天皇号の成立と聖徳太子、推古天皇
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天皇号の成立と大王(オオキミ)、聖徳「太子」への疑問(聖...
...
1、天皇号の由来
2、天皇号の成立(推古朝説と天武朝説)
3、天武朝説に欠けた視点
4、天武朝説を否定する資料(船氏王後首の墓誌)
5、推古天皇と大王(おおきみ)のズレ
6、結論
7、補足
8、問題点の整理
9、参考資料(日本書紀、法隆寺金堂薬師如来像光背銘文、法...
1、天皇号の由来
埼玉・稲荷山古墳や熊本・江田船山古墳出土の太刀銘は、雄...
《*注/大王は万葉仮名では於保吉美(オホキミ)と表記され...
やがて、中国文化の受容が進み「天皇」という称号が採用さ...
洞冥記は漢の武帝が主人公である。この人は越方などの神仙...
漢書地理志・燕地に、「楽浪海中に倭人有り、分かれて百余...
天皇、地皇、人皇の三氏がセットになっていて、唐、司馬貞...
日本神話と比べてみると、天皇氏は古事記の天御中主神から...
北極星を神格化した道教の「天皇大帝」が天皇号の由来だと...
2、天皇号の成立年代(推古朝説と天武朝説)
日本の天皇号の成立年代については様々な説があるが、戦前...
推古朝説は元興寺伽藍縁起并流紀資財帳の記す丈六仏光背銘...
3、天武朝説に欠けた視点
しかし、高宗は白村江の戦い(663)などで日本を圧迫した帝...
天智天皇八年(669)に、「この年…大唐は郭務悰等二千余人...
天武紀には、新羅、高麗、耽羅との交流は盛んに記されてい...
天武天皇は四年(675)に高安城を視察したり、諸王以下、初...
高宗が崩じ、則天武后の世になっていることが伝わったのか...
天武朝説はこういう時代背景を見落としている。恐るべき、...
他にも通説化している天武朝説を否定する資料、否定されつ...
4、天武朝説を否定する資料(船氏王後首の墓誌)
船氏王後首の墓誌銘に天皇という表記が含まれ、以前から否...
「惟舩氏故王後首者是舩氏中租王智仁首児那沛故首之子也生於...
【これ船氏の故、王後首は船氏の中祖、王智仁首の子の那沛故...
墓誌だから、墓の主の名と、誕生、就職、死亡という経歴、...
王後首と安理故の刀自の共同墓が作られた戊辰年に該当する...
後代に編纂され、転写により受け継がれてきた史書の類より...
次の戊辰年は六十年後の神亀五年で、天皇は、天武、持統、...
以上のような理由から、戊辰年は天智天皇七年(668)と解す...
王後首墓誌関連リンク「弥生の興亡3,帰化人の真実2、文氏...
5、推古天皇と大王のズレ
推古二十年(612)正月七日に、宮中で大宴会が行われ、大臣...
「やすみしし、我が大王(古音「おほきみ」)の、隠ります、...
岩波古典文学大系などは、「我が大君の入られる広大な御殿...
「天の八十陰」や「御空」を「りっぱな御殿」と意訳できる...
したがって、歌は、「(太陽である)我が大王がお隠れにな...
推古天皇がこれにこたえて言った。「曰く」としか書いてい...
「真蘇我よ、蘇我の子らは、馬ならば、日向の駒、太刀ならば...
【蘇我の首長よ、蘇我の子らは、馬にたとえれば、すぐれた日...
という意味になる。人により言葉は違うが、内容的にはこう...
原文をみれば、「天皇和曰」になっている。「こたえてのた...
天皇は蘇我馬子の歌に返答したのではなく、唱和したのであ...
この歌は、日本書紀、推古元年の「厩戸豊聡耳皇子を立てて...
政治には関与しないが、国家主権者としての推古天皇を遇す...
隋書俀国伝に次の記述がある(俀となっているが、後漢書の...
「開皇二十年(600)、俀王、姓阿毎、字多利思北孤、號阿輩...
【開皇二十年(=推古八年)、倭王、姓アバ。字タリシホコ。...
聖徳太子が大王だったなら、この妻を持つ倭王は聖徳太子と...
この遣使は日本書紀には記されていないが、次の、隋、煬帝...
紀では607(推古十五年)、608(推古十六年)、614(推古二...
隋書俀国伝では大業四年(608)に裴世清を倭国に派遣し、その...
「恙無きや」の理由が説明できるし、文帝が使者とやりとり...
裴世清は608年に渡来し、俀国伝には帰国年が記されていない...
原文を訳すと、「その王は清と相まみえて大いに喜んで言っ...
館に就き、煬帝の命令(朝命)を宣論して完遂したその後ま...
日本書紀は、隋書を読み、かなり改変して利用しているよう...
裴世清に関しても、紀では、608年の八月に渡来し、九月に帰...
伊与国風土記逸文もまた聖徳太子が大王であることを示唆す...
蘇我馬子が大王にあらためて永遠の忠誠を強調したというこ...
6、結論
以上から、推古朝初期、おそらく元年に、聖徳太子が大王に...
最初の天皇は推古天皇なのである。聖徳太子死後は大王も兼...
7、補足
推古天皇が天皇であり、聖徳太子は大王だったことが明らか...
法隆寺金堂釈迦三尊光背銘には上宮法皇とあり、道後温泉碑...
天寿国繍帳には聖徳太子に関して太子、大王の二つの表記が...
元興寺丈六仏光背銘は止與彌擧哥斯岐移比彌天皇(とよみけ...
仏像を作り終えたのが推古十七年(609)で、銘文は同時期か...
最後に、最も重要な日本書紀に「大王」を「太子」と記す誤...
推古天皇の歌を根拠に、太子を否定することで、他の同時代...
日本書紀は、国の始りから天皇位が存在し、別称がオオキミ...
8、問題点の整理
●聖徳太子が大王であることを示す資料
1、日本書紀、推古二十年の蘇我馬子と推古天皇の歌(これ...
2、隋書俀国伝、遣隋使を派遣した妻を持つ「阿輩雞彌(大...
3、伊与国風土記逸文の記す道後温泉碑文、「法王大王」。
4、元興寺伽藍縁起并流紀資財帳の記す元興寺丈六仏光背銘...
●天皇号の天武朝(672~686)高宗模倣説を否定する資料
1、天智紀、天武紀にみる、天皇を称した(674)唐、高宗と...
2、船氏王後首の墓誌銘=天智朝における天皇号の存在(668)
3、元興寺伽藍縁起并流紀資財帳の記す元興寺塔露盤銘=孝徳...
(651、孝徳天皇が露盤銘を与える)
4、元興寺伽藍縁起并流紀資財帳の記す元興寺丈六仏光背銘
推古十七年(609)に完成、銘文がこの時すでに入れられて...
「止與彌擧哥斯岐移比彌天皇」、「等與刀禰ゝ大王」と記...
伝えている。
●天皇号の推古朝成立説を支持する資料
1、聖徳太子が大王だったなら、その上位と考えられる推古...
問題。
2、法隆寺薬師像光背銘や元興寺伽藍縁起并流紀資財帳は、...
不必要な重複に見えるが、その理由を説明できる。
(=元々、大王と天皇は別で、聖徳太子の死後、推古天皇...
3、元興寺伽藍縁起并流紀資財帳の記す元興寺丈六仏光背銘...
(推古十七年完成)
参考資料
隋書俀国(倭国)伝
【推古紀二十年】
廿年春正月辛巳朔丁亥 置酒宴群卿 是日 大臣上壽歌曰 夜...
「二十年(612)春、正月七日。酒を置いて群卿と宴をした。こ...
天皇は和して言われた。『真蘇我よ 蘇我の子らは 馬なら...
推古天皇は「大王の使わすらしき」と歌う。自分自身が使う...
【法隆寺金堂薬師如来像光背銘文】
池邊大宮治天下天皇 大御身勞賜時 歳次丙午年 召於大王天...
「池辺の大宮で天下をお治めになった天皇(用明天皇)が、お...
聖徳太子が実際に東宮(太子)だったとすれば、可能性があ...
【法隆寺金堂釈迦仏光背銘文】
法興元世一年歳次辛巳十二月 鬼前大后崩 明年正月廿二日上...
「法興元世一年、木星が辛巳にやどる(621)十二月、鬼前王后...
年号は法興元丗一年と書いてある。法興元三十一年と読む人...
斑鳩町に幸前(こうぜん)という地名があり、神前という文...
銘文の内容は、亡くなった三人の成仏を願うと同時に、自分...
【天寿国繍帳(上宮聖徳法皇帝説)】
斯歸斯麻宮治天下天皇 名阿米久爾意斯波留支比里爾波乃彌己...
「磯城島宮で天下をお治めになった天皇(欽明天皇)、名はア...
聖徳太子をしのぶ、太子の妻、タチバナオオイラツメをなぐ...
その父の尾張王、尾張大王という二つの表記が気になる。一...
【伊予国風土記逸文(釈日本紀巻十四)、道後温泉碑】
……以上宮聖徳皇為一度 及侍高麗恵総僧葛城臣等也 于時立湯...
「……上宮聖徳(法)皇を以て一度とする。お供したのは高麗の...
『法興六年十月、木星は丙辰にある(596、推古四年)。我が法...
(※1)恵総は百済僧。高麗僧の名は恵慈である。
(※2)後漢の向長は字子平、隠者で「五嶽名山に遊び、ついに...
(※3)人名らしいが不明 温泉にたいそう感動されたという...
恵総は百済僧。国名を間違っているが、碑文そのものには恵...
碑文は聖徳太子のことを「法王大王」と記していて、推古四...
【元興寺伽藍縁起並流記資材帳 塔露盤銘(寧楽遺文)】
難波天皇之世辛亥正月五日授塔露盤銘 大和國天皇 斯歸斯麻宮...
「孝徳天皇の世、辛亥(651)正月五日、塔の露盤銘を授けた。
大和国の天皇、磯城島宮で天下を治められた名はアマクニオ...
現存しない。露盤とは塔の屋根の頂部に置く方形の台。上に...
寺を作り始めた戊辰年(588)は崇峻天皇元年。作り終わった...
【元興寺伽藍縁起並流記資材帳 丈六光銘(寧楽遺文)】
丈六光銘曰 天皇名廣庭 在斯歸斯麻宮時 百濟明王上啓 臣...
「丈六仏の後背銘に曰く。
(欽明)天皇、名は広庭。磯城島宮におられた時、百済の(聖...
現存しない。元興寺伽藍縁起並流記資材帳の文章として残っ...
崇峻天皇元年(588)建通寺、建築開始
四年(591)建通寺から法興寺に改名。年号...
五年(592)法興寺の仏堂と歩廊を建てる。
推古天皇四年(596)十月、法王大王、伊予の温泉で...
十一月、法興寺落成、蘇我馬子...
(馬子の長子、善德...
十三年(605)釈迦の丈六像を作る。高句麗の...
十四年(604)丈六像を作り終えて、元興寺の...
(一年で仏像を作り...
十七年(609)丈六像完成。元興寺(法興寺)...
(推古天皇時代に元...
二十八年(620)(法興三十年)
二十九年(621)鬼前大后、死去(法興元世一年)
三十年(622)上宮法皇、死去
( ?)天寿国繍帳作製
三十一年(623)法隆寺金堂釈迦像を作る(上宮...
:
孝徳天皇、白雉二年(651)塔露盤銘を授けた。
:
元正天皇、養老二年(718)平城京に移転し元興寺となる。
養老四年(720)日本書紀完成
丈六光銘は寺に据えられた609年以降の作製ということになる...
終了行:
天皇号の成立と大王(オオキミ)、聖徳「太子」への疑問(聖...
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1、天皇号の由来
2、天皇号の成立(推古朝説と天武朝説)
3、天武朝説に欠けた視点
4、天武朝説を否定する資料(船氏王後首の墓誌)
5、推古天皇と大王(おおきみ)のズレ
6、結論
7、補足
8、問題点の整理
9、参考資料(日本書紀、法隆寺金堂薬師如来像光背銘文、法...
1、天皇号の由来
埼玉・稲荷山古墳や熊本・江田船山古墳出土の太刀銘は、雄...
《*注/大王は万葉仮名では於保吉美(オホキミ)と表記され...
やがて、中国文化の受容が進み「天皇」という称号が採用さ...
洞冥記は漢の武帝が主人公である。この人は越方などの神仙...
漢書地理志・燕地に、「楽浪海中に倭人有り、分かれて百余...
天皇、地皇、人皇の三氏がセットになっていて、唐、司馬貞...
日本神話と比べてみると、天皇氏は古事記の天御中主神から...
北極星を神格化した道教の「天皇大帝」が天皇号の由来だと...
2、天皇号の成立年代(推古朝説と天武朝説)
日本の天皇号の成立年代については様々な説があるが、戦前...
推古朝説は元興寺伽藍縁起并流紀資財帳の記す丈六仏光背銘...
3、天武朝説に欠けた視点
しかし、高宗は白村江の戦い(663)などで日本を圧迫した帝...
天智天皇八年(669)に、「この年…大唐は郭務悰等二千余人...
天武紀には、新羅、高麗、耽羅との交流は盛んに記されてい...
天武天皇は四年(675)に高安城を視察したり、諸王以下、初...
高宗が崩じ、則天武后の世になっていることが伝わったのか...
天武朝説はこういう時代背景を見落としている。恐るべき、...
他にも通説化している天武朝説を否定する資料、否定されつ...
4、天武朝説を否定する資料(船氏王後首の墓誌)
船氏王後首の墓誌銘に天皇という表記が含まれ、以前から否...
「惟舩氏故王後首者是舩氏中租王智仁首児那沛故首之子也生於...
【これ船氏の故、王後首は船氏の中祖、王智仁首の子の那沛故...
墓誌だから、墓の主の名と、誕生、就職、死亡という経歴、...
王後首と安理故の刀自の共同墓が作られた戊辰年に該当する...
後代に編纂され、転写により受け継がれてきた史書の類より...
次の戊辰年は六十年後の神亀五年で、天皇は、天武、持統、...
以上のような理由から、戊辰年は天智天皇七年(668)と解す...
王後首墓誌関連リンク「弥生の興亡3,帰化人の真実2、文氏...
5、推古天皇と大王のズレ
推古二十年(612)正月七日に、宮中で大宴会が行われ、大臣...
「やすみしし、我が大王(古音「おほきみ」)の、隠ります、...
岩波古典文学大系などは、「我が大君の入られる広大な御殿...
「天の八十陰」や「御空」を「りっぱな御殿」と意訳できる...
したがって、歌は、「(太陽である)我が大王がお隠れにな...
推古天皇がこれにこたえて言った。「曰く」としか書いてい...
「真蘇我よ、蘇我の子らは、馬ならば、日向の駒、太刀ならば...
【蘇我の首長よ、蘇我の子らは、馬にたとえれば、すぐれた日...
という意味になる。人により言葉は違うが、内容的にはこう...
原文をみれば、「天皇和曰」になっている。「こたえてのた...
天皇は蘇我馬子の歌に返答したのではなく、唱和したのであ...
この歌は、日本書紀、推古元年の「厩戸豊聡耳皇子を立てて...
政治には関与しないが、国家主権者としての推古天皇を遇す...
隋書俀国伝に次の記述がある(俀となっているが、後漢書の...
「開皇二十年(600)、俀王、姓阿毎、字多利思北孤、號阿輩...
【開皇二十年(=推古八年)、倭王、姓アバ。字タリシホコ。...
聖徳太子が大王だったなら、この妻を持つ倭王は聖徳太子と...
この遣使は日本書紀には記されていないが、次の、隋、煬帝...
紀では607(推古十五年)、608(推古十六年)、614(推古二...
隋書俀国伝では大業四年(608)に裴世清を倭国に派遣し、その...
「恙無きや」の理由が説明できるし、文帝が使者とやりとり...
裴世清は608年に渡来し、俀国伝には帰国年が記されていない...
原文を訳すと、「その王は清と相まみえて大いに喜んで言っ...
館に就き、煬帝の命令(朝命)を宣論して完遂したその後ま...
日本書紀は、隋書を読み、かなり改変して利用しているよう...
裴世清に関しても、紀では、608年の八月に渡来し、九月に帰...
伊与国風土記逸文もまた聖徳太子が大王であることを示唆す...
蘇我馬子が大王にあらためて永遠の忠誠を強調したというこ...
6、結論
以上から、推古朝初期、おそらく元年に、聖徳太子が大王に...
最初の天皇は推古天皇なのである。聖徳太子死後は大王も兼...
7、補足
推古天皇が天皇であり、聖徳太子は大王だったことが明らか...
法隆寺金堂釈迦三尊光背銘には上宮法皇とあり、道後温泉碑...
天寿国繍帳には聖徳太子に関して太子、大王の二つの表記が...
元興寺丈六仏光背銘は止與彌擧哥斯岐移比彌天皇(とよみけ...
仏像を作り終えたのが推古十七年(609)で、銘文は同時期か...
最後に、最も重要な日本書紀に「大王」を「太子」と記す誤...
推古天皇の歌を根拠に、太子を否定することで、他の同時代...
日本書紀は、国の始りから天皇位が存在し、別称がオオキミ...
8、問題点の整理
●聖徳太子が大王であることを示す資料
1、日本書紀、推古二十年の蘇我馬子と推古天皇の歌(これ...
2、隋書俀国伝、遣隋使を派遣した妻を持つ「阿輩雞彌(大...
3、伊与国風土記逸文の記す道後温泉碑文、「法王大王」。
4、元興寺伽藍縁起并流紀資財帳の記す元興寺丈六仏光背銘...
●天皇号の天武朝(672~686)高宗模倣説を否定する資料
1、天智紀、天武紀にみる、天皇を称した(674)唐、高宗と...
2、船氏王後首の墓誌銘=天智朝における天皇号の存在(668)
3、元興寺伽藍縁起并流紀資財帳の記す元興寺塔露盤銘=孝徳...
(651、孝徳天皇が露盤銘を与える)
4、元興寺伽藍縁起并流紀資財帳の記す元興寺丈六仏光背銘
推古十七年(609)に完成、銘文がこの時すでに入れられて...
「止與彌擧哥斯岐移比彌天皇」、「等與刀禰ゝ大王」と記...
伝えている。
●天皇号の推古朝成立説を支持する資料
1、聖徳太子が大王だったなら、その上位と考えられる推古...
問題。
2、法隆寺薬師像光背銘や元興寺伽藍縁起并流紀資財帳は、...
不必要な重複に見えるが、その理由を説明できる。
(=元々、大王と天皇は別で、聖徳太子の死後、推古天皇...
3、元興寺伽藍縁起并流紀資財帳の記す元興寺丈六仏光背銘...
(推古十七年完成)
参考資料
隋書俀国(倭国)伝
【推古紀二十年】
廿年春正月辛巳朔丁亥 置酒宴群卿 是日 大臣上壽歌曰 夜...
「二十年(612)春、正月七日。酒を置いて群卿と宴をした。こ...
天皇は和して言われた。『真蘇我よ 蘇我の子らは 馬なら...
推古天皇は「大王の使わすらしき」と歌う。自分自身が使う...
【法隆寺金堂薬師如来像光背銘文】
池邊大宮治天下天皇 大御身勞賜時 歳次丙午年 召於大王天...
「池辺の大宮で天下をお治めになった天皇(用明天皇)が、お...
聖徳太子が実際に東宮(太子)だったとすれば、可能性があ...
【法隆寺金堂釈迦仏光背銘文】
法興元世一年歳次辛巳十二月 鬼前大后崩 明年正月廿二日上...
「法興元世一年、木星が辛巳にやどる(621)十二月、鬼前王后...
年号は法興元丗一年と書いてある。法興元三十一年と読む人...
斑鳩町に幸前(こうぜん)という地名があり、神前という文...
銘文の内容は、亡くなった三人の成仏を願うと同時に、自分...
【天寿国繍帳(上宮聖徳法皇帝説)】
斯歸斯麻宮治天下天皇 名阿米久爾意斯波留支比里爾波乃彌己...
「磯城島宮で天下をお治めになった天皇(欽明天皇)、名はア...
聖徳太子をしのぶ、太子の妻、タチバナオオイラツメをなぐ...
その父の尾張王、尾張大王という二つの表記が気になる。一...
【伊予国風土記逸文(釈日本紀巻十四)、道後温泉碑】
……以上宮聖徳皇為一度 及侍高麗恵総僧葛城臣等也 于時立湯...
「……上宮聖徳(法)皇を以て一度とする。お供したのは高麗の...
『法興六年十月、木星は丙辰にある(596、推古四年)。我が法...
(※1)恵総は百済僧。高麗僧の名は恵慈である。
(※2)後漢の向長は字子平、隠者で「五嶽名山に遊び、ついに...
(※3)人名らしいが不明 温泉にたいそう感動されたという...
恵総は百済僧。国名を間違っているが、碑文そのものには恵...
碑文は聖徳太子のことを「法王大王」と記していて、推古四...
【元興寺伽藍縁起並流記資材帳 塔露盤銘(寧楽遺文)】
難波天皇之世辛亥正月五日授塔露盤銘 大和國天皇 斯歸斯麻宮...
「孝徳天皇の世、辛亥(651)正月五日、塔の露盤銘を授けた。
大和国の天皇、磯城島宮で天下を治められた名はアマクニオ...
現存しない。露盤とは塔の屋根の頂部に置く方形の台。上に...
寺を作り始めた戊辰年(588)は崇峻天皇元年。作り終わった...
【元興寺伽藍縁起並流記資材帳 丈六光銘(寧楽遺文)】
丈六光銘曰 天皇名廣庭 在斯歸斯麻宮時 百濟明王上啓 臣...
「丈六仏の後背銘に曰く。
(欽明)天皇、名は広庭。磯城島宮におられた時、百済の(聖...
現存しない。元興寺伽藍縁起並流記資材帳の文章として残っ...
崇峻天皇元年(588)建通寺、建築開始
四年(591)建通寺から法興寺に改名。年号...
五年(592)法興寺の仏堂と歩廊を建てる。
推古天皇四年(596)十月、法王大王、伊予の温泉で...
十一月、法興寺落成、蘇我馬子...
(馬子の長子、善德...
十三年(605)釈迦の丈六像を作る。高句麗の...
十四年(604)丈六像を作り終えて、元興寺の...
(一年で仏像を作り...
十七年(609)丈六像完成。元興寺(法興寺)...
(推古天皇時代に元...
二十八年(620)(法興三十年)
二十九年(621)鬼前大后、死去(法興元世一年)
三十年(622)上宮法皇、死去
( ?)天寿国繍帳作製
三十一年(623)法隆寺金堂釈迦像を作る(上宮...
:
孝徳天皇、白雉二年(651)塔露盤銘を授けた。
:
元正天皇、養老二年(718)平城京に移転し元興寺となる。
養老四年(720)日本書紀完成
丈六光銘は寺に据えられた609年以降の作製ということになる...
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