、「邪馬台国」がどこにあったか、という議論ですが、その候補地は既に百を超えていると言われています。 そういった中で、また新たな「邪馬台国」論を産出しよう、ということは、それ自体は問題ではないけれど、何故そうしなければならないのか、という理由というか、動機をきちんと見つめなおす必要があると、私は考えます。 言い方を換えると、今「邪馬台国」の候補地が百あって、自分は新たに百一個目を追加登録しようとしているのか、それとも、他の百個の候補地は全て間違いで、自分が唯一の候補地を掲げようとしているのか、ということです。 もし、単に百一個目を追加して、自分も「邪馬台国」論者の仲間入りをしたい、というだけなら、それは私にとって全く価値のないものですし、おそらく、真摯に古代史を探究している多くの方々から言わせれば、甚だ迷惑な行為だと言わざるを得ません。 今でこそ、幸いにして、「邪馬台国」そのものが流行としては下火ですから、「町おこし」とか、「知的ファッション」として、「邪馬台国」を語ろうなどという論者は、多くはないのだろうと思いますが、「邪馬台国」が一つのブームとして、或いは「業界」として捉えられているような側面は、否めないだろうと思います。 これは、何も私が今始めて指摘したようなことでは、さらさらなくて、既に古くから指摘されていることではあります。 私は、新たに「邪馬台国」論を唱えるということは、つまり、他の全ての「邪馬台国」候補地を否定することと等しいのだ、と考えます。 一つの論説を唱えるということは、他の対立する論説を否定するということと同じことなのです。 だから、唱えてはだめだ、と言いたいのではありません。 むしろ、逆です。 「邪馬台国」候補地が百を超える、と私は言いました。 そういう状況を、何も不思議に感じない、という神経のほうが麻痺しているのです。 「邪馬台国」論を唱える為には、他の説との徹底的な対決を避けて通るべきではないのです。 一つの宿痾は、まさに、対決の回避にあると言っていいでしょう。 他説を批判することをしない論者というものは、自説を批判することもしていない。 本当の意味で、批判的に他説も自説もじっくり検討していないから、「批判」と「罵詈雑言」を区別できない。 他者から自説に対する指摘を受ければ、それを「中傷」としか受け取れず、自らが他説を批判しようとすれば、「中傷」しかできない。 それに、対立する説に対して、「私を信じなさい」「あなたは真実を知らない」以上のことを言うことが出来ない。 それが、今のアマチュア論者の陥っている、「病」なのだと思います。 正直に申し上げますと、今回の宮津論文は、もちろん、こういった病に骨の髄まで冒されている、とは思えません。 重症の患者は、何人か知っていますが、宮津さんは、はるかに(比較することも躊躇われるほど)健全な方です。 ですが、他説への批判を回避してしまっている、という点に、一種の「危うさ」を覚えるのです。 私が予め挙げておいた論点のいずれに対しても、また、各個の独自の論点に対しても、先行して、別のことを言っている論者がいることをご存知のはずなのに、それとの対決が無い、或いは足りないのでは無いか、と見ています。 ですから、私が批判しようにも、私自身の意見というよりも、「誰某は、こう言ってますよ」「誰某は違うと言ってましたがどうなんですか」という以上の議論のしようがない、そのことを問題視したのです。 よく「アマチュアだから」という言い訳を聞きます。 少し考えて見ましょう。 私は、「学問」というものは、例えば野球やサッカーなどのスポーツと大して変わるものではない、と思っています。 そこには、「ルール」がある。 いいえ、ルールだけが重要なのです。 小さな子供の頃、空き地や広場のようなところで、「あっちの電柱が一塁で、あそこの木が二塁」なんて言ってゴムボールとおもちゃのバットで野球をしたものです。 おんなじようにサッカーもやりましたね。近くの家の門の幅をゴールにしたりして。 (よい子はあぶないから道路で遊ぶのはやめましょう。笑) 別に立派な施設や、そろいのユニフォームや、高等な技術は要らない。 野球もサッカーも、そうやって遊ぶ子供のほうが、本当の楽しさを知っているものです。 それはさておき、野球にもサッカーにもプロがいますし、草野球・草サッカーといったアマチュアも盛んです。 では、アマチュアの「野球選手」は、「アマチュアだから」という理由で、ルールをおろそかにしますか。 しません。 ルールを壊してしまえば、「野球」そのものが楽しくなくなってしまうことを知っているからです。 学問も同じです。 プロ(つまりアカデミックな学者)であろうとアマチュアであろうと、学問のルールは守らなくてはいけません。 理由は簡単です。 「楽しくなくなる」からです。 「能力が無い」という言葉もよく耳にします。 謙遜の辞なら結構ですが、本当にそう思っているとしたら、せめて「キャッチボール」や「バットのスイング」くらいは出来るようになってください。 他説に対して、「ここが納得できない」とか「こうは考えられないか」とか、そういう意見を持ち、それを語ることは、その程度の能力だと私は思います。 それが出来ないはずが無いでしょう、と私は言いたい。 剛速球や、ホームランを放つには、もちろんそれなりの鍛錬と才能が必要なのでしょうが。 今や、インターネットで、どんな素人でも、自分の意見を公にすることが出来るようになりました。 そういう意味の手軽さは、我々にとって歓迎すべきことですし、私自身が今、その恩恵を十分に享けています。 小さな子供が、どんなに幼稚であっても、野球やサッカーのルールを守るように、我々も学問のルールを守らなければいけない。 そう思います。 01-Feb-2004 随分、お久しぶりになってしまいました。独り言です。 今回は、宮津徳也氏の「邪馬台国」論についてです。(http://www.mctv.ne.jp/~kawai/vtec/text2/91yamata.html) 宮津氏からは、今回の公開に先駆けて、メールでいくつかの意見を求められ、それにお答えしたという経緯があります。 それらを踏まえつつ、意見を述べさせていただきたいと思います。 さて、宮津氏は、その論の冒頭に、古田氏による「邪馬壹国」読解の三つの問題点を挙げています。 帯方郡から邪馬壹国までの旅程距離の算出に島の大きさを加えるなど無理がある 水行十日陸行一月を郡から女王国までの総日程とするのは恣意的である 投馬国は女王国以北に位置しない この三点について、私は宮津氏に対し、既にメールで意見を述べていたのでした。 それを以下に記します。 -----Original Message----- From: KAWANISHI Yoshihiro [mailto:y-kawanishi@pop06.odn.ne.jp] Sent: Monday, January 05, 2004 10:21 PM To: 'Vtec' Subject: RE: 新春歓喜 1.対馬や壱岐の面積から辺の長さまで距離に加えるのは道程記事としては普通ではない。無理がある。 この点については、古田氏の言うところを代弁すると、「結果として、部分里程が総里程となる計算方法は他に無い」ということにつきます。 「部分里程の総和=総里程」という等式は、古田氏にとって常識と見えています。 ですから、「無理がある」と言えば、「じゃぁ、どうやれば部分里程の総和=総里程となるのだ」と問い返されます(予言)。その答えを用意しておくか、「部分里程の総和≠総里程」という仮説を徹底的に論証するほか無いでしょう。 そうでない限り建設的に議論は進まないでしょう。 2.水行十日陸行1月を郡から女王国の総日程と見るのは恣意的である。 これは、私も実は、そのように感じてもいます。 しかしながら、「日程」である以上、「里程」とは別に考えるべき、ということは言えると思います。 (2001年4月12日の独り言(…Historicalの一発目!)を参照) 私は…いまだに答えが見つかってません(汗)。 3.投馬国は女王国以北になっていない。 「「投馬国」を南九州とすると、「女王国」より、ずっと南となる。しかるに、「自女王国以北」とあるのは、矛盾するのではないか、というのである。 しかし、これも、原文脈に対する、「粗放な読み方」にもとづく論難というほかない。なぜなら、『三国志』の表記法によるかぎり、「自女王国以北」(女王国より以北)は、「自(より)」の字の示すように、「女王国以北」の「行路」をさしている。だから、この句を訳せば、「女王国より北の国々」ではなく、「女王国より北の、行路の国々」となるのである。この「行路」とは、すなわち、「狗邪韓国―邪馬壹国」の「主線行路」と、「奴国」「投馬国」という、二つの「傍線行路」の国である。」(『「邪馬台国」はなかった』第四章、三) これが、古田氏の主張である以上、これを踏まえた上で、批判を組み立てなければ、乗り越えることにはならないでしょう。 私は、この部分に関しては、古田氏の解釈で、問題ないのかな、と思います。 (この読解に関しては、古田氏より前に、井上光貞氏も同じような解釈をしていたと思います。 以来、「邪馬台国」九州説では、わりと受け入れられている説です。) これらに対し、宮津氏の論考は、その答えを用意できているのでしょうか。 一つずつ見ていきましょう。 1.について。 これは、宮津氏の論考を読んでも、何も回答が示されていないと言わざるを得ません。 ですから「予言」どおり、古田氏から当然出てくるであろう「反論」を、私が代わりに述べます。 というより、既にこの議論に対する反論は、古田氏自身が示しているのです。 これに対して、”漢文の文脈上、「水行十日陸行一月」を、古田のように、総日程とは読めない”と難ずる論者がある(たとえば、井上光貞氏・張明澄氏等)。 では問おう。”「水行十日陸行一月」を部分行程にした場合、どのようにしたら、区間里程の総計が総里程になりうるか”と。 井上氏の依拠された榎一雄説の場合、「陸行一月」を「千五百里」に”換算”する手法だった。これも、倭人伝に記載されていない「里程」数値を算出するものだ。だから、決して先の命題を満足させているとはいいえないのである。 (中略) いずれにおいても、「わたしの漢文理解からいえば『水行十日・陸行一月』は部分行程だ」と、一方で断言しながら、他方では部分と全体の論理を無視する、あるいは維持できない。そういう結果に陥っているのである。それでも「わたしの文脈理解が正しい」と断言しつづけるとしたら、わたしはそれを主観主義とよばざるをえないのである。 これに対し、学問研究のとるべき王道、それは、万人の首肯すべき自明の命題、部分と全体の論理に従った解読法を採用する。これが真の客観主義である。」(古田『「風土記」にいた卑弥呼』) 奥野正男氏は、「対海国・一大国」について、それぞれ一辺通過と考えられた。それぞれ「四百里」「三百里」だから、計「七百里」である。当然これだけでは、足りない。そこで 八百余里―伊都国→邪馬台国 を「部分」として加算され、これを付加すると、”区間里程の総計は、総里程になる”と見なされるのだ(『邪馬台国はここだ』『邪馬台国発掘』)。 だが、これは変だ。なぜなら、右の「伊都国→邪馬台国」間の距離など、倭人伝には、一切書かれていない。氏の計算では、「帯方郡治→伊都国」間が「一万二千二百余里」となって、まだ「八百余里」足らない。そこで、その不足分を「伊都国→邪馬台国」の「区間里程」として、別定されたのである。それを付加された。 これでは、計算が合うのが当たり前。およそ、合わないはずがない。なぜなら”合うように「八百里」という数値を算出された”のであるから。(同書) 以上に尽きます。 宮津氏が「千三百里」を「不弥国→邪馬壹国」間の距離と判定し、それゆえ、「区間里程の総計=総里程」を維持していると考えるなら、それは、奥野氏と同じ、論理上の誤りを犯していることになります。 実は、古田氏の主張するところを言葉を換えて述べるなら、「陳寿は全ての部分行程を明示しているはずだ」というのが、古田氏の言い分なのです。 私は率直に申し上げて、この命題は自明であるかどうか、判断がつきません。 迷うと言うことは、「自明」ではないのでしょうね(笑)。 しかしながら、この点を反論しなくては、古田氏への反論としては、形を成さないのです。 先のメールでは、この点が必ずしも、明確ではなかったのかもしれません。 ですが、私はそのように考えています。 (この点については、私自身の解読には達していませんので、こういうお茶を濁すような言い方になってしまうことをご了承ください) 2.について。 結果的に宮津氏の読解は、これら「日程」を「里程」と同様に見ることになっているような、気がしますが、いかがなのでしょうか。 3.について。 新たな論点はありません。 さて、それ以外に、宮津氏の今回示されたテーマについていくつか述べておきましょう。 1.陸行一月→一日の改定について。 これは、古田氏以前に逆戻りですね。戻るのは結構ですが、この点に関する様々な古田氏の議論、他の議論を飛び越えて、また、同じように「一日の誤りと見るしかない」という一言で済まされるのでしたら、まさに「後退」と言わざるを得ません。 また、『隋書』を持ち出していますが、『隋書』は『隋書』であり、後代史書なのですから、これは恣意的です。 2.伊都国王について。 伊都国と邪馬壹国とが覇権を争っていた、とは、興味深い考察ですが、魏志には、そのようには記されていません。 「世世王有るも皆女王に統属す」と言っているのですから、代々皆女王に属していると考えるべきなのです。 それを別様に、考えるのは、何か別の資料的根拠を、徹底して論じなければならないでしょう。 これこれこういうわけであるから、魏志のこの記事は訂正しなければならない、と。 3.委奴国について。 これは王道ですね。 ですから、古田氏から提出されているさまざまな議論に反論する用意が必要でしょう。 全体的に言って、もちろん、宮津氏に限ったことではないのですが、あまりに、先行説に対して注意を欠いているのでは無いでしょうか。 古田氏の『「邪馬台国」はなかった』の前半分は、他説との「対決」に終始しています。 現在の、乱立する「邪馬台国」論に対して、慎重に、考証として最低限の用意をすれば、そのような事態はやむをえないところなのです。 私は、(すでに三品彰英氏の『邪馬台国研究総覧』で指摘されていることですが)こういった、一種の手軽さが、「邪馬台国問題」を解決から遠ざけているのだと思えてなりません。 別に私は高度なことを言っているのではありません。 我々は、既に多くの説を知っている。にも関わらず、どの説にも満足せずに「新説」を提起する。 ならば、それまでの説のどこが納得できないのか、それまでの説はなぜ駄目なのか。 それを述べることは、最低限のマナーだと思います。 別に、高度な技術や、高尚な議論を用意する必要はありません。 「知らない」ものは「知らない」でもいいし、「素人には理解できん」でもいいのです。 (様々な説に一生懸命言及しようとしている論者に対してなら、抜け漏れや理解不足、勘違いがあったとしても、 「ああ、たまたま知らなかったんだな」といって、読んだ方が教えてくれます) 繰り返します。 これは、古代史「業界」全体の問題だと思います。 「私の邪馬台国論」大いに結構ですが、この点に配慮を欠いては、何にもなりません。 あえて苦言を呈させていただきました。
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