斑尾一般
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斑尾一般
■人文に関する知識
斑尾山の山名起源と薬師伝説
斑尾山は、「マダラオサン、マダラオヤマ、マダラサン」と呼...
また、四季折々に変化する山容の美しさ、人々に心の安らぎを...
標高1381.8mの薬師岳を主峰とした斑尾山は、第3紀から...
主峰が薬師岳と呼ばれているように、これにまつわるいくつか...
薬師岳の伝説は、和銅5年く713年飛鳥時代の終期)泰澄法師(...
泰澄は白山を道場とし、役行者は、大峰山を道場としたが越前...
また、泰澄法師ではなく、行基(ぎょうき668年~749年飛鳥~...
15
また野沢温泉の湯を発見したとの一説もある)とされており、...
堀能寺はその後、荒れかけたが康平6年〈1063年平安時代中期)...
現在、山頂に奉られている小さな石の祠は、下荒瀬原即心院の...
12薬師とされていることから一体は別のものなのか、または、...
この石仏を祠より出して、またもとのように入れようとしても...
天頂8年(831年平安初期)斑尾山が崩れ多くの岩石が麓まで落...
行基が薬師如来を刻むために座った石の一部も崩れたが、十二...
斑尾山でも特に岩石が露出していて崩れたような場所として、...
他に薬師像を納めた堀能寺が天授元年く1375年室町時代初期)...
その後、慶安4年(1651年江戸時代初期)薬師仏像が消失するこ...
山頂の祠の右側には「慶安四卯未四月」と刻まれており、左側...
16
(慶安四年=1651年 江戸時代初期)
(享和元年=1801年 江戸時代中後期)
斑尾山の山名起源も様々なものがあり、その一つに空海(774年...
江戸時代の古文書には、信州では斑山と呼び、越後では斑尾山...
斑尾山の地域には、この山に関係した言い伝えや、伝説が数多...
小菅神社は役小角くえんのおづぬ)が飛鳥時代中頃、天武8年(...
斑尾山麓の伝説に、北国街道を信濃に入った修行僧は、始め黒...
小菅神社はその後、行基が参詣し、馬頭観音を彫り、安置し、...
信濃と超後を隔てる関田山脈の中でも南端で孤立した山として...
いずれにしても、斑尾山の歴史は飛鳥の時代に始まっている。
大蛇と蝦蟇
その昔、山中に大蛇と蝦蟇が住んでいた。どちらも年を重ねた...
17
いう。ある時、大蛇と蝦蟇が出会って争いを始めた。辺りが暗...
山の伝鋭
野尻湖に東の山(斑尾山)から雄の竜、西の山(黒姫山)から...
斑尾高原の八坊巡拝(はちぼうめぐり)
斑尾山の山麓には古道があり、この道は、古代の律令による官...
信濃と越後の境に位置する斑尾山の山麓には、平安時代から鎌...
親鸞(1173年~1262年平安時代終期)が越後から関東への布教...
しかし、繁栄とともに山の木を切り尽くし、また鎌倉時代に入...
永仁元年からおよそ600年位が経過した頃、飯山本町の忠右衝門...
忠恩寺には、この記録と一致する「曼陀羅佛」というものが現...
18
その後も、親鸞の布教の旅を訪ね本願寺八世蓮如(1415年~149...
斑尾高原のホテル、ペンションが立ち並んでいる場所の地名は...
斑尾高原の歴史
斑尾高原は長野県の北、飯山市から12km、斑尾山の北東に...
新潟県と県境をまたぎ、ホテル、ペンションが建ち並んでいる。
斑尾高原から直江津沖日本海までは、直線にして約40kmの...
晴れた日には斑尾山中腹から佐渡島を望むことが出来る。
斑尾高原の歴史は1964年(昭和39年)に遡る。
第18回東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が開業、飯...
1967年(昭和42年)5月、斑尾山開発促進期成同盟会が発足...
1971年(昭和46年)ペンション村の計画検討が始まり、翌...
1975年(昭和50年)には、斑尾高原トレツキングトレイル...
19
1982年(昭和57年)には、その後恒例となる第1回ジャ...
1988年(昭和63年)には、フリ-スタイルワールドカップ...
しかし、その後のバブル崩壊に伴う日本経済の低迷に伴い「い...
2003年(平成15年)度観光協会総会時の、観光協会加盟数9...
2003年(平成15年)4月には誘客の拠点となるビジターセン...
また、観光協会が進めているトレッキングトレイルが妙高村(...
沼の池の歴史
斑尾火山の流動性に富む溶岩流の末端のへこみに水をたたえた...
池の東方に湧水がある他、川と言えるほどの流れ込む川はない...
記録には、天正時代(安土桃山1573~1591)に初めて壕を開き...
湖北側の島の様な場所に弁財天が祀られていて、その石碑には...
亨保年間(1716~1735江戸時代 将軍吉宗の時代)は、飯山にて...
飯山の中でも沼池からの皿川の水は、大川、山口、藤ノ木等の...
20
いて用水不足のため溜め池を築きたいが用地が無く、趨後樽本...
いずれにしても、飯山は水不足の問題を抱えていた。その為に...
1981年(昭和56年)には、観光協会として沼池から希望湖...
標高約900m、周囲約3km、水深最大7m、雪解けから5月初め...
沼の原湿原の歴史
斑尾山の北約3km、標高870m、関川の支流土路川の源流部に...
湿原は小丘陵によって東湿原と西湿原に分かれていて、東湿原...
二つの湿原は北方で一緒になり形のくずれた馬蹄形をしている...
東湿原が最も湿潤で西に向かうにつれ乾燥化が進んでいる。
南に斑尾山、西に寄生火山の袴岳、東には小丘陵をへだて沼池...
年間降水量は、約2500ミリ、最深積雪量は3mを超える。日本海...
西湿原中央を流れる川の源流は、斑尾山北斜面の伏流水であり...
21
かつて、湿原地域には奥沼部落があり、萩原宿と呼ばれ享保年...
記録、文献を見ると、これより以前にもこの場所は、東山道の...
大正15年(1926)には3戸が残っていたが、中央電気会社(現東...
このように、古くから人的行為が加えられて来た為に、ブナ帯...
ミズナラについては、その大きさから山仕事にかなりの労働比...
数百年の湿原化によって、多くの植物が育ち、植生上からみて...
中央を流れる小川や周辺の流水部には、数十万株の水芭蕉をは...
この湿原は、耕地跡に二次的に出来た湿原ではあるが、放置さ...
上越地方では珍しいカラコギカエデやメギもこの湿原に自生し...
野ウサギなどの動物、トンボなどの昆虫類、野鳥なども豊富で...
22
植生に悪影響の出ない程度の保全策も必要であるし、自然観察...
★ 関田山脈の稜線沿いには大小様々な湖沼等がある。南から七...
斑 尾 山
斑尾山は、長野県と新潟県の県境に位置する標高1000m前...
西方には、妙高山・黒姫山・飯綱山・戸隠山の単独峰があり斑...
斑尾山は、伝説等を含め歴史的に見ると和銅5年(713年、...
泰澄法師あるいは行基が山頂に薬師如来を安置したことから「...
713年以降は、薬師の名で呼ばれ、800年頃からは曼陀羅...
江戸時代の古文書には信州では斑山(まだらやま)越後では斑...
23
飯山市に少ないのは、基もとの集落からは斑尾山が見えないこ...
斑尾山の南から東山麓にかけて、信濃から越後に抜ける東山道...
1964年に斑尾山にスキーリゾートの開発が計画され、19...
火山としての斑尾山
斑尾山は火山である。
火山の最高点は、1,381.8mであり、火山としては、それほど高...
浸食が非常に進んでいて、眺める方向によっては、とても火山...
西側から見ると、火山斜面が残って無く、火山岩で構成される...
しかし、東側では火山斜面が僅かに谷間に残り、北東側には比...
また、これに続く火砕流堆積面は、広くはないがあり、そこに...
東側に残る火山斜面をもとに、接峰面図から等高線を西側に延...
しかし斑尾火山の南西部の釜石山付近は、等高線が外に突出し...
調査の方法から斑尾火山は、40~30万年前に周辺に火砕流...
高野辰之と斑尾山
高野辰之【たかのたつゆき】(M9/1876~S22/1947):豊田村出...
24
下水内郡永江村(後に豊田村となり、現在は中野市)に生まれ...
小学校(飯山)までは往復16kmの道を歩いて通い、飯山の...
読書好きな少年であり、悪戯好きな少年でもあったようだ。
1910年東京音楽学校(現,東京芸術大学音楽学部)教授となる。...
小学唱歌の作詞者として著名。その代表作として、彼の幼少を...
また、郷里の豊田村には、「故郷」の記念碑・高野辰之記念館...
辰之少年が育ったところは斑尾山の麓に位置し、「故郷(ふる...
故郷(ふるさと)
高野辰之作詞、岡野貞一作曲
一、兎(うさぎ)追ひ(おい)しかの山、
小鮒(こぶな)釣りしかの川、
夢(ゆめ)は今もめぐりて、
忘れがたき故郷(ふるさと)。
ニ、如何(いか)にいます、父母、
恙(つつが)なしや、友がき、
雨に風 につけても、
思ひいづる故郷(ふるさと)。
三、こころざし をはたして、
いつの日にか歸(かえ)らん、
25
山はあをき故郷(ふるさと)、
水は清き故郷(ふるさと)。
樽本地区の歴史的経過
古代の官道「東山道」の支路として考えられる中で、現在の豊...
この地区の歴史的資料は少ない。どの位の資料があったかは不...
周辺地域の歴史的資料から考えるに、起源は今から1000年前、...
「平家物語」に木曽義仲と不和になった源頼朝が義仲を討つた...
また、寛冶3年(1089年〉に作られたとしている、「往昔越後之...
上樽本の集落成立は、同地区の小出家の過去帳に小出家の祖は...
豊巨滅亡後は、戦乱の余波を受けて一族を率いて樽本に逃げ込...
小出家の過去帳最古の法名は、寛永7年(1630年)で、小出吉親...
上樽本は、周りを山に囲まれ人目につかず、守るには容易な地...
開拓当時、土路川の西側に小出家が、東側と下樽本に木賀家が...
26
木賀家の祖も、源平時代の武将である。源頼朝の家臣で木賀善...
小出家、木賀家双方の祖が源平時代の武将であり、源頼朝の家...
この樽本地区が忍びの者の里の可能性もある。時代により豊臣...
両家の祖の言い伝えが1190年代(源平時代)に始まり、次に塵...
春日山に近い樽本城は、信越国境に近いことから重要な役割を...
しかし、樽本に住む、本来武士の系統の人々がどのように戦国...
豊葦村=伝説、口碑によると約1000年前とされ、正長年間(142...
樽本村=古くから山を越え信濃との交通路があり交流も盛んで...
江戸期から明治22年(1889年)までの村の名である。江戸初期...
この頃より国境の争いが活発になり、元禄15年(1703年)信濃...
27
原因は、国境を越え、薪や材木をみだりに切り出した事にあっ...
元禄15年11月22日幕府の判決は越後の言い分となった。現在の...
28
■気象に関する知識
気象の特徴
「温帯落葉樹林帯」に当たり、偏西風が一年を通じて雨をもた...
世界の地域の中では、西岸海洋性気候の北西ヨーロッパ(デン...
そして、気象の特性としては
(1
) 冬期の多雪(3mを越える積雪)と明確な四季
(2
) 冬期の最低気温は、マイナス15℃に達する
(3
) 8月の平均気温は、20℃前後
植生の特徴
「ブナ林帯」で、緑豊かな植生とその植生が育む豊かな動生物...
日本を始め世界の多くの「ブナ林帯」で優れた文化が起こり育...
斑尾高原に雪は何故多く降るのか
(1
) シベリア寒気団
(2
) 日本海暖流(対馬海流)
(3
) 日本列島を縦断する山脈
シベリア寒気団は、日本海に達すると対馬暖流(海水温が15℃...
この際中国大陸等から偏西風に乗って大量に飛んでくる砂の粒...
また、斑尾高原付近は、この辺を境に日本列島が大きく北側に...
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斑尾一般
■人文に関する知識
斑尾山の山名起源と薬師伝説
斑尾山は、「マダラオサン、マダラオヤマ、マダラサン」と呼...
また、四季折々に変化する山容の美しさ、人々に心の安らぎを...
標高1381.8mの薬師岳を主峰とした斑尾山は、第3紀から...
主峰が薬師岳と呼ばれているように、これにまつわるいくつか...
薬師岳の伝説は、和銅5年く713年飛鳥時代の終期)泰澄法師(...
泰澄は白山を道場とし、役行者は、大峰山を道場としたが越前...
また、泰澄法師ではなく、行基(ぎょうき668年~749年飛鳥~...
15
また野沢温泉の湯を発見したとの一説もある)とされており、...
堀能寺はその後、荒れかけたが康平6年〈1063年平安時代中期)...
現在、山頂に奉られている小さな石の祠は、下荒瀬原即心院の...
12薬師とされていることから一体は別のものなのか、または、...
この石仏を祠より出して、またもとのように入れようとしても...
天頂8年(831年平安初期)斑尾山が崩れ多くの岩石が麓まで落...
行基が薬師如来を刻むために座った石の一部も崩れたが、十二...
斑尾山でも特に岩石が露出していて崩れたような場所として、...
他に薬師像を納めた堀能寺が天授元年く1375年室町時代初期)...
その後、慶安4年(1651年江戸時代初期)薬師仏像が消失するこ...
山頂の祠の右側には「慶安四卯未四月」と刻まれており、左側...
16
(慶安四年=1651年 江戸時代初期)
(享和元年=1801年 江戸時代中後期)
斑尾山の山名起源も様々なものがあり、その一つに空海(774年...
江戸時代の古文書には、信州では斑山と呼び、越後では斑尾山...
斑尾山の地域には、この山に関係した言い伝えや、伝説が数多...
小菅神社は役小角くえんのおづぬ)が飛鳥時代中頃、天武8年(...
斑尾山麓の伝説に、北国街道を信濃に入った修行僧は、始め黒...
小菅神社はその後、行基が参詣し、馬頭観音を彫り、安置し、...
信濃と超後を隔てる関田山脈の中でも南端で孤立した山として...
いずれにしても、斑尾山の歴史は飛鳥の時代に始まっている。
大蛇と蝦蟇
その昔、山中に大蛇と蝦蟇が住んでいた。どちらも年を重ねた...
17
いう。ある時、大蛇と蝦蟇が出会って争いを始めた。辺りが暗...
山の伝鋭
野尻湖に東の山(斑尾山)から雄の竜、西の山(黒姫山)から...
斑尾高原の八坊巡拝(はちぼうめぐり)
斑尾山の山麓には古道があり、この道は、古代の律令による官...
信濃と越後の境に位置する斑尾山の山麓には、平安時代から鎌...
親鸞(1173年~1262年平安時代終期)が越後から関東への布教...
しかし、繁栄とともに山の木を切り尽くし、また鎌倉時代に入...
永仁元年からおよそ600年位が経過した頃、飯山本町の忠右衝門...
忠恩寺には、この記録と一致する「曼陀羅佛」というものが現...
18
その後も、親鸞の布教の旅を訪ね本願寺八世蓮如(1415年~149...
斑尾高原のホテル、ペンションが立ち並んでいる場所の地名は...
斑尾高原の歴史
斑尾高原は長野県の北、飯山市から12km、斑尾山の北東に...
新潟県と県境をまたぎ、ホテル、ペンションが建ち並んでいる。
斑尾高原から直江津沖日本海までは、直線にして約40kmの...
晴れた日には斑尾山中腹から佐渡島を望むことが出来る。
斑尾高原の歴史は1964年(昭和39年)に遡る。
第18回東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が開業、飯...
1967年(昭和42年)5月、斑尾山開発促進期成同盟会が発足...
1971年(昭和46年)ペンション村の計画検討が始まり、翌...
1975年(昭和50年)には、斑尾高原トレツキングトレイル...
19
1982年(昭和57年)には、その後恒例となる第1回ジャ...
1988年(昭和63年)には、フリ-スタイルワールドカップ...
しかし、その後のバブル崩壊に伴う日本経済の低迷に伴い「い...
2003年(平成15年)度観光協会総会時の、観光協会加盟数9...
2003年(平成15年)4月には誘客の拠点となるビジターセン...
また、観光協会が進めているトレッキングトレイルが妙高村(...
沼の池の歴史
斑尾火山の流動性に富む溶岩流の末端のへこみに水をたたえた...
池の東方に湧水がある他、川と言えるほどの流れ込む川はない...
記録には、天正時代(安土桃山1573~1591)に初めて壕を開き...
湖北側の島の様な場所に弁財天が祀られていて、その石碑には...
亨保年間(1716~1735江戸時代 将軍吉宗の時代)は、飯山にて...
飯山の中でも沼池からの皿川の水は、大川、山口、藤ノ木等の...
20
いて用水不足のため溜め池を築きたいが用地が無く、趨後樽本...
いずれにしても、飯山は水不足の問題を抱えていた。その為に...
1981年(昭和56年)には、観光協会として沼池から希望湖...
標高約900m、周囲約3km、水深最大7m、雪解けから5月初め...
沼の原湿原の歴史
斑尾山の北約3km、標高870m、関川の支流土路川の源流部に...
湿原は小丘陵によって東湿原と西湿原に分かれていて、東湿原...
二つの湿原は北方で一緒になり形のくずれた馬蹄形をしている...
東湿原が最も湿潤で西に向かうにつれ乾燥化が進んでいる。
南に斑尾山、西に寄生火山の袴岳、東には小丘陵をへだて沼池...
年間降水量は、約2500ミリ、最深積雪量は3mを超える。日本海...
西湿原中央を流れる川の源流は、斑尾山北斜面の伏流水であり...
21
かつて、湿原地域には奥沼部落があり、萩原宿と呼ばれ享保年...
記録、文献を見ると、これより以前にもこの場所は、東山道の...
大正15年(1926)には3戸が残っていたが、中央電気会社(現東...
このように、古くから人的行為が加えられて来た為に、ブナ帯...
ミズナラについては、その大きさから山仕事にかなりの労働比...
数百年の湿原化によって、多くの植物が育ち、植生上からみて...
中央を流れる小川や周辺の流水部には、数十万株の水芭蕉をは...
この湿原は、耕地跡に二次的に出来た湿原ではあるが、放置さ...
上越地方では珍しいカラコギカエデやメギもこの湿原に自生し...
野ウサギなどの動物、トンボなどの昆虫類、野鳥なども豊富で...
22
植生に悪影響の出ない程度の保全策も必要であるし、自然観察...
★ 関田山脈の稜線沿いには大小様々な湖沼等がある。南から七...
斑 尾 山
斑尾山は、長野県と新潟県の県境に位置する標高1000m前...
西方には、妙高山・黒姫山・飯綱山・戸隠山の単独峰があり斑...
斑尾山は、伝説等を含め歴史的に見ると和銅5年(713年、...
泰澄法師あるいは行基が山頂に薬師如来を安置したことから「...
713年以降は、薬師の名で呼ばれ、800年頃からは曼陀羅...
江戸時代の古文書には信州では斑山(まだらやま)越後では斑...
23
飯山市に少ないのは、基もとの集落からは斑尾山が見えないこ...
斑尾山の南から東山麓にかけて、信濃から越後に抜ける東山道...
1964年に斑尾山にスキーリゾートの開発が計画され、19...
火山としての斑尾山
斑尾山は火山である。
火山の最高点は、1,381.8mであり、火山としては、それほど高...
浸食が非常に進んでいて、眺める方向によっては、とても火山...
西側から見ると、火山斜面が残って無く、火山岩で構成される...
しかし、東側では火山斜面が僅かに谷間に残り、北東側には比...
また、これに続く火砕流堆積面は、広くはないがあり、そこに...
東側に残る火山斜面をもとに、接峰面図から等高線を西側に延...
しかし斑尾火山の南西部の釜石山付近は、等高線が外に突出し...
調査の方法から斑尾火山は、40~30万年前に周辺に火砕流...
高野辰之と斑尾山
高野辰之【たかのたつゆき】(M9/1876~S22/1947):豊田村出...
24
下水内郡永江村(後に豊田村となり、現在は中野市)に生まれ...
小学校(飯山)までは往復16kmの道を歩いて通い、飯山の...
読書好きな少年であり、悪戯好きな少年でもあったようだ。
1910年東京音楽学校(現,東京芸術大学音楽学部)教授となる。...
小学唱歌の作詞者として著名。その代表作として、彼の幼少を...
また、郷里の豊田村には、「故郷」の記念碑・高野辰之記念館...
辰之少年が育ったところは斑尾山の麓に位置し、「故郷(ふる...
故郷(ふるさと)
高野辰之作詞、岡野貞一作曲
一、兎(うさぎ)追ひ(おい)しかの山、
小鮒(こぶな)釣りしかの川、
夢(ゆめ)は今もめぐりて、
忘れがたき故郷(ふるさと)。
ニ、如何(いか)にいます、父母、
恙(つつが)なしや、友がき、
雨に風 につけても、
思ひいづる故郷(ふるさと)。
三、こころざし をはたして、
いつの日にか歸(かえ)らん、
25
山はあをき故郷(ふるさと)、
水は清き故郷(ふるさと)。
樽本地区の歴史的経過
古代の官道「東山道」の支路として考えられる中で、現在の豊...
この地区の歴史的資料は少ない。どの位の資料があったかは不...
周辺地域の歴史的資料から考えるに、起源は今から1000年前、...
「平家物語」に木曽義仲と不和になった源頼朝が義仲を討つた...
また、寛冶3年(1089年〉に作られたとしている、「往昔越後之...
上樽本の集落成立は、同地区の小出家の過去帳に小出家の祖は...
豊巨滅亡後は、戦乱の余波を受けて一族を率いて樽本に逃げ込...
小出家の過去帳最古の法名は、寛永7年(1630年)で、小出吉親...
上樽本は、周りを山に囲まれ人目につかず、守るには容易な地...
開拓当時、土路川の西側に小出家が、東側と下樽本に木賀家が...
26
木賀家の祖も、源平時代の武将である。源頼朝の家臣で木賀善...
小出家、木賀家双方の祖が源平時代の武将であり、源頼朝の家...
この樽本地区が忍びの者の里の可能性もある。時代により豊臣...
両家の祖の言い伝えが1190年代(源平時代)に始まり、次に塵...
春日山に近い樽本城は、信越国境に近いことから重要な役割を...
しかし、樽本に住む、本来武士の系統の人々がどのように戦国...
豊葦村=伝説、口碑によると約1000年前とされ、正長年間(142...
樽本村=古くから山を越え信濃との交通路があり交流も盛んで...
江戸期から明治22年(1889年)までの村の名である。江戸初期...
この頃より国境の争いが活発になり、元禄15年(1703年)信濃...
27
原因は、国境を越え、薪や材木をみだりに切り出した事にあっ...
元禄15年11月22日幕府の判決は越後の言い分となった。現在の...
28
■気象に関する知識
気象の特徴
「温帯落葉樹林帯」に当たり、偏西風が一年を通じて雨をもた...
世界の地域の中では、西岸海洋性気候の北西ヨーロッパ(デン...
そして、気象の特性としては
(1
) 冬期の多雪(3mを越える積雪)と明確な四季
(2
) 冬期の最低気温は、マイナス15℃に達する
(3
) 8月の平均気温は、20℃前後
植生の特徴
「ブナ林帯」で、緑豊かな植生とその植生が育む豊かな動生物...
日本を始め世界の多くの「ブナ林帯」で優れた文化が起こり育...
斑尾高原に雪は何故多く降るのか
(1
) シベリア寒気団
(2
) 日本海暖流(対馬海流)
(3
) 日本列島を縦断する山脈
シベリア寒気団は、日本海に達すると対馬暖流(海水温が15℃...
この際中国大陸等から偏西風に乗って大量に飛んでくる砂の粒...
また、斑尾高原付近は、この辺を境に日本列島が大きく北側に...
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