世界史ノート
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世界史ノート(古代編)
はじめに
長い教員生活も残り2年となった。今年度の2年生の世界史...
長い間教えてきたというだけで、浅学非才な私の力では、世...
内容的には、普通科で世界史Bで受験する生徒を対象とする...
授業内容については、過去に読んだ色々の本から得たものを...
内容に思い違いや誤りが多くあるのではないかと心配してい...
年表・地図・写真・系図等については省略させてもらった。...
第1章 先史の世界
第1章 先史の世界
1 人類の出現
(1)最古の人類
人類の誕生は今日では約400万年前にさかのぼるとされて...
一般的には、人間と他の動物との違いを、直立して二足歩行...
ともあれ、この地球上に猿とも人類とも呼べる 動物が登場...
現在のところ最古の人類とされているのが、アフリカで発見...
地球の歴史でいうと更新世(洪積世)、いわゆる氷河時代に...
(2)旧人
約20万年前になると、一層進化した旧人が現れた。その代...
(3)新人の登場
更新世(いわゆる氷河時代)の末期(約4万年~1万年前)...
この頃になると、同じ打製石器と いっても、以前とは比較...
こうして採集や狩猟・漁労の 生活が従来よりはるかに豊か...
(4)新環境への適応
いまから約1万年程前、第4氷期が終わり、後氷期にはいる...
2 文明への歩み
(1)農耕・牧畜の開始
人類が従来の採集や狩猟・漁労の生活から農耕・牧畜の生活...
考古年代では、 従来の採集や狩猟・漁労の生活に頼ってい...
狩猟から農耕社会に移っていく約1万年前の地球上の人口は...
農耕・牧畜の開始はどのようにして始まったのであろうか。...
しかし、農耕・牧畜の発達によって人々の生活は安定し余裕...
このような変化が いち早くおこったのは、ナイル川、ティ...
これらの地域は、現在のわれわれからみるとむしろ自然条件...
これについてイギリスの歴史学者トインビー(1889~1...
人類の歴史は先史時代から歴史時代へと移っていく。先史時...
1.
第1章 先史の世界
1 人類の出現
(1)最古の人類
人類の誕生は今日では約400万年前にさかのぼるとされて...
一般的には、人間と他の動物との違いを、直立して二足歩行...
ともあれ、この地球上に猿とも人類とも呼べる 動物が登場...
現在のところ最古の人類とされているのが、アフリカで発見...
地球の歴史でいうと更新世(洪積世)、いわゆる氷河時代に...
(2)旧人
約20万年前になると、一層進化した旧人が現れた。その代...
(3)新人の登場
更新世(いわゆる氷河時代)の末期(約4万年~1万年前)...
この頃になると、同じ打製石器と いっても、以前とは比較...
こうして採集や狩猟・漁労の 生活が従来よりはるかに豊か...
(4)新環境への適応
いまから約1万年程前、第4氷期が終わり、後氷期にはいる...
2 文明への歩み
(1)農耕・牧畜の開始
人類が従来の採集や狩猟・漁労の生活から農耕・牧畜の生活...
考古年代では、 従来の採集や狩猟・漁労の生活に頼ってい...
狩猟から農耕社会に移っていく約1万年前の地球上の人口は...
農耕・牧畜の開始はどのようにして始まったのであろうか。...
しかし、農耕・牧畜の発達によって人々の生活は安定し余裕...
このような変化が いち早くおこったのは、ナイル川、ティ...
これらの地域は、現在のわれわれからみるとむしろ自然条件...
これについてイギリスの歴史学者トインビー(1889~1...
人類の歴史は先史時代から歴史時代へと移っていく。先史時...
2.
第2章 オリエントと地中海世界
1.古代オリエント
1 古代オリエント
(1)メソポタミアと小アジア
オリエントとは”太陽の昇る所”の意味で古代ローマ人からみ...
メソポタミアとは”川の間の地方”の意味である。ティグリス...
メソポタミアで活躍した最初の民族はシュメール人である。...
楔形文字の解読のきっかけをつかんだ のはドイツの学者、...
しかし、絶え間ない都市国家相互の戦争によって、シュメー...
アッカド人はメソポタミアの北部から興り、特にサルゴン1...
やがてセム系のアムル人がバビロンを都としてバビロン第1...
ハンムラビ法典は 1901~02年にペルシアのスサで発...
しかし、バビロン第1王朝もハンムラビ王の死後、衰退し、...
なかでもヒッタイトは前1650年頃ヒッタイト帝国を建設...
ヒッタイトの滅亡後、 それまで秘密にされていた製鉄の技...
ヒッタイトのほかに同じインド=ヨーロッパ系のミタンニは...
この間、メソポタミアでは独自の文化が栄えた。宗教は多神...
1.
1 古代オリエント
(2)エジプトの統一国家
「エジプトはナイルのたまもの」、この有名な言葉はギリシ...
しかし、この治水事業と灌漑事業には膨大な労働力と大規模...
そして、前3000年頃、メネス王(ナルメルともいう、エ...
古王国時代は、前3000年頃から前2135年頃までで、...
古王国時代は第3王朝~第4王朝の時期が最盛期を迎えたが...
ピラミッドはいうまでもなくファラオ(”大きな家”の意味で...
こうしたなかで世界中を 驚かしたのが、1922年に発掘...
エジプト人は霊魂不滅・再生の信仰をもった。 墓に副葬さ...
ヘロドトスの伝える最上級のミイラの製法は 次の通りであ...
古王国の第7王朝の頃から国内は混乱・分裂していった。
こうした状況の中からナイル川の 中流域のテーベの豪族が...
ヒクソスの支配下で苦しんだエジプトではテーベを中心とす...
この第18王朝の3代目の王、トトメス3世(位前1504...
第18王朝に始まる新王国の時代は「帝国時代」ともよばれ...
アメンホテプ4世のあと王位についたのが、あの「黄金のマ...
第19王朝のラムセス2世(位前1290頃~1224頃 ...
第20王朝のラムセス3世の活躍を最後に帝国は急速に衰え...
エジプト人は、ナイルの洪水との戦いの中からすぐれた実用...
エジプト人の宗教も 多神教であった。主神は太陽神ラーで...
エジプト人が使用した文字には主として神殿や墓に使われた...
1798年、ナポレオンのエジプト遠征の際、ナイルのロゼ...
2.
1 古代オリエント
(3)地中海東岸の諸民族
地中海東岸のシリア・パレスチナ地方はエジプトとメソポタ...
アラム人はセム系の遊牧民で、前12世紀~8世紀にシリア...
フェニキア人もセム系の民族で、前2000年頃、現在のレ...
本国ではシドン (現在のサイダ)・ティルスなどの都市国...
フェニキア人は前12世紀頃から地中海貿易を独占していた...
商業民族であったフェニキア 人の文化史上最大の功績は、...
ヘブライ人は、セム系の遊牧民族で、古くはユーフラテス川...
エジプトに移住したヘブライ人は、新王国の外国人排斥機運...
ヘブライ人の子としてエジプトに生まれたモーゼは、神の声...
有名なモーゼの「十戒」は”私はお前の 神ヤハウェ、エジプ...
モーゼは、その後、約40年に及ぶ荒野での彷徨の間 の苦...
しかし、カナーンの地にはペリシテ人などが定着していて、...
ヤハウェの祭司 の支持によってサウルが最初の王となった...
彼の死後、子のソロモン (位960頃~922頃)が第3...
こうしたなかでソロモン王の死後、ヘブライ 王国は南北に...
南のユダ王国は、この後150年ほど生き延びた。一時はア...
この頃から 多くの預言者(神の言葉を預けられ、それを人...
これが歴史上名高い「バビロン捕囚」(前586~前538...
その期待は約50年後に、 アケメネス朝のキュロス2世の...
ユダヤ教は、多神教が一般的であるオリエントでは例外的な...
しかし、バビロン捕囚から解放された後も、彼らは国を再建...
3.
1 古代オリエント
(4)古代オリエントの統一
古代オリエント史は、前2000年から前1500年頃の諸...
アッシリア人はセム系の民族で、前2000年頃、北メソポ...
アッシリアが非常な成功を納めたのはヒッタイトから 学ん...
特に、サルゴン2世はイスラエル王国を滅ぼし、エジプトを...
”大征服王”といわれるアッシュール=バニパルの時には、史...
アッシリア王は、専制君主として、軍事・ 政治・宗教を統...
アッシリアの滅亡後、オリエントにはエジプト、リディア、...
アッシリアの滅亡後、オリエント諸国の主導権を握ったのは...
王国の最盛期は治世40年に及んだネブカドネザル2世(位...
しかし、王の死後、衰退し、前538年にアケメネス朝ペル...
メディアに臣従する王として、イラン高原の南西部のペルシ...
ついで2代目カンビュセス2世 (位前530~前522)...
アケメネス朝3代目の王が、史上有名なダレイオス1世(大...
この大帝国の統治にあたっては、全土を20の州に 分け、...
また首都と各都市を結ぶ軍道 (「王の道」)を建設すると...
さらに彼は大帝国を 統治する財源を確保するため、ダレイ...
宗教については、彼自身はゾロアスター教を信仰したが強制...
しかし、 商業圏をめぐる争いから小アジアのギリシア植民...
彼の死後、7代、8人の王が150年間帝国を 支配するが...
ペルシア人は、ゾロアスター(ツァラトゥストラ)(生没年...
その教義は、善神アフラ= マズダ(光明・善神)と悪神ア...
善神アフラ=マズダは光明神で あるので、火が神聖視され...
イランのベヒストゥーン碑文は、ダレイオス1世が戦勝を記...
4.
2.ギリシア世界
2 ギリシア世界
(1)エーゲ文明
(2)ポリスの成立
(1)エーゲ文明
古代文明のうちもっとも早く成立したオリエント文明は、周...
エーゲ文明は前20世紀頃から前12世紀頃までエーゲ海を...
この文明の内容は、19世紀の後半にドイツ人のシュリーマ...
シュリーマンは幼少の頃読んだ本のなかで、トロヤ落城の挿...
トロヤはホメロス(前8世紀頃 )の叙事詩「イリアス」に...
ところが第1回目の発掘で城壁、宮殿址と財宝を掘り出し、...
シュリーマンの後を受け継ぎ、クレタ文明を 発見したのが...
こうしてシュリーマンや エヴァンズによるこれらの遺跡の...
クレタ(ミノス)文明は、前20世紀頃から前15世紀頃に...
ミケーネ文明は前15世紀頃から前13世紀頃、最も栄えた...
(2)ポリスの成立
ギリシアは、平野に乏しく、山がちで、島が多く、海岸線は...
ギリシア人はインド=ヨーロッパ語族に属し、もともとは中...
そのギリシア人の南下・定住は二度にわたる。 前20世紀...
第2次移動は前12世紀頃で、ドーリア人が鉄器をもって南...
ドーリア人の侵入とミケーネ文明の滅亡後、長い混乱時代(...
ポリスの成立の過程はさまざまであるが、 多くは集住(シ...
もう1つの典型はスパルタである。スパルタは、ドーリア人...
数の上で少数の完全市民は十倍以上の人口を数えるペリオイ...
完全市民のスパルタ人の一生は次のようであった。新生児の...
古代ギリシアの歴史は、ポリスの発生・発展・没落の歴史と...
彼らは自らをヘレネス (英雄ヘレンの子孫の意味)と呼び...
宗教では、ギリシア神話でおなじみの主神ゼウス、その妻 ...
そして有名なホメロスの二大叙事詩である「イリアス」と ...
一番有名なのがオリンピア (ポリスの名)の競技である。...
1.
2 ギリシア世界
(3)ポリスの発展(その1)
ミケーネ時代の小王国は暗黒時代(前12世紀~前8世紀頃...
前750年から550年の約200年間の間に、ギリシア人...
この植民活動の結果、新しいポリスが次々に誕生していった...
植民活動による植民市の建設は、単にポリスの数が増えただ...
鋳造貨幣の 使用は前7世紀頃、リディアで始まったが、小...
さらに、商工業の発達によって武器の製造も盛んとなり、安...
従来、貴族が政治を独占して きた最大の理由は、彼らが騎...
従来の貴族政治の時代には、慣習は成文化されず、貴族によ...
貨幣経済の発展によって、平民の経済的地位が向上したと前...
貴族と平民の対立・抗争が激しくなり、一方で農民の困窮が...
王家にさかのぼる 名門生まれのソロンは前594年に「調...
財産政治は生まれでなく、 土地・財産によって官職を定め...
ソロンの改革後の30年間は、アテネは混乱の連続であった...
この山地党の首領であった名門出身の ペイシストラトス(...
彼は、後に反対派によって2度亡命を余儀なくされるが、三...
しかし、彼は自分の一族を高官に つけたり、また彼の二人...
クレイステネス(生没年不明 )は名門の出身で、民衆の支...
これは市民が僭主に なる恐れのある人物の名前を陶器の破...
もう1つの重要な改革が、従来の貴族の権力基盤となってい...
小アジアの西岸のイオニア地方には、ミレトスを中心とする...
これに対して、 前500年にミレトスを中心とするイオニ...
第1回ペルシア戦争 前492年、ダレオイス1世はトラキ...
第2回ペルシア戦争 前490年、ついにダレイオス1世は...
数日のにらみ合い後、激戦が始まった。10万人のペルシア...
2.
2 ギリシア世界
(3)ポリスの発展(その2)
(4)奴隷制度
(3)ポリスの発展(その2)
第3回ペルシア戦争 マラトンの敗戦を知ったダレイオス...
マラトン以来、ペルシアの来寇が予測される中でも、ギリシ...
ペルシアの侵攻が始まった頃、アテネはデルフィの神託を求...
ペルシア軍はマケドニアから南下し、ギリシア連合軍も出撃...
テルモピレーのギリシアの守備隊は、スパルタ王レオニダス...
テルモピレーの戦い後、ほとんど無抵抗状態のなかを南下し...
テミストクレスは、軍船の数で劣るため広い水域での戦いを...
こうして夜明けとともに狭い水域で史上有名なサラミスの海...
このサラミスの海戦はペルシア戦争の勝敗を決定づけた戦い...
三段櫂船の漕ぎ手は 1隻あたり170~200名なので、...
サラミスの敗戦後、クセルクセスはサルディスに退いたが、...
前479年、アテネ・スパルタ連合軍は プラタイアに進撃...
ペルシア戦争はギリシア的なヨーロッパとアジアとが衝突し...
第3回ペルシア戦争後も、ペルシアの再攻の可能性は依然と...
参加したポリスは、ペルシアに対抗するための軍船・ 兵員...
前述したように、サラミスの海戦で活躍した無産市民は、自...
特に民会が政策決定の最高機関として、民衆裁判所が 最高...
国家の最高決定機関は民会であった。民会は500人評議会...
これを現代の民主主義と比較してみると 当然のことながら...
ペリクレスは、市民の日当を公金から支払う政策を取って市...
(4)奴隷制度
奴隷制は古代社会にはどこでもみられるが、ギリシアのポリ...
アテネには、人口の約3分の1にあたる約8万人の奴隷がい...
有名な哲学者アリストテレスは「奴隷は生きた財産である。...
3.
2 ギリシア世界
(5)ポリス社会の没落
アテネは、デロス同盟の盟主として、その地位をますます強...
このアテネの繁栄を快く思ってなかったのがスパルタである...
スパルタは、少数のスパルタ人が 多数のペリオイコイやヘ...
前431年3月、スパルタ側のテーベ軍がアテネ側の プラ...
当時、ペロポネソス同盟側の兵力は約5万人の重装 歩兵と...
翌年の前430年、アテネでは 戦死者の国葬が行われ、ペ...
前430年、スパルタは再びアッティカに侵入し、40日間...
現在ではペストは地球上からなくなったが、歴史的には何度...
ペリクレス亡き後のアテネの政治を指導したのは、いわゆる...
前426年、アテネ軍はピロスを占領し、スパルタ軍を包囲...
その後、スパルタはトラキアに出兵し、トラキアの諸都市を...
ニキアスはクレオン亡き後の最も有力な政治家であり、銀山...
この頃、シチリア島の アテネの同盟国がアテネに救援を求...
シチリア遠征軍は、シラクサを包囲したが、スパルタからの...
シチリア遠征の失敗以後、小アジアのポリスがアテネから離...
ギリシアの覇者となったスパルタは、各国に監督官と守備隊...
スパルタの覇権をくつがえそうとアテネ、テーベ、アルゴス...
しかし、この頃テーベが急速に勃興してきた。テーベは、ア...
これによってギリシアの覇権はスパルタからテーベに移った...
ちょうどこの頃、北方ではマケドニアが勃興し、その王フィ...
4.
2 ギリシア世界
(6)ギリシア文化
ギリシア人は、東方の先進文化であるオリエント文化の影響...
ギリシア人はゼウスを主神とするオリンポスの12神など多...
文学は、神話の中から生まれ、神々や英雄の活躍を描いた叙...
「イリアス」はトロヤ戦争が10年目を迎えた時の49日間...
ヘシオドス(前700年頃)は、「労働と日々」で知られる...
前7世紀から前6世紀の貴族政の末期になると、人々の感情...
前5世紀のアテネ民主政の全盛期の時代に盛んとなったのが...
そのために立派な 野外劇場が建てられた。現在までよく保...
アイスキュロス(前525~前456)は、マラトンやサラ...
ソフォクレス(前496頃~前406)は、最初の作品で優...
悲劇とは、不老不死の神と違い、いつか死ぬ運命にあり、し...
代表的な喜劇作家がアリストファネス(前445頃~前38...
美術の分野では、絵画は壺絵などに盛んに描かれたが、後世...
最も代表的な彫刻家はフェイディアス(前490頃~前43...
ギリシア美術を代表するのが、神殿建築を中心とする建築の...
ギリシア文化のなかで特に重要なのが哲学と歴史である。哲...
自然哲学は前6世紀頃、ミレトスを中心とする イオニア植...
彼の後に多くの学者が出て、様々な説を唱えた。アナクシマ...
自然哲学の大成者とされるのが、 デモクリトス(前460...
彼が活躍した時期は、アテネの民主政治の 全盛期であった...
その代表的な学者がプロタゴラス(前485頃~前415頃...
このソフィストの相対主義に対して、絶対的真理の存在を説...
そこで「汝自身を知れ」、無知を自覚せよ、無知を自覚した...
ソクラテスの最大の弟子がプラトン(前427~前347 ...
彼は”イデア論”によってギリシア 最高の哲学者と言われて...
プラトンの最大の弟子が、アリストテレス(前384~前3...
自然哲学は、現在の学問の分野から言うと自然科学に近い。...
イギリスの歴史学者、E.H.カーは「歴史は、過去と現在...
古代オリエントにも、王の業績など事実を記録した年代記の...
「歴史学の父」と呼ばれるのは、古代ギリシアの歴史家ヘロ...
彼は、ペルシア戦争そのものと、それに至る 背景を叙述す...
ヘロドトスの物語的歴史に対して、徹底的に史料批判を行い...
クセノフォン(前430頃~前354頃 )は、アテネに生...
5.
3.ヘレニズム世界
3 ヘレニズム世界
(1)ヘレニズム時代
ヘレニズムという言葉は、広義と狭義の2義に使われる。広...
ギリシアのポリス社会が 衰退にむかっていた頃、ギリシア...
前359年に即位したフィリッポス2世(位前359~前3...
当時、アテネではイソクラテス(前436~前338 )が...
これをみたフィリッポス2世は、2千の騎兵と3万の歩兵を...
父王の暗殺後、20才で王位についたのがアレクサンドロス...
遠征軍はヘレスポントス(現在のダーダネルス海峡の古名)...
ダレイオス3世は バビロンに大軍を集め、シリア北部に進...
エジプト人はペルシアからの 解放者としてアレクサンドロ...
ついで北上したアレクサンドロスは、新たな兵を遠征軍に ...
アレクサンドロスは直ちにバビロン、スーサに進み、前33...
新しく編成された軍は、マケドニア人が中心だが、彼らも従...
アレクサンドロスが次に目指したのがインドの征服であった...
前327年の初夏、アレクサンドロスは、マケドニアを出発...
しかし、すでに出発以来の行程は約1万8千km(地球の周...
スサに数ヶ月留まったが、そのとき 有名な集団結婚式があ...
アレクサンドロスは、大帝国にオリエント的な専制君主とし...
アレクサンドロスの後継者となったのは、フィリッポス2世...
アレクサンドロスの死後、、ディアドコイ(「後継者」)と...
カッサンドロス(358~前297)は大王の死後、マケド...
アンティゴノス1世(前382頃~前301)は、マケドニ...
セレウコス1世(前358頃~前280)は、マケドニアの...
プトレマイオス1世(前367頃~前283)は、マケドニ...
「ディアドコイ戦争」の後、かってのアレクサンドロス大王...
プトレマイオス朝エジプトは、いわゆる「ヘレニズム三国」...
プトレマイオス1世はアレクサンドリアに「ムセイオン」(...
プトレマイオス朝エジプトはヘレニズム世界の中心として、...
セレウコス朝シリアは、かってのアレクサンドロス大王領の...
セレウコス1世の死後約30年後には、中央アジアに 移住...
1.
3 ヘレニズム世界
(2)ヘレニズム文化
ヘレニズム時代にはギリシア人が盛んに東方に移住したため...
美術は、華麗だが技巧的・誇張的な面が強くなる。建築では...
ヘレニズム時代には、ポリスが崩壊し、ギリシア人の民族意...
この風潮を反映して、哲学も 政治から逃避し、個人の安心...
エピクロス(前342頃~前271頃 )はサモス島 生ま...
ストア派の祖、ゼノン(前335~前263)は、キプロス...
ヘレニズム時代には、自然科学が盛んとなった。 自然科学...
有名な数学者エウクレイデス(ユークリッド)(前300頃...
数学者・物理学者として 有名なアルキメデス(前287頃...
ムセイオンの館長を務めたエラトステネス(前275頃~前...
さらに天文学者のアリスタルコス (前310頃~前230...
2.
4.ローマ帝国
4 ローマ帝国
(1)共和政ローマ
インド=ヨーロッパ語族に属するイタリア人は、ギリシア人...
ローマはイタリア人の一派のラテン人が、ティベル河畔に建...
ロムルス以下7代の王が立ったが、7代目の王は傲慢であっ...
エトルリア人は古代イタリア北部に住んだ民族だが、民族系...
王政時代のローマもエトルリア人の支配下に置かれた。7人...
貴族共和政のもとでは、貴族が重要な官職を独占していた。...
共和政が成立して間もない、前494年に貴族に対する平民...
護民官は平民の生命・財産を守るために生まれた 官職で平...
護民官の設置を認めさせた平民が次に要求したのは、成文法...
ケルト人はインド=ヨーロッパ語族に属し、前10~8世紀...
ケルト人によるローマの劫掠後の貧しい農民の没落、ローマ...
護民官のリキニウス(前376~前367)とセクスティウ...
最後まで残った問題が、平民会の決議の取り扱いについてで...
この危機を乗り切るためにディクタトルに選出されたのがプ...
1.
4 ローマ帝国
(2)ローマの発展と内乱(その1)
ローマのイタリア半島征服に最後に立ちはだかったのが、南...
ローマが短期間にイタリア半島征服に成功したのは、訓練さ...
イタリア半島を統一したローマは西地中海の覇権をめぐって...
カルタゴは現在のチュニスの近くにあったフェニキア人の植...
当時のシチリア島はカルタゴが西半分を押さえ、東半分には...
第1回ポエニ戦争 前264年ローマは艦隊を派遣し、カル...
当時の海戦は、船同志がぶつかり合って打撃を与え、相手の...
その後、ローマは 直接カルタゴを攻撃したがカルタゴの反...
第2回ポエニ戦争(前218~前201) ハミルカル・バ...
その父の後を継いだのが、世界史上有名な 名将の一人、ハ...
イタリア遠征の準備を整え、前218年春、歩兵9万、騎兵...
北イタリアに入ったハンニバル軍は、南下し、ローマの近く...
ハンニバルはさらにカプア(ナポリの北)に 進出し、そこ...
この時スペイン遠征の指揮を 自ら志願したのが、スキピオ...
前205年シチリアで艦隊を建造し、遠征軍を準備した。前...
ハンニバルは、敗戦後国政の改革に当たったが、親ローマ派...
第3回ポエニ戦争(前149~前146) 第2回ポエニ戦...
こうした状況の なかでスキピオ(小アフリカヌス)(前1...
このカルタゴが滅びた年に、他のギリシア都市が衰退してい...
第2回ポエニ戦争の勝利によってローマは海外に広大な属州...
最大の問題は中小土地所有農民の没落である。彼らは重装歩...
中小土地所有農民の没落のもう一つの大きな原因は、ラティ...
もう一つの大問題は、奴隷制の問題である。ローマがイタリ...
前3世紀頃から元老院を中心に政権を独占してきたのは、新...
ローマ市民のなかで貴族に次ぐ階級としてのし上がり、経済...
一方で中小農民は没落して離農し、「遊民」となって各地を...
こうした状況のなかで、下層民の権利と利益を守るという口...
このようにローマでは平民の間にも 貧富の差が拡大し、そ...
兄、ティベリウス・グラックス(前162頃~前132)は...
彼は貧民のために論じるときはいつも「イタリアの野に草を...
弟、ガイウス・グラックス(前153頃~前121)は、兄...
2.
4 ローマ帝国
(2)ローマの発展と内乱(その2)
グラックス兄弟の改革が失敗に終わった後、ローマでは閥族...
前100年兵士への土地分配をめぐって閥族派と結んだ部下...
同盟市戦争が鎮圧された前88年にミトリダテス戦争(前8...
マリウスの後ローマで一時独裁権を握ったのがスラ(前13...
スラの死後、台頭してきたのがポンペイウス(前106頃~...
スパルタクスの反乱(前73~前71)は当時ローマを揺る...
前73年、カプアの剣奴養成所から78人の剣奴がスパルタ...
スパルタクスの反乱の鎮圧に功績をあげ、前70年にコンス...
しかし、その後自分の軍隊への土地分配などをめぐって元老...
クラッススは名門の出身で、マリウスとスラの対立ではスラ...
カエサル(シーザー)はローマの古い名門ユリウス家の出身...
イスパニア遠征で功績をあげてローマに帰国、ポンペイウス...
このガリア征討については「ガリア戦記」で自ら記録してい...
前54年にカエサルの娘でポンペイウスの妻となっていたユ...
一方、「国家防衛の大権」を与えられていたポンペイウスは...
当時、エジプトのプトレマイオス朝は、王家内部の争いと原...
絶世の美女として有名なクレオパトラはマケドニア系のギリ...
ポンペイウスを追ってエジプトに進出したカエサルはクレオ...
彼はコリントやカルタゴに貧民を送り込み、植民市を建設し...
しかし、彼個人の神格化が進み、王位につこうとしたことか...
共和政擁護の英雄として歓呼されるというブルートゥス(前...
カエサルの死後、彼の姪の子で遺言によって養子となったガ...
彼らはバルカン半島に逃れて再起を計っていたブルートゥス...
この戦いで功績をあげたアントニウスの声望があがり、再び...
アフリカを得たレピドゥスはシチリアを要求してオクタヴィ...
東方を支配下に置いたアントニウスは、パルティア遠征の軍...
帰国後、オクタヴィアヌスの姉のオクタヴィアと結婚し(前...
前32年、オクタヴィアヌスはクレオパトラに対して宣戦を...
前31年9月、アントニウスの艦隊が出動し、有名なアクテ...
翌年の前30年夏、オクタヴィアヌス軍はシリアからエジプ...
3.
4 ローマ帝国
(3)ローマ帝国
ローマに凱旋したオクタヴィアヌスに、元老院は「プリンケ...
事実上は君主政・帝政だが共和政の伝統を尊重した彼の政治...
対外的には、後9年にトイトブルグの戦いでゲルマンに大敗...
アウグストゥスの死後、後継者として第2代目の皇帝となっ...
そして第5代皇帝となったのが、クラウディウスの後妻の子...
ネロの死によってユリウス=クラウディウス家(カエサル、...
トラヤヌス(位98~117 )はスペインに生まれ、軍人...
トラヤヌスのあと即位したハドリアヌス(位117~138...
ハドリアヌスの養子となり位を継いだアントニヌス=ピウス...
五賢帝の最後の皇帝であるマルクス=アウレリウス=アント...
彼の著書「自省録」はストア派の哲学者であった彼の自己反...
マルクス=アウレリウスは慣習を破って不肖の子、コンモド...
コンモドゥスの死後近衛軍はますます横暴となり、近衛軍や...
セヴェルスの死後、弟と共同統治皇帝となったが、弟を殺し...
235年に皇帝となったマクシミヌス(位235~238)...
この内乱のため辺境の防備は弱まり、これに乗じて北方のゲ...
4.
4 ローマ帝国
(4)古代の終末
ディオクレティアヌス(位284~305)はダルマティア...
再び統一と秩序を取り戻した帝国では皇帝は「ドミヌス」(...
新しい政治体制をしいたディオクレティアヌスは一方で古い...
四分統治はディオクレティアヌスという中心人物を失って崩...
コンスタンティヌス1世は、翌年の313年、「ミラノ勅令...
コンスタンティヌスはキリスト教を国家統一のために役立て...
内政ではドミナートゥスを確立し、官僚制度の整備、幣制改...
コンスタンティヌスの死後、三人の子が帝国を分けて統治し...
ユリアヌスの死後、ローマ帝国はますます衰退に向かい、東...
ヴァレンヌ帝の死後、共同統治者となったのが、テオドシウ...
ローマ帝国滅亡の直接的な原因はゲルマン民族の大移動であ...
大所領経営にも大きな変化がおきていた。共和制の末期から...
そこで奴隷所有者は奴隷の地位を向上させたり、没落した自...
都市の没落に伴い、商工業も振わなくなり、貨幣経済も次第...
5.
4 ローマ帝国
(5)ローマ文化
ローマ人は、ギリシア人のような独創的な文化を創り出すこ...
文学、哲学、歴史学などの分野はギリシア・ヘレニズム文化...
文学の分野はギリシア文化の模倣という面が強いが、ラテン...
キケロ(前106~前43)は政治家・雄弁家・散文家とし...
哲学の分野では、ヘレニズムの哲学を継承し、ストア派の哲...
歴史学もギリシアの歴史学を継承発展させた。古代ローマの...
有名なカエサルは歴史家としても名を残している。「ガリア...
プルタルコス(46頃~120頃)の著「対比列伝」(英雄...
地理学者としては古代ローマのギリシア人であるストラボン...
自然科学の分野では、天文学・地理学者のプトレマイオス(...
芸術や学問の分野ではギリシア文化を模倣したといわれるロ...
特にローマ法はローマ人が後世に残した最大の遺産であり、...
最初の頃はローマ市民権を持つローマ市民にのみ適用される...
後にビザンツ皇帝のユスティニアヌスが法学者トリボニアヌ...
土木建築はローマ人が最も得意とした分野で、アッピア街道...
さらに5万人を収容したコロッセウム(円形闘技場)は今もロ...
カエサルは、前46年にエジプトの太陽暦を修正したユリウ...
6.
5.キリスト教の成立と発展
5 キリスト教の成立と発展
(1)キリスト教の成立
(2)キリスト教の発展
(1)キリスト教の成立
キリスト教の始祖はいうまでもなくイエスである。しかしイ...
30才の頃ユダヤの預言者(人々の信仰に厳しい反省を求め...
彼の説教と病気を直すなどの数々の奇跡によってイエスの名...
イエスはペテロ・ヤコブ・ヨハネなどの12人の弟子を選び...
ところが処刑され、いったん墓に葬られたイエスが三日後に...
(2)キリスト教の発展
キリスト教は以後、ペテロ・パウロなどの使徒たちによって...
64年、「ローマの大火」があり、ローマは数日間燃え続け...
当時はキリスト教の信仰はもちろん許されていなかったので...
このネロの迫害のとき、難を逃れてローマ市街に出たペテロ...
キリスト教は当時のローマの多神教とあいいれず、またロー...
またマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネによるイエスの言行を記...
歴代の皇帝の迫害にもかかわらず、キリスト教徒はますます...
コンスタンティヌス帝はキリスト教徒の団結を国家統一のた...
キリスト教を公認したコンスタンティヌス帝の甥に当たるユ...
その後379年に皇帝となったテオドシウス1世は、380...
その後もさまざまな教説があらわれ異端とされた。特に43...
この頃までに教会の組織化が進み、聖職者身分が成立すると...
1.
第3章 アジアの古代文明
6.イラン文明
1 イラン文明
(1)パルティアとササン朝
(2)イラン文明
(1)パルティアとササン朝
インド=ヨーロッパ語族のイラン(ペルシア)人は、南ロシ...
しかし、セレウコス朝の支配力の低下とともに、各地の有力...
バクトリア王国の建設に刺激されてイラン系遊牧民のパルニ...
パルティアはセレウコス朝を圧迫して領土を広げ、前2世紀...
パルティアは文化的には初めはギリシア・ヘレニズム文化の...
パルティアは実に約500年間にわたって続いたが、その割...
ササン朝ペルシア(226~651)の創始者であるアルデ...
第2代皇帝シャープール1世(位241~272)は有能な...
第10代皇帝シャープール2世(位310~379)も英主...
混乱に陥ったこの国を再興したのが、ササン朝最大の名君と...
しかし、その後内紛が続き、国力は次第に弱体化し、最後の...
(2)イラン文明
パルティアは文化的には初めはギリシア・ヘレニズム文化の...
ササン朝は、イランの伝統文化の復興を図り、イラン民族文...
しかし、その地理的な位置から周辺の宗教が流入し、国教で...
バビロニアに生まれたマニ(216頃~276)は初めはゾ...
マニ教と同様に弾圧された宗教にマズダク教がある。マズダ...
ササン朝では美術・工芸が独自の発達を遂げた。ペルシア固...
ササン朝美術は南北朝・隋・唐の中国を経て、飛鳥・奈良時...
1.
7.インドの古典文明
2 インドの古典文明
(1)インダス文明
(2)アーリヤ人の侵入
(3)新宗教の成立
(1)インダス文明
四大文明の1つであるインダス文明は、前2300頃から前...
1920年にインドの学者が仏教遺跡を発掘中にハラッパー...
その後の発掘により、モヘンジョ=ダロからは都市計画に基...
インダス文明には西アジア、特にメソポタミア文明の影響が...
インダス文明には謎が多い。このすぐれた文明の担い手がま...
(2)アーリヤ人の侵入
中央アジアを原住とするインド=ヨーロッパ語族の東方系、...
農業・牧畜を行うようになったアーリヤ人は太陽、空、山、...
アーリヤ人は前1000年頃から鉄の農具と武器を使い始め...
このような社会の発展とともに、階級の分化が進んだ。この...
ヴェーダのなかに「創造神の口からバラモンが、両腕からク...
この4つのヴァルナは、社会生活の複雑化、職業の細分化と...
ジャーティは生まれを同じくする集団の意味で、職業・出身...
カースト制度のもとでは、職業は世襲である。各カーストの...
カースト制度に関するもう1つの大きな問題は、カーストの...
(3)新宗教の成立
前7世紀頃、ガンジス川流域を中心に有力都市国家が出現し...
当時、祭式万能の形式主義に陥っていたバラモン教への反省...
ヴァルダマーナ(前549頃~前477頃)は、シャカと同...
ジャイナ教は、霊魂を清く保つためには物質を遠ざけること...
ヴァルダマーナと同じ頃に、ガウタマ=シッダールタ(前5...
父はシャカ族の王、母マーヤーは彼の死後7日目に亡くなり...
彼の説の中心は四諦説と八正道である。四諦説はまさに哲学...
彼は八正道を実践すれば誰でも悟りの境地(解脱、人生の苦...
1.
2 インドの古典文明
(4)古代統一国家の成立
(5)クシャーナ朝と仏教の革新
(4)古代統一国家の成立
前7世頃のインドはいわゆる十六王国時代であるが、前6世...
マガダ地方は古代インドの政治・経済・文化の中心地であり...
マガダ国では前4世紀後半に、シシュナガ朝に替わり、ナン...
その頃、中央アジアを征服したアレクサンドロス大王はカイ...
このアレクサンドロス大王のインド侵入は、インド人の間に...
チャンドラグプタはカーストの卑賤な階級から身を起こし、...
彼の後は子のビンドゥサーラが継ぎ、国力はますます充実し...
その統一事業を継承・完成させ、マウリヤ朝の全盛期を現出...
彼は自分が理想とするダルマ(法と訳される、人間の普遍的...
また第3回目の仏典結集(釈迦の教説の編纂)を行い、仏教...
マウリヤ朝は、アショーカの死後急速に衰退し、約50年後...
(5)クシャーナ朝と仏教の革新
前2世紀前半、中国の西・モンゴル高原の南で活躍した月氏...
大月氏はバクトリアのイラン人を支配下に置き、その地に5...
このクシャーナ族に、前1世紀の後半にクジュラ=カドフィ...
クシャーナ朝(1~3世紀)の第3代の王が有名なカニシカ...
カニシカ王はあつく仏教を保護し、仏教徒からは第二のアシ...
大乗仏教は、保守化・形式化した従来の仏教(小乗仏教と呼...
大乗仏教は2~3世紀頃のナーガールジュナ(竜樹)によっ...
インドの仏教は釈迦の没後も、長い間その教祖の像を持たな...
この地方はアレクサンドロス大王の東方移住政策によって多...
ガンダーラ美術は5世紀頃まで続いたが、時代が下がるにつ...
クシャーナ朝が栄えていた頃、デカン高原を中心に栄えてい...
サータヴァーハナ朝は外国勢力の一つであるサカ族の南下と...
この時期に全盛期のローマとの間に季節風を利用した貿易が...
2.
2 インドの古典文明
(6)ヒンドゥー国家と古典文化
3世紀になるとクシャーナ朝は衰退し、北インドは分裂状態...
彼は即位した320年2月26日を紀元とする「グプタ紀元...
チャンドラグプタ1世を継いだサムドラグプタは領土をパン...
チャンドラグプタ2世は「武勇の太陽」と名乗り、中国では...
クシャーナ族をはじめ、インドにおける全ての外国人勢力を...
インドのシェークスピアといわれるインドの文豪カーリダー...
またインドが世界に誇る二大叙事詩である「マハーバーラタ...
「マハーバーラタ」・「ラーマーヤナ」の原形は紀元前4世...
「マハーバーラタ」・「ラーマーヤナ」で活躍するクリシュ...
グプタ朝のもとでの「インド人のインド」という民族意識の...
民衆の間でヒンドゥー教の信仰がひろまり、仏教信仰が急速...
ヒンドゥー教は古代インドの宗教でカースト制とも結びつい...
ヒンドゥー教は多神教で無数の神々が信仰されているが、そ...
ヒンドゥー教には特定の教義はないが、霊魂は不滅であり、...
「マヌの法典」はそれ以前の法典を集大成して、後200年...
グプタ朝の時代、ヒンドゥー教の台頭によって民間の仏教は...
ヒンドゥー教が人々の生活に密接に結びついていたのに対し...
ナーランダ僧院は、5世紀にグプタ朝のクマラグプタ1世が...
仏教美術の面では、クシャーナ朝時代に栄えたギリシア的な...
有名なアジャンターの石窟寺院は、前3世紀頃から後8世紀...
4世紀前半以来、100年余にわたって繁栄したグプタ朝も...
グプタ朝の滅亡後、北インドには小国が分立した。こうした...
ハルシャ王は、初めはヒンドゥー教(シヴァ神)を信仰した...
唐の僧、玄奘がインドを訪れ、ナーランダ僧院で学んだのも...
しかし、ヴァルダナ朝はハルシャ=ヴァルダナ一代で終わる...
3.
8.東南アジアの諸文明
3 東南アジアの諸文明
(1)インド文化の普及と東南アジア文化の形成
現在の東南アジアの地域では、隣接する2つの文明、いうま...
ヴェトナム北部では早くから中国文化の影響を受けて青銅・...
インドシナ半島で最初に栄えた国は、1、2世紀頃から7世...
扶南はカンボジアを中心に、インドシナ東海岸・南部一帯、...
カンボジアで扶南が栄えていた頃、ヴェトナム南部を中心に...
林邑は192年に後漢の衰退に乗じて独立し、8世紀中頃ま...
8世紀中頃になるとチャムパーの中心が南方に移動した。こ...
8世紀の後半チャムパーの中心が再び中部に戻った。以後の...
占城も海上中継貿易によって国力を維持し発展したが、中国...
扶南や林邑が繁栄していた頃、メコン川の中・下流域ではク...
真臘は6世紀中頃に扶南から独立し、7世紀中頃には扶南を...
12世紀前半に出たスールヤヴァルマン2世(位1113~...
12世紀から13世紀の初めに在位したジャヤヴァルマン7...
メナム川下流域では、7世紀にモン人の国家であるドヴァー...
同じ頃イラワディ川の中流・下流域ではビルマ・チベット系...
ミャンマーの沿海地方に住んでいたモン人は、9世紀にペグ...
シナ・チベット族のビルマ人は、7世紀頃から数世紀にわた...
諸島部では、シュリーヴィジャヤ(中国名、室利仏逝)が7...
シュリーヴィジャヤは、8世紀から9世紀中頃にかけてシャ...
シャイレーンドラ朝は8世紀半ばから9世紀前半にかけて、...
一時弱体化したシュリーヴィジャヤは、10世紀には再び繁...
しかし、シュリーヴィジャヤは13世紀にはいると、イスラム...
1.
9.中国の古典文明
1 黄河文明
2 殷と周
1 黄河文明
黄河文明は黄河の中・下流域で栄えた古代文明で、新石器時...
前5000年~前4000年頃から黄河の中・下流域の黄土...
仰韶文化期の人々は粟・黍を栽培し、豚・犬を飼い、また鹿...
1930・31年に山東省歴城県竜山鎮の城子崖遺跡が発掘...
竜山文化期(前2000~前1500頃)になると農具・農...
2 殷と周
黄河中・下流域に多くの都市国家(邑)が出現して争う中か...
中国の漢代の有名な歴史家・司馬遷は「史記」のなかで、中...
五帝は黄帝(漢民族の祖先)・せんぎょく(黄帝の孫)・帝...
夏王朝は以後17代450年間続いたが、暴君桀(けつ、殷...
1899年、王懿栄という学者がマラリヤの持病に悩まされ...
王氏と友人の劉氏は苦心の末、安陽県の郊外の小屯村(殷の...
羅振玉・王国維は辛亥革命(1911)後、京都に亡命し、...
1928年から1937年にかけて殷墟(河南省安陽県小屯...
殷墟の発掘により宮殿跡の周辺から竪穴式の住居跡、大小1...
殷王朝は伝説では夏を滅ぼした湯王から30代続き、紂王(...
殷の王は黄河中流域の諸都市国家連合の盟主として黄河流域...
殷の文化を代表するのは高度な青銅器である。青銅器は当時...
殷の後半の都は「商」と呼ばれていたが、殷の滅亡後「商」...
陜西の渭水流域から興った周(前1027頃~前256)は...
武王は、渭水のほとりで釣りをしていた太公望呂尚と出会い...
武王は周王朝を創建し、在位7年で亡くなり、その子成王が...
周の封建制度は、殷の制度を模倣して、一族・功臣や各地の...
日本やヨーロッパにも封建制度があった。ヨーロッパの場合...
これに対して周の封建制度では、主君と家臣の関係は、本家...
周の封建制度では周の王(本家)と一族の諸侯(分家)の関...
4代目の昭王は東南地方に支配権を確立しようとした。5代...
幽王は皇后と太子を廃して、寵愛した絶世の美女褒じが笑わ...
前770年、西北から犬戎が侵入してきた。幽王は必死にな...
周は800年近く続いた王朝であるが、中国史ではこの前7...
1.
3 春秋戦国と鉄器の普及
3 春秋戦国と鉄器の普及
東周の前半にあたる春秋時代(前770年~前403年)に...
春秋時代の初めには約200余りの国(小さな都市国家も含...
覇者のうち代表的な五人は「春秋の五覇」と呼ばれる。誰々...
初めて覇者となったのは斉の桓公である。斉は中原から離れ...
斉にかわって盟主となったのが山西省を本拠とした晋である...
春秋時代の中期以後は晋を中心とする北方と楚を中心とする...
漢民族が長江流域に進出し、長江流域が中国民族の文化的領...
前述した蛮夷の国で長江の中流域を本拠とした楚は、前63...
楚と晋の対立はその後も続いたが、勝敗はつかず、前545...
勾践は降伏し、西施(中国四大美人の一人)を夫差にさしだ...
これが有名な「臥薪嘗胆」(復讐の志を抱いて長い間艱難辛...
呉を滅ぼした越王勾践は勢いに乗じて中原に進出して春秋時...
戦国時代がいつからかについても諸説があるが、一般的には...
戦国時代になると、春秋時代までは衰えたとはいえまだ尊ば...
こうした状況のなかで、春秋時代には200もあった国が、...
七雄を中心とする激しい抗争の中で、前4世紀に入ると、ま...
秦は、はじめ甘粛省の東部にあり、前8世紀に周の諸侯とな...
商鞅は国の経済のもとを農業におき、農地の開拓を押し進め...
孝公の死後、商鞅は反対派に反乱を企んでいると訴えられ追...
秦の強大化・東方への進出は、中原の諸国にとっては脅威で...
そして六国の諸侯に 「六国が連合すれば、国土の面積は秦...
蘇秦の合従策を破り、連衡(横に連なるの意味)策を成立さ...
張儀は「六国が同盟しても秦には勝てないでしょう。それよ...
戦国時代になると戦闘の様子も大きく変わってきた。従来は...
前259年、秦は趙を攻めて、40万人の趙兵を穴埋めにし...
春秋時代の末期から戦国時代にかけては中国の社会が大きく...
春秋時代の末期から戦国時代にかけて中国社会が大きく変化...
戦国時代には鉄製農具が一般に普及するようになり、また牛...
貨幣経済の発展はますます商業を、そして鍬・鎌などの農具...
貨幣としては古くは貝貨(東南アジアで取れる子安貝など)...
商工業や貨幣経済の発展は王侯とならぶほどの富を持った富...
こうした社会の変化の中で、周代の封建制度を初めとする古...
2.
4 古典思想の開花
4 古典思想の開花
春秋末から戦国時代にかけて、中国社会は大きく変化した。...
諸子百家の中で、以後の中国のみならず、朝鮮・日本などの...
孔子(前551頃~前479)は、春秋末の魯(周公の子孫...
孔子は混乱した社会秩序(礼)を回復するために周の礼に帰...
有名な「論語」は、弟子達が孔子の言行を記録した書物であ...
孔子の考えは、徳をもって天下を治めるという徳治主義であ...
その子思の門人に学んだのが、孔子の教えを継承して大成し...
子思の門人に学んだ後、梁・斉・宋などの諸国を遊説し、王...
孟子は、人間は誰でも他人の悲しみを見過ごすことの出来な...
孟子は上の思想を発展させ、仁・義の徳を備えた立派な人物...
私たちがよく使う「革命」という言葉はここに由来している...
戦国の末期の荀子(前298頃~前235)は趙の国に生ま...
だから礼による教化が必要であり、礼によって社会秩序や道...
儒家の思想を批判し、儒家から攻撃された墨子(前480頃...
墨子は儒家の仁愛は家族愛であり、自分の親や兄弟に向けら...
兼愛思想は、当然のことながら、国家間の戦争を否定する反...
当時にあっては異端とも言うべき、特徴ある思想を展開した...
道家は老子を祖とする学派である。老子については孔子と同...
「大道廃れて仁義有り」(本当の大道がすたれると仁とか義...
老子は孔子のいう親孝行だとか墨子のいう兼愛など人間とし...
老子は宇宙の根源・宇宙を動かす力を道と呼んだ。道は知性...
老子の思想を継承発展させ、道家の思想を確立したのが荘子...
さらに荘子は道は絶対・無差別であると説き、自然のままの...
道家の思想は老子と荘子の名前を取って老荘思想とも呼ばれ...
法家は他の学派が説く礼とか道徳は、実際に国家を統治して...
法家思想を大成したと言われるのが韓非である。彼は韓の王...
この儒家・墨家・道家・法家のほかにも多くの学派が現れた...
兵家は用兵や戦術を説いた。孫子・呉子などが有名である。...
前述した合従策を唱えた蘇秦と連衡策を説いた張儀に代表さ...
農家の許行は、君主も民も平等に農耕に従事し、勤労により...
公孫竜に代表される名家は、名(言葉)と実(実体)の関係...
陰陽家は陰陽五行説を説く派であるり、鄒衍(すうえん)は...
陰陽家は天文・暦学に通じ、天体の運行によって起きる現象...
この時代には「詩経」や「楚辞」などの文学作品もまとめら...
「詩経」は中国最古の詩集で、後にいわゆる「五経」のひと...
戦国時代の楚の王族であった屈原(前340~前278)は...
3.
5 秦の統一
5 秦の統一
中国を初めて統一したのが、中国史上最も有名な人物の一人...
始皇帝の父、後の荘襄王は、秦の強敵であった趙の人質とし...
呂不韋は荘襄王を趙から脱出させ、秦に帰国させるために、...
荘襄王は在位3年にして亡くなり、太子の政が秦王となった...
中国を統一した秦王の政は、王の称号をやめ皇帝(伝説上の...
大帝国の統治にあたっては、丞相の李斯(?~前210、法...
中央官制、地方行政については、中央に丞相(最高行政官、...
また今まで7つの国に分かれていたため、国によって異なっ...
また民間の武器を没収し、天下の富豪12万戸を都の咸陽(...
始皇帝は国内の制度を整えると領土の拡大をはかり、外征に...
中国の戦国時代の頃から、蒙古高原で活躍したのが匈奴であ...
そして匈奴の侵入に備えて有名な「万里の長城」を築かせた...
南方遠征も行われた。漢民族は当時、長江流域まで居住地域...
今や秦の領土は、殷や周の時代に比べると比較にならないほ...
始皇帝は、丞相李斯の建策をいれ、有名な「焚書・坑儒」と...
ついで翌年には「坑儒」が行われた。多くの 儒学者が捕ら...
上に述べてきたようなことが、統一後のわずか10年程の間...
大土木事業としては、まず万里の長城があげられるが、その...
さらにその始皇帝陵の東方の地下に、死後の始皇帝を守る秦...
始皇帝は、前210年に5回目の行幸を行ったが、江南地方...
始皇帝の死後まもなく各地で反乱が起きた。その中で有名な...
そのとき陳勝が同じ立場の仲間を集めて言った言葉が「王侯...
中国最初の大規模な農民反乱であった陳勝・呉広の乱は鎮圧...
項羽と劉邦の抗争は中国史上最も有名な出来事の一つであり...
項羽(前232~前202)は、代々楚の将軍の家に生まれ...
劉邦(前247~前195)は、江蘇省の沛(はい)の中流...
項羽が秦の主力軍を相手に戦い進撃が遅れたのに対し、劉邦...
都に入った劉邦は三世皇帝の命を助け、軍には略奪を禁じ、...
劉邦が都に入って2ヶ月ほど遅れて、項羽はようやく函谷関...
項羽は数日後、咸陽に入り、三世皇帝(子嬰)を殺し、阿房...
先に都に入った劉邦であったが、当時の兵力は項羽の40万...
覇権を握った項羽であったが、狭量な性格が災いし、評判は...
劉邦が漢中王になって5年後、項羽に対する反乱が起こった...
前202年、劉邦はついに項羽軍を垓下(がいか)に追い詰...
項羽は夜陰にまぎれて脱出した。800余騎が従った。つい...
劉邦は、中国を再び統一し、前202年に漢(前漢)王朝を...
4.
6 漢の内政と外征
6 漢の内政と外征
項羽を滅ぼして中国を統一した高祖(位202~前195)...
劉邦は皇帝となるや、一族や功臣を諸侯に封じ、郡県制と封...
当時、北方では匈奴が冒頓単于(ぼくとつぜんう、単于は匈...
中国を統一して意気盛んな高祖は、自ら32万の軍を率いて...
高祖の死後、呂后(高祖の皇后)の子の恵帝(位195~1...
恵帝には子がなかったので、后に身ごもったふりをさせ、後...
呂后は摂政となり、呂氏一族の者を次々に王や諸侯に封じ、...
文帝は在位23年、仁政にはげみ、連座制など苛酷な刑罰を...
高祖は郡国制を採用し、一族の者を各地に封じて王・侯とし...
前154年、呉王(高祖の兄弟の子)の領土の2郡(銅と塩...
景帝は貨幣の私鋳を禁止して貨幣の鋳造権を掌握し、財政の...
景帝の死後、九男の劉徹が16歳で即位した。中国史上有名...
武帝の時代には、呉楚七国の乱の平定後、諸王・諸侯の領土...
武帝は即位早々に賢良方正の士を推薦するよう命じた。この...
官吏任用についても、儒学が重んじた仁・義などの徳のある...
武帝の名を有名にしているのは、積極的な対外政策を採り、...
武帝がまず取りかかったのが、北方から中国を脅かしていた...
武帝が即位した頃、匈奴の捕虜から「月氏(戦国時代には蒙...
張騫(?~前114)は武帝からつけられた100余人の従...
張騫の大旅行の目的は達成されなかったが、彼がもたらした...
武帝は、張騫の帰国前の前129年に衛青(?~前106)...
衛青と並んで匈奴征討に活躍したのが、彼の甥の霍去病(か...
中央アジアの大宛(フェルガナ)は、汗血馬(血の汗を出す...
李広利は、前99年・前97年に匈奴遠征を行ったが失敗に...
前119年、匈奴に大打撃を与えて漠北に追いやった漢は以...
南方では、秦末の混乱に乗じて、南海郡慰(軍事の最高官)...
東方の朝鮮では衛氏朝鮮(前190頃~前108)が続いて...
衛氏朝鮮も入朝しなかったので、前109に大軍を陸海路か...
このようにして漢は東は朝鮮、南はヴェトナム、西は中央ア...
前119年には、塩と鉄を専売とした(後に酒も専売となる...
前115年には、均輸法が発布された。均輸法は、均輸官を...
武帝の死後、昭帝(位前87~前74)が8歳で即位し、若...
当時、匈奴では内紛が起こり5人の単于が並び立った。これ...
2年後に宣帝は亡くなり、元帝(位前49~前33)が即位...
元帝の頃、後宮には多くの宮女がいて、皇帝は全ての女を見...
漢では、武帝の頃から皇帝の秘書の長官(尚書令)が重用さ...
元帝のあとの成帝(12代、位前33~前7)が治世の後半...
王莽(おうもう、前45~後23)は、父が早く死んだので...
王莽は、成帝の次の哀帝が在位6年で死ぬと、9歳の平帝(...
5.
7 後漢の再統一
7 後漢の再統一
王莽(前45~後23、位後8~23)は、いわゆる「禅譲...
王朝の交替には「禅譲」と「放伐」の2つの形式がある。「...
王莽は、周の政治の復活を掲げ、復古主義的な改革を行った...
前漢末以来、大土地所有制が進み、各地の地主は豪族化して...
豪族による土地の兼併が進み、多くの農民は土地を失い、土...
また貨幣制度も、何度となく改め、様々な種類の貨幣を発行...
さらに儒教思想により、周辺異民族の「王」の称号を奪い、...
18年に山東で起こった農民反乱は、たちまち華北一帯に及...
劉秀(前6~後57)は、前漢の6代皇帝景帝の6代目の子...
前23年に緑林軍は長安に入り、王莽を殺した。「新」はわ...
前25年には赤眉軍が長安に入り、劉玄を殺し、掠奪と暴行...
統一後、光武帝はヴェトナムに出兵し、徴(チュン)姉妹の...
内政では、豪族と結んで外戚の力を抑え、豪族との衝突を出...
光武帝は、民生の安定をはかり奴隷解放令を何度も出した。...
光武帝は在位33年、57年に63歳で亡くなり、明帝(位...
明帝の時代には国内が安定し、国力は隆盛に向かい、明帝は...
73年、竇固(とうこ)らが大いに北匈奴を破った。この匈...
班超は、以後西域に留まること31年、この間、西域都護(...
班超は、97年に部下の甘英を大秦国(ローマ帝国のこと)...
明帝の時代の67年に仏教が中国に伝わったと歴史書にはあ...
明帝の次の章帝(位75~88)までは、外戚が遠ざけられ...
章帝から和帝の時代は、班超の活躍により西域に領土が拡大...
外戚は、ふつう母方の親戚をいうが、今までに出てきた外戚...
宦官は後宮に仕える去勢された男子のこと。古代より西アジ...
後漢では、4代和帝(10歳で即位)以来、幼少皇帝が相次...
皇帝の交替の度ごとに、外戚が権勢をふるい、外戚が排除さ...
桓帝(位146~167)の治世の終わり頃の166年に、...
8代順帝の皇后の梁(りょう)氏が外戚としてほぼ20年間...
第2次「党錮の禁」は霊帝の時代の169年に起きた。宦官...
二度にわたる「党錮の禁」によって、党人派は壊滅し、宦官...
宦官に操られた霊帝(167~189)の治世の184年に...
有名な「三国志演義」は最初の方で「この度の乱の源をただ...
政治の乱れ、国家財政の窮乏は租税の増徴となって農民にか...
黄巾の乱の指導者張角は、河北省に生まれ、秘密宗教結社の...
184年、張角は河北で政府打倒を掲げて挙兵した。彼は自...
曹操の長子、曹丕が魏王になると、後漢最後の皇帝献帝(1...
6.
4 中国の古典文明
8 漢の社会と文化
戦国時代頃から始まった大土地所有制は漢代に盛んとなり、...
前漢の末、哀帝の時(前7)に、大土地所有の制限と奴婢を...
当時の官吏任用制度は「郷挙里選」(有徳者を地方長官が推...
こうして豪族は経済的・社会的だけでなく、政治的にも官職...
漢代の文化の上で特に重要なのは、儒学の官学化・歴史書の...
漢代の初めには、法家・道家思想が支配的であったが、前漢...
儒学が官学とされ、官吏になるためには儒学の教養が必要と...
中国は歴史の盛んな国で、古くから多くの歴史書が書かれて...
正史は、「史記」、「漢書」、「後漢書」、「三国志」・・...
「史記」の著者は司馬遷(前145頃~前86頃)である。...
「史記」は、五帝から武帝の時代までを、「本紀」、「表」...
「本紀」は、王・皇帝の事績をもとに王朝の歴史を描いたも...
「表」は系図・年表で10巻から成り、「書」は、制度・音...
「史記」は正史の第1とされ、司馬遷は「中国の歴史の父」...
班固(32~92)は、陜西省出身で、先祖は楚の名族、司...
「漢書」120巻は、前漢の高祖から王莽滅亡までの前漢一...
この「漢書」の地理志にはじめて倭のことが書かれている。...
蔡倫(さいりん、?~121頃)は、紙の発明者として知ら...
それまでは書写の材料としては木簡・竹簡が使われていた。...
書体としては、隷書が漢代を通じて広く使われたが、後漢末...
中世編へ
7.
第4章 内陸アジアの変遷(省略)
終了行:
世界史ノート(古代編)
はじめに
長い教員生活も残り2年となった。今年度の2年生の世界史...
長い間教えてきたというだけで、浅学非才な私の力では、世...
内容的には、普通科で世界史Bで受験する生徒を対象とする...
授業内容については、過去に読んだ色々の本から得たものを...
内容に思い違いや誤りが多くあるのではないかと心配してい...
年表・地図・写真・系図等については省略させてもらった。...
第1章 先史の世界
第1章 先史の世界
1 人類の出現
(1)最古の人類
人類の誕生は今日では約400万年前にさかのぼるとされて...
一般的には、人間と他の動物との違いを、直立して二足歩行...
ともあれ、この地球上に猿とも人類とも呼べる 動物が登場...
現在のところ最古の人類とされているのが、アフリカで発見...
地球の歴史でいうと更新世(洪積世)、いわゆる氷河時代に...
(2)旧人
約20万年前になると、一層進化した旧人が現れた。その代...
(3)新人の登場
更新世(いわゆる氷河時代)の末期(約4万年~1万年前)...
この頃になると、同じ打製石器と いっても、以前とは比較...
こうして採集や狩猟・漁労の 生活が従来よりはるかに豊か...
(4)新環境への適応
いまから約1万年程前、第4氷期が終わり、後氷期にはいる...
2 文明への歩み
(1)農耕・牧畜の開始
人類が従来の採集や狩猟・漁労の生活から農耕・牧畜の生活...
考古年代では、 従来の採集や狩猟・漁労の生活に頼ってい...
狩猟から農耕社会に移っていく約1万年前の地球上の人口は...
農耕・牧畜の開始はどのようにして始まったのであろうか。...
しかし、農耕・牧畜の発達によって人々の生活は安定し余裕...
このような変化が いち早くおこったのは、ナイル川、ティ...
これらの地域は、現在のわれわれからみるとむしろ自然条件...
これについてイギリスの歴史学者トインビー(1889~1...
人類の歴史は先史時代から歴史時代へと移っていく。先史時...
1.
第1章 先史の世界
1 人類の出現
(1)最古の人類
人類の誕生は今日では約400万年前にさかのぼるとされて...
一般的には、人間と他の動物との違いを、直立して二足歩行...
ともあれ、この地球上に猿とも人類とも呼べる 動物が登場...
現在のところ最古の人類とされているのが、アフリカで発見...
地球の歴史でいうと更新世(洪積世)、いわゆる氷河時代に...
(2)旧人
約20万年前になると、一層進化した旧人が現れた。その代...
(3)新人の登場
更新世(いわゆる氷河時代)の末期(約4万年~1万年前)...
この頃になると、同じ打製石器と いっても、以前とは比較...
こうして採集や狩猟・漁労の 生活が従来よりはるかに豊か...
(4)新環境への適応
いまから約1万年程前、第4氷期が終わり、後氷期にはいる...
2 文明への歩み
(1)農耕・牧畜の開始
人類が従来の採集や狩猟・漁労の生活から農耕・牧畜の生活...
考古年代では、 従来の採集や狩猟・漁労の生活に頼ってい...
狩猟から農耕社会に移っていく約1万年前の地球上の人口は...
農耕・牧畜の開始はどのようにして始まったのであろうか。...
しかし、農耕・牧畜の発達によって人々の生活は安定し余裕...
このような変化が いち早くおこったのは、ナイル川、ティ...
これらの地域は、現在のわれわれからみるとむしろ自然条件...
これについてイギリスの歴史学者トインビー(1889~1...
人類の歴史は先史時代から歴史時代へと移っていく。先史時...
2.
第2章 オリエントと地中海世界
1.古代オリエント
1 古代オリエント
(1)メソポタミアと小アジア
オリエントとは”太陽の昇る所”の意味で古代ローマ人からみ...
メソポタミアとは”川の間の地方”の意味である。ティグリス...
メソポタミアで活躍した最初の民族はシュメール人である。...
楔形文字の解読のきっかけをつかんだ のはドイツの学者、...
しかし、絶え間ない都市国家相互の戦争によって、シュメー...
アッカド人はメソポタミアの北部から興り、特にサルゴン1...
やがてセム系のアムル人がバビロンを都としてバビロン第1...
ハンムラビ法典は 1901~02年にペルシアのスサで発...
しかし、バビロン第1王朝もハンムラビ王の死後、衰退し、...
なかでもヒッタイトは前1650年頃ヒッタイト帝国を建設...
ヒッタイトの滅亡後、 それまで秘密にされていた製鉄の技...
ヒッタイトのほかに同じインド=ヨーロッパ系のミタンニは...
この間、メソポタミアでは独自の文化が栄えた。宗教は多神...
1.
1 古代オリエント
(2)エジプトの統一国家
「エジプトはナイルのたまもの」、この有名な言葉はギリシ...
しかし、この治水事業と灌漑事業には膨大な労働力と大規模...
そして、前3000年頃、メネス王(ナルメルともいう、エ...
古王国時代は、前3000年頃から前2135年頃までで、...
古王国時代は第3王朝~第4王朝の時期が最盛期を迎えたが...
ピラミッドはいうまでもなくファラオ(”大きな家”の意味で...
こうしたなかで世界中を 驚かしたのが、1922年に発掘...
エジプト人は霊魂不滅・再生の信仰をもった。 墓に副葬さ...
ヘロドトスの伝える最上級のミイラの製法は 次の通りであ...
古王国の第7王朝の頃から国内は混乱・分裂していった。
こうした状況の中からナイル川の 中流域のテーベの豪族が...
ヒクソスの支配下で苦しんだエジプトではテーベを中心とす...
この第18王朝の3代目の王、トトメス3世(位前1504...
第18王朝に始まる新王国の時代は「帝国時代」ともよばれ...
アメンホテプ4世のあと王位についたのが、あの「黄金のマ...
第19王朝のラムセス2世(位前1290頃~1224頃 ...
第20王朝のラムセス3世の活躍を最後に帝国は急速に衰え...
エジプト人は、ナイルの洪水との戦いの中からすぐれた実用...
エジプト人の宗教も 多神教であった。主神は太陽神ラーで...
エジプト人が使用した文字には主として神殿や墓に使われた...
1798年、ナポレオンのエジプト遠征の際、ナイルのロゼ...
2.
1 古代オリエント
(3)地中海東岸の諸民族
地中海東岸のシリア・パレスチナ地方はエジプトとメソポタ...
アラム人はセム系の遊牧民で、前12世紀~8世紀にシリア...
フェニキア人もセム系の民族で、前2000年頃、現在のレ...
本国ではシドン (現在のサイダ)・ティルスなどの都市国...
フェニキア人は前12世紀頃から地中海貿易を独占していた...
商業民族であったフェニキア 人の文化史上最大の功績は、...
ヘブライ人は、セム系の遊牧民族で、古くはユーフラテス川...
エジプトに移住したヘブライ人は、新王国の外国人排斥機運...
ヘブライ人の子としてエジプトに生まれたモーゼは、神の声...
有名なモーゼの「十戒」は”私はお前の 神ヤハウェ、エジプ...
モーゼは、その後、約40年に及ぶ荒野での彷徨の間 の苦...
しかし、カナーンの地にはペリシテ人などが定着していて、...
ヤハウェの祭司 の支持によってサウルが最初の王となった...
彼の死後、子のソロモン (位960頃~922頃)が第3...
こうしたなかでソロモン王の死後、ヘブライ 王国は南北に...
南のユダ王国は、この後150年ほど生き延びた。一時はア...
この頃から 多くの預言者(神の言葉を預けられ、それを人...
これが歴史上名高い「バビロン捕囚」(前586~前538...
その期待は約50年後に、 アケメネス朝のキュロス2世の...
ユダヤ教は、多神教が一般的であるオリエントでは例外的な...
しかし、バビロン捕囚から解放された後も、彼らは国を再建...
3.
1 古代オリエント
(4)古代オリエントの統一
古代オリエント史は、前2000年から前1500年頃の諸...
アッシリア人はセム系の民族で、前2000年頃、北メソポ...
アッシリアが非常な成功を納めたのはヒッタイトから 学ん...
特に、サルゴン2世はイスラエル王国を滅ぼし、エジプトを...
”大征服王”といわれるアッシュール=バニパルの時には、史...
アッシリア王は、専制君主として、軍事・ 政治・宗教を統...
アッシリアの滅亡後、オリエントにはエジプト、リディア、...
アッシリアの滅亡後、オリエント諸国の主導権を握ったのは...
王国の最盛期は治世40年に及んだネブカドネザル2世(位...
しかし、王の死後、衰退し、前538年にアケメネス朝ペル...
メディアに臣従する王として、イラン高原の南西部のペルシ...
ついで2代目カンビュセス2世 (位前530~前522)...
アケメネス朝3代目の王が、史上有名なダレイオス1世(大...
この大帝国の統治にあたっては、全土を20の州に 分け、...
また首都と各都市を結ぶ軍道 (「王の道」)を建設すると...
さらに彼は大帝国を 統治する財源を確保するため、ダレイ...
宗教については、彼自身はゾロアスター教を信仰したが強制...
しかし、 商業圏をめぐる争いから小アジアのギリシア植民...
彼の死後、7代、8人の王が150年間帝国を 支配するが...
ペルシア人は、ゾロアスター(ツァラトゥストラ)(生没年...
その教義は、善神アフラ= マズダ(光明・善神)と悪神ア...
善神アフラ=マズダは光明神で あるので、火が神聖視され...
イランのベヒストゥーン碑文は、ダレイオス1世が戦勝を記...
4.
2.ギリシア世界
2 ギリシア世界
(1)エーゲ文明
(2)ポリスの成立
(1)エーゲ文明
古代文明のうちもっとも早く成立したオリエント文明は、周...
エーゲ文明は前20世紀頃から前12世紀頃までエーゲ海を...
この文明の内容は、19世紀の後半にドイツ人のシュリーマ...
シュリーマンは幼少の頃読んだ本のなかで、トロヤ落城の挿...
トロヤはホメロス(前8世紀頃 )の叙事詩「イリアス」に...
ところが第1回目の発掘で城壁、宮殿址と財宝を掘り出し、...
シュリーマンの後を受け継ぎ、クレタ文明を 発見したのが...
こうしてシュリーマンや エヴァンズによるこれらの遺跡の...
クレタ(ミノス)文明は、前20世紀頃から前15世紀頃に...
ミケーネ文明は前15世紀頃から前13世紀頃、最も栄えた...
(2)ポリスの成立
ギリシアは、平野に乏しく、山がちで、島が多く、海岸線は...
ギリシア人はインド=ヨーロッパ語族に属し、もともとは中...
そのギリシア人の南下・定住は二度にわたる。 前20世紀...
第2次移動は前12世紀頃で、ドーリア人が鉄器をもって南...
ドーリア人の侵入とミケーネ文明の滅亡後、長い混乱時代(...
ポリスの成立の過程はさまざまであるが、 多くは集住(シ...
もう1つの典型はスパルタである。スパルタは、ドーリア人...
数の上で少数の完全市民は十倍以上の人口を数えるペリオイ...
完全市民のスパルタ人の一生は次のようであった。新生児の...
古代ギリシアの歴史は、ポリスの発生・発展・没落の歴史と...
彼らは自らをヘレネス (英雄ヘレンの子孫の意味)と呼び...
宗教では、ギリシア神話でおなじみの主神ゼウス、その妻 ...
そして有名なホメロスの二大叙事詩である「イリアス」と ...
一番有名なのがオリンピア (ポリスの名)の競技である。...
1.
2 ギリシア世界
(3)ポリスの発展(その1)
ミケーネ時代の小王国は暗黒時代(前12世紀~前8世紀頃...
前750年から550年の約200年間の間に、ギリシア人...
この植民活動の結果、新しいポリスが次々に誕生していった...
植民活動による植民市の建設は、単にポリスの数が増えただ...
鋳造貨幣の 使用は前7世紀頃、リディアで始まったが、小...
さらに、商工業の発達によって武器の製造も盛んとなり、安...
従来、貴族が政治を独占して きた最大の理由は、彼らが騎...
従来の貴族政治の時代には、慣習は成文化されず、貴族によ...
貨幣経済の発展によって、平民の経済的地位が向上したと前...
貴族と平民の対立・抗争が激しくなり、一方で農民の困窮が...
王家にさかのぼる 名門生まれのソロンは前594年に「調...
財産政治は生まれでなく、 土地・財産によって官職を定め...
ソロンの改革後の30年間は、アテネは混乱の連続であった...
この山地党の首領であった名門出身の ペイシストラトス(...
彼は、後に反対派によって2度亡命を余儀なくされるが、三...
しかし、彼は自分の一族を高官に つけたり、また彼の二人...
クレイステネス(生没年不明 )は名門の出身で、民衆の支...
これは市民が僭主に なる恐れのある人物の名前を陶器の破...
もう1つの重要な改革が、従来の貴族の権力基盤となってい...
小アジアの西岸のイオニア地方には、ミレトスを中心とする...
これに対して、 前500年にミレトスを中心とするイオニ...
第1回ペルシア戦争 前492年、ダレオイス1世はトラキ...
第2回ペルシア戦争 前490年、ついにダレイオス1世は...
数日のにらみ合い後、激戦が始まった。10万人のペルシア...
2.
2 ギリシア世界
(3)ポリスの発展(その2)
(4)奴隷制度
(3)ポリスの発展(その2)
第3回ペルシア戦争 マラトンの敗戦を知ったダレイオス...
マラトン以来、ペルシアの来寇が予測される中でも、ギリシ...
ペルシアの侵攻が始まった頃、アテネはデルフィの神託を求...
ペルシア軍はマケドニアから南下し、ギリシア連合軍も出撃...
テルモピレーのギリシアの守備隊は、スパルタ王レオニダス...
テルモピレーの戦い後、ほとんど無抵抗状態のなかを南下し...
テミストクレスは、軍船の数で劣るため広い水域での戦いを...
こうして夜明けとともに狭い水域で史上有名なサラミスの海...
このサラミスの海戦はペルシア戦争の勝敗を決定づけた戦い...
三段櫂船の漕ぎ手は 1隻あたり170~200名なので、...
サラミスの敗戦後、クセルクセスはサルディスに退いたが、...
前479年、アテネ・スパルタ連合軍は プラタイアに進撃...
ペルシア戦争はギリシア的なヨーロッパとアジアとが衝突し...
第3回ペルシア戦争後も、ペルシアの再攻の可能性は依然と...
参加したポリスは、ペルシアに対抗するための軍船・ 兵員...
前述したように、サラミスの海戦で活躍した無産市民は、自...
特に民会が政策決定の最高機関として、民衆裁判所が 最高...
国家の最高決定機関は民会であった。民会は500人評議会...
これを現代の民主主義と比較してみると 当然のことながら...
ペリクレスは、市民の日当を公金から支払う政策を取って市...
(4)奴隷制度
奴隷制は古代社会にはどこでもみられるが、ギリシアのポリ...
アテネには、人口の約3分の1にあたる約8万人の奴隷がい...
有名な哲学者アリストテレスは「奴隷は生きた財産である。...
3.
2 ギリシア世界
(5)ポリス社会の没落
アテネは、デロス同盟の盟主として、その地位をますます強...
このアテネの繁栄を快く思ってなかったのがスパルタである...
スパルタは、少数のスパルタ人が 多数のペリオイコイやヘ...
前431年3月、スパルタ側のテーベ軍がアテネ側の プラ...
当時、ペロポネソス同盟側の兵力は約5万人の重装 歩兵と...
翌年の前430年、アテネでは 戦死者の国葬が行われ、ペ...
前430年、スパルタは再びアッティカに侵入し、40日間...
現在ではペストは地球上からなくなったが、歴史的には何度...
ペリクレス亡き後のアテネの政治を指導したのは、いわゆる...
前426年、アテネ軍はピロスを占領し、スパルタ軍を包囲...
その後、スパルタはトラキアに出兵し、トラキアの諸都市を...
ニキアスはクレオン亡き後の最も有力な政治家であり、銀山...
この頃、シチリア島の アテネの同盟国がアテネに救援を求...
シチリア遠征軍は、シラクサを包囲したが、スパルタからの...
シチリア遠征の失敗以後、小アジアのポリスがアテネから離...
ギリシアの覇者となったスパルタは、各国に監督官と守備隊...
スパルタの覇権をくつがえそうとアテネ、テーベ、アルゴス...
しかし、この頃テーベが急速に勃興してきた。テーベは、ア...
これによってギリシアの覇権はスパルタからテーベに移った...
ちょうどこの頃、北方ではマケドニアが勃興し、その王フィ...
4.
2 ギリシア世界
(6)ギリシア文化
ギリシア人は、東方の先進文化であるオリエント文化の影響...
ギリシア人はゼウスを主神とするオリンポスの12神など多...
文学は、神話の中から生まれ、神々や英雄の活躍を描いた叙...
「イリアス」はトロヤ戦争が10年目を迎えた時の49日間...
ヘシオドス(前700年頃)は、「労働と日々」で知られる...
前7世紀から前6世紀の貴族政の末期になると、人々の感情...
前5世紀のアテネ民主政の全盛期の時代に盛んとなったのが...
そのために立派な 野外劇場が建てられた。現在までよく保...
アイスキュロス(前525~前456)は、マラトンやサラ...
ソフォクレス(前496頃~前406)は、最初の作品で優...
悲劇とは、不老不死の神と違い、いつか死ぬ運命にあり、し...
代表的な喜劇作家がアリストファネス(前445頃~前38...
美術の分野では、絵画は壺絵などに盛んに描かれたが、後世...
最も代表的な彫刻家はフェイディアス(前490頃~前43...
ギリシア美術を代表するのが、神殿建築を中心とする建築の...
ギリシア文化のなかで特に重要なのが哲学と歴史である。哲...
自然哲学は前6世紀頃、ミレトスを中心とする イオニア植...
彼の後に多くの学者が出て、様々な説を唱えた。アナクシマ...
自然哲学の大成者とされるのが、 デモクリトス(前460...
彼が活躍した時期は、アテネの民主政治の 全盛期であった...
その代表的な学者がプロタゴラス(前485頃~前415頃...
このソフィストの相対主義に対して、絶対的真理の存在を説...
そこで「汝自身を知れ」、無知を自覚せよ、無知を自覚した...
ソクラテスの最大の弟子がプラトン(前427~前347 ...
彼は”イデア論”によってギリシア 最高の哲学者と言われて...
プラトンの最大の弟子が、アリストテレス(前384~前3...
自然哲学は、現在の学問の分野から言うと自然科学に近い。...
イギリスの歴史学者、E.H.カーは「歴史は、過去と現在...
古代オリエントにも、王の業績など事実を記録した年代記の...
「歴史学の父」と呼ばれるのは、古代ギリシアの歴史家ヘロ...
彼は、ペルシア戦争そのものと、それに至る 背景を叙述す...
ヘロドトスの物語的歴史に対して、徹底的に史料批判を行い...
クセノフォン(前430頃~前354頃 )は、アテネに生...
5.
3.ヘレニズム世界
3 ヘレニズム世界
(1)ヘレニズム時代
ヘレニズムという言葉は、広義と狭義の2義に使われる。広...
ギリシアのポリス社会が 衰退にむかっていた頃、ギリシア...
前359年に即位したフィリッポス2世(位前359~前3...
当時、アテネではイソクラテス(前436~前338 )が...
これをみたフィリッポス2世は、2千の騎兵と3万の歩兵を...
父王の暗殺後、20才で王位についたのがアレクサンドロス...
遠征軍はヘレスポントス(現在のダーダネルス海峡の古名)...
ダレイオス3世は バビロンに大軍を集め、シリア北部に進...
エジプト人はペルシアからの 解放者としてアレクサンドロ...
ついで北上したアレクサンドロスは、新たな兵を遠征軍に ...
アレクサンドロスは直ちにバビロン、スーサに進み、前33...
新しく編成された軍は、マケドニア人が中心だが、彼らも従...
アレクサンドロスが次に目指したのがインドの征服であった...
前327年の初夏、アレクサンドロスは、マケドニアを出発...
しかし、すでに出発以来の行程は約1万8千km(地球の周...
スサに数ヶ月留まったが、そのとき 有名な集団結婚式があ...
アレクサンドロスは、大帝国にオリエント的な専制君主とし...
アレクサンドロスの後継者となったのは、フィリッポス2世...
アレクサンドロスの死後、、ディアドコイ(「後継者」)と...
カッサンドロス(358~前297)は大王の死後、マケド...
アンティゴノス1世(前382頃~前301)は、マケドニ...
セレウコス1世(前358頃~前280)は、マケドニアの...
プトレマイオス1世(前367頃~前283)は、マケドニ...
「ディアドコイ戦争」の後、かってのアレクサンドロス大王...
プトレマイオス朝エジプトは、いわゆる「ヘレニズム三国」...
プトレマイオス1世はアレクサンドリアに「ムセイオン」(...
プトレマイオス朝エジプトはヘレニズム世界の中心として、...
セレウコス朝シリアは、かってのアレクサンドロス大王領の...
セレウコス1世の死後約30年後には、中央アジアに 移住...
1.
3 ヘレニズム世界
(2)ヘレニズム文化
ヘレニズム時代にはギリシア人が盛んに東方に移住したため...
美術は、華麗だが技巧的・誇張的な面が強くなる。建築では...
ヘレニズム時代には、ポリスが崩壊し、ギリシア人の民族意...
この風潮を反映して、哲学も 政治から逃避し、個人の安心...
エピクロス(前342頃~前271頃 )はサモス島 生ま...
ストア派の祖、ゼノン(前335~前263)は、キプロス...
ヘレニズム時代には、自然科学が盛んとなった。 自然科学...
有名な数学者エウクレイデス(ユークリッド)(前300頃...
数学者・物理学者として 有名なアルキメデス(前287頃...
ムセイオンの館長を務めたエラトステネス(前275頃~前...
さらに天文学者のアリスタルコス (前310頃~前230...
2.
4.ローマ帝国
4 ローマ帝国
(1)共和政ローマ
インド=ヨーロッパ語族に属するイタリア人は、ギリシア人...
ローマはイタリア人の一派のラテン人が、ティベル河畔に建...
ロムルス以下7代の王が立ったが、7代目の王は傲慢であっ...
エトルリア人は古代イタリア北部に住んだ民族だが、民族系...
王政時代のローマもエトルリア人の支配下に置かれた。7人...
貴族共和政のもとでは、貴族が重要な官職を独占していた。...
共和政が成立して間もない、前494年に貴族に対する平民...
護民官は平民の生命・財産を守るために生まれた 官職で平...
護民官の設置を認めさせた平民が次に要求したのは、成文法...
ケルト人はインド=ヨーロッパ語族に属し、前10~8世紀...
ケルト人によるローマの劫掠後の貧しい農民の没落、ローマ...
護民官のリキニウス(前376~前367)とセクスティウ...
最後まで残った問題が、平民会の決議の取り扱いについてで...
この危機を乗り切るためにディクタトルに選出されたのがプ...
1.
4 ローマ帝国
(2)ローマの発展と内乱(その1)
ローマのイタリア半島征服に最後に立ちはだかったのが、南...
ローマが短期間にイタリア半島征服に成功したのは、訓練さ...
イタリア半島を統一したローマは西地中海の覇権をめぐって...
カルタゴは現在のチュニスの近くにあったフェニキア人の植...
当時のシチリア島はカルタゴが西半分を押さえ、東半分には...
第1回ポエニ戦争 前264年ローマは艦隊を派遣し、カル...
当時の海戦は、船同志がぶつかり合って打撃を与え、相手の...
その後、ローマは 直接カルタゴを攻撃したがカルタゴの反...
第2回ポエニ戦争(前218~前201) ハミルカル・バ...
その父の後を継いだのが、世界史上有名な 名将の一人、ハ...
イタリア遠征の準備を整え、前218年春、歩兵9万、騎兵...
北イタリアに入ったハンニバル軍は、南下し、ローマの近く...
ハンニバルはさらにカプア(ナポリの北)に 進出し、そこ...
この時スペイン遠征の指揮を 自ら志願したのが、スキピオ...
前205年シチリアで艦隊を建造し、遠征軍を準備した。前...
ハンニバルは、敗戦後国政の改革に当たったが、親ローマ派...
第3回ポエニ戦争(前149~前146) 第2回ポエニ戦...
こうした状況の なかでスキピオ(小アフリカヌス)(前1...
このカルタゴが滅びた年に、他のギリシア都市が衰退してい...
第2回ポエニ戦争の勝利によってローマは海外に広大な属州...
最大の問題は中小土地所有農民の没落である。彼らは重装歩...
中小土地所有農民の没落のもう一つの大きな原因は、ラティ...
もう一つの大問題は、奴隷制の問題である。ローマがイタリ...
前3世紀頃から元老院を中心に政権を独占してきたのは、新...
ローマ市民のなかで貴族に次ぐ階級としてのし上がり、経済...
一方で中小農民は没落して離農し、「遊民」となって各地を...
こうした状況のなかで、下層民の権利と利益を守るという口...
このようにローマでは平民の間にも 貧富の差が拡大し、そ...
兄、ティベリウス・グラックス(前162頃~前132)は...
彼は貧民のために論じるときはいつも「イタリアの野に草を...
弟、ガイウス・グラックス(前153頃~前121)は、兄...
2.
4 ローマ帝国
(2)ローマの発展と内乱(その2)
グラックス兄弟の改革が失敗に終わった後、ローマでは閥族...
前100年兵士への土地分配をめぐって閥族派と結んだ部下...
同盟市戦争が鎮圧された前88年にミトリダテス戦争(前8...
マリウスの後ローマで一時独裁権を握ったのがスラ(前13...
スラの死後、台頭してきたのがポンペイウス(前106頃~...
スパルタクスの反乱(前73~前71)は当時ローマを揺る...
前73年、カプアの剣奴養成所から78人の剣奴がスパルタ...
スパルタクスの反乱の鎮圧に功績をあげ、前70年にコンス...
しかし、その後自分の軍隊への土地分配などをめぐって元老...
クラッススは名門の出身で、マリウスとスラの対立ではスラ...
カエサル(シーザー)はローマの古い名門ユリウス家の出身...
イスパニア遠征で功績をあげてローマに帰国、ポンペイウス...
このガリア征討については「ガリア戦記」で自ら記録してい...
前54年にカエサルの娘でポンペイウスの妻となっていたユ...
一方、「国家防衛の大権」を与えられていたポンペイウスは...
当時、エジプトのプトレマイオス朝は、王家内部の争いと原...
絶世の美女として有名なクレオパトラはマケドニア系のギリ...
ポンペイウスを追ってエジプトに進出したカエサルはクレオ...
彼はコリントやカルタゴに貧民を送り込み、植民市を建設し...
しかし、彼個人の神格化が進み、王位につこうとしたことか...
共和政擁護の英雄として歓呼されるというブルートゥス(前...
カエサルの死後、彼の姪の子で遺言によって養子となったガ...
彼らはバルカン半島に逃れて再起を計っていたブルートゥス...
この戦いで功績をあげたアントニウスの声望があがり、再び...
アフリカを得たレピドゥスはシチリアを要求してオクタヴィ...
東方を支配下に置いたアントニウスは、パルティア遠征の軍...
帰国後、オクタヴィアヌスの姉のオクタヴィアと結婚し(前...
前32年、オクタヴィアヌスはクレオパトラに対して宣戦を...
前31年9月、アントニウスの艦隊が出動し、有名なアクテ...
翌年の前30年夏、オクタヴィアヌス軍はシリアからエジプ...
3.
4 ローマ帝国
(3)ローマ帝国
ローマに凱旋したオクタヴィアヌスに、元老院は「プリンケ...
事実上は君主政・帝政だが共和政の伝統を尊重した彼の政治...
対外的には、後9年にトイトブルグの戦いでゲルマンに大敗...
アウグストゥスの死後、後継者として第2代目の皇帝となっ...
そして第5代皇帝となったのが、クラウディウスの後妻の子...
ネロの死によってユリウス=クラウディウス家(カエサル、...
トラヤヌス(位98~117 )はスペインに生まれ、軍人...
トラヤヌスのあと即位したハドリアヌス(位117~138...
ハドリアヌスの養子となり位を継いだアントニヌス=ピウス...
五賢帝の最後の皇帝であるマルクス=アウレリウス=アント...
彼の著書「自省録」はストア派の哲学者であった彼の自己反...
マルクス=アウレリウスは慣習を破って不肖の子、コンモド...
コンモドゥスの死後近衛軍はますます横暴となり、近衛軍や...
セヴェルスの死後、弟と共同統治皇帝となったが、弟を殺し...
235年に皇帝となったマクシミヌス(位235~238)...
この内乱のため辺境の防備は弱まり、これに乗じて北方のゲ...
4.
4 ローマ帝国
(4)古代の終末
ディオクレティアヌス(位284~305)はダルマティア...
再び統一と秩序を取り戻した帝国では皇帝は「ドミヌス」(...
新しい政治体制をしいたディオクレティアヌスは一方で古い...
四分統治はディオクレティアヌスという中心人物を失って崩...
コンスタンティヌス1世は、翌年の313年、「ミラノ勅令...
コンスタンティヌスはキリスト教を国家統一のために役立て...
内政ではドミナートゥスを確立し、官僚制度の整備、幣制改...
コンスタンティヌスの死後、三人の子が帝国を分けて統治し...
ユリアヌスの死後、ローマ帝国はますます衰退に向かい、東...
ヴァレンヌ帝の死後、共同統治者となったのが、テオドシウ...
ローマ帝国滅亡の直接的な原因はゲルマン民族の大移動であ...
大所領経営にも大きな変化がおきていた。共和制の末期から...
そこで奴隷所有者は奴隷の地位を向上させたり、没落した自...
都市の没落に伴い、商工業も振わなくなり、貨幣経済も次第...
5.
4 ローマ帝国
(5)ローマ文化
ローマ人は、ギリシア人のような独創的な文化を創り出すこ...
文学、哲学、歴史学などの分野はギリシア・ヘレニズム文化...
文学の分野はギリシア文化の模倣という面が強いが、ラテン...
キケロ(前106~前43)は政治家・雄弁家・散文家とし...
哲学の分野では、ヘレニズムの哲学を継承し、ストア派の哲...
歴史学もギリシアの歴史学を継承発展させた。古代ローマの...
有名なカエサルは歴史家としても名を残している。「ガリア...
プルタルコス(46頃~120頃)の著「対比列伝」(英雄...
地理学者としては古代ローマのギリシア人であるストラボン...
自然科学の分野では、天文学・地理学者のプトレマイオス(...
芸術や学問の分野ではギリシア文化を模倣したといわれるロ...
特にローマ法はローマ人が後世に残した最大の遺産であり、...
最初の頃はローマ市民権を持つローマ市民にのみ適用される...
後にビザンツ皇帝のユスティニアヌスが法学者トリボニアヌ...
土木建築はローマ人が最も得意とした分野で、アッピア街道...
さらに5万人を収容したコロッセウム(円形闘技場)は今もロ...
カエサルは、前46年にエジプトの太陽暦を修正したユリウ...
6.
5.キリスト教の成立と発展
5 キリスト教の成立と発展
(1)キリスト教の成立
(2)キリスト教の発展
(1)キリスト教の成立
キリスト教の始祖はいうまでもなくイエスである。しかしイ...
30才の頃ユダヤの預言者(人々の信仰に厳しい反省を求め...
彼の説教と病気を直すなどの数々の奇跡によってイエスの名...
イエスはペテロ・ヤコブ・ヨハネなどの12人の弟子を選び...
ところが処刑され、いったん墓に葬られたイエスが三日後に...
(2)キリスト教の発展
キリスト教は以後、ペテロ・パウロなどの使徒たちによって...
64年、「ローマの大火」があり、ローマは数日間燃え続け...
当時はキリスト教の信仰はもちろん許されていなかったので...
このネロの迫害のとき、難を逃れてローマ市街に出たペテロ...
キリスト教は当時のローマの多神教とあいいれず、またロー...
またマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネによるイエスの言行を記...
歴代の皇帝の迫害にもかかわらず、キリスト教徒はますます...
コンスタンティヌス帝はキリスト教徒の団結を国家統一のた...
キリスト教を公認したコンスタンティヌス帝の甥に当たるユ...
その後379年に皇帝となったテオドシウス1世は、380...
その後もさまざまな教説があらわれ異端とされた。特に43...
この頃までに教会の組織化が進み、聖職者身分が成立すると...
1.
第3章 アジアの古代文明
6.イラン文明
1 イラン文明
(1)パルティアとササン朝
(2)イラン文明
(1)パルティアとササン朝
インド=ヨーロッパ語族のイラン(ペルシア)人は、南ロシ...
しかし、セレウコス朝の支配力の低下とともに、各地の有力...
バクトリア王国の建設に刺激されてイラン系遊牧民のパルニ...
パルティアはセレウコス朝を圧迫して領土を広げ、前2世紀...
パルティアは文化的には初めはギリシア・ヘレニズム文化の...
パルティアは実に約500年間にわたって続いたが、その割...
ササン朝ペルシア(226~651)の創始者であるアルデ...
第2代皇帝シャープール1世(位241~272)は有能な...
第10代皇帝シャープール2世(位310~379)も英主...
混乱に陥ったこの国を再興したのが、ササン朝最大の名君と...
しかし、その後内紛が続き、国力は次第に弱体化し、最後の...
(2)イラン文明
パルティアは文化的には初めはギリシア・ヘレニズム文化の...
ササン朝は、イランの伝統文化の復興を図り、イラン民族文...
しかし、その地理的な位置から周辺の宗教が流入し、国教で...
バビロニアに生まれたマニ(216頃~276)は初めはゾ...
マニ教と同様に弾圧された宗教にマズダク教がある。マズダ...
ササン朝では美術・工芸が独自の発達を遂げた。ペルシア固...
ササン朝美術は南北朝・隋・唐の中国を経て、飛鳥・奈良時...
1.
7.インドの古典文明
2 インドの古典文明
(1)インダス文明
(2)アーリヤ人の侵入
(3)新宗教の成立
(1)インダス文明
四大文明の1つであるインダス文明は、前2300頃から前...
1920年にインドの学者が仏教遺跡を発掘中にハラッパー...
その後の発掘により、モヘンジョ=ダロからは都市計画に基...
インダス文明には西アジア、特にメソポタミア文明の影響が...
インダス文明には謎が多い。このすぐれた文明の担い手がま...
(2)アーリヤ人の侵入
中央アジアを原住とするインド=ヨーロッパ語族の東方系、...
農業・牧畜を行うようになったアーリヤ人は太陽、空、山、...
アーリヤ人は前1000年頃から鉄の農具と武器を使い始め...
このような社会の発展とともに、階級の分化が進んだ。この...
ヴェーダのなかに「創造神の口からバラモンが、両腕からク...
この4つのヴァルナは、社会生活の複雑化、職業の細分化と...
ジャーティは生まれを同じくする集団の意味で、職業・出身...
カースト制度のもとでは、職業は世襲である。各カーストの...
カースト制度に関するもう1つの大きな問題は、カーストの...
(3)新宗教の成立
前7世紀頃、ガンジス川流域を中心に有力都市国家が出現し...
当時、祭式万能の形式主義に陥っていたバラモン教への反省...
ヴァルダマーナ(前549頃~前477頃)は、シャカと同...
ジャイナ教は、霊魂を清く保つためには物質を遠ざけること...
ヴァルダマーナと同じ頃に、ガウタマ=シッダールタ(前5...
父はシャカ族の王、母マーヤーは彼の死後7日目に亡くなり...
彼の説の中心は四諦説と八正道である。四諦説はまさに哲学...
彼は八正道を実践すれば誰でも悟りの境地(解脱、人生の苦...
1.
2 インドの古典文明
(4)古代統一国家の成立
(5)クシャーナ朝と仏教の革新
(4)古代統一国家の成立
前7世頃のインドはいわゆる十六王国時代であるが、前6世...
マガダ地方は古代インドの政治・経済・文化の中心地であり...
マガダ国では前4世紀後半に、シシュナガ朝に替わり、ナン...
その頃、中央アジアを征服したアレクサンドロス大王はカイ...
このアレクサンドロス大王のインド侵入は、インド人の間に...
チャンドラグプタはカーストの卑賤な階級から身を起こし、...
彼の後は子のビンドゥサーラが継ぎ、国力はますます充実し...
その統一事業を継承・完成させ、マウリヤ朝の全盛期を現出...
彼は自分が理想とするダルマ(法と訳される、人間の普遍的...
また第3回目の仏典結集(釈迦の教説の編纂)を行い、仏教...
マウリヤ朝は、アショーカの死後急速に衰退し、約50年後...
(5)クシャーナ朝と仏教の革新
前2世紀前半、中国の西・モンゴル高原の南で活躍した月氏...
大月氏はバクトリアのイラン人を支配下に置き、その地に5...
このクシャーナ族に、前1世紀の後半にクジュラ=カドフィ...
クシャーナ朝(1~3世紀)の第3代の王が有名なカニシカ...
カニシカ王はあつく仏教を保護し、仏教徒からは第二のアシ...
大乗仏教は、保守化・形式化した従来の仏教(小乗仏教と呼...
大乗仏教は2~3世紀頃のナーガールジュナ(竜樹)によっ...
インドの仏教は釈迦の没後も、長い間その教祖の像を持たな...
この地方はアレクサンドロス大王の東方移住政策によって多...
ガンダーラ美術は5世紀頃まで続いたが、時代が下がるにつ...
クシャーナ朝が栄えていた頃、デカン高原を中心に栄えてい...
サータヴァーハナ朝は外国勢力の一つであるサカ族の南下と...
この時期に全盛期のローマとの間に季節風を利用した貿易が...
2.
2 インドの古典文明
(6)ヒンドゥー国家と古典文化
3世紀になるとクシャーナ朝は衰退し、北インドは分裂状態...
彼は即位した320年2月26日を紀元とする「グプタ紀元...
チャンドラグプタ1世を継いだサムドラグプタは領土をパン...
チャンドラグプタ2世は「武勇の太陽」と名乗り、中国では...
クシャーナ族をはじめ、インドにおける全ての外国人勢力を...
インドのシェークスピアといわれるインドの文豪カーリダー...
またインドが世界に誇る二大叙事詩である「マハーバーラタ...
「マハーバーラタ」・「ラーマーヤナ」の原形は紀元前4世...
「マハーバーラタ」・「ラーマーヤナ」で活躍するクリシュ...
グプタ朝のもとでの「インド人のインド」という民族意識の...
民衆の間でヒンドゥー教の信仰がひろまり、仏教信仰が急速...
ヒンドゥー教は古代インドの宗教でカースト制とも結びつい...
ヒンドゥー教は多神教で無数の神々が信仰されているが、そ...
ヒンドゥー教には特定の教義はないが、霊魂は不滅であり、...
「マヌの法典」はそれ以前の法典を集大成して、後200年...
グプタ朝の時代、ヒンドゥー教の台頭によって民間の仏教は...
ヒンドゥー教が人々の生活に密接に結びついていたのに対し...
ナーランダ僧院は、5世紀にグプタ朝のクマラグプタ1世が...
仏教美術の面では、クシャーナ朝時代に栄えたギリシア的な...
有名なアジャンターの石窟寺院は、前3世紀頃から後8世紀...
4世紀前半以来、100年余にわたって繁栄したグプタ朝も...
グプタ朝の滅亡後、北インドには小国が分立した。こうした...
ハルシャ王は、初めはヒンドゥー教(シヴァ神)を信仰した...
唐の僧、玄奘がインドを訪れ、ナーランダ僧院で学んだのも...
しかし、ヴァルダナ朝はハルシャ=ヴァルダナ一代で終わる...
3.
8.東南アジアの諸文明
3 東南アジアの諸文明
(1)インド文化の普及と東南アジア文化の形成
現在の東南アジアの地域では、隣接する2つの文明、いうま...
ヴェトナム北部では早くから中国文化の影響を受けて青銅・...
インドシナ半島で最初に栄えた国は、1、2世紀頃から7世...
扶南はカンボジアを中心に、インドシナ東海岸・南部一帯、...
カンボジアで扶南が栄えていた頃、ヴェトナム南部を中心に...
林邑は192年に後漢の衰退に乗じて独立し、8世紀中頃ま...
8世紀中頃になるとチャムパーの中心が南方に移動した。こ...
8世紀の後半チャムパーの中心が再び中部に戻った。以後の...
占城も海上中継貿易によって国力を維持し発展したが、中国...
扶南や林邑が繁栄していた頃、メコン川の中・下流域ではク...
真臘は6世紀中頃に扶南から独立し、7世紀中頃には扶南を...
12世紀前半に出たスールヤヴァルマン2世(位1113~...
12世紀から13世紀の初めに在位したジャヤヴァルマン7...
メナム川下流域では、7世紀にモン人の国家であるドヴァー...
同じ頃イラワディ川の中流・下流域ではビルマ・チベット系...
ミャンマーの沿海地方に住んでいたモン人は、9世紀にペグ...
シナ・チベット族のビルマ人は、7世紀頃から数世紀にわた...
諸島部では、シュリーヴィジャヤ(中国名、室利仏逝)が7...
シュリーヴィジャヤは、8世紀から9世紀中頃にかけてシャ...
シャイレーンドラ朝は8世紀半ばから9世紀前半にかけて、...
一時弱体化したシュリーヴィジャヤは、10世紀には再び繁...
しかし、シュリーヴィジャヤは13世紀にはいると、イスラム...
1.
9.中国の古典文明
1 黄河文明
2 殷と周
1 黄河文明
黄河文明は黄河の中・下流域で栄えた古代文明で、新石器時...
前5000年~前4000年頃から黄河の中・下流域の黄土...
仰韶文化期の人々は粟・黍を栽培し、豚・犬を飼い、また鹿...
1930・31年に山東省歴城県竜山鎮の城子崖遺跡が発掘...
竜山文化期(前2000~前1500頃)になると農具・農...
2 殷と周
黄河中・下流域に多くの都市国家(邑)が出現して争う中か...
中国の漢代の有名な歴史家・司馬遷は「史記」のなかで、中...
五帝は黄帝(漢民族の祖先)・せんぎょく(黄帝の孫)・帝...
夏王朝は以後17代450年間続いたが、暴君桀(けつ、殷...
1899年、王懿栄という学者がマラリヤの持病に悩まされ...
王氏と友人の劉氏は苦心の末、安陽県の郊外の小屯村(殷の...
羅振玉・王国維は辛亥革命(1911)後、京都に亡命し、...
1928年から1937年にかけて殷墟(河南省安陽県小屯...
殷墟の発掘により宮殿跡の周辺から竪穴式の住居跡、大小1...
殷王朝は伝説では夏を滅ぼした湯王から30代続き、紂王(...
殷の王は黄河中流域の諸都市国家連合の盟主として黄河流域...
殷の文化を代表するのは高度な青銅器である。青銅器は当時...
殷の後半の都は「商」と呼ばれていたが、殷の滅亡後「商」...
陜西の渭水流域から興った周(前1027頃~前256)は...
武王は、渭水のほとりで釣りをしていた太公望呂尚と出会い...
武王は周王朝を創建し、在位7年で亡くなり、その子成王が...
周の封建制度は、殷の制度を模倣して、一族・功臣や各地の...
日本やヨーロッパにも封建制度があった。ヨーロッパの場合...
これに対して周の封建制度では、主君と家臣の関係は、本家...
周の封建制度では周の王(本家)と一族の諸侯(分家)の関...
4代目の昭王は東南地方に支配権を確立しようとした。5代...
幽王は皇后と太子を廃して、寵愛した絶世の美女褒じが笑わ...
前770年、西北から犬戎が侵入してきた。幽王は必死にな...
周は800年近く続いた王朝であるが、中国史ではこの前7...
1.
3 春秋戦国と鉄器の普及
3 春秋戦国と鉄器の普及
東周の前半にあたる春秋時代(前770年~前403年)に...
春秋時代の初めには約200余りの国(小さな都市国家も含...
覇者のうち代表的な五人は「春秋の五覇」と呼ばれる。誰々...
初めて覇者となったのは斉の桓公である。斉は中原から離れ...
斉にかわって盟主となったのが山西省を本拠とした晋である...
春秋時代の中期以後は晋を中心とする北方と楚を中心とする...
漢民族が長江流域に進出し、長江流域が中国民族の文化的領...
前述した蛮夷の国で長江の中流域を本拠とした楚は、前63...
楚と晋の対立はその後も続いたが、勝敗はつかず、前545...
勾践は降伏し、西施(中国四大美人の一人)を夫差にさしだ...
これが有名な「臥薪嘗胆」(復讐の志を抱いて長い間艱難辛...
呉を滅ぼした越王勾践は勢いに乗じて中原に進出して春秋時...
戦国時代がいつからかについても諸説があるが、一般的には...
戦国時代になると、春秋時代までは衰えたとはいえまだ尊ば...
こうした状況のなかで、春秋時代には200もあった国が、...
七雄を中心とする激しい抗争の中で、前4世紀に入ると、ま...
秦は、はじめ甘粛省の東部にあり、前8世紀に周の諸侯とな...
商鞅は国の経済のもとを農業におき、農地の開拓を押し進め...
孝公の死後、商鞅は反対派に反乱を企んでいると訴えられ追...
秦の強大化・東方への進出は、中原の諸国にとっては脅威で...
そして六国の諸侯に 「六国が連合すれば、国土の面積は秦...
蘇秦の合従策を破り、連衡(横に連なるの意味)策を成立さ...
張儀は「六国が同盟しても秦には勝てないでしょう。それよ...
戦国時代になると戦闘の様子も大きく変わってきた。従来は...
前259年、秦は趙を攻めて、40万人の趙兵を穴埋めにし...
春秋時代の末期から戦国時代にかけては中国の社会が大きく...
春秋時代の末期から戦国時代にかけて中国社会が大きく変化...
戦国時代には鉄製農具が一般に普及するようになり、また牛...
貨幣経済の発展はますます商業を、そして鍬・鎌などの農具...
貨幣としては古くは貝貨(東南アジアで取れる子安貝など)...
商工業や貨幣経済の発展は王侯とならぶほどの富を持った富...
こうした社会の変化の中で、周代の封建制度を初めとする古...
2.
4 古典思想の開花
4 古典思想の開花
春秋末から戦国時代にかけて、中国社会は大きく変化した。...
諸子百家の中で、以後の中国のみならず、朝鮮・日本などの...
孔子(前551頃~前479)は、春秋末の魯(周公の子孫...
孔子は混乱した社会秩序(礼)を回復するために周の礼に帰...
有名な「論語」は、弟子達が孔子の言行を記録した書物であ...
孔子の考えは、徳をもって天下を治めるという徳治主義であ...
その子思の門人に学んだのが、孔子の教えを継承して大成し...
子思の門人に学んだ後、梁・斉・宋などの諸国を遊説し、王...
孟子は、人間は誰でも他人の悲しみを見過ごすことの出来な...
孟子は上の思想を発展させ、仁・義の徳を備えた立派な人物...
私たちがよく使う「革命」という言葉はここに由来している...
戦国の末期の荀子(前298頃~前235)は趙の国に生ま...
だから礼による教化が必要であり、礼によって社会秩序や道...
儒家の思想を批判し、儒家から攻撃された墨子(前480頃...
墨子は儒家の仁愛は家族愛であり、自分の親や兄弟に向けら...
兼愛思想は、当然のことながら、国家間の戦争を否定する反...
当時にあっては異端とも言うべき、特徴ある思想を展開した...
道家は老子を祖とする学派である。老子については孔子と同...
「大道廃れて仁義有り」(本当の大道がすたれると仁とか義...
老子は孔子のいう親孝行だとか墨子のいう兼愛など人間とし...
老子は宇宙の根源・宇宙を動かす力を道と呼んだ。道は知性...
老子の思想を継承発展させ、道家の思想を確立したのが荘子...
さらに荘子は道は絶対・無差別であると説き、自然のままの...
道家の思想は老子と荘子の名前を取って老荘思想とも呼ばれ...
法家は他の学派が説く礼とか道徳は、実際に国家を統治して...
法家思想を大成したと言われるのが韓非である。彼は韓の王...
この儒家・墨家・道家・法家のほかにも多くの学派が現れた...
兵家は用兵や戦術を説いた。孫子・呉子などが有名である。...
前述した合従策を唱えた蘇秦と連衡策を説いた張儀に代表さ...
農家の許行は、君主も民も平等に農耕に従事し、勤労により...
公孫竜に代表される名家は、名(言葉)と実(実体)の関係...
陰陽家は陰陽五行説を説く派であるり、鄒衍(すうえん)は...
陰陽家は天文・暦学に通じ、天体の運行によって起きる現象...
この時代には「詩経」や「楚辞」などの文学作品もまとめら...
「詩経」は中国最古の詩集で、後にいわゆる「五経」のひと...
戦国時代の楚の王族であった屈原(前340~前278)は...
3.
5 秦の統一
5 秦の統一
中国を初めて統一したのが、中国史上最も有名な人物の一人...
始皇帝の父、後の荘襄王は、秦の強敵であった趙の人質とし...
呂不韋は荘襄王を趙から脱出させ、秦に帰国させるために、...
荘襄王は在位3年にして亡くなり、太子の政が秦王となった...
中国を統一した秦王の政は、王の称号をやめ皇帝(伝説上の...
大帝国の統治にあたっては、丞相の李斯(?~前210、法...
中央官制、地方行政については、中央に丞相(最高行政官、...
また今まで7つの国に分かれていたため、国によって異なっ...
また民間の武器を没収し、天下の富豪12万戸を都の咸陽(...
始皇帝は国内の制度を整えると領土の拡大をはかり、外征に...
中国の戦国時代の頃から、蒙古高原で活躍したのが匈奴であ...
そして匈奴の侵入に備えて有名な「万里の長城」を築かせた...
南方遠征も行われた。漢民族は当時、長江流域まで居住地域...
今や秦の領土は、殷や周の時代に比べると比較にならないほ...
始皇帝は、丞相李斯の建策をいれ、有名な「焚書・坑儒」と...
ついで翌年には「坑儒」が行われた。多くの 儒学者が捕ら...
上に述べてきたようなことが、統一後のわずか10年程の間...
大土木事業としては、まず万里の長城があげられるが、その...
さらにその始皇帝陵の東方の地下に、死後の始皇帝を守る秦...
始皇帝は、前210年に5回目の行幸を行ったが、江南地方...
始皇帝の死後まもなく各地で反乱が起きた。その中で有名な...
そのとき陳勝が同じ立場の仲間を集めて言った言葉が「王侯...
中国最初の大規模な農民反乱であった陳勝・呉広の乱は鎮圧...
項羽と劉邦の抗争は中国史上最も有名な出来事の一つであり...
項羽(前232~前202)は、代々楚の将軍の家に生まれ...
劉邦(前247~前195)は、江蘇省の沛(はい)の中流...
項羽が秦の主力軍を相手に戦い進撃が遅れたのに対し、劉邦...
都に入った劉邦は三世皇帝の命を助け、軍には略奪を禁じ、...
劉邦が都に入って2ヶ月ほど遅れて、項羽はようやく函谷関...
項羽は数日後、咸陽に入り、三世皇帝(子嬰)を殺し、阿房...
先に都に入った劉邦であったが、当時の兵力は項羽の40万...
覇権を握った項羽であったが、狭量な性格が災いし、評判は...
劉邦が漢中王になって5年後、項羽に対する反乱が起こった...
前202年、劉邦はついに項羽軍を垓下(がいか)に追い詰...
項羽は夜陰にまぎれて脱出した。800余騎が従った。つい...
劉邦は、中国を再び統一し、前202年に漢(前漢)王朝を...
4.
6 漢の内政と外征
6 漢の内政と外征
項羽を滅ぼして中国を統一した高祖(位202~前195)...
劉邦は皇帝となるや、一族や功臣を諸侯に封じ、郡県制と封...
当時、北方では匈奴が冒頓単于(ぼくとつぜんう、単于は匈...
中国を統一して意気盛んな高祖は、自ら32万の軍を率いて...
高祖の死後、呂后(高祖の皇后)の子の恵帝(位195~1...
恵帝には子がなかったので、后に身ごもったふりをさせ、後...
呂后は摂政となり、呂氏一族の者を次々に王や諸侯に封じ、...
文帝は在位23年、仁政にはげみ、連座制など苛酷な刑罰を...
高祖は郡国制を採用し、一族の者を各地に封じて王・侯とし...
前154年、呉王(高祖の兄弟の子)の領土の2郡(銅と塩...
景帝は貨幣の私鋳を禁止して貨幣の鋳造権を掌握し、財政の...
景帝の死後、九男の劉徹が16歳で即位した。中国史上有名...
武帝の時代には、呉楚七国の乱の平定後、諸王・諸侯の領土...
武帝は即位早々に賢良方正の士を推薦するよう命じた。この...
官吏任用についても、儒学が重んじた仁・義などの徳のある...
武帝の名を有名にしているのは、積極的な対外政策を採り、...
武帝がまず取りかかったのが、北方から中国を脅かしていた...
武帝が即位した頃、匈奴の捕虜から「月氏(戦国時代には蒙...
張騫(?~前114)は武帝からつけられた100余人の従...
張騫の大旅行の目的は達成されなかったが、彼がもたらした...
武帝は、張騫の帰国前の前129年に衛青(?~前106)...
衛青と並んで匈奴征討に活躍したのが、彼の甥の霍去病(か...
中央アジアの大宛(フェルガナ)は、汗血馬(血の汗を出す...
李広利は、前99年・前97年に匈奴遠征を行ったが失敗に...
前119年、匈奴に大打撃を与えて漠北に追いやった漢は以...
南方では、秦末の混乱に乗じて、南海郡慰(軍事の最高官)...
東方の朝鮮では衛氏朝鮮(前190頃~前108)が続いて...
衛氏朝鮮も入朝しなかったので、前109に大軍を陸海路か...
このようにして漢は東は朝鮮、南はヴェトナム、西は中央ア...
前119年には、塩と鉄を専売とした(後に酒も専売となる...
前115年には、均輸法が発布された。均輸法は、均輸官を...
武帝の死後、昭帝(位前87~前74)が8歳で即位し、若...
当時、匈奴では内紛が起こり5人の単于が並び立った。これ...
2年後に宣帝は亡くなり、元帝(位前49~前33)が即位...
元帝の頃、後宮には多くの宮女がいて、皇帝は全ての女を見...
漢では、武帝の頃から皇帝の秘書の長官(尚書令)が重用さ...
元帝のあとの成帝(12代、位前33~前7)が治世の後半...
王莽(おうもう、前45~後23)は、父が早く死んだので...
王莽は、成帝の次の哀帝が在位6年で死ぬと、9歳の平帝(...
5.
7 後漢の再統一
7 後漢の再統一
王莽(前45~後23、位後8~23)は、いわゆる「禅譲...
王朝の交替には「禅譲」と「放伐」の2つの形式がある。「...
王莽は、周の政治の復活を掲げ、復古主義的な改革を行った...
前漢末以来、大土地所有制が進み、各地の地主は豪族化して...
豪族による土地の兼併が進み、多くの農民は土地を失い、土...
また貨幣制度も、何度となく改め、様々な種類の貨幣を発行...
さらに儒教思想により、周辺異民族の「王」の称号を奪い、...
18年に山東で起こった農民反乱は、たちまち華北一帯に及...
劉秀(前6~後57)は、前漢の6代皇帝景帝の6代目の子...
前23年に緑林軍は長安に入り、王莽を殺した。「新」はわ...
前25年には赤眉軍が長安に入り、劉玄を殺し、掠奪と暴行...
統一後、光武帝はヴェトナムに出兵し、徴(チュン)姉妹の...
内政では、豪族と結んで外戚の力を抑え、豪族との衝突を出...
光武帝は、民生の安定をはかり奴隷解放令を何度も出した。...
光武帝は在位33年、57年に63歳で亡くなり、明帝(位...
明帝の時代には国内が安定し、国力は隆盛に向かい、明帝は...
73年、竇固(とうこ)らが大いに北匈奴を破った。この匈...
班超は、以後西域に留まること31年、この間、西域都護(...
班超は、97年に部下の甘英を大秦国(ローマ帝国のこと)...
明帝の時代の67年に仏教が中国に伝わったと歴史書にはあ...
明帝の次の章帝(位75~88)までは、外戚が遠ざけられ...
章帝から和帝の時代は、班超の活躍により西域に領土が拡大...
外戚は、ふつう母方の親戚をいうが、今までに出てきた外戚...
宦官は後宮に仕える去勢された男子のこと。古代より西アジ...
後漢では、4代和帝(10歳で即位)以来、幼少皇帝が相次...
皇帝の交替の度ごとに、外戚が権勢をふるい、外戚が排除さ...
桓帝(位146~167)の治世の終わり頃の166年に、...
8代順帝の皇后の梁(りょう)氏が外戚としてほぼ20年間...
第2次「党錮の禁」は霊帝の時代の169年に起きた。宦官...
二度にわたる「党錮の禁」によって、党人派は壊滅し、宦官...
宦官に操られた霊帝(167~189)の治世の184年に...
有名な「三国志演義」は最初の方で「この度の乱の源をただ...
政治の乱れ、国家財政の窮乏は租税の増徴となって農民にか...
黄巾の乱の指導者張角は、河北省に生まれ、秘密宗教結社の...
184年、張角は河北で政府打倒を掲げて挙兵した。彼は自...
曹操の長子、曹丕が魏王になると、後漢最後の皇帝献帝(1...
6.
4 中国の古典文明
8 漢の社会と文化
戦国時代頃から始まった大土地所有制は漢代に盛んとなり、...
前漢の末、哀帝の時(前7)に、大土地所有の制限と奴婢を...
当時の官吏任用制度は「郷挙里選」(有徳者を地方長官が推...
こうして豪族は経済的・社会的だけでなく、政治的にも官職...
漢代の文化の上で特に重要なのは、儒学の官学化・歴史書の...
漢代の初めには、法家・道家思想が支配的であったが、前漢...
儒学が官学とされ、官吏になるためには儒学の教養が必要と...
中国は歴史の盛んな国で、古くから多くの歴史書が書かれて...
正史は、「史記」、「漢書」、「後漢書」、「三国志」・・...
「史記」の著者は司馬遷(前145頃~前86頃)である。...
「史記」は、五帝から武帝の時代までを、「本紀」、「表」...
「本紀」は、王・皇帝の事績をもとに王朝の歴史を描いたも...
「表」は系図・年表で10巻から成り、「書」は、制度・音...
「史記」は正史の第1とされ、司馬遷は「中国の歴史の父」...
班固(32~92)は、陜西省出身で、先祖は楚の名族、司...
「漢書」120巻は、前漢の高祖から王莽滅亡までの前漢一...
この「漢書」の地理志にはじめて倭のことが書かれている。...
蔡倫(さいりん、?~121頃)は、紙の発明者として知ら...
それまでは書写の材料としては木簡・竹簡が使われていた。...
書体としては、隷書が漢代を通じて広く使われたが、後漢末...
中世編へ
7.
第4章 内陸アジアの変遷(省略)
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