世界史ノート(中世編)
をテンプレートにして作成
開始行:
世界史ノート(中世編)
第5章 東アジア世界の形成と発展
3.北方民族の活動と中国の分裂
1 北方民族の活動と中国の分裂
1 三国と晋
後漢末の184年に起こった黄巾の乱の中心勢力は、同年末...
「三国志演義」は古くから多くの日本人に愛読されてきたが...
黄巾の乱から5年後に霊帝が亡くなり(189)、14歳の...
袁紹(えんしょう)を盟主とする反董卓連合軍が挙兵すると...
曹操は、宦官の養子であった曹嵩(そうすう)の子として、...
華北を支配下に置いた曹操は全土の統一をめざし南下し、荊...
「三国志」の英雄のなかで人気がある劉備(161~223...
その後、曹操の客将となっていた時、献帝の側近が曹操打倒...
南下した曹操軍に敗れた劉備は夏口(現在の武漢)に逃れ、...
赤壁の戦いは、80万と称する曹操軍(実数は約15万位)...
赤壁の戦いの後、荊州の領有をめぐって、劉備と孫権は対立...
こうして中国には、華北の曹操、江南(長江の中・下流)の...
220年、曹操が亡くなり、曹丕(文帝、位220~226...
曹丕の即位の知らせを聞くと、劉備(昭烈帝、位221~2...
その翌年、孫権(182~252、位222~252)も呉...
三国のなかでは魏の国力が飛び抜けて強かった。人口で見る...
蜀では劉備が、呉に捕らえられ殺された関羽の復讐のために...
劉備亡き後、子の劉禅(無能な暗君といわれる)を助けて蜀...
孔明亡き後の蜀は急速に衰え、263年に魏に滅ぼされた。
魏では文帝の死後(226)、司馬懿(179~251)の...
武帝は、魏が滅びたのは王族に有力者がいなかったためと考...
武帝は280年、南下して呉を滅ぼし、中国を再び統一した...
武帝の死後(290)、恵帝(290~306)が即位した...
五胡とは、当時中国の北辺または西北辺で活躍していた匈奴...
匈奴は、前漢の末の前1世紀中頃に東西に分裂した。分裂後...
劉淵は、308年に皇帝を称し、洛陽攻略をめざしたが、そ...
司馬懿の曾孫の司馬睿(しばえい、元帝、位317~322...
10.
1 北方民族の活動と中国の分裂
2 五胡十六国と南北朝
西晋末の匈奴の兵乱(永嘉の乱)をきっかけに、中国の北辺...
華北では、4世紀の初めから5世紀の初めまでの約100年...
この間、チベット系のてい族が建てた前秦(351~394...
鮮卑族は、モンゴル高原の遊牧民で匈奴に服属していたが、...
鮮卑族の一部族である拓跋氏は2世紀後半から鮮卑の中心氏...
北魏の第3代皇帝の太武帝(位423~452)は、北涼を...
北魏の第6代皇帝が有名な孝文帝(位471~499)であ...
孝文帝は、幼少の時から読書を好み、儒教の教養を身につけ...
孝文帝の徹底した鮮卑人の中国化政策は、北魏を急速に文化...
孝文帝の死後、30数年で北魏は分裂し、東魏(534~5...
高歓の子で東魏の宰相であった高洋は、東魏から禅譲により...
宇文泰の子が西魏から禅譲により建国したのが北周(556...
北魏・東魏・西魏・北斉・北周の5王朝をまとめて北朝(4...
一方、江南では司馬睿によって建国された東晋(317~4...
華北を五胡に奪われ、江南に移住・定着した漢人は江南の開...
東晋の皇帝は、華北から移住してきた名門貴族と土着の豪族...
東晋の末に道教徒の孫恩の指導する民衆の反乱が起こった。...
宋は、439年に華北を統一した北魏の圧迫を受け、やがて...
斉(せい、479~502)も皇族の蕭衍(しょうえん)に...
梁(りょう、502~557)の創始者である武帝(蕭衍、...
梁を滅ぼし、陳(557~589)を建てた陳覇先(ちんは...
宋・斉・梁・陳の4王朝をまとめて南朝(420~589)...
後漢が滅び、三国が分立した時代から隋によって統一される...
11.
1 北方民族の活動と中国の分裂
3 大土地所有の発達
中国では、大土地所有制が漢代から盛んとなり、広大な土地...
彼らは、前漢の武帝の時に始まった郷挙里選と呼ばれる官吏...
豪族は後漢末から魏・晋・南北朝を通じて、各地でますます...
三国の魏の文帝は、豪族の子弟ばかりが推薦されるなどの弊...
九品中正(きゅうひんちゅうせい)は中央から任命される中...
郷品に基づいて相応する官職に任命するやり方とは、官職を...
この九品中正の鍵を握るのは中正官である。彼らがしっかり...
「上品に寒門なく、下品に勢族なし」という有名な言葉があ...
後漢末から五胡十六国時代の戦乱や豪族による土地兼併によ...
三国の魏は屯田制を実施した。屯田制は国家が耕作者の集団...
西晋は占田・課田法を採用した。これは武帝が呉を滅ぼして...
東晋に始まり南朝で行われた政策に土断法がある。これは当...
北魏では均田制が行われた。第6代皇帝の孝文帝が実施した...
北魏が与えた土地には露田(穀物を栽培する土地)、麻田(...
なお北魏では妻(丁男の半分が支給された)、そして奴婢(...
均田制によって土地を支給された均田農民には租(穀物)・...
よく知られているように、この北魏の均田制は隋・唐に受け...
各王朝が行った大土地所有を抑制しようとする政策は、国家...
12.
1 北方民族の活動と中国の分裂
4 六朝時代の文化
魏・晋・南北朝時代の文化に関して最も重要なことは、中国...
仏教の伝来については、従来は「後漢の明帝のとき(67)...
しかし、最初の頃は一部の人々の間で外国趣味として扱われ...
後漢末から五胡十六国時代、明日の命さえ知れない混乱・戦...
仏教が急速に盛んとなっていく上で大きな役割を果たした人...
仏図澄と同じ亀茲の人で仏典の漢訳に大きな功績を残したの...
以後、仏教は華北では北魏の朝廷の保護を受けて(太武帝は...
東晋の僧、法顕(ほっけん、337?~422?)は出家生...
仏教の隆盛とともに仏寺・仏像が盛んに造られ、また各地に...
敦煌莫高窟(ばっこうくつ、千仏洞ともいう)は五胡十六国...
雲崗の石窟は、鮮卑族が建てた北魏の初期の都があった平城...
孝文帝の洛陽遷都が落ち着くと、孝文帝の子の宣武帝が雲崗...
仏教の隆盛に刺激されて、この頃道教が成立した。道教は後...
北魏の寇謙之(363~448)は、河南省の嵩山(すうざ...
道教は初めて国家公認の宗教となり、形式も整えられ、道士...
魏・晋・南北朝時代の文化でもう一つ特筆すべきことは、江...
江南では、三国時代の呉に続く東晋・宋・斉・梁・陳の6王...
六朝文化の担い手は貴族であった。当時の貴族の教養とされ...
玄、儒、文、史のなかでは儒学は人気がなく振るわなかった...
六朝時代に文学、書道、絵画などの芸術が一つのジャンルと...
文学では東晋の詩人である陶潜(とうせん、字の淵明から陶...
陶淵明は、東晋の名将の曾孫であったが、生活のために下級...
謝霊運は、晋の名門の一族で宋に仕えたが、政治的に軽んじ...
文章は対句を多く用いた華麗な形式(四六駢儷体(しろくべ...
絵画には顧愷之(こがいし、344頃~405頃)があらわ...
書道には、東晋の書家で、山東の名門の出身である王羲之(...
また「水経注」(地理書)、「斉民要術(せいみんようじゅ...
13.
1 北方民族の活動と中国の分裂
5 朝鮮・日本の形成
朝鮮の歴史は、伝説的王朝である箕子(きし)朝鮮(?~前...
前漢の武帝は、前108年に衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡・真...
高句麗(?~668)は、ツングース系(中国東北地方、東...
広開土王は、396年以来4度にわたって朝鮮半島南部に遠...
朝鮮半島南部では、3世紀頃、韓族の馬韓(南西部)・辰韓...
3世紀頃には56の国に分かれていた馬韓は4世紀中頃統一...
弁韓は、3世紀頃には12の国に分かれていたが、4世紀中...
こうして4世紀から7世紀にかけては、朝鮮には高句麗・新...
6世紀にはいると百済・新羅が勢いを強め、南方の任那(加...
有名な「魏志倭人伝」(「三国志」の一つである「魏志」の...
邪馬台国の卑弥呼は239年に、魏の皇帝に使いをおくり、...
4世紀に入ると大和政権による統一が進み、5世紀に入ると...
倭の五王とは、中国の史書に出てくる讃・珍・済(せい)・...
このような朝鮮・中国との交渉を通じて、5世紀から6世紀...
14.
4.東アジア文化圏の形成
2 東アジア文化圏の形成
1 隋の統一
隋の建国者である楊堅(文帝、541~604、位581~...
文帝は、魏・晋・南北朝以来勢力を伸ばしてきた貴族の権力...
そのために、北朝の律令・制度を継承しながら国家体制の整...
さらに経済面では、北斉にならって、北魏以来の均田制をま...
文帝が行った改革の中で最も重要なことは、従来の九品中正...
中正官の推薦による九品中正では「上品に寒門なく、下品に...
南北を統一した隋は、江南の米をはじめとする物資を運ぶた...
対外的には、当時、北方で突厥が強大となっていたが、文帝...
文帝は、はじめ長男の楊勇を皇太子としたが、武将として優...
煬帝の煬は「天に逆らい、民を虐げる」の意味であり、父を...
煬帝は即位すると、毎月200万人を使役して洛陽に東都を...
煬帝といえば、すぐに大運河の建設というように、大運河の...
まず100万人を動員して黄河と淮水を結ぶ通済渠(つうさ...
通済渠が開通すると、最初の江都行幸が行われた。煬帝の「...
煬帝は対外的にも積極策をとった。北方の突厥に備えて「万...
この頃、聖徳太子が小野妹子を遣隋使として派遣した(60...
高句麗は、周辺諸国が朝貢する中で、煬帝の入朝の要求に従...
第1回の遠征(611)には、113万人を越える水陸の大...
翌年(612)、第2回目の遠征が行われたが、遼河を渡っ...
高句麗遠征の失敗を機に、大土木事業や度重なる外征に徴発...
こうした状況の中で自暴自棄となった煬帝は江都に移り(6...
2 突厥の活動
モンゴル高原では、鮮卑が華北に移った後の5~6世紀に、...
アルタイ語族に属するトルコ人は、古くはモンゴル高原の北...
中国史に登場する丁零(ていれい、前3~後5世紀頃、初め...
トルコ系遊牧民のうち、アルタイ山脈の西南にいた人々は、...
遊牧国家の君主はハガン(可汗)の称号を用いた。国を保つ...
突厥の建国者は伊利(いり)可汗(552~553)と号し...
その後まもなく東突厥は隋に朝貢することとなり、その後も...
19世紀末に、ロシアの考古学者がオルホン川(モンゴル高...
5.
2 東アジア文化圏の形成
3 唐の盛衰(その1)
隋末、煬帝の高句麗遠征の失敗を機に各地で農民反乱が起こ...
李淵は7歳で父あとを継いで北周に仕え、楊堅(文帝)が隋...
しかし、唐が成立したとはいえ、まだ長安の地方政権にすぎ...
これを見た高祖は、李世民に譲位し、李世民は即位して太宗...
中央官制としては、三省・六部(りくぶ)を置いた。三省と...
また地方統治制度としては州県制をしいた。全土を10道に...
唐は律・令(れい、りょう)を整備し、成文法に基づいて政...
官吏任用制度としては、隋で始まった科挙制を受け継いで強...
明経は儒教の古典である「五経」が課せられ、進士は文章と...
対外的には、それまで北方で強大な勢力を持ち、隋・唐にと...
さらに青海地方にあった吐谷渾(とよくこん)を服属させ(...
当時、チベットにソンツェン=ガンポ(?~649)が出て...
東方では高句麗遠征を行ったが(645)、これは大失敗に...
太宗時代に度々の対外遠征により、唐の領土は拡大し、大帝...
有名な玄奘(三蔵法師)が西域を経てインドに行き、経典等...
太宗の子は14人あったが、皇后との間に生まれた3人が皇...
対外的には、新羅と結んで百済(660)、高句麗(668...
西方では、西突厥を討って(657)、中央アジアを支配下...
こうして高宗の時代には唐の領土は最大となり、東は朝鮮か...
唐は征服した周辺諸民族を統治するために、六つの都護府を...
高宗は、長孫無忌やちょ遂良(ちょすいりょう、唐の政治家...
則天武后の父は、山西で木材業によって一代で富をつくり、...
皇后となった則天武后は、反対派を除き、一族の者を重用し...
そして高宗が亡くなると(683)、子の中宗(位683~...
武后の専横に対して李敬業の反乱が起きたが(684)、こ...
即位後、仏教を保護し、大土木事業を盛んに行い、新しい人...
中宗の復位後、まもなく則天武后が没すると、今度は中宗の...
しかし、中宗の死から18日後に、睿宗の三男の李隆基がク...
則天武后と韋后が政権を奪って、唐の政治を混乱させたこと...
6.
2 東アジア文化圏の形成
4 唐の盛衰(その2)
睿宗は2年後に、位を皇太子の李隆基に譲り、李隆基が28...
玄宗は、即位すると名臣・賢臣の助けを得て、不要の官職を...
この玄宗の治世前半の善政は「開元の治」と呼ばれる。しか...
楊貴妃、本名は楊玉環、父は四川省の県役人であったが早く...
玄宗は、楊玉環を寿王と離別させ、道観(道教の寺院)に入...
楊国忠(?~756)は楊貴妃の従祖兄(またいとこ)の間...
今や役人は楊氏一族のために奔走し、人々は楊氏一族に取り...
玄宗と楊貴妃は、華清宮に遊び、玄宗は政治を省みず、国政...
権勢を誇る楊国忠と対立するようになったのが安禄山(70...
後に范陽節度使(北京付近に設置)に仕え、中央の官吏に賄...
楊国忠は、強大な軍を擁するようになった安禄山を警戒し、...
755年11月、安禄山は「姦臣楊国忠を除く」と称して、...
長安陥落を目前にして、玄宗・楊貴妃・楊国忠らは蜀へ落ち...
その頃、洛陽にいた安禄山は眼病を患って失明し、できもの...
史思明も、ソグド人と突厥の混血児で、安禄山と同郷の出身...
唐は、安史の乱(755~763、安禄山と史思明の名を取...
この間、玄宗は蜀に逃れて、子の粛宗(7代、位756~7...
安史の乱は平定されたが、長安・洛陽などの都市や農村は荒...
唐は、安史の乱をウイグルの援助で平定したが、このため以...
唐の弱体化に乗じて異民族の侵入が繰り返される中で、かっ...
中央では、宦官が財政・軍事権を握るようになり、宦官は憲...
この間、徳宗(9代、位779~805)は、安史の乱後の...
黄巣(?~884)は、山東省に生まれ、科挙をめざしたが...
塩は言うまでもなく生活必需品だが、唐はこれを専売とし、...
同じ塩の密売人の王仙芝(?~878)が、河北で挙兵し(...
黄巣の乱はほぼ10年にわたり、四川以外のほとんど全中国...
朱温(852~912)は黄巣の乱の有力な部将の一人であ...
こうして20代、約290年間続いた唐はついに滅亡した。...
7.
2 東アジア文化圏の形成
5 隋・唐の社会
隋の文帝は、国家権力の強化に努め、貴族の力を弱めるため...
唐も隋の制度を継承し、均田制、租庸調制、府兵制を実施し...
唐の均田制は、高祖の時に隋の制度をもとに制定された(6...
この他に、官人永業田(高級官僚への永業田、官位により広...
均田制が始まった北魏では、妻・奴婢さらに耕牛にまで土地...
政府は農民に土地を均等に与えることによって、自作農を増...
土地を支給される代わりに均田農民には租・庸・調が課せら...
唐の租は粟(ぞく、外皮がついたままの穀物)2石(1石は...
府兵制は、西魏で始まり隋・唐で整備された兵農一致の兵制...
唐では、貴族は父祖の官位に従って任官する蔭位(おんい)...
元来、国家から支給された土地を売買することは禁止されて...
均田制は、8世紀の初め頃から行きづまりだした。人口が増...
均田農民の負担のうち、租・調の負担はあまり重くなかった...
また均田制の崩壊とともに、租庸調の税制も行われなくなり...
徳宗(9代、位779~805)は、安史の乱後の回復をは...
両税法は、現住地で(土地を捨てて移動した農民を、元の土...
この両税法の施行によって、唐の国家財政は一時的に好転し...
両税法は、その後、土地税の性格を強め、宋・元・明に受け...
こうして、唐を支えた三本柱である均田制・租庸調制・府兵...
唐の都の長安は人口100万人といわれ、政治都市であると...
唐帝国の領土の拡大によって、中央アジアではイスラム帝国...
また「海の道」による貿易は、1世紀頃からインドとローマ...
商業・産業の発達にともない、遠隔地との取引が拡大するな...
魏晋南北朝以来開発が進んだ江南では、茶や綿花の栽培が盛...
8.
2 東アジア文化圏の形成
6 唐代の文化
唐の文化は、西のイスラム文化と並んで、当時の世界におけ...
唐代には、東は朝鮮・日本から、西は中央アジア・ペルシア...
人々の往来とともに、特に西方から様々な文化が流入し、そ...
ネストリウス派キリスト教は、431年のエフェソスの宗教...
ペルシア人の阿羅本が、635年に長安にやってきて、太宗...
ゾロアスター教も伝来し、けん(示へんに夭)教と呼ばれた...
ペルシアからは、マニ教も伝来し、摩尼教と呼ばれた。マニ...
イスラム教は、7世紀の後半、高宗の頃、アラブ人によって...
中国の三大宗教である儒教・仏教・道教もそれぞれ栄えた。
道教は、祖とされる老子の姓名が李耳(りじ)で、唐室の李...
仏教も、帝室や貴族の保護を受けて大いに栄えた。唐代の仏...
玄奘(602~664)は、13歳で出家し、各地の師のも...
玄奘は、高昌(現在のトルファン)で大歓迎を受け、帰路立...
膨大な経典とともに再び陸路を経て、太宗の貞観19年(6...
玄奘は、帰国の翌年(646)に、この大旅行の様子を「大...
玄奘は勅命によって、大慈恩寺(648年に建立された)に...
玄奘の死から7年後の671年、義浄(635~713)も...
著書の「南海寄帰内法伝」は、旅行中の681~691年、...
唐代の仏教では、禅宗・浄土宗・密教が普及するようになり...
儒教も、唐が唐初から儒教の興隆に力をそそいだことや、特...
太宗に仕えて国子監(中央の諸学校を統轄した機関)の長官...
唐詩は、単に唐代の文化を代表するだけでなく、中国文化を...
盛唐時代の王維(701頃~761)、李白(701~76...
王維は自然詩人として、画家としても有名である。
李白は、富裕な商人の子として生まれ、少年時代は四川で過...
杜甫は、官僚の家に生まれたが、何度も科挙に失敗し、職も...
白居易、字は楽天。白楽天の名で知られている。29歳で進...
文章では韓愈(768~824)と柳宗元(773~819...
絵画では、六朝に始まる山水画が進歩し、呉道玄(8世紀頃...
書道も盛んで、多くの優れた書家が輩出した。唐代の官吏は...
初唐の三大書家と呼ばれる欧陽詢(557~641)、虞世...
ちょ遂良は、王羲之の書風を継いで書に巧みであったので、...
顔真卿は、前述したように、安史の乱の際、平原(山東)の...
工芸の分野では、唐三彩が有名である。唐三彩は緑・褐・白...
9.
2 東アジア文化圏の形成
7 唐文化の波及と東アジア諸国
唐の国際的な文化は、周辺の諸民族に大きな影響を与えた。...
日本は、早くから中国文化を受け入れてきたが、隋・唐がお...
遣唐使は630年に開始され、894年に菅原道真の建議に...
645年の大化改新によって、唐の律令制にならって班田収...
朝鮮半島では、4世紀に辰韓を統一した新羅が、法興王(新...
しかし、7世紀にはいると百済・高句麗の侵入に悩まされる...
新羅の武烈王(29代、位654~661)は唐と結んで百...
唐は、667年についに高句麗を攻め滅ぼした。唐がさらに...
新羅は、7世紀中頃から唐の律令制を取り入れて律令国家体...
新羅では骨品(こっぴん)と呼ばれる身分制度が行われ、出...
貴族勢力が強かった新羅では、9世紀頃から中央における王...
中国の東北地方の東北部に住んでいたツングース系の靺鞨(...
渤海は15代約200年間にわたって中国東北地方を中心に...
チベットでは、ソンツェン・ガンポ(?~649、位629...
ソンツェン・ガンポは、唐とは太宗以来親交を続け、641...
その後、吐蕃は680年頃から東トルキスタン(中央アジア...
唐と吐蕃の争いに乗じて、雲南ではチベット=ビルマ系の民...
ヴェトナム北部は、始皇帝による征服から一時自立したが、...
この間、ヴェトナムのジャンヌダルクと呼ばれる「徴(チュ...
唐は、622年にハノイに交州大総管府を置き、679年に...
呉権(ゴークエン)は、南漢との戦いに勝利をおさめ、自立...
この初期三王朝の後を受けて、李公蘊(りこううん、太祖、...
李朝は都をハノイに置き、中国の諸制度・文化を取り入れて...
10.
5.中国社会の変化と北方民族の進出
3 中国社会の変化と北方民族の進出
1 五代の形勢
唐代、玄宗は異民族の侵入にそなえて辺境に十節度使(辺境...
節度使は、はじめは皇帝に任命され、強力な軍隊を預かって...
節度使(唐末五代では藩鎮と同じ意味に使われることが多い...
唐末の大農民反乱である黄巣の乱(875~84)に加わり...
以後、約50年間に華北では後梁・後唐・後晋・後漢・後周...
このうち後漢をごかんと読むと後漢(25~220)と紛ら...
唐を滅ぼした朱全忠(太祖、位907~912)が建てた後...
朱全忠と対立した李克用(856~908)は、突厥の沙陀...
後晋の建国者である石敬とう(王へんに唐)(高祖、位93...
石敬とうは契丹の援助を受ける際に契丹に臣礼をとって歳貢...
後晋を倒して後漢の建国者となったのも突厥の沙陀(さだ)...
後周の建国者、郭威(太祖、位951~54)は、劉知遠の...
後周の第2代皇帝、世宗(位954~959)は五代第一の...
五代のうち、後唐(都は洛陽)を除く四王朝は開封を都とし...
華北で五代が興亡を繰り返した間、江南では呉(902~9...
唐末五代の時代は中国史上、春秋戦国時代と並ぶ社会の大変...
政治的には、魏晋南北朝時代から隋唐の時代に国家の支配層...
こうした社会の変化の中で、従来の都を中心とした貴族文化...
6.
3 中国社会の変化と北方民族の進出
2 宋の統一(その1)
宋(北宋)の建国者の趙匡胤(太祖、927~976、位9...
こうして部下の将兵によって皇帝に推戴され、恭帝から禅譲...
趙匡胤は即位すると、これまで藩鎮(節度使)の強大な勢力...
こうして唐末・五代の藩鎮(節度使)の武断政治を廃し、科...
中央官制では、唐代以来貴族の牙城であった門下省を廃止し...
殿試は、省試合格者に対して皇帝自らが出題する最終で最高...
太祖は契丹の南侵をくい止め、呉越・北漢を除く五代以来の...
太祖の後を継いだ太宗(939~997、位976~997...
内政でも、太祖の文治主義を継承し、君主独裁中央集権官僚...
太宗は節度使の財政権を奪うなど節度使の権限をさらに縮小...
太祖・太宗ともに節度使の権限を奪い、文治主義を採用し、...
科挙は隋代に始まり、唐に受け継がれ、宋代に完成された。...
宋代、科挙に合格して官僚になった者を出した家は官戸と呼...
科挙にはいくつかの科目があり、試験科目も異なっていた。...
進士の試験科目は経義(経書の暗記)・詩賦(作詩)・策論...
進士を優秀な成績で合格した者(トップ合格者は状元と呼ば...
科挙は3年に1度行われたが、その合格者はきわめて少数で...
科挙の受験資格は広く庶民にも開かれていたが、このように...
多くの合格者を出した富裕な階層の代表は、当時「形勢戸」...
官僚になるには科挙に合格する以外にも、例えば高官の子弟...
太宗の死後、真宗(位997~1022)が即位した。当時...
遼が、1004年に黄河北岸のせん(壇の字の土へんがさん...
このせん淵の盟(1004)で、(1)両国は宋を兄、遼を...
せん淵の盟は、以後100年間にわたって両国によって忠実...
4代目の仁宗(位1022~63)の時代は、欧陽脩らの有...
そのため慶暦の和約(1044)を結び、(1)西夏は宋に...
宋は和約を結ぶ一方で西北辺に兵力を集中した。また西夏と...
7.
3 中国社会の変化と北方民族の進出
3 宋の統一(その2)
北宋の第6代皇帝、神宗(1048~85、位1067~8...
王安石(1021~86)は江西省出身、21歳で科挙に合...
王安石は神宗の全面的な信頼を得て、軍事・財政の危機を克...
王安石の「新法」の主なものは、青苗法・均輸法・市易法・...
青苗法は、貧農の中には籾種さえ食い尽くして田植えの出来...
均輸法は、前漢の武帝も行ったが、均輸官を各地に置き、そ...
市易法は、大商人の営利独占・小商人の抑圧などを排し、小...
募役法は、徴税・治安維持などの地方の労役が上・中層農民...
保甲法は、当時の宋の傭兵制が軍隊の質の低下・軍事力の弱...
保馬法は、遼・西夏との戦いに必要な軍馬が遼・西夏の輸出...
このように王安石の行った「新法」は貴族・特権官僚・大商...
王安石の新法はかなりの成果を上げ、財政や治安は好転した...
神宗が没した翌年に旧法党の司馬光が宰相となり、新法はこ...
司馬光(1019~86)は、山西省の大地主の家に生まれ...
哲宗(位1085~1100)の時代は「党争」(旧法党と...
哲宗の死後、弟の徽宗(位1100~25)が第8代の皇帝...
こうした宮廷の奢侈のために国民に負担を強いたので、江南...
この頃、中国東北地方の奥地にいたツングース系の女真族が...
この情勢を見た宋は新興の金と同盟を結び宿敵遼を挟撃し、...
徽宗はその事態に驚き、「己を罪する詔」を出し、全国に勤...
宋はいったんは金と和を結んだが、金は翌年宋の違約を責め...
徽宗はその地に幽閉されたまま帰国の願いはかなわずその地...
8.
3 中国社会の変化と北方民族の進出
4 遼と西夏
契丹は、5世紀以後、遼河(渤海湾に流れ込んでいる河)の...
キタイ(Kitai)・キタン(Kitan)の名で呼ばれ...
初めウイグル(744~840に王国を形成)に属したが、...
契丹は多くの部族に分かれていたが、中国が唐末の混乱に陥...
彼は万里の長城を越えて華北に侵入し、多くの漢人をとらえ...
太祖(耶律阿保機)は西方の突厥・ウイグル・タングートに...
太祖は独自の契丹文字を作成(920)させるなど、契丹民...
次の太宗(位926~947)は、中国で石敬とうが後唐に...
遼は北方民族である契丹が本拠地を確保しながら中国の領土...
征服王朝は、ドイツ人の中国研究家ヴィットフォーゲルが遼...
初めて中国の地に領土(燕雲十六州)を持った遼は、中国の...
そのため遼は漢人を支配するにあたっては二重統治(体制)...
中央の最高機関である枢密院を契丹人など遊牧民を統治する...
遼第一の名君と言われている6代皇帝聖宗(位982~10...
東方の女真族や朝鮮の高麗を従属させ、西方では中央アジア...
聖宗の治世の後半には政治・軍事組織が整備され、中央集権...
しかし、9代天祚帝(てんそ、位1101~25)の時代に...
遼が滅亡する直前に、遼の皇族で太祖から数えて8代目の子...
契丹は初めウイグル人の文化の影響を受けたが、やがて中国...
太祖は契丹の言語を書き表すために契丹文字を作成し、これ...
宋の西北辺境の陜西・甘粛方面にはチベット系のタングート...
その子孫の李元昊(りげんこう、1003~48、位103...
西夏はシルク=ロードの要衝を押さえ、内陸中継貿易で利益...
李元昊は大軍を率いて宋に侵入したが、戦いが長期化する中...
李元昊は東はオルドスから西は敦煌まで領土を拡大し、宋・...
井上靖の名作「敦煌」は映画化されたので、映画を見た人も...
文化面では、中国文化の影響を強く受けながらも、仏教文化...
西夏は、李元昊以来10代約200年間続いたが、遼に代わ...
9.
3 中国社会の変化と北方民族の進出
5 金の侵入と南宋
女真人は、10世紀以来中国東北地方東部の奥地・森林山岳...
女真は、10世紀以来遼の支配下にあった。女真のうち早く...
現在のハルビン市を流れている混同江(現在の松花江)流域...
太祖(阿骨打)は首長となると、それまでの氏族制を行政と...
太祖は、猛安・謀克を組織化し、国家体制を確立していった...
猛安・謀克は行政と軍事を兼ねた制度で、行政面では300...
太祖が遼から自立して金を建国し、遼軍を圧迫しているとの...
金は交渉がまとまらないうちに軍事行動を起こして遼軍を破...
太祖は、宋の援助の要請を受けると、たちまち燕京を陥れて...
太宗(位1123~35)は、兄の後を継いで帝位につくと...
太宗は、遼を滅ぼして後顧の憂いを除くと、今までの宋の背...
翌1126年、金は開封を包囲した。陥落を前にして宋は金...
金はこの約束に満足して兵を引いたが、この時またしても宋...
徽宗の第9子で欽宗の弟であった康王は、靖康の変の際に河...
高宗は金の追撃を受けて、南に逃げ長江を渡って、江南に拠...
金は北宋を滅ぼし、華北を支配下に入れ、さらに南下して南...
秦檜(しんかい、1090~1155)は、江蘇省出身で科...
秦檜は、金の内情を知る者として高宗の信任を得て宰相とな...
岳飛(1103~41)は、河南省の農民の子に生まれ、北...
秦檜は、主戦派によって一時失脚したが再び宰相となり(1...
この戦いでの岳飛の活躍はめざましく、かっての宋の都・開...
秦檜は詔勅によって全軍に作戦行動を停止させ、将軍たちを...
悲劇の将軍岳飛は、後に無実が明らかとなると、忠義の士と...
岳飛の死の翌年、1142年についに南宋は金との間に屈辱...
この和議によって南宋の領土は北宋に比べて半減したが、経...
南宋は、9代約150年間続いたが、金がモンゴルに滅ぼさ...
7代皇帝恭帝(当時7歳)は捕らえられて北へ送られたが、...
金は、1142年の和議によって淮水以北の華北を支配下に...
第4代皇帝海陵王(位1149~61)は中国的な大帝国の...
金第一の名君とされる第5代世宗(位1161~89)は、...
世宗の後を継いだ章宗(位1189~1208)の頃から、...
13世紀初めモンゴルではチンギス=ハン(位1206~2...
10.
3 中国社会の変化と北方民族の進出
6 宋代の社会
宋は、北方民族の遼・西夏・金の圧迫を受け、政治的にはあ...
宋の南渡以来、南宋には金の支配を逃れて多くの漢人が南下...
江南では従来農耕地としては利用できなかった湿地帯や河岸...
また北宋時代に、占城(チャンパー、ヴェトナム南部)から...
特に長江下流域一帯の米作は中国農業の中心となった。「江...
また華北の畑作地帯でも唐の中期以後農業技術が進歩し、小...
宋代にも、唐以来の大土地所有制(荘園制)が発展したが、...
佃戸は、法的には自由民であったが、地主のもとで移転の自...
米作以外の諸産業も大いに発達した。特に茶の栽培・製茶業...
宋代にはこの傾向がますます強まり、庶民にとっても茶は生...
宋代には茶は塩と並ぶ重要な専売品となり、その利益は国家...
絹織物業でも機織り技術が進歩し、宋代には江南が生産の中...
飲茶の風の普及に伴い、陶磁器産業も大いに発展し、宋代に...
製茶・絹織物・陶磁器を中心に諸産業が発達し、各地では特...
商業の発達に伴い貨幣経済が発達し、貨幣の流通量が増大し...
交子は、北宋時代に四川の成都で民間金融業者が発行した手...
会子は、初め開封や臨安(杭州)などの大都市の金融業者が...
商工業の発達・貨幣経済の発達に伴い都市が発達した。宋代...
開封・杭州などの大都市とともに、地方でも鎮・市と呼ばれ...
中国の都市は、周囲を城壁で囲まれている。夜になると城門...
宋代になり、商工業がますます発達するようになると、こう...
唐代の長安は夜になると暗闇の中でひっそりしていたであろ...
営業の自由を獲得した商人達は、営業の独占や相互扶助を目...
宋代には外国貿易も盛んとなり、茶・絹・陶磁器などが輸出...
11.
3 中国社会の変化と北方民族の進出
7 宋代の文化
宋代の文化の特色としては、中国的・国粋的な文化であった...
宋は軍事的に弱体で北方民族の圧迫に苦しめられたため、そ...
儒学では宋学がおこり、南宋の朱熹によって大成された。
宋学は、唐代までの儒学が経典の字句の解釈を中心とする訓...
宋学は北宋の周敦頤(しゅうとんい、1017~73)に始...
周敦頤・程顥・程頤らの学説を発展させて宋学を集大成した...
朱熹は、「理気説(理気二元論)」(宇宙・万物は、理と気...
漢民族は古くから中華思想を持ち続け、自らを中華と誇り、...
宋学は、朱熹によって大成されたので朱子学とも呼ばれ、ま...
朱熹とほぼ同時代に活躍した南宋の陸九淵(陸象山、113...
儒学以外の学問の分野では、民族意識の高まりのなかで歴史...
北宋の政治家で旧法党の党首であった司馬光が著した「資治...
朱熹は「資治通鑑綱目(通鑑綱目)」を著した。「資治通鑑...
宗教では、仏教が宋代には生活の中に深く根を下ろし、実践...
道教も北宋の真宗や徽宗の信仰を得て、北宋時代には仏教を...
庶民文化が栄えたことは宋文化の大きな特色であるが、庶民...
詞とともに庶民に親しまれたのが雑劇や口語をまじえた小説...
文学では散文が盛んになった。唐代に韓愈や柳宗元が唱えた...
文学的教養と並んで、書・絵画も士大夫(知識人階級)にと...
美術では、知識人を中心とする文人画や宮廷画家を中心とす...
文人画と院体画はやがてそれぞれ南宗画(なんしゅうが)・...
工芸では青磁・白磁などの陶磁器が発達した。
宋代は中国の科学が発展した時代でもあった。科学技術の面...
印刷術は隋か唐初に発明されたと推定されている。宋代にな...
硝石・硫黄・木炭などを混ぜ合わせて作った黒色火薬は唐代...
磁針が南北を指すことは中国では戦国時代末期にすでに知ら...
12.
6.モンゴル民族の発展
4 モンゴル民族の発展
1 モンゴル帝国の成立
モンゴル高原は、東は大興安嶺から西はアルタイ山脈、南は...
モンゴル高原では、古くからモンゴル系やトルコ系の遊牧民...
10世紀以後、契丹人が遼を建国して強大となると、モンゴ...
言うまでもなく、遊牧民族の財産は馬・羊などの家畜である...
そのモンゴル部に、12世紀後半、一人の英雄が現れた。世...
チンギス=ハン(1162~1227、生年については異説...
こうした逆境の中でテムジンは、草原の戦いに参加して鍛え...
1206年に全モンゴルの部族の長が集まって開かれたクリ...
チンギス=ハン(太祖、成吉思汗、位1206~1227)...
チンギス=ハンは、全モンゴルを統一すると、シルク=ロー...
この頃、西アジアのホラズム朝が和平の使節を送ってきた。...
チンギス=ハンは、中央アジアに軍を進め、西遼(カラ=キ...
チンギス=ハンは、次男のチャガタイ・三男オゴタイ・末子...
チンギス=ハンは、帰国後征服した広大な領域を一族の者に...
チンギス=ハンは帰国後、休む間もなく西夏に遠征し、つい...
チンギス=ハンの死後、モンゴルの慣習に従って末子のトゥ...
オゴタイ=ハン(太宗、1186~1241、位1229~...
オゴタイ=ハンはオルコン川上流のカラコルムに長方形の城...
バトゥ(1207~55)は、チンギス=ハンの長男ジュチ...
副司令官のスブタイの率いる別隊はポーランドに侵入した。...
次は西ヨーロッパ諸国がモンゴル軍の侵略の恐怖にさらされ...
オゴタイ=ハンの死後、その皇后が監国となって政務をみた...
オゴタイの死から5年後に、バトゥが欠席する中でクリルタ...
モンケ=ハン(憲宗、1208~59、位1251~59)...
フラグ(1218~65)は中央アジア・カスピ海南岸を経...
フラグは次いでシリアを征服し、さらにマムルーク朝治下の...
フラグ=ハン(位1258~65)は、モンケ=ハンの死(...
モンケ=ハンは、自らは南宋攻略に出陣したが(1258)...
こうしてモンゴル帝国は13世紀の中頃までには、東は中国...
3.
4 モンゴル民族の発展
2 モンゴル帝国の分裂
モンゴル帝国は、13世紀の中頃には、東は中国の華北から...
チンギス=ハンが西征の後、領土を子どもたちに分け与えた...
フビライ(1215~94)は、モンケ=ハンが即位すると...
モンケが南宋攻略中に四川で病没したとき、フビライは顎州...
モンケ=ハンの死後、フビライは次のハンの有力な候補者で...
そこで南宋攻略のための大軍を握っていたフビライは実力で...
フビライの即位に対しては方々で反対が起こった。アリクブ...
ハイドゥは、オゴタイ=ハンの孫で、グユク=ハンの死後、...
この40年近くに及ぶハイドゥの乱(1266~1301)...
オゴタイ=ハン国(1225頃~1310)は、オゴタイ=...
チャガタイ=ハン国(1227~14世紀後半)は、チャガ...
キプチャク=ハン国(1243~1502)は、チンギス=...
イル=ハン国(1258~1353(1411))は、チン...
イル=ハン国は、初めネストリウス派キリスト教徒を保護し...
4.
4 モンゴル民族の発展
3 元の中国支配
フビライ=ハン(世祖、位1260~94)は、兄モンケ=...
フビライは、彼の即位に反対するアリクブガの反乱を平定す...
南宋では文天祥らが抗戦を唱えたが、皇太后は幼い恭帝(位...
文天祥は、講和の交渉のために元の陣中に赴いたがそのまま...
南宋を滅ぼして中国全土を支配下に置いた元の領土は、フビ...
高麗(918~1392)は、オゴタイ=ハンの時代に元軍...
このモンゴルの占領下で三別抄(別抄は強兵で組織された軍...
これより前、フビライの使節が太宰府に来て国書を提出した...
フビライは高麗に軍船900隻の建造と兵員・水手の徴発を...
フビライは、その翌年また使節を派遣したが、時の執権北条...
フビライは、南宋を滅ぼすと南宋・高麗に軍船の建造を命じ...
フビライは三度目の遠征を企てたが、江南の反乱・ヴェトナ...
フビライは日本・ヴェトナム・ジャワに遠征軍を送ったが、...
ヴェトナム南部のチャンパ(占城)が反抗したので、海路大...
またヴェトナム北部の陳朝(1225~1400)に2回(...
ジャワ島のシンガサーリ朝(1222~92)の王が元の使...
しかし、ミャンマー(ビルマ)ではパガン朝(1044~1...
南宋を滅ぼし中国全土を支配下においた元朝は、人口の8割...
モンゴル人第一主義は民族差別に基づく身分制度で、人々を...
色目人は諸色目人(色々の目の色をした人々の意)の略で、...
支配階級であるモンゴル人と色目人を合わせて人口は約20...
漢人は、金の支配下にあった人々の総称で女真・契丹・高麗...
そして南人は南宋の支配下にあった漢民族を指し、人口は約...
漢人・南人は被支配者階級であり、特に人口の大部分を占め...
モンゴル人第一主義のもとでは、重要官職はすべてモンゴル...
こうしたなかで、今までの中国社会では人々から尊敬されて...
支配階級で貴族階級であるモンゴル人の数は極端に少なく、...
世祖フビライ=ハンの死後、孫の成宗(位1294~130...
チベット仏教(ラマ教)は、フビライがチベット仏教の教主...
パスパ(1235(39)~80)はチベット仏教(ラマ教...
またパスパはフビライの命を受けて、チベット文字を基礎と...
元朝では、以後チベット仏教(ラマ教)が大いに栄え、ラマ...
宮廷貴族のぜいたくな生活やチベット仏教(ラマ教)の信仰...
財政難を切り抜けるために、元朝は塩・茶・酒の専売制を強...
第4代の仁宗(位1311~20)は中国文化を尊重し、科...
その後、元朝内部ではハン位の相続争いが続き、一方で財政...
第11代ハンに順帝(位1333~70)が即位したが、順...
紅巾の乱から身を起こして明(1368~1644)を建国...
順帝の子、昭宗(位1371~78)は、モンゴル高原に退...
5.
4 モンゴル民族の発展
4 交通・貿易の発達
モンゴル高原や中央アジアで活躍した遊牧騎馬民族は、古く...
チンギス=ハンも、モンゴル高原を統一すると、中継貿易の...
モンゴル帝国は、初期から通商路の安全を重視し、その整備...
チンギス=ハンは、遼・金の制度を継承して駅伝制(モンゴ...
元の駅伝制は、大都を中心とする主要道路に沿って、10里...
またインド洋経由の海上貿易も宋代に引き続いて盛んに行わ...
マルコ=ポーロは杭州(臨安)をキンザイと呼び、有名な「...
また泉州をザイトンと呼び、「ザイトンの港には、あらゆる...
元の首都大都には、多数の官僚や商人が集まっていたが、こ...
またこれとは別に長江下流から山東半島を回って大都に方面...
貨幣としては、はじめ銅銭・金・銀が用いられたが、やがて...
6.
4 モンゴル民族の発展
5 東西文化の交流と元代の文化
モンゴル帝国の成立によってユーラシア大陸の大部分がモン...
当時のヨーロッパは十字軍の時代で、またアジアにキリスト...
イタリア人のフランチェスコ会修道士のプラノ=カルピニ(...
ウィリアム=ルブルック(1220頃~93頃)はフランス...
有名なマルコ=ポーロ(1254~1324)は、ヴェネツ...
マルコ=ポーロはフビライの厚い信任を受け、地方官として...
元朝の皇女がイル=ハン国に嫁ぐ際にやっと許されて随行を...
「世界の記述(東方見聞録)」の中には日本の記述もあり、...
イブン=バトゥータ(1304~68/69 あるいは77...
大都生まれのウイグル人でネストリウス派の司祭であったバ...
モンテ=コルヴィノ(1247~1328)はイタリア人の...
中国には、唐代にネストリウス派キリスト教が伝わり景教と...
元朝が優遇した色目人にはイスラム教徒が多かったので、中...
郭守敬(1231~1316)は、フビライに仕えて多くの...
授時暦はイスラムの天文学に基づいて作られた暦で、1年を...
またイラン・インドには、モンゴルの進出によって中国絵画...
モンゴル人は中国を征服する前から西方の高度なイスラム文...
元の庶民文化を代表するのが、元曲(雑劇)である。宋代か...
元曲は、琵琶・琴・三弦などの楽器に合わせて俳優が演じ・...
「西廂記」は、愛する男女が上流階級の封建的なしきたりの...
「琵琶記」は、主人公が妻を残して科挙の受験のために都に...
「漢宮秋」は、前漢の元帝の宮女・王昭君が匈奴との和親政...
また中国の四大奇書のうち、「三国志演義」・「水滸伝」の...
モンゴル人は、公用語としてはモンゴル語を用い、公文書は...
7.
4 モンゴル民族の発展
6 隣接諸国の変遷
王建(877~943、高麗の太祖(位918~943)は...
王建は、新羅の諸制度を受け継いで支配体制を整える一方、...
6代目の成宗(位981~997)は、唐・宋の制度になら...
13世紀に入ると、モンゴルの侵入を受け、高麗は江華島に...
高麗では、仏教が国家の保護を受けて盛んで、「高麗版大蔵...
高宗の時代に、世界最古の金属活字が発明されたといわれて...
また高麗では、宋から学んだ製陶技術が発達し、美しい高麗...
ヴェトナムは唐末・五代の時期に、それまでの1000年に...
この初期三王朝の後を受けて、李公蘊(りこううん、太祖、...
李朝は、中国にならって中央官制・軍制を整備し、また科挙...
陳けい(位1225~1258)は、李朝最後の女帝から譲...
陳朝はヴェトナム人の民族意識が高揚した時期といわれてい...
13世紀には、フビライの三度にわたる侵入(1257、8...
陳朝の滅亡後、明の永楽帝に征服され、ヴェトナムは再び中...
雲南では、10世紀に南詔国(?~902)に替わって、タ...
8.
第6章 イスラム世界の形成と発展
7.イスラム帝国の成立
1 イスラム帝国の成立
1 ムハンマドとイスラム教
イスラム教の創始者であるムハンマド(マホメット、570...
イスラム教は、キリスト教(約19億人)・仏教(約3億人...
ムハンマドの生まれたアラビア半島のメッカは、当時国際的...
アラビア半島はこれまでの歴史の中ではあまり注目されるこ...
そのアラビア半島が脚光をあびるようになるのは、6世紀頃...
ムハンマドは、このメッカのクライシュ族の名門ハーシム家...
ムハンマドは、幼くして両親と死別し、祖父・伯父に養育さ...
彼はメッカの一部の大商人達による富の独占を批判し、「ア...
622年、ムハンマドは少数の信者達とともにメッカを脱出...
イスラム暦はヒジュラの年の年初(西暦622年7月16日...
メディナへの移住後、ムハンマドに率いられたムスリム(イ...
そして630年1月には1万人の軍勢を率いて、かって彼を...
その後、アラビア半島の諸部族はムハンマドの支配下に入り...
イスラム教は、唯一神アッラーへの絶対的服従(イスラム)...
イスラム教徒は、六信(イスラム教徒が信ずべきこと)を信...
六信とは、(1)アッラーは唯一絶対の神であり、万物の創...
五行とは(1)信仰告白(2)礼拝(3)断食(4)喜捨(...
(1)信仰告白は「アッラーの他に神はなし、ムハンマドは...
(2)礼拝は、1日に5回、どこにいてもメッカのカーバ神...
(3)断食は、イスラム暦の9月(ラマダーン)に1ヶ月間...
(4)喜捨(ザカート)とは、貧しい人々への施しをいう。...
(5)巡礼は、一生のうち一度はメッカのカーバ神殿に巡礼...
この他、成年男子にはジハード(聖戦、異教徒に対するイス...
以上の六信・五行の他に、イスラム法によって日常生活に様...
飲酒の禁止、汚れた動物とされる豚肉を食べることは禁止、...
イスラム教は、このように単に信仰の面だけでなく、社会生...
7.
1 イスラム帝国の成立
2 アラブ人の征服
ムハンマドの死後、イスラム教徒は教団の指導者としてカリ...
初代カリフに選ばれたアブー=バクル(位632~634)...
アブー=バクルの死後、彼の遺言で第2代カリフにはウマル...
第3代カリフには、ウマイヤ家出身のウスマーン(オスマー...
第4代カリフに選出されたのがアリー(位656~661)...
アリーは、第4代カリフに選出されたが、当時シリア総督で...
ムアーウィアは、アリーの暗殺後、自らカリフを称してウマ...
初代のアブー=バクルから4代のアリーまでは、ムスリムの...
暗殺されたアリーの支持者達は、ムアーウィアが樹立したウ...
シーア派は、現在のイスラム教徒の約1割を占めている。ア...
これに対して、現在のイスラム教徒の約9割の多数派を占め...
正統カリフ時代に、シリア・エジプト・イランを征服し、東...
ウマイヤ朝を創設したムアウィア(?~680、位661~...
ウマイヤ朝は第6代カリフのワリード1世(位705~71...
イスラム軍は、その後フランク王国に侵入したが、732年...
ウマイヤ朝はアラブ第一主義をとり、アラブ人を支配者とし...
ジズヤは異教徒の支払う人頭税で、ムハンマドはユダヤ教徒...
ハラージュは地租で、第2代カリフのウマルがイラクで最初...
正統カリフ時代からウマイヤ朝にかけては、アラブ人が支配...
14代、90年間続いたウマイヤ朝は、750年にアッバー...
8.
1 イスラム帝国の成立
3 イスラム帝国
ウマイヤ朝はアラブ第一主義をとり、征服地の非アラブ系改...
こうしたシーア派や非アラブ系の改宗者の不満を利用し、イ...
アブー=アルアッバースは、ムハンマドの叔父のアッバース...
激しい性格の持ち主であった彼は、政権を握るとウマイヤ家...
アッバース朝が成立した翌年(751)に、イスラム軍は中...
兄サッファーフの後を継いで第2代カリフとなったのがマン...
第5代カリフのハールーン=アッラシード(763頃~80...
ハールーン=アッラシードは歴代のカリフ中最も傑出した君...
彼は遠くインド王や有名なフランクのカール大帝と使節や贈...
この頃、首都バグダードは世界一の大都市として繁栄した。...
ハールーン=アッラシードはこの「アラビアン=ナイト」に...
ハールーン=アッラシードの時代に最盛期を迎えたアッバー...
アッバース朝のカリフは、神の代理人としてイスラム法に基...
アッバース朝のもとで、ウマイヤ朝時代のアラブ第一主義は...
またアラブ人の特権は次第に廃止され、イスラム教徒であれ...
ウマイヤ朝までの「アラブ帝国」から、真の意味での「イス...
9.
1 イスラム帝国の成立
4 イスラム帝国の分裂
アッバース朝の成立はイスラム世界の分裂の第一歩となった...
アッバース朝の創始者であるアブー=アルアッバースはウマ...
後ウマイヤ朝の第8代のアブド=アッラフマーン3世(位9...
首都コルドバは、人口30万人に達し、西方イスラム世界の...
後ウマイヤ朝の成立により、イスラム世界は東方のアッバー...
9世紀後半には、エジプトのトゥールン朝や中央アジアでサ...
ファーティマ朝は、969年にはエジプトを征服して、カイ...
ファーティマ朝の創始者は、建国の当初からカリフを称し、...
ファーティマ朝より少し遅れて、イランではシーア派の軍事...
その子の時にバグダードに入り(946)、アッバース朝の...
ブワイフ朝は100年あまり続いたが、11世紀の半ばにセ...
10.
8.イスラム世界の発展
2 イスラム世界の発展
1 東方イスラム世界
アッバース朝は、全盛期の第5代カリフ、ハールーン=アッ...
イランでは、イラン系のマワーリー(非アラブ系の改宗者)...
サーマン朝(875~999)は、中央アジア最初のイラン...
カラハン朝(10世紀中頃~12世紀中頃)は、中央アジア...
北アジアを原住地とする遊牧民でアルタイ語族に属するトル...
ウイグルは、同じトルコ系のキルギスの侵入を受けて滅亡し...
中央アジアに移住したトルコ人は、騎馬戦士として優れてい...
マムルークは黒人奴隷兵に対して白人奴隷兵を指し、トルコ...
グッズ=トルコ族と呼ばれた遊牧民の一派が10世紀頃、族...
トゥグリル=ベクは、シル川下流域で自立し、1038年に...
スルタンは、アラビア語で「支配者の地位」を意味する言葉...
トゥグリル=ベクは中央アジアから小アジアにまたがる広大...
大セルジューク朝(本家のセルジューク朝をこう呼ぶ、10...
イクター制はブワイフ朝で創始され、セルジューク朝の時に...
セルジューク朝はマリク=シャーの死後、内紛によって大セ...
ホラズム朝(アラビア語でフワーリズムとも呼ばれる、10...
イスラム世界は、トルコ人の活躍によって発展を遂げてきた...
チンギス=ハンの孫のフラグ=ハン(1218~65)に率...
フラグ=ハン(位1258~65)はイラン・イラクを征服...
2.
2 イスラム世界の発展
2 カイロの繁栄
ファーティマ朝(909~1171)は過激シーア派の一分...
ファーティマ朝は969年にエジプトを征服し、カイロ市を...
アイユーブ朝(1169~1250、アイユーブはサラディ...
サラディンは、トルコ・イラク・イランにまたがって居住す...
サラディンはアイユーブ朝を開くと、アッバース朝のカリフ...
しかしサラディンの死後(1193)、広大な領土は諸子に...
マムルーク朝(1250~1517)は、エジプトのアイユ...
アイバクは、トルコ人のマムルーク(奴隷兵士)でアイユー...
第5代スルタンとなったバイバルス(位1260~77)は...
マムルーク朝の首都カイロは東西貿易で繁栄し、バグダード...
マムルーク朝は、インド航路が発見されると独占してきた東...
3.
2 イスラム世界の発展
3 西方イスラム世界
アフリカ北岸のモロッコ・アルジェリア・チュニジア地方は...
このマグリブ地方の先住民はベルベル人と呼ばれ、ハム系を...
西サハラでラクダの遊牧を行っていたベルベル人のサンハー...
初代アミール(アラビア語で「指揮者」の意味、武将・総督...
その頃、イベリア半島では後ウマイヤ朝が内紛で分裂・衰退...
国土回復運動によってトレドを失ったムスリム諸侯がイブン...
アトラス山中で定住生活を営むマスムーダ族のイブン=トゥ...
アブド=アルムーミン(位1130~63)は、イブン=ト...
しかし、ムワッヒド朝もムラービト朝と同じように宗教的な...
一方、イベリア半島では国土回復運動(レコンキスタ)が進...
この頃成立したナスル朝(グラナダ王国、1230~149...
ナスル朝はキリスト教国の進出に対して最後まで抵抗したが...
4.
2 イスラム世界の発展
4 アフリカの諸国
現在知られている最古の黒人王国はナイル上流のクシュ王国...
メロエ王国はアッシリアから製鉄を学び、製鉄と商業によっ...
アクスム王国(前120頃~後572)は、アラビア半島の...
アクスム王国には4世紀にキリスト教(コプト派)が入り、...
西スーダン(スーダンはアラビア語で「黒い国」を意味する...
13世紀にマンディンゴ族は初代王のスンジャータ(124...
マリ王国の最盛期の王がマンサ=ムーサ(カンカンムーサ)...
14世紀には有名なイブン=バトゥータがこの国を訪れて、...
西スーダンの黒人ソンガイ族は、15世紀後半に勇猛・好戦...
ソンガイ王国は、16世紀末に「黄金の國」伝説を信ずるモ...
アフリカ東岸、赤道以南のマリンディ・モンバサ・ザンジバ...
さらにその南方のサンベシ川流域では、15世紀にモノモタ...
5.
9.インド・東南アジアのイスラム化
3 インド・東南アジアのイスラム化
1 インドのイスラム化
イスラム教徒は、8世紀の初めウマイヤ朝の時代に、一時シ...
ガズナ朝は、サーマン朝(875~999)に仕えていたト...
第7代スルタンのマフムード(位998~1030)は、サ...
ゴール朝(1148頃~1215)は、ガズナ朝の支配下で...
中央アジアのトルコ人のマムルークであったアイバク(?~...
ガズナ朝・ゴール朝ともにアフガニスタンに拠点を持ち、イ...
アイバクの死後、彼の奴隷でアイバクの養子となったイレト...
奴隷王朝は、北からのモンゴル人の侵入を防ぎ、内政に意を...
ハルジー朝の最後の王が暗殺されると、将軍のトゥグルク(...
ティムール軍が引き上げた後、命を受けてデリーの統治に当...
サイイド朝の末期に、パンジャーブ地方(インド西北部)で...
インド最初のイスラム王朝である奴隷王朝からムガール帝国...
インドに侵入したイスラム王朝は、最初は民衆にイスラム教...
2.
3 インド・東南アジアのイスラム化
2 東南アジアのイスラム化
ムスリム商人は、すでに8世紀後半のアッバース朝時代から...
東南アジアでイスラム教が広まる時期が遅れた理由としては...
イスラム社会では、10世紀頃から神との一体感を求める神...
こうした状況の中で、13世紀末にはスマトラ島の西北部、...
東南アジアの諸島部では、7世紀にスマトラ島の東南部にシ...
シュリーヴィジャヤ王国が衰退した14世紀の末頃、マライ...
マラッカ王国の建国者であるパラメーシュヴァラはマジャパ...
その後、マラッカ王国は東南アジア最初のイスラム国家とし...
イスラム教は、マラッカの貿易のルートに沿ってインドネシ...
ジャワ島ではマラッカ王国の成立の影響を受けて、北部ジャ...
3.
10.イスラム文明の発展
4 イスラム文明の発展
1 イスラム文明の特徴
イスラム文明の特徴を一言でいうと融合文明であるというこ...
イスラム文明は、イスラム教を核とする普遍的文明であり、...
自然科学が発達したこともイスラム文明の特色である。自然...
またイスラム文化は都市文明で、その主な担い手は商人や手...
2 イスラム教徒の学問
イスラム教徒の学問は、「固有(自国)の学問」と「外来の...
言語学・文法学は「コーラン」の研究から発達した。「コー...
法学・神学も「コーラン」の解釈を中心に発達した。イスラ...
歴史学は、ムハンマドの伝承研究から発達した。イラン系の...
イブン=ハルドゥーン(1332~1406)はイスラム世...
「外来の学問」は、ギリシア・インドなどの非アラブの学問...
これらの「外来の学問」は、9世紀の初めにギリシア語の文...
医学・薬学は、ギリシア・インドから学び、特に外科・眼科...
イブン=シーナーは、サーマン朝の高官の子としてブハラに...
イブン=ルシュドは、コルドバの名門に生まれ、法学・医学...
数学も、ギリシアの幾何学やインドの数学を学び、特にイン...
現在我々が使用している算用数字はアラビア数字と呼ばれる...
ローマ人はアルファベットを用いて数字を表記した(1はI...
従来の数学は、例えばギリシアの場合も発達したのは代数学...
天文暦学は、古代オリエントでも盛んであった占星術がイス...
オマル=ハイヤーム(1048~1131)は、イランの詩...
錬金術は、古代エジプトに起源を持つ、卑金属を貴金属に変...
ヨーロッパ人が、イスラムから様々な学問・知識を受け入れ...
「外来の学問」は、自然科学以外の分野では哲学・地理学な...
哲学では、ギリシア哲学・特にアリストテレス哲学の研究が...
地理学の分野では、大旅行家イブン=バトゥータ(1304...
イブン=バトゥータはモロッコのタンジールに生まれ、22...
彼の口述筆記による旅行記「三大陸周遊記」(原名は「町々...
文学では、アッバース朝以後、ペルシアの文学の影響を受け...
建築は、ドームとミナレット(光塔、この上から人間の声で...
イスラム教は偶像崇拝を厳禁する宗教である。そのため絵画...
偶像崇拝禁止のイスラム圏で大いに発達したのが、アラベス...
3 人と物の東西交流
広大なイスラム世界の成立にともない、ムスリム商人による...
ムスリム商人は、より多くの利潤を求めて、イスラム世界の...
遠隔地貿易には、陸上の隊商貿易と海上の商船貿易とがあっ...
中国・東アフリカ・東南アジアの海港などには、ムスリム商...
こうした人と物の交流とともに文化の交流も盛んであった。
中国で発明された製紙法がタラス河畔の戦い(751)で捕...
同じく中国起源で宋代に実用化されていた火薬と羅針盤もイ...
インドから西アジアに伝わった木綿や砂糖は、十字軍の兵士...
元の郭守敬によって作成された「授時暦」にはイスラムの天...
4.
第7章 ヨーロッパ世界の形成と発展
11.西ヨーロッパ世界の成立
1 西ヨーロッパ世界の成立
1 ゲルマン民族の大移動
アジア系の遊牧民族であるフン族は、1世紀の中頃までヴォ...
インド=ヨーロッパ語族のゲルマン人は、前1000年頃か...
ケルト人もインド=ヨーロッパ語族の一つで、前10~8世...
民族大移動を起こす前のゲルマン人の社会、いわゆる原始ゲ...
「ゲルマニア」は、第1部「ゲルマニアの土地・習俗」と第...
ゲルマン人はローマと堺を接するようになると、一部のゲル...
ゲルマン民族は狩猟・牧畜を主としていたが、次第に農業が...
フン族は東ゴート族を征服し、さらに西ゴート族に迫ったの...
ゲルマン民族の大移動は、部族全体が王に率いられて家族と...
しかし、ゲルマン人の数はローマ人に比べると圧倒的に少数...
西ゴート族は、376年にドナウ川の南に移住したが、ロー...
アラリックもそうであったように、多くのゲルマン人にとっ...
アフリカ攻略に失敗した西ゴート族はさらに西進し、ワリア...
この間、ゲルマン民族の大移動のきっかけをつくったフン族...
433年頃、叔父の跡を継いでフン族の王となったのが、ヨ...
アッティラの相次ぐ貢納金の要求に耐えられなくなった東・...
勢力をもり返したアッティラは、翌年イタリアに侵入し、ロ...
こうした混乱の中で、476年に西ローマ帝国はオドアケル...
オドアケル(434頃~493)はゲルマンのスキリア族の...
オドアケルは東ローマ皇帝から総督の称号を受け、イタリア...
東ゴート族は、フン族に征服され、その支配下に置かれ、ア...
東ゴート族の王家に生まれたテオドリック大王(454頃~...
ヴァンダル族は、オーデル川とヴィストラ川に挟まれた地域...
ガイゼリック(390頃~477、位429~477)の時...
ヴァンダル王国は、ガイゼリックの死後内紛によって衰え、...
ブルグンド族は、ポメラニア東部・バルト海沿岸(現在のポ...
この出来事を背景に書かれたのが、13世紀に完成する大叙...
ブルグンド族の多くは南に向かい、現在のスイスのジュネー...
多くのゲルマン諸族が地中海方面を目指したのに対し、ユト...
ローマ時代にブリタニアと呼ばれていた現在のイギリス(ブ...
ゲルマン諸族の多くが4世紀に移動を開始しているのに対し...
ミラノを中心とする北イタリアをロンバルディアと呼ぶのは...
西ローマ帝国の滅亡(476)後の西ヨーロッパには、いく...
またゲルマン民族が西に移動したあとのエルベ川以東の地や...
2.
2 フランクの発展
2 フランクの発展
フランク族は、3世紀頃には10いくつかの支族に分かれ、...
この頃、フランク族の中ではサリ族とリブリア族の2つの支...
クローヴィスは粗野で残忍、猜疑心が強く、陰謀と奸計に明...
フランク族がこのように大発展をとげた最大の理由は、他の...
クローヴィスの改宗については、彼がアラマン族との戦いに...
フランク族の間では分割相続の習慣があったので、クローヴ...
メロヴィング家には、残忍と好色の血が流れていたと言われ...
このため、フランク王国ではこの頃から「宮宰」(マヨル=...
カロリング家の祖である大ピピン(?~639)は、クロタ...
中ピピンの子が、732年のトゥール・ポワティエ間の戦い...
その頃、アフリカからジブラルタルを渡りイベリア半島に侵...
カール=マルテルは、イスラム軍を撃退した後、ブルゴーニ...
726年にビザンツ(東ローマ)皇帝レオン(レオ)3世が...
トゥール・ポワティエ間の戦いでフランク軍の強さを知った...
カール=マルテルの死後、兄とともに父の後を継いで宮宰と...
この時、フランクに保護を求めようとしていた教皇ザカリア...
これを受けて、小ピピンは754~755年にイタリアに出...
3.
1 西ヨーロッパ世界の成立
3 ローマ=カトリック教会の成立
フランク王国の発展とともに勢力を伸ばしたのがカトリック...
このうち、ローマ教会は、第1の使徒であるペテロの殉教の...
ローマ教会は、西ローマ帝国の滅亡(476)後、西ヨーロ...
修道院は、修道士・修道女が共同生活しながら修行する場で...
ベネディクト派修道院は、貞潔・清貧・服従を旨とし、「祈...
聖ベネディクトゥス会則は、その後急速に西ヨーロッパ各地...
グレゴリウス1世(540頃~604、位590~604)...
これより少し前、ユスティニアヌス帝(位527~565)...
その上、7世紀前半にイスラム教徒は東ローマ帝国からシリ...
イスラム教徒によるコンスタンティノープル包囲(717~...
当時、キリスト教徒の間では、イエス・マリア・殉教者の聖...
しかし、この「聖像禁止令」は、聖像をゲルマン布教の手段...
ローマ教会が、「聖像禁止令」をめぐって東ローマと対立し...
カール=マルテルの後を継いだ小ピピン(位751~768...
この時、フランクに保護を求めようとしていた教皇は、「王...
これを受けて、小ピピンは754~755年にイタリアに出...
4.
1 西ヨーロッパ世界の成立
4 カール大帝
小ピピンの子が、中世西ヨーロッパの歴史を代表する人物、...
ゲルマン民族の一派で、北ドイツのエルベ川流域に居住して...
この間、中央ヨーロッパに侵入してきたアジア系のアヴァー...
南では、イスラム教徒と戦い(778~801)、スペイン...
こうして、西はスペインのエブロ川、東はドイツのエルベ川...
800年のクリスマスの日、ローマのサン=ピエトロ大聖堂...
カール大帝の父ピピン以来、教皇とフランクの結びつきは強...
ともあれ、「カールの戴冠」は、政治的・宗教的・文化的意...
今まで見てきたように、西ヨーロッパ中世世界の成立にイス...
宗教的意義は、フランクを後ろ盾としてローマ=カトリック...
そして文化的意義としては、ギリシア・ローマの古典文化の...
まさに 、「カールの戴冠」は西ヨーロッパ中世世界の成立...
5.
12.西ヨーロッパ封建社会の発展
2 西ヨーロッパ封建社会の発展
1 フランク王国の分裂
カール大帝には約20人の子供がいたが、男子で彼の死後ま...
ルートヴィヒ1世は、817年に王国をロタール、ピピン、...
父の死後、長子のロタール1世が全土の支配を図ったのに対...
ロタール1世は、西ローマ皇帝の地位と中部フランクを得た...
メルセン条約による国境が、その後長い変遷を経て、今日の...
このフランス王国が分裂していった時期はヨーロッパが外部...
イタリアでは、ルイ2世(ロタール1世の子)の死によって...
東フランクでは、ルートヴィヒ4世(東フランク第4代の王...
ハインリヒ1世は辺境の防備に力を注ぎ、ノルマン人やマジ...
オットー1世(912~973、東フランク王(位936~...
マジャール人は、アジア系の遊牧民で、現在のハンガリー人...
オットー1世は、933年と特に955年のレヒフェルトの...
国内では大諸侯を抑えるために一族の者を諸侯として各地に...
オットー1世は、帝国教会政策を進めるために、3回にわた...
これが「神聖ローマ帝国」(962~1806)の起源とな...
ここにドイツからイタリア中部にまたがる大帝国が出現した...
西フランクは、8世紀末以来のたび重なるノルマン人の侵入...
ウードの甥、パリ伯ユーグの長子として生まれたのがユーグ...
しかし、カペー家の王領はパリとオルレアンを含む狭い地域...
8.
2 西ヨーロッパ封建社会の発展
2 ヴァイキングの活動
ノルマン人はゲルマン民族の一派(北ゲルマン)で、スカン...
ノルマン人が遠征に用いた舟は長さ約20m、40~60人...
ノルマン人は8世紀頃から活動を開始し(人口増加と耕地不...
ノルマン人は、初期には西ヨーロッパ各地の海岸付近を襲い...
ノルマン人の西フランク(フランス)への侵入は、8世紀末...
ノルウェーのノルマン人の首長であったロロ(860頃~9...
ノルマンディーに定着したノルマン人の下級貴族のある家に...
父ルッジェーロ1世の後を継いでシチリア伯になったルッジ...
フランスと並んでノルマン人の侵入に苦しんだのがイングラ...
七王国は、相互の長期にわたる抗争の末、ウェセックス王の...
イングランドが統一に向かっていた8世紀末からデーン人の...
こうした状況の時にイングランド王に即位したのが、エグバ...
アルフレッド大王の死後、約1世紀はデーン人の侵入も比較...
デンマーク王の第2子、クヌート(カヌート)(イングラン...
その後、イングランドでは再びアングロ=サクソン王朝が復...
ノルマンディー公ウィリアム(1027頃~1087、ノル...
ウィリアム1世は約5年でイギリスを統一し、フランスの封...
「ノルマンの征服」によって、ノルマンディー公国はイギリ...
北ヨーロッパでは、スウェーデンのノルマン人であるルーシ...
その後、リューリクの一族のオレーグに率いられたルーシ族...
ノルマン人の現住地にはデンマーク・スウェーデン・ノルウ...
ノルマン人の一部は、9世紀にアイスランドを発見して、そ...
9.
2 西ヨーロッパ封建社会の発展
3 封建社会の成立
中世西ヨーロッパは、イスラム・マジャール人・ノルマン人...
封建制度という言葉は、狭義では封土(ほうど)の授受を中...
西ヨーロッパでは、8~9世紀頃までに、封土の授受によっ...
西ヨーロッパの封建制度は、ローマの恩貸地制度とゲルマン...
一方、古ゲルマンの慣習である従士制度は、自由民の子弟が...
これらの制度がもとになり、フランク王国のもとで長期間の...
この封土の授受を媒介とする主従関係は次第に世襲化されて...
双務的な契約関係とは、主君と臣下の双方に契約を守る義務...
臣下の義務の中で最も重要な義務である軍役についても、1...
イスラムをはじめとする外民族の侵入による混乱によって交...
こうした中で、諸侯・騎士は封土として与えられた土地を所...
一般的な荘園の場合、領主の館(大諸侯の場合は城)・教会...
荘園内の農民の大多数は農奴と呼ばれる不自由な隷農であっ...
このような農奴になったのは、ローマ末期のコロヌスや解放...
農奴は、身分上の束縛を受けるとともに、領主に対して様々...
荘園の耕地は領主が直接経営する直営地と、農奴に貸し与え...
さらに十分の一税があった。これは農奴が荘園内にある教会...
このような中で農奴たちは必死に働いた。特に保有地での労...
本来、封土であった荘園には、国王の官吏が立ち入り、裁判...
封建社会の支配階級である王・諸侯・騎士の間には、キリス...
10.
2 西ヨーロッパ封建社会の発展
4 教会の権威
フランク王国と結びついて発展をとげてきたローマ=カトリ...
この間、多くの領主が、来世での救済を願って土地を寄進し...
教会や修道院が広大な荘園を持ち、そこから得られる税収入...
当時のヨーロッパでは、いかなる建造物も、それが建てられ...
国王が領主として大司教などを任命する場合、聖書に対する...
こうした聖職売買や聖職者の妻帯などの弊害を取り除こうと...
クリュニー修道院は、910年にアキテーヌ公が、その所領...
「ベネディクトへ帰れ」を基本とし、厳格な修行に励むクリ...
このクリュニー修道院と並んで教会刷新運動の中心となった...
クリュニー修道院出身で、後に教皇となったのがグレゴリウ...
まず聖職売買と聖職者の妻帯を禁止し、違反者を容赦なく追...
このグレゴリウス7世の俗人による聖職者の叙任禁止が、神...
ハインリヒ4世は、父の後を継いで6歳で即位したため、最...
従って、教皇が聖職叙任権を握り、教皇の息のかかった人物...
ハインリヒ4世はヴォルムスで国会を開き、グレゴリウス7...
破門はローマ=カトリック教会の罰則の1つで、破門される...
ドイツ諸侯は、マインツの南のトリブールに集まり、ハイン...
窮地に追い込まれたハインリヒ4世は、王妃や王子をともな...
グレゴリウス7世は、アウグスブルグの国会に赴く途中で、...
これが聖職叙任権闘争の過程で、皇帝権が教皇権に屈した事...
破門を解かれたハインリヒ4世は直ちにドイツに帰り、グレ...
翌年、軍を率いてアルプスを越え、イタリアに出兵したハイ...
ハインリヒ4世の子、ハインリヒ5世(位1099~112...
その後、教皇権はウルバヌス2世が提唱した十字軍の初期の...
インノケンティウス3世(1160頃~1216、位119...
この間、ドイツの帝位争いに介入し、自分の後見下にあった...
インノケンティウス3世が行った政策の中で最大の成功は、...
フランチェスコは、富裕な織物商人の子供としてアッシジに...
同じ頃、スペインのカスティリア地方に生まれたドミニコも...
こうして教皇権は、11末から隆盛を続け、13世紀初頭イ...
11.
13.東ヨーロッパ世界
3 東ヨーロッパ世界
1 ビザンツ帝国
ゲルマン民族の大移動の開始(375)から、20年後のテ...
また国内では、カルケドンの公会議(451)で異端とされ...
このような時期に、マケドニアの農家に生まれ、マケドニア...
彼は、国内では「ニケ(ニカ)の反乱」(532年にコンス...
この間、西方では「地中海帝国(ローマ帝国)の復活」をめ...
この「ユスティニアヌスの再征服」によって、今や東ローマ...
「再征服」と並んでユスティニアヌス帝の名を不朽にしてい...
「ローマ法大全」は、ハドリアヌス帝(位117~138)...
現在のヨーロッパ各国の法はローマ法の影響を受けている。...
またユスティニアヌス帝は、大土木事業を盛んに行ったが、...
ユスティニアヌス帝は、このセント=ソフィア大聖堂の建立...
さらにユスティニアヌスの時代に、中国から中央アジアを経...
このように、東ローマ帝国はユスティニアヌス帝の時に最盛...
アフリカ総督の子、ヘラクレイオス1世(位610~641...
このような対外的危機にあたって、国境防衛のために、軍管...
東ローマ帝国は、首都コンスタンティノープルが古くはビザ...
シリア・エジプトを征服し、ササン朝ペルシアを滅亡に追い...
ビザンツ帝国は、この年に即位したレオン3世(675頃~...
レオン3世は、北シリアの下層民の家に生まれ、後軍隊に入...
イサウロス朝にかわった、バシレイオス1世(位867~8...
キエフ公国のウラディミル1世の改宗(989)によって、...
しかし、11世紀中頃からセルジューク朝の侵入を受け、小...
マケドニア朝の断絶後の混乱を鎮圧して即位したアレクシオ...
アレクシオス1世は、セルジューク朝の脅威を訴える書簡を...
この時、小アジアに逃れて抵抗したテオドロス1世(位12...
しかし、その後のビザンツ帝国は、帝位争いや傭兵の反乱、...
ビザンツ文化は、ギリシア文化を継承・保存し、周辺のスラ...
西ヨーロッパ世界の文化が、ローマ文化とローマ=カトリッ...
ビザンツ帝国の領域では、ヘレニズム時代以後コイネーと呼...
美術の分野では、独自のビザンツ式が栄えた。ビザンツ式は...
ビザンツ文化の中で後世に最も大きな影響を及ぼしたのがユ...
ビザンツ帝国によって継承され、発展したギリシア古典文化...
1.
3 東ヨーロッパ世界
2 スラヴ民族の自立
インド=ヨーロッパ語族に属するスラヴ民族は、6世紀頃、...
このうち西方に拡大したポーランド人・チェック人・スロヴ...
ポーランドでは、10世紀にポラーニ人(農耕の人々の意)...
13世紀に入ると、モンゴル人の侵入とドイツ人の東方植民...
しかし、14世紀に入るとカジミェシュ(カシミール)大王...
この頃、バルト海東南岸に居住していたバルト系のリトアニ...
リトアニア大公ヤゲウォ(ヤゲロー)(1351~1434...
同じ西スラヴ族のチェック人とスロヴァク(スロヴァキア)...
10世紀初めにチェック人を中心にベーメン(ボヘミア)王...
14世紀末にプラハ大学神学教授となり、後に同大学の学長...
フスの処刑後、神聖ローマ皇帝ジギスムントがプラハ市とプ...
一方、スロヴァク人は、10世紀以来マジャール(ハンガリ...
南スラヴ族のセルビア人は、6世紀にバルカン半島を南下し...
12世紀中頃、東ローマ帝国から独立し、14世紀前半には...
同じ南スラヴ族のクロアティア人は、9世紀頃ローマ=カト...
同じく南スラヴ族のスロヴェニア人もローマ=カトリックに...
アジア系のブルガール人は、7世紀末にバルカン半島東南部...
12世紀末に再び独立し、第2次ブルガリア王国(1187...
ロシア人・ウクライナ人などの東スラヴ族が定着したロシア...
スラヴ人が住む地域に入ったノルマン人をスラヴ人はルーシ...
キエフ公国(9~13世紀)は、ウラディミル1世(位98...
ウラディミル1世は、ビザンツ皇帝の妹アンナと結婚し(9...
その後もキエフ公国は、ヤロスラフ1世(位1019~54...
こうした状況のなかで、13世紀にバトゥ(チンギス=ハン...
しかし、14世紀頃からモスクワ大公国が強力となり、モス...
2.
14.十字軍と都市の発達
4 十字軍と都市の発達
1 十字軍とその影響(1)
西ヨーロッパ世界は中世を通じて絶えず外部からの圧迫・侵...
イスラム教徒の支配下に置かれていたイベリア半島では、キ...
当時、イスラム世界では、中央アジアから興ったセルジュー...
フランス人でクリュニー修道院出身の教皇ウルバヌス2世(...
こうして翌1096年に多数の諸侯・騎士から成る第1回十...
十字軍はヨーロッパのキリスト教徒がイスラム教徒から聖地...
(1)封建社会が安定し、三圃制や11~12世紀頃から始...
(2)ローマ=カトリック教会による民衆の教化が進み、当...
(3)教皇の権威が著しく高まっていたこと、このことは有...
(4)諸侯・騎士の中には、封建制の完成によってもはやヨ...
(5)当時次第に勃興してきた都市の商人達は十字軍を利用...
(6)農民達は十字軍に参加することによって負債の帳消し...
十字軍はこのような様々な要因・人々の利害が複雑に絡み合...
ウルバヌス2世の演説は大きな反響を引き起こした。こうし...
第1回十字軍(1096~99)は、フランスの諸侯・騎士...
騎兵5千・歩兵1万5千の大軍は、緒戦で勝利をおさめ、ト...
アンティオキア攻略に功があった南イタリアのノルマンの騎...
アンティオキアからイェルサレムに向けて進撃し、6週間に...
当時のイスラム教徒がキリスト教徒に寛大であったのに対し...
ともあれ、第1回十字軍は聖地の回復に成功した数少ない十...
イェルサレム王国は、フランスに範をとり、ロレーヌ(ロー...
イェルサレム回復後、多数の十字軍兵士達は目的を達成した...
聖地の守護を目的として設立された(1119)テンプル騎...
宗教騎士団は、帰国後は護教活動や辺境の開拓に活躍した。...
第1回十字軍が成功をおさめたのは、セルジューク朝が分裂...
第2回十字軍(1147~49)には、ドイツ皇帝・フラン...
この後のイスラム側の失地回復はめざましくザンギーの子ヌ...
イェルサレム陥落はヨーロッパに大きな衝撃を与えた。こう...
しかし、当時英仏は本国で領土をめぐって激しく争っていた...
フィリップ2世とリチャード1世は、同時に出発し(119...
リチャード1世だけがイェルサレムを目指した。サラディン...
リチャードは「獅子心王(Lion-hearted )」...
結局リチャードとサラディンは和を結び、リチャードは聖地...
リチャードは、帰途ウィーン近くでオーストリア大公の捕虜...
かくして第3回十字軍もイェルサレムを回復することは出来...
1.
4 十字軍と都市の発達
2 十字軍とその影響(2)
第3回十字軍も結局聖地イェルサレム奪回という目的を達成...
第4回十字軍(1202~1204)は、北フランスの諸侯...
十字軍士らはヴェネツィアに集結してきたが、約束の船賃が...
十字軍士はやむを得ずこの条件を受け入れ、ツァラの町を襲...
翌年、破門された十字軍士を乗せた艦隊はツァラからコンス...
十字軍士達は強く反対したが、結局ヴェネツィアの商人と十...
幽閉されていたイサアキオス2世が復位し、アレクシオス4...
この宮廷クーデターを挑戦と受け取った十字軍士達は、再び...
十字軍士は「ラテン帝国(1204~61)」を建国し、フ...
ラテン帝国に対して、小アジアに逃れて抵抗したテオドロス...
このように第4回十字軍は、本来の目的から全くはずれてし...
第4回十字軍が失敗に終わったため、教皇インノケンティウ...
少年達の親は、彼らの冒険を必死に思いとどまらせようとし...
この出来事は少年十字軍(1212)と呼ばれている。同じ...
教皇インノケンティウス3世は、第4回ラテラノ公会議(1...
インノケンティウス3世の支持を得て神聖ローマ帝国皇帝と...
こうして始まったのが第5回十字軍(1228~29)であ...
しかし、その後イェルサレムは再びイスラム教徒の手に落ち...
敬虔なキリスト教徒で「聖王」と呼ばれたフランス王ルイ9...
第6回十字軍は、目標をアイユーブ朝の都カイロに定め、ダ...
第7回十字軍は、北アフリカを攻めて、そこに十字軍の新し...
これより前、マムルーク朝(1250~1517)は、アイ...
約200年の間に前後7回の十字軍が派遣されたことは、当...
宗教面では、十字軍が教皇の提唱で起こされ、一時的にせよ...
政治面では、諸侯・騎士が没落する原因となった。長期間の...
経済面では、十字軍によって最大の利益を得たヴェネツィア...
文化面では、十字軍によって多くの人々が東方との間を往来...
2.
4 十字軍と都市の発達
3 中世都市の成立
西ヨーロッパでは、イスラム教徒・マジャール人・ヴァイキ...
相次ぐ外民族の侵入による混乱の中で、人口は減少し、商業...
しかし、11世紀以後封建社会が安定して人口も増大する中...
荘園内で生産力が増大すると、余剰生産物が生まれてくる。...
このような変化はイスラム教徒やヴァイキングの商業活動や...
西ヨーロッパでは、11~12世紀にこのような変化が進ん...
中世都市の多くは定期市から発展したが、その成立の由来か...
商業は初めは小規模で、取引の範囲も都市と周辺の農村との...
北イタリアのヴェネツィア・ジェノヴァ・ピサなどの海港都...
特にヴェネツィアは、第4回十字軍以後東地中海に商権を拡...
内陸のフィレンツェは、13世紀以後毛織物生産と貿易・金...
北イタリアの内陸都市ミラノも毛織物・商業で栄えた。
北イタリアと同じ頃、北ドイツ・フランドル地方でも都市が...
北ドイツでは、リューベック・ハンブルク・ブレーメンなど...
リューベックは12世紀に建設されて以来、北海・バルト海...
ライン川の河口に近いフランドル地方(ほぼ現在のベルギー...
イギリスでは、ロンドンが北海貿易で栄えハンザ同盟の4大...
北イタリア都市と北ドイツ都市の発展によって、地中海商業...
フランス東北部のシャンパーニュ地方は、二つの商業圏の中...
南ドイツではアウグスブルクやニュルンベルクが栄えた。
アウグスブルクは、初代ローマ皇帝アウグストゥスが設置し...
フッガー家は、15世紀にイタリアとの香辛料・羊毛取引で...
ニュルンベルクは、15世紀頃にはイタリアとの遠隔地貿易...
その他ドイツでは、ライン川に沿う地域でケルンやマインツ...
フランスでは、ルーアン・ボルドー・マルセイユなどの港市...
今まで多くの都市をあげてきたが、ヨーロッパ中世都市は私...
3.
4 十字軍と都市の発達
4 都市の自治権獲得
中世ヨーロッパの封建社会は、「祈る人、戦う人、働く人」...
11世紀以後の商業・貨幣経済の発達は商人という新しい階...
中世ヨーロッパの都市のほとんどは城壁で囲まれていた。こ...
荘園の中で交換が始まり、市が立つようになったとき、商業...
貨幣経済の進展にともない領主も貨幣を必要とするようにな...
次にあげるのは、イギリスのブリストル市の特許状(115...
このようにして封建領主の支配から自立し、市民自身が市政...
ヴェネツィア・ジェノヴァなどの北イタリアの自治都市は、...
中世都市は、自立はしていても人口や規模の小さな都市が多...
都市同盟としては、北ドイツ諸都市を中心とするハンザ同盟...
ハンザ同盟は、北欧商業圏を支配した北ドイツ諸都市を中心...
ロンバルディア同盟は、ミラノを中心とする北イタリア諸都...
4.
4 十字軍と都市の発達
5 市民の自治
「都市の空気は自由にする」というドイツのことわざがある...
しかし、都市の自由は封建領主からの自由であって、無制限...
自治都市は、市民が市政を運営する特権を持っていたが、市...
ギルドは、中世都市の商人・手工業者の同業・同職者の組合...
手工業者のギルドは同職ギルド(ツンフト)と呼ばれる。同...
一人前の手工業者になるためには、まず徒弟として親方の家...
ギルドは、最初は商人ギルドだけで、手工業者もこの中にふ...
これに不満を持つ手工業者は、12世紀前半頃から同職ギル...
13世紀中頃から各都市でツンフト闘争が展開され、それに...
ギルドは、当初は市民の活動を保障し、生産面でも一定の役...
商工業・都市の発達にともない、中世末期から近代初頭にか...
ロレンツォ=デ=メディチ(1449~92)は、フィレン...
ヤコプ=フッガー(1459~1525)は、アウグスブル...
5.
15.西ヨーロッパ中央集権国家の成立
5 西ヨーロッパ中央集権国家の成立
1 教会勢力の衰微
十字軍が教皇の提唱で起こされ、一時的にせよ聖地を回復し...
しかし、結局聖地を回復することが出来ず、その一方で十字...
13世紀末に出た教皇ボニファティウス8世(位1294~...
フランスのフィリップ4世(位1285~1314)は、1...
ボニファティウス8世は聖職者課税禁止の教書を発して、教...
ところが、さらにフィリップ4世が、ナルボンヌの司教の知...
司教が教皇に訴えたため、ボニファティウス8世は司教を使...
これに憤ったボニファティウス8世は、フィリップ4世に対...
しかし、フィリップ4世は、これに屈せず、ノートルダムに...
これに対して、ボニファティウス8世が発した教書が有名な...
フィリップ4世は、これに対して再び聖職者・貴族をルーヴ...
ボニファティウス8世は、さらに教書を発し、フィリップ4...
フィリップ4世は、教皇の廃位を要求する一方で、ひそかに...
ボニファティウス8世は、その後市民の手で解放されたが、...
その後、フランスの貴族出身でボルドー大司教であったクレ...
以後、7代70年間にわたって教皇庁は南仏のアヴィニョン...
この有名な出来事は、「アヴィニョン捕囚」(1309~7...
7代目のアヴィニョン教皇、グレゴリー11世(位1370...
このため、以後イタリア・ドイツ・イギリスが支持するロー...
教会大分裂によって教皇の権威は著しく失墜した。またヨー...
イギリスの神学者・聖職者であったウィクリフ(1320頃...
彼は、カトリックの教義が聖書から離れているとし、聖書こ...
ベーメン(ボヘミア、現在のチェコ共和国)のフス(137...
大学教授を勤めると同時に、プラハ市のベツレヘム教会の説...
フスの説を支持する者はボヘミアだけでなく、全ヨーロッパ...
ドイツ皇帝ジギスムントの主宰で開かれたコンスタンツの公...
シスマについては、ローマ教皇を正統と認め、分裂中の3教...
フスの処刑後、ドイツ皇帝ジギスムントは、プラハ市とプラ...
こうして教皇権はかつての栄光を失って衰退に向かい、教会...
1.
5 西ヨーロッパ中央集権国家の成立
2 封建制・荘園制の崩壊
封建制は自給自足を本質とする荘園制の上に成り立っていた...
貨幣経済が広まると、領主層もいやおうなしにその中にまき...
賦役は、農奴が領主の直営地で、週に2~3日、無償で働く...
賦役による直営地の収穫物は全て領主のものとなり、農奴達...
そのため領主は非能率な賦役をやめて、賦役を金納化したり...
このように地代形態は、労働地代から生産物地代・貨幣地代...
この地代形態の変化は、農奴にとっても有利であった。生産...
たまたま、1348年に黒死病(ペスト)が全ヨーロッパに...
ペストは歴史上何回も猛威をふるって多くの人々の命を奪っ...
この時のペストはアジアで猛威をふるっていたが、東方貿易...
「東洋では鼻血がでたら死が疑い無しでしたが、それとは違っ...
このペストの大流行によって、イギリス・フランスでは人口...
このような動きを農奴解放という。農奴解放によって農民の...
こうして自立化していく農民に対して、貨幣経済の進展で窮...
フランスでは、1358年にジャックリーの乱と呼ばれる大...
百年戦争初期のポワティエの戦い(1356)後の無給傭兵...
イギリスでも、1381年にワット=タイラーの乱が起こっ...
百年戦争の戦費調達のために15才以上の国民に人頭税がか...
このワット=タイラーの思想的指導者で、巡回説教師として...
このようにジャックリーの乱やワット=タイラーの乱は鎮圧...
荘園制・封建制の崩壊は諸侯・騎士を没落を促進した。諸侯...
14世紀に出現した弩(いしゆみ)と長弓は戦争の様相を大...
このような武器の出現とともに重装騎士が出現する。彼らは...
さらに14世紀以後の火砲の出現は戦術を一層大きく変化さ...
14世紀の中頃には大砲が使用されるようになった。初期の...
鉄砲は、大砲より遅れて15世紀の後半に使用されるように...
日本には1543年に種子島にポルトガル人によって伝えら...
火砲の使用などによる戦術の変化は騎士の役割を低下させ、...
2.
5 西ヨーロッパ中央集権国家の成立
3 イギリスとフランス
イギリスでは、ノルマンの征服(1066)によってノルマ...
ノルマンディー公ウィリアムは、イギリスでエドワード懺悔...
ウィリアム1世は5年間でイギリスの統一をはたし、全国で...
ウィリアム1世はイギリス国王であるが、フランス領(ノル...
ノルマン朝は4代続いたが、ウィリアム1世の孫スティーブ...
しかし、ヘンリ2世の晩年はみじめで、フランス王と結んだ...
リチャード1世(位1189~99)は、ヘンリ2世の3男...
即位後間もなく、フランス王フィリップ2世・ドイツ皇帝フ...
リチャードは10年の治世の間、イギリスに留まったのは半...
プランタジネット朝第3代の王、ジョン(位1199~12...
またカンタベリ大司教の任命をめぐって教皇インノケンティ...
翌年、再び大陸に出兵してフィリップ2世と戦ったが敗退し...
「マグナ=カルタ(大憲章)」はジョンの悪政に対して貴族...
主な条項をいくつか列挙してみると次のようである。
第1条 まず第一に、朕は、イングランドの教会は自由であ...
第12条 いかなる軍役免除金または御用金も、王国全体の...
第13条 またロンドン市は、全てのその古来の特権と、水...
第16条 いかなる者も、騎士の封、またいかなる自由な封...
第39条 いかなる自由人も、彼と同輩の者の判決によるか...
第41条 あらゆる商人は、古来の正当な慣習により、いか...
第39条のように国民の権利に関する条項もあるが少なく、...
ジョンの死後、子のヘンリ3世(位1216~72)が幼少...
シモン=ド=モンフォール(1208頃~65)はノルマン...
ヘンリ3世がこれを無視すると反乱を起こし(63~65)...
エドワード1世(位1272~1307)は即位すると多く...
そしてエドワード3世(位1327~77)の時に、議会は...
このエドワード3世の時に有名な百年戦争が勃発した。
フランスでは10世紀末にカペー朝(987~1328)が...
カペー朝第7代の王が有名なフィリップ2世(尊厳王、位1...
前王ルイ7世(位1137~80)の時代にイギリス領とな...
第3回十字軍(1189~92)に参加したが、リチャード...
さらに次王ジョンとも戦い、ノルマンディー・アンジューな...
当時、南フランスのアルビ地方を中心にアルビジョワ派が盛...
フィリップ2世の孫でカペー朝第9代の王位についたルイ9...
イギリス王ヘンリ3世との間にパリ条約を結び(1259)...
ルイ9世は第6回十字軍(1248~54)・第7回十字軍...
ルイ9世の孫でカペー朝第11代の王が中世フランスを代表...
フィリップ4世は、当時親英・反仏的だったフランドル諸都...
フィリップ4世はこの戦争の戦費による財政難を打開するた...
フィリップ4世の死後、3人の子ども達が後を継いだがシャ...
3.
5 西ヨーロッパ中央集権国家の成立
4 百年戦争とばら戦争
イギリスは、ノルマン朝・プランタジネット朝の成立によっ...
フランスでフィリップ2世からフィリップ4世の時代に王領...
フィリップ4世はフランドル・ギュイエンヌ地方に対するイ...
フランドル地方は中世ヨーロッパで最大の毛織物の産地であ...
フィリップ4世は、フランス国王の封建的臣下であるフラン...
またギュイエンヌ地方はぶどう酒の特産地として知られ、ボ...
フランスではカペー朝が断絶した後、フィリップ4世の甥の...
フィリップ6世は、イギリス王がギュイエンヌに関してはフ...
これに対してイギリス国王エドワード3世(位1327~7...
こうして百年戦争(1339~1453)が始まった。
挑戦状を送った翌年にイギリス軍がノルマンディーに上陸し...
百年戦争と呼ばれているが、百年間絶えず戦争が続けられた...
百年戦争の最初の決戦となったのがクレシーの戦い(134...
エドワード黒太子は、1355年にイギリス領ギュイエンヌ...
これより前に西ヨーロッパではペストが大流行し(1346...
こうした状況の中でブレティニーの和約が結ばれ、イギリス...
フランスでジャン2世の死後、名君シャルル5世(位136...
シャルル5世の死後、長男シャルル6世(位1380~14...
以後、フランス国内の諸侯は、オルレアン公(シャルル6世...
一方、イギリスではエドワード3世の後、リチャード2世(...
ランカスター朝の第2代国王ヘンリ5世(位1413~22...
1422年にヘンリ5世とシャルル6世が相次いで没し、イ...
フランス王太子シャルル(後のシャルル7世)は、アルマニ...
イギリスは、このような情勢をみて、ロワール川以南への領...
ジャンヌ=ダルク(1412~31)は、フランス東部のド...
オルレアンが包囲された後、「フランスへ行け、オルレアン...
ジャンヌ=ダルクの熱烈な信仰心はフランス軍兵士の士気を...
しかし、その後コンピエーニュへの救援に赴いたとき、ブル...
ジャンヌ=ダルクはルーアンの宗教裁判で「異端・魔女」の...
その後の戦局は、フランスが各地で圧倒的な勝利をおさめ、...
シャルル7世は、百年戦争末期から戦後にかけて大商人ジャ...
百年戦争に完敗してカレーを除くフランスの領土を全て失っ...
ランカスター家(ヘンリ3世の子エドモンドを祖とする)の...
ヨーク家(エドワード3世の5男エドモンドが祖)のエドワ...
ヘンリ=テューダー(後のヘンリ7世)は、ランカスター家...
ヘンリ7世は、翌年ヨーク家のエリザベス(エドワード4世...
ヘンリ7世はばら戦争によって没落した貴族の領地を没収し...
4.
5 西ヨーロッパ中央集権国家の成立
5 スペインとポルトガル
イベリア半島は、8世紀以来イスラム教徒の支配下に置かれ...
レコンキスタの過程で、イベリア半島にはレオン・カスティ...
レコンキスタの先頭に立ったのは、8世紀初めに西ゴート貴...
カスティリア王国(930年頃建国)は、レオン王国の辺境...
ナヴァル王国は、10世紀初めに建国された。11世紀にア...
アラゴン王国は、11世紀にナヴァル王の一族によって建国...
ポルトガルは、アルフォンソ=エンリケシュがイスラム教徒...
ジョアン2世(位1481~95)は、貴族の反乱を鎮圧し...
12世紀になると、カスティリア・アラゴン・ポルトガルの...
イベリア半島の南端に追い込まれたイスラム教徒は、イベリ...
13世紀前半に、グラナダを除いてレコンキスタがほぼ完了...
カスティリア国王ファン2世(位1406~54)の娘イサ...
フェルナンド5世(位1479~1516)とイサベル1世...
フェルナンドとイサベルは、国内では勃興しつつあった都市...
5.
5 西ヨーロッパ中央集権国家の成立
6 ドイツ・イタリア・北ヨーロッパ
オットー大帝が神聖ローマ帝国の皇帝になって以来、ドイツ...
シュタウフェン朝(ホーエンシュタウフェン朝、1138~...
第6代皇帝フリードリヒ2世(位1215~1250)は、...
彼はシチリアを中心にドイツ・イタリアにまたがる帝国の建...
フリードリヒ2世は、イタリア政策を強力に進めるために、...
フリードリヒ2世の死後まもなく、シュタウフェン朝は断絶...
1273年には、ハプスブルグ家のルドルフ1世が皇帝に選...
有力諸侯は、ルクセンブルグ朝(1347~1437)のカ...
金印勅書は、皇帝選出権を持つ聖俗7人の諸侯(マインツ大...
これによって皇帝選挙制が確立され従来の混乱は避けられた...
その後、1438年に皇帝となったハプスブルグ家のアルプ...
中世末にイギリス・フランス・スペインなどで国王による中...
この間、ドイツ人は12世紀以降、エルベ川以東のスラブ人...
スイスは、ドイツからアルプスを越えてイタリアに至る通路...
ハプスブルグ家が皇帝位につくと、ハプスブルグ家の居城に...
スイスの独立運動の伝説的英雄ヴィルヘルム=テルの物語は...
イタリアも、ドイツと同様に国家の統一は実現せず、教皇領...
イタリアでは、フランク王国が分裂していくなかで、いち早...
さらに、ドイツで神聖ローマ帝国が成立すると(962)、...
11~12世紀には、教皇とドイツ皇帝間の聖職叙任権闘争...
また11世紀以後、ノルマン人の侵入を受け、シチリア島と...
こうして中世末期には、教皇領・ナポリ王国(両シチリア王...
しかもこれらの諸国家は単独ではイタリアを統一する力はな...
ノルマン人によって建国されたデンマーク王国(8世紀頃に...
マルグレーテは、デンマーク王の王女として生まれ、後にノ...
アジア系のフィン人(現在のフィンランド人の祖)は、70...
6.
16.西ヨーロッパの中世文化
6 西ヨーロッパ中世の文化
1 学問と大学
西ヨーロッパの中世文化の特色はキリスト教文化という言葉...
中世の学問の担い手は、中世ヨーロッパの共通語であるラテ...
最高の学問は神学であった。「哲学は神学の婢(はしため、...
神学は、初めのうちはアウグスティヌスなどの教父の著述を...
イタリア生まれで、のちにカンタベリ大司教となったアンセ...
この実在論と唯名論の対立は、普遍闘争と呼ばれ、ヨーロッ...
トマス=アクィナス(1225頃~74)は、イタリアの神...
しかし、教皇権の衰退とともに、中世末にはウィリアム=オ...
中世ヨーロッパでは、キリスト教の教義やカトリック教会の...
自然科学は上記の理由で発達しなかったが、中世最大の自然...
12世紀ルネサンスといわれるように、12世紀の西ヨーロ...
イスラム文化は、主にトレドを中心とするスペインやシチリ...
西ヨーロッパではイスラム文化やビザンツ文化の影響を受け...
ヨーロッパの大学の多くは12世紀以前から各地にあった教...
有名なパリ大学は、12世紀中頃ノートルダム大聖堂付属の...
ヨーロッパ最古の大学は、ナポリの南にあったサレルノ大学...
サレルノ大学と並んで古い大学が北イタリアのボローニャ大...
ボローニャ大学は学生の大学であった。学生達は相互扶助を...
後には学生達は教授に対しても講義ボイコットなどの手段で...
イギリスのオックスフォード大学は、12世紀後半にパリを...
ケンブリッジ大学は、13世紀の初めにオックスフォード大...
上記の大学に続いて、13~15世紀にかけてヨーロッパ各...
中世ヨーロッパの完全な大学は、神学・法学・医学の3学部...
2 美術と文学
中世の美術は、教会建築とそれに付随する絵画・彫刻を中心...
教会建築は、はじめセント=ソフィア大聖堂に代表されるビ...
12世紀末から、教会の権威の増大と新興市民階級の経済力...
ゴシック式の普及は教会の大規模化を促し、聖堂の多くは天...
中世の文学を代表するのは騎士道物語である。騎士道物語は...
「ローランの歌」は、カール大帝の対イスラム戦に従軍した...
「アーサー王物語」は、イギリスの先住民であるブリトン人...
「ニーベルンゲンの歌」は、ジークフリートの妻クリームヒ...
また12世紀以後、南フランスの吟遊詩人(トゥルバドゥー...
第8章 東西文化の交流(省略)
終了行:
世界史ノート(中世編)
第5章 東アジア世界の形成と発展
3.北方民族の活動と中国の分裂
1 北方民族の活動と中国の分裂
1 三国と晋
後漢末の184年に起こった黄巾の乱の中心勢力は、同年末...
「三国志演義」は古くから多くの日本人に愛読されてきたが...
黄巾の乱から5年後に霊帝が亡くなり(189)、14歳の...
袁紹(えんしょう)を盟主とする反董卓連合軍が挙兵すると...
曹操は、宦官の養子であった曹嵩(そうすう)の子として、...
華北を支配下に置いた曹操は全土の統一をめざし南下し、荊...
「三国志」の英雄のなかで人気がある劉備(161~223...
その後、曹操の客将となっていた時、献帝の側近が曹操打倒...
南下した曹操軍に敗れた劉備は夏口(現在の武漢)に逃れ、...
赤壁の戦いは、80万と称する曹操軍(実数は約15万位)...
赤壁の戦いの後、荊州の領有をめぐって、劉備と孫権は対立...
こうして中国には、華北の曹操、江南(長江の中・下流)の...
220年、曹操が亡くなり、曹丕(文帝、位220~226...
曹丕の即位の知らせを聞くと、劉備(昭烈帝、位221~2...
その翌年、孫権(182~252、位222~252)も呉...
三国のなかでは魏の国力が飛び抜けて強かった。人口で見る...
蜀では劉備が、呉に捕らえられ殺された関羽の復讐のために...
劉備亡き後、子の劉禅(無能な暗君といわれる)を助けて蜀...
孔明亡き後の蜀は急速に衰え、263年に魏に滅ぼされた。
魏では文帝の死後(226)、司馬懿(179~251)の...
武帝は、魏が滅びたのは王族に有力者がいなかったためと考...
武帝は280年、南下して呉を滅ぼし、中国を再び統一した...
武帝の死後(290)、恵帝(290~306)が即位した...
五胡とは、当時中国の北辺または西北辺で活躍していた匈奴...
匈奴は、前漢の末の前1世紀中頃に東西に分裂した。分裂後...
劉淵は、308年に皇帝を称し、洛陽攻略をめざしたが、そ...
司馬懿の曾孫の司馬睿(しばえい、元帝、位317~322...
10.
1 北方民族の活動と中国の分裂
2 五胡十六国と南北朝
西晋末の匈奴の兵乱(永嘉の乱)をきっかけに、中国の北辺...
華北では、4世紀の初めから5世紀の初めまでの約100年...
この間、チベット系のてい族が建てた前秦(351~394...
鮮卑族は、モンゴル高原の遊牧民で匈奴に服属していたが、...
鮮卑族の一部族である拓跋氏は2世紀後半から鮮卑の中心氏...
北魏の第3代皇帝の太武帝(位423~452)は、北涼を...
北魏の第6代皇帝が有名な孝文帝(位471~499)であ...
孝文帝は、幼少の時から読書を好み、儒教の教養を身につけ...
孝文帝の徹底した鮮卑人の中国化政策は、北魏を急速に文化...
孝文帝の死後、30数年で北魏は分裂し、東魏(534~5...
高歓の子で東魏の宰相であった高洋は、東魏から禅譲により...
宇文泰の子が西魏から禅譲により建国したのが北周(556...
北魏・東魏・西魏・北斉・北周の5王朝をまとめて北朝(4...
一方、江南では司馬睿によって建国された東晋(317~4...
華北を五胡に奪われ、江南に移住・定着した漢人は江南の開...
東晋の皇帝は、華北から移住してきた名門貴族と土着の豪族...
東晋の末に道教徒の孫恩の指導する民衆の反乱が起こった。...
宋は、439年に華北を統一した北魏の圧迫を受け、やがて...
斉(せい、479~502)も皇族の蕭衍(しょうえん)に...
梁(りょう、502~557)の創始者である武帝(蕭衍、...
梁を滅ぼし、陳(557~589)を建てた陳覇先(ちんは...
宋・斉・梁・陳の4王朝をまとめて南朝(420~589)...
後漢が滅び、三国が分立した時代から隋によって統一される...
11.
1 北方民族の活動と中国の分裂
3 大土地所有の発達
中国では、大土地所有制が漢代から盛んとなり、広大な土地...
彼らは、前漢の武帝の時に始まった郷挙里選と呼ばれる官吏...
豪族は後漢末から魏・晋・南北朝を通じて、各地でますます...
三国の魏の文帝は、豪族の子弟ばかりが推薦されるなどの弊...
九品中正(きゅうひんちゅうせい)は中央から任命される中...
郷品に基づいて相応する官職に任命するやり方とは、官職を...
この九品中正の鍵を握るのは中正官である。彼らがしっかり...
「上品に寒門なく、下品に勢族なし」という有名な言葉があ...
後漢末から五胡十六国時代の戦乱や豪族による土地兼併によ...
三国の魏は屯田制を実施した。屯田制は国家が耕作者の集団...
西晋は占田・課田法を採用した。これは武帝が呉を滅ぼして...
東晋に始まり南朝で行われた政策に土断法がある。これは当...
北魏では均田制が行われた。第6代皇帝の孝文帝が実施した...
北魏が与えた土地には露田(穀物を栽培する土地)、麻田(...
なお北魏では妻(丁男の半分が支給された)、そして奴婢(...
均田制によって土地を支給された均田農民には租(穀物)・...
よく知られているように、この北魏の均田制は隋・唐に受け...
各王朝が行った大土地所有を抑制しようとする政策は、国家...
12.
1 北方民族の活動と中国の分裂
4 六朝時代の文化
魏・晋・南北朝時代の文化に関して最も重要なことは、中国...
仏教の伝来については、従来は「後漢の明帝のとき(67)...
しかし、最初の頃は一部の人々の間で外国趣味として扱われ...
後漢末から五胡十六国時代、明日の命さえ知れない混乱・戦...
仏教が急速に盛んとなっていく上で大きな役割を果たした人...
仏図澄と同じ亀茲の人で仏典の漢訳に大きな功績を残したの...
以後、仏教は華北では北魏の朝廷の保護を受けて(太武帝は...
東晋の僧、法顕(ほっけん、337?~422?)は出家生...
仏教の隆盛とともに仏寺・仏像が盛んに造られ、また各地に...
敦煌莫高窟(ばっこうくつ、千仏洞ともいう)は五胡十六国...
雲崗の石窟は、鮮卑族が建てた北魏の初期の都があった平城...
孝文帝の洛陽遷都が落ち着くと、孝文帝の子の宣武帝が雲崗...
仏教の隆盛に刺激されて、この頃道教が成立した。道教は後...
北魏の寇謙之(363~448)は、河南省の嵩山(すうざ...
道教は初めて国家公認の宗教となり、形式も整えられ、道士...
魏・晋・南北朝時代の文化でもう一つ特筆すべきことは、江...
江南では、三国時代の呉に続く東晋・宋・斉・梁・陳の6王...
六朝文化の担い手は貴族であった。当時の貴族の教養とされ...
玄、儒、文、史のなかでは儒学は人気がなく振るわなかった...
六朝時代に文学、書道、絵画などの芸術が一つのジャンルと...
文学では東晋の詩人である陶潜(とうせん、字の淵明から陶...
陶淵明は、東晋の名将の曾孫であったが、生活のために下級...
謝霊運は、晋の名門の一族で宋に仕えたが、政治的に軽んじ...
文章は対句を多く用いた華麗な形式(四六駢儷体(しろくべ...
絵画には顧愷之(こがいし、344頃~405頃)があらわ...
書道には、東晋の書家で、山東の名門の出身である王羲之(...
また「水経注」(地理書)、「斉民要術(せいみんようじゅ...
13.
1 北方民族の活動と中国の分裂
5 朝鮮・日本の形成
朝鮮の歴史は、伝説的王朝である箕子(きし)朝鮮(?~前...
前漢の武帝は、前108年に衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡・真...
高句麗(?~668)は、ツングース系(中国東北地方、東...
広開土王は、396年以来4度にわたって朝鮮半島南部に遠...
朝鮮半島南部では、3世紀頃、韓族の馬韓(南西部)・辰韓...
3世紀頃には56の国に分かれていた馬韓は4世紀中頃統一...
弁韓は、3世紀頃には12の国に分かれていたが、4世紀中...
こうして4世紀から7世紀にかけては、朝鮮には高句麗・新...
6世紀にはいると百済・新羅が勢いを強め、南方の任那(加...
有名な「魏志倭人伝」(「三国志」の一つである「魏志」の...
邪馬台国の卑弥呼は239年に、魏の皇帝に使いをおくり、...
4世紀に入ると大和政権による統一が進み、5世紀に入ると...
倭の五王とは、中国の史書に出てくる讃・珍・済(せい)・...
このような朝鮮・中国との交渉を通じて、5世紀から6世紀...
14.
4.東アジア文化圏の形成
2 東アジア文化圏の形成
1 隋の統一
隋の建国者である楊堅(文帝、541~604、位581~...
文帝は、魏・晋・南北朝以来勢力を伸ばしてきた貴族の権力...
そのために、北朝の律令・制度を継承しながら国家体制の整...
さらに経済面では、北斉にならって、北魏以来の均田制をま...
文帝が行った改革の中で最も重要なことは、従来の九品中正...
中正官の推薦による九品中正では「上品に寒門なく、下品に...
南北を統一した隋は、江南の米をはじめとする物資を運ぶた...
対外的には、当時、北方で突厥が強大となっていたが、文帝...
文帝は、はじめ長男の楊勇を皇太子としたが、武将として優...
煬帝の煬は「天に逆らい、民を虐げる」の意味であり、父を...
煬帝は即位すると、毎月200万人を使役して洛陽に東都を...
煬帝といえば、すぐに大運河の建設というように、大運河の...
まず100万人を動員して黄河と淮水を結ぶ通済渠(つうさ...
通済渠が開通すると、最初の江都行幸が行われた。煬帝の「...
煬帝は対外的にも積極策をとった。北方の突厥に備えて「万...
この頃、聖徳太子が小野妹子を遣隋使として派遣した(60...
高句麗は、周辺諸国が朝貢する中で、煬帝の入朝の要求に従...
第1回の遠征(611)には、113万人を越える水陸の大...
翌年(612)、第2回目の遠征が行われたが、遼河を渡っ...
高句麗遠征の失敗を機に、大土木事業や度重なる外征に徴発...
こうした状況の中で自暴自棄となった煬帝は江都に移り(6...
2 突厥の活動
モンゴル高原では、鮮卑が華北に移った後の5~6世紀に、...
アルタイ語族に属するトルコ人は、古くはモンゴル高原の北...
中国史に登場する丁零(ていれい、前3~後5世紀頃、初め...
トルコ系遊牧民のうち、アルタイ山脈の西南にいた人々は、...
遊牧国家の君主はハガン(可汗)の称号を用いた。国を保つ...
突厥の建国者は伊利(いり)可汗(552~553)と号し...
その後まもなく東突厥は隋に朝貢することとなり、その後も...
19世紀末に、ロシアの考古学者がオルホン川(モンゴル高...
5.
2 東アジア文化圏の形成
3 唐の盛衰(その1)
隋末、煬帝の高句麗遠征の失敗を機に各地で農民反乱が起こ...
李淵は7歳で父あとを継いで北周に仕え、楊堅(文帝)が隋...
しかし、唐が成立したとはいえ、まだ長安の地方政権にすぎ...
これを見た高祖は、李世民に譲位し、李世民は即位して太宗...
中央官制としては、三省・六部(りくぶ)を置いた。三省と...
また地方統治制度としては州県制をしいた。全土を10道に...
唐は律・令(れい、りょう)を整備し、成文法に基づいて政...
官吏任用制度としては、隋で始まった科挙制を受け継いで強...
明経は儒教の古典である「五経」が課せられ、進士は文章と...
対外的には、それまで北方で強大な勢力を持ち、隋・唐にと...
さらに青海地方にあった吐谷渾(とよくこん)を服属させ(...
当時、チベットにソンツェン=ガンポ(?~649)が出て...
東方では高句麗遠征を行ったが(645)、これは大失敗に...
太宗時代に度々の対外遠征により、唐の領土は拡大し、大帝...
有名な玄奘(三蔵法師)が西域を経てインドに行き、経典等...
太宗の子は14人あったが、皇后との間に生まれた3人が皇...
対外的には、新羅と結んで百済(660)、高句麗(668...
西方では、西突厥を討って(657)、中央アジアを支配下...
こうして高宗の時代には唐の領土は最大となり、東は朝鮮か...
唐は征服した周辺諸民族を統治するために、六つの都護府を...
高宗は、長孫無忌やちょ遂良(ちょすいりょう、唐の政治家...
則天武后の父は、山西で木材業によって一代で富をつくり、...
皇后となった則天武后は、反対派を除き、一族の者を重用し...
そして高宗が亡くなると(683)、子の中宗(位683~...
武后の専横に対して李敬業の反乱が起きたが(684)、こ...
即位後、仏教を保護し、大土木事業を盛んに行い、新しい人...
中宗の復位後、まもなく則天武后が没すると、今度は中宗の...
しかし、中宗の死から18日後に、睿宗の三男の李隆基がク...
則天武后と韋后が政権を奪って、唐の政治を混乱させたこと...
6.
2 東アジア文化圏の形成
4 唐の盛衰(その2)
睿宗は2年後に、位を皇太子の李隆基に譲り、李隆基が28...
玄宗は、即位すると名臣・賢臣の助けを得て、不要の官職を...
この玄宗の治世前半の善政は「開元の治」と呼ばれる。しか...
楊貴妃、本名は楊玉環、父は四川省の県役人であったが早く...
玄宗は、楊玉環を寿王と離別させ、道観(道教の寺院)に入...
楊国忠(?~756)は楊貴妃の従祖兄(またいとこ)の間...
今や役人は楊氏一族のために奔走し、人々は楊氏一族に取り...
玄宗と楊貴妃は、華清宮に遊び、玄宗は政治を省みず、国政...
権勢を誇る楊国忠と対立するようになったのが安禄山(70...
後に范陽節度使(北京付近に設置)に仕え、中央の官吏に賄...
楊国忠は、強大な軍を擁するようになった安禄山を警戒し、...
755年11月、安禄山は「姦臣楊国忠を除く」と称して、...
長安陥落を目前にして、玄宗・楊貴妃・楊国忠らは蜀へ落ち...
その頃、洛陽にいた安禄山は眼病を患って失明し、できもの...
史思明も、ソグド人と突厥の混血児で、安禄山と同郷の出身...
唐は、安史の乱(755~763、安禄山と史思明の名を取...
この間、玄宗は蜀に逃れて、子の粛宗(7代、位756~7...
安史の乱は平定されたが、長安・洛陽などの都市や農村は荒...
唐は、安史の乱をウイグルの援助で平定したが、このため以...
唐の弱体化に乗じて異民族の侵入が繰り返される中で、かっ...
中央では、宦官が財政・軍事権を握るようになり、宦官は憲...
この間、徳宗(9代、位779~805)は、安史の乱後の...
黄巣(?~884)は、山東省に生まれ、科挙をめざしたが...
塩は言うまでもなく生活必需品だが、唐はこれを専売とし、...
同じ塩の密売人の王仙芝(?~878)が、河北で挙兵し(...
黄巣の乱はほぼ10年にわたり、四川以外のほとんど全中国...
朱温(852~912)は黄巣の乱の有力な部将の一人であ...
こうして20代、約290年間続いた唐はついに滅亡した。...
7.
2 東アジア文化圏の形成
5 隋・唐の社会
隋の文帝は、国家権力の強化に努め、貴族の力を弱めるため...
唐も隋の制度を継承し、均田制、租庸調制、府兵制を実施し...
唐の均田制は、高祖の時に隋の制度をもとに制定された(6...
この他に、官人永業田(高級官僚への永業田、官位により広...
均田制が始まった北魏では、妻・奴婢さらに耕牛にまで土地...
政府は農民に土地を均等に与えることによって、自作農を増...
土地を支給される代わりに均田農民には租・庸・調が課せら...
唐の租は粟(ぞく、外皮がついたままの穀物)2石(1石は...
府兵制は、西魏で始まり隋・唐で整備された兵農一致の兵制...
唐では、貴族は父祖の官位に従って任官する蔭位(おんい)...
元来、国家から支給された土地を売買することは禁止されて...
均田制は、8世紀の初め頃から行きづまりだした。人口が増...
均田農民の負担のうち、租・調の負担はあまり重くなかった...
また均田制の崩壊とともに、租庸調の税制も行われなくなり...
徳宗(9代、位779~805)は、安史の乱後の回復をは...
両税法は、現住地で(土地を捨てて移動した農民を、元の土...
この両税法の施行によって、唐の国家財政は一時的に好転し...
両税法は、その後、土地税の性格を強め、宋・元・明に受け...
こうして、唐を支えた三本柱である均田制・租庸調制・府兵...
唐の都の長安は人口100万人といわれ、政治都市であると...
唐帝国の領土の拡大によって、中央アジアではイスラム帝国...
また「海の道」による貿易は、1世紀頃からインドとローマ...
商業・産業の発達にともない、遠隔地との取引が拡大するな...
魏晋南北朝以来開発が進んだ江南では、茶や綿花の栽培が盛...
8.
2 東アジア文化圏の形成
6 唐代の文化
唐の文化は、西のイスラム文化と並んで、当時の世界におけ...
唐代には、東は朝鮮・日本から、西は中央アジア・ペルシア...
人々の往来とともに、特に西方から様々な文化が流入し、そ...
ネストリウス派キリスト教は、431年のエフェソスの宗教...
ペルシア人の阿羅本が、635年に長安にやってきて、太宗...
ゾロアスター教も伝来し、けん(示へんに夭)教と呼ばれた...
ペルシアからは、マニ教も伝来し、摩尼教と呼ばれた。マニ...
イスラム教は、7世紀の後半、高宗の頃、アラブ人によって...
中国の三大宗教である儒教・仏教・道教もそれぞれ栄えた。
道教は、祖とされる老子の姓名が李耳(りじ)で、唐室の李...
仏教も、帝室や貴族の保護を受けて大いに栄えた。唐代の仏...
玄奘(602~664)は、13歳で出家し、各地の師のも...
玄奘は、高昌(現在のトルファン)で大歓迎を受け、帰路立...
膨大な経典とともに再び陸路を経て、太宗の貞観19年(6...
玄奘は、帰国の翌年(646)に、この大旅行の様子を「大...
玄奘は勅命によって、大慈恩寺(648年に建立された)に...
玄奘の死から7年後の671年、義浄(635~713)も...
著書の「南海寄帰内法伝」は、旅行中の681~691年、...
唐代の仏教では、禅宗・浄土宗・密教が普及するようになり...
儒教も、唐が唐初から儒教の興隆に力をそそいだことや、特...
太宗に仕えて国子監(中央の諸学校を統轄した機関)の長官...
唐詩は、単に唐代の文化を代表するだけでなく、中国文化を...
盛唐時代の王維(701頃~761)、李白(701~76...
王維は自然詩人として、画家としても有名である。
李白は、富裕な商人の子として生まれ、少年時代は四川で過...
杜甫は、官僚の家に生まれたが、何度も科挙に失敗し、職も...
白居易、字は楽天。白楽天の名で知られている。29歳で進...
文章では韓愈(768~824)と柳宗元(773~819...
絵画では、六朝に始まる山水画が進歩し、呉道玄(8世紀頃...
書道も盛んで、多くの優れた書家が輩出した。唐代の官吏は...
初唐の三大書家と呼ばれる欧陽詢(557~641)、虞世...
ちょ遂良は、王羲之の書風を継いで書に巧みであったので、...
顔真卿は、前述したように、安史の乱の際、平原(山東)の...
工芸の分野では、唐三彩が有名である。唐三彩は緑・褐・白...
9.
2 東アジア文化圏の形成
7 唐文化の波及と東アジア諸国
唐の国際的な文化は、周辺の諸民族に大きな影響を与えた。...
日本は、早くから中国文化を受け入れてきたが、隋・唐がお...
遣唐使は630年に開始され、894年に菅原道真の建議に...
645年の大化改新によって、唐の律令制にならって班田収...
朝鮮半島では、4世紀に辰韓を統一した新羅が、法興王(新...
しかし、7世紀にはいると百済・高句麗の侵入に悩まされる...
新羅の武烈王(29代、位654~661)は唐と結んで百...
唐は、667年についに高句麗を攻め滅ぼした。唐がさらに...
新羅は、7世紀中頃から唐の律令制を取り入れて律令国家体...
新羅では骨品(こっぴん)と呼ばれる身分制度が行われ、出...
貴族勢力が強かった新羅では、9世紀頃から中央における王...
中国の東北地方の東北部に住んでいたツングース系の靺鞨(...
渤海は15代約200年間にわたって中国東北地方を中心に...
チベットでは、ソンツェン・ガンポ(?~649、位629...
ソンツェン・ガンポは、唐とは太宗以来親交を続け、641...
その後、吐蕃は680年頃から東トルキスタン(中央アジア...
唐と吐蕃の争いに乗じて、雲南ではチベット=ビルマ系の民...
ヴェトナム北部は、始皇帝による征服から一時自立したが、...
この間、ヴェトナムのジャンヌダルクと呼ばれる「徴(チュ...
唐は、622年にハノイに交州大総管府を置き、679年に...
呉権(ゴークエン)は、南漢との戦いに勝利をおさめ、自立...
この初期三王朝の後を受けて、李公蘊(りこううん、太祖、...
李朝は都をハノイに置き、中国の諸制度・文化を取り入れて...
10.
5.中国社会の変化と北方民族の進出
3 中国社会の変化と北方民族の進出
1 五代の形勢
唐代、玄宗は異民族の侵入にそなえて辺境に十節度使(辺境...
節度使は、はじめは皇帝に任命され、強力な軍隊を預かって...
節度使(唐末五代では藩鎮と同じ意味に使われることが多い...
唐末の大農民反乱である黄巣の乱(875~84)に加わり...
以後、約50年間に華北では後梁・後唐・後晋・後漢・後周...
このうち後漢をごかんと読むと後漢(25~220)と紛ら...
唐を滅ぼした朱全忠(太祖、位907~912)が建てた後...
朱全忠と対立した李克用(856~908)は、突厥の沙陀...
後晋の建国者である石敬とう(王へんに唐)(高祖、位93...
石敬とうは契丹の援助を受ける際に契丹に臣礼をとって歳貢...
後晋を倒して後漢の建国者となったのも突厥の沙陀(さだ)...
後周の建国者、郭威(太祖、位951~54)は、劉知遠の...
後周の第2代皇帝、世宗(位954~959)は五代第一の...
五代のうち、後唐(都は洛陽)を除く四王朝は開封を都とし...
華北で五代が興亡を繰り返した間、江南では呉(902~9...
唐末五代の時代は中国史上、春秋戦国時代と並ぶ社会の大変...
政治的には、魏晋南北朝時代から隋唐の時代に国家の支配層...
こうした社会の変化の中で、従来の都を中心とした貴族文化...
6.
3 中国社会の変化と北方民族の進出
2 宋の統一(その1)
宋(北宋)の建国者の趙匡胤(太祖、927~976、位9...
こうして部下の将兵によって皇帝に推戴され、恭帝から禅譲...
趙匡胤は即位すると、これまで藩鎮(節度使)の強大な勢力...
こうして唐末・五代の藩鎮(節度使)の武断政治を廃し、科...
中央官制では、唐代以来貴族の牙城であった門下省を廃止し...
殿試は、省試合格者に対して皇帝自らが出題する最終で最高...
太祖は契丹の南侵をくい止め、呉越・北漢を除く五代以来の...
太祖の後を継いだ太宗(939~997、位976~997...
内政でも、太祖の文治主義を継承し、君主独裁中央集権官僚...
太宗は節度使の財政権を奪うなど節度使の権限をさらに縮小...
太祖・太宗ともに節度使の権限を奪い、文治主義を採用し、...
科挙は隋代に始まり、唐に受け継がれ、宋代に完成された。...
宋代、科挙に合格して官僚になった者を出した家は官戸と呼...
科挙にはいくつかの科目があり、試験科目も異なっていた。...
進士の試験科目は経義(経書の暗記)・詩賦(作詩)・策論...
進士を優秀な成績で合格した者(トップ合格者は状元と呼ば...
科挙は3年に1度行われたが、その合格者はきわめて少数で...
科挙の受験資格は広く庶民にも開かれていたが、このように...
多くの合格者を出した富裕な階層の代表は、当時「形勢戸」...
官僚になるには科挙に合格する以外にも、例えば高官の子弟...
太宗の死後、真宗(位997~1022)が即位した。当時...
遼が、1004年に黄河北岸のせん(壇の字の土へんがさん...
このせん淵の盟(1004)で、(1)両国は宋を兄、遼を...
せん淵の盟は、以後100年間にわたって両国によって忠実...
4代目の仁宗(位1022~63)の時代は、欧陽脩らの有...
そのため慶暦の和約(1044)を結び、(1)西夏は宋に...
宋は和約を結ぶ一方で西北辺に兵力を集中した。また西夏と...
7.
3 中国社会の変化と北方民族の進出
3 宋の統一(その2)
北宋の第6代皇帝、神宗(1048~85、位1067~8...
王安石(1021~86)は江西省出身、21歳で科挙に合...
王安石は神宗の全面的な信頼を得て、軍事・財政の危機を克...
王安石の「新法」の主なものは、青苗法・均輸法・市易法・...
青苗法は、貧農の中には籾種さえ食い尽くして田植えの出来...
均輸法は、前漢の武帝も行ったが、均輸官を各地に置き、そ...
市易法は、大商人の営利独占・小商人の抑圧などを排し、小...
募役法は、徴税・治安維持などの地方の労役が上・中層農民...
保甲法は、当時の宋の傭兵制が軍隊の質の低下・軍事力の弱...
保馬法は、遼・西夏との戦いに必要な軍馬が遼・西夏の輸出...
このように王安石の行った「新法」は貴族・特権官僚・大商...
王安石の新法はかなりの成果を上げ、財政や治安は好転した...
神宗が没した翌年に旧法党の司馬光が宰相となり、新法はこ...
司馬光(1019~86)は、山西省の大地主の家に生まれ...
哲宗(位1085~1100)の時代は「党争」(旧法党と...
哲宗の死後、弟の徽宗(位1100~25)が第8代の皇帝...
こうした宮廷の奢侈のために国民に負担を強いたので、江南...
この頃、中国東北地方の奥地にいたツングース系の女真族が...
この情勢を見た宋は新興の金と同盟を結び宿敵遼を挟撃し、...
徽宗はその事態に驚き、「己を罪する詔」を出し、全国に勤...
宋はいったんは金と和を結んだが、金は翌年宋の違約を責め...
徽宗はその地に幽閉されたまま帰国の願いはかなわずその地...
8.
3 中国社会の変化と北方民族の進出
4 遼と西夏
契丹は、5世紀以後、遼河(渤海湾に流れ込んでいる河)の...
キタイ(Kitai)・キタン(Kitan)の名で呼ばれ...
初めウイグル(744~840に王国を形成)に属したが、...
契丹は多くの部族に分かれていたが、中国が唐末の混乱に陥...
彼は万里の長城を越えて華北に侵入し、多くの漢人をとらえ...
太祖(耶律阿保機)は西方の突厥・ウイグル・タングートに...
太祖は独自の契丹文字を作成(920)させるなど、契丹民...
次の太宗(位926~947)は、中国で石敬とうが後唐に...
遼は北方民族である契丹が本拠地を確保しながら中国の領土...
征服王朝は、ドイツ人の中国研究家ヴィットフォーゲルが遼...
初めて中国の地に領土(燕雲十六州)を持った遼は、中国の...
そのため遼は漢人を支配するにあたっては二重統治(体制)...
中央の最高機関である枢密院を契丹人など遊牧民を統治する...
遼第一の名君と言われている6代皇帝聖宗(位982~10...
東方の女真族や朝鮮の高麗を従属させ、西方では中央アジア...
聖宗の治世の後半には政治・軍事組織が整備され、中央集権...
しかし、9代天祚帝(てんそ、位1101~25)の時代に...
遼が滅亡する直前に、遼の皇族で太祖から数えて8代目の子...
契丹は初めウイグル人の文化の影響を受けたが、やがて中国...
太祖は契丹の言語を書き表すために契丹文字を作成し、これ...
宋の西北辺境の陜西・甘粛方面にはチベット系のタングート...
その子孫の李元昊(りげんこう、1003~48、位103...
西夏はシルク=ロードの要衝を押さえ、内陸中継貿易で利益...
李元昊は大軍を率いて宋に侵入したが、戦いが長期化する中...
李元昊は東はオルドスから西は敦煌まで領土を拡大し、宋・...
井上靖の名作「敦煌」は映画化されたので、映画を見た人も...
文化面では、中国文化の影響を強く受けながらも、仏教文化...
西夏は、李元昊以来10代約200年間続いたが、遼に代わ...
9.
3 中国社会の変化と北方民族の進出
5 金の侵入と南宋
女真人は、10世紀以来中国東北地方東部の奥地・森林山岳...
女真は、10世紀以来遼の支配下にあった。女真のうち早く...
現在のハルビン市を流れている混同江(現在の松花江)流域...
太祖(阿骨打)は首長となると、それまでの氏族制を行政と...
太祖は、猛安・謀克を組織化し、国家体制を確立していった...
猛安・謀克は行政と軍事を兼ねた制度で、行政面では300...
太祖が遼から自立して金を建国し、遼軍を圧迫しているとの...
金は交渉がまとまらないうちに軍事行動を起こして遼軍を破...
太祖は、宋の援助の要請を受けると、たちまち燕京を陥れて...
太宗(位1123~35)は、兄の後を継いで帝位につくと...
太宗は、遼を滅ぼして後顧の憂いを除くと、今までの宋の背...
翌1126年、金は開封を包囲した。陥落を前にして宋は金...
金はこの約束に満足して兵を引いたが、この時またしても宋...
徽宗の第9子で欽宗の弟であった康王は、靖康の変の際に河...
高宗は金の追撃を受けて、南に逃げ長江を渡って、江南に拠...
金は北宋を滅ぼし、華北を支配下に入れ、さらに南下して南...
秦檜(しんかい、1090~1155)は、江蘇省出身で科...
秦檜は、金の内情を知る者として高宗の信任を得て宰相とな...
岳飛(1103~41)は、河南省の農民の子に生まれ、北...
秦檜は、主戦派によって一時失脚したが再び宰相となり(1...
この戦いでの岳飛の活躍はめざましく、かっての宋の都・開...
秦檜は詔勅によって全軍に作戦行動を停止させ、将軍たちを...
悲劇の将軍岳飛は、後に無実が明らかとなると、忠義の士と...
岳飛の死の翌年、1142年についに南宋は金との間に屈辱...
この和議によって南宋の領土は北宋に比べて半減したが、経...
南宋は、9代約150年間続いたが、金がモンゴルに滅ぼさ...
7代皇帝恭帝(当時7歳)は捕らえられて北へ送られたが、...
金は、1142年の和議によって淮水以北の華北を支配下に...
第4代皇帝海陵王(位1149~61)は中国的な大帝国の...
金第一の名君とされる第5代世宗(位1161~89)は、...
世宗の後を継いだ章宗(位1189~1208)の頃から、...
13世紀初めモンゴルではチンギス=ハン(位1206~2...
10.
3 中国社会の変化と北方民族の進出
6 宋代の社会
宋は、北方民族の遼・西夏・金の圧迫を受け、政治的にはあ...
宋の南渡以来、南宋には金の支配を逃れて多くの漢人が南下...
江南では従来農耕地としては利用できなかった湿地帯や河岸...
また北宋時代に、占城(チャンパー、ヴェトナム南部)から...
特に長江下流域一帯の米作は中国農業の中心となった。「江...
また華北の畑作地帯でも唐の中期以後農業技術が進歩し、小...
宋代にも、唐以来の大土地所有制(荘園制)が発展したが、...
佃戸は、法的には自由民であったが、地主のもとで移転の自...
米作以外の諸産業も大いに発達した。特に茶の栽培・製茶業...
宋代にはこの傾向がますます強まり、庶民にとっても茶は生...
宋代には茶は塩と並ぶ重要な専売品となり、その利益は国家...
絹織物業でも機織り技術が進歩し、宋代には江南が生産の中...
飲茶の風の普及に伴い、陶磁器産業も大いに発展し、宋代に...
製茶・絹織物・陶磁器を中心に諸産業が発達し、各地では特...
商業の発達に伴い貨幣経済が発達し、貨幣の流通量が増大し...
交子は、北宋時代に四川の成都で民間金融業者が発行した手...
会子は、初め開封や臨安(杭州)などの大都市の金融業者が...
商工業の発達・貨幣経済の発達に伴い都市が発達した。宋代...
開封・杭州などの大都市とともに、地方でも鎮・市と呼ばれ...
中国の都市は、周囲を城壁で囲まれている。夜になると城門...
宋代になり、商工業がますます発達するようになると、こう...
唐代の長安は夜になると暗闇の中でひっそりしていたであろ...
営業の自由を獲得した商人達は、営業の独占や相互扶助を目...
宋代には外国貿易も盛んとなり、茶・絹・陶磁器などが輸出...
11.
3 中国社会の変化と北方民族の進出
7 宋代の文化
宋代の文化の特色としては、中国的・国粋的な文化であった...
宋は軍事的に弱体で北方民族の圧迫に苦しめられたため、そ...
儒学では宋学がおこり、南宋の朱熹によって大成された。
宋学は、唐代までの儒学が経典の字句の解釈を中心とする訓...
宋学は北宋の周敦頤(しゅうとんい、1017~73)に始...
周敦頤・程顥・程頤らの学説を発展させて宋学を集大成した...
朱熹は、「理気説(理気二元論)」(宇宙・万物は、理と気...
漢民族は古くから中華思想を持ち続け、自らを中華と誇り、...
宋学は、朱熹によって大成されたので朱子学とも呼ばれ、ま...
朱熹とほぼ同時代に活躍した南宋の陸九淵(陸象山、113...
儒学以外の学問の分野では、民族意識の高まりのなかで歴史...
北宋の政治家で旧法党の党首であった司馬光が著した「資治...
朱熹は「資治通鑑綱目(通鑑綱目)」を著した。「資治通鑑...
宗教では、仏教が宋代には生活の中に深く根を下ろし、実践...
道教も北宋の真宗や徽宗の信仰を得て、北宋時代には仏教を...
庶民文化が栄えたことは宋文化の大きな特色であるが、庶民...
詞とともに庶民に親しまれたのが雑劇や口語をまじえた小説...
文学では散文が盛んになった。唐代に韓愈や柳宗元が唱えた...
文学的教養と並んで、書・絵画も士大夫(知識人階級)にと...
美術では、知識人を中心とする文人画や宮廷画家を中心とす...
文人画と院体画はやがてそれぞれ南宗画(なんしゅうが)・...
工芸では青磁・白磁などの陶磁器が発達した。
宋代は中国の科学が発展した時代でもあった。科学技術の面...
印刷術は隋か唐初に発明されたと推定されている。宋代にな...
硝石・硫黄・木炭などを混ぜ合わせて作った黒色火薬は唐代...
磁針が南北を指すことは中国では戦国時代末期にすでに知ら...
12.
6.モンゴル民族の発展
4 モンゴル民族の発展
1 モンゴル帝国の成立
モンゴル高原は、東は大興安嶺から西はアルタイ山脈、南は...
モンゴル高原では、古くからモンゴル系やトルコ系の遊牧民...
10世紀以後、契丹人が遼を建国して強大となると、モンゴ...
言うまでもなく、遊牧民族の財産は馬・羊などの家畜である...
そのモンゴル部に、12世紀後半、一人の英雄が現れた。世...
チンギス=ハン(1162~1227、生年については異説...
こうした逆境の中でテムジンは、草原の戦いに参加して鍛え...
1206年に全モンゴルの部族の長が集まって開かれたクリ...
チンギス=ハン(太祖、成吉思汗、位1206~1227)...
チンギス=ハンは、全モンゴルを統一すると、シルク=ロー...
この頃、西アジアのホラズム朝が和平の使節を送ってきた。...
チンギス=ハンは、中央アジアに軍を進め、西遼(カラ=キ...
チンギス=ハンは、次男のチャガタイ・三男オゴタイ・末子...
チンギス=ハンは、帰国後征服した広大な領域を一族の者に...
チンギス=ハンは帰国後、休む間もなく西夏に遠征し、つい...
チンギス=ハンの死後、モンゴルの慣習に従って末子のトゥ...
オゴタイ=ハン(太宗、1186~1241、位1229~...
オゴタイ=ハンはオルコン川上流のカラコルムに長方形の城...
バトゥ(1207~55)は、チンギス=ハンの長男ジュチ...
副司令官のスブタイの率いる別隊はポーランドに侵入した。...
次は西ヨーロッパ諸国がモンゴル軍の侵略の恐怖にさらされ...
オゴタイ=ハンの死後、その皇后が監国となって政務をみた...
オゴタイの死から5年後に、バトゥが欠席する中でクリルタ...
モンケ=ハン(憲宗、1208~59、位1251~59)...
フラグ(1218~65)は中央アジア・カスピ海南岸を経...
フラグは次いでシリアを征服し、さらにマムルーク朝治下の...
フラグ=ハン(位1258~65)は、モンケ=ハンの死(...
モンケ=ハンは、自らは南宋攻略に出陣したが(1258)...
こうしてモンゴル帝国は13世紀の中頃までには、東は中国...
3.
4 モンゴル民族の発展
2 モンゴル帝国の分裂
モンゴル帝国は、13世紀の中頃には、東は中国の華北から...
チンギス=ハンが西征の後、領土を子どもたちに分け与えた...
フビライ(1215~94)は、モンケ=ハンが即位すると...
モンケが南宋攻略中に四川で病没したとき、フビライは顎州...
モンケ=ハンの死後、フビライは次のハンの有力な候補者で...
そこで南宋攻略のための大軍を握っていたフビライは実力で...
フビライの即位に対しては方々で反対が起こった。アリクブ...
ハイドゥは、オゴタイ=ハンの孫で、グユク=ハンの死後、...
この40年近くに及ぶハイドゥの乱(1266~1301)...
オゴタイ=ハン国(1225頃~1310)は、オゴタイ=...
チャガタイ=ハン国(1227~14世紀後半)は、チャガ...
キプチャク=ハン国(1243~1502)は、チンギス=...
イル=ハン国(1258~1353(1411))は、チン...
イル=ハン国は、初めネストリウス派キリスト教徒を保護し...
4.
4 モンゴル民族の発展
3 元の中国支配
フビライ=ハン(世祖、位1260~94)は、兄モンケ=...
フビライは、彼の即位に反対するアリクブガの反乱を平定す...
南宋では文天祥らが抗戦を唱えたが、皇太后は幼い恭帝(位...
文天祥は、講和の交渉のために元の陣中に赴いたがそのまま...
南宋を滅ぼして中国全土を支配下に置いた元の領土は、フビ...
高麗(918~1392)は、オゴタイ=ハンの時代に元軍...
このモンゴルの占領下で三別抄(別抄は強兵で組織された軍...
これより前、フビライの使節が太宰府に来て国書を提出した...
フビライは高麗に軍船900隻の建造と兵員・水手の徴発を...
フビライは、その翌年また使節を派遣したが、時の執権北条...
フビライは、南宋を滅ぼすと南宋・高麗に軍船の建造を命じ...
フビライは三度目の遠征を企てたが、江南の反乱・ヴェトナ...
フビライは日本・ヴェトナム・ジャワに遠征軍を送ったが、...
ヴェトナム南部のチャンパ(占城)が反抗したので、海路大...
またヴェトナム北部の陳朝(1225~1400)に2回(...
ジャワ島のシンガサーリ朝(1222~92)の王が元の使...
しかし、ミャンマー(ビルマ)ではパガン朝(1044~1...
南宋を滅ぼし中国全土を支配下においた元朝は、人口の8割...
モンゴル人第一主義は民族差別に基づく身分制度で、人々を...
色目人は諸色目人(色々の目の色をした人々の意)の略で、...
支配階級であるモンゴル人と色目人を合わせて人口は約20...
漢人は、金の支配下にあった人々の総称で女真・契丹・高麗...
そして南人は南宋の支配下にあった漢民族を指し、人口は約...
漢人・南人は被支配者階級であり、特に人口の大部分を占め...
モンゴル人第一主義のもとでは、重要官職はすべてモンゴル...
こうしたなかで、今までの中国社会では人々から尊敬されて...
支配階級で貴族階級であるモンゴル人の数は極端に少なく、...
世祖フビライ=ハンの死後、孫の成宗(位1294~130...
チベット仏教(ラマ教)は、フビライがチベット仏教の教主...
パスパ(1235(39)~80)はチベット仏教(ラマ教...
またパスパはフビライの命を受けて、チベット文字を基礎と...
元朝では、以後チベット仏教(ラマ教)が大いに栄え、ラマ...
宮廷貴族のぜいたくな生活やチベット仏教(ラマ教)の信仰...
財政難を切り抜けるために、元朝は塩・茶・酒の専売制を強...
第4代の仁宗(位1311~20)は中国文化を尊重し、科...
その後、元朝内部ではハン位の相続争いが続き、一方で財政...
第11代ハンに順帝(位1333~70)が即位したが、順...
紅巾の乱から身を起こして明(1368~1644)を建国...
順帝の子、昭宗(位1371~78)は、モンゴル高原に退...
5.
4 モンゴル民族の発展
4 交通・貿易の発達
モンゴル高原や中央アジアで活躍した遊牧騎馬民族は、古く...
チンギス=ハンも、モンゴル高原を統一すると、中継貿易の...
モンゴル帝国は、初期から通商路の安全を重視し、その整備...
チンギス=ハンは、遼・金の制度を継承して駅伝制(モンゴ...
元の駅伝制は、大都を中心とする主要道路に沿って、10里...
またインド洋経由の海上貿易も宋代に引き続いて盛んに行わ...
マルコ=ポーロは杭州(臨安)をキンザイと呼び、有名な「...
また泉州をザイトンと呼び、「ザイトンの港には、あらゆる...
元の首都大都には、多数の官僚や商人が集まっていたが、こ...
またこれとは別に長江下流から山東半島を回って大都に方面...
貨幣としては、はじめ銅銭・金・銀が用いられたが、やがて...
6.
4 モンゴル民族の発展
5 東西文化の交流と元代の文化
モンゴル帝国の成立によってユーラシア大陸の大部分がモン...
当時のヨーロッパは十字軍の時代で、またアジアにキリスト...
イタリア人のフランチェスコ会修道士のプラノ=カルピニ(...
ウィリアム=ルブルック(1220頃~93頃)はフランス...
有名なマルコ=ポーロ(1254~1324)は、ヴェネツ...
マルコ=ポーロはフビライの厚い信任を受け、地方官として...
元朝の皇女がイル=ハン国に嫁ぐ際にやっと許されて随行を...
「世界の記述(東方見聞録)」の中には日本の記述もあり、...
イブン=バトゥータ(1304~68/69 あるいは77...
大都生まれのウイグル人でネストリウス派の司祭であったバ...
モンテ=コルヴィノ(1247~1328)はイタリア人の...
中国には、唐代にネストリウス派キリスト教が伝わり景教と...
元朝が優遇した色目人にはイスラム教徒が多かったので、中...
郭守敬(1231~1316)は、フビライに仕えて多くの...
授時暦はイスラムの天文学に基づいて作られた暦で、1年を...
またイラン・インドには、モンゴルの進出によって中国絵画...
モンゴル人は中国を征服する前から西方の高度なイスラム文...
元の庶民文化を代表するのが、元曲(雑劇)である。宋代か...
元曲は、琵琶・琴・三弦などの楽器に合わせて俳優が演じ・...
「西廂記」は、愛する男女が上流階級の封建的なしきたりの...
「琵琶記」は、主人公が妻を残して科挙の受験のために都に...
「漢宮秋」は、前漢の元帝の宮女・王昭君が匈奴との和親政...
また中国の四大奇書のうち、「三国志演義」・「水滸伝」の...
モンゴル人は、公用語としてはモンゴル語を用い、公文書は...
7.
4 モンゴル民族の発展
6 隣接諸国の変遷
王建(877~943、高麗の太祖(位918~943)は...
王建は、新羅の諸制度を受け継いで支配体制を整える一方、...
6代目の成宗(位981~997)は、唐・宋の制度になら...
13世紀に入ると、モンゴルの侵入を受け、高麗は江華島に...
高麗では、仏教が国家の保護を受けて盛んで、「高麗版大蔵...
高宗の時代に、世界最古の金属活字が発明されたといわれて...
また高麗では、宋から学んだ製陶技術が発達し、美しい高麗...
ヴェトナムは唐末・五代の時期に、それまでの1000年に...
この初期三王朝の後を受けて、李公蘊(りこううん、太祖、...
李朝は、中国にならって中央官制・軍制を整備し、また科挙...
陳けい(位1225~1258)は、李朝最後の女帝から譲...
陳朝はヴェトナム人の民族意識が高揚した時期といわれてい...
13世紀には、フビライの三度にわたる侵入(1257、8...
陳朝の滅亡後、明の永楽帝に征服され、ヴェトナムは再び中...
雲南では、10世紀に南詔国(?~902)に替わって、タ...
8.
第6章 イスラム世界の形成と発展
7.イスラム帝国の成立
1 イスラム帝国の成立
1 ムハンマドとイスラム教
イスラム教の創始者であるムハンマド(マホメット、570...
イスラム教は、キリスト教(約19億人)・仏教(約3億人...
ムハンマドの生まれたアラビア半島のメッカは、当時国際的...
アラビア半島はこれまでの歴史の中ではあまり注目されるこ...
そのアラビア半島が脚光をあびるようになるのは、6世紀頃...
ムハンマドは、このメッカのクライシュ族の名門ハーシム家...
ムハンマドは、幼くして両親と死別し、祖父・伯父に養育さ...
彼はメッカの一部の大商人達による富の独占を批判し、「ア...
622年、ムハンマドは少数の信者達とともにメッカを脱出...
イスラム暦はヒジュラの年の年初(西暦622年7月16日...
メディナへの移住後、ムハンマドに率いられたムスリム(イ...
そして630年1月には1万人の軍勢を率いて、かって彼を...
その後、アラビア半島の諸部族はムハンマドの支配下に入り...
イスラム教は、唯一神アッラーへの絶対的服従(イスラム)...
イスラム教徒は、六信(イスラム教徒が信ずべきこと)を信...
六信とは、(1)アッラーは唯一絶対の神であり、万物の創...
五行とは(1)信仰告白(2)礼拝(3)断食(4)喜捨(...
(1)信仰告白は「アッラーの他に神はなし、ムハンマドは...
(2)礼拝は、1日に5回、どこにいてもメッカのカーバ神...
(3)断食は、イスラム暦の9月(ラマダーン)に1ヶ月間...
(4)喜捨(ザカート)とは、貧しい人々への施しをいう。...
(5)巡礼は、一生のうち一度はメッカのカーバ神殿に巡礼...
この他、成年男子にはジハード(聖戦、異教徒に対するイス...
以上の六信・五行の他に、イスラム法によって日常生活に様...
飲酒の禁止、汚れた動物とされる豚肉を食べることは禁止、...
イスラム教は、このように単に信仰の面だけでなく、社会生...
7.
1 イスラム帝国の成立
2 アラブ人の征服
ムハンマドの死後、イスラム教徒は教団の指導者としてカリ...
初代カリフに選ばれたアブー=バクル(位632~634)...
アブー=バクルの死後、彼の遺言で第2代カリフにはウマル...
第3代カリフには、ウマイヤ家出身のウスマーン(オスマー...
第4代カリフに選出されたのがアリー(位656~661)...
アリーは、第4代カリフに選出されたが、当時シリア総督で...
ムアーウィアは、アリーの暗殺後、自らカリフを称してウマ...
初代のアブー=バクルから4代のアリーまでは、ムスリムの...
暗殺されたアリーの支持者達は、ムアーウィアが樹立したウ...
シーア派は、現在のイスラム教徒の約1割を占めている。ア...
これに対して、現在のイスラム教徒の約9割の多数派を占め...
正統カリフ時代に、シリア・エジプト・イランを征服し、東...
ウマイヤ朝を創設したムアウィア(?~680、位661~...
ウマイヤ朝は第6代カリフのワリード1世(位705~71...
イスラム軍は、その後フランク王国に侵入したが、732年...
ウマイヤ朝はアラブ第一主義をとり、アラブ人を支配者とし...
ジズヤは異教徒の支払う人頭税で、ムハンマドはユダヤ教徒...
ハラージュは地租で、第2代カリフのウマルがイラクで最初...
正統カリフ時代からウマイヤ朝にかけては、アラブ人が支配...
14代、90年間続いたウマイヤ朝は、750年にアッバー...
8.
1 イスラム帝国の成立
3 イスラム帝国
ウマイヤ朝はアラブ第一主義をとり、征服地の非アラブ系改...
こうしたシーア派や非アラブ系の改宗者の不満を利用し、イ...
アブー=アルアッバースは、ムハンマドの叔父のアッバース...
激しい性格の持ち主であった彼は、政権を握るとウマイヤ家...
アッバース朝が成立した翌年(751)に、イスラム軍は中...
兄サッファーフの後を継いで第2代カリフとなったのがマン...
第5代カリフのハールーン=アッラシード(763頃~80...
ハールーン=アッラシードは歴代のカリフ中最も傑出した君...
彼は遠くインド王や有名なフランクのカール大帝と使節や贈...
この頃、首都バグダードは世界一の大都市として繁栄した。...
ハールーン=アッラシードはこの「アラビアン=ナイト」に...
ハールーン=アッラシードの時代に最盛期を迎えたアッバー...
アッバース朝のカリフは、神の代理人としてイスラム法に基...
アッバース朝のもとで、ウマイヤ朝時代のアラブ第一主義は...
またアラブ人の特権は次第に廃止され、イスラム教徒であれ...
ウマイヤ朝までの「アラブ帝国」から、真の意味での「イス...
9.
1 イスラム帝国の成立
4 イスラム帝国の分裂
アッバース朝の成立はイスラム世界の分裂の第一歩となった...
アッバース朝の創始者であるアブー=アルアッバースはウマ...
後ウマイヤ朝の第8代のアブド=アッラフマーン3世(位9...
首都コルドバは、人口30万人に達し、西方イスラム世界の...
後ウマイヤ朝の成立により、イスラム世界は東方のアッバー...
9世紀後半には、エジプトのトゥールン朝や中央アジアでサ...
ファーティマ朝は、969年にはエジプトを征服して、カイ...
ファーティマ朝の創始者は、建国の当初からカリフを称し、...
ファーティマ朝より少し遅れて、イランではシーア派の軍事...
その子の時にバグダードに入り(946)、アッバース朝の...
ブワイフ朝は100年あまり続いたが、11世紀の半ばにセ...
10.
8.イスラム世界の発展
2 イスラム世界の発展
1 東方イスラム世界
アッバース朝は、全盛期の第5代カリフ、ハールーン=アッ...
イランでは、イラン系のマワーリー(非アラブ系の改宗者)...
サーマン朝(875~999)は、中央アジア最初のイラン...
カラハン朝(10世紀中頃~12世紀中頃)は、中央アジア...
北アジアを原住地とする遊牧民でアルタイ語族に属するトル...
ウイグルは、同じトルコ系のキルギスの侵入を受けて滅亡し...
中央アジアに移住したトルコ人は、騎馬戦士として優れてい...
マムルークは黒人奴隷兵に対して白人奴隷兵を指し、トルコ...
グッズ=トルコ族と呼ばれた遊牧民の一派が10世紀頃、族...
トゥグリル=ベクは、シル川下流域で自立し、1038年に...
スルタンは、アラビア語で「支配者の地位」を意味する言葉...
トゥグリル=ベクは中央アジアから小アジアにまたがる広大...
大セルジューク朝(本家のセルジューク朝をこう呼ぶ、10...
イクター制はブワイフ朝で創始され、セルジューク朝の時に...
セルジューク朝はマリク=シャーの死後、内紛によって大セ...
ホラズム朝(アラビア語でフワーリズムとも呼ばれる、10...
イスラム世界は、トルコ人の活躍によって発展を遂げてきた...
チンギス=ハンの孫のフラグ=ハン(1218~65)に率...
フラグ=ハン(位1258~65)はイラン・イラクを征服...
2.
2 イスラム世界の発展
2 カイロの繁栄
ファーティマ朝(909~1171)は過激シーア派の一分...
ファーティマ朝は969年にエジプトを征服し、カイロ市を...
アイユーブ朝(1169~1250、アイユーブはサラディ...
サラディンは、トルコ・イラク・イランにまたがって居住す...
サラディンはアイユーブ朝を開くと、アッバース朝のカリフ...
しかしサラディンの死後(1193)、広大な領土は諸子に...
マムルーク朝(1250~1517)は、エジプトのアイユ...
アイバクは、トルコ人のマムルーク(奴隷兵士)でアイユー...
第5代スルタンとなったバイバルス(位1260~77)は...
マムルーク朝の首都カイロは東西貿易で繁栄し、バグダード...
マムルーク朝は、インド航路が発見されると独占してきた東...
3.
2 イスラム世界の発展
3 西方イスラム世界
アフリカ北岸のモロッコ・アルジェリア・チュニジア地方は...
このマグリブ地方の先住民はベルベル人と呼ばれ、ハム系を...
西サハラでラクダの遊牧を行っていたベルベル人のサンハー...
初代アミール(アラビア語で「指揮者」の意味、武将・総督...
その頃、イベリア半島では後ウマイヤ朝が内紛で分裂・衰退...
国土回復運動によってトレドを失ったムスリム諸侯がイブン...
アトラス山中で定住生活を営むマスムーダ族のイブン=トゥ...
アブド=アルムーミン(位1130~63)は、イブン=ト...
しかし、ムワッヒド朝もムラービト朝と同じように宗教的な...
一方、イベリア半島では国土回復運動(レコンキスタ)が進...
この頃成立したナスル朝(グラナダ王国、1230~149...
ナスル朝はキリスト教国の進出に対して最後まで抵抗したが...
4.
2 イスラム世界の発展
4 アフリカの諸国
現在知られている最古の黒人王国はナイル上流のクシュ王国...
メロエ王国はアッシリアから製鉄を学び、製鉄と商業によっ...
アクスム王国(前120頃~後572)は、アラビア半島の...
アクスム王国には4世紀にキリスト教(コプト派)が入り、...
西スーダン(スーダンはアラビア語で「黒い国」を意味する...
13世紀にマンディンゴ族は初代王のスンジャータ(124...
マリ王国の最盛期の王がマンサ=ムーサ(カンカンムーサ)...
14世紀には有名なイブン=バトゥータがこの国を訪れて、...
西スーダンの黒人ソンガイ族は、15世紀後半に勇猛・好戦...
ソンガイ王国は、16世紀末に「黄金の國」伝説を信ずるモ...
アフリカ東岸、赤道以南のマリンディ・モンバサ・ザンジバ...
さらにその南方のサンベシ川流域では、15世紀にモノモタ...
5.
9.インド・東南アジアのイスラム化
3 インド・東南アジアのイスラム化
1 インドのイスラム化
イスラム教徒は、8世紀の初めウマイヤ朝の時代に、一時シ...
ガズナ朝は、サーマン朝(875~999)に仕えていたト...
第7代スルタンのマフムード(位998~1030)は、サ...
ゴール朝(1148頃~1215)は、ガズナ朝の支配下で...
中央アジアのトルコ人のマムルークであったアイバク(?~...
ガズナ朝・ゴール朝ともにアフガニスタンに拠点を持ち、イ...
アイバクの死後、彼の奴隷でアイバクの養子となったイレト...
奴隷王朝は、北からのモンゴル人の侵入を防ぎ、内政に意を...
ハルジー朝の最後の王が暗殺されると、将軍のトゥグルク(...
ティムール軍が引き上げた後、命を受けてデリーの統治に当...
サイイド朝の末期に、パンジャーブ地方(インド西北部)で...
インド最初のイスラム王朝である奴隷王朝からムガール帝国...
インドに侵入したイスラム王朝は、最初は民衆にイスラム教...
2.
3 インド・東南アジアのイスラム化
2 東南アジアのイスラム化
ムスリム商人は、すでに8世紀後半のアッバース朝時代から...
東南アジアでイスラム教が広まる時期が遅れた理由としては...
イスラム社会では、10世紀頃から神との一体感を求める神...
こうした状況の中で、13世紀末にはスマトラ島の西北部、...
東南アジアの諸島部では、7世紀にスマトラ島の東南部にシ...
シュリーヴィジャヤ王国が衰退した14世紀の末頃、マライ...
マラッカ王国の建国者であるパラメーシュヴァラはマジャパ...
その後、マラッカ王国は東南アジア最初のイスラム国家とし...
イスラム教は、マラッカの貿易のルートに沿ってインドネシ...
ジャワ島ではマラッカ王国の成立の影響を受けて、北部ジャ...
3.
10.イスラム文明の発展
4 イスラム文明の発展
1 イスラム文明の特徴
イスラム文明の特徴を一言でいうと融合文明であるというこ...
イスラム文明は、イスラム教を核とする普遍的文明であり、...
自然科学が発達したこともイスラム文明の特色である。自然...
またイスラム文化は都市文明で、その主な担い手は商人や手...
2 イスラム教徒の学問
イスラム教徒の学問は、「固有(自国)の学問」と「外来の...
言語学・文法学は「コーラン」の研究から発達した。「コー...
法学・神学も「コーラン」の解釈を中心に発達した。イスラ...
歴史学は、ムハンマドの伝承研究から発達した。イラン系の...
イブン=ハルドゥーン(1332~1406)はイスラム世...
「外来の学問」は、ギリシア・インドなどの非アラブの学問...
これらの「外来の学問」は、9世紀の初めにギリシア語の文...
医学・薬学は、ギリシア・インドから学び、特に外科・眼科...
イブン=シーナーは、サーマン朝の高官の子としてブハラに...
イブン=ルシュドは、コルドバの名門に生まれ、法学・医学...
数学も、ギリシアの幾何学やインドの数学を学び、特にイン...
現在我々が使用している算用数字はアラビア数字と呼ばれる...
ローマ人はアルファベットを用いて数字を表記した(1はI...
従来の数学は、例えばギリシアの場合も発達したのは代数学...
天文暦学は、古代オリエントでも盛んであった占星術がイス...
オマル=ハイヤーム(1048~1131)は、イランの詩...
錬金術は、古代エジプトに起源を持つ、卑金属を貴金属に変...
ヨーロッパ人が、イスラムから様々な学問・知識を受け入れ...
「外来の学問」は、自然科学以外の分野では哲学・地理学な...
哲学では、ギリシア哲学・特にアリストテレス哲学の研究が...
地理学の分野では、大旅行家イブン=バトゥータ(1304...
イブン=バトゥータはモロッコのタンジールに生まれ、22...
彼の口述筆記による旅行記「三大陸周遊記」(原名は「町々...
文学では、アッバース朝以後、ペルシアの文学の影響を受け...
建築は、ドームとミナレット(光塔、この上から人間の声で...
イスラム教は偶像崇拝を厳禁する宗教である。そのため絵画...
偶像崇拝禁止のイスラム圏で大いに発達したのが、アラベス...
3 人と物の東西交流
広大なイスラム世界の成立にともない、ムスリム商人による...
ムスリム商人は、より多くの利潤を求めて、イスラム世界の...
遠隔地貿易には、陸上の隊商貿易と海上の商船貿易とがあっ...
中国・東アフリカ・東南アジアの海港などには、ムスリム商...
こうした人と物の交流とともに文化の交流も盛んであった。
中国で発明された製紙法がタラス河畔の戦い(751)で捕...
同じく中国起源で宋代に実用化されていた火薬と羅針盤もイ...
インドから西アジアに伝わった木綿や砂糖は、十字軍の兵士...
元の郭守敬によって作成された「授時暦」にはイスラムの天...
4.
第7章 ヨーロッパ世界の形成と発展
11.西ヨーロッパ世界の成立
1 西ヨーロッパ世界の成立
1 ゲルマン民族の大移動
アジア系の遊牧民族であるフン族は、1世紀の中頃までヴォ...
インド=ヨーロッパ語族のゲルマン人は、前1000年頃か...
ケルト人もインド=ヨーロッパ語族の一つで、前10~8世...
民族大移動を起こす前のゲルマン人の社会、いわゆる原始ゲ...
「ゲルマニア」は、第1部「ゲルマニアの土地・習俗」と第...
ゲルマン人はローマと堺を接するようになると、一部のゲル...
ゲルマン民族は狩猟・牧畜を主としていたが、次第に農業が...
フン族は東ゴート族を征服し、さらに西ゴート族に迫ったの...
ゲルマン民族の大移動は、部族全体が王に率いられて家族と...
しかし、ゲルマン人の数はローマ人に比べると圧倒的に少数...
西ゴート族は、376年にドナウ川の南に移住したが、ロー...
アラリックもそうであったように、多くのゲルマン人にとっ...
アフリカ攻略に失敗した西ゴート族はさらに西進し、ワリア...
この間、ゲルマン民族の大移動のきっかけをつくったフン族...
433年頃、叔父の跡を継いでフン族の王となったのが、ヨ...
アッティラの相次ぐ貢納金の要求に耐えられなくなった東・...
勢力をもり返したアッティラは、翌年イタリアに侵入し、ロ...
こうした混乱の中で、476年に西ローマ帝国はオドアケル...
オドアケル(434頃~493)はゲルマンのスキリア族の...
オドアケルは東ローマ皇帝から総督の称号を受け、イタリア...
東ゴート族は、フン族に征服され、その支配下に置かれ、ア...
東ゴート族の王家に生まれたテオドリック大王(454頃~...
ヴァンダル族は、オーデル川とヴィストラ川に挟まれた地域...
ガイゼリック(390頃~477、位429~477)の時...
ヴァンダル王国は、ガイゼリックの死後内紛によって衰え、...
ブルグンド族は、ポメラニア東部・バルト海沿岸(現在のポ...
この出来事を背景に書かれたのが、13世紀に完成する大叙...
ブルグンド族の多くは南に向かい、現在のスイスのジュネー...
多くのゲルマン諸族が地中海方面を目指したのに対し、ユト...
ローマ時代にブリタニアと呼ばれていた現在のイギリス(ブ...
ゲルマン諸族の多くが4世紀に移動を開始しているのに対し...
ミラノを中心とする北イタリアをロンバルディアと呼ぶのは...
西ローマ帝国の滅亡(476)後の西ヨーロッパには、いく...
またゲルマン民族が西に移動したあとのエルベ川以東の地や...
2.
2 フランクの発展
2 フランクの発展
フランク族は、3世紀頃には10いくつかの支族に分かれ、...
この頃、フランク族の中ではサリ族とリブリア族の2つの支...
クローヴィスは粗野で残忍、猜疑心が強く、陰謀と奸計に明...
フランク族がこのように大発展をとげた最大の理由は、他の...
クローヴィスの改宗については、彼がアラマン族との戦いに...
フランク族の間では分割相続の習慣があったので、クローヴ...
メロヴィング家には、残忍と好色の血が流れていたと言われ...
このため、フランク王国ではこの頃から「宮宰」(マヨル=...
カロリング家の祖である大ピピン(?~639)は、クロタ...
中ピピンの子が、732年のトゥール・ポワティエ間の戦い...
その頃、アフリカからジブラルタルを渡りイベリア半島に侵...
カール=マルテルは、イスラム軍を撃退した後、ブルゴーニ...
726年にビザンツ(東ローマ)皇帝レオン(レオ)3世が...
トゥール・ポワティエ間の戦いでフランク軍の強さを知った...
カール=マルテルの死後、兄とともに父の後を継いで宮宰と...
この時、フランクに保護を求めようとしていた教皇ザカリア...
これを受けて、小ピピンは754~755年にイタリアに出...
3.
1 西ヨーロッパ世界の成立
3 ローマ=カトリック教会の成立
フランク王国の発展とともに勢力を伸ばしたのがカトリック...
このうち、ローマ教会は、第1の使徒であるペテロの殉教の...
ローマ教会は、西ローマ帝国の滅亡(476)後、西ヨーロ...
修道院は、修道士・修道女が共同生活しながら修行する場で...
ベネディクト派修道院は、貞潔・清貧・服従を旨とし、「祈...
聖ベネディクトゥス会則は、その後急速に西ヨーロッパ各地...
グレゴリウス1世(540頃~604、位590~604)...
これより少し前、ユスティニアヌス帝(位527~565)...
その上、7世紀前半にイスラム教徒は東ローマ帝国からシリ...
イスラム教徒によるコンスタンティノープル包囲(717~...
当時、キリスト教徒の間では、イエス・マリア・殉教者の聖...
しかし、この「聖像禁止令」は、聖像をゲルマン布教の手段...
ローマ教会が、「聖像禁止令」をめぐって東ローマと対立し...
カール=マルテルの後を継いだ小ピピン(位751~768...
この時、フランクに保護を求めようとしていた教皇は、「王...
これを受けて、小ピピンは754~755年にイタリアに出...
4.
1 西ヨーロッパ世界の成立
4 カール大帝
小ピピンの子が、中世西ヨーロッパの歴史を代表する人物、...
ゲルマン民族の一派で、北ドイツのエルベ川流域に居住して...
この間、中央ヨーロッパに侵入してきたアジア系のアヴァー...
南では、イスラム教徒と戦い(778~801)、スペイン...
こうして、西はスペインのエブロ川、東はドイツのエルベ川...
800年のクリスマスの日、ローマのサン=ピエトロ大聖堂...
カール大帝の父ピピン以来、教皇とフランクの結びつきは強...
ともあれ、「カールの戴冠」は、政治的・宗教的・文化的意...
今まで見てきたように、西ヨーロッパ中世世界の成立にイス...
宗教的意義は、フランクを後ろ盾としてローマ=カトリック...
そして文化的意義としては、ギリシア・ローマの古典文化の...
まさに 、「カールの戴冠」は西ヨーロッパ中世世界の成立...
5.
12.西ヨーロッパ封建社会の発展
2 西ヨーロッパ封建社会の発展
1 フランク王国の分裂
カール大帝には約20人の子供がいたが、男子で彼の死後ま...
ルートヴィヒ1世は、817年に王国をロタール、ピピン、...
父の死後、長子のロタール1世が全土の支配を図ったのに対...
ロタール1世は、西ローマ皇帝の地位と中部フランクを得た...
メルセン条約による国境が、その後長い変遷を経て、今日の...
このフランス王国が分裂していった時期はヨーロッパが外部...
イタリアでは、ルイ2世(ロタール1世の子)の死によって...
東フランクでは、ルートヴィヒ4世(東フランク第4代の王...
ハインリヒ1世は辺境の防備に力を注ぎ、ノルマン人やマジ...
オットー1世(912~973、東フランク王(位936~...
マジャール人は、アジア系の遊牧民で、現在のハンガリー人...
オットー1世は、933年と特に955年のレヒフェルトの...
国内では大諸侯を抑えるために一族の者を諸侯として各地に...
オットー1世は、帝国教会政策を進めるために、3回にわた...
これが「神聖ローマ帝国」(962~1806)の起源とな...
ここにドイツからイタリア中部にまたがる大帝国が出現した...
西フランクは、8世紀末以来のたび重なるノルマン人の侵入...
ウードの甥、パリ伯ユーグの長子として生まれたのがユーグ...
しかし、カペー家の王領はパリとオルレアンを含む狭い地域...
8.
2 西ヨーロッパ封建社会の発展
2 ヴァイキングの活動
ノルマン人はゲルマン民族の一派(北ゲルマン)で、スカン...
ノルマン人が遠征に用いた舟は長さ約20m、40~60人...
ノルマン人は8世紀頃から活動を開始し(人口増加と耕地不...
ノルマン人は、初期には西ヨーロッパ各地の海岸付近を襲い...
ノルマン人の西フランク(フランス)への侵入は、8世紀末...
ノルウェーのノルマン人の首長であったロロ(860頃~9...
ノルマンディーに定着したノルマン人の下級貴族のある家に...
父ルッジェーロ1世の後を継いでシチリア伯になったルッジ...
フランスと並んでノルマン人の侵入に苦しんだのがイングラ...
七王国は、相互の長期にわたる抗争の末、ウェセックス王の...
イングランドが統一に向かっていた8世紀末からデーン人の...
こうした状況の時にイングランド王に即位したのが、エグバ...
アルフレッド大王の死後、約1世紀はデーン人の侵入も比較...
デンマーク王の第2子、クヌート(カヌート)(イングラン...
その後、イングランドでは再びアングロ=サクソン王朝が復...
ノルマンディー公ウィリアム(1027頃~1087、ノル...
ウィリアム1世は約5年でイギリスを統一し、フランスの封...
「ノルマンの征服」によって、ノルマンディー公国はイギリ...
北ヨーロッパでは、スウェーデンのノルマン人であるルーシ...
その後、リューリクの一族のオレーグに率いられたルーシ族...
ノルマン人の現住地にはデンマーク・スウェーデン・ノルウ...
ノルマン人の一部は、9世紀にアイスランドを発見して、そ...
9.
2 西ヨーロッパ封建社会の発展
3 封建社会の成立
中世西ヨーロッパは、イスラム・マジャール人・ノルマン人...
封建制度という言葉は、狭義では封土(ほうど)の授受を中...
西ヨーロッパでは、8~9世紀頃までに、封土の授受によっ...
西ヨーロッパの封建制度は、ローマの恩貸地制度とゲルマン...
一方、古ゲルマンの慣習である従士制度は、自由民の子弟が...
これらの制度がもとになり、フランク王国のもとで長期間の...
この封土の授受を媒介とする主従関係は次第に世襲化されて...
双務的な契約関係とは、主君と臣下の双方に契約を守る義務...
臣下の義務の中で最も重要な義務である軍役についても、1...
イスラムをはじめとする外民族の侵入による混乱によって交...
こうした中で、諸侯・騎士は封土として与えられた土地を所...
一般的な荘園の場合、領主の館(大諸侯の場合は城)・教会...
荘園内の農民の大多数は農奴と呼ばれる不自由な隷農であっ...
このような農奴になったのは、ローマ末期のコロヌスや解放...
農奴は、身分上の束縛を受けるとともに、領主に対して様々...
荘園の耕地は領主が直接経営する直営地と、農奴に貸し与え...
さらに十分の一税があった。これは農奴が荘園内にある教会...
このような中で農奴たちは必死に働いた。特に保有地での労...
本来、封土であった荘園には、国王の官吏が立ち入り、裁判...
封建社会の支配階級である王・諸侯・騎士の間には、キリス...
10.
2 西ヨーロッパ封建社会の発展
4 教会の権威
フランク王国と結びついて発展をとげてきたローマ=カトリ...
この間、多くの領主が、来世での救済を願って土地を寄進し...
教会や修道院が広大な荘園を持ち、そこから得られる税収入...
当時のヨーロッパでは、いかなる建造物も、それが建てられ...
国王が領主として大司教などを任命する場合、聖書に対する...
こうした聖職売買や聖職者の妻帯などの弊害を取り除こうと...
クリュニー修道院は、910年にアキテーヌ公が、その所領...
「ベネディクトへ帰れ」を基本とし、厳格な修行に励むクリ...
このクリュニー修道院と並んで教会刷新運動の中心となった...
クリュニー修道院出身で、後に教皇となったのがグレゴリウ...
まず聖職売買と聖職者の妻帯を禁止し、違反者を容赦なく追...
このグレゴリウス7世の俗人による聖職者の叙任禁止が、神...
ハインリヒ4世は、父の後を継いで6歳で即位したため、最...
従って、教皇が聖職叙任権を握り、教皇の息のかかった人物...
ハインリヒ4世はヴォルムスで国会を開き、グレゴリウス7...
破門はローマ=カトリック教会の罰則の1つで、破門される...
ドイツ諸侯は、マインツの南のトリブールに集まり、ハイン...
窮地に追い込まれたハインリヒ4世は、王妃や王子をともな...
グレゴリウス7世は、アウグスブルグの国会に赴く途中で、...
これが聖職叙任権闘争の過程で、皇帝権が教皇権に屈した事...
破門を解かれたハインリヒ4世は直ちにドイツに帰り、グレ...
翌年、軍を率いてアルプスを越え、イタリアに出兵したハイ...
ハインリヒ4世の子、ハインリヒ5世(位1099~112...
その後、教皇権はウルバヌス2世が提唱した十字軍の初期の...
インノケンティウス3世(1160頃~1216、位119...
この間、ドイツの帝位争いに介入し、自分の後見下にあった...
インノケンティウス3世が行った政策の中で最大の成功は、...
フランチェスコは、富裕な織物商人の子供としてアッシジに...
同じ頃、スペインのカスティリア地方に生まれたドミニコも...
こうして教皇権は、11末から隆盛を続け、13世紀初頭イ...
11.
13.東ヨーロッパ世界
3 東ヨーロッパ世界
1 ビザンツ帝国
ゲルマン民族の大移動の開始(375)から、20年後のテ...
また国内では、カルケドンの公会議(451)で異端とされ...
このような時期に、マケドニアの農家に生まれ、マケドニア...
彼は、国内では「ニケ(ニカ)の反乱」(532年にコンス...
この間、西方では「地中海帝国(ローマ帝国)の復活」をめ...
この「ユスティニアヌスの再征服」によって、今や東ローマ...
「再征服」と並んでユスティニアヌス帝の名を不朽にしてい...
「ローマ法大全」は、ハドリアヌス帝(位117~138)...
現在のヨーロッパ各国の法はローマ法の影響を受けている。...
またユスティニアヌス帝は、大土木事業を盛んに行ったが、...
ユスティニアヌス帝は、このセント=ソフィア大聖堂の建立...
さらにユスティニアヌスの時代に、中国から中央アジアを経...
このように、東ローマ帝国はユスティニアヌス帝の時に最盛...
アフリカ総督の子、ヘラクレイオス1世(位610~641...
このような対外的危機にあたって、国境防衛のために、軍管...
東ローマ帝国は、首都コンスタンティノープルが古くはビザ...
シリア・エジプトを征服し、ササン朝ペルシアを滅亡に追い...
ビザンツ帝国は、この年に即位したレオン3世(675頃~...
レオン3世は、北シリアの下層民の家に生まれ、後軍隊に入...
イサウロス朝にかわった、バシレイオス1世(位867~8...
キエフ公国のウラディミル1世の改宗(989)によって、...
しかし、11世紀中頃からセルジューク朝の侵入を受け、小...
マケドニア朝の断絶後の混乱を鎮圧して即位したアレクシオ...
アレクシオス1世は、セルジューク朝の脅威を訴える書簡を...
この時、小アジアに逃れて抵抗したテオドロス1世(位12...
しかし、その後のビザンツ帝国は、帝位争いや傭兵の反乱、...
ビザンツ文化は、ギリシア文化を継承・保存し、周辺のスラ...
西ヨーロッパ世界の文化が、ローマ文化とローマ=カトリッ...
ビザンツ帝国の領域では、ヘレニズム時代以後コイネーと呼...
美術の分野では、独自のビザンツ式が栄えた。ビザンツ式は...
ビザンツ文化の中で後世に最も大きな影響を及ぼしたのがユ...
ビザンツ帝国によって継承され、発展したギリシア古典文化...
1.
3 東ヨーロッパ世界
2 スラヴ民族の自立
インド=ヨーロッパ語族に属するスラヴ民族は、6世紀頃、...
このうち西方に拡大したポーランド人・チェック人・スロヴ...
ポーランドでは、10世紀にポラーニ人(農耕の人々の意)...
13世紀に入ると、モンゴル人の侵入とドイツ人の東方植民...
しかし、14世紀に入るとカジミェシュ(カシミール)大王...
この頃、バルト海東南岸に居住していたバルト系のリトアニ...
リトアニア大公ヤゲウォ(ヤゲロー)(1351~1434...
同じ西スラヴ族のチェック人とスロヴァク(スロヴァキア)...
10世紀初めにチェック人を中心にベーメン(ボヘミア)王...
14世紀末にプラハ大学神学教授となり、後に同大学の学長...
フスの処刑後、神聖ローマ皇帝ジギスムントがプラハ市とプ...
一方、スロヴァク人は、10世紀以来マジャール(ハンガリ...
南スラヴ族のセルビア人は、6世紀にバルカン半島を南下し...
12世紀中頃、東ローマ帝国から独立し、14世紀前半には...
同じ南スラヴ族のクロアティア人は、9世紀頃ローマ=カト...
同じく南スラヴ族のスロヴェニア人もローマ=カトリックに...
アジア系のブルガール人は、7世紀末にバルカン半島東南部...
12世紀末に再び独立し、第2次ブルガリア王国(1187...
ロシア人・ウクライナ人などの東スラヴ族が定着したロシア...
スラヴ人が住む地域に入ったノルマン人をスラヴ人はルーシ...
キエフ公国(9~13世紀)は、ウラディミル1世(位98...
ウラディミル1世は、ビザンツ皇帝の妹アンナと結婚し(9...
その後もキエフ公国は、ヤロスラフ1世(位1019~54...
こうした状況のなかで、13世紀にバトゥ(チンギス=ハン...
しかし、14世紀頃からモスクワ大公国が強力となり、モス...
2.
14.十字軍と都市の発達
4 十字軍と都市の発達
1 十字軍とその影響(1)
西ヨーロッパ世界は中世を通じて絶えず外部からの圧迫・侵...
イスラム教徒の支配下に置かれていたイベリア半島では、キ...
当時、イスラム世界では、中央アジアから興ったセルジュー...
フランス人でクリュニー修道院出身の教皇ウルバヌス2世(...
こうして翌1096年に多数の諸侯・騎士から成る第1回十...
十字軍はヨーロッパのキリスト教徒がイスラム教徒から聖地...
(1)封建社会が安定し、三圃制や11~12世紀頃から始...
(2)ローマ=カトリック教会による民衆の教化が進み、当...
(3)教皇の権威が著しく高まっていたこと、このことは有...
(4)諸侯・騎士の中には、封建制の完成によってもはやヨ...
(5)当時次第に勃興してきた都市の商人達は十字軍を利用...
(6)農民達は十字軍に参加することによって負債の帳消し...
十字軍はこのような様々な要因・人々の利害が複雑に絡み合...
ウルバヌス2世の演説は大きな反響を引き起こした。こうし...
第1回十字軍(1096~99)は、フランスの諸侯・騎士...
騎兵5千・歩兵1万5千の大軍は、緒戦で勝利をおさめ、ト...
アンティオキア攻略に功があった南イタリアのノルマンの騎...
アンティオキアからイェルサレムに向けて進撃し、6週間に...
当時のイスラム教徒がキリスト教徒に寛大であったのに対し...
ともあれ、第1回十字軍は聖地の回復に成功した数少ない十...
イェルサレム王国は、フランスに範をとり、ロレーヌ(ロー...
イェルサレム回復後、多数の十字軍兵士達は目的を達成した...
聖地の守護を目的として設立された(1119)テンプル騎...
宗教騎士団は、帰国後は護教活動や辺境の開拓に活躍した。...
第1回十字軍が成功をおさめたのは、セルジューク朝が分裂...
第2回十字軍(1147~49)には、ドイツ皇帝・フラン...
この後のイスラム側の失地回復はめざましくザンギーの子ヌ...
イェルサレム陥落はヨーロッパに大きな衝撃を与えた。こう...
しかし、当時英仏は本国で領土をめぐって激しく争っていた...
フィリップ2世とリチャード1世は、同時に出発し(119...
リチャード1世だけがイェルサレムを目指した。サラディン...
リチャードは「獅子心王(Lion-hearted )」...
結局リチャードとサラディンは和を結び、リチャードは聖地...
リチャードは、帰途ウィーン近くでオーストリア大公の捕虜...
かくして第3回十字軍もイェルサレムを回復することは出来...
1.
4 十字軍と都市の発達
2 十字軍とその影響(2)
第3回十字軍も結局聖地イェルサレム奪回という目的を達成...
第4回十字軍(1202~1204)は、北フランスの諸侯...
十字軍士らはヴェネツィアに集結してきたが、約束の船賃が...
十字軍士はやむを得ずこの条件を受け入れ、ツァラの町を襲...
翌年、破門された十字軍士を乗せた艦隊はツァラからコンス...
十字軍士達は強く反対したが、結局ヴェネツィアの商人と十...
幽閉されていたイサアキオス2世が復位し、アレクシオス4...
この宮廷クーデターを挑戦と受け取った十字軍士達は、再び...
十字軍士は「ラテン帝国(1204~61)」を建国し、フ...
ラテン帝国に対して、小アジアに逃れて抵抗したテオドロス...
このように第4回十字軍は、本来の目的から全くはずれてし...
第4回十字軍が失敗に終わったため、教皇インノケンティウ...
少年達の親は、彼らの冒険を必死に思いとどまらせようとし...
この出来事は少年十字軍(1212)と呼ばれている。同じ...
教皇インノケンティウス3世は、第4回ラテラノ公会議(1...
インノケンティウス3世の支持を得て神聖ローマ帝国皇帝と...
こうして始まったのが第5回十字軍(1228~29)であ...
しかし、その後イェルサレムは再びイスラム教徒の手に落ち...
敬虔なキリスト教徒で「聖王」と呼ばれたフランス王ルイ9...
第6回十字軍は、目標をアイユーブ朝の都カイロに定め、ダ...
第7回十字軍は、北アフリカを攻めて、そこに十字軍の新し...
これより前、マムルーク朝(1250~1517)は、アイ...
約200年の間に前後7回の十字軍が派遣されたことは、当...
宗教面では、十字軍が教皇の提唱で起こされ、一時的にせよ...
政治面では、諸侯・騎士が没落する原因となった。長期間の...
経済面では、十字軍によって最大の利益を得たヴェネツィア...
文化面では、十字軍によって多くの人々が東方との間を往来...
2.
4 十字軍と都市の発達
3 中世都市の成立
西ヨーロッパでは、イスラム教徒・マジャール人・ヴァイキ...
相次ぐ外民族の侵入による混乱の中で、人口は減少し、商業...
しかし、11世紀以後封建社会が安定して人口も増大する中...
荘園内で生産力が増大すると、余剰生産物が生まれてくる。...
このような変化はイスラム教徒やヴァイキングの商業活動や...
西ヨーロッパでは、11~12世紀にこのような変化が進ん...
中世都市の多くは定期市から発展したが、その成立の由来か...
商業は初めは小規模で、取引の範囲も都市と周辺の農村との...
北イタリアのヴェネツィア・ジェノヴァ・ピサなどの海港都...
特にヴェネツィアは、第4回十字軍以後東地中海に商権を拡...
内陸のフィレンツェは、13世紀以後毛織物生産と貿易・金...
北イタリアの内陸都市ミラノも毛織物・商業で栄えた。
北イタリアと同じ頃、北ドイツ・フランドル地方でも都市が...
北ドイツでは、リューベック・ハンブルク・ブレーメンなど...
リューベックは12世紀に建設されて以来、北海・バルト海...
ライン川の河口に近いフランドル地方(ほぼ現在のベルギー...
イギリスでは、ロンドンが北海貿易で栄えハンザ同盟の4大...
北イタリア都市と北ドイツ都市の発展によって、地中海商業...
フランス東北部のシャンパーニュ地方は、二つの商業圏の中...
南ドイツではアウグスブルクやニュルンベルクが栄えた。
アウグスブルクは、初代ローマ皇帝アウグストゥスが設置し...
フッガー家は、15世紀にイタリアとの香辛料・羊毛取引で...
ニュルンベルクは、15世紀頃にはイタリアとの遠隔地貿易...
その他ドイツでは、ライン川に沿う地域でケルンやマインツ...
フランスでは、ルーアン・ボルドー・マルセイユなどの港市...
今まで多くの都市をあげてきたが、ヨーロッパ中世都市は私...
3.
4 十字軍と都市の発達
4 都市の自治権獲得
中世ヨーロッパの封建社会は、「祈る人、戦う人、働く人」...
11世紀以後の商業・貨幣経済の発達は商人という新しい階...
中世ヨーロッパの都市のほとんどは城壁で囲まれていた。こ...
荘園の中で交換が始まり、市が立つようになったとき、商業...
貨幣経済の進展にともない領主も貨幣を必要とするようにな...
次にあげるのは、イギリスのブリストル市の特許状(115...
このようにして封建領主の支配から自立し、市民自身が市政...
ヴェネツィア・ジェノヴァなどの北イタリアの自治都市は、...
中世都市は、自立はしていても人口や規模の小さな都市が多...
都市同盟としては、北ドイツ諸都市を中心とするハンザ同盟...
ハンザ同盟は、北欧商業圏を支配した北ドイツ諸都市を中心...
ロンバルディア同盟は、ミラノを中心とする北イタリア諸都...
4.
4 十字軍と都市の発達
5 市民の自治
「都市の空気は自由にする」というドイツのことわざがある...
しかし、都市の自由は封建領主からの自由であって、無制限...
自治都市は、市民が市政を運営する特権を持っていたが、市...
ギルドは、中世都市の商人・手工業者の同業・同職者の組合...
手工業者のギルドは同職ギルド(ツンフト)と呼ばれる。同...
一人前の手工業者になるためには、まず徒弟として親方の家...
ギルドは、最初は商人ギルドだけで、手工業者もこの中にふ...
これに不満を持つ手工業者は、12世紀前半頃から同職ギル...
13世紀中頃から各都市でツンフト闘争が展開され、それに...
ギルドは、当初は市民の活動を保障し、生産面でも一定の役...
商工業・都市の発達にともない、中世末期から近代初頭にか...
ロレンツォ=デ=メディチ(1449~92)は、フィレン...
ヤコプ=フッガー(1459~1525)は、アウグスブル...
5.
15.西ヨーロッパ中央集権国家の成立
5 西ヨーロッパ中央集権国家の成立
1 教会勢力の衰微
十字軍が教皇の提唱で起こされ、一時的にせよ聖地を回復し...
しかし、結局聖地を回復することが出来ず、その一方で十字...
13世紀末に出た教皇ボニファティウス8世(位1294~...
フランスのフィリップ4世(位1285~1314)は、1...
ボニファティウス8世は聖職者課税禁止の教書を発して、教...
ところが、さらにフィリップ4世が、ナルボンヌの司教の知...
司教が教皇に訴えたため、ボニファティウス8世は司教を使...
これに憤ったボニファティウス8世は、フィリップ4世に対...
しかし、フィリップ4世は、これに屈せず、ノートルダムに...
これに対して、ボニファティウス8世が発した教書が有名な...
フィリップ4世は、これに対して再び聖職者・貴族をルーヴ...
ボニファティウス8世は、さらに教書を発し、フィリップ4...
フィリップ4世は、教皇の廃位を要求する一方で、ひそかに...
ボニファティウス8世は、その後市民の手で解放されたが、...
その後、フランスの貴族出身でボルドー大司教であったクレ...
以後、7代70年間にわたって教皇庁は南仏のアヴィニョン...
この有名な出来事は、「アヴィニョン捕囚」(1309~7...
7代目のアヴィニョン教皇、グレゴリー11世(位1370...
このため、以後イタリア・ドイツ・イギリスが支持するロー...
教会大分裂によって教皇の権威は著しく失墜した。またヨー...
イギリスの神学者・聖職者であったウィクリフ(1320頃...
彼は、カトリックの教義が聖書から離れているとし、聖書こ...
ベーメン(ボヘミア、現在のチェコ共和国)のフス(137...
大学教授を勤めると同時に、プラハ市のベツレヘム教会の説...
フスの説を支持する者はボヘミアだけでなく、全ヨーロッパ...
ドイツ皇帝ジギスムントの主宰で開かれたコンスタンツの公...
シスマについては、ローマ教皇を正統と認め、分裂中の3教...
フスの処刑後、ドイツ皇帝ジギスムントは、プラハ市とプラ...
こうして教皇権はかつての栄光を失って衰退に向かい、教会...
1.
5 西ヨーロッパ中央集権国家の成立
2 封建制・荘園制の崩壊
封建制は自給自足を本質とする荘園制の上に成り立っていた...
貨幣経済が広まると、領主層もいやおうなしにその中にまき...
賦役は、農奴が領主の直営地で、週に2~3日、無償で働く...
賦役による直営地の収穫物は全て領主のものとなり、農奴達...
そのため領主は非能率な賦役をやめて、賦役を金納化したり...
このように地代形態は、労働地代から生産物地代・貨幣地代...
この地代形態の変化は、農奴にとっても有利であった。生産...
たまたま、1348年に黒死病(ペスト)が全ヨーロッパに...
ペストは歴史上何回も猛威をふるって多くの人々の命を奪っ...
この時のペストはアジアで猛威をふるっていたが、東方貿易...
「東洋では鼻血がでたら死が疑い無しでしたが、それとは違っ...
このペストの大流行によって、イギリス・フランスでは人口...
このような動きを農奴解放という。農奴解放によって農民の...
こうして自立化していく農民に対して、貨幣経済の進展で窮...
フランスでは、1358年にジャックリーの乱と呼ばれる大...
百年戦争初期のポワティエの戦い(1356)後の無給傭兵...
イギリスでも、1381年にワット=タイラーの乱が起こっ...
百年戦争の戦費調達のために15才以上の国民に人頭税がか...
このワット=タイラーの思想的指導者で、巡回説教師として...
このようにジャックリーの乱やワット=タイラーの乱は鎮圧...
荘園制・封建制の崩壊は諸侯・騎士を没落を促進した。諸侯...
14世紀に出現した弩(いしゆみ)と長弓は戦争の様相を大...
このような武器の出現とともに重装騎士が出現する。彼らは...
さらに14世紀以後の火砲の出現は戦術を一層大きく変化さ...
14世紀の中頃には大砲が使用されるようになった。初期の...
鉄砲は、大砲より遅れて15世紀の後半に使用されるように...
日本には1543年に種子島にポルトガル人によって伝えら...
火砲の使用などによる戦術の変化は騎士の役割を低下させ、...
2.
5 西ヨーロッパ中央集権国家の成立
3 イギリスとフランス
イギリスでは、ノルマンの征服(1066)によってノルマ...
ノルマンディー公ウィリアムは、イギリスでエドワード懺悔...
ウィリアム1世は5年間でイギリスの統一をはたし、全国で...
ウィリアム1世はイギリス国王であるが、フランス領(ノル...
ノルマン朝は4代続いたが、ウィリアム1世の孫スティーブ...
しかし、ヘンリ2世の晩年はみじめで、フランス王と結んだ...
リチャード1世(位1189~99)は、ヘンリ2世の3男...
即位後間もなく、フランス王フィリップ2世・ドイツ皇帝フ...
リチャードは10年の治世の間、イギリスに留まったのは半...
プランタジネット朝第3代の王、ジョン(位1199~12...
またカンタベリ大司教の任命をめぐって教皇インノケンティ...
翌年、再び大陸に出兵してフィリップ2世と戦ったが敗退し...
「マグナ=カルタ(大憲章)」はジョンの悪政に対して貴族...
主な条項をいくつか列挙してみると次のようである。
第1条 まず第一に、朕は、イングランドの教会は自由であ...
第12条 いかなる軍役免除金または御用金も、王国全体の...
第13条 またロンドン市は、全てのその古来の特権と、水...
第16条 いかなる者も、騎士の封、またいかなる自由な封...
第39条 いかなる自由人も、彼と同輩の者の判決によるか...
第41条 あらゆる商人は、古来の正当な慣習により、いか...
第39条のように国民の権利に関する条項もあるが少なく、...
ジョンの死後、子のヘンリ3世(位1216~72)が幼少...
シモン=ド=モンフォール(1208頃~65)はノルマン...
ヘンリ3世がこれを無視すると反乱を起こし(63~65)...
エドワード1世(位1272~1307)は即位すると多く...
そしてエドワード3世(位1327~77)の時に、議会は...
このエドワード3世の時に有名な百年戦争が勃発した。
フランスでは10世紀末にカペー朝(987~1328)が...
カペー朝第7代の王が有名なフィリップ2世(尊厳王、位1...
前王ルイ7世(位1137~80)の時代にイギリス領とな...
第3回十字軍(1189~92)に参加したが、リチャード...
さらに次王ジョンとも戦い、ノルマンディー・アンジューな...
当時、南フランスのアルビ地方を中心にアルビジョワ派が盛...
フィリップ2世の孫でカペー朝第9代の王位についたルイ9...
イギリス王ヘンリ3世との間にパリ条約を結び(1259)...
ルイ9世は第6回十字軍(1248~54)・第7回十字軍...
ルイ9世の孫でカペー朝第11代の王が中世フランスを代表...
フィリップ4世は、当時親英・反仏的だったフランドル諸都...
フィリップ4世はこの戦争の戦費による財政難を打開するた...
フィリップ4世の死後、3人の子ども達が後を継いだがシャ...
3.
5 西ヨーロッパ中央集権国家の成立
4 百年戦争とばら戦争
イギリスは、ノルマン朝・プランタジネット朝の成立によっ...
フランスでフィリップ2世からフィリップ4世の時代に王領...
フィリップ4世はフランドル・ギュイエンヌ地方に対するイ...
フランドル地方は中世ヨーロッパで最大の毛織物の産地であ...
フィリップ4世は、フランス国王の封建的臣下であるフラン...
またギュイエンヌ地方はぶどう酒の特産地として知られ、ボ...
フランスではカペー朝が断絶した後、フィリップ4世の甥の...
フィリップ6世は、イギリス王がギュイエンヌに関してはフ...
これに対してイギリス国王エドワード3世(位1327~7...
こうして百年戦争(1339~1453)が始まった。
挑戦状を送った翌年にイギリス軍がノルマンディーに上陸し...
百年戦争と呼ばれているが、百年間絶えず戦争が続けられた...
百年戦争の最初の決戦となったのがクレシーの戦い(134...
エドワード黒太子は、1355年にイギリス領ギュイエンヌ...
これより前に西ヨーロッパではペストが大流行し(1346...
こうした状況の中でブレティニーの和約が結ばれ、イギリス...
フランスでジャン2世の死後、名君シャルル5世(位136...
シャルル5世の死後、長男シャルル6世(位1380~14...
以後、フランス国内の諸侯は、オルレアン公(シャルル6世...
一方、イギリスではエドワード3世の後、リチャード2世(...
ランカスター朝の第2代国王ヘンリ5世(位1413~22...
1422年にヘンリ5世とシャルル6世が相次いで没し、イ...
フランス王太子シャルル(後のシャルル7世)は、アルマニ...
イギリスは、このような情勢をみて、ロワール川以南への領...
ジャンヌ=ダルク(1412~31)は、フランス東部のド...
オルレアンが包囲された後、「フランスへ行け、オルレアン...
ジャンヌ=ダルクの熱烈な信仰心はフランス軍兵士の士気を...
しかし、その後コンピエーニュへの救援に赴いたとき、ブル...
ジャンヌ=ダルクはルーアンの宗教裁判で「異端・魔女」の...
その後の戦局は、フランスが各地で圧倒的な勝利をおさめ、...
シャルル7世は、百年戦争末期から戦後にかけて大商人ジャ...
百年戦争に完敗してカレーを除くフランスの領土を全て失っ...
ランカスター家(ヘンリ3世の子エドモンドを祖とする)の...
ヨーク家(エドワード3世の5男エドモンドが祖)のエドワ...
ヘンリ=テューダー(後のヘンリ7世)は、ランカスター家...
ヘンリ7世は、翌年ヨーク家のエリザベス(エドワード4世...
ヘンリ7世はばら戦争によって没落した貴族の領地を没収し...
4.
5 西ヨーロッパ中央集権国家の成立
5 スペインとポルトガル
イベリア半島は、8世紀以来イスラム教徒の支配下に置かれ...
レコンキスタの過程で、イベリア半島にはレオン・カスティ...
レコンキスタの先頭に立ったのは、8世紀初めに西ゴート貴...
カスティリア王国(930年頃建国)は、レオン王国の辺境...
ナヴァル王国は、10世紀初めに建国された。11世紀にア...
アラゴン王国は、11世紀にナヴァル王の一族によって建国...
ポルトガルは、アルフォンソ=エンリケシュがイスラム教徒...
ジョアン2世(位1481~95)は、貴族の反乱を鎮圧し...
12世紀になると、カスティリア・アラゴン・ポルトガルの...
イベリア半島の南端に追い込まれたイスラム教徒は、イベリ...
13世紀前半に、グラナダを除いてレコンキスタがほぼ完了...
カスティリア国王ファン2世(位1406~54)の娘イサ...
フェルナンド5世(位1479~1516)とイサベル1世...
フェルナンドとイサベルは、国内では勃興しつつあった都市...
5.
5 西ヨーロッパ中央集権国家の成立
6 ドイツ・イタリア・北ヨーロッパ
オットー大帝が神聖ローマ帝国の皇帝になって以来、ドイツ...
シュタウフェン朝(ホーエンシュタウフェン朝、1138~...
第6代皇帝フリードリヒ2世(位1215~1250)は、...
彼はシチリアを中心にドイツ・イタリアにまたがる帝国の建...
フリードリヒ2世は、イタリア政策を強力に進めるために、...
フリードリヒ2世の死後まもなく、シュタウフェン朝は断絶...
1273年には、ハプスブルグ家のルドルフ1世が皇帝に選...
有力諸侯は、ルクセンブルグ朝(1347~1437)のカ...
金印勅書は、皇帝選出権を持つ聖俗7人の諸侯(マインツ大...
これによって皇帝選挙制が確立され従来の混乱は避けられた...
その後、1438年に皇帝となったハプスブルグ家のアルプ...
中世末にイギリス・フランス・スペインなどで国王による中...
この間、ドイツ人は12世紀以降、エルベ川以東のスラブ人...
スイスは、ドイツからアルプスを越えてイタリアに至る通路...
ハプスブルグ家が皇帝位につくと、ハプスブルグ家の居城に...
スイスの独立運動の伝説的英雄ヴィルヘルム=テルの物語は...
イタリアも、ドイツと同様に国家の統一は実現せず、教皇領...
イタリアでは、フランク王国が分裂していくなかで、いち早...
さらに、ドイツで神聖ローマ帝国が成立すると(962)、...
11~12世紀には、教皇とドイツ皇帝間の聖職叙任権闘争...
また11世紀以後、ノルマン人の侵入を受け、シチリア島と...
こうして中世末期には、教皇領・ナポリ王国(両シチリア王...
しかもこれらの諸国家は単独ではイタリアを統一する力はな...
ノルマン人によって建国されたデンマーク王国(8世紀頃に...
マルグレーテは、デンマーク王の王女として生まれ、後にノ...
アジア系のフィン人(現在のフィンランド人の祖)は、70...
6.
16.西ヨーロッパの中世文化
6 西ヨーロッパ中世の文化
1 学問と大学
西ヨーロッパの中世文化の特色はキリスト教文化という言葉...
中世の学問の担い手は、中世ヨーロッパの共通語であるラテ...
最高の学問は神学であった。「哲学は神学の婢(はしため、...
神学は、初めのうちはアウグスティヌスなどの教父の著述を...
イタリア生まれで、のちにカンタベリ大司教となったアンセ...
この実在論と唯名論の対立は、普遍闘争と呼ばれ、ヨーロッ...
トマス=アクィナス(1225頃~74)は、イタリアの神...
しかし、教皇権の衰退とともに、中世末にはウィリアム=オ...
中世ヨーロッパでは、キリスト教の教義やカトリック教会の...
自然科学は上記の理由で発達しなかったが、中世最大の自然...
12世紀ルネサンスといわれるように、12世紀の西ヨーロ...
イスラム文化は、主にトレドを中心とするスペインやシチリ...
西ヨーロッパではイスラム文化やビザンツ文化の影響を受け...
ヨーロッパの大学の多くは12世紀以前から各地にあった教...
有名なパリ大学は、12世紀中頃ノートルダム大聖堂付属の...
ヨーロッパ最古の大学は、ナポリの南にあったサレルノ大学...
サレルノ大学と並んで古い大学が北イタリアのボローニャ大...
ボローニャ大学は学生の大学であった。学生達は相互扶助を...
後には学生達は教授に対しても講義ボイコットなどの手段で...
イギリスのオックスフォード大学は、12世紀後半にパリを...
ケンブリッジ大学は、13世紀の初めにオックスフォード大...
上記の大学に続いて、13~15世紀にかけてヨーロッパ各...
中世ヨーロッパの完全な大学は、神学・法学・医学の3学部...
2 美術と文学
中世の美術は、教会建築とそれに付随する絵画・彫刻を中心...
教会建築は、はじめセント=ソフィア大聖堂に代表されるビ...
12世紀末から、教会の権威の増大と新興市民階級の経済力...
ゴシック式の普及は教会の大規模化を促し、聖堂の多くは天...
中世の文学を代表するのは騎士道物語である。騎士道物語は...
「ローランの歌」は、カール大帝の対イスラム戦に従軍した...
「アーサー王物語」は、イギリスの先住民であるブリトン人...
「ニーベルンゲンの歌」は、ジークフリートの妻クリームヒ...
また12世紀以後、南フランスの吟遊詩人(トゥルバドゥー...
第8章 東西文化の交流(省略)
ページ名: