その後の議論-掲示板にて(Historical)
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その後の議論-当掲示板にて
その後、Historicalの掲示板にて交わされた議論の内容を記録...
隋書の行路記事について
投稿者:Vtec 投稿日:2001/10/26(金) 22:25:36
楽しく拝見しています。
斐世清の倭国来訪の行路記事ですが、川村氏の古田批判に再批...
斐世清は近畿には至っていないとの論旨でしょうか。
小生は、
長安を発った斐世清は当然船に乗り換え、航路で倭国に至った...
私にはどんな舟(船)か分かりませんが、ノンストップは考え...
筑紫・周防から十余の港(国)へ寄港しながらやっと難波につ...
難波で休息と歓迎行事の後、倭の都「邪靡堆」に入り倭王と会...
と読めますが、もう一度言葉を変えて論拠を教えて頂けないで...
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:Kawa 投稿日:2001/10/26(金) 23:16:09
Vtecさん、はじめまして。
そうです。
私も裴世清が近畿に到ったのなら、そのような解釈が最も当然...
ですが、そう解釈すると、「海岸に至る」が非常に浮だってし...
だって、港に寄りながらなら、寄るたびに「海岸に至」ってい...
なにも、あらたまって、難波(近畿だとすれば、一番自然な港...
やっぱり、「海岸に至る」を水行の終着点としてみた場合には、
「ながいこと海岸の見えない船旅を続けてきたが、やっと陸地...
というニュアンスにならざるを得ないだろうと思います。
そういうわけで、「近畿上陸」は”?”と思ったわけです。
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:Vtec 投稿日:2001/10/27(土) 00:50:24
早速に丁寧なご返事をありがとうございます。
「海岸に至る」をどう読むかの問題ですね。斐世清の航路を簡...
長安から中国の港 --- 航海 --- 倭国の港=倭都
陸路に比べ難儀な航海を終えることはこの旅程の完遂を意味し...
名古屋から京都へビジネスでドライブしたとしましょう。山科...
寄港は 航海の継続 のために海岸に接するのであって、その船...
貴殿にご紹介頂いた川村氏のHPから、古田氏の説を反論する...
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:Kawa 投稿日:2001/10/27(土) 08:11:14
ふーむ。
ただ、「陸」に上がらない「寄港」を、「十余国を経る」と表...
わたしは、「海岸に至る」のもう1つの用法として、
「内陸を進んできて、海に達する」というのがあると思ってま...
こちらのほうが、「十余国を経る」という表現がすっきりする...
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:Vtec 投稿日:2001/10/27(土) 12:53:00
確かに実感としては内陸を進んだ方が理解し良いようにも思え...
小生が航海の難儀と言う場合あくまでも東支那海や玄海灘のこ...
博多から或いは関門海峡から上陸して山口から山陽道をテクテ...
勿論ご存知のことですが、隋書では、--- 一支国に至り --- 秦...
一般的に、たとえば電車で横浜から東京へ行ったとします。そ...
読み洩らしているかも知れませんが、近畿に至っていないとす...
質問ですが、川村氏の立論がもし正しいと仮定すると、日本書...
古代史って面白いですね。
では、さらに真実の探求にむけて。
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:Vtec 投稿日:2001/10/27(土) 13:15:15
(追記)
「海岸に至る」のもうひとつの用法ですが、当然都は海の上で...
ちょっと疑問に思ったものですから。
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:Kawa 投稿日:2001/10/27(土) 14:11:57
Vtecさん。
多分、より根本的なところに、Vtecさんと私との意見というか...
推古紀が頭にあって、その知識を前提にして読めば、確かにそ...
ですが、私は、一旦推古紀を忘れ、『隋書』から得られる情報...
なぜ、そのようにするのかと言うと、『隋書』は『日本書紀』...
つまり、『隋書』編者は『日本書紀』を知らない。
当然『隋書』の予想される読者も『日本書紀』を知らない。
知らなくても当然ちゃんと読めるように書いてあるはずなんで...
そうやって読むと、どこに辿りつくのか、が問題なのです。
『隋書』には「難波」も「大和」も出てはきません。
(「邪靡堆」がそうなのかもしれませんが)
出てくる地名は九州ばかりです。
「海岸に至る」のあと、特に長距離の移動をしたことは記され...
「郊労」という語が使われていますが、「郊外」という言葉が...
「海岸に達した」から「船出した」という意味ではありません。
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:Vtec 投稿日:2001/10/27(土) 18:36:11
川西さん、いえいえ「日本書紀」から「隋書」を解釈している...
川村氏の説を推し進めると「日本書紀」に矛盾しますから、「...
次ぎの二点が疑問に思うんですが、なんらかのコメントをいた...
1.航海の果てに上陸の海岸に至ったとき、海岸に格別の意味...
2.九州以外のたとえば瀬戸内海や近畿の地名が出てこないの...
貴殿のことはなにも知らないのに、「感想・意見をどうぞ」と...
失礼がありましたらお許しを。
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:Vtec 投稿日:2001/10/27(土) 21:47:56
貴殿を、真実を追究してやまない古代史の使徒と信じて書いて...
HPで「川村明氏『九州王朝説批判』について」をプリントし...
「2.隋書の再批判」中、「2.夷州」の「東夷の州(くに)...
筑紫までは既知の知識であるが、秦王国からの行程(東の方)...
阿蘇山は行路中の経過地として書いてあるのでなく、倭国の 気...
「自竹斯国以東」で筑紫以東が倭に附庸するなら、対馬・壱岐...
この隋書の倭が大和朝廷とすると、次ぎの史書(旧唐書)では...
思うままに書き連ねて恐縮です。いやー、古代史って尽きない...
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:Kawa 投稿日:2001/10/28(日) 01:29:14
1.陸路を進んで海岸に達した場合、事実を事実として伝えてい...
これが、「裴世清の旅行記」であれば、そのような「感嘆」の...
海を進んできた場合、事実を事実として記述したと考えると、...
ここにだけ、「感嘆」を求めるとすると、ちょっと周りとの整...
2.恐らくは、そういうことです。
もちろん、絶対に無いと言うことはありませんが。
実際、隋の時代であれば、近畿は近畿で、独自に隋へ遣使して...
『隋書』の「[イ妥]」は、近畿ではないと考えた場合、そのよ...
(秦王国以降の行路記事は、やはり「彼都=倭の都」への行路...
「夷州」については、私は、ここは普通名詞だと思っています。
[イ妥]国も、「夷洲」の一部なのです。
もちろん、近畿も含まれているのかもしれませんが、
近畿だけを指すという意味ではないでしょう。
固有名詞だとすれば、通説に従い「台湾」と考えても良いのか...
(『後漢書』倭伝にも「夷洲」が出てきます。こちらは間違い...
以西は『魏志倭人伝』と同じで、倭国の領域だと解釈していま...
以南は、わかりません。
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:Vtec 投稿日:2001/10/28(日) 12:14:59
示唆に富むご返事を頂き、ありがとうございます。
この時代の国ってどのくらいのものなのでしょうね。それが解...
宋書倭国伝の武の上表文の「 --- 東は毛人を征すること五十五...
宋史日本伝に僧の[大/周]然が記したとされる五畿七道三島のう...
隋書を挟む形のこの二書の国割りが同じだというのは勿論暴論...
筑紫国・周防国から十余国を経て倭都の国ですから、十余国+...
以上のように考えてみました。勿論貴殿の結論とは違ってます...
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:Vtec 投稿日:2001/10/28(日) 13:43:11
いやーどうもすいません。現在の県割は北海道から沖縄までで...
それと宋書倭国伝の国は爵号を得たいために多少オーバーでし...
色々ご教示頂きありがとうございました。長くなりましたので...
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:Kawa 投稿日:2001/10/28(日) 21:57:31
前後の史書を例に取ると、
『宋書』の海北九十五国は、『魏志』韓伝が参考になります。
韓伝では、馬韓五十余国+辰韓十二国+弁辰十二国で計七十四...
これよりちょっと多いのですから、『魏志』に言う[シ歳]や沃...
次の『旧唐書』には九州島とおぼしき「倭国」が五十余国なの...
「郡」程度の大きさです。
『魏志倭人伝』に言う国の大きさも、たとえば、「末盧国」や...
三十国がこの程度の大きさだったのでしょう。(倭人百余国も)
基本的にはこれと同程度だろうと思います。
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:日野陽仁 投稿日:2001/10/29(月) 18:38:00
みなさん、こんにちは。川村です。
隋書の航路記事についてですが、これを素直に読むと、瀬戸...
を東進して畿内に着いた、と読めるので、今まで誰一人として...
は「都は近畿にある」と主張していると考えて疑問を感じなか...
わけです。これに対する古田氏の解読は明らかに無理がありま...
ところがです。この航路記事を「素直に」読んで、ちゃんと...
岸に達す」を海から陸に達したと読んで、なおかつ都がなんと...
近辺にあると読める、という説があるのです!!
それは、航路記事を古田氏が魏志倭人伝でやったのと同じ「...
動詞が先行すれば主線航路、しなければ傍線航路」と読む方法...
これだと「東至」の国々は傍線航路で、主線航路は方角の記...
ら南進でなければならないことになり、五島列島を「十余国」...
なして熊本に着く、というわけです。
私がまだ素朴に九州王朝説を信じてた頃は「これだ!」と思...
したが、相次ぐ九州王朝説の矛盾を知ってからは、この説はど...
も扱いあぐねています。
何かこの件で面白い情報があったら教えてください。
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:Kawa 投稿日:2001/10/29(月) 23:12:24
>隋書の航路記事についてですが、これを素直に読むと、瀬戸...
を東進して畿内に着いた、と読めるので、今まで誰一人として...
は「都は近畿にある」と主張していると考えて疑問を感じなか...
わけです。これに対する古田氏の解読は明らかに無理がありま...
ふーむ。
このままでは、水掛け論になりそうです。
(自然だ/自然じゃない)
「達」の用例調査でもしましょうか。
用例はあまり多くないかもしれないので、有効かどうかわかり...
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:Kawa 投稿日:2001/10/30(火) 23:00:21
意見の食い違いは、「経十余国」の記事において、
1)「十余国」を経る間、海岸には至っていない。
2)「十余国」を経る間も実際には海岸を経過している。
といういずれと見なすか、という気がしています。
私は、「海岸には至っていない」と見るほうが自然で、だから...
逆に水行の場合、十余国を経るために、実際は海岸に至ってい...
従って、今の所、
「経A、達B」(或は単に「達B」)の用例を探して、
Bの内容がAに含まれているか、という検証を行ってみたいと...
これは、「経十余国、達於海岸」という『隋書』の記事を、
a.十余国を経る間、海岸には至っていない(陸行と見なす私...
b.十余国を経る間も事実としては海岸を経過している(水行...
と考えています。
認識に誤りがあれば、ご教示願います。
一応、このような観点から、用例調査を行ってみたいと思いま...
宜しくお願い致します。
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:西 博孝 投稿日:2001/10/31(水) 15:59:18
かわにしさん、Vtecさん、日野さん、こんにちは。
問題は、かわにしさんが整理したように経十余国をどう理解す...
かわにしさんも提案されているように、少なくとも『隋書』あ...
皆さんは既にご存知かと思いますが、二五史の検索が台湾中央...
上手くいきましたら、また報告させていただきます。コンピュ...
余計なことだと思いつつ書かせていただきました。
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:Kawa 投稿日:2001/10/31(水) 23:55:44
西さん。
>二五史の検索が台湾中央科学院のデーターベースで簡単にで...
それ、私は知りません。
出きれば、そのデータベースへのアクセス方法
(多分、WEBだと思いますので、アドレス)
を教えていただければ幸いです。
宜しくお願い致します。
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:Vtec 投稿日:2001/11/02(金) 22:51:32
河西さんこんばんは。
終わったとばかり思っていましたら、続いているのに吃驚しま...
「経A、達B」の用例ですが、斐世清の航路記事中の
「---- 行至竹島 南望X羅国 経都斯麻国 迥在大海中 ----...
で都斯麻国を経るとあります。恐らく都斯麻国へ寄港したでし...
陸行説だと行路記事全体を見たとき、「十余国を経て既に彼の...
名古屋から東京(皇居がふさわしいですね)へ船で行けば、東...
「自然な読み」は水掛け論になりますが、自然な読みのその先...
多利思北弧の国書や九州王朝の歴史と、清と相見えたその王の...
お忙しいでしょうから、短いコメントで結構です。よろしくお...
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:Kawa 投稿日:2001/11/03(土) 17:34:37
Vtecさん。
もう一度、問題を整理させてください。
「経十余国、達於海岸」とあったときに、
この「達於海岸」を、
1)水行の後、海側から海岸に達す。
2)内陸を移動した後、陸側から海岸に達す。
という2通りの読み方が存在します。
ここまでは、よろしいでしょうか。
今、1の読み方を取ると、必然的に、
「十余国を経る間も実際は海岸に達していた。だが、終着点で...
ということになります。
ここまでは、私もVtecさんも川村さんも、見方は同じだろうと...
ここから、私とVtecさん、川村さんで意見がわかれました。
A.「十余国を経る間も実際は海岸に達していた。だが、終着...
B.「十余国を経る間も実際は海岸に達していた。だが、終着...
。
Aの立場から言うと、このように言えます。
・「~を経て…に達す」という文脈では、”~”にあたる部分に、...
そういった理由で、私は「達」の用例調査をしようと考えてい...
支持しているとすれば、「達於海岸」は2の読み方をしなくて...
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:Vtec 投稿日:2001/11/03(土) 23:01:57
丁寧なご返事ありがとうございました。
旧唐書を境に倭国から日本へと変わっていく過程が、古田氏の...
今後とも勉強させてください。
中間報告
投稿者:Kawa 投稿日:2001/11/05(月) 23:19:56
「隋書の達」について、中間報告です。
西さんに教えていただいた「台湾中央研究院」のHP内の「瀚典...
全部で三百二十九例がHITしました。
そのうち、百九十例は人名・地名などの固有名詞であり、百三...
「経~達…」という用例は、少なくとも一例見つけています。
(今後、詳しく調査しますので増えるかもしれません)
これから、各々の用例について、検証をするところです。
最終的な結果はもう少々お待ちください。
Re: 中間報告
投稿者:Vtec 投稿日:2001/11/05(月) 23:31:00
お手数をおかけします。
それにしてもすごい威力ですね。期待しています。
Re: 中間報告
投稿者:西 博孝 投稿日:2001/11/06(火) 02:57:50
皆様、こんばんは。私もようやく繁体字言語が復活し、中央科...
ところでこの間繁体字のフォントがうまくダウンロードできな...
Re: 中間報告
投稿者:日野陽仁 投稿日:2001/11/06(火) 10:02:02
> それは、かわにしさんが海岸の近くに[イ妥]国があるので
はないか、と指摘している点です。もしそうであれば、「経十余
国達於海岸」の後に続く「自竹斯国以東皆附庸於[イ妥]」の文
が意味をなさないと思います。つまりここまでの文すべてが裴清
の[イ妥]国への行路記事だとすると[イ妥]国の領域を通過し
てきているのは当然のことで、自竹斯国以東~など書く必要はな
いと思います。
私も乱入させて下さい(笑)。[イ妥]国伝の航路記事では、都斯
麻国、一支国に続いて竹斯国を経過した、と書かれているわけで
す。すると、この挿入句は、都斯麻国、一支国は[イ妥]国の属領
ではないよ、属領なのは竹斯国からだよ、という意味の注釈であ
るとも考えられるわけです。実際そのように主張している研究者
もいるわけです。
ですから、この挿入句から竹斯国の近くに都があるということ
までは主張できないと思います。
Re: 中間報告
投稿者:Kawa 投稿日:2001/11/06(火) 22:23:47
ふむふむ。
「自竹斯国以東皆附庸於[イ妥]」
に飛び火したわけですね(笑)。
私は、以下のように考えています。
(1)海岸のあとの「後十日」は「十日間の移動」(水行及び...
(2)「以東」の国の関係を示したのは、それこそ、川村さん...
こういうことだろうと思っています。
Re: 中間報告
投稿者:西 博孝 投稿日:2001/11/07(水) 02:42:55
かわにしさん、日野さんこんばんは。まず日野さんと私との間...
Re: 中間報告
投稿者:Vtec 投稿日:2001/11/07(水) 15:55:02
ひとつ疑問があります。どなたか回答をお願いします。
隋書の読者が、先史(魏志倭人伝など)を見ていることが前提...
隋書に限らず正史(記紀でも)はこのスタイルを取っているよ...
もうひとつは、読者の理解を助けるために、倭国をはしょって...
「則魏志"所謂"邪馬臺 ---」とか「"古云"去楽浪郡 ---」など...
常識的な知識は当然としても、それぞれの正史の中で完結的に...
Re: 中間報告
投稿者:Kawa 投稿日:2001/11/07(水) 21:32:03
>初出であるが故に竹斯国以東は[イ妥]国に属していますと...
そうです。
私も西さんのご意見に全く賛成です。
>もし初出の国名を書いているとすると、十余国を経て海岸に...
この点は、私としては、「邪靡堆」というのが実はそれに当る...
とりあえずは、「達」の用例調査後にしましょう。
>なぜ前段に倭国の地理や国交の歴史を紹介しているのでしょ...
これはおそらく、読者に対して、「これは魏志などの倭人記事...
われわれも、多分、文章を書く場合に普通にやっていることで...
これは別段、そのように考えて間違い無いと思います。
「赤土国伝」の行路記事
投稿者:日野陽仁 投稿日:2001/11/07(水) 23:28:34
私の論文中既に引用していたのですが、南蛮伝の「赤土国」...
に、次のような中国の使者が赤土國を訪れた記事があります:
其年十月、駿等自南海郡乘舟、晝夜二旬、毎値便風、至焦石山...
東南泊陵伽鉢拔多洲、西與林邑相對、上有神祠焉。
又南行至師子石、自是島嶼連接。
又行二三日、西望見狼牙須國之山、於是南達鶏籠島、至於赤土...
其王遣婆羅門鳩摩羅以舶三十艘來迎、吹蠡撃鼓、以樂隋使、進...
月餘、至其都。
以上ですが、イ妥国伝の行路記事と大変よく似ています。し...
「達」の用例があり、鶏籠島に達して赤土の境に至ったとあり...
こで王の使者が出迎えています。これは「達」が赤土国への経...
中に含まれていることは明らかでしょう。
Re: 中間報告
投稿者:Vtec 投稿日:2001/11/08(木) 16:12:42
[イ妥](以下は倭で代用)国の概略的な地理的位置を示していま...
「 --- 又東至秦王国 ---」で方向を特定して東と指示した後、...
今の地理の知識を全部捨てて、九州や大和の予断を廃して、先...
質問ですが、「--- 自竹斯国以東、---」は、『竹斯国からは「...
また、「--- 皆附庸於倭、---」の倭と倭国と附庸はどうゆう関...
漢文の素養がなく苦労しています。明るい方、ご教示をお願い...
Re: 中間報告
投稿者:Kawa 投稿日:2001/11/09(金) 00:40:58
>私の論文中既に引用していたのですが、南蛮伝の「赤土国」...
に、次のような中国の使者が赤土國を訪れた記事があります
これは、私も現在注目しています。
少なくとも、ここまでの経路で、一度も「鶏籠島」を経過して...
また、「赤土国の界」にも一度も至ってないはずです。
・・・で、初めてここで「鶏籠島」も「赤土国の界」も経過し...
>また、見解の分かれるところですが、「達於海岸」は「度百...
これは、「ふりだしにもどる」ですね。
「一支国」に至る為にも「都斯馬国」に至る為にも、「竹斯国...
>質問ですが、「--- 自竹斯国以東、---」は、『竹斯国からは...
「読めない」かどうかまではわかりませんが、一般的な読み方...
結果的には、「竹斯国より東は」と見て、これが実際には「秦...
Re: 「赤土国伝」の行路記事
投稿者:西 博孝 投稿日:2001/11/09(金) 10:51:25
日野さん、皆様、こんばんは。日野さんが出された『隋書』の...
まず「赤土国伝」の読み下し文がありませんので、資料状況を...
また「赤土国伝」の冒頭部分も読み下しておきます。
赤土
赤土国は扶南の別種なり。南海中に在りて、水行百余日にして...
其の年(大業3年)十月、(常)駿ら南海郡(今の広州市辺り...
焦石山に至りて過ぎ、東南して陵伽鉢拔多洲に泊まるも、(そ...
また南行して師子石に至り、これより島嶼連接す。
また行くこと二、三日にして西に狼牙須國之山を望み見て、こ...
その王、婆羅門の鳩摩羅を遣わして舶三十艘をもって来迎せし...
蠡を吹き鼓を撃ちて、もって隋の使を楽しましめ、金の鎖を進...
月余(一ヶ月余り)にして、その都に至る。
以上が「赤土国伝」の内容で、日野さんの指摘のように、確か...
Re:「赤土国伝」の行路記事 2
投稿者:西 博孝 投稿日:2001/11/15(木) 11:31:20
続編が遅くなってしまいましたが、赤土国の行路記事について...
まず「赤土国伝」冒頭で、南海中に在りて、水行百余日にして...
また冒頭で水行と書いていること、常駿の行路記事の冒頭でも...
また常駿の記事を読むと、総計70日前後で赤土国の都に到着...
そして赤土の界である鶏籠島に到達したとなっています。これ...
読むときに参考になると思います。
Re: 中間報告
投稿者:Kawa 投稿日:2001/11/15(木) 22:22:16
ふむふむ。
そうですね。確かに、[イ妥]国伝でも、
「又、竹斯国に至る。又、秦王国に至る…」と、かなり省略され...
この点から言っても、「海岸に達す」までが水行だとしても、...
(わたしは、「海岸」という語に問題があるのだろうと思って...
他にも川村さんのご指摘のとおり、「王の使者の来迎」など、...
「推古紀の12年のずれ」批判
投稿者:日野陽仁 投稿日:2001/11/22(木) 10:02:51
タイトルの件について、かつて「古代の風」という同人月刊...
3回にわたって連載を書いたことがあるのですが、一般に入手...
くいため、自分のHPに転載しようかと思っているのですが、も...
との原稿がワープロ専用機のファイルで、DOS変換すらしていない
ありさまです。その議論の一部は、2ちゃんねるの某トピ↓
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/history/992238987/l50
に一部のそのまた概要について説明したところですが、原論文...
載をできるだけ早く(できれば年内に)やりたいと思ってます...
れまでお待たせしますがご容赦ください。
PS.かわにしさんからメールも頂き、この件は論文を見せてくれと
の要望が強いのですが、こんなわけで、ごカンベン下さい。
Re: 「推古紀の12年のずれ」批判
投稿者:Kawa 投稿日:2001/11/23(金) 11:28:38
>2ちゃんねるの某トピ
ひととおり、読んだのですが、
(1)推古紀本文では隋を「唐」と書いている。
(2)直説法の引用の場合は隋は「隋」と書いている。
(3)「呉」は中国南部を表す地名であって国号ではない。
と、考えれば、年紀はそのままでも矛盾はないのだ、という意...
「12年のずれ」は、確かに、「原文改定」になりますが、
「唐」を「隋」と読むのも、「原文改定」ではあります。
従って、「推古紀は、国号か年代かのいずれかに誤りがある」...
やっぱり、「そのまま読んだら矛盾する」のです。
(「唐」によって実際の国号とは別に「中国」を表す例は後代...
何はともあれ、「公開」の日を楽しみにしております。
Re: 「推古紀の12年のずれ」批判
投稿者:日野陽仁 投稿日:2001/11/26(月) 10:32:16
> 「唐」を「隋」と読むのも、「原文改定」ではあります。
これは、中国のことを書紀編纂時の国号で表わしただけですか
ら原文改定ではないですよね。当時日本では「中国」という名称
は日本のことを表わした筈ですから(続日本紀参照)、チャイナ
のことを表わすのにその時代のチャイナの国号を使うのは自然だ
と思います。それに日本書紀では昔の「評」を当時の現代語であ
る「郡」と書き換えたり、神武天皇のことを、古事記で「神倭...
から国号を当時のモノに置き換えて「神日本~」と書き換えてい
ることは純然たる事実であって、それと全く同じなんですから、
全く問題ないと思います。
Re: 「推古紀の12年のずれ」批判
投稿者:Kawa 投稿日:2001/11/27(火) 01:33:48
なるほど。
>チャイナのことを表わすのにその時代のチャイナの国号を使...
そうですね。
確かに、そのようにも言えます。
では、だからといって、日本書紀がチャイナをすべて「唐」と...
後代の日本側の文献では、全て「唐」と記されているものもあ...
「周」「漢」「呉」「魏」「晉」などがあったように記憶して...
「隋」にしても、「直説法は違う」と主張される根拠がわから...
単に数例がすべて「直説法だから」でしょうか。
逆に言うと、「直説法」と本文は語法が異なるということでし...
>それに日本書紀では昔の「評」を当時の現代語であ
る「郡」と書き換えたり、神武天皇のことを、古事記で「神倭...
から国号を当時のモノに置き換えて「神日本~」と書き換えてい
ることは純然たる事実であって、それと全く同じなんですから、
全く問題ないと思います。
これも「全ての用語」を悉く書き換えているわけではないので...
Re: 「推古紀の12年のずれ」批判
投稿者:日野陽仁 投稿日:2001/11/27(火) 12:44:28
> 逆に言うと、「直説法」と本文は語法が異なるということで...
正確に言うと、「外国人の発言である直説法」ということで...
このうち推古紀の「呉」は2例ありますが、いずれも百済人の...
です。それと「この国に乱有りて」が疑問であることから、この
「呉」は中国のことではないのではないか、という説もありま...
あるいは日本書紀の編者が「呉」がどこを指すのか不明だった...
これをあえて「唐」と書き換えなかったのかもしれません。こ...
大いに問題のあるところでしょう。
ですが、推古紀の中国名称の全用例から帰結されるのは、私...
べた結論です。それと確か12年のずれを仮定しても隋代を唐と...
でいることになってしまう例が確か1箇所あったと思います(...
覚え)。それで古田氏の本を再度読んでみたら、古田さんが用...
1個調査し漏らしていて、それがこの例だったような記憶があ...
す。重大な点なんで、また後で調べてみます。
Re: 「推古紀の12年のずれ」批判
投稿者:Kawa 投稿日:2001/11/27(火) 21:51:38
>正確に言うと、「外国人の発言である直説法」ということで...
うーん。
例えば、推古十六年六月条の「唐帝」(小野妹子の言)は、日...
十七年四月条の「呉国」(僧道欣・恵弥の言)は、外国人だか...
こういうことでしょうか。
「帰納」の名のもとに、あまりにとって付けたような解釈じゃ...
Re: 「推古紀の12年のずれ」批判
投稿者:日野陽仁 投稿日:2001/11/28(水) 10:32:45
> 「帰納」の名のもとに、あまりにとって付けたような解釈じゃ
> ありません?
外国人の発言は(日本語じゃないから)漢文をそのまま転載し
た。一方日本人の発言は日本語で行われており、それを日本書紀
に書く場合はどのみち漢文に翻訳しなければならないから、その
とき表現を手直しした、いうのはちっともとってつけた解釈じゃ
ないです。
閑話休題:
私は常々「事実」と「説(解釈)」は区別すべきだ、と主張して
います(プロでもこの区別を明確にしていない人は多いですね...
さて、この例の場合、「推古紀の中国の呼称は外国人の発言に
あらわれる例以外はすべて唐」となっている」というのは「事...
です。
これに対し「実は推古紀が12年ずれており、唐=唐を表わして
いる」というのも「推古紀は、中国のことを日本書紀編纂時の中
国名である唐ですべて表記している」というのも共に「解釈」で
す。もし上記の「事実」に対する「解釈」が前者のものしかない
のであればこの解釈には必然性があり、したがって12年のずれ仮
説も正当な説であるといえます。ところが後者の解釈もありうる
以上、「12年のずれを仮定しないと矛盾する」という命題は成り
立たないわけです。
Re: 「推古紀の12年のずれ」批判
投稿者:日野陽仁 投稿日:2001/11/28(水) 10:45:54
> それと確か12年のずれを仮定しても隋代を唐と呼んでいること
> になってしまう例が確か1箇所あったと思います(ウロ覚え...
これはちょっと正確ではありませんでした。例の高麗が「隋...
捕虜を日本に貢献してきたという記事が、隋の滅亡直後にあた...
という事実の覚え違いでした。
ですが、これを12年ずらしてしまうと、高麗は、隋が滅びて...
12年も経って突然捕虜を貢献してきたことになります。しかも...
書の記事は、隋が滅んで唐に変わったとき、唐帝の書にほださ...
捕虜を探し尽くして返した、というのです。「書にほだされて...
いうのは美辞麗句かもしれませんが、要するに高麗にとっては...
くき隋が滅びた、しかも滅ぼした本人(唐帝)が書を送ってき...
だから、これを機会に捕虜を返して中国との関係を改善しよう...
いう巧妙な外交政策なわけですよね。そのような「雪解け外交...
のスタンスと「日本に隋の捕虜を献上する」という日本に対する
「隋の敵として協調を求める」外交は矛盾しますよね。
Re: 「推古紀の12年のずれ」批判
投稿者:Kawa 投稿日:2001/11/28(水) 22:31:30
>私は常々「事実」と「説(解釈)」は区別すべきだ、と主張して
います(プロでもこの区別を明確にしていない人は多いですね...
当然だと思います。
>これに対し「実は推古紀が12年ずれており、唐=唐を表わして
いる」というのも「推古紀は、中国のことを日本書紀編纂時の中
国名である唐ですべて表記している」というのも共に「解釈」で
す。もし上記の「事実」に対する「解釈」が前者のものしかない
のであればこの解釈には必然性があり、したがって12年のずれ仮
説も正当な説であるといえます。ところが後者の解釈もありうる
以上、「12年のずれを仮定しないと矛盾する」という命題は成り
立たないわけです。
これでは、片面だけの説明です。
今、「事実」はいくつかあります。
(1)「唐」は618年の成立であること。
(2)『日本書紀』の紀年では、それ(618年)は推古26年に当...
(3)『日本書紀』では、推古26年以前の国交記事においても...
これらです。
この事実同士が「矛盾している」のです。
その解釈には、今ふたつの案があります。
1)『日本書紀』に「唐」と書いてあっても本当は隋である。
2)『日本書紀』の紀年(618=推古26とする)が間違いである。
どちらも、矛盾を解決する為の案です。
さて、「推古紀の中国の呼称は外国人の発言にあらわれる例以...
これはなぜ生じたのか。
これに答える案は、やはりいくつかあります。
(1)外国人の発言だけに「唐」以外が現れたのは偶然。→日本...
(2)外国人の発言と、日本人の発言や本文の間には、何かの...
(1)という可能性を無視することは、立論として不完全なの...
今回の場合、推古紀中三例です。(全部でいくつか忘れました...
それが多いか少ないかは、微妙な数です(よね?)。
偶然と言うことも有り得る数だと、私には見えます。
「とってつけた」とは、このあたりを危惧してのものです。
Re: 「推古紀の12年のずれ」批判
投稿者:日野陽仁 投稿日:2001/11/29(木) 10:24:55
仰っておられることは論理的にはごもっともです。古代史で...
数学や物理と違って「解釈」によって「解決」できてしまう要素
が非常に多く、そのために「邪馬台国論争」とか「邪馬台か邪馬
壱か」とか「三角縁神獣鏡の生産地はどこか」などが未だに決着
しないのも、それぞれの立場で史料の「解釈」が可能だからで...
同じように推古紀の12年のずれ問題も、いずれの立場にたった
としても「解釈」は可能だと思います。ですからここで私の立場
からの解釈をいくら説明したところで結論が出るわけではないで
しょう。
では古代史では何をすべきかというと、史料事実の提示とその
整理した結果の提示です。古田氏は推古紀の中国呼称を抜き出し
て隋代にも「唐」になっていることを提示しましたが、「外国人
の発言だけが例外になっている」という事実は提示し(でき)なか
った。従ってその段階では「日本書紀が現代の名称で故意に書き
換えている」という解釈は提示しなかったわけです。ところがこ
の解釈が可能になったことで、古田論証の「絶対性(こうとしか
解釈できない)」が薄れたわけです。結局新たな史料事実を提示
するというのはこういうことであり、また我々にはそれしかでき
ないのではないでしょうか(ハイセイセイが倭を訪れた直後に死
んだ、とかいう墓碑でも出土すれば決定的なので、そういう発見
でもあれば別ですが)。ですから、できる限り史料事実の発掘に
努めることが文献史学の基本だと思います。解釈問題は、出尽く
したらそれ以上論争を続けるのは無意味だと思われるからです。
(続く)
Re: 「推古紀の12年のずれ」批判
投稿者:日野陽仁 投稿日:2001/11/29(木) 10:27:16
(承前)
さて、私の論文では他の根拠も提示しています。その一つは、
百済関係記事のずれ問題です。古田氏の指摘によれば、推古・ジ
ョメイ紀には、百済関係記事のずれの例として、呉が「乱有りて
入ることを得」なかったという記事の他にもう一つ、まだ即位し
ていないはずの百済王の名がジョメイ紀に見られ、これを12年ず
らすとまさにその王の在位期間に含まれる、というのがありまし
た。そして前者の記事はハイセイセイ来倭の前年にあたり、この
ことがハイセイセイ来倭記事も12年ずれていることの根拠にな...
というのです。
ところが後者の百済記事の「翌年」に高表仁の来倭記事があり
ます。これも「12年ずらさずに」中国史書と日本書紀で来倭年次
が一致していることはよく知られています。すると、同じ理由で
高表仁の来倭年次もずれているというのでしょうか?ハイセイセ
イだけこれを根拠にしてずれていると主張し、高表仁の場合は根
拠にせず、ずれていない、と主張するのもおかしい。これは年次
がずれているはずの年の翌年の記事なのです。
また、もし高表仁記事もずれているというのなら、「偶然に...
2人は12年の間隔をあけて再度「日本」に訪れたことになる。そ
んな偶然があるだろうかという問題がひとつ。しかも倭と日本を
併記する旧唐書、唐会要や倭と日本を一緒に記す通典や新唐書(そ
の他冊府元亀、太平御覧など)にもハイセイセイや高表仁の渡航は
倭への1回しか記されていないのです。この辺り古田氏はどう考
えているのでしょうか。
ちなみに私の「解決案」はこうです。百済関係記事を日本書紀
からすべて抜き出すと、三国史記と日本書紀では百済王の即位年
次とか在位期間はもうずれまくっており、甚だしい例としては、
応神紀で死んだはずの百済王がその後に日本を訪れている、とい
う有様です。ですから百済関係記事の年次は日本書紀本文の年次
とは一応切り離して論ずべきであり、百済関係記事のずれをもっ
て本文記事のずれの根拠にすることはできない、というのが私の
「解決案」です。
「12年のずれ」
投稿者:Kawa 投稿日:2001/11/30(金) 00:42:39
スレッドが長くなり過ぎたので、改めて。
>従ってその段階では「日本書紀が現代の名称で故意に書き
換えている」という解釈は提示しなかったわけです。
そうでしょうか。
そもそも、始めから、推古紀の「唐」の一部は、事実としては...
結果的には、同じことを言ってますよね?
「日本書紀が現代の名称で故意に書き換えている」のだとすれ...
全てのチャイナは「唐」とあるはずです。
にもかかわらず、「呉」などの国号が現れるのは、「外国人の...
高表仁や百済の義慈王については、そうですね。
そもそも、「推古天皇」はずれているのか、という問題も残っ...
少なくとも「白村江」がずれているという認識は古田氏にはな...
「いつから」も。
Re: 「12年のずれ」
投稿者:日野陽仁 投稿日:2001/11/30(金) 10:23:52
> そうでしょうか。
> そもそも、始めから、推古紀の「唐」の一部は、事実として...
そうです。しかしその理由を書いたものはなかったですね。...
「一部は隋」というより、「中国を一般に唐と表わしている」...
うのが正解でしょう。
それに日本書紀の「唐」は、実は訓で「から」と読ませるつ...
で書いたのかもしれません。だとすると「唐」という表記は実...
本語で中国を意味する「から」を単に漢字で表記しただけであり
(もちろんなぜ「から」の発音に「唐」という字を当てたかと言う
と、当時の中国の国号が「唐」だったからでしょう)、当時の日本
では中国を時代に関係なく「から」と呼んでいたから、そのとお
り、それを漢字で記しただけだ、という可能性もありうるわけ...
> 外国人の発言には日本人の発言や本文とは、異なる特徴が多...
ここで思い出されるのは、森博通氏のα群β群の議論です。推古
紀とジョメイ紀はその前後がα群(中国人著者によるもの)である
中で例外的にβ群(日本人著者によるもの)であり、しかもその漢
文にはかなり強い「倭習」が見られるようです。
ですから、本文とか日本人の発言の部分などは、もともと日...
を「たどたどしい」漢文で記録したものがあり、それをやはり...
たどしい漢文(実際に読むときは返り点を付けて日本語で読み下...
に直訳したものである可能性が高いわけですね。すると、これ...
「唐」も「から」と読み下すつもりで書かれている可能性は高...
それに対して外国人の発言は、もし筆談だったりすると、例...
「呉」とか書いてあっても、それは日本語を漢文で表現したも...
はないので、そのまま引き写しただけだったかもしれませんね。
Re: 「12年のずれ」
投稿者:Kawa 投稿日:2001/12/01(土) 09:55:08
森氏の「α群原音依拠説」は、あくまで、万葉仮名に関する議論...
α群原音依拠とは、「正しい中国語の発音が出来るものが,正し...
それを踏まえて、「倭習」とは、何をもってそう言っています?
プラス、巻二十二、二十三(推古紀と舒明紀)は、確かにβ群と...
恐らく、森氏も言っていない領域に踏み込んでいるのだろうと...
やはり、それを証明する為の用意が要るのではないでしょうか。
Re: 「12年のずれ」
投稿者:日野陽仁 投稿日:2001/12/03(月) 09:54:28
> 森氏の「α群原音依拠説」は、あくまで、万葉仮名に関する議
> 論だったと記憶していますが、もしも、これを、文章の構成に
> まで適用する場合、本当にそのように言えますか。
確か、万葉仮名だけの話ではなくて、助詞の使い方とかについ
てもβ群には倭習があることを「日本書紀の謎を解く」では指摘
していたと思います。それと、α群β群の問題は、呼び名は違いま
すが、森氏以前にも実は多くの先行研究があり、これらは万葉仮
名だけの問題ではなく、「曰」の用例とか細部にわたる研究の蓄
積があったはずです。
私自身も日本書紀を漢文のまま追っていったときに、推古紀の
「和文」くささを感じたことがあります。
私が推古朝の12年のずれが誤りだとする論考を発表した時点で
は森氏の論文は知りませんでしたが、この観点からも推古紀の漢
文の「倭習」について改めて調べてみる必要がありそうですね。
何か新たな発見があるかもしれません。
Re: 「12年のずれ」
投稿者:Kawa 投稿日:2001/12/03(月) 22:25:02
>確か、万葉仮名だけの話ではなくて、助詞の使い方とかについ
てもβ群には倭習があることを「日本書紀の謎を解く」では指摘
していたと思います。それと、α群β群の問題は、呼び名は違いま
すが、森氏以前にも実は多くの先行研究があり、これらは万葉仮
名だけの問題ではなく、「曰」の用例とか細部にわたる研究の蓄
積があったはずです。
なるほど。
確か、他にもいろいろあったと思います。
なんだったか思い出せませんが・・・(汗)。
小川清彦氏の暦の話も、関連がありますね。
(たしか、雄略以前と以後で、書紀の性質が異なると言う話が...
・・・で、確かに推古紀あたりは、またちょっと違うと言う話...
たしかに、再検証の余地は有りそうですね。
イ妥国=熊本説をロードしました
投稿者:日野陽仁 投稿日:2002/01/11(金) 00:43:33
昔々書いた論文です。原論文そのままで登録しました。
http://village.infoweb.ne.jp/~fwiz0276/kyusyu_wk2.htm
Re: イ妥国=熊本説をロードしました
投稿者:Kawa 投稿日:2002/01/13(日) 21:08:53
「ネオ九州王朝説」読みました。
正直言って、かなり「傾き」つつあります(笑)。
問題点を挙げると、
1)方向としては「東」をメインにしたような記述(・・・と...
2)「又…又…」という構文の一部は主線行路、一部は傍線行路...
といったところでしょうか。
また、日程・里程は示されていないので、必ずしも熊本だけが...
ふむ。
Re:イ妥国=熊本説をロードしました
投稿者:西 博孝 投稿日:2002/01/15(火) 21:49:06
日野さん、連日のアップご苦労様です。
ダウンロードして、じっくりと読ませていただきます。今回の...
ところで前回アップの推古朝の方の出典は、「記紀を読む会論...
Re:イ妥国=熊本説をロードしました
投稿者:日野陽仁(川村) 投稿日:2002/01/16(水) 01:07:43
そうですね。私も懐かしいです。なんか、あのときは九州王...
を再構築して古代の謎を解明できるんだという幻想もあったと...
ます。しかしその後、市民の古代研究会はオーソドックスな「...
紀の陰謀」説がリードするようになり、「倭王=聖徳太子、天...
推古女帝で倭王と天皇は別の概念」という説が研究されていま...
じっさいのところ、私もそんなところが案外事実だったのか...
れないと思っていますが、7年前当時のような「自分で資料の...
を疑って真発見を楽しむ」というのとは違ってきているように...
ます。何か今後ブレークスルーがあるといいのですが・・・・。
それから推古朝の謎の出典はそのとおりで結構です。(若干...
きに合わせて改定している所もありますが)。
Re:イ妥国=熊本説をロードしました
投稿者:西 博孝 投稿日:2002/01/16(水) 10:11:22
日野さん、丁寧なコメントを有難うございます。
ところで、
>しかしその後、市民の古代研究会はオーソドックスな「推古
>紀の陰謀」説がリードするようになり、「倭王=聖徳太子、...
> じっさいのところ、私もそんなところが案外事実だったの...
市民の古代研究会のオピニオンリーダーである半沢さんの説...
ところが半沢説の結論である邪馬台国=甘木(筑後)説も隋...
さらには、隋書ではイ妥国の都は、かつての邪馬台国だと言...
三国志や隋書などの中国史書が述べているところを矛盾なく、...
Re: イ妥国=熊本説をロードしました
投稿者:Kawa 投稿日:2002/01/16(水) 22:29:55
>市民の古代研究会はオーソドックスな「推古紀の陰謀」説が...
詳細はよく知らないのですが…、
「陰謀説」ですか。
便利と言えば便利な解決策ですね。
「倭(イ妥)王」は『隋書』にしか現れず、
「天皇」は推古紀にしか現れないわけですから、
両者は別物、と見なすのは簡単なことです。
ものは言いようですが、私も「倭王と天皇は別概念」だと思い...
本当は推古天皇がいるのに聖徳太子が「私がナンバー1だ」と振...
いずれかなのでしょうが・・・。
どちらにも、矛盾があるような気がするのですが、どうなんで...
そういえば、「推古紀は、隋書に合うように、九州王朝の史料...
これもご都合主義的で容易には賛成できません。
むむむ
>三国志や隋書などの中国史書が述べているところを矛盾なく...
そうですね。
ただ、私は『隋書』の読解を基に『三国志』を読む、というの...
『隋書』と『三国志』が矛盾する場合、『隋書』を読み誤った...
(勿論、絶対に無いとは思いません)
うーん、私が言うと、自説を擁護してるようで、説得力がない...
Re:イ妥国=熊本説をロードしました
投稿者:西 博孝 投稿日:2002/01/17(木) 16:58:31
>かわにしさん
早速のレスを有り難うございます。
>ただ、私は『隋書』の読解を基に『三国志』を読む、という...
『隋書』と『三国志』が矛盾する場合、『隋書』を読み誤った...
おっしゃることに私も賛成です。『三国志』も『隋書』もそれ...
私が言いたかったのは、『隋書』に「魏志倭人伝」を引用して...
当然、邪馬台国の都とイ妥国の都はまったく同じ所だとは思い...
他に長年わからなかった「魏志」の「女王国より以北…」の問題...
Re: イ妥国=熊本説をロードしました
投稿者:Kawa 投稿日:2002/01/18(金) 00:00:32
>私が言いたかったのは、『隋書』に「魏志倭人伝」を引用し...
そうですね。
『隋書』編者が、「同じと見なせる」くらいの関係であったこ...
程度の問題になりますが、いくらなんでも「近畿と九州」では...
じゃぁ、どこまでならいいんだ?と聞かれても困りますが(笑...
個人的には、筑後、豊、肥あたりは、問題無いかなぁとおもい...
うーん、何か、別の観点からアプローチ出来るといいのですが。
終了行:
[[九州王朝説論争(Historical)]]
#menu(menu_Historical)
その後の議論-当掲示板にて
その後、Historicalの掲示板にて交わされた議論の内容を記録...
隋書の行路記事について
投稿者:Vtec 投稿日:2001/10/26(金) 22:25:36
楽しく拝見しています。
斐世清の倭国来訪の行路記事ですが、川村氏の古田批判に再批...
斐世清は近畿には至っていないとの論旨でしょうか。
小生は、
長安を発った斐世清は当然船に乗り換え、航路で倭国に至った...
私にはどんな舟(船)か分かりませんが、ノンストップは考え...
筑紫・周防から十余の港(国)へ寄港しながらやっと難波につ...
難波で休息と歓迎行事の後、倭の都「邪靡堆」に入り倭王と会...
と読めますが、もう一度言葉を変えて論拠を教えて頂けないで...
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:Kawa 投稿日:2001/10/26(金) 23:16:09
Vtecさん、はじめまして。
そうです。
私も裴世清が近畿に到ったのなら、そのような解釈が最も当然...
ですが、そう解釈すると、「海岸に至る」が非常に浮だってし...
だって、港に寄りながらなら、寄るたびに「海岸に至」ってい...
なにも、あらたまって、難波(近畿だとすれば、一番自然な港...
やっぱり、「海岸に至る」を水行の終着点としてみた場合には、
「ながいこと海岸の見えない船旅を続けてきたが、やっと陸地...
というニュアンスにならざるを得ないだろうと思います。
そういうわけで、「近畿上陸」は”?”と思ったわけです。
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:Vtec 投稿日:2001/10/27(土) 00:50:24
早速に丁寧なご返事をありがとうございます。
「海岸に至る」をどう読むかの問題ですね。斐世清の航路を簡...
長安から中国の港 --- 航海 --- 倭国の港=倭都
陸路に比べ難儀な航海を終えることはこの旅程の完遂を意味し...
名古屋から京都へビジネスでドライブしたとしましょう。山科...
寄港は 航海の継続 のために海岸に接するのであって、その船...
貴殿にご紹介頂いた川村氏のHPから、古田氏の説を反論する...
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:Kawa 投稿日:2001/10/27(土) 08:11:14
ふーむ。
ただ、「陸」に上がらない「寄港」を、「十余国を経る」と表...
わたしは、「海岸に至る」のもう1つの用法として、
「内陸を進んできて、海に達する」というのがあると思ってま...
こちらのほうが、「十余国を経る」という表現がすっきりする...
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:Vtec 投稿日:2001/10/27(土) 12:53:00
確かに実感としては内陸を進んだ方が理解し良いようにも思え...
小生が航海の難儀と言う場合あくまでも東支那海や玄海灘のこ...
博多から或いは関門海峡から上陸して山口から山陽道をテクテ...
勿論ご存知のことですが、隋書では、--- 一支国に至り --- 秦...
一般的に、たとえば電車で横浜から東京へ行ったとします。そ...
読み洩らしているかも知れませんが、近畿に至っていないとす...
質問ですが、川村氏の立論がもし正しいと仮定すると、日本書...
古代史って面白いですね。
では、さらに真実の探求にむけて。
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:Vtec 投稿日:2001/10/27(土) 13:15:15
(追記)
「海岸に至る」のもうひとつの用法ですが、当然都は海の上で...
ちょっと疑問に思ったものですから。
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:Kawa 投稿日:2001/10/27(土) 14:11:57
Vtecさん。
多分、より根本的なところに、Vtecさんと私との意見というか...
推古紀が頭にあって、その知識を前提にして読めば、確かにそ...
ですが、私は、一旦推古紀を忘れ、『隋書』から得られる情報...
なぜ、そのようにするのかと言うと、『隋書』は『日本書紀』...
つまり、『隋書』編者は『日本書紀』を知らない。
当然『隋書』の予想される読者も『日本書紀』を知らない。
知らなくても当然ちゃんと読めるように書いてあるはずなんで...
そうやって読むと、どこに辿りつくのか、が問題なのです。
『隋書』には「難波」も「大和」も出てはきません。
(「邪靡堆」がそうなのかもしれませんが)
出てくる地名は九州ばかりです。
「海岸に至る」のあと、特に長距離の移動をしたことは記され...
「郊労」という語が使われていますが、「郊外」という言葉が...
「海岸に達した」から「船出した」という意味ではありません。
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:Vtec 投稿日:2001/10/27(土) 18:36:11
川西さん、いえいえ「日本書紀」から「隋書」を解釈している...
川村氏の説を推し進めると「日本書紀」に矛盾しますから、「...
次ぎの二点が疑問に思うんですが、なんらかのコメントをいた...
1.航海の果てに上陸の海岸に至ったとき、海岸に格別の意味...
2.九州以外のたとえば瀬戸内海や近畿の地名が出てこないの...
貴殿のことはなにも知らないのに、「感想・意見をどうぞ」と...
失礼がありましたらお許しを。
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:Vtec 投稿日:2001/10/27(土) 21:47:56
貴殿を、真実を追究してやまない古代史の使徒と信じて書いて...
HPで「川村明氏『九州王朝説批判』について」をプリントし...
「2.隋書の再批判」中、「2.夷州」の「東夷の州(くに)...
筑紫までは既知の知識であるが、秦王国からの行程(東の方)...
阿蘇山は行路中の経過地として書いてあるのでなく、倭国の 気...
「自竹斯国以東」で筑紫以東が倭に附庸するなら、対馬・壱岐...
この隋書の倭が大和朝廷とすると、次ぎの史書(旧唐書)では...
思うままに書き連ねて恐縮です。いやー、古代史って尽きない...
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:Kawa 投稿日:2001/10/28(日) 01:29:14
1.陸路を進んで海岸に達した場合、事実を事実として伝えてい...
これが、「裴世清の旅行記」であれば、そのような「感嘆」の...
海を進んできた場合、事実を事実として記述したと考えると、...
ここにだけ、「感嘆」を求めるとすると、ちょっと周りとの整...
2.恐らくは、そういうことです。
もちろん、絶対に無いと言うことはありませんが。
実際、隋の時代であれば、近畿は近畿で、独自に隋へ遣使して...
『隋書』の「[イ妥]」は、近畿ではないと考えた場合、そのよ...
(秦王国以降の行路記事は、やはり「彼都=倭の都」への行路...
「夷州」については、私は、ここは普通名詞だと思っています。
[イ妥]国も、「夷洲」の一部なのです。
もちろん、近畿も含まれているのかもしれませんが、
近畿だけを指すという意味ではないでしょう。
固有名詞だとすれば、通説に従い「台湾」と考えても良いのか...
(『後漢書』倭伝にも「夷洲」が出てきます。こちらは間違い...
以西は『魏志倭人伝』と同じで、倭国の領域だと解釈していま...
以南は、わかりません。
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:Vtec 投稿日:2001/10/28(日) 12:14:59
示唆に富むご返事を頂き、ありがとうございます。
この時代の国ってどのくらいのものなのでしょうね。それが解...
宋書倭国伝の武の上表文の「 --- 東は毛人を征すること五十五...
宋史日本伝に僧の[大/周]然が記したとされる五畿七道三島のう...
隋書を挟む形のこの二書の国割りが同じだというのは勿論暴論...
筑紫国・周防国から十余国を経て倭都の国ですから、十余国+...
以上のように考えてみました。勿論貴殿の結論とは違ってます...
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:Vtec 投稿日:2001/10/28(日) 13:43:11
いやーどうもすいません。現在の県割は北海道から沖縄までで...
それと宋書倭国伝の国は爵号を得たいために多少オーバーでし...
色々ご教示頂きありがとうございました。長くなりましたので...
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:Kawa 投稿日:2001/10/28(日) 21:57:31
前後の史書を例に取ると、
『宋書』の海北九十五国は、『魏志』韓伝が参考になります。
韓伝では、馬韓五十余国+辰韓十二国+弁辰十二国で計七十四...
これよりちょっと多いのですから、『魏志』に言う[シ歳]や沃...
次の『旧唐書』には九州島とおぼしき「倭国」が五十余国なの...
「郡」程度の大きさです。
『魏志倭人伝』に言う国の大きさも、たとえば、「末盧国」や...
三十国がこの程度の大きさだったのでしょう。(倭人百余国も)
基本的にはこれと同程度だろうと思います。
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:日野陽仁 投稿日:2001/10/29(月) 18:38:00
みなさん、こんにちは。川村です。
隋書の航路記事についてですが、これを素直に読むと、瀬戸...
を東進して畿内に着いた、と読めるので、今まで誰一人として...
は「都は近畿にある」と主張していると考えて疑問を感じなか...
わけです。これに対する古田氏の解読は明らかに無理がありま...
ところがです。この航路記事を「素直に」読んで、ちゃんと...
岸に達す」を海から陸に達したと読んで、なおかつ都がなんと...
近辺にあると読める、という説があるのです!!
それは、航路記事を古田氏が魏志倭人伝でやったのと同じ「...
動詞が先行すれば主線航路、しなければ傍線航路」と読む方法...
これだと「東至」の国々は傍線航路で、主線航路は方角の記...
ら南進でなければならないことになり、五島列島を「十余国」...
なして熊本に着く、というわけです。
私がまだ素朴に九州王朝説を信じてた頃は「これだ!」と思...
したが、相次ぐ九州王朝説の矛盾を知ってからは、この説はど...
も扱いあぐねています。
何かこの件で面白い情報があったら教えてください。
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:Kawa 投稿日:2001/10/29(月) 23:12:24
>隋書の航路記事についてですが、これを素直に読むと、瀬戸...
を東進して畿内に着いた、と読めるので、今まで誰一人として...
は「都は近畿にある」と主張していると考えて疑問を感じなか...
わけです。これに対する古田氏の解読は明らかに無理がありま...
ふーむ。
このままでは、水掛け論になりそうです。
(自然だ/自然じゃない)
「達」の用例調査でもしましょうか。
用例はあまり多くないかもしれないので、有効かどうかわかり...
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:Kawa 投稿日:2001/10/30(火) 23:00:21
意見の食い違いは、「経十余国」の記事において、
1)「十余国」を経る間、海岸には至っていない。
2)「十余国」を経る間も実際には海岸を経過している。
といういずれと見なすか、という気がしています。
私は、「海岸には至っていない」と見るほうが自然で、だから...
逆に水行の場合、十余国を経るために、実際は海岸に至ってい...
従って、今の所、
「経A、達B」(或は単に「達B」)の用例を探して、
Bの内容がAに含まれているか、という検証を行ってみたいと...
これは、「経十余国、達於海岸」という『隋書』の記事を、
a.十余国を経る間、海岸には至っていない(陸行と見なす私...
b.十余国を経る間も事実としては海岸を経過している(水行...
と考えています。
認識に誤りがあれば、ご教示願います。
一応、このような観点から、用例調査を行ってみたいと思いま...
宜しくお願い致します。
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:西 博孝 投稿日:2001/10/31(水) 15:59:18
かわにしさん、Vtecさん、日野さん、こんにちは。
問題は、かわにしさんが整理したように経十余国をどう理解す...
かわにしさんも提案されているように、少なくとも『隋書』あ...
皆さんは既にご存知かと思いますが、二五史の検索が台湾中央...
上手くいきましたら、また報告させていただきます。コンピュ...
余計なことだと思いつつ書かせていただきました。
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:Kawa 投稿日:2001/10/31(水) 23:55:44
西さん。
>二五史の検索が台湾中央科学院のデーターベースで簡単にで...
それ、私は知りません。
出きれば、そのデータベースへのアクセス方法
(多分、WEBだと思いますので、アドレス)
を教えていただければ幸いです。
宜しくお願い致します。
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:Vtec 投稿日:2001/11/02(金) 22:51:32
河西さんこんばんは。
終わったとばかり思っていましたら、続いているのに吃驚しま...
「経A、達B」の用例ですが、斐世清の航路記事中の
「---- 行至竹島 南望X羅国 経都斯麻国 迥在大海中 ----...
で都斯麻国を経るとあります。恐らく都斯麻国へ寄港したでし...
陸行説だと行路記事全体を見たとき、「十余国を経て既に彼の...
名古屋から東京(皇居がふさわしいですね)へ船で行けば、東...
「自然な読み」は水掛け論になりますが、自然な読みのその先...
多利思北弧の国書や九州王朝の歴史と、清と相見えたその王の...
お忙しいでしょうから、短いコメントで結構です。よろしくお...
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:Kawa 投稿日:2001/11/03(土) 17:34:37
Vtecさん。
もう一度、問題を整理させてください。
「経十余国、達於海岸」とあったときに、
この「達於海岸」を、
1)水行の後、海側から海岸に達す。
2)内陸を移動した後、陸側から海岸に達す。
という2通りの読み方が存在します。
ここまでは、よろしいでしょうか。
今、1の読み方を取ると、必然的に、
「十余国を経る間も実際は海岸に達していた。だが、終着点で...
ということになります。
ここまでは、私もVtecさんも川村さんも、見方は同じだろうと...
ここから、私とVtecさん、川村さんで意見がわかれました。
A.「十余国を経る間も実際は海岸に達していた。だが、終着...
B.「十余国を経る間も実際は海岸に達していた。だが、終着...
。
Aの立場から言うと、このように言えます。
・「~を経て…に達す」という文脈では、”~”にあたる部分に、...
そういった理由で、私は「達」の用例調査をしようと考えてい...
支持しているとすれば、「達於海岸」は2の読み方をしなくて...
Re: 隋書の行路記事について
投稿者:Vtec 投稿日:2001/11/03(土) 23:01:57
丁寧なご返事ありがとうございました。
旧唐書を境に倭国から日本へと変わっていく過程が、古田氏の...
今後とも勉強させてください。
中間報告
投稿者:Kawa 投稿日:2001/11/05(月) 23:19:56
「隋書の達」について、中間報告です。
西さんに教えていただいた「台湾中央研究院」のHP内の「瀚典...
全部で三百二十九例がHITしました。
そのうち、百九十例は人名・地名などの固有名詞であり、百三...
「経~達…」という用例は、少なくとも一例見つけています。
(今後、詳しく調査しますので増えるかもしれません)
これから、各々の用例について、検証をするところです。
最終的な結果はもう少々お待ちください。
Re: 中間報告
投稿者:Vtec 投稿日:2001/11/05(月) 23:31:00
お手数をおかけします。
それにしてもすごい威力ですね。期待しています。
Re: 中間報告
投稿者:西 博孝 投稿日:2001/11/06(火) 02:57:50
皆様、こんばんは。私もようやく繁体字言語が復活し、中央科...
ところでこの間繁体字のフォントがうまくダウンロードできな...
Re: 中間報告
投稿者:日野陽仁 投稿日:2001/11/06(火) 10:02:02
> それは、かわにしさんが海岸の近くに[イ妥]国があるので
はないか、と指摘している点です。もしそうであれば、「経十余
国達於海岸」の後に続く「自竹斯国以東皆附庸於[イ妥]」の文
が意味をなさないと思います。つまりここまでの文すべてが裴清
の[イ妥]国への行路記事だとすると[イ妥]国の領域を通過し
てきているのは当然のことで、自竹斯国以東~など書く必要はな
いと思います。
私も乱入させて下さい(笑)。[イ妥]国伝の航路記事では、都斯
麻国、一支国に続いて竹斯国を経過した、と書かれているわけで
す。すると、この挿入句は、都斯麻国、一支国は[イ妥]国の属領
ではないよ、属領なのは竹斯国からだよ、という意味の注釈であ
るとも考えられるわけです。実際そのように主張している研究者
もいるわけです。
ですから、この挿入句から竹斯国の近くに都があるということ
までは主張できないと思います。
Re: 中間報告
投稿者:Kawa 投稿日:2001/11/06(火) 22:23:47
ふむふむ。
「自竹斯国以東皆附庸於[イ妥]」
に飛び火したわけですね(笑)。
私は、以下のように考えています。
(1)海岸のあとの「後十日」は「十日間の移動」(水行及び...
(2)「以東」の国の関係を示したのは、それこそ、川村さん...
こういうことだろうと思っています。
Re: 中間報告
投稿者:西 博孝 投稿日:2001/11/07(水) 02:42:55
かわにしさん、日野さんこんばんは。まず日野さんと私との間...
Re: 中間報告
投稿者:Vtec 投稿日:2001/11/07(水) 15:55:02
ひとつ疑問があります。どなたか回答をお願いします。
隋書の読者が、先史(魏志倭人伝など)を見ていることが前提...
隋書に限らず正史(記紀でも)はこのスタイルを取っているよ...
もうひとつは、読者の理解を助けるために、倭国をはしょって...
「則魏志"所謂"邪馬臺 ---」とか「"古云"去楽浪郡 ---」など...
常識的な知識は当然としても、それぞれの正史の中で完結的に...
Re: 中間報告
投稿者:Kawa 投稿日:2001/11/07(水) 21:32:03
>初出であるが故に竹斯国以東は[イ妥]国に属していますと...
そうです。
私も西さんのご意見に全く賛成です。
>もし初出の国名を書いているとすると、十余国を経て海岸に...
この点は、私としては、「邪靡堆」というのが実はそれに当る...
とりあえずは、「達」の用例調査後にしましょう。
>なぜ前段に倭国の地理や国交の歴史を紹介しているのでしょ...
これはおそらく、読者に対して、「これは魏志などの倭人記事...
われわれも、多分、文章を書く場合に普通にやっていることで...
これは別段、そのように考えて間違い無いと思います。
「赤土国伝」の行路記事
投稿者:日野陽仁 投稿日:2001/11/07(水) 23:28:34
私の論文中既に引用していたのですが、南蛮伝の「赤土国」...
に、次のような中国の使者が赤土國を訪れた記事があります:
其年十月、駿等自南海郡乘舟、晝夜二旬、毎値便風、至焦石山...
東南泊陵伽鉢拔多洲、西與林邑相對、上有神祠焉。
又南行至師子石、自是島嶼連接。
又行二三日、西望見狼牙須國之山、於是南達鶏籠島、至於赤土...
其王遣婆羅門鳩摩羅以舶三十艘來迎、吹蠡撃鼓、以樂隋使、進...
月餘、至其都。
以上ですが、イ妥国伝の行路記事と大変よく似ています。し...
「達」の用例があり、鶏籠島に達して赤土の境に至ったとあり...
こで王の使者が出迎えています。これは「達」が赤土国への経...
中に含まれていることは明らかでしょう。
Re: 中間報告
投稿者:Vtec 投稿日:2001/11/08(木) 16:12:42
[イ妥](以下は倭で代用)国の概略的な地理的位置を示していま...
「 --- 又東至秦王国 ---」で方向を特定して東と指示した後、...
今の地理の知識を全部捨てて、九州や大和の予断を廃して、先...
質問ですが、「--- 自竹斯国以東、---」は、『竹斯国からは「...
また、「--- 皆附庸於倭、---」の倭と倭国と附庸はどうゆう関...
漢文の素養がなく苦労しています。明るい方、ご教示をお願い...
Re: 中間報告
投稿者:Kawa 投稿日:2001/11/09(金) 00:40:58
>私の論文中既に引用していたのですが、南蛮伝の「赤土国」...
に、次のような中国の使者が赤土國を訪れた記事があります
これは、私も現在注目しています。
少なくとも、ここまでの経路で、一度も「鶏籠島」を経過して...
また、「赤土国の界」にも一度も至ってないはずです。
・・・で、初めてここで「鶏籠島」も「赤土国の界」も経過し...
>また、見解の分かれるところですが、「達於海岸」は「度百...
これは、「ふりだしにもどる」ですね。
「一支国」に至る為にも「都斯馬国」に至る為にも、「竹斯国...
>質問ですが、「--- 自竹斯国以東、---」は、『竹斯国からは...
「読めない」かどうかまではわかりませんが、一般的な読み方...
結果的には、「竹斯国より東は」と見て、これが実際には「秦...
Re: 「赤土国伝」の行路記事
投稿者:西 博孝 投稿日:2001/11/09(金) 10:51:25
日野さん、皆様、こんばんは。日野さんが出された『隋書』の...
まず「赤土国伝」の読み下し文がありませんので、資料状況を...
また「赤土国伝」の冒頭部分も読み下しておきます。
赤土
赤土国は扶南の別種なり。南海中に在りて、水行百余日にして...
其の年(大業3年)十月、(常)駿ら南海郡(今の広州市辺り...
焦石山に至りて過ぎ、東南して陵伽鉢拔多洲に泊まるも、(そ...
また南行して師子石に至り、これより島嶼連接す。
また行くこと二、三日にして西に狼牙須國之山を望み見て、こ...
その王、婆羅門の鳩摩羅を遣わして舶三十艘をもって来迎せし...
蠡を吹き鼓を撃ちて、もって隋の使を楽しましめ、金の鎖を進...
月余(一ヶ月余り)にして、その都に至る。
以上が「赤土国伝」の内容で、日野さんの指摘のように、確か...
Re:「赤土国伝」の行路記事 2
投稿者:西 博孝 投稿日:2001/11/15(木) 11:31:20
続編が遅くなってしまいましたが、赤土国の行路記事について...
まず「赤土国伝」冒頭で、南海中に在りて、水行百余日にして...
また冒頭で水行と書いていること、常駿の行路記事の冒頭でも...
また常駿の記事を読むと、総計70日前後で赤土国の都に到着...
そして赤土の界である鶏籠島に到達したとなっています。これ...
読むときに参考になると思います。
Re: 中間報告
投稿者:Kawa 投稿日:2001/11/15(木) 22:22:16
ふむふむ。
そうですね。確かに、[イ妥]国伝でも、
「又、竹斯国に至る。又、秦王国に至る…」と、かなり省略され...
この点から言っても、「海岸に達す」までが水行だとしても、...
(わたしは、「海岸」という語に問題があるのだろうと思って...
他にも川村さんのご指摘のとおり、「王の使者の来迎」など、...
「推古紀の12年のずれ」批判
投稿者:日野陽仁 投稿日:2001/11/22(木) 10:02:51
タイトルの件について、かつて「古代の風」という同人月刊...
3回にわたって連載を書いたことがあるのですが、一般に入手...
くいため、自分のHPに転載しようかと思っているのですが、も...
との原稿がワープロ専用機のファイルで、DOS変換すらしていない
ありさまです。その議論の一部は、2ちゃんねるの某トピ↓
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/history/992238987/l50
に一部のそのまた概要について説明したところですが、原論文...
載をできるだけ早く(できれば年内に)やりたいと思ってます...
れまでお待たせしますがご容赦ください。
PS.かわにしさんからメールも頂き、この件は論文を見せてくれと
の要望が強いのですが、こんなわけで、ごカンベン下さい。
Re: 「推古紀の12年のずれ」批判
投稿者:Kawa 投稿日:2001/11/23(金) 11:28:38
>2ちゃんねるの某トピ
ひととおり、読んだのですが、
(1)推古紀本文では隋を「唐」と書いている。
(2)直説法の引用の場合は隋は「隋」と書いている。
(3)「呉」は中国南部を表す地名であって国号ではない。
と、考えれば、年紀はそのままでも矛盾はないのだ、という意...
「12年のずれ」は、確かに、「原文改定」になりますが、
「唐」を「隋」と読むのも、「原文改定」ではあります。
従って、「推古紀は、国号か年代かのいずれかに誤りがある」...
やっぱり、「そのまま読んだら矛盾する」のです。
(「唐」によって実際の国号とは別に「中国」を表す例は後代...
何はともあれ、「公開」の日を楽しみにしております。
Re: 「推古紀の12年のずれ」批判
投稿者:日野陽仁 投稿日:2001/11/26(月) 10:32:16
> 「唐」を「隋」と読むのも、「原文改定」ではあります。
これは、中国のことを書紀編纂時の国号で表わしただけですか
ら原文改定ではないですよね。当時日本では「中国」という名称
は日本のことを表わした筈ですから(続日本紀参照)、チャイナ
のことを表わすのにその時代のチャイナの国号を使うのは自然だ
と思います。それに日本書紀では昔の「評」を当時の現代語であ
る「郡」と書き換えたり、神武天皇のことを、古事記で「神倭...
から国号を当時のモノに置き換えて「神日本~」と書き換えてい
ることは純然たる事実であって、それと全く同じなんですから、
全く問題ないと思います。
Re: 「推古紀の12年のずれ」批判
投稿者:Kawa 投稿日:2001/11/27(火) 01:33:48
なるほど。
>チャイナのことを表わすのにその時代のチャイナの国号を使...
そうですね。
確かに、そのようにも言えます。
では、だからといって、日本書紀がチャイナをすべて「唐」と...
後代の日本側の文献では、全て「唐」と記されているものもあ...
「周」「漢」「呉」「魏」「晉」などがあったように記憶して...
「隋」にしても、「直説法は違う」と主張される根拠がわから...
単に数例がすべて「直説法だから」でしょうか。
逆に言うと、「直説法」と本文は語法が異なるということでし...
>それに日本書紀では昔の「評」を当時の現代語であ
る「郡」と書き換えたり、神武天皇のことを、古事記で「神倭...
から国号を当時のモノに置き換えて「神日本~」と書き換えてい
ることは純然たる事実であって、それと全く同じなんですから、
全く問題ないと思います。
これも「全ての用語」を悉く書き換えているわけではないので...
Re: 「推古紀の12年のずれ」批判
投稿者:日野陽仁 投稿日:2001/11/27(火) 12:44:28
> 逆に言うと、「直説法」と本文は語法が異なるということで...
正確に言うと、「外国人の発言である直説法」ということで...
このうち推古紀の「呉」は2例ありますが、いずれも百済人の...
です。それと「この国に乱有りて」が疑問であることから、この
「呉」は中国のことではないのではないか、という説もありま...
あるいは日本書紀の編者が「呉」がどこを指すのか不明だった...
これをあえて「唐」と書き換えなかったのかもしれません。こ...
大いに問題のあるところでしょう。
ですが、推古紀の中国名称の全用例から帰結されるのは、私...
べた結論です。それと確か12年のずれを仮定しても隋代を唐と...
でいることになってしまう例が確か1箇所あったと思います(...
覚え)。それで古田氏の本を再度読んでみたら、古田さんが用...
1個調査し漏らしていて、それがこの例だったような記憶があ...
す。重大な点なんで、また後で調べてみます。
Re: 「推古紀の12年のずれ」批判
投稿者:Kawa 投稿日:2001/11/27(火) 21:51:38
>正確に言うと、「外国人の発言である直説法」ということで...
うーん。
例えば、推古十六年六月条の「唐帝」(小野妹子の言)は、日...
十七年四月条の「呉国」(僧道欣・恵弥の言)は、外国人だか...
こういうことでしょうか。
「帰納」の名のもとに、あまりにとって付けたような解釈じゃ...
Re: 「推古紀の12年のずれ」批判
投稿者:日野陽仁 投稿日:2001/11/28(水) 10:32:45
> 「帰納」の名のもとに、あまりにとって付けたような解釈じゃ
> ありません?
外国人の発言は(日本語じゃないから)漢文をそのまま転載し
た。一方日本人の発言は日本語で行われており、それを日本書紀
に書く場合はどのみち漢文に翻訳しなければならないから、その
とき表現を手直しした、いうのはちっともとってつけた解釈じゃ
ないです。
閑話休題:
私は常々「事実」と「説(解釈)」は区別すべきだ、と主張して
います(プロでもこの区別を明確にしていない人は多いですね...
さて、この例の場合、「推古紀の中国の呼称は外国人の発言に
あらわれる例以外はすべて唐」となっている」というのは「事...
です。
これに対し「実は推古紀が12年ずれており、唐=唐を表わして
いる」というのも「推古紀は、中国のことを日本書紀編纂時の中
国名である唐ですべて表記している」というのも共に「解釈」で
す。もし上記の「事実」に対する「解釈」が前者のものしかない
のであればこの解釈には必然性があり、したがって12年のずれ仮
説も正当な説であるといえます。ところが後者の解釈もありうる
以上、「12年のずれを仮定しないと矛盾する」という命題は成り
立たないわけです。
Re: 「推古紀の12年のずれ」批判
投稿者:日野陽仁 投稿日:2001/11/28(水) 10:45:54
> それと確か12年のずれを仮定しても隋代を唐と呼んでいること
> になってしまう例が確か1箇所あったと思います(ウロ覚え...
これはちょっと正確ではありませんでした。例の高麗が「隋...
捕虜を日本に貢献してきたという記事が、隋の滅亡直後にあた...
という事実の覚え違いでした。
ですが、これを12年ずらしてしまうと、高麗は、隋が滅びて...
12年も経って突然捕虜を貢献してきたことになります。しかも...
書の記事は、隋が滅んで唐に変わったとき、唐帝の書にほださ...
捕虜を探し尽くして返した、というのです。「書にほだされて...
いうのは美辞麗句かもしれませんが、要するに高麗にとっては...
くき隋が滅びた、しかも滅ぼした本人(唐帝)が書を送ってき...
だから、これを機会に捕虜を返して中国との関係を改善しよう...
いう巧妙な外交政策なわけですよね。そのような「雪解け外交...
のスタンスと「日本に隋の捕虜を献上する」という日本に対する
「隋の敵として協調を求める」外交は矛盾しますよね。
Re: 「推古紀の12年のずれ」批判
投稿者:Kawa 投稿日:2001/11/28(水) 22:31:30
>私は常々「事実」と「説(解釈)」は区別すべきだ、と主張して
います(プロでもこの区別を明確にしていない人は多いですね...
当然だと思います。
>これに対し「実は推古紀が12年ずれており、唐=唐を表わして
いる」というのも「推古紀は、中国のことを日本書紀編纂時の中
国名である唐ですべて表記している」というのも共に「解釈」で
す。もし上記の「事実」に対する「解釈」が前者のものしかない
のであればこの解釈には必然性があり、したがって12年のずれ仮
説も正当な説であるといえます。ところが後者の解釈もありうる
以上、「12年のずれを仮定しないと矛盾する」という命題は成り
立たないわけです。
これでは、片面だけの説明です。
今、「事実」はいくつかあります。
(1)「唐」は618年の成立であること。
(2)『日本書紀』の紀年では、それ(618年)は推古26年に当...
(3)『日本書紀』では、推古26年以前の国交記事においても...
これらです。
この事実同士が「矛盾している」のです。
その解釈には、今ふたつの案があります。
1)『日本書紀』に「唐」と書いてあっても本当は隋である。
2)『日本書紀』の紀年(618=推古26とする)が間違いである。
どちらも、矛盾を解決する為の案です。
さて、「推古紀の中国の呼称は外国人の発言にあらわれる例以...
これはなぜ生じたのか。
これに答える案は、やはりいくつかあります。
(1)外国人の発言だけに「唐」以外が現れたのは偶然。→日本...
(2)外国人の発言と、日本人の発言や本文の間には、何かの...
(1)という可能性を無視することは、立論として不完全なの...
今回の場合、推古紀中三例です。(全部でいくつか忘れました...
それが多いか少ないかは、微妙な数です(よね?)。
偶然と言うことも有り得る数だと、私には見えます。
「とってつけた」とは、このあたりを危惧してのものです。
Re: 「推古紀の12年のずれ」批判
投稿者:日野陽仁 投稿日:2001/11/29(木) 10:24:55
仰っておられることは論理的にはごもっともです。古代史で...
数学や物理と違って「解釈」によって「解決」できてしまう要素
が非常に多く、そのために「邪馬台国論争」とか「邪馬台か邪馬
壱か」とか「三角縁神獣鏡の生産地はどこか」などが未だに決着
しないのも、それぞれの立場で史料の「解釈」が可能だからで...
同じように推古紀の12年のずれ問題も、いずれの立場にたった
としても「解釈」は可能だと思います。ですからここで私の立場
からの解釈をいくら説明したところで結論が出るわけではないで
しょう。
では古代史では何をすべきかというと、史料事実の提示とその
整理した結果の提示です。古田氏は推古紀の中国呼称を抜き出し
て隋代にも「唐」になっていることを提示しましたが、「外国人
の発言だけが例外になっている」という事実は提示し(でき)なか
った。従ってその段階では「日本書紀が現代の名称で故意に書き
換えている」という解釈は提示しなかったわけです。ところがこ
の解釈が可能になったことで、古田論証の「絶対性(こうとしか
解釈できない)」が薄れたわけです。結局新たな史料事実を提示
するというのはこういうことであり、また我々にはそれしかでき
ないのではないでしょうか(ハイセイセイが倭を訪れた直後に死
んだ、とかいう墓碑でも出土すれば決定的なので、そういう発見
でもあれば別ですが)。ですから、できる限り史料事実の発掘に
努めることが文献史学の基本だと思います。解釈問題は、出尽く
したらそれ以上論争を続けるのは無意味だと思われるからです。
(続く)
Re: 「推古紀の12年のずれ」批判
投稿者:日野陽仁 投稿日:2001/11/29(木) 10:27:16
(承前)
さて、私の論文では他の根拠も提示しています。その一つは、
百済関係記事のずれ問題です。古田氏の指摘によれば、推古・ジ
ョメイ紀には、百済関係記事のずれの例として、呉が「乱有りて
入ることを得」なかったという記事の他にもう一つ、まだ即位し
ていないはずの百済王の名がジョメイ紀に見られ、これを12年ず
らすとまさにその王の在位期間に含まれる、というのがありまし
た。そして前者の記事はハイセイセイ来倭の前年にあたり、この
ことがハイセイセイ来倭記事も12年ずれていることの根拠にな...
というのです。
ところが後者の百済記事の「翌年」に高表仁の来倭記事があり
ます。これも「12年ずらさずに」中国史書と日本書紀で来倭年次
が一致していることはよく知られています。すると、同じ理由で
高表仁の来倭年次もずれているというのでしょうか?ハイセイセ
イだけこれを根拠にしてずれていると主張し、高表仁の場合は根
拠にせず、ずれていない、と主張するのもおかしい。これは年次
がずれているはずの年の翌年の記事なのです。
また、もし高表仁記事もずれているというのなら、「偶然に...
2人は12年の間隔をあけて再度「日本」に訪れたことになる。そ
んな偶然があるだろうかという問題がひとつ。しかも倭と日本を
併記する旧唐書、唐会要や倭と日本を一緒に記す通典や新唐書(そ
の他冊府元亀、太平御覧など)にもハイセイセイや高表仁の渡航は
倭への1回しか記されていないのです。この辺り古田氏はどう考
えているのでしょうか。
ちなみに私の「解決案」はこうです。百済関係記事を日本書紀
からすべて抜き出すと、三国史記と日本書紀では百済王の即位年
次とか在位期間はもうずれまくっており、甚だしい例としては、
応神紀で死んだはずの百済王がその後に日本を訪れている、とい
う有様です。ですから百済関係記事の年次は日本書紀本文の年次
とは一応切り離して論ずべきであり、百済関係記事のずれをもっ
て本文記事のずれの根拠にすることはできない、というのが私の
「解決案」です。
「12年のずれ」
投稿者:Kawa 投稿日:2001/11/30(金) 00:42:39
スレッドが長くなり過ぎたので、改めて。
>従ってその段階では「日本書紀が現代の名称で故意に書き
換えている」という解釈は提示しなかったわけです。
そうでしょうか。
そもそも、始めから、推古紀の「唐」の一部は、事実としては...
結果的には、同じことを言ってますよね?
「日本書紀が現代の名称で故意に書き換えている」のだとすれ...
全てのチャイナは「唐」とあるはずです。
にもかかわらず、「呉」などの国号が現れるのは、「外国人の...
高表仁や百済の義慈王については、そうですね。
そもそも、「推古天皇」はずれているのか、という問題も残っ...
少なくとも「白村江」がずれているという認識は古田氏にはな...
「いつから」も。
Re: 「12年のずれ」
投稿者:日野陽仁 投稿日:2001/11/30(金) 10:23:52
> そうでしょうか。
> そもそも、始めから、推古紀の「唐」の一部は、事実として...
そうです。しかしその理由を書いたものはなかったですね。...
「一部は隋」というより、「中国を一般に唐と表わしている」...
うのが正解でしょう。
それに日本書紀の「唐」は、実は訓で「から」と読ませるつ...
で書いたのかもしれません。だとすると「唐」という表記は実...
本語で中国を意味する「から」を単に漢字で表記しただけであり
(もちろんなぜ「から」の発音に「唐」という字を当てたかと言う
と、当時の中国の国号が「唐」だったからでしょう)、当時の日本
では中国を時代に関係なく「から」と呼んでいたから、そのとお
り、それを漢字で記しただけだ、という可能性もありうるわけ...
> 外国人の発言には日本人の発言や本文とは、異なる特徴が多...
ここで思い出されるのは、森博通氏のα群β群の議論です。推古
紀とジョメイ紀はその前後がα群(中国人著者によるもの)である
中で例外的にβ群(日本人著者によるもの)であり、しかもその漢
文にはかなり強い「倭習」が見られるようです。
ですから、本文とか日本人の発言の部分などは、もともと日...
を「たどたどしい」漢文で記録したものがあり、それをやはり...
たどしい漢文(実際に読むときは返り点を付けて日本語で読み下...
に直訳したものである可能性が高いわけですね。すると、これ...
「唐」も「から」と読み下すつもりで書かれている可能性は高...
それに対して外国人の発言は、もし筆談だったりすると、例...
「呉」とか書いてあっても、それは日本語を漢文で表現したも...
はないので、そのまま引き写しただけだったかもしれませんね。
Re: 「12年のずれ」
投稿者:Kawa 投稿日:2001/12/01(土) 09:55:08
森氏の「α群原音依拠説」は、あくまで、万葉仮名に関する議論...
α群原音依拠とは、「正しい中国語の発音が出来るものが,正し...
それを踏まえて、「倭習」とは、何をもってそう言っています?
プラス、巻二十二、二十三(推古紀と舒明紀)は、確かにβ群と...
恐らく、森氏も言っていない領域に踏み込んでいるのだろうと...
やはり、それを証明する為の用意が要るのではないでしょうか。
Re: 「12年のずれ」
投稿者:日野陽仁 投稿日:2001/12/03(月) 09:54:28
> 森氏の「α群原音依拠説」は、あくまで、万葉仮名に関する議
> 論だったと記憶していますが、もしも、これを、文章の構成に
> まで適用する場合、本当にそのように言えますか。
確か、万葉仮名だけの話ではなくて、助詞の使い方とかについ
てもβ群には倭習があることを「日本書紀の謎を解く」では指摘
していたと思います。それと、α群β群の問題は、呼び名は違いま
すが、森氏以前にも実は多くの先行研究があり、これらは万葉仮
名だけの問題ではなく、「曰」の用例とか細部にわたる研究の蓄
積があったはずです。
私自身も日本書紀を漢文のまま追っていったときに、推古紀の
「和文」くささを感じたことがあります。
私が推古朝の12年のずれが誤りだとする論考を発表した時点で
は森氏の論文は知りませんでしたが、この観点からも推古紀の漢
文の「倭習」について改めて調べてみる必要がありそうですね。
何か新たな発見があるかもしれません。
Re: 「12年のずれ」
投稿者:Kawa 投稿日:2001/12/03(月) 22:25:02
>確か、万葉仮名だけの話ではなくて、助詞の使い方とかについ
てもβ群には倭習があることを「日本書紀の謎を解く」では指摘
していたと思います。それと、α群β群の問題は、呼び名は違いま
すが、森氏以前にも実は多くの先行研究があり、これらは万葉仮
名だけの問題ではなく、「曰」の用例とか細部にわたる研究の蓄
積があったはずです。
なるほど。
確か、他にもいろいろあったと思います。
なんだったか思い出せませんが・・・(汗)。
小川清彦氏の暦の話も、関連がありますね。
(たしか、雄略以前と以後で、書紀の性質が異なると言う話が...
・・・で、確かに推古紀あたりは、またちょっと違うと言う話...
たしかに、再検証の余地は有りそうですね。
イ妥国=熊本説をロードしました
投稿者:日野陽仁 投稿日:2002/01/11(金) 00:43:33
昔々書いた論文です。原論文そのままで登録しました。
http://village.infoweb.ne.jp/~fwiz0276/kyusyu_wk2.htm
Re: イ妥国=熊本説をロードしました
投稿者:Kawa 投稿日:2002/01/13(日) 21:08:53
「ネオ九州王朝説」読みました。
正直言って、かなり「傾き」つつあります(笑)。
問題点を挙げると、
1)方向としては「東」をメインにしたような記述(・・・と...
2)「又…又…」という構文の一部は主線行路、一部は傍線行路...
といったところでしょうか。
また、日程・里程は示されていないので、必ずしも熊本だけが...
ふむ。
Re:イ妥国=熊本説をロードしました
投稿者:西 博孝 投稿日:2002/01/15(火) 21:49:06
日野さん、連日のアップご苦労様です。
ダウンロードして、じっくりと読ませていただきます。今回の...
ところで前回アップの推古朝の方の出典は、「記紀を読む会論...
Re:イ妥国=熊本説をロードしました
投稿者:日野陽仁(川村) 投稿日:2002/01/16(水) 01:07:43
そうですね。私も懐かしいです。なんか、あのときは九州王...
を再構築して古代の謎を解明できるんだという幻想もあったと...
ます。しかしその後、市民の古代研究会はオーソドックスな「...
紀の陰謀」説がリードするようになり、「倭王=聖徳太子、天...
推古女帝で倭王と天皇は別の概念」という説が研究されていま...
じっさいのところ、私もそんなところが案外事実だったのか...
れないと思っていますが、7年前当時のような「自分で資料の...
を疑って真発見を楽しむ」というのとは違ってきているように...
ます。何か今後ブレークスルーがあるといいのですが・・・・。
それから推古朝の謎の出典はそのとおりで結構です。(若干...
きに合わせて改定している所もありますが)。
Re:イ妥国=熊本説をロードしました
投稿者:西 博孝 投稿日:2002/01/16(水) 10:11:22
日野さん、丁寧なコメントを有難うございます。
ところで、
>しかしその後、市民の古代研究会はオーソドックスな「推古
>紀の陰謀」説がリードするようになり、「倭王=聖徳太子、...
> じっさいのところ、私もそんなところが案外事実だったの...
市民の古代研究会のオピニオンリーダーである半沢さんの説...
ところが半沢説の結論である邪馬台国=甘木(筑後)説も隋...
さらには、隋書ではイ妥国の都は、かつての邪馬台国だと言...
三国志や隋書などの中国史書が述べているところを矛盾なく、...
Re: イ妥国=熊本説をロードしました
投稿者:Kawa 投稿日:2002/01/16(水) 22:29:55
>市民の古代研究会はオーソドックスな「推古紀の陰謀」説が...
詳細はよく知らないのですが…、
「陰謀説」ですか。
便利と言えば便利な解決策ですね。
「倭(イ妥)王」は『隋書』にしか現れず、
「天皇」は推古紀にしか現れないわけですから、
両者は別物、と見なすのは簡単なことです。
ものは言いようですが、私も「倭王と天皇は別概念」だと思い...
本当は推古天皇がいるのに聖徳太子が「私がナンバー1だ」と振...
いずれかなのでしょうが・・・。
どちらにも、矛盾があるような気がするのですが、どうなんで...
そういえば、「推古紀は、隋書に合うように、九州王朝の史料...
これもご都合主義的で容易には賛成できません。
むむむ
>三国志や隋書などの中国史書が述べているところを矛盾なく...
そうですね。
ただ、私は『隋書』の読解を基に『三国志』を読む、というの...
『隋書』と『三国志』が矛盾する場合、『隋書』を読み誤った...
(勿論、絶対に無いとは思いません)
うーん、私が言うと、自説を擁護してるようで、説得力がない...
Re:イ妥国=熊本説をロードしました
投稿者:西 博孝 投稿日:2002/01/17(木) 16:58:31
>かわにしさん
早速のレスを有り難うございます。
>ただ、私は『隋書』の読解を基に『三国志』を読む、という...
『隋書』と『三国志』が矛盾する場合、『隋書』を読み誤った...
おっしゃることに私も賛成です。『三国志』も『隋書』もそれ...
私が言いたかったのは、『隋書』に「魏志倭人伝」を引用して...
当然、邪馬台国の都とイ妥国の都はまったく同じ所だとは思い...
他に長年わからなかった「魏志」の「女王国より以北…」の問題...
Re: イ妥国=熊本説をロードしました
投稿者:Kawa 投稿日:2002/01/18(金) 00:00:32
>私が言いたかったのは、『隋書』に「魏志倭人伝」を引用し...
そうですね。
『隋書』編者が、「同じと見なせる」くらいの関係であったこ...
程度の問題になりますが、いくらなんでも「近畿と九州」では...
じゃぁ、どこまでならいいんだ?と聞かれても困りますが(笑...
個人的には、筑後、豊、肥あたりは、問題無いかなぁとおもい...
うーん、何か、別の観点からアプローチ出来るといいのですが。
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