夫余伝
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夫余伝
tokyoblog 2014/07/18 No Comments
秦の始皇帝の大帝国が出現した紀元前3世紀、中国遼寧省から...
霊帝の熹平3年(174年)、夫余は再び冊封国として貢ぎ物を献...
夫余はもともと玄菟郡に属していたが、献帝(在位:189年 – 2...
正始年間(240年 – 249年)、幽州刺史の毋丘倹は高句麗を討伐...
『三国志』及び『晋書』に夫余の中枢とみられる濊城の記載が...
285年、前燕の慕容廆に侵攻された扶余は、国王の依慮が海に投...
『桓壇古記』 偽書1911年印刷
「正州の依羅国は都する所を鮮卑慕容廆の為に敗られる所とな...
『桓檀古記』大震国本紀
鮮卑慕容廆に伐たれてその子の「扶羅、または依羅」が「数千...
桓檀古記は、朝鮮半島の偽書。超古代からの朝鮮半島の歴史を...
武帝(在位:265年 – 290年)の時代、夫余国は頻繁に西晋へ朝...
『晋書』馬韓伝
太康元年(280年)と二年(281年)、その君主は頻繁に遣使を...
太熙元年(290年)、東夷校尉の何龕に詣でて献上した。
これが中国史籍での馬韓に関する最後の記述で、この後は百...
そして、東夷校尉の何龕に献上したとの記述があるが、扶余...
『通典』百済条
晋の時代(265年-316年)、高句麗は遼東地方を占領し、百済...
東晋時代
東晋の永和2年(346年)正月、夫余王の玄は前燕の慕容皝に襲...
滅亡
東夫余
『広開土王碑』には、410年に高句麗の広開土王が東夫余を討伐...
北夫余
夫余国は北魏の時代まで存在し、太和18年(494年)に勿吉に滅...
夫余の生業は主に農業であり遺跡では早い時代の層からも大量...
また牲の牛を多く養い、名馬と赤玉,貂,狖,美珠を産出し、...
『渤海国・国書』
「渤海の前身である高句麗の旧領土を回復し、扶余の伝統を継...
神亀四年(727年)、平城京に渤海国の使節が訪れ、大武芸王の...
『三国志魏書』
夫餘在長城之北、去玄菟千里、南與高句麗、東與挹婁、西與...
扶余は長城の北に在り、玄菟郡からは千里、南に高句麗、東...
國有君王、皆以六畜名官、有馬加、牛加、豬加、狗加、大使...
国には君王がいる。いずれも六畜(ろくちく)の名を官名に...
食飲皆用俎豆、會同、拜爵、洗爵、揖讓升降。以殷正月祭天...
飲食には俎豆(お膳)を用い、一同に会して拜爵(献杯)、洗...
譯人傳辭、皆跪、手據地竊語。用刑嚴急、殺人者死、沒其家...
訳人(通訳?)が辞を伝えるときは、皆が跪(ひざまづ)き...
其國善養牲、出名馬、赤玉、貂狖、美珠。珠大者如酸棗。以...
その国は家畜を上手に飼育し、名馬、赤い宝玉、テンや猿の...
注記① 魏略曰:其俗停喪五月、以久為榮。其祭亡者、有生有...
魏略には、そこの風俗は、服喪の停止は五カ月とし、その期...
夫餘本屬玄菟。漢末、公孫度雄張海東、威服外夷、夫餘王尉...
扶余は昔、玄菟郡に帰属していた。漢末、公孫度が海東に勇...
尉仇台が死に簡位居が立った。彼には適子がなく、庶子の麻...
正始中、幽州刺史母丘儉討句麗、遣玄菟太守王頎詣夫餘、位...
正始年間(240-249年)、幽州刺史の母丘儉が高句麗を討つ...
古い扶余の風俗では水害旱魃や不作は祭祀を司る国王の責任...
麻余死、其子依慮年六歳、立以為王。漢時、夫餘王葬用玉匣...
麻余が死に、その子の依慮(イロ)が六歳で王に立った。漢...
① 魏略曰:其國殷富、自先世以來、未嘗破壞。
② 魏略曰:舊志又言、昔北方有高離之國者、其王者侍婢有身...
『後漢書』
建武中、東夷諸國皆來獻見。二十五年、夫餘王遣使奉貢、光...
建武年間(25年-57年)、東夷諸国は皆、来朝し貢献した。
建武二十五年(49年)、扶余王が遣使をたてて朝貢してきた...
安帝の永初五年(111年)、扶余王が初めて歩兵と騎兵七、八...
永寧元年(120年)、太子の尉仇台(いきゅうだい)を派遣し...
順帝永和元年、其王來朝京師、帝作黄門鼓吹、角抵戲以遣之...
順帝の永和元年(136年)、その王が京師に来朝、帝は黄門に...
桓帝の延熹四年(161年)、扶余王、遣使を以て貢献に来朝す...
永康元年(167年)、王の夫台が二万余の軍勢で玄菟を侵略。...
霊帝の熹平三年(174年)、再び奉じて貢献をする。扶余は昔...
『晋書』
夫餘國在玄菟北千餘里、南接鮮卑、北有弱水、地方二千里、...
扶余国は玄菟の北に千余里、南に鮮卑に接し、北に弱水があ...
その国人は強勇、一同に会するときの振舞いの礼儀は中国に...
若し軍事があれば、牛を殺して天を祭り、その蹄(ひづめ)...
出善い馬を産出、貂豹(テン、ヒョウ)の毛皮、美しい真珠...
武帝時、頻來朝貢、至太康六年、為慕容廆所襲破、其王依慮...
武帝の時代、頻繁に朝貢に訪れたが、太康六年(285年)、慕...
皇帝は詔を発して「扶余王は代々忠孝を守り、悪賊によって...
翌年、扶余王を継いだ依羅(イリ)は遣使を龕に派遣し、復...
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夫余伝
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秦の始皇帝の大帝国が出現した紀元前3世紀、中国遼寧省から...
霊帝の熹平3年(174年)、夫余は再び冊封国として貢ぎ物を献...
夫余はもともと玄菟郡に属していたが、献帝(在位:189年 – 2...
正始年間(240年 – 249年)、幽州刺史の毋丘倹は高句麗を討伐...
『三国志』及び『晋書』に夫余の中枢とみられる濊城の記載が...
285年、前燕の慕容廆に侵攻された扶余は、国王の依慮が海に投...
『桓壇古記』 偽書1911年印刷
「正州の依羅国は都する所を鮮卑慕容廆の為に敗られる所とな...
『桓檀古記』大震国本紀
鮮卑慕容廆に伐たれてその子の「扶羅、または依羅」が「数千...
桓檀古記は、朝鮮半島の偽書。超古代からの朝鮮半島の歴史を...
武帝(在位:265年 – 290年)の時代、夫余国は頻繁に西晋へ朝...
『晋書』馬韓伝
太康元年(280年)と二年(281年)、その君主は頻繁に遣使を...
太熙元年(290年)、東夷校尉の何龕に詣でて献上した。
これが中国史籍での馬韓に関する最後の記述で、この後は百...
そして、東夷校尉の何龕に献上したとの記述があるが、扶余...
『通典』百済条
晋の時代(265年-316年)、高句麗は遼東地方を占領し、百済...
東晋時代
東晋の永和2年(346年)正月、夫余王の玄は前燕の慕容皝に襲...
滅亡
東夫余
『広開土王碑』には、410年に高句麗の広開土王が東夫余を討伐...
北夫余
夫余国は北魏の時代まで存在し、太和18年(494年)に勿吉に滅...
夫余の生業は主に農業であり遺跡では早い時代の層からも大量...
また牲の牛を多く養い、名馬と赤玉,貂,狖,美珠を産出し、...
『渤海国・国書』
「渤海の前身である高句麗の旧領土を回復し、扶余の伝統を継...
神亀四年(727年)、平城京に渤海国の使節が訪れ、大武芸王の...
『三国志魏書』
夫餘在長城之北、去玄菟千里、南與高句麗、東與挹婁、西與...
扶余は長城の北に在り、玄菟郡からは千里、南に高句麗、東...
國有君王、皆以六畜名官、有馬加、牛加、豬加、狗加、大使...
国には君王がいる。いずれも六畜(ろくちく)の名を官名に...
食飲皆用俎豆、會同、拜爵、洗爵、揖讓升降。以殷正月祭天...
飲食には俎豆(お膳)を用い、一同に会して拜爵(献杯)、洗...
譯人傳辭、皆跪、手據地竊語。用刑嚴急、殺人者死、沒其家...
訳人(通訳?)が辞を伝えるときは、皆が跪(ひざまづ)き...
其國善養牲、出名馬、赤玉、貂狖、美珠。珠大者如酸棗。以...
その国は家畜を上手に飼育し、名馬、赤い宝玉、テンや猿の...
注記① 魏略曰:其俗停喪五月、以久為榮。其祭亡者、有生有...
魏略には、そこの風俗は、服喪の停止は五カ月とし、その期...
夫餘本屬玄菟。漢末、公孫度雄張海東、威服外夷、夫餘王尉...
扶余は昔、玄菟郡に帰属していた。漢末、公孫度が海東に勇...
尉仇台が死に簡位居が立った。彼には適子がなく、庶子の麻...
正始中、幽州刺史母丘儉討句麗、遣玄菟太守王頎詣夫餘、位...
正始年間(240-249年)、幽州刺史の母丘儉が高句麗を討つ...
古い扶余の風俗では水害旱魃や不作は祭祀を司る国王の責任...
麻余死、其子依慮年六歳、立以為王。漢時、夫餘王葬用玉匣...
麻余が死に、その子の依慮(イロ)が六歳で王に立った。漢...
① 魏略曰:其國殷富、自先世以來、未嘗破壞。
② 魏略曰:舊志又言、昔北方有高離之國者、其王者侍婢有身...
『後漢書』
建武中、東夷諸國皆來獻見。二十五年、夫餘王遣使奉貢、光...
建武年間(25年-57年)、東夷諸国は皆、来朝し貢献した。
建武二十五年(49年)、扶余王が遣使をたてて朝貢してきた...
安帝の永初五年(111年)、扶余王が初めて歩兵と騎兵七、八...
永寧元年(120年)、太子の尉仇台(いきゅうだい)を派遣し...
順帝永和元年、其王來朝京師、帝作黄門鼓吹、角抵戲以遣之...
順帝の永和元年(136年)、その王が京師に来朝、帝は黄門に...
桓帝の延熹四年(161年)、扶余王、遣使を以て貢献に来朝す...
永康元年(167年)、王の夫台が二万余の軍勢で玄菟を侵略。...
霊帝の熹平三年(174年)、再び奉じて貢献をする。扶余は昔...
『晋書』
夫餘國在玄菟北千餘里、南接鮮卑、北有弱水、地方二千里、...
扶余国は玄菟の北に千余里、南に鮮卑に接し、北に弱水があ...
その国人は強勇、一同に会するときの振舞いの礼儀は中国に...
若し軍事があれば、牛を殺して天を祭り、その蹄(ひづめ)...
出善い馬を産出、貂豹(テン、ヒョウ)の毛皮、美しい真珠...
武帝時、頻來朝貢、至太康六年、為慕容廆所襲破、其王依慮...
武帝の時代、頻繁に朝貢に訪れたが、太康六年(285年)、慕...
皇帝は詔を発して「扶余王は代々忠孝を守り、悪賊によって...
翌年、扶余王を継いだ依羅(イリ)は遣使を龕に派遣し、復...
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