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|-500|||イオニア植民市のポリスがペルシアに反抗〔イオニアの反乱〕、ペルシア戦争始まる(~前450/449)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-500|||ペルシア戦争(マラトンの戦い/サラミスの海戦など)ギリシャ連合軍vsペルシア(ギリシャ勝利)~前449年。古代ヨーロッパ-[エーゲ海沿岸等]&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-500|||魯、斉と夾谷に会盟し、孔子随行す&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-500|||菜畑遺跡で水田稲作&br;水田稲作が広まる&br;青銅器と鉄器が大陸から伝わる&size(6){(日本-日本-縄文時代 → 弥生時代)};|| |-500|>|>|''縄文晩期→弥生前期''&size(6){(日本-日本-)};|| | | | |CENTER:&size(20){弥生前期};&size(6){(日本-日本-)};||h |-500|||BGCOLOR(lightgray):弥生前期紀元前1世紀、石器は減少し、鉄製工具普及。&br;鉄製の刃の鍬・鋤を使用&br;乾田の開発&br;邪馬台国連合の形成(『魏志』倭人伝)&br;大型の墳丘墓出現&size(6){(日本-日本-)};|| |-499|||ヒンドゥー教&size(6){(中東-イラン、ペルシャ-)};|| |-498|||孔子、魯を去る(14年後、帰国)&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-496|||呉王闔廬(闔閭)、越王句践(勾践)と戦い敗死&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-495|||貴族に反発した平民が聖山に立てこもる&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-494|||平民会と護民官の設置&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-494|||ローマの平民(プレブス)、聖山に退去、護民官制成立〔聖山事件〕&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-494|||護民官-平民代表が政治に参加可能(古代ローマの公職)。古代ヨーロッパ-[エーゲ海沿岸等]&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-494|||ペロポネソス同盟-スパルタを中心としたポリス間の軍事同盟-6世紀末。古代ヨーロッパ-[エーゲ海沿岸等]&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-494|||呉王夫差、句践を会稽に破る(会稽の恥)&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-492|||ペルシャ戦争はじまる&size(6){(中東-イラン、ペルシャ-)};|| |-490|||マラトンの戦いでギリシア軍がペルシア軍を破る〔ペルシア戦争〕&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-489|||このころ顔回没&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-489|2|12|観松彦香殖稲尊(孝昭天皇)立太子&size(6){(日本-日本-縄文時代)};|| |-484|||呉王夫差、斉を艾陵に破る伍子胥、夫差より死を賜り自殺&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-484|||孔子、諸国遊歴の末、魯に帰国&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-483|||このころ子思(孔 )生まれる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-482|||呉王夫差、黄池で覇権を争う間に、越王句践が呉に侵寇呉、大敗す&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-481|||魯、麒麟を捕獲孔子『春秋』を整理春秋時代終わる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-480|||テルモピレーの戦いでスパルタ王レオニダス戦死。サラミスの海戦でアテネのテミストクレスの艦隊がクセルクセス1世の率いるペルシア軍を破る〔ペルシア戦争〕&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-480|||衛の 、出公を追放し、即位(荘公)孔子の弟子子路、敗死す&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-479|||プラタイアイの戦いでギリシア軍がペルシア軍を破る〔ペルシア戦争〕&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-479|||孔子死す享年73&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-478|||デロス同盟-アテネを中心としたポリス間の軍事同盟。古代ヨーロッパ-[エーゲ海沿岸等]&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-478|||越王句践、呉を笠沢に破る楚、陳を滅ぼす&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-477|||ギリシア、デロス同盟結成&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-477|9|8|第4代懿徳天皇崩御、(大日本彦耜友尊)(天皇(4代))<77歳>&size(6){(日本-日本-縄文時代)};|| |-476|10|13|懿徳天皇を畝傍山南繊沙谿上陵に葬る&size(6){(日本-日本-縄文時代)};|| |-473|||越王句践、呉を滅ぼして覇者となる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-473|1|9|COLOR(SandyBrown):第5代孝昭天皇が即位&size(6){(日本-日本-縄文時代)};|| |-473|7||孝昭天皇が都を掖上の池心宮に移す。&size(6){(日本-日本-縄文時代)};|| |-472|||ギリシャ3大悲劇&size(6){(西欧-ギリシャ-)};|| |-468|||このころ墨子(墨 )生まれる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-465|||越王句践没&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-453|||韓・魏・趙の三氏、智伯を滅ぼし、地を三分すこれより三晋興る戦国時代の起点(1)(~前221年)&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-451|||十二表法成立&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-451|||ローマ、十二表法・十表までを成文化 &size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-450|>|>|''ギリシア文化の全盛時代''&size(6){( - -)};|| |-447|||楚の恵王、蔡を滅ぼす&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-447|1|3|孝昭天皇が世襲足媛を皇后とする。&size(6){(日本-日本-縄文時代)};|| |-443|||ペリクレスの執政(~前429)、アテネの全盛期&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-435|||このころ曾子没&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-431|||仏教成立&size(6){( - -)};|| |-431|||ペロポネソス戦争はじまる&size(6){(ヨーロッパ-ヨーロッパ-)};|| |-431|||ギリシアでペロポネソス戦争始まる(~前404)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-431|||パルテノン神殿が完成する。古代ヨーロッパ-[エーゲ海沿岸等]&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-431|||ペロポネソス戦争-アテネvsスパルタ(スパルタの勝利)~前404年。古代ヨーロッパ-[エーゲ海沿岸等]&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-430|||ヘロドトスの「歴史」&size(6){(ヨーロッパ-ヨーロッパ-)};|| |-427|||日本足彦国押人皇子(孝安天皇)生誕&size(6){(日本-日本-縄文時代)};|| |-424|||魏の文侯、即位これより魏、盛んとなる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-420|||ギリシアのデモクリトス、原子論を体系づける&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-415|||アテネ軍シチリア島に遠征、敗北(~前413)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-408|1|14|日本足彦国押人皇子(孝安天皇)が皇太子となる&size(6){(日本-日本-縄文時代)};|| |-404|||アテネ、スパルタに降伏し、ペロポネソス戦争終結&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-403|||周の威烈王、韓・魏・趙を諸侯に列す戦国時代の起点(2)(~前221年)&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-403|||中国、戦国時代に(B.C.403~B.C.221)・・文侯(魏)・悼王(楚)・孝公(秦)・威王(斉)・武霊王(趙)・?政(後の始皇帝)(秦)()内は国名。&size(6){(東アジア-中国、魏・楚・秦・斉・趙・秦-戦国時代)};|| |-403|>|>|''中国、戦国時代に(B.C.403~B.C.221)''&size(6){(東アジア-中国、魏・楚・秦・斉・趙・秦-戦国時代)};|| |-402|||このころ子思没&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-400|||ヒポクラテス、ギリシア医学を大成&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-400|||''箕子朝鮮(BC4世紀~BC194年)''&size(6){(東アジア-朝鮮、箕子朝鮮-箕子朝鮮)};|| |-400|||''BC400年頃'' COLOR(green):鉄器文化が普及する。&size(6){(東アジア-朝鮮、箕子朝鮮-鉄器文化)};|| |-400|||RIGHT:COLOR(green):鉄器文化が普及する。 ''BC400年頃''&size(6){(東アジア-朝鮮、箕子朝鮮-)};|| |-400|>|>|''縄文晩期→弥生前期''&size(6){(日本-日本-縄文時代 → 弥生時代)};|| |-400|>|>|''縄文時代→弥生時代[紀元前4世紀頃~250年頃]''&size(6){(日本-日本-縄文時代 → 弥生時代)};|| |>|>|>|集落(ムラ)から小国(クニ)が誕生する。&br;縄文土器が弥生土器となる。&br;金属(銅、青銅、鉄)が伝わり青銅器、鉄器、銅剣、銅矛、銅鐸などが製造される。&br;農耕は鉄製農具や水田が湿田から乾田に変わり生産性が高まった。&br;集落が周囲を堀と柵で囲った環濠集落(かんごうしゅうらく)へと進化する。環濠集落の代表的な遺跡が吉野ヶ里遺跡。更に狼煙台などの軍事目的の高地性集落も出現する。&size(6){(日本-日本-縄文時代 → 弥生時代)};|| |-399|||ギリシアの哲学者ソクラテス没(前470/469~)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-397|||聶政、韓の宰相侠累を刺殺&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-396|||ローマ、南エトルリアのウェイイ占領&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-395|||コリント、アテネ、テーベなどがペルシアの援助をうけ、同盟してスパルタと戦う〔コリント戦争(~前386)〕&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-393|8|5|孝昭天皇崩御。(觀松彦香殖稻尊)(天皇(5代))<114歳>&size(6){(日本-日本-縄文時代 → 弥生時代)};|| |-392|1|7|COLOR(SandyBrown):第6代孝安天皇が即位&size(6){(日本-日本-縄文時代 → 弥生時代)};|| |-391|10||孝安天皇が都を室に移す。室秋津島宮&size(6){(日本-日本-縄文時代 → 弥生時代)};|| |-390|||ケルト人のローマ侵略&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-390|||このころ、墨子、魯の陽文君に説く&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-387|||ローマがケルト人による掠奪、放火にあう&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-387|||魏の文侯没し、将軍呉起、楚に奔って相となる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-386|||コリント戦争終結し、小アジア、ペルシアの支配下に〔アンタルキダスの条約〕&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-386|||斉の田和、諸侯に列せられ、田斉始まる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-384|||秦、殉死を禁止&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-381|||楚の悼王没し、呉起、楚の貴族に殺される&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-376|||三晋、晋君静公を廃し、地を分割晋滅ぶ&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-376|||このころ墨子没&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-375|||韓、鄭を滅ぼし、新鄭に遷都&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-372|||このころ孟子(孟軻)生まれる 前372ころ‐前289ころ&size(6){(東アジア-中国、鄒-)};|| |-371|||レウクトラの戦いで、スパルタ破れ、テーベがギリシアの覇権を握る&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-369|||このころ荘子(荘周)生まれる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-367|||ローマ、リキニウス‐セクスティウス法制定され、貴族・平民の身分闘争一段落&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-367|||趙・韓、周を攻略、これより西周・東周に分裂&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-366|2|14|孝安天皇が押媛を皇后とする&size(6){(日本-日本-縄文時代 → 弥生時代)};|| |-362|||ギリシア、マンティネイアの戦いでエパミノンダス戦死、テーベ覇権を失う&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-359|||秦の孝公、商鞅を左庶長に任じ、変法を行う(『史記』六国年表では前356年)&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-357|||このころ斉の稷下の学、起こる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-355|8|14|孝昭天皇を掖上博多山上陵に葬る。&size(6){(日本-日本-縄文時代 → 弥生時代)};|| |-351|||申不害、韓の宰相となる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-350|||秦、咸陽に遷都、郡県制を布き、農地改革を断行し、度量衡を定める&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-347|||ギリシアの哲学者プラトン没(前427~)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-343|||3次にわたるサムニテス戦争~-290&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-343|||ローマ人とサムニウム人との戦争(~前341、第2回前328~前304、第3回前298~前291)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-342|||大日本根子彦太王瓊尊(孝霊天皇)生誕&size(6){(日本-日本-縄文時代 → 弥生時代)};|| |-341|||斉の将軍田忌・田嬰、孫 の計により魏軍を馬陵に破る魏の将軍 涓自殺、公子申、虜となる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-340|||ラテン戦争、ラティウム支配下へ~-338&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-340|||ローマ、ラティウムを制圧&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-340|||秦の商鞅、魏軍を破り、商に封じられる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-338|||カイロネイアの戦い-マケドニア王国vsギリシャ連合(マケドニアの勝利)。古代ヨーロッパ-[マケドニア]&size(6){(西欧-ギリシャ、マケドニア-)};|| |-338|||秦の孝公没し、商鞅、車裂きの刑に処される&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-336|||アレクサンドロス大王がマケドニアの王となる。古代ヨーロッパ-[マケドニア]&size(6){(西欧-ギリシャ-)};|| |-334|||アレクサンドロス大王が東方遠征を開始する。古代ヨーロッパ-[マケドニア]&size(6){(西欧-ギリシャ-)};|| |-334|||魏の恵王、恵施の策を用いて斉の威王と徐州に会し、ともに王を称す楚、越を滅ぼす&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-333|||アレクサンドロス大王、イッソスの戦でダレイオス3世を破る&size(6){(西欧-ギリシャ-)};|| |-333|||イッソスの戦い-マケドニアvsペルシア(マケドニアの勝利)。古代ヨーロッパ-[マケドニア]&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-333|||このころ蘇秦の合従策成り、蘇秦六国の宰相となる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-332|||このころ蘇秦、趙を去り、合従崩れる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-331|||マケドニアはエジプトに都市(アレクサンドリア)を建設するガウガメラの戦い-マケドニアvsペルシア(マケドニアの勝利)。古代ヨーロッパ-[マケドニア]&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-330|||COLOR(red):ペルシア帝国滅亡&size(6){(中東-イラク、ペルシャ-)};|| |-330|||アレクサンドロス大王はペルシアを制圧する。古代ヨーロッパ-[マケドニア]&size(6){(西欧-ギリシャ-)};|| |-328|||COLOR(red):マヤの古王国成立&size(6){(中南米-メキシコ、マヤ-)};|| |-328|||張儀、秦の相となる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-325|||秦の恵文君、王を称す&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-323|||アレクサンドロス(大王)没(前356~)&size(6){(西欧-ギリシャ-)};|| |-323|||アレクサンドロス大王が死去する[最大版図]。古代ヨーロッパ-[マケドニア]&size(6){(西欧-ギリシャ-)};|| |-323|||ディアドコイ戦争「後継者」の意味で、アレクサンドロスの武将たちのこと。前323年の大王の死後、互いに争い、勝ち残った三人がアンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトに分立した。&size(6){(西欧-ギリシャ、マケドニア、シリア、エジプト-)};|| |-323|||韓・燕、それぞれ王を称す&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-322|||COLOR(red):インドにマウリヤ朝成立&size(6){(南アジア-インド-)};|| |-322|||ギリシアの哲学者アリストテレス没(前384~)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-322|||張儀、秦の相を免ぜられ、魏の宰相となる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-318|||魏・趙・韓・楚・燕の五ヵ国、合従して秦を討ち、敗北&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-317|||COLOR(red):マウリヤ朝&size(6){(南アジア-インド-)};|| |-317|1|5|大日本根子彦太王瓊尊(孝霊天皇)立太子19歳&size(6){(日本-日本-縄文時代 → 弥生時代)};|| |-316|||秦、蜀を滅ぼす&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-314|||孟子&size(6){(東アジア-中国、鄒-)};|| |-313|||張儀、楚の相となる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-313|||このころ荀子(荀況)生まれる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-312|||ローマでアッピア街道の建設&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-312|||ローマでアッピア街道、アッピア水道の建設がはじまる&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-312|||ローマでアッピア街道建設開始&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-312|||COLOR(red):セレウコス朝シリア成立・セレウコス1世&size(6){(中東-シリア-)};|| |-312|||楚の懐王、秦を討って大敗し、漢中を取られる斬首八万&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-309|||秦、初めて丞相職を設け、樗里疾・甘茂を右丞相、左丞相に命ず張儀没&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-307|||ストア哲学&size(6){(西欧-キプロス-)};|| |-307|||趙の武霊王、「胡服騎射」を実施&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-305|||COLOR(red):プトレマイオス朝・プトレマイオス1世&size(6){(アフリカ-アフリカ-)};|| |-301|||イプソスの戦い&size(6){(アジア--)};|| |-300|||ユークリッド&size(6){(アフリカ-アフリカ-)};|| |-300|||ギリシアでユークリッド幾何学完成&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-300|>|>|''''無文土器時代後期(-300-100)(初期鉄器時代)''''&size(6){(東アジア-朝鮮、箕子朝鮮-無文土器時代後期)};|| |-300|||-300年ごろ、鉄器伝わる。&br;鉄器文化の普及.農業発達&size(6){(東アジア-朝鮮、箕子朝鮮-)};|| |-300|||COLOR(blue):BC300頃鉄器文化の普及&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、箕子朝鮮、衛氏朝鮮-)};|| |-299|||秦、楚の懐王を捕う秦の昭王、斉の孟嘗君を相に招く&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-298|||孟嘗君、秦より斉に逃げ帰り、相となる趙の恵文王、公孫勝を平原君に封じる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-296|||斉・韓・魏の三国、秦の函谷関に攻め入り、秦、和を求む趙、中山を滅ぼす&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-295|||趙の公子成・李兌、主父(武霊王)を包囲し、主父餓死す&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-293|||秦将白起、韓・魏の連合軍を伊闕に破り、斬首二十四万&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-291|1|9|孝安天皇崩御137歳&size(6){(日本-日本-弥生時代)};|| |-290|||サムニウム戦争終結&size(6){(ヨーロッパ-ヨーロッパ-)};|| |-290|1|12|COLOR(SandyBrown):第7代孝霊天皇が即位&size(6){(日本-日本-弥生時代)};|| |-289|||荘子(紀元前369年頃-紀元前286年頃)&size(6){(東アジア-宋-)};|| |-289|||このころ孟子没&size(6){(東アジア-中国、鄒-)};|| |-288|||秦の昭王、西帝と称し、斉の?王、東帝と称するも、二ヵ月後、王号にもどす&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-287|||ホルテンシウス法&size(6){(ヨーロッパ-ヨーロッパ-)};|| |-287|||ローマ、ホルテンシウス法制定、身分闘争終わる&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-286|||斉、宋を滅ぼす&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-286|||このころ荘子没&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-284|||燕・秦・趙・韓・魏の五国、斉を討つ燕将楽毅、斉都臨?に攻め入る稷下の学者離散&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-283|||アレキサンドリア灯台の建設&size(6){(アフリカ-アフリカ-)};|| |-282|||タレンツム戦争はじまる&size(6){(ヨーロッパ-ヨーロッパ-)};|| |-280|||ギリシアでアカイア同盟結成&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-280|||エペイロス王ピロス、南イタリアに侵入&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-280|||秦将白起、趙を討ち、斬首三万&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-279|||秦の昭王、趙の恵文王と 池に会す&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-279|||燕の昭王没し、楽毅、趙に奔る斉の田単、失地七十数城を一挙に回復孟嘗君没&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-279|||このころ稷下の学再興し、荀子、祭酒となる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-278|||秦将白起、楚を討ち、楚都郢を抜く楚、陳に遷都&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-277|||アンチゴノス=ゴナタス&size(6){(ヨーロッパ-ヨーロッパ-)};|| |-277|||COLOR(red):アンティゴノス朝マケドニア成立&size(6){(ヨーロッパ-ヨーロッパ-)};|| |-277|||白起、武安君に封ぜられる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-276|||プトレマイオス朝エジプト&size(6){(西欧-ギリシャ-)};|| |-276|||セレウコス朝シリア&size(6){(中東-シリア-)};|| |-276|||魏の公子無忌、信陵君に封ぜられる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-273|||アショカ王即位&size(6){(アジア--)};|| |-273|||大日本根子彦国牽尊(孝元天皇)生誕&size(6){(日本-日本-弥生時代)};|| |-272|||ローマの半島統一&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-272|||タレントゥムを破り全イタリア半島を支配下に&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-272|||ローマ、タレントゥムを占領し、イタリア半島を統一&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-271|||ギリシア、エピクロス学派の祖エピクロス没(前342/341)/-270&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-270|||共和政ローマがイタリアを統一する。古代ヨーロッパ-[ローマ]&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-270|||趙の将軍趙奢、秦軍を閼与に迎えて大破す&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-266|||秦の昭王、相国魏冉を罷免し、范雎を丞相として応侯に封ずる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-264|||BGCOLOR(lightgray):ポエニ戦争前3~前2世紀にかけて、ローマとカルタゴの西地中海の覇権をめぐって前後3回にわたった戦争。ローマはこの戦争に勝ち、多くの属州を獲得、世界帝国への歩みを始めた。&size(6){(アフリカ-アフリカ、イタリア、ローマ-)};|| |-264|||ポエニ戦争。地中海の覇権争い。共和政ローマとカルタゴ(ハンニバル将軍など)の戦いでローマの勝利。カルタゴの滅亡。~前146年。古代ヨーロッパ-[ローマ]&size(6){(アフリカ-チュニジア-)};|| |-264|||第1次ポエニ戦争(~-241)ローマがカルタゴからシチリア島を奪った戦争。シチリア島を獲得し最初の属州とする&size(6){(アフリカ-チュニジア、イタリア、ローマ-)};|| |-264|||ローマ・カルタゴ間に第一ポエニ戦争始まる(~前241)&size(6){(アフリカ-チュニジア、イタリア、ローマ-)};|| |-263|||COLOR(red):ペルガモン王国成立&size(6){(アジア--)};|| |-263|||ストア学派の祖ゼノン(キプロスの)没(前335ころ~)&size(6){(西欧-キプロス-)};|| |-262|||楚の考烈王即位し、黄歇を春申君に封ずる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-261|||趙・秦の両軍、長平に戦う&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-260|||趙の孝成王、廉頗を罷免し趙括を起用秦将白起、趙軍を長平に大破し、降卒四十万余を穴埋めにす&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-259||| 政(始皇帝)生まれる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-257|||秦の昭王、白起を殺す秦、趙の都邯鄲を包囲魏の信陵君・楚の春申君、趙を救う&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-256|||秦、西周を滅ぼす周の赧王没して、事実上、周、滅ぶ&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-256|||劉邦生まれる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-256|||COLOR(red):東周、秦に滅ぼされる&size(6){(東アジア-東周-東周)};|| |-255|||秦の昭王、范雎を罷免す&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-255|1|1|彦国牽尊(孝元天皇)立太子&size(6){(日本-日本-弥生時代)};|| |-254|||魏の安釐王、国を秦に委ねる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-250|||陰陽五行説&size(6){(アジア--)};|| |-250|||仏教結集&size(6){(アジア--)};|| |-250|||アルキメデス&size(6){(ヨーロッパ-ヨーロッパ-)};|| |-250|||ギリシアのアルキメデス、てこの原理、浮力の原理を発見&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-249|||秦の昭王、呂不韋を相国とする楚、魯を滅ぼす秦、東周を滅ぼし、周、完全に滅ぶ&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-248|||COLOR(red):バクトリア王国独立&size(6){(アジア--)};|| |-248|||COLOR(red):パルティア独立&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-247|||COLOR(SandyBrown):始皇帝が即位(~210)&size(6){(東アジア-秦-秦)};|| |-247|||秦、魏を討つ魏の信陵君、五ヵ国の軍を率いてこれを破る&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-246|||秦王の政即位&size(6){(東アジア-秦-秦)};|| |-246|||秦王政(始皇帝)即位呂不韋、幼君政にかわって執権&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-243|||信陵君没&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-241|||第一ポエニ戦争終わり、シチリア、ローマの属州(プロウィンキア)となる&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-241|||趙・楚・魏・燕・韓の五ヵ国、合従して秦を攻め、函谷関に敗れる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-238|||秦の長信侯 、反乱を企てて失敗楚の李園、春申君を殺す&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-238|||このころ荀子没&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-237|||呂不韋、相国を免じられ、李斯、用いられる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-235|||呂不韋自殺&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-233|||韓、韓非子(韓非)を使者として秦に派遣韓非、獄中で毒をあおぐ&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-232|||項羽生まれる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-230|||古代中国の記録(AD230)&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||三国時代(3世紀、AD230)以来、台湾本島の存在を知っていたことが示唆され、沖合の近辺の島々に大流求、小流求(日本語の琉球と語源的には一致するが、恐らく語義としては不一致)の名前が付けられている。しかしながら、これらの名称のいずれもが台湾本島とはっきり一致しているわけではない。漢は1200年代に澎湖諸島(ほうこ-しょとう)に定住を始めるが、台湾の敵対する部族と当時の貿易に価値あるものがないとの理由から、台湾が魅力あるものとはならず「時折、冒険家や漁師が物々交換をする」ことが16世紀後半まで続いた。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||インターネットを検索すると大琉球は沖縄本島周辺を、小琉球は台湾を指すことがあったと書いてあり、それらしいページが出てきます。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||三国通覧図説/琉球三省図&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||林子平「三国通覧図説」付図「琉球三省并三十六島之図」&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||ところがマテオリッチの描いた世界地図(坤輿万国全図)には台湾を大琉球としています。(この地図を表示するにはIEでは無理ですがFirefoxでは可能です。図が大きすぎるせいです)台湾のあたりで拡大すると「大琉球」と書いた島が見えます。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||そしてこの島の上を特別な線が横切っているのがわかり、それには「晝長線」としてあります。昼が長いのですから、これは北回帰線です。Altavistaなどで「晝長線」を検索すると中国語のページがヒットしその中に例えば『回歸線(圖中稱『晝長線』、『晝短線』)』とあります。これはマテオ・リッチの坤輿万国全図の説明で、「晝長線」が北回帰線であることがはっきりします。従って坤輿万国全図の大琉球は台湾です。坤輿万国全図が刊行されたのが1602年で、以下の文面からわかるように1544年にポルトガルが台湾を発見しています。だからマテオリッチは台湾の存在を知っているはずです。地図を描く際にマテオリッチは中国人の考えに合わせて地図を描いているそうですから、当時の中国の人が台湾を大琉球と呼び、現在の沖縄を小琉球と呼んだことが想定されます。当時の中国では台湾のことがあまり知られていなかったと考える方が自然です。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||明代から漢民族が移り住み、漢文化が浸透していった。清代にはその支配下に入り、中華民国に継承され、第二次世界大戦後は国共内戦で敗れた国民党政府が移り、実質的な独立国家となっている。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||台湾は古来、中国本土とは別個な文化圏にあった。中国の史料にも様々な名前で出てきて、一定しない。南部の台南の外港にタイオワンといわれたところがあり、その地名が後にこの島全体の名称となって台湾の字があてられるようになったらしい。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||東アジア交易圏の中継地としても栄え、明代には倭寇が活動し、17世紀以降ポルトガル、オランダ、スペインなどが進出、17世紀には鄭氏台湾が成立したが、清朝に服属した。1894年の日清戦争の結果として日本に割譲され、第二次世界大戦終了まで続く。戦後、国共内戦に敗れた国民党政府が中国本土から移り、台湾を統治するようになった。本土の中華人民共和国は台湾を領土と見なしているが、実質的には独立した国家となっている。ただし、1970年代に国連代表権は中華人民共和国に移ったため、アメリカ・日本なども台湾との外交関係を断ったため、独立した主権国家とは認められていない。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||人口希薄で肥沃な土地を豊富に擁していたとはいえ、台湾への入植は難業であった。激しい潮流によって知られる台湾海峡を小舟で渡っていくこと自体がすでに困難をきわめた。亜熱帯の台湾は、マラリヤ蚊が飛び交い、毒蛇が棲息する「化外の地」であった。漢族は台湾原住民を「生蕃」とみなし、彼らを既住の地から追い払おうとするものの、当然ながらそれへの抵抗は強力であった。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||こうした苦難を経験しながら移住民は亜熱帯の樹木が限りもなくつづくジャングルを切り開き、手つかずのままにおかれていた荒蕪地を開墾するという労苦に勇敢に挑んでいった。移住してきた華南住民の資産はなきに等しく、開墾は裸一貫のベンチャーであった。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||この時点で国民党軍は大陸で共産党軍との内戦のさなかにあった。しかし、経済管理と住民統治の能力を欠き、軍律に薄く、腐敗においてすさまじい国民党政権に対するアメリカの不信は根強いものであった。実際、台湾に敗走した国民党軍を追う共産党軍の「台湾侵攻」を目前に、トルーマン大統領は「台湾海峡不介入宣言」を公にしたのである。この絶体絶命の危機を救ったのが、1950年6月に勃発した朝鮮戦争であった。東アジア共産化の現実的脅威に直面したアメリカは「台湾海峡不介入宣言」をひるがえして「台湾海峡中立化政策」に転じ、第7艦隊を台湾海峡に派遣して国民党政権の台湾支配の起点を守った。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||台湾内省人は、国民党支配の間隙をぬって輸出中小工業部門に活路を求め、そこでの機敏な企業行動によって資産を形成し、中産層化していった。そして彼らが1980年代の後半期以降の台湾において政治的民主化を現実する主勢力となった。内省人の中産層化が台湾の民主化を促した内実であってみれば、台湾の民主化とは「台湾の台湾化」と同義である。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||17世紀後半期に華南沿海部からここに移住し、以来、大陸とは異質の歴史を紡いできた台湾住民がその国家運営にみずからの意思を正しく反映させることができるようになり、それがゆえに台湾住民の台湾意識、台湾人意識はいやがうえにも高揚したのである。台湾が伝統中国の正統的後継であるという虚構、台湾が中国の一部であるという虚構が音をたてて崩れつつあるのが現在である。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||中台統一は中国人民の「神聖なる使命、崇高なる目標」だといい、その主張を「理解し尊重する」という対応が、台湾住民を置き去りにしたものであることだけは確かである。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||例えば、疫病が蔓延していた台湾の衛生面を改善して伝染病の撲滅などに貢献した医学者の堀内次雄、台湾南部で大規模なダムと水路を組み合わせて広大な平野を一大穀倉地に作り替えた土木技師の八田與一、品種改良を重ねて台湾の気候に合った「蓬?米(ほうらいまい)」を生みだした農学者の磯永吉と農業技師の末永仁、台湾中心部の日月潭(じつげつたん)という湖に巨大な水力発電所を建設して島内の工業化を支えた実業家の松木幹一郎などの日本人が、現在の台湾でも「台湾の発展に寄与した功労者」として称えられています。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|>|>|''台湾、オランダ時代以前(-1624)''&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||マレーポリネシア系の先住民(原住民族)が住んでいた。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||台湾原住民族とは&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||台湾島とその周辺島嶼に古くから住んでいた台湾の先住民族は、17世紀ごろからスペイン、オランダ、清朝と外来勢力に翻弄される歴史を歩み、19世紀末からは日本、20世紀半ばから中華民国の統治を受けてきました。当時日本人は原住民族を「高砂族」と呼び、日本語教育や日本名を名乗らせるなどの同化政策を採りました。中華民国(国民党)政府も原住民族の漢民族への同化政策を採りました。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||しかし、1980年代から、台湾の民主化と呼応して民族としての権利獲得運動が徐々に成果を収めるようになり、各民族の総称も法律上、1994年には「原住民」、1997年には「原住民族」と改められました。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||各民族のプロフィール&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||台湾には現在、政府から公式に認定された16の原住民族がいます。タイヤル、タロコ、セデック、サイシャット、ブヌン、アミ、サキザヤ、サオ、ツォウ、プユマ、クヴァラン、パイワン、ルカイ、ヤミに加えて、サアロアとカナカナブが2014年6月に認定されたほか、現在申請している数集団があります。ほかに、漢民族との同化が進んでいる「平埔族」が10民族前後存在します。今後は、「あの人々と私たちは違うようだ」という人々の自意識やアイデンティティを根拠として民族として認めてもらおうとの運動が強まってくると見られています。タイヤルとタロコ、セデックのように、衣装や習慣、言語などの文化の差異は、見えにくいところもあります。また、異民族間の結婚が増えて、「私はタイヤルの父とパイワンの母の子どもです」という人々もでてきており、こうした人々は父、母どちらかの民族に帰属していくのか、「タイ・パイ族」と名乗る人もいて、ますます混とんとしてきています。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||民族が増えるにつれて、博物館の展示やその他情報を更新していくのも大変そうです。ある博物館の学芸員さん(サキザヤ出身の30代)によると「今後、百ぐらい民族が増えても大丈夫なように、館内の民族案内の施設はコンピュータを利用したものにしたい」と話していました。&br;原住民族の生活は時代にあわせてさまざまに変化しています。日本統治時代に紹介されてきた姿とは大きく異なってきています。若い世代を中心にかなりの人数が都市に居住していることも、台湾原住民族関係の資料を読むときに意識してほしいことです(人口データは2007年6月現在、民族プロフィールは原住民族委員会のHPも参照した)。&br;記述内容は当会の統一見解ではなく、執筆者個々に帰します。なお、各グループ名に「民族」とつけるか「族」とつけるかなど、呼称についても、会内で見解が分かれました。ここでの呼称は各執筆者の見解に従っており、あえて統一していないことをお断りしておきます。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||台湾原住民族別登記人口数統計表(2012年8月)&br;※台湾の総人口は、2287万6527人(2006年12月末)&br;阿美族(アミ)193,599人&br;泰雅族(タイヤル)83,329人&br;排灣族(パイワン)93,044人&br;布農族(ブヌン)54,117人&br;魯凱族(ルカイ)12,426人&br;卑南族(プユマ)12,780人&br;鄒族(ツォウ)1.33%&br;賽夏族(サイシャット)1.18%&br;雅美族(達悟族)&br;(ヤミまたはタオ)0.82%&br;邵族(サオ)0.14%(2001年8月、10番目の原住民族に認定)&br;?瑪蘭族(カヴァラン)0.25%(2002年12月、11番目の原住民族に認定)&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||太魯閣族(タロコ)28,199人(2004年1月、12番目の原住民族に認定、花蓮県を中心に居住、タイヤルと言語・文化を異にする)&br;賽德克族(セデック)8,073人(2008年4月、14番目の原住民族に認定)&br;拉阿魯哇族(サアロア)400~500人(2014年6月、15、16番目の原住民族に認定)&br;?那?那富族(カナカナブ)500人余り(2014年6月、15、16番目の原住民族に認定)&br;其他?人&br;未登記(尚未申報)19,166人&br;合計?人&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||【参考資料】&br;101年8月台?縣市原住民族人口-按性別族別&br;2008年セデックが第14の台湾原住民族に認定&br;2008年4月23日台湾週報&br;阿美族(アミ)、泰雅族(タイヤル)、排灣族(パイワン)、&br;布農族(ブヌン)、魯凱族(ルカイ)、卑南族(プユマ)、&br;鄒族(ツォウ)、賽夏族(サイシャット)、&br;雅美族(達悟族)(ヤミまたはタオ)、&br;邵族(サオ)(2001年8月、10番目の原住民族に認定)、&br;?瑪蘭族(カヴァラン)(2002年12月、11番目の原住民族に認定)、&br;太魯閣族(タロコ)(2004年1月、12番目の原住民族に認定)、&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||撤奇莱雅族(サキザヤ)(2007年1月、13番目の原住民族に認定)&br;2009年シラヤが台湾原住民族に認定を陳情&br;2009年6月25日自由電子報&br;自由県平埔族シラヤ文化協会が監察委員が台南を訪れて陳情を受け付ける機会を捉えて、シラヤの正名を陳情。&br;2014年カナカナブとサアロアが第15.16番目の台湾原住民族に認定&br;サアロア、カナカナブの正名&br;16世紀ごろになると倭寇という海賊の根拠地となります。倭寇というと日本人というイメージが強いのですが、前期は日本人。後期は中国人が主でした。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||秦、韓を滅ぼす&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-228|||秦、趙を滅ぼす趙の公子嘉、代に逃れ、自ら立って代王となる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-227|||燕の太子丹、荊軻をして秦王を刺殺せんとして失敗秦、燕を伐つ&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-225|||秦、魏を滅ぼす&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-224|||秦、二十万をもって楚を攻め、楚の将軍項燕を殺す&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-223|||秦、六十万をもって楚を攻め、楚、滅ぶ&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-222|||秦、燕を滅ぼす秦、代を滅ぼし、趙、完全に滅ぶ&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-221|||COLOR(red):秦の始皇帝が中国を統一&size(6){(東アジア-秦-秦)};|| |-221|||秦、斉を滅ぼし、秦の天下統一成る秦王政、始皇帝と称す秦、始まる(水徳・黒・北)&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-221|||李斯を丞相とし、郡県制を実施十月を歳首とする&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-220|||COLOR(red):アーンドラ朝成立&size(6){(アジア--)};|| |-220|||始皇帝、第一回巡幸&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-219|||始皇帝、第二回巡幸泰山に封禅の儀式を行う&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-218|||第2次ポエニ戦争(~-201)カルタゴの将軍ハンニバルがイタリアに侵入、ローマを脅かした戦い。&size(6){(アフリカ-チュニジア、イタリア、ローマ-)};|| |-218|||第二ポエニ戦争始まる(~前201)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-218|||始皇帝、第三回巡幸張良、博浪沙で始皇帝を襲撃、失敗に終わる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-216|||カンネーの戦い、カルタゴのハンニバルが勝利&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-216|||カンネーの戦いでローマ軍敗北&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-215|||蒙恬の匈奴討伐&size(6){(アジア--)};|| |-215|||第一マケドニア戦争始まる(~前205)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-215|||始皇帝、第四回巡幸方士盧生をして仙薬・仙人を求めしむ将軍蒙恬、匈奴を伐つ&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-215|2|8|孝霊天皇崩御128歳&size(6){(日本-日本-弥生時代)};|| |-214|||秦の南越経略&size(6){(東アジア-秦-秦)};|| |-214|||万里の長城を修築&size(6){(東アジア-秦-秦)};|| |-214|||万里の長城の建設始まる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-214|1|14|COLOR(SandyBrown):第8代孝元天皇が即位&size(6){(日本-日本-弥生時代)};|| |-213|||焚書&size(6){(アジア--)};|| |-213|||禁書令出る(医薬・卜筮・農業関係の書は除外いわゆる「焚書」)&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-212|||坑儒&size(6){(アジア--)};|| |-212|||阿房宮及び驪山の陵墓の造営始まる儒生四百六十余人を穴埋めにする(いわゆる「坑儒」)&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-211|3|11|孝元天皇は都を都を軽の境原宮(さかいはらのみや)に移す&size(6){(日本-日本-弥生時代)};|| |-210|||COLOR(SandyBrown):秦・?氏・・二世皇帝&size(6){(東アジア-秦-秦)};|| |-210|||始皇帝、第五回巡幸中、沙丘で死去末子胡亥(二世皇帝)即位始皇帝を驪山に葬る&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-209|||項羽と劉邦が挙兵&size(6){(アジア--)};|| |-209|||匈奴の冒頓単于&size(6){(アジア--)};|| |-209|||ローマの将スキピオ、カルタゴの根拠地カルタゴ・ノウァを攻略&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-209|||陳勝・呉広、大沢郷に挙兵劉邦、沛に挙兵項梁・項羽、呉に挙兵田?、斉に挙兵&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-209|9|6|孝霊天皇を片丘馬坂陵に葬る。&size(6){(日本-日本-弥生時代)};|| |-208|||陳勝・呉広、敗死項梁、定陶に敗死&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-208|||稚日本根子彦大日日尊生誕。(開化天皇)&size(6){(日本-日本-弥生時代)};|| |-208|2|2|孝元天皇が鬱色謎命を立てて皇后とする&size(6){(日本-日本-弥生時代)};|| |-207|||COLOR(SandyBrown):秦・?氏・・三世皇帝&size(6){(東アジア-秦-秦)};|| |-207|||項羽、鉅鹿に秦軍を破り、諸侯を掌握&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-207|||李斯、趙高の讒言により刑死趙高、二世皇帝を弑殺、子嬰を立てる秦王子嬰、趙高を殺す&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-206|||COLOR(red):秦滅亡&size(6){(東アジア-秦-秦)};|| |-206|||COLOR(SandyBrown):前漢・劉氏・・高祖(太祖)&size(6){(東アジア-前漢-前漢)};|| |-206|||秦王子嬰、劉邦に降り、秦、滅ぶ&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-206|||劉邦、法三章を約す&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-206|||項羽と劉邦、鴻門に会す&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-206|||項羽、咸陽に入り、子嬰を弑し、宮殿を焼く&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-206|||項羽、懐王を立てて義帝とし、劉邦以下十八人を諸侯王に封ずる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-206|||項羽の論功行賞に不満の諸侯、反旗を挙げる漢の高祖元年&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-205|||劉邦、韓信の計をいれ、漢中から出て、三秦を平定楚・漢の戦い始まる項羽、義帝を弑す&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-205|||劉邦、諸侯の軍五十六万を率いて楚都彭城を攻め、大敗す&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-204|||韓信、趙を破る項羽、 陽・成皋を抜く劉邦、関内に逃れる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-203|||韓信、斉を破る項羽と劉邦、広武で対戦項羽と劉邦、天下を鴻溝で二分し、東を楚、西を漢とする&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-202|||ザマの戦い(第2次ポエニ戦争の終結。ローマが西地中海の覇権を握る。)&size(6){(アフリカ-アフリカ、イタリア、ローマ-)};|| |-202|||ザマの戦いでスキピオ(大)、ハンニバルを破る(翌年第二ポエニ戦争終結)&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-202|||COLOR(red):劉邦、項羽を破り、漢王朝成立(前漢)&size(6){(東アジア-前漢-前漢)};|| |-202|||劉邦、協約を破って項羽を攻め、垓下に包囲項羽、烏江で自刎す&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-202|||漢の天下統一劉邦、皇帝の位(高祖)につく漢、始まる(土徳・黄・中央)&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-201|||西地中海の覇権を獲得&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-201|||高祖、楚王韓信を淮陰侯に降格叔孫通、漢の朝儀を制定&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-200|||高祖が冒頓単于に屈辱的和議&size(6){(アジア--)};|| |-200|||ローマ・マケドニア間に第二マケドニア戦争開始(~前197)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-200|||高祖、自ら韓王信を伐ち、平城で匈奴の軍に七日間包囲される&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-200|>|>|''続縄文時代[2世紀-7世紀]''&size(6){(日本-日本-)};|| |-200|>|>|''弥生前期→弥生中期''&size(6){(日本-日本-)};|| |-200|||弥生中期紀元前2世紀、高地性集落出現(中期?後期)&br;小国の分立(『漢書』地理志, 『後漢書』東夷伝)&br;墳丘墓出現(吉野ヶ里遺跡)&size(6){(日本-日本-)};||
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|-500|||イオニア植民市のポリスがペルシアに反抗〔イオニアの反乱〕、ペルシア戦争始まる(~前450/449)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-500|||ペルシア戦争(マラトンの戦い/サラミスの海戦など)ギリシャ連合軍vsペルシア(ギリシャ勝利)~前449年。古代ヨーロッパ-[エーゲ海沿岸等]&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-500|||魯、斉と夾谷に会盟し、孔子随行す&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-500|||菜畑遺跡で水田稲作&br;水田稲作が広まる&br;青銅器と鉄器が大陸から伝わる&size(6){(日本-日本-縄文時代 → 弥生時代)};|| |-500|>|>|''縄文晩期→弥生前期''&size(6){(日本-日本-)};|| | | | |CENTER:&size(20){弥生前期};&size(6){(日本-日本-)};||h |-500|||BGCOLOR(lightgray):弥生前期紀元前1世紀、石器は減少し、鉄製工具普及。&br;鉄製の刃の鍬・鋤を使用&br;乾田の開発&br;邪馬台国連合の形成(『魏志』倭人伝)&br;大型の墳丘墓出現&size(6){(日本-日本-)};|| |-499|||ヒンドゥー教&size(6){(中東-イラン、ペルシャ-)};|| |-498|||孔子、魯を去る(14年後、帰国)&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-496|||呉王闔廬(闔閭)、越王句践(勾践)と戦い敗死&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-495|||貴族に反発した平民が聖山に立てこもる&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-494|||平民会と護民官の設置&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-494|||ローマの平民(プレブス)、聖山に退去、護民官制成立〔聖山事件〕&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-494|||護民官-平民代表が政治に参加可能(古代ローマの公職)。古代ヨーロッパ-[エーゲ海沿岸等]&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-494|||ペロポネソス同盟-スパルタを中心としたポリス間の軍事同盟-6世紀末。古代ヨーロッパ-[エーゲ海沿岸等]&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-494|||呉王夫差、句践を会稽に破る(会稽の恥)&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-492|||ペルシャ戦争はじまる&size(6){(中東-イラン、ペルシャ-)};|| |-490|||マラトンの戦いでギリシア軍がペルシア軍を破る〔ペルシア戦争〕&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-489|||このころ顔回没&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-489|2|12|観松彦香殖稲尊(孝昭天皇)立太子&size(6){(日本-日本-縄文時代)};|| |-484|||呉王夫差、斉を艾陵に破る伍子胥、夫差より死を賜り自殺&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-484|||孔子、諸国遊歴の末、魯に帰国&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-483|||このころ子思(孔 )生まれる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-482|||呉王夫差、黄池で覇権を争う間に、越王句践が呉に侵寇呉、大敗す&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-481|||魯、麒麟を捕獲孔子『春秋』を整理春秋時代終わる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-480|||テルモピレーの戦いでスパルタ王レオニダス戦死。サラミスの海戦でアテネのテミストクレスの艦隊がクセルクセス1世の率いるペルシア軍を破る〔ペルシア戦争〕&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-480|||衛の 、出公を追放し、即位(荘公)孔子の弟子子路、敗死す&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-479|||プラタイアイの戦いでギリシア軍がペルシア軍を破る〔ペルシア戦争〕&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-479|||孔子死す享年73&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-478|||デロス同盟-アテネを中心としたポリス間の軍事同盟。古代ヨーロッパ-[エーゲ海沿岸等]&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-478|||越王句践、呉を笠沢に破る楚、陳を滅ぼす&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-477|||ギリシア、デロス同盟結成&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-477|9|8|第4代懿徳天皇崩御、(大日本彦耜友尊)(天皇(4代))<77歳>&size(6){(日本-日本-縄文時代)};|| |-476|10|13|懿徳天皇を畝傍山南繊沙谿上陵に葬る&size(6){(日本-日本-縄文時代)};|| |-473|||越王句践、呉を滅ぼして覇者となる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-473|1|9|COLOR(SandyBrown):第5代孝昭天皇が即位&size(6){(日本-日本-縄文時代)};|| |-473|7||孝昭天皇が都を掖上の池心宮に移す。&size(6){(日本-日本-縄文時代)};|| |-472|||ギリシャ3大悲劇&size(6){(西欧-ギリシャ-)};|| |-468|||このころ墨子(墨 )生まれる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-465|||越王句践没&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-453|||韓・魏・趙の三氏、智伯を滅ぼし、地を三分すこれより三晋興る戦国時代の起点(1)(~前221年)&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-451|||十二表法成立&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-451|||ローマ、十二表法・十表までを成文化 &size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-450|>|>|''ギリシア文化の全盛時代''&size(6){( - -)};|| |-447|||楚の恵王、蔡を滅ぼす&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-447|1|3|孝昭天皇が世襲足媛を皇后とする。&size(6){(日本-日本-縄文時代)};|| |-443|||ペリクレスの執政(~前429)、アテネの全盛期&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-435|||このころ曾子没&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-431|||仏教成立&size(6){( - -)};|| |-431|||ペロポネソス戦争はじまる&size(6){(ヨーロッパ-ヨーロッパ-)};|| |-431|||ギリシアでペロポネソス戦争始まる(~前404)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-431|||パルテノン神殿が完成する。古代ヨーロッパ-[エーゲ海沿岸等]&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-431|||ペロポネソス戦争-アテネvsスパルタ(スパルタの勝利)~前404年。古代ヨーロッパ-[エーゲ海沿岸等]&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-430|||ヘロドトスの「歴史」&size(6){(ヨーロッパ-ヨーロッパ-)};|| |-427|||日本足彦国押人皇子(孝安天皇)生誕&size(6){(日本-日本-縄文時代)};|| |-424|||魏の文侯、即位これより魏、盛んとなる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-420|||ギリシアのデモクリトス、原子論を体系づける&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-415|||アテネ軍シチリア島に遠征、敗北(~前413)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-408|1|14|日本足彦国押人皇子(孝安天皇)が皇太子となる&size(6){(日本-日本-縄文時代)};|| |-404|||アテネ、スパルタに降伏し、ペロポネソス戦争終結&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-403|||周の威烈王、韓・魏・趙を諸侯に列す戦国時代の起点(2)(~前221年)&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-403|||中国、戦国時代に(B.C.403~B.C.221)・・文侯(魏)・悼王(楚)・孝公(秦)・威王(斉)・武霊王(趙)・?政(後の始皇帝)(秦)()内は国名。&size(6){(東アジア-中国、魏・楚・秦・斉・趙・秦-戦国時代)};|| |-403|>|>|''中国、戦国時代に(B.C.403~B.C.221)''&size(6){(東アジア-中国、魏・楚・秦・斉・趙・秦-戦国時代)};|| |-402|||このころ子思没&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-400|||ヒポクラテス、ギリシア医学を大成&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-400|||''箕子朝鮮(BC4世紀~BC194年)''&size(6){(東アジア-朝鮮、箕子朝鮮-箕子朝鮮)};|| |-400|||''BC400年頃'' COLOR(green):鉄器文化が普及する。&size(6){(東アジア-朝鮮、箕子朝鮮-鉄器文化)};|| |-400|||RIGHT:COLOR(green):鉄器文化が普及する。 ''BC400年頃''&size(6){(東アジア-朝鮮、箕子朝鮮-)};|| |-400|>|>|''縄文晩期→弥生前期''&size(6){(日本-日本-縄文時代 → 弥生時代)};|| |-400|>|>|''縄文時代→弥生時代[紀元前4世紀頃~250年頃]''&size(6){(日本-日本-縄文時代 → 弥生時代)};|| |>|>|>|集落(ムラ)から小国(クニ)が誕生する。&br;縄文土器が弥生土器となる。&br;金属(銅、青銅、鉄)が伝わり青銅器、鉄器、銅剣、銅矛、銅鐸などが製造される。&br;農耕は鉄製農具や水田が湿田から乾田に変わり生産性が高まった。&br;集落が周囲を堀と柵で囲った環濠集落(かんごうしゅうらく)へと進化する。環濠集落の代表的な遺跡が吉野ヶ里遺跡。更に狼煙台などの軍事目的の高地性集落も出現する。&size(6){(日本-日本-縄文時代 → 弥生時代)};|| |-399|||ギリシアの哲学者ソクラテス没(前470/469~)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-397|||聶政、韓の宰相侠累を刺殺&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-396|||ローマ、南エトルリアのウェイイ占領&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-395|||コリント、アテネ、テーベなどがペルシアの援助をうけ、同盟してスパルタと戦う〔コリント戦争(~前386)〕&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-393|8|5|孝昭天皇崩御。(觀松彦香殖稻尊)(天皇(5代))<114歳>&size(6){(日本-日本-縄文時代 → 弥生時代)};|| |-392|1|7|COLOR(SandyBrown):第6代孝安天皇が即位&size(6){(日本-日本-縄文時代 → 弥生時代)};|| |-391|10||孝安天皇が都を室に移す。室秋津島宮&size(6){(日本-日本-縄文時代 → 弥生時代)};|| |-390|||ケルト人のローマ侵略&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-390|||このころ、墨子、魯の陽文君に説く&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-387|||ローマがケルト人による掠奪、放火にあう&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-387|||魏の文侯没し、将軍呉起、楚に奔って相となる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-386|||コリント戦争終結し、小アジア、ペルシアの支配下に〔アンタルキダスの条約〕&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-386|||斉の田和、諸侯に列せられ、田斉始まる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-384|||秦、殉死を禁止&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-381|||楚の悼王没し、呉起、楚の貴族に殺される&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-376|||三晋、晋君静公を廃し、地を分割晋滅ぶ&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-376|||このころ墨子没&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-375|||韓、鄭を滅ぼし、新鄭に遷都&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-372|||このころ孟子(孟軻)生まれる 前372ころ‐前289ころ&size(6){(東アジア-中国、鄒-)};|| |-371|||レウクトラの戦いで、スパルタ破れ、テーベがギリシアの覇権を握る&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-369|||このころ荘子(荘周)生まれる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-367|||ローマ、リキニウス‐セクスティウス法制定され、貴族・平民の身分闘争一段落&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-367|||趙・韓、周を攻略、これより西周・東周に分裂&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-366|2|14|孝安天皇が押媛を皇后とする&size(6){(日本-日本-縄文時代 → 弥生時代)};|| |-362|||ギリシア、マンティネイアの戦いでエパミノンダス戦死、テーベ覇権を失う&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-359|||秦の孝公、商鞅を左庶長に任じ、変法を行う(『史記』六国年表では前356年)&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-357|||このころ斉の稷下の学、起こる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-355|8|14|孝昭天皇を掖上博多山上陵に葬る。&size(6){(日本-日本-縄文時代 → 弥生時代)};|| |-351|||申不害、韓の宰相となる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-350|||秦、咸陽に遷都、郡県制を布き、農地改革を断行し、度量衡を定める&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-347|||ギリシアの哲学者プラトン没(前427~)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-343|||3次にわたるサムニテス戦争~-290&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-343|||ローマ人とサムニウム人との戦争(~前341、第2回前328~前304、第3回前298~前291)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-342|||大日本根子彦太王瓊尊(孝霊天皇)生誕&size(6){(日本-日本-縄文時代 → 弥生時代)};|| |-341|||斉の将軍田忌・田嬰、孫 の計により魏軍を馬陵に破る魏の将軍 涓自殺、公子申、虜となる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-340|||ラテン戦争、ラティウム支配下へ~-338&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-340|||ローマ、ラティウムを制圧&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-340|||秦の商鞅、魏軍を破り、商に封じられる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-338|||カイロネイアの戦い-マケドニア王国vsギリシャ連合(マケドニアの勝利)。古代ヨーロッパ-[マケドニア]&size(6){(西欧-ギリシャ、マケドニア-)};|| |-338|||秦の孝公没し、商鞅、車裂きの刑に処される&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-336|||アレクサンドロス大王がマケドニアの王となる。古代ヨーロッパ-[マケドニア]&size(6){(西欧-ギリシャ-)};|| |-334|||アレクサンドロス大王が東方遠征を開始する。古代ヨーロッパ-[マケドニア]&size(6){(西欧-ギリシャ-)};|| |-334|||魏の恵王、恵施の策を用いて斉の威王と徐州に会し、ともに王を称す楚、越を滅ぼす&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-333|||アレクサンドロス大王、イッソスの戦でダレイオス3世を破る&size(6){(西欧-ギリシャ-)};|| |-333|||イッソスの戦い-マケドニアvsペルシア(マケドニアの勝利)。古代ヨーロッパ-[マケドニア]&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-333|||このころ蘇秦の合従策成り、蘇秦六国の宰相となる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-332|||このころ蘇秦、趙を去り、合従崩れる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-331|||マケドニアはエジプトに都市(アレクサンドリア)を建設するガウガメラの戦い-マケドニアvsペルシア(マケドニアの勝利)。古代ヨーロッパ-[マケドニア]&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-330|||COLOR(red):ペルシア帝国滅亡&size(6){(中東-イラク、ペルシャ-)};|| |-330|||アレクサンドロス大王はペルシアを制圧する。古代ヨーロッパ-[マケドニア]&size(6){(西欧-ギリシャ-)};|| |-328|||COLOR(red):マヤの古王国成立&size(6){(中南米-メキシコ、マヤ-)};|| |-328|||張儀、秦の相となる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-325|||秦の恵文君、王を称す&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-323|||アレクサンドロス(大王)没(前356~)&size(6){(西欧-ギリシャ-)};|| |-323|||アレクサンドロス大王が死去する[最大版図]。古代ヨーロッパ-[マケドニア]&size(6){(西欧-ギリシャ-)};|| |-323|||ディアドコイ戦争「後継者」の意味で、アレクサンドロスの武将たちのこと。前323年の大王の死後、互いに争い、勝ち残った三人がアンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトに分立した。&size(6){(西欧-ギリシャ、マケドニア、シリア、エジプト-)};|| |-323|||韓・燕、それぞれ王を称す&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-322|||COLOR(red):インドにマウリヤ朝成立&size(6){(南アジア-インド-)};|| |-322|||ギリシアの哲学者アリストテレス没(前384~)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-322|||張儀、秦の相を免ぜられ、魏の宰相となる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-318|||魏・趙・韓・楚・燕の五ヵ国、合従して秦を討ち、敗北&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-317|||COLOR(red):マウリヤ朝&size(6){(南アジア-インド-)};|| |-317|1|5|大日本根子彦太王瓊尊(孝霊天皇)立太子19歳&size(6){(日本-日本-縄文時代 → 弥生時代)};|| |-316|||秦、蜀を滅ぼす&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-314|||孟子&size(6){(東アジア-中国、鄒-)};|| |-313|||張儀、楚の相となる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-313|||このころ荀子(荀況)生まれる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-312|||ローマでアッピア街道の建設&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-312|||ローマでアッピア街道、アッピア水道の建設がはじまる&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-312|||ローマでアッピア街道建設開始&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-312|||COLOR(red):セレウコス朝シリア成立・セレウコス1世&size(6){(中東-シリア-)};|| |-312|||楚の懐王、秦を討って大敗し、漢中を取られる斬首八万&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-309|||秦、初めて丞相職を設け、樗里疾・甘茂を右丞相、左丞相に命ず張儀没&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-307|||ストア哲学&size(6){(西欧-キプロス-)};|| |-307|||趙の武霊王、「胡服騎射」を実施&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-305|||COLOR(red):プトレマイオス朝・プトレマイオス1世&size(6){(アフリカ-アフリカ-)};|| |-301|||イプソスの戦い&size(6){(アジア--)};|| |-300|||ユークリッド&size(6){(アフリカ-アフリカ-)};|| |-300|||ギリシアでユークリッド幾何学完成&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-300|>|>|''''無文土器時代後期(-300-100)(初期鉄器時代)''''&size(6){(東アジア-朝鮮、箕子朝鮮-無文土器時代後期)};|| |-300|||-300年ごろ、鉄器伝わる。&br;鉄器文化の普及.農業発達&size(6){(東アジア-朝鮮、箕子朝鮮-)};|| |-300|||COLOR(blue):BC300頃鉄器文化の普及&deco(blue,paleturquoise,9){国史年表};&size(6){(国史年表)};&size(6){(東アジア-朝鮮、箕子朝鮮、衛氏朝鮮-)};|| |-299|||秦、楚の懐王を捕う秦の昭王、斉の孟嘗君を相に招く&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-298|||孟嘗君、秦より斉に逃げ帰り、相となる趙の恵文王、公孫勝を平原君に封じる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-296|||斉・韓・魏の三国、秦の函谷関に攻め入り、秦、和を求む趙、中山を滅ぼす&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-295|||趙の公子成・李兌、主父(武霊王)を包囲し、主父餓死す&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-293|||秦将白起、韓・魏の連合軍を伊闕に破り、斬首二十四万&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-291|1|9|孝安天皇崩御137歳&size(6){(日本-日本-弥生時代)};|| |-290|||サムニウム戦争終結&size(6){(ヨーロッパ-ヨーロッパ-)};|| |-290|1|12|COLOR(SandyBrown):第7代孝霊天皇が即位&size(6){(日本-日本-弥生時代)};|| |-289|||荘子(紀元前369年頃-紀元前286年頃)&size(6){(東アジア-宋-)};|| |-289|||このころ孟子没&size(6){(東アジア-中国、鄒-)};|| |-288|||秦の昭王、西帝と称し、斉の?王、東帝と称するも、二ヵ月後、王号にもどす&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-287|||ホルテンシウス法&size(6){(ヨーロッパ-ヨーロッパ-)};|| |-287|||ローマ、ホルテンシウス法制定、身分闘争終わる&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-286|||斉、宋を滅ぼす&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-286|||このころ荘子没&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-284|||燕・秦・趙・韓・魏の五国、斉を討つ燕将楽毅、斉都臨?に攻め入る稷下の学者離散&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-283|||アレキサンドリア灯台の建設&size(6){(アフリカ-アフリカ-)};|| |-282|||タレンツム戦争はじまる&size(6){(ヨーロッパ-ヨーロッパ-)};|| |-280|||ギリシアでアカイア同盟結成&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-280|||エペイロス王ピロス、南イタリアに侵入&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-280|||秦将白起、趙を討ち、斬首三万&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-279|||秦の昭王、趙の恵文王と 池に会す&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-279|||燕の昭王没し、楽毅、趙に奔る斉の田単、失地七十数城を一挙に回復孟嘗君没&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-279|||このころ稷下の学再興し、荀子、祭酒となる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-278|||秦将白起、楚を討ち、楚都郢を抜く楚、陳に遷都&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-277|||アンチゴノス=ゴナタス&size(6){(ヨーロッパ-ヨーロッパ-)};|| |-277|||COLOR(red):アンティゴノス朝マケドニア成立&size(6){(ヨーロッパ-ヨーロッパ-)};|| |-277|||白起、武安君に封ぜられる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-276|||プトレマイオス朝エジプト&size(6){(西欧-ギリシャ-)};|| |-276|||セレウコス朝シリア&size(6){(中東-シリア-)};|| |-276|||魏の公子無忌、信陵君に封ぜられる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-273|||アショカ王即位&size(6){(アジア--)};|| |-273|||大日本根子彦国牽尊(孝元天皇)生誕&size(6){(日本-日本-弥生時代)};|| |-272|||ローマの半島統一&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-272|||タレントゥムを破り全イタリア半島を支配下に&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-272|||ローマ、タレントゥムを占領し、イタリア半島を統一&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-271|||ギリシア、エピクロス学派の祖エピクロス没(前342/341)/-270&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-270|||共和政ローマがイタリアを統一する。古代ヨーロッパ-[ローマ]&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-270|||趙の将軍趙奢、秦軍を閼与に迎えて大破す&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-266|||秦の昭王、相国魏冉を罷免し、范雎を丞相として応侯に封ずる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-264|||BGCOLOR(lightgray):ポエニ戦争前3~前2世紀にかけて、ローマとカルタゴの西地中海の覇権をめぐって前後3回にわたった戦争。ローマはこの戦争に勝ち、多くの属州を獲得、世界帝国への歩みを始めた。&size(6){(アフリカ-アフリカ、イタリア、ローマ-)};|| |-264|||ポエニ戦争。地中海の覇権争い。共和政ローマとカルタゴ(ハンニバル将軍など)の戦いでローマの勝利。カルタゴの滅亡。~前146年。古代ヨーロッパ-[ローマ]&size(6){(アフリカ-チュニジア-)};|| |-264|||第1次ポエニ戦争(~-241)ローマがカルタゴからシチリア島を奪った戦争。シチリア島を獲得し最初の属州とする&size(6){(アフリカ-チュニジア、イタリア、ローマ-)};|| |-264|||ローマ・カルタゴ間に第一ポエニ戦争始まる(~前241)&size(6){(アフリカ-チュニジア、イタリア、ローマ-)};|| |-263|||COLOR(red):ペルガモン王国成立&size(6){(アジア--)};|| |-263|||ストア学派の祖ゼノン(キプロスの)没(前335ころ~)&size(6){(西欧-キプロス-)};|| |-262|||楚の考烈王即位し、黄歇を春申君に封ずる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-261|||趙・秦の両軍、長平に戦う&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-260|||趙の孝成王、廉頗を罷免し趙括を起用秦将白起、趙軍を長平に大破し、降卒四十万余を穴埋めにす&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-259||| 政(始皇帝)生まれる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-257|||秦の昭王、白起を殺す秦、趙の都邯鄲を包囲魏の信陵君・楚の春申君、趙を救う&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-256|||秦、西周を滅ぼす周の赧王没して、事実上、周、滅ぶ&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-256|||劉邦生まれる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-256|||COLOR(red):東周、秦に滅ぼされる&size(6){(東アジア-東周-東周)};|| |-255|||秦の昭王、范雎を罷免す&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-255|1|1|彦国牽尊(孝元天皇)立太子&size(6){(日本-日本-弥生時代)};|| |-254|||魏の安釐王、国を秦に委ねる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-250|||陰陽五行説&size(6){(アジア--)};|| |-250|||仏教結集&size(6){(アジア--)};|| |-250|||アルキメデス&size(6){(ヨーロッパ-ヨーロッパ-)};|| |-250|||ギリシアのアルキメデス、てこの原理、浮力の原理を発見&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-249|||秦の昭王、呂不韋を相国とする楚、魯を滅ぼす秦、東周を滅ぼし、周、完全に滅ぶ&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-248|||COLOR(red):バクトリア王国独立&size(6){(アジア--)};|| |-248|||COLOR(red):パルティア独立&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-247|||COLOR(SandyBrown):始皇帝が即位(~210)&size(6){(東アジア-秦-秦)};|| |-247|||秦、魏を討つ魏の信陵君、五ヵ国の軍を率いてこれを破る&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-246|||秦王の政即位&size(6){(東アジア-秦-秦)};|| |-246|||秦王政(始皇帝)即位呂不韋、幼君政にかわって執権&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-243|||信陵君没&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-241|||第一ポエニ戦争終わり、シチリア、ローマの属州(プロウィンキア)となる&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-241|||趙・楚・魏・燕・韓の五ヵ国、合従して秦を攻め、函谷関に敗れる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-238|||秦の長信侯 、反乱を企てて失敗楚の李園、春申君を殺す&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-238|||このころ荀子没&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-237|||呂不韋、相国を免じられ、李斯、用いられる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-235|||呂不韋自殺&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-233|||韓、韓非子(韓非)を使者として秦に派遣韓非、獄中で毒をあおぐ&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-232|||項羽生まれる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-230|||古代中国の記録(AD230)&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||三国時代(3世紀、AD230)以来、台湾本島の存在を知っていたことが示唆され、沖合の近辺の島々に大流求、小流求(日本語の琉球と語源的には一致するが、恐らく語義としては不一致)の名前が付けられている。しかしながら、これらの名称のいずれもが台湾本島とはっきり一致しているわけではない。漢は1200年代に澎湖諸島(ほうこ-しょとう)に定住を始めるが、台湾の敵対する部族と当時の貿易に価値あるものがないとの理由から、台湾が魅力あるものとはならず「時折、冒険家や漁師が物々交換をする」ことが16世紀後半まで続いた。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||インターネットを検索すると大琉球は沖縄本島周辺を、小琉球は台湾を指すことがあったと書いてあり、それらしいページが出てきます。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||三国通覧図説/琉球三省図&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||林子平「三国通覧図説」付図「琉球三省并三十六島之図」&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||ところがマテオリッチの描いた世界地図(坤輿万国全図)には台湾を大琉球としています。(この地図を表示するにはIEでは無理ですがFirefoxでは可能です。図が大きすぎるせいです)台湾のあたりで拡大すると「大琉球」と書いた島が見えます。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||そしてこの島の上を特別な線が横切っているのがわかり、それには「晝長線」としてあります。昼が長いのですから、これは北回帰線です。Altavistaなどで「晝長線」を検索すると中国語のページがヒットしその中に例えば『回歸線(圖中稱『晝長線』、『晝短線』)』とあります。これはマテオ・リッチの坤輿万国全図の説明で、「晝長線」が北回帰線であることがはっきりします。従って坤輿万国全図の大琉球は台湾です。坤輿万国全図が刊行されたのが1602年で、以下の文面からわかるように1544年にポルトガルが台湾を発見しています。だからマテオリッチは台湾の存在を知っているはずです。地図を描く際にマテオリッチは中国人の考えに合わせて地図を描いているそうですから、当時の中国の人が台湾を大琉球と呼び、現在の沖縄を小琉球と呼んだことが想定されます。当時の中国では台湾のことがあまり知られていなかったと考える方が自然です。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||明代から漢民族が移り住み、漢文化が浸透していった。清代にはその支配下に入り、中華民国に継承され、第二次世界大戦後は国共内戦で敗れた国民党政府が移り、実質的な独立国家となっている。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||台湾は古来、中国本土とは別個な文化圏にあった。中国の史料にも様々な名前で出てきて、一定しない。南部の台南の外港にタイオワンといわれたところがあり、その地名が後にこの島全体の名称となって台湾の字があてられるようになったらしい。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||東アジア交易圏の中継地としても栄え、明代には倭寇が活動し、17世紀以降ポルトガル、オランダ、スペインなどが進出、17世紀には鄭氏台湾が成立したが、清朝に服属した。1894年の日清戦争の結果として日本に割譲され、第二次世界大戦終了まで続く。戦後、国共内戦に敗れた国民党政府が中国本土から移り、台湾を統治するようになった。本土の中華人民共和国は台湾を領土と見なしているが、実質的には独立した国家となっている。ただし、1970年代に国連代表権は中華人民共和国に移ったため、アメリカ・日本なども台湾との外交関係を断ったため、独立した主権国家とは認められていない。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||人口希薄で肥沃な土地を豊富に擁していたとはいえ、台湾への入植は難業であった。激しい潮流によって知られる台湾海峡を小舟で渡っていくこと自体がすでに困難をきわめた。亜熱帯の台湾は、マラリヤ蚊が飛び交い、毒蛇が棲息する「化外の地」であった。漢族は台湾原住民を「生蕃」とみなし、彼らを既住の地から追い払おうとするものの、当然ながらそれへの抵抗は強力であった。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||こうした苦難を経験しながら移住民は亜熱帯の樹木が限りもなくつづくジャングルを切り開き、手つかずのままにおかれていた荒蕪地を開墾するという労苦に勇敢に挑んでいった。移住してきた華南住民の資産はなきに等しく、開墾は裸一貫のベンチャーであった。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||この時点で国民党軍は大陸で共産党軍との内戦のさなかにあった。しかし、経済管理と住民統治の能力を欠き、軍律に薄く、腐敗においてすさまじい国民党政権に対するアメリカの不信は根強いものであった。実際、台湾に敗走した国民党軍を追う共産党軍の「台湾侵攻」を目前に、トルーマン大統領は「台湾海峡不介入宣言」を公にしたのである。この絶体絶命の危機を救ったのが、1950年6月に勃発した朝鮮戦争であった。東アジア共産化の現実的脅威に直面したアメリカは「台湾海峡不介入宣言」をひるがえして「台湾海峡中立化政策」に転じ、第7艦隊を台湾海峡に派遣して国民党政権の台湾支配の起点を守った。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||台湾内省人は、国民党支配の間隙をぬって輸出中小工業部門に活路を求め、そこでの機敏な企業行動によって資産を形成し、中産層化していった。そして彼らが1980年代の後半期以降の台湾において政治的民主化を現実する主勢力となった。内省人の中産層化が台湾の民主化を促した内実であってみれば、台湾の民主化とは「台湾の台湾化」と同義である。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||17世紀後半期に華南沿海部からここに移住し、以来、大陸とは異質の歴史を紡いできた台湾住民がその国家運営にみずからの意思を正しく反映させることができるようになり、それがゆえに台湾住民の台湾意識、台湾人意識はいやがうえにも高揚したのである。台湾が伝統中国の正統的後継であるという虚構、台湾が中国の一部であるという虚構が音をたてて崩れつつあるのが現在である。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||中台統一は中国人民の「神聖なる使命、崇高なる目標」だといい、その主張を「理解し尊重する」という対応が、台湾住民を置き去りにしたものであることだけは確かである。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||例えば、疫病が蔓延していた台湾の衛生面を改善して伝染病の撲滅などに貢献した医学者の堀内次雄、台湾南部で大規模なダムと水路を組み合わせて広大な平野を一大穀倉地に作り替えた土木技師の八田與一、品種改良を重ねて台湾の気候に合った「蓬?米(ほうらいまい)」を生みだした農学者の磯永吉と農業技師の末永仁、台湾中心部の日月潭(じつげつたん)という湖に巨大な水力発電所を建設して島内の工業化を支えた実業家の松木幹一郎などの日本人が、現在の台湾でも「台湾の発展に寄与した功労者」として称えられています。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|>|>|''台湾、オランダ時代以前(-1624)''&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||マレーポリネシア系の先住民(原住民族)が住んでいた。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||台湾原住民族とは&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||台湾島とその周辺島嶼に古くから住んでいた台湾の先住民族は、17世紀ごろからスペイン、オランダ、清朝と外来勢力に翻弄される歴史を歩み、19世紀末からは日本、20世紀半ばから中華民国の統治を受けてきました。当時日本人は原住民族を「高砂族」と呼び、日本語教育や日本名を名乗らせるなどの同化政策を採りました。中華民国(国民党)政府も原住民族の漢民族への同化政策を採りました。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||しかし、1980年代から、台湾の民主化と呼応して民族としての権利獲得運動が徐々に成果を収めるようになり、各民族の総称も法律上、1994年には「原住民」、1997年には「原住民族」と改められました。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||各民族のプロフィール&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||台湾には現在、政府から公式に認定された16の原住民族がいます。タイヤル、タロコ、セデック、サイシャット、ブヌン、アミ、サキザヤ、サオ、ツォウ、プユマ、クヴァラン、パイワン、ルカイ、ヤミに加えて、サアロアとカナカナブが2014年6月に認定されたほか、現在申請している数集団があります。ほかに、漢民族との同化が進んでいる「平埔族」が10民族前後存在します。今後は、「あの人々と私たちは違うようだ」という人々の自意識やアイデンティティを根拠として民族として認めてもらおうとの運動が強まってくると見られています。タイヤルとタロコ、セデックのように、衣装や習慣、言語などの文化の差異は、見えにくいところもあります。また、異民族間の結婚が増えて、「私はタイヤルの父とパイワンの母の子どもです」という人々もでてきており、こうした人々は父、母どちらかの民族に帰属していくのか、「タイ・パイ族」と名乗る人もいて、ますます混とんとしてきています。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||民族が増えるにつれて、博物館の展示やその他情報を更新していくのも大変そうです。ある博物館の学芸員さん(サキザヤ出身の30代)によると「今後、百ぐらい民族が増えても大丈夫なように、館内の民族案内の施設はコンピュータを利用したものにしたい」と話していました。&br;原住民族の生活は時代にあわせてさまざまに変化しています。日本統治時代に紹介されてきた姿とは大きく異なってきています。若い世代を中心にかなりの人数が都市に居住していることも、台湾原住民族関係の資料を読むときに意識してほしいことです(人口データは2007年6月現在、民族プロフィールは原住民族委員会のHPも参照した)。&br;記述内容は当会の統一見解ではなく、執筆者個々に帰します。なお、各グループ名に「民族」とつけるか「族」とつけるかなど、呼称についても、会内で見解が分かれました。ここでの呼称は各執筆者の見解に従っており、あえて統一していないことをお断りしておきます。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||台湾原住民族別登記人口数統計表(2012年8月)&br;※台湾の総人口は、2287万6527人(2006年12月末)&br;阿美族(アミ)193,599人&br;泰雅族(タイヤル)83,329人&br;排灣族(パイワン)93,044人&br;布農族(ブヌン)54,117人&br;魯凱族(ルカイ)12,426人&br;卑南族(プユマ)12,780人&br;鄒族(ツォウ)1.33%&br;賽夏族(サイシャット)1.18%&br;雅美族(達悟族)&br;(ヤミまたはタオ)0.82%&br;邵族(サオ)0.14%(2001年8月、10番目の原住民族に認定)&br;?瑪蘭族(カヴァラン)0.25%(2002年12月、11番目の原住民族に認定)&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||太魯閣族(タロコ)28,199人(2004年1月、12番目の原住民族に認定、花蓮県を中心に居住、タイヤルと言語・文化を異にする)&br;賽德克族(セデック)8,073人(2008年4月、14番目の原住民族に認定)&br;拉阿魯哇族(サアロア)400~500人(2014年6月、15、16番目の原住民族に認定)&br;?那?那富族(カナカナブ)500人余り(2014年6月、15、16番目の原住民族に認定)&br;其他?人&br;未登記(尚未申報)19,166人&br;合計?人&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||【参考資料】&br;101年8月台?縣市原住民族人口-按性別族別&br;2008年セデックが第14の台湾原住民族に認定&br;2008年4月23日台湾週報&br;阿美族(アミ)、泰雅族(タイヤル)、排灣族(パイワン)、&br;布農族(ブヌン)、魯凱族(ルカイ)、卑南族(プユマ)、&br;鄒族(ツォウ)、賽夏族(サイシャット)、&br;雅美族(達悟族)(ヤミまたはタオ)、&br;邵族(サオ)(2001年8月、10番目の原住民族に認定)、&br;?瑪蘭族(カヴァラン)(2002年12月、11番目の原住民族に認定)、&br;太魯閣族(タロコ)(2004年1月、12番目の原住民族に認定)、&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||撤奇莱雅族(サキザヤ)(2007年1月、13番目の原住民族に認定)&br;2009年シラヤが台湾原住民族に認定を陳情&br;2009年6月25日自由電子報&br;自由県平埔族シラヤ文化協会が監察委員が台南を訪れて陳情を受け付ける機会を捉えて、シラヤの正名を陳情。&br;2014年カナカナブとサアロアが第15.16番目の台湾原住民族に認定&br;サアロア、カナカナブの正名&br;16世紀ごろになると倭寇という海賊の根拠地となります。倭寇というと日本人というイメージが強いのですが、前期は日本人。後期は中国人が主でした。&size(6){(東アジア-台湾-)};|| |-230|||秦、韓を滅ぼす&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-228|||秦、趙を滅ぼす趙の公子嘉、代に逃れ、自ら立って代王となる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-227|||燕の太子丹、荊軻をして秦王を刺殺せんとして失敗秦、燕を伐つ&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-225|||秦、魏を滅ぼす&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-224|||秦、二十万をもって楚を攻め、楚の将軍項燕を殺す&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-223|||秦、六十万をもって楚を攻め、楚、滅ぶ&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-222|||秦、燕を滅ぼす秦、代を滅ぼし、趙、完全に滅ぶ&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-221|||COLOR(red):秦の始皇帝が中国を統一&size(6){(東アジア-秦-秦)};|| |-221|||秦、斉を滅ぼし、秦の天下統一成る秦王政、始皇帝と称す秦、始まる(水徳・黒・北)&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-221|||李斯を丞相とし、郡県制を実施十月を歳首とする&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-220|||COLOR(red):アーンドラ朝成立&size(6){(アジア--)};|| |-220|||始皇帝、第一回巡幸&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-219|||始皇帝、第二回巡幸泰山に封禅の儀式を行う&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-218|||第2次ポエニ戦争(~-201)カルタゴの将軍ハンニバルがイタリアに侵入、ローマを脅かした戦い。&size(6){(アフリカ-チュニジア、イタリア、ローマ-)};|| |-218|||第二ポエニ戦争始まる(~前201)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-218|||始皇帝、第三回巡幸張良、博浪沙で始皇帝を襲撃、失敗に終わる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-216|||カンネーの戦い、カルタゴのハンニバルが勝利&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-216|||カンネーの戦いでローマ軍敗北&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-215|||蒙恬の匈奴討伐&size(6){(アジア--)};|| |-215|||第一マケドニア戦争始まる(~前205)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-215|||始皇帝、第四回巡幸方士盧生をして仙薬・仙人を求めしむ将軍蒙恬、匈奴を伐つ&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-215|2|8|孝霊天皇崩御128歳&size(6){(日本-日本-弥生時代)};|| |-214|||秦の南越経略&size(6){(東アジア-秦-秦)};|| |-214|||万里の長城を修築&size(6){(東アジア-秦-秦)};|| |-214|||万里の長城の建設始まる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-214|1|14|COLOR(SandyBrown):第8代孝元天皇が即位&size(6){(日本-日本-弥生時代)};|| |-213|||焚書&size(6){(アジア--)};|| |-213|||禁書令出る(医薬・卜筮・農業関係の書は除外いわゆる「焚書」)&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-212|||坑儒&size(6){(アジア--)};|| |-212|||阿房宮及び驪山の陵墓の造営始まる儒生四百六十余人を穴埋めにする(いわゆる「坑儒」)&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-211|3|11|孝元天皇は都を都を軽の境原宮(さかいはらのみや)に移す&size(6){(日本-日本-弥生時代)};|| |-210|||COLOR(SandyBrown):秦・?氏・・二世皇帝&size(6){(東アジア-秦-秦)};|| |-210|||始皇帝、第五回巡幸中、沙丘で死去末子胡亥(二世皇帝)即位始皇帝を驪山に葬る&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-209|||項羽と劉邦が挙兵&size(6){(アジア--)};|| |-209|||匈奴の冒頓単于&size(6){(アジア--)};|| |-209|||ローマの将スキピオ、カルタゴの根拠地カルタゴ・ノウァを攻略&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-209|||陳勝・呉広、大沢郷に挙兵劉邦、沛に挙兵項梁・項羽、呉に挙兵田?、斉に挙兵&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-209|9|6|孝霊天皇を片丘馬坂陵に葬る。&size(6){(日本-日本-弥生時代)};|| |-208|||陳勝・呉広、敗死項梁、定陶に敗死&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-208|||稚日本根子彦大日日尊生誕。(開化天皇)&size(6){(日本-日本-弥生時代)};|| |-208|2|2|孝元天皇が鬱色謎命を立てて皇后とする&size(6){(日本-日本-弥生時代)};|| |-207|||COLOR(SandyBrown):秦・?氏・・三世皇帝&size(6){(東アジア-秦-秦)};|| |-207|||項羽、鉅鹿に秦軍を破り、諸侯を掌握&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-207|||李斯、趙高の讒言により刑死趙高、二世皇帝を弑殺、子嬰を立てる秦王子嬰、趙高を殺す&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-206|||COLOR(red):秦滅亡&size(6){(東アジア-秦-秦)};|| |-206|||COLOR(SandyBrown):前漢・劉氏・・高祖(太祖)&size(6){(東アジア-前漢-前漢)};|| |-206|||秦王子嬰、劉邦に降り、秦、滅ぶ&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-206|||劉邦、法三章を約す&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-206|||項羽と劉邦、鴻門に会す&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-206|||項羽、咸陽に入り、子嬰を弑し、宮殿を焼く&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-206|||項羽、懐王を立てて義帝とし、劉邦以下十八人を諸侯王に封ずる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-206|||項羽の論功行賞に不満の諸侯、反旗を挙げる漢の高祖元年&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-205|||劉邦、韓信の計をいれ、漢中から出て、三秦を平定楚・漢の戦い始まる項羽、義帝を弑す&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-205|||劉邦、諸侯の軍五十六万を率いて楚都彭城を攻め、大敗す&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-204|||韓信、趙を破る項羽、 陽・成皋を抜く劉邦、関内に逃れる&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-203|||韓信、斉を破る項羽と劉邦、広武で対戦項羽と劉邦、天下を鴻溝で二分し、東を楚、西を漢とする&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-202|||ザマの戦い(第2次ポエニ戦争の終結。ローマが西地中海の覇権を握る。)&size(6){(アフリカ-アフリカ、イタリア、ローマ-)};|| |-202|||ザマの戦いでスキピオ(大)、ハンニバルを破る(翌年第二ポエニ戦争終結)&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-202|||COLOR(red):劉邦、項羽を破り、漢王朝成立(前漢)&size(6){(東アジア-前漢-前漢)};|| |-202|||劉邦、協約を破って項羽を攻め、垓下に包囲項羽、烏江で自刎す&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-202|||漢の天下統一劉邦、皇帝の位(高祖)につく漢、始まる(土徳・黄・中央)&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-201|||西地中海の覇権を獲得&size(6){(西欧-イタリア、ローマ-)};|| |-201|||高祖、楚王韓信を淮陰侯に降格叔孫通、漢の朝儀を制定&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-200|||高祖が冒頓単于に屈辱的和議&size(6){(アジア--)};|| |-200|||ローマ・マケドニア間に第二マケドニア戦争開始(~前197)&size(6){(欧州-ヨーロッパ-)};|| |-200|||高祖、自ら韓王信を伐ち、平城で匈奴の軍に七日間包囲される&size(6){(東アジア-中国-)};|| |-200|>|>|''続縄文時代[2世紀-7世紀]''&size(6){(日本-日本-)};|| |-200|>|>|''弥生前期→弥生中期''&size(6){(日本-日本-)};|| |-200|||弥生中期紀元前2世紀、高地性集落出現(中期?後期)&br;小国の分立(『漢書』地理志, 『後漢書』東夷伝)&br;墳丘墓出現(吉野ヶ里遺跡)&size(6){(日本-日本-)};||
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