扶余
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扶余
朝鮮の三国時代、百済の都。本来は中国東北地方にいたツング...
プヨ。夫余、扶餘とも表記。百済の最後の都。百済の都は初め...
民族名としての扶余
なお、民族名、国名としての扶余(扶餘)は高句麗と同じく...
Episode 百済滅亡の時の悲劇
扶余の町の西北、泗沘城跡があり、その端は絶壁になってい...
----
扶余(ふよ)
吉林省長春市周辺からアムール河までを居住域とした%%%ツン...
扶余には、故地にいた『北扶余』、三世紀末に慕容?に撃破さ...
北扶余とは黒龍江省の辺り、もしくは吉林省の農安から長春...
東扶余とは、246年に幽州刺史の母丘倹に攻撃された高句麗王...
『史記』貨殖列傳
夫燕亦勃、碣之閒一都會也。南通齊、趙、東北邊胡。上谷至...
燕は勃海と碣石の間に在り、南に斉、趙、東北の辺境には胡...
上記が扶余を記した中国の正史での最古の記載だとされる。
烏桓は紀元前206年頃、匈奴によって滅ぼされた東胡の後裔。...
穢貊部族連合の君長を出す主要部族にしては史籍での登場が...
三国志魏書と晋書が東夷伝で扶余国を記載しているので、記...
『三国志魏書』扶余国伝
夫餘在長城之北、去玄菟千里、南與高句麗、東與?婁、西與鮮...
扶余は長城の北に在り、玄菟郡からは千里、南に高句麗、東...
『漫談匈奴』(http://www.taiwankiss.com/board5/data/25465...
夫餘。古族名。國名、又稱扶餘、鳧餘、為貉族之國、本地也...
扶余。古族名。国名も扶余や鳧餘と称し、貉族の国をこの地...
上記は?婁としているが粛慎の間違いである。東に粛慎、西に...
國有君王、皆以六畜名官、有馬加、牛加、豬加、狗加、大使...
国には君王がいる。いずれも六畜(ろくちく)の名を官名に...
六畜(馬、牛、豚、犬(狗)、羊、鶏)とあることから、上...
食飲皆用俎豆、會同、拜爵、洗爵、揖讓升降。以殷正月祭天...
飲食には俎豆(お膳)を用い、一同に会して拜爵(献杯)、洗...
俎豆(そうず)は、昔は祭祀用の供物台のこと、現在は俎板...
殷暦の正月とは周暦の二月で、現在の十二月に相当する。
文中の?(ヨウ)とは尾長猿の一種だが、手足が黒く、?白の...
譯人傳辭、皆跪、手據地竊語。用刑嚴急、殺人者死、沒其家...
訳人(通訳?)が辞を伝えるときは、皆が跪(ひざまづ)き...
兄死妻嫂。これが匈奴と同じ風俗とあるが、『梁書』高句麗...
『三国志魏書』高句麗伝に、高句麗の城について「胡猶名此城...
其國善養牲、出名馬、赤玉、貂?、美珠。珠大者如酸棗。以弓...
その国は家畜を上手に飼育し、名馬、赤い宝玉、テンや猿の...
文中に「古之亡人」とあるが、中原諸国に追われた異民族か...
注記① 魏略曰:其俗停喪五月、以久為榮。其祭亡者、有生有...
魏略には、そこの風俗は、服喪の停止は五カ月とし、その期...
『後漢時代』(25年-220年)
『資治通鑑』
49年、貊人が兵を右北平、漁陽、上谷、太原に侵攻させたが...
『後漢書』扶余伝
建武中、東夷諸國皆來獻見。二十五年、夫餘王遣使奉貢、光...
建武年間(25年-57年)、東夷諸国は皆、来朝し貢献した。
建武二十五年(49年)、扶余王が遣使をたてて朝貢してきた...
『後漢書』高句麗
和帝元興元年春、復入遼東、寇略六縣、太守耿?撃破之、斬其...
安帝永初五年、宮遣使貢獻、求屬玄菟。
元初五年、復與?貊寇玄菟、攻華麗城。
和帝の元興元年(105年)春、再び遼東に侵入し、六県で略奪...
安帝の永初五年(111年)、宮は遣使をもって貢献し、玄菟郡...
元初五年(118年)、再び?貊とともに玄菟に侵攻し、華麗城...
『後漢書』扶余伝
至安帝永初五年、夫餘王始將歩騎七八千人寇鈔樂浪、殺傷吏...
永寧元年、乃遣嗣子尉仇台〔詣〕闕貢獻、天子賜尉仇台印綬...
順帝永和元年、其王來朝京師、帝作黄門鼓吹、角抵戲以遣之。
安帝の永初五年(111年)、扶余王が初めて歩兵と騎兵七、八...
永寧元年(120年)、太子の尉仇台(いきゅうだい)を派遣し...
順帝の永和元年(136年)、その王が京師に来朝、帝は黄門に...
『後漢書』高句麗
建光元年秋、宮遂率馬韓、?貊數千騎圍玄菟。夫餘王遣子尉仇...
建光元年(121年)秋、宮と遂成が馬韓と?貊の数千騎で玄菟...
翌年(122年)、遂成は玄菟に詣でて生口(奴隷)を献上して...
『後漢書』安帝紀
建光元年冬十二月、高句驪、馬韓、穢貊圍玄菟城、夫餘王遣...
延光元年春二月、夫餘王遣子將兵救玄菟、撃高句驪、馬韓、...
建光元年(121年)、高句麗、馬韓、穢貊が玄菟城を囲む。扶...
延光元年(122年)、扶余王が王子に兵を遣わして玄菟郡を救...
『穢系部族連合の破綻』
永初五年(111年)、高句麗は玄菟郡への帰属し、扶余は楽浪...
元初五年(118年)、高句麗は?貊とともに玄菟に侵攻し、華...
永寧元年(120年)、扶余は尉仇台を派遣して後漢王朝に貢献...
建光元年(121年)、高句麗、馬韓、穢貊が玄菟城を囲み、扶...
高句麗と扶余に敵対関係が生じており、?貊は高句麗に付き、...
『尉仇台の登場』
後漢書には永寧元年(120年)と建光元年(121年)に扶余の...
『三国志魏書』扶余国伝
夫餘本屬玄菟。漢末、公孫度雄張海東、威服外夷、夫餘王尉...
扶余は昔、玄菟郡に帰属していた。漢末、公孫度が海東に勇...
上記のように、尉仇台は遼東地方の大豪族である公孫度の娘...
『三国志魏書』公孫度
公孫度字升濟、本遼東襄平人也。度父延、避吏居玄菟、任度...
公孫度、字は升済、元は遼東の襄平の人。度の父は延、官吏...
『後漢書』扶余伝
桓帝延熹四年、遣使朝賀貢獻。永康元年、王夫台將二萬餘人...
桓帝の延熹四年(161年)、扶余王、遣使を以て朝賀に来朝し...
永康元年(167年)、王の夫台が二万余の軍勢で玄菟を侵略。...
霊帝の熹平三年(174年)、再び奉じて貢献をする。扶余は昔...
永康元年(167年)、扶余が攻めた玄菟郡の太守は公孫域であ...
なぜ公孫度の大恩人である公孫域を扶余は攻撃したのだろう...
120年と121年に登場する太子の尉仇台と、公孫度の娘を妻に...
『三国志魏書』高句麗伝
順桓之間、復犯遼東、寇新安、居郷、又攻西安平、于道上殺...
順帝と桓帝の間(125年-167年)、度々遼東を侵犯し、新安...
霊帝の建寧二年(169年)、玄菟太守の耿臨がこれを討つ、斬...
熹平年間(172年-177年)、伯固は玄菟郡への帰属を乞うた...
扶余が玄菟郡を攻めれば、高句麗は遼東郡や楽浪郡を攻める...
『黄巾党の乱』
光和七年(184年)、宗教結社の太平道による「黄巾党の乱」...
各地で反旗を掲げた黄巾党軍の百万の軍勢に討伐軍が壊滅さ...
初平元年(190年)、遼東郡太守の公孫度は中原の大混乱に乗...
建安九年(204年)、公孫度が死去、継嗣の公孫康が楽浪郡の...
建安十四年(209年)、公孫康が高句麗に出撃。高句麗を撃破...
高句麗王伊夷摸の兄である抜奇が部族を率いて公孫康に帰順...
『百済(馬韓扶余)』
公孫氏の強勢に応じて扶余も遼東を拠点にして帯方郡の開拓...
通説では、馬韓地方の伯済国が諸国を統一して百済を創建し...
『北史』百済伝
百済国は蓋馬韓の属国。出自は索離国(タクリ国)。(中略...
『唐会要』百済伝
百濟者。本扶餘之別種。當馬韓之故地。其後有仇台者。為高...
百済。元は扶余の別種。馬韓の故地にいたが、後に仇台は高...
『通典』百濟
百濟、即後漢末夫餘王尉仇台之後、後魏時百濟王上表云:「...
百済、すなわち後漢末の扶余王「尉仇台」の後裔、後に魏の...
いずれも尉仇台を百済の祖と記している。『三国史記』百済...
『三国時代』(220年-265年)
『三国志魏書』?婁伝
自漢已來、臣屬夫餘、夫餘責其租賦重、以?初中叛之。
?婁は漢の時代から扶余に臣従していたが、扶余の賦課が重か...
これも扶余が遼東や帯方郡に専念し、現地滞在の費用などの...
『梁書』高句麗伝
魏景初二年、遣太傅司馬宣王率衆討公孫淵、位宮遣主簿、大...
景初二年(238年)、太尉の司馬王仲達は大軍を率いて公孫淵...
238年、諸葛孔明と互角に戦った名将で、後に晋王朝の祖とな...
高句麗は司馬王に援軍を派遣しており、このとき扶余は故地...
『三国志魏書』扶余国伝
尉仇台死、簡位居立。無適子、有?子麻余。位居死、諸加共立...
尉仇台が死に簡位居が立った。彼には適子がなく、庶子の麻...
正始中、幽州刺史母丘儉討句麗、遣玄菟太守王?詣夫餘、位居...
正始年間(240年-249年)、幽州刺史の母丘県儉が高句麗を...
正始五年(244年)、幽州刺史毋丘倹(かんきゅうけん)は、...
正始六年(245年)、毋丘倹が再び高句麗を討つ、位宮は諸加...
毋丘倹は將軍王?にこれを追撃させる。沃阻から千余里、粛慎...
『西晋時代』(265年-316年)
麻余死、其子依慮年六歳、立以為王。漢時、夫餘王葬用玉匣...
麻余が死に、その子の依慮(イロ)が六歳で王に立った。
漢代、扶余王は葬祭に用いる玉匣(宝物箱)を常に玄菟郡に...
『晋書』扶余伝
至太康六年、為慕容?所襲破、其王依慮自殺、子弟走保沃沮。帝...
明年、夫餘後王依羅遣詣龕、求率見人還復舊國、仍請援。龕...
太康六年(285年)、慕容?(ぼようかい)によって、扶余は...
皇帝は詔を発して「扶余王は代々忠孝を守り、悪賊によって...
翌年、扶余王を継いだ依羅(イリ)は遣使を龕に派遣し、復...
280年、三国の呉が滅び、晋が中国を統一する。だが、三国時...
285年、鮮卑族の慕容?に来襲され、扶余は国王の依慮が海に...
286年、再び慕容?が遼東を侵略するが、王子の依羅が西晋の...
この依羅には日本の王朝に関わる奇妙な伝承がある。「慕容?...
この後、強大化した高句麗に侵食され、国勢は衰退していっ...
346年、鮮卑の慕容?(こう)の大軍に急襲され、国勢はいっ...
410年、高句麗に併合される。
『漫談匈奴』(http://www.taiwankiss.com/board5/data/25465...
兩漢時也世代向漢朝貢。晉至南北朝時、多次受鮮卑族慕容氏...
両漢の時代には代々漢朝に朝貢した。晋から南北朝時代、鮮...
豆莫婁國在勿吉北千里、舊北夫餘也。在室韋之東、東至於海...
豆莫婁国は勿吉の北千里に在り、昔の北扶余なり。室韋(蒙...
豆莫婁は扶余の遺民が立てた国家とされるが、まさに風俗は...
494年、新興の勿吉(もつきつ)に王都を奪われ、国王やその...
『百済(遼西扶余)』
『新唐書』百済伝
百濟,扶餘別種也。直京師東六千里而贏,濱海之陽,西界越...
百済は扶余の別種なり。京師の東六千里、濱海の北、西は越...
ここの記述は一般的な百済の地理説明である。ただ、陸続き...
『宋書』百済伝
百濟國,本與高驪倶在遼東之東千餘里,其後高驪略有遼東,...
百済国、本来は高句麗とともに遼東の東千余里にいた。その...
『梁書』『南史』百済伝
百濟者,其先東夷有三韓國:一曰馬韓,二曰辰韓,三曰弁韓...
「百済とは、その源流は東夷の三韓国にある。一に馬韓、二に...
晋代、高句麗は遼東を侵略し、百済もまた遼西を占拠し、平...
『通典』百濟
晉時句麗既略有遼東、百濟亦據有遼西、晉平二郡。今柳城、...
晋の時代(265年-316年)、句麗は遼東を占領し、百済もま...
晋より以後、諸國を併呑し、馬韓の故地を占領した。その国...
百済は半島の西南ではなく、高句麗とともに遼東の東千里に...
穢系部族連合が「?、沃沮、高句麗、扶余」に分立したように...
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扶余
朝鮮の三国時代、百済の都。本来は中国東北地方にいたツング...
プヨ。夫余、扶餘とも表記。百済の最後の都。百済の都は初め...
民族名としての扶余
なお、民族名、国名としての扶余(扶餘)は高句麗と同じく...
Episode 百済滅亡の時の悲劇
扶余の町の西北、泗沘城跡があり、その端は絶壁になってい...
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扶余(ふよ)
吉林省長春市周辺からアムール河までを居住域とした%%%ツン...
扶余には、故地にいた『北扶余』、三世紀末に慕容?に撃破さ...
北扶余とは黒龍江省の辺り、もしくは吉林省の農安から長春...
東扶余とは、246年に幽州刺史の母丘倹に攻撃された高句麗王...
『史記』貨殖列傳
夫燕亦勃、碣之閒一都會也。南通齊、趙、東北邊胡。上谷至...
燕は勃海と碣石の間に在り、南に斉、趙、東北の辺境には胡...
上記が扶余を記した中国の正史での最古の記載だとされる。
烏桓は紀元前206年頃、匈奴によって滅ぼされた東胡の後裔。...
穢貊部族連合の君長を出す主要部族にしては史籍での登場が...
三国志魏書と晋書が東夷伝で扶余国を記載しているので、記...
『三国志魏書』扶余国伝
夫餘在長城之北、去玄菟千里、南與高句麗、東與?婁、西與鮮...
扶余は長城の北に在り、玄菟郡からは千里、南に高句麗、東...
『漫談匈奴』(http://www.taiwankiss.com/board5/data/25465...
夫餘。古族名。國名、又稱扶餘、鳧餘、為貉族之國、本地也...
扶余。古族名。国名も扶余や鳧餘と称し、貉族の国をこの地...
上記は?婁としているが粛慎の間違いである。東に粛慎、西に...
國有君王、皆以六畜名官、有馬加、牛加、豬加、狗加、大使...
国には君王がいる。いずれも六畜(ろくちく)の名を官名に...
六畜(馬、牛、豚、犬(狗)、羊、鶏)とあることから、上...
食飲皆用俎豆、會同、拜爵、洗爵、揖讓升降。以殷正月祭天...
飲食には俎豆(お膳)を用い、一同に会して拜爵(献杯)、洗...
俎豆(そうず)は、昔は祭祀用の供物台のこと、現在は俎板...
殷暦の正月とは周暦の二月で、現在の十二月に相当する。
文中の?(ヨウ)とは尾長猿の一種だが、手足が黒く、?白の...
譯人傳辭、皆跪、手據地竊語。用刑嚴急、殺人者死、沒其家...
訳人(通訳?)が辞を伝えるときは、皆が跪(ひざまづ)き...
兄死妻嫂。これが匈奴と同じ風俗とあるが、『梁書』高句麗...
『三国志魏書』高句麗伝に、高句麗の城について「胡猶名此城...
其國善養牲、出名馬、赤玉、貂?、美珠。珠大者如酸棗。以弓...
その国は家畜を上手に飼育し、名馬、赤い宝玉、テンや猿の...
文中に「古之亡人」とあるが、中原諸国に追われた異民族か...
注記① 魏略曰:其俗停喪五月、以久為榮。其祭亡者、有生有...
魏略には、そこの風俗は、服喪の停止は五カ月とし、その期...
『後漢時代』(25年-220年)
『資治通鑑』
49年、貊人が兵を右北平、漁陽、上谷、太原に侵攻させたが...
『後漢書』扶余伝
建武中、東夷諸國皆來獻見。二十五年、夫餘王遣使奉貢、光...
建武年間(25年-57年)、東夷諸国は皆、来朝し貢献した。
建武二十五年(49年)、扶余王が遣使をたてて朝貢してきた...
『後漢書』高句麗
和帝元興元年春、復入遼東、寇略六縣、太守耿?撃破之、斬其...
安帝永初五年、宮遣使貢獻、求屬玄菟。
元初五年、復與?貊寇玄菟、攻華麗城。
和帝の元興元年(105年)春、再び遼東に侵入し、六県で略奪...
安帝の永初五年(111年)、宮は遣使をもって貢献し、玄菟郡...
元初五年(118年)、再び?貊とともに玄菟に侵攻し、華麗城...
『後漢書』扶余伝
至安帝永初五年、夫餘王始將歩騎七八千人寇鈔樂浪、殺傷吏...
永寧元年、乃遣嗣子尉仇台〔詣〕闕貢獻、天子賜尉仇台印綬...
順帝永和元年、其王來朝京師、帝作黄門鼓吹、角抵戲以遣之。
安帝の永初五年(111年)、扶余王が初めて歩兵と騎兵七、八...
永寧元年(120年)、太子の尉仇台(いきゅうだい)を派遣し...
順帝の永和元年(136年)、その王が京師に来朝、帝は黄門に...
『後漢書』高句麗
建光元年秋、宮遂率馬韓、?貊數千騎圍玄菟。夫餘王遣子尉仇...
建光元年(121年)秋、宮と遂成が馬韓と?貊の数千騎で玄菟...
翌年(122年)、遂成は玄菟に詣でて生口(奴隷)を献上して...
『後漢書』安帝紀
建光元年冬十二月、高句驪、馬韓、穢貊圍玄菟城、夫餘王遣...
延光元年春二月、夫餘王遣子將兵救玄菟、撃高句驪、馬韓、...
建光元年(121年)、高句麗、馬韓、穢貊が玄菟城を囲む。扶...
延光元年(122年)、扶余王が王子に兵を遣わして玄菟郡を救...
『穢系部族連合の破綻』
永初五年(111年)、高句麗は玄菟郡への帰属し、扶余は楽浪...
元初五年(118年)、高句麗は?貊とともに玄菟に侵攻し、華...
永寧元年(120年)、扶余は尉仇台を派遣して後漢王朝に貢献...
建光元年(121年)、高句麗、馬韓、穢貊が玄菟城を囲み、扶...
高句麗と扶余に敵対関係が生じており、?貊は高句麗に付き、...
『尉仇台の登場』
後漢書には永寧元年(120年)と建光元年(121年)に扶余の...
『三国志魏書』扶余国伝
夫餘本屬玄菟。漢末、公孫度雄張海東、威服外夷、夫餘王尉...
扶余は昔、玄菟郡に帰属していた。漢末、公孫度が海東に勇...
上記のように、尉仇台は遼東地方の大豪族である公孫度の娘...
『三国志魏書』公孫度
公孫度字升濟、本遼東襄平人也。度父延、避吏居玄菟、任度...
公孫度、字は升済、元は遼東の襄平の人。度の父は延、官吏...
『後漢書』扶余伝
桓帝延熹四年、遣使朝賀貢獻。永康元年、王夫台將二萬餘人...
桓帝の延熹四年(161年)、扶余王、遣使を以て朝賀に来朝し...
永康元年(167年)、王の夫台が二万余の軍勢で玄菟を侵略。...
霊帝の熹平三年(174年)、再び奉じて貢献をする。扶余は昔...
永康元年(167年)、扶余が攻めた玄菟郡の太守は公孫域であ...
なぜ公孫度の大恩人である公孫域を扶余は攻撃したのだろう...
120年と121年に登場する太子の尉仇台と、公孫度の娘を妻に...
『三国志魏書』高句麗伝
順桓之間、復犯遼東、寇新安、居郷、又攻西安平、于道上殺...
順帝と桓帝の間(125年-167年)、度々遼東を侵犯し、新安...
霊帝の建寧二年(169年)、玄菟太守の耿臨がこれを討つ、斬...
熹平年間(172年-177年)、伯固は玄菟郡への帰属を乞うた...
扶余が玄菟郡を攻めれば、高句麗は遼東郡や楽浪郡を攻める...
『黄巾党の乱』
光和七年(184年)、宗教結社の太平道による「黄巾党の乱」...
各地で反旗を掲げた黄巾党軍の百万の軍勢に討伐軍が壊滅さ...
初平元年(190年)、遼東郡太守の公孫度は中原の大混乱に乗...
建安九年(204年)、公孫度が死去、継嗣の公孫康が楽浪郡の...
建安十四年(209年)、公孫康が高句麗に出撃。高句麗を撃破...
高句麗王伊夷摸の兄である抜奇が部族を率いて公孫康に帰順...
『百済(馬韓扶余)』
公孫氏の強勢に応じて扶余も遼東を拠点にして帯方郡の開拓...
通説では、馬韓地方の伯済国が諸国を統一して百済を創建し...
『北史』百済伝
百済国は蓋馬韓の属国。出自は索離国(タクリ国)。(中略...
『唐会要』百済伝
百濟者。本扶餘之別種。當馬韓之故地。其後有仇台者。為高...
百済。元は扶余の別種。馬韓の故地にいたが、後に仇台は高...
『通典』百濟
百濟、即後漢末夫餘王尉仇台之後、後魏時百濟王上表云:「...
百済、すなわち後漢末の扶余王「尉仇台」の後裔、後に魏の...
いずれも尉仇台を百済の祖と記している。『三国史記』百済...
『三国時代』(220年-265年)
『三国志魏書』?婁伝
自漢已來、臣屬夫餘、夫餘責其租賦重、以?初中叛之。
?婁は漢の時代から扶余に臣従していたが、扶余の賦課が重か...
これも扶余が遼東や帯方郡に専念し、現地滞在の費用などの...
『梁書』高句麗伝
魏景初二年、遣太傅司馬宣王率衆討公孫淵、位宮遣主簿、大...
景初二年(238年)、太尉の司馬王仲達は大軍を率いて公孫淵...
238年、諸葛孔明と互角に戦った名将で、後に晋王朝の祖とな...
高句麗は司馬王に援軍を派遣しており、このとき扶余は故地...
『三国志魏書』扶余国伝
尉仇台死、簡位居立。無適子、有?子麻余。位居死、諸加共立...
尉仇台が死に簡位居が立った。彼には適子がなく、庶子の麻...
正始中、幽州刺史母丘儉討句麗、遣玄菟太守王?詣夫餘、位居...
正始年間(240年-249年)、幽州刺史の母丘県儉が高句麗を...
正始五年(244年)、幽州刺史毋丘倹(かんきゅうけん)は、...
正始六年(245年)、毋丘倹が再び高句麗を討つ、位宮は諸加...
毋丘倹は將軍王?にこれを追撃させる。沃阻から千余里、粛慎...
『西晋時代』(265年-316年)
麻余死、其子依慮年六歳、立以為王。漢時、夫餘王葬用玉匣...
麻余が死に、その子の依慮(イロ)が六歳で王に立った。
漢代、扶余王は葬祭に用いる玉匣(宝物箱)を常に玄菟郡に...
『晋書』扶余伝
至太康六年、為慕容?所襲破、其王依慮自殺、子弟走保沃沮。帝...
明年、夫餘後王依羅遣詣龕、求率見人還復舊國、仍請援。龕...
太康六年(285年)、慕容?(ぼようかい)によって、扶余は...
皇帝は詔を発して「扶余王は代々忠孝を守り、悪賊によって...
翌年、扶余王を継いだ依羅(イリ)は遣使を龕に派遣し、復...
280年、三国の呉が滅び、晋が中国を統一する。だが、三国時...
285年、鮮卑族の慕容?に来襲され、扶余は国王の依慮が海に...
286年、再び慕容?が遼東を侵略するが、王子の依羅が西晋の...
この依羅には日本の王朝に関わる奇妙な伝承がある。「慕容?...
この後、強大化した高句麗に侵食され、国勢は衰退していっ...
346年、鮮卑の慕容?(こう)の大軍に急襲され、国勢はいっ...
410年、高句麗に併合される。
『漫談匈奴』(http://www.taiwankiss.com/board5/data/25465...
兩漢時也世代向漢朝貢。晉至南北朝時、多次受鮮卑族慕容氏...
両漢の時代には代々漢朝に朝貢した。晋から南北朝時代、鮮...
豆莫婁國在勿吉北千里、舊北夫餘也。在室韋之東、東至於海...
豆莫婁国は勿吉の北千里に在り、昔の北扶余なり。室韋(蒙...
豆莫婁は扶余の遺民が立てた国家とされるが、まさに風俗は...
494年、新興の勿吉(もつきつ)に王都を奪われ、国王やその...
『百済(遼西扶余)』
『新唐書』百済伝
百濟,扶餘別種也。直京師東六千里而贏,濱海之陽,西界越...
百済は扶余の別種なり。京師の東六千里、濱海の北、西は越...
ここの記述は一般的な百済の地理説明である。ただ、陸続き...
『宋書』百済伝
百濟國,本與高驪倶在遼東之東千餘里,其後高驪略有遼東,...
百済国、本来は高句麗とともに遼東の東千余里にいた。その...
『梁書』『南史』百済伝
百濟者,其先東夷有三韓國:一曰馬韓,二曰辰韓,三曰弁韓...
「百済とは、その源流は東夷の三韓国にある。一に馬韓、二に...
晋代、高句麗は遼東を侵略し、百済もまた遼西を占拠し、平...
『通典』百濟
晉時句麗既略有遼東、百濟亦據有遼西、晉平二郡。今柳城、...
晋の時代(265年-316年)、句麗は遼東を占領し、百済もま...
晋より以後、諸國を併呑し、馬韓の故地を占領した。その国...
百済は半島の西南ではなく、高句麗とともに遼東の東千里に...
穢系部族連合が「?、沃沮、高句麗、扶余」に分立したように...
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