「推古紀の十二年のずれ」について-河西良浩(Historical)
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「推古紀の十二年のずれ」について
所謂「十二年のずれ」問題は、賛否共にあまり多くの議論を見...
「推古朝の遣隋使」という言葉がある。これに対して異を唱え...
(1)「宝命」問題
古田は、推古紀において、裴世清の持参した国書に「宝命」の...
朕、宝命を欽承して、区宇に臨仰す。<推古紀、十六年八...
朕、天命を祇承す。<隋書、高祖下>
朕、宝暦を粛膺し、纂ぎて万邦に臨む。<隋書、煬帝上>
朕、宝命を恭膺し、卒土に君臨す。<旧唐書、高麗伝、高...
川村は、これに対して、「宝命」は普通名詞であり、問題は「...
だが、これで反論になるのだろうか。
川村自身の指摘するとおり、「朕、天命を祇承す」と隋の高祖...
逆に、「膺」も他ならぬ煬帝が使っている。ハッキリ言えば、...
何の特定力も無い。そういう、まさに「普通名詞」だ。
一方、「宝命」の方は違う。…と、少なくとも古田武彦の主張は...
事実として煬帝は「天命」も「宝命」も使っていない。唐の第...
(補足)しかしながら、実は、調査の結果、古田の「宝命」に...
朕、宝命を載新す。<宋書、礼志>(宋・明帝)
宣徳皇后、遠く崇替を鑑みて、旧典を憲章し、疇に台揆を...
朕、天命を恭承し、以て社稷を主る。<旧唐書、后妃伝、...
いずれも第一代ではない皇帝の言だ。代宗は書紀より以降の人...
次に、「欽承」について、補足しよう。川村は、あくまで「欽...
従って、「宝命」も「欽承」も、これ自身では、特定力不足で...
(2)推古二十六年の記事について
二十六年秋八月癸酉朔、高麗、使を遣し方物を貢る。因り...
(武徳)五年、建武に賜う書に曰く「朕、宝命を恭膺し、...
推古二十六年は六一八年に当る。隋が滅び、唐が興った年だ。...
なるほど、確かに六一八年八月という時期からすれば、「ずれ...
だが、六二二年の捕虜返還についても、一年や二年程度の短い...
そして、十年後の太宗の時代には、唐と高句麗の間には不穏な...
(貞観)五年(六三一)詔して広州都督府司馬長孫師を遣...
この時期であっても、対隋戦の傷跡は生々しく、いまだに戦後...
(3)「唐」の書き換えについて
川村は、推古紀において、中国のことを「唐」と記しているの...
果たしてそうだろうか。いくつか、反証を挙げよう。
1)「唐」
「唐」の語の初出は、推古紀である。それ以前には無い。それ...
いくつかの例を挙げよう。
<周>
又、周成王の時、越裳氏、来たり白雉を献じて曰く…<孝徳...
詔して曰く「…曩者、西土の君、周成王の世と漢明帝の時と...
<漢>
是に百済の観勒僧、表上りて曰く「夫れ仏法、西国より漢...
百済君曰く「後漢明帝永平十一年、白雉在所に見ゆ」<孝...
詔して曰く「…曩者、西土の君、周成王の世と漢明帝の時と...
<魏>
魏志に云はく。<神功紀、三十九年割註>
<呉>
阿知使主・都加使主を呉に遣す。<応神紀、三十七年二月>
呉国・高麗国並びに朝貢す。<仁徳紀、五十八年十月>
呉国、使を遣して、貢献す。<雄略紀、六年四月>
百済王、命じて呉国に遣す。其の国に乱有りて入ること得...
又百済人味摩之、帰化す。曰く「呉に学びて、伎楽の[イ舞...
<晉>
是年、晉武帝泰初二年なり。晉起居注に云はく、武帝泰初...
又、晉武帝咸寧元年、松滋に見ゆ。<孝徳紀、白雉元年二...
<隋>
高麗、使を遣し方物を貢す。因りて言はく「隋の煬帝、三...
もともと、推古紀以前は、中国との国交記事は多くは無い。だ...
やはり、「外国人の発言だけは別」という川村の解釈は、成り...
(4)百済関係記事について
川村は、以下の記事についても言及している。
(舒明三年)三月庚申朔、百済王義慈、王子豊章を入れて...
これについて、古田が、推古紀が十二年ずれていることの証拠...
だが、百済王記事の年代錯誤は決して一般的ではない。むしろ...
武寧王の没年は、「武寧王碑」という金石文の裏づけを得てい...
ここにだけ「一般的」の語を用いて、錯誤を透閑視するのは、...
勿論、この錯誤と推古紀の「ずれ」との間に関係があるかどう...
(補足)これについては、改訂版「推古朝の謎」では削除され...
(5)「十二年のずれ」とは、何か
さて、ここまで、論じてきたが、ひとつ明らかにしなければな...
年代的にも、内容的にも「ずれ」と言っているものは、どこか...
実は、川村の批判が今一つ「空振り」の感があるのは、その為...
果たして問題は、「推古紀の唐への遣使」記事にとどまるもの...
それとも、外交関連記事一般に関わると見るべきだろうか(古...
また、どんなに少なくとも「白村江」はずれてはいないのであ...
古田武彦はそのいずれも明らかにしていない。
この点が、真の問題だ。まず、これを明らかにする必要がある...
さて、『書紀』には著名な「ずれ」がある。「百済記」だ。神...
もともと、干支によって絶対年代を示していた当時、年代の当...
だが、それは「ある史料の記事とある史料の記事とを繋ぎ合せ...
推古紀に見える対唐記事は、大きく三つだ。
小野妹子と裴世清の記事<十五年~十七年>
犬上御田鍬の記事<二十二年~二十三年>
恵日らの帰国記事<三十一年>
もしも、「ずれ」があるのならば、1と2は確実にその対象だ...
是の時に、大唐の学問者僧恵斉・恵光及び医恵日・福因等...
これは、いずれとも称し得ないのではないだろうか(『隋書』...
だから、正確には「十年程度のずれ」である。画一的に『書紀...
以上をまとめれば、川村の挙げた論点のうち、(1)と(3)...
(A)「隋煬帝」という表記がある以上、「唐」は「唐」と解...
(B)「宝命」問題
この二点から、自然に導き出される仮説として、「十年程度の...
(補足)上記のとおり、Bについては、取り下げる。結局、「...
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「推古紀の十二年のずれ」について
所謂「十二年のずれ」問題は、賛否共にあまり多くの議論を見...
「推古朝の遣隋使」という言葉がある。これに対して異を唱え...
(1)「宝命」問題
古田は、推古紀において、裴世清の持参した国書に「宝命」の...
朕、宝命を欽承して、区宇に臨仰す。<推古紀、十六年八...
朕、天命を祇承す。<隋書、高祖下>
朕、宝暦を粛膺し、纂ぎて万邦に臨む。<隋書、煬帝上>
朕、宝命を恭膺し、卒土に君臨す。<旧唐書、高麗伝、高...
川村は、これに対して、「宝命」は普通名詞であり、問題は「...
だが、これで反論になるのだろうか。
川村自身の指摘するとおり、「朕、天命を祇承す」と隋の高祖...
逆に、「膺」も他ならぬ煬帝が使っている。ハッキリ言えば、...
何の特定力も無い。そういう、まさに「普通名詞」だ。
一方、「宝命」の方は違う。…と、少なくとも古田武彦の主張は...
事実として煬帝は「天命」も「宝命」も使っていない。唐の第...
(補足)しかしながら、実は、調査の結果、古田の「宝命」に...
朕、宝命を載新す。<宋書、礼志>(宋・明帝)
宣徳皇后、遠く崇替を鑑みて、旧典を憲章し、疇に台揆を...
朕、天命を恭承し、以て社稷を主る。<旧唐書、后妃伝、...
いずれも第一代ではない皇帝の言だ。代宗は書紀より以降の人...
次に、「欽承」について、補足しよう。川村は、あくまで「欽...
従って、「宝命」も「欽承」も、これ自身では、特定力不足で...
(2)推古二十六年の記事について
二十六年秋八月癸酉朔、高麗、使を遣し方物を貢る。因り...
(武徳)五年、建武に賜う書に曰く「朕、宝命を恭膺し、...
推古二十六年は六一八年に当る。隋が滅び、唐が興った年だ。...
なるほど、確かに六一八年八月という時期からすれば、「ずれ...
だが、六二二年の捕虜返還についても、一年や二年程度の短い...
そして、十年後の太宗の時代には、唐と高句麗の間には不穏な...
(貞観)五年(六三一)詔して広州都督府司馬長孫師を遣...
この時期であっても、対隋戦の傷跡は生々しく、いまだに戦後...
(3)「唐」の書き換えについて
川村は、推古紀において、中国のことを「唐」と記しているの...
果たしてそうだろうか。いくつか、反証を挙げよう。
1)「唐」
「唐」の語の初出は、推古紀である。それ以前には無い。それ...
いくつかの例を挙げよう。
<周>
又、周成王の時、越裳氏、来たり白雉を献じて曰く…<孝徳...
詔して曰く「…曩者、西土の君、周成王の世と漢明帝の時と...
<漢>
是に百済の観勒僧、表上りて曰く「夫れ仏法、西国より漢...
百済君曰く「後漢明帝永平十一年、白雉在所に見ゆ」<孝...
詔して曰く「…曩者、西土の君、周成王の世と漢明帝の時と...
<魏>
魏志に云はく。<神功紀、三十九年割註>
<呉>
阿知使主・都加使主を呉に遣す。<応神紀、三十七年二月>
呉国・高麗国並びに朝貢す。<仁徳紀、五十八年十月>
呉国、使を遣して、貢献す。<雄略紀、六年四月>
百済王、命じて呉国に遣す。其の国に乱有りて入ること得...
又百済人味摩之、帰化す。曰く「呉に学びて、伎楽の[イ舞...
<晉>
是年、晉武帝泰初二年なり。晉起居注に云はく、武帝泰初...
又、晉武帝咸寧元年、松滋に見ゆ。<孝徳紀、白雉元年二...
<隋>
高麗、使を遣し方物を貢す。因りて言はく「隋の煬帝、三...
もともと、推古紀以前は、中国との国交記事は多くは無い。だ...
やはり、「外国人の発言だけは別」という川村の解釈は、成り...
(4)百済関係記事について
川村は、以下の記事についても言及している。
(舒明三年)三月庚申朔、百済王義慈、王子豊章を入れて...
これについて、古田が、推古紀が十二年ずれていることの証拠...
だが、百済王記事の年代錯誤は決して一般的ではない。むしろ...
武寧王の没年は、「武寧王碑」という金石文の裏づけを得てい...
ここにだけ「一般的」の語を用いて、錯誤を透閑視するのは、...
勿論、この錯誤と推古紀の「ずれ」との間に関係があるかどう...
(補足)これについては、改訂版「推古朝の謎」では削除され...
(5)「十二年のずれ」とは、何か
さて、ここまで、論じてきたが、ひとつ明らかにしなければな...
年代的にも、内容的にも「ずれ」と言っているものは、どこか...
実は、川村の批判が今一つ「空振り」の感があるのは、その為...
果たして問題は、「推古紀の唐への遣使」記事にとどまるもの...
それとも、外交関連記事一般に関わると見るべきだろうか(古...
また、どんなに少なくとも「白村江」はずれてはいないのであ...
古田武彦はそのいずれも明らかにしていない。
この点が、真の問題だ。まず、これを明らかにする必要がある...
さて、『書紀』には著名な「ずれ」がある。「百済記」だ。神...
もともと、干支によって絶対年代を示していた当時、年代の当...
だが、それは「ある史料の記事とある史料の記事とを繋ぎ合せ...
推古紀に見える対唐記事は、大きく三つだ。
小野妹子と裴世清の記事<十五年~十七年>
犬上御田鍬の記事<二十二年~二十三年>
恵日らの帰国記事<三十一年>
もしも、「ずれ」があるのならば、1と2は確実にその対象だ...
是の時に、大唐の学問者僧恵斉・恵光及び医恵日・福因等...
これは、いずれとも称し得ないのではないだろうか(『隋書』...
だから、正確には「十年程度のずれ」である。画一的に『書紀...
以上をまとめれば、川村の挙げた論点のうち、(1)と(3)...
(A)「隋煬帝」という表記がある以上、「唐」は「唐」と解...
(B)「宝命」問題
この二点から、自然に導き出される仮説として、「十年程度の...
(補足)上記のとおり、Bについては、取り下げる。結局、「...
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