日出処天子(Historical)
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[[九州王朝(Historical)]]
4.日出ずる処の天子
隋書には、倭([イ妥]-以降隋書原文に従えば「倭」ではなく「[...
開皇二十年(600)、倭王有り。姓は阿毎。字は多利思...
開皇二十年(600)の当時の天皇は、推古天皇である。女帝...
さらに、以下の記事を見よ。
倭王、小徳阿輩臺を遣わし、数百人を従え、儀杖を設け、...
これによれば、隋の使者裴世清は、倭王と直に会っている。こ...
女である推古天皇を男だと思った等と言うことはありえな...
倭王を別人(舒明天皇など)と取り違えてしまった等と言...
そこで、聖徳太子説が浮上する。だが、これも、矛盾が尽きな...
いずれにしても、恣意的な想像に過ぎぬ。
これも、「倭王」=「天皇家」という構図に、無理矢理結びつ...
さて、ひとつ確認しておくことがある。よく、倭王や倭国の使...
「これこれは、倭国の使者が中国に行った際(或は中国の...
具体的には、「多利思北孤」という名は、倭国の使者が隋で聖...
さて、では隋書に山積する数多い「問題」を挙げよう。これは...
1)姓
「倭王有り。姓は阿毎」とある。これも、名と同じく「国書の...
2)政治思想
「倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天、...
ここには、(A)「天-未明-兄」と(B)「日-日出-弟」の二系...
3)坐相
先の「跏趺」は通例「あぐら」と読まれているが、これは、「...
「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わ...
ここで、「日の没する処の天子」に向かって「海西の菩薩天子...
4)官位
隋書倭国伝の「官位十二階」と推古紀の「官位十二階」は内容...
5)官名
隋書に記された官名、「軍尼」「伊尼翼」について、これを「...
6)国交
もっとも基本的な矛盾は国交記事である。
#html{{
<table cellspacing="1" cellpadding="0" border="1">
<tbody><tr>
<th>隋書、倭国伝</th>
<th>推古紀 </th>
</tr>
<tr>
<td>開皇二十年(600)「使を遣わして闕に詣る」<...
<td>推古八年(600)記事無し</td>
</tr>
<tr>
<td>大業三年(607)「使を遣わして朝貢す」(沙...
<td>推古十五年(607)(七月)「大礼小野臣妹子...
</tr>
<tr>
<td>大業四年(608)「上、文林郎裴清を遣わして...
<td>推古十六年(608)(四月)妹子帰国。裴世清...
</tr>
<tr>
<td>同年(608)「復た、使者をして清に随い来っ...
<td>同年(608)(九月)裴、帰国。妹子を再派遣...
</tr>
<tr>
<td> 「此の後、遂に絶つ」</td>
<td>推古十七年(609)妹子帰国。福利は帰らず。<...
</tr>
<tr>
<td>大業十年(614)記事無し</td>
<td>推古二十二年(614)犬上君御田鍬を派遣。推...
</tr>
</tbody></table>
}}
表のように、推古紀には、「記念すべき」第一回の遣使が記さ...
さらに、推古紀に見える中国側の国書には、注目すべき一句が...
「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す。使人鴻臚寺の掌客裴...
とあって、この関係を容認したことが伺えるのである。
いままで、推古紀には「推古天皇・聖徳太子と隋」の交渉が描...
(A)
(推古十五年七月)大唐に遣わす。
(十六年夏四月)大唐より至る。
(同上)大唐の使人…。
(同上)唐客の為に…。
(十六年六月)「…唐帝、書を以って臣に授く。…」(妹子...
(十六年八月)唐客、京に入る。
(同上)唐客を海石榴市の術に迎ふ。
(同上)唐客を朝庭に召す。
(同上)大唐の国の信物を、庭中に置く。
(同上)唐客等を朝に饗す。
(十六年九月)唐客裴世清…。
(同上)唐客に副えて之を遣わす。
(同上)爰に天皇、唐帝を聘う。
(同上)唐国に遣わす学生…。
(十七年秋九月)大唐より至る。
(二十二年六月)犬上君御田鍬・矢田部造を大唐に遣わす。
(二十三年秋九月)大唐より至る。
(三十一年秋七月)大唐の学問者・僧…。
(同上)唐国に留る学者…。
(同上)且つ、其の大唐国は、法式備定の珍国なり。
一方、中国に対する「唐」以外の表記は以下のようだ。
(B)
(十七年夏四月)「百済王、命じて以って呉国に遣わす。…」
(二十六年秋八月)高麗、使を遣わして方物を貢す。因り...
(三十二年夏四月)是に於て、百済の観勒僧、表上して以...
21.の「呉」については、後述するが、22.23.の例で...
このような「誤解」はなぜ生まれたか。それは、日本書紀の年...
1)
(舒明三年、631に当たる)三月庚申朔、百済王義慈、...
舒明三年は、百済では「武王三十二年」にあたる。義慈王元年...
2)
(推古十七年、609に当たる)「百済王命じて以って呉...
これは、百済僧道欣・恵弥らが、肥後国葦北津に漂着した時の...
では、これを十年以上繰り下げてみよう。すると、これは、唐...
(義寧元年、617、十二月)薛挙、自ら天子を称す。
(義寧元年、617、十二月)桂陽の人、曹武撤、兵を挙...
(義寧二年、618、三月)化及、秦王浩を立てて帝と為...
以上『隋書』
(武徳二年、619、四月)王世充、越王[イ同]の位を簒ぎ...
(武徳二年、619、九月)賊師、李子通、江都に拠り、...
以上『旧唐書』
さて、最後の李子通の立てた国が「呉」である。これが滅んだ...
さらに、関連する項目を挙げておこう。
裴世清の称号
1)(大業四年)明年、上、文林郎裴清を遣わして倭国に...
2)(推古十六年八月)「…故、鴻臚寺の掌客裴世清等を遣...
3)(推古十六年九月)「…使人鴻臚寺の掌客裴世清等至り...
以上のように、隋書は「文林郎」、推古紀は「鴻臚寺の掌客」...
「宝命」
推古紀に載せる「大唐の国書」に次の一節がある。
朕、宝命を欽承し、区宇に臨仰す。
この「宝命」とは、「天帝から下された天命」をあらわす。根...
嗚呼、天の降せし宝命を墜す無からんことを。尚書、金縢
周の初代・武王の言葉だとされている。武王は、武力によって...
これらの事実から、隋書倭国伝の倭王は天皇家ではないことが...
次に、隋書の記述から、「多利思北孤」の王朝がどこにあった...
阿蘇山有り。其の石、故無くして火起こり、天に接する者...
ここで、『隋書』倭国伝中、倭国の山河名勝として、この「阿...
百済を度り、行きて竹島に至り、南に[身冉]羅国を望み、...
竹斯(筑紫)から東へ秦王国と十余国を経て、「海岸」に達す...
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4.日出ずる処の天子
隋書には、倭([イ妥]-以降隋書原文に従えば「倭」ではなく「[...
開皇二十年(600)、倭王有り。姓は阿毎。字は多利思...
開皇二十年(600)の当時の天皇は、推古天皇である。女帝...
さらに、以下の記事を見よ。
倭王、小徳阿輩臺を遣わし、数百人を従え、儀杖を設け、...
これによれば、隋の使者裴世清は、倭王と直に会っている。こ...
女である推古天皇を男だと思った等と言うことはありえな...
倭王を別人(舒明天皇など)と取り違えてしまった等と言...
そこで、聖徳太子説が浮上する。だが、これも、矛盾が尽きな...
いずれにしても、恣意的な想像に過ぎぬ。
これも、「倭王」=「天皇家」という構図に、無理矢理結びつ...
さて、ひとつ確認しておくことがある。よく、倭王や倭国の使...
「これこれは、倭国の使者が中国に行った際(或は中国の...
具体的には、「多利思北孤」という名は、倭国の使者が隋で聖...
さて、では隋書に山積する数多い「問題」を挙げよう。これは...
1)姓
「倭王有り。姓は阿毎」とある。これも、名と同じく「国書の...
2)政治思想
「倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天、...
ここには、(A)「天-未明-兄」と(B)「日-日出-弟」の二系...
3)坐相
先の「跏趺」は通例「あぐら」と読まれているが、これは、「...
「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わ...
ここで、「日の没する処の天子」に向かって「海西の菩薩天子...
4)官位
隋書倭国伝の「官位十二階」と推古紀の「官位十二階」は内容...
5)官名
隋書に記された官名、「軍尼」「伊尼翼」について、これを「...
6)国交
もっとも基本的な矛盾は国交記事である。
#html{{
<table cellspacing="1" cellpadding="0" border="1">
<tbody><tr>
<th>隋書、倭国伝</th>
<th>推古紀 </th>
</tr>
<tr>
<td>開皇二十年(600)「使を遣わして闕に詣る」<...
<td>推古八年(600)記事無し</td>
</tr>
<tr>
<td>大業三年(607)「使を遣わして朝貢す」(沙...
<td>推古十五年(607)(七月)「大礼小野臣妹子...
</tr>
<tr>
<td>大業四年(608)「上、文林郎裴清を遣わして...
<td>推古十六年(608)(四月)妹子帰国。裴世清...
</tr>
<tr>
<td>同年(608)「復た、使者をして清に随い来っ...
<td>同年(608)(九月)裴、帰国。妹子を再派遣...
</tr>
<tr>
<td> 「此の後、遂に絶つ」</td>
<td>推古十七年(609)妹子帰国。福利は帰らず。<...
</tr>
<tr>
<td>大業十年(614)記事無し</td>
<td>推古二十二年(614)犬上君御田鍬を派遣。推...
</tr>
</tbody></table>
}}
表のように、推古紀には、「記念すべき」第一回の遣使が記さ...
さらに、推古紀に見える中国側の国書には、注目すべき一句が...
「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す。使人鴻臚寺の掌客裴...
とあって、この関係を容認したことが伺えるのである。
いままで、推古紀には「推古天皇・聖徳太子と隋」の交渉が描...
(A)
(推古十五年七月)大唐に遣わす。
(十六年夏四月)大唐より至る。
(同上)大唐の使人…。
(同上)唐客の為に…。
(十六年六月)「…唐帝、書を以って臣に授く。…」(妹子...
(十六年八月)唐客、京に入る。
(同上)唐客を海石榴市の術に迎ふ。
(同上)唐客を朝庭に召す。
(同上)大唐の国の信物を、庭中に置く。
(同上)唐客等を朝に饗す。
(十六年九月)唐客裴世清…。
(同上)唐客に副えて之を遣わす。
(同上)爰に天皇、唐帝を聘う。
(同上)唐国に遣わす学生…。
(十七年秋九月)大唐より至る。
(二十二年六月)犬上君御田鍬・矢田部造を大唐に遣わす。
(二十三年秋九月)大唐より至る。
(三十一年秋七月)大唐の学問者・僧…。
(同上)唐国に留る学者…。
(同上)且つ、其の大唐国は、法式備定の珍国なり。
一方、中国に対する「唐」以外の表記は以下のようだ。
(B)
(十七年夏四月)「百済王、命じて以って呉国に遣わす。…」
(二十六年秋八月)高麗、使を遣わして方物を貢す。因り...
(三十二年夏四月)是に於て、百済の観勒僧、表上して以...
21.の「呉」については、後述するが、22.23.の例で...
このような「誤解」はなぜ生まれたか。それは、日本書紀の年...
1)
(舒明三年、631に当たる)三月庚申朔、百済王義慈、...
舒明三年は、百済では「武王三十二年」にあたる。義慈王元年...
2)
(推古十七年、609に当たる)「百済王命じて以って呉...
これは、百済僧道欣・恵弥らが、肥後国葦北津に漂着した時の...
では、これを十年以上繰り下げてみよう。すると、これは、唐...
(義寧元年、617、十二月)薛挙、自ら天子を称す。
(義寧元年、617、十二月)桂陽の人、曹武撤、兵を挙...
(義寧二年、618、三月)化及、秦王浩を立てて帝と為...
以上『隋書』
(武徳二年、619、四月)王世充、越王[イ同]の位を簒ぎ...
(武徳二年、619、九月)賊師、李子通、江都に拠り、...
以上『旧唐書』
さて、最後の李子通の立てた国が「呉」である。これが滅んだ...
さらに、関連する項目を挙げておこう。
裴世清の称号
1)(大業四年)明年、上、文林郎裴清を遣わして倭国に...
2)(推古十六年八月)「…故、鴻臚寺の掌客裴世清等を遣...
3)(推古十六年九月)「…使人鴻臚寺の掌客裴世清等至り...
以上のように、隋書は「文林郎」、推古紀は「鴻臚寺の掌客」...
「宝命」
推古紀に載せる「大唐の国書」に次の一節がある。
朕、宝命を欽承し、区宇に臨仰す。
この「宝命」とは、「天帝から下された天命」をあらわす。根...
嗚呼、天の降せし宝命を墜す無からんことを。尚書、金縢
周の初代・武王の言葉だとされている。武王は、武力によって...
これらの事実から、隋書倭国伝の倭王は天皇家ではないことが...
次に、隋書の記述から、「多利思北孤」の王朝がどこにあった...
阿蘇山有り。其の石、故無くして火起こり、天に接する者...
ここで、『隋書』倭国伝中、倭国の山河名勝として、この「阿...
百済を度り、行きて竹島に至り、南に[身冉]羅国を望み、...
竹斯(筑紫)から東へ秦王国と十余国を経て、「海岸」に達す...
#menu(menu_Historical)
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