日本略史
をテンプレートにして作成
開始行:
古代の日本は海峡国家
もちろん歴史は原始の時代から続いているのだが、日本の歴史...
石器時代から青銅器・鉄器時代への変化を技術史的に見直して...
これは金属技術が徐々に発達したのではなく、技術流入があっ...
近年の研究でこのことが確定的になった。考古学的には九州を...
二つの文化が共に同じ銅を使っていたことの意味は大きい。地...
こうしてみると、この時代の様子が見えてくる。あちこちに小...
僕の仮説は、朝鮮半島の南部にいた倭族が北九州に進出し、そ...
九州の倭族は銅鉄の輸入にのため自国だけで足りない米を近隣...
速やかな銅鉄の流通は、倭が海峡をまたいだ海峡国家であるこ...
後漢書東夷傳には、「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱...
建武中元二年(AD57年)に「倭奴国」という国があり、漢の光...
この倭奴国は倭国全体から見れば、極南界すなわち一番南にあ...
倭が海峡国家であったということは、銅鏡の考古学とも一致す...
朝鮮の記録も倭が海峡国家であったことに一致する。高句麗や...
魏誌倭人伝の描く三世紀には、倭国の中心は邪馬台国に移り、...
魏志倭人伝の景初2年(238年)の項には、邪馬台国の女王卑...
後代の銅鏡は広く分布しているが模様は地域によってすこしづ...
三世紀後半になると、大和では銅鐸が作られなくなった。銅鉄...
任那日本府の謎
学校で教わった日本史の教科書には任那日本府が562年に滅びた...
日本書紀の仲哀記には神功皇后の三韓征伐という記事があるが...
日本書紀はこれ以降、朝鮮三国が日本に朝貢する記事が何度も...
しかし、朝鮮に関する記事が多いのは事実でありこれが何を意...
414年建造とされる好太王碑には400年と404年に二度にわたる倭...
日本書紀に高麗が現れる理由は少し複雑で、実は高句麗が520年...
好太王碑は当時のままの金石文が残っていたのだから一級資料...
当時の王碑というのは事実を書くのではなく、どれだけ大風呂...
400年の戦争は、新羅に倭が侵入して助けを求めたとなっている...
404年の戦闘もおかしい。倭が帯方郡に侵入してきたと言うのだ...
この時も高句麗は大軍を派遣して大勝利を収めたことになって...
日本側の資料も建前優先ということでは同じようなものである...
これらの人物はむしろ朝鮮半島でヤマト政権からは独立した存...
もう少し後の年代になってもやはり見栄的な記録が続く。ヤマ...
白村江の戦いが本当に、これほどまでの大軍を派遣しての敗戦...
白村江の戦いで具体的な戦略立案をしているのは、朴市秦 田来...
日本書紀の記述にどれほどの信憑性があるのかはには注意が必...
ヤマト王権には朝鮮支配に対する強いこだわりがあったが、こ...
謎の4世紀を考えるーー騎馬民族の侵攻
歴史における日本の記録は、漢書東夷傳のAD57年にさかのぼる...
すなわち、あれほど盛んに作られた銅鐸が突如としてなくなり...
4世紀が空白になったのは、三国時代を統一した晋が崩壊して以...
中国では匈奴、鮮卑といった胡族の侵入が古くからの問題で、...
朝鮮半島から日本への民族の流れは、こういった4世紀の民族移...
遅れて海を渡った韓族は、まだ倭族の支配が及んでいなかった...
大和や出雲に北九州を中心とする銅剣銅矛とは少し趣の異なる...
4世紀の民族移動の影響は、朝鮮半島にも及んだ。ツングース系...
帯方郡を破壊して高句麗を打ち立て、太白山脈の東では新羅、...
北九州にも騎馬民族文化の影響がみられる遺跡がある。しかし...
日本書紀にこういった騎馬民族侵入の片鱗を見るとすれば、そ...
鉄の国産化で朝鮮半島からの金属供給を軸にした小国家群の共...
ヤマト王権は、渡来した騎馬民族が土着の農耕民族を支配する...
日本書紀は朝鮮半島を支配していたかのように書いているが、...
ヤマト王権の成立は七世紀
考古学的検討と中国文献から、日本の古代は、海峡国家から北...
しかし、二王朝の対決といった構図を確認するにはには、あま...
僕は日本の王権が王朝などと言える確固としたものになるのは...
砂鉄を使った鉄の精錬が始まり、金属が国産化されると、海峡...
万葉集の一番目の歌:
----------------------------------------------
籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串...
-----------------------------------------------
籠(かご)よ 美しい籠を持ち 箆(ヘラ)よ 美しい箆を手...
---------------------------------------------
これが本当に雄略天皇の歌であるかどうかは疑問があるのだが...
日本書紀の592年には蘇我馬子が崇峻天皇を殺害した記事がある...
日本書紀は8世紀になって書かれたものであるから、崇峻を天皇...
九州にも大和にも小国が分立し、有力なものが大王を名乗った...
日本書紀はある意味で、各部族が合意した統一国家への合併協...
各地の部族が折り合いを付けて、ヤマト王権を統一国家の王権...
ヤマト王権は4世紀から徐々に発展し、九州や出雲と折り合いを...
古代日本の様子
日本が初めて歴史に登場したのは、1世紀に書かれた漢書地理...
2世紀の後漢書になると「永初元年(107年)倭国王帥升等、生...
3世紀には魏志倭人伝がある。魏志倭人伝といえば、邪馬台国...
帯方郡から見て、日本列島の有力な国の一つが邪馬台国であっ...
一夫多妻制で妻が3,4人いるが、風俗は淫らではない。冠はか...
こういった生活の様子は日本の記録には現れない。当事者は、...
衣類は主として麻だったようで、紵麻(からむし)で麻布を作っ...
外交関係はかなり活発で、記録も具体的だ。卑弥呼が魏に使い...
絳地(あつぎぬ)の交竜錦(二頭の竜を配した錦の織物)五匹
絳地の粟(すうぞくけい:ちぢみ毛織物)十張
絳(せんこう:あかね色のつむぎ)五十匹
紺青(紺青色の織物)五十匹
これに加えて、遠路はるばる来たことを讃えて特別プレゼント...
紺地の句文錦(くもんきん:紺色の地に区ぎりもようのついた錦...
細班華(さいはんかけい:こまかい花もようを斑らにあらわし...
白絹(もようのない白い絹織物)五十匹
五尺刀二口
銅鏡百枚
真珠五十斤
鉛丹(黄赤色をしており、顔料として用いる)五十斤
おそらく当時の倭国の国家予算を超えるようなものだっただろ...
朝貢したのは、邪馬台国だけではない。一応は邪馬台国に従属...
帯方郡としては、「張政」を日本に送り、「難升米」を説得し...
男女生口三十人
白珠五千(枚) 真珠?
孔青大句(勾)珠(まがたま)二枚
異文雑錦(異国のもようのある錦織)二十匹
で、少し生産力が高まっているとも見受けられる。「卑弥呼」...
倭の様子を記述した文章が7世紀の隋書でも見られる。魏志を下...
中国の歴史書によれば古代日本の様子が見えるのだが、これは...
文字使用の始まり
日本に文字文化が生まれたのはいつごろのことだろうか。日本...
だが、僕はもっと遅いと見ている。読み書きすなわち文字文化...
文字だけについていえば、三世紀の銅鏡にも見られるが、字画...
倭の五王(413-502)は朝貢に文字を使ったと考えられるが、お...
倭の五王に限らず、卑弥呼や難升米といった名前も現代の感覚...
稲荷山古墳出土鉄剣に115文字の象嵌があったことから、471年...
記紀を古文として文語体で読み下しているが、文語体自体が文...
少しづつ広まっていった文字の使用は、読み手書き手の数が一...
遣隋使は国書を携えて海を渡ったからこの時には文字が使われ...
無文字文化から文字文化への変化、すなわち文字使用が始まり...
国家に至るまでには、その準備期として、何代かの政権交代や...
記紀の記述で事実と確認できる最古のものは、推古28年(618年...
記紀を読み解く前提として、いつから文字の使用が始まったか...
古事記と日本書紀のなり立ち
記紀の成り立ちを考える前提として文字の使用がいつ始まった...
656年に書かれた隋書には、「文字なく、ただ木を刻み縄を結ぶ...
逆に考えれば、日食や彗星はそれ以前にもあったはずだが、こ...
断片的な記録としては雄略期にさかのぼることもあり得る。日...
日本書紀の執筆が雄略記から始められた理由は、想像でつなぎ...
日本書紀によれば、歴史書編纂は681年に天武天皇のもとで開始...
その後、歴史編簿がどうなったかの記事は日本書紀にはない。...
続日本紀には、713年に諸国の風土記を撰進させたことが書いて...
史書は一つではなく、もう一つ古事記がある。古事記の方は、...
この二書の関係が大きな謎である。国史編纂を同じ時期に二つ...
こういったことから、古事記偽書説というのが古くからあり、...
古事記の序文というのは内容的には上表文になっており、用命...
こういったことが、古事記は後世に書かれた偽書ではないのか...
決定的なのは、上代特殊仮名遣いである。古くは日本語に八種...
(1)古事記本文、(2)日本書紀α群、(3)日本書紀β群、(4)古...
歴史の書き出しは世界の創生から始まるのだが、各氏族にはそ...
神話の調整に手間取る間にも、文字の普及は進み、様々な記録...
α群の著述と並行して進められてきた神話部分の調整がまとまり...
しかし、この草稿は古い呉音表記のものだったし、編年がなく...
安万侶が下書きを保持しており、それが子孫に伝わっていった...
こうして日本には、記紀二つの初期歴史書が残ることになった...
神武天皇の即位を辛酉年としたのは偶然だ。当時入手できるよ...
世に言う讖緯説は、記紀編纂当時誰も知らなかった。辛酉革命...
古代日本の政変と疫病
医薬の知識が全くなかった時代には病気に対して「おまじない...
一番古い伝染病は結核で、弥生人の人骨からもカリエスが見い...
咳逆つまりインフルエンザは渡り鳥が運ぶから、どこへでも飛...
赤痢が文献に出てくるのは、三代実録の貞観三年(861年)である...
人口を減らすような大流行は14世紀の黒死病(ペスト)が知ら...
人から人への空気伝染の場合、動物の生態とはかかわりなく、...
日本でも、最初に起こった危機的大流行は痘瘡(天然痘)によ...
『日本書紀』敏達天皇十四年(585年)の記事がによれば、膿疱(...
これをめぐって、古来神をあがめず仏教などというものを取り...
奈良時代、735年にも大流行があった。流行は九州から始まり(...
2年後の737年にも再び九州から疫病が流行して農民の多数が死...
疫瘡の大流行は平安時代995年にもあって、赤斑瘡(あかもがさ...
痘瘡の方が致死率が高く、治ったとしても「あばた面」が残る...
人間には発症しない牛痘を使って疑似的な毒素で免疫を発現さ...
いまでこそ痘瘡は絶滅した病気だが、日本史においては何度も...
小野妹子の行き先
聖徳太子が607年に小野妹子を隋に送った、遣隋使がわが国外交...
どう書いてあるかと言えば、小野妹子は「遣唐使」と書いてあ...
日本書紀が編集されたのは、遣隋使よりも100年経ってからなの...
だから目的に合わない所は容赦なく書き換えられた。編者は隋...
遣隋使以前にも中国との交流はあった。魏志に卑弥呼が載って...
中国側にも遣隋使の記録はあるが、こちらは当然、日本が辺境...
隋書は50年後に書かれた物だから日本書紀の記事より同時代性...
日本書紀が無視した第一回の遣隋使の記録を見てみよう。尋問...
政情を聞かれて「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす...
風俗としても刺青が多く、文字は無いし、貫頭衣のような原始...
第二回の記事は608年でこれが遣隋使の最初とされているが中国...
持って行った国書は、「日出ずる處の天子、書を日沒する處の...
この使節の重要なところは文林郎の裴世清を答礼使として倭国...
ともあれ、隋から使いまで来たのに気を良くして608年には大訪...
日本書紀には犬上三田鍬たちの第4回がかかれているが隋では「...
水時計は何故四段仕掛けなのか
当然ながら大昔には時計がなかった。人々は明るくなれば起き...
だから日本の最初の時計は水時計である。時刻は人為的に作ら...
その漏刻というものがどのようなものであったかというとき必...
四段式水時計には高度な技術がいる。普通に上の容器から下の...
高低差が滝のように大きくて、水量豊富であれば、上の容器を...
そこで工夫されたのは、上の容器の上にさらに容器をつなぎ、...
ィードバックが働くかどうかをシミュレーションで計算してみ...
流量は高低差の平方根でしか変化しないからフィードバックの...
和気清麻呂
戦前の歴史教育では、道鏡の悪企みを打ち破り、萬世一系の天...
しかし、和気清麻呂という人物が実在し、神話的な業績が伝え...
もともと和気の一族は備前磐梨郡あるいは藤野郡あたりの地方...
大和の国は豪族の連合体から天皇家を中心とする統一国家への...
清麻呂が出仕して登用されたのは兵衛という警備担当の下級職...
清麻呂の場合も、孝謙天皇のお側付きとなった姉広虫の引きが...
孝謙天皇は女帝であり、草壁皇子の皇統を次代に引き継ぐ使命...
一方で留学生や識者の間では唐に習った専制国家としていく方...
称徳天皇自身は仏教に帰衣し、天皇でありながら道鏡を師とす...
宇佐八幡宮の神託を確かめに行けとは、どういうことだったの...
八幡神と対話してきたなどといい加減なことを言うな、とはい...
清麻呂は中央に復活する。しかし、天皇家を守った功労者とい...
桓武天皇は母親が渡来氏族であったため、皇位継承者とは見な...
桓武天皇の信任を得た高官としての、清麻呂の活躍はむしろこ...
七八六年には従四位上で摂津太夫・民部卿となり、神崎川と淀...
七八八年には、上町台地を開削して大和川を直接大阪湾に流し...
奈良仏教の悪弊も有り、部族政治の呪縛が続くだけでなく、流...
河川工事で学んだことは大きく、これをもとに長岡京の建設を...
それまでの政治というのは、すべからく権力闘争であり軍事だ...
備前磐梨から中央政界に踊り出て、世襲貴族の仲間入りをした...
現在「和気」という姓は全国に600位あり、畿内全域に少し...
しかし、清麻呂の系統から、平安末期に武士となり、備中で帰...
栃木県の和気氏は「ワキ」と読み、塩谷郡の高原山麓に分布し...
遣唐使の憂鬱
古来交易は多くの利益を生み、人々の冒険心をかきたてた。フ...
おそらく、日本は小さいながらも、当時必要なものは何でもあ...
これは中国も同じで、ヨーロッパと異なり、ことさら貿易に頼...
それなりに交易の恩恵があり、日本でも新しい文化にあこがれ...
遣唐使に選ばれるのを嫌がった大きな理由は航海の危険性にあ...
航海が困難だっただけでなく、正使に与えられた任務はまとも...
日本が世界の中心であるなどと言うことが対外的に通用するは...
下手をすれば地方に留め置かれ任務は果たせない。何百人もの...
唐はもちろん中華思想に凝り固まっている。周辺諸国は天子の...
大体、遣唐使に選ばれるのは、相応の身分まで出世した人が条...
日本と唐の根本的な位置づけの違いから、日本から見て、まと...
讖緯説と古代天皇の寿命
日本書紀が記述する古代の天皇は、いずれもやたら長生きして...
明治の初めにこれを言い出したのは、那珂通世であり、神武天...
この説が広く通説のごとく受け入れられているようだ。日本書...
一体何を基準にしての一二六〇年なのかというと、当然それは...
讖緯説の基準年がおかしいということの原因の一つは、那珂通...
「鄭玄曰く、天道は遠からず、三五にして変ず。六甲を一元と...
那珂通世は、「二十一元を一蔀と為す」だけを取り出して、当...
原典が読めないので、定かではないが、「四六、二六交相乗ず...
鄭玄の原典が存在しない理由は、魏以降は、排斥されて禁書に...
日本では、九〇一年に好事家の三善清行が、讖緯説をほじくり...
禁書にされたような考えが、早い時期にしっかりと日本に伝わ...
日本書紀の成立史が、この問題では大きなヒントになる。森博...
それ以前を付け足した第二期執筆では、歴史としては書けない...
当時の考え方としては、寿命が長くなることは、そう不合理で...
紀元前六六〇年、明らかに弥生時代の、まだ大きな集落や、ま...
道鏡事件はなかった?
中西康裕さんの講演を聞く機会があった。道鏡事件はなかった...
続日本紀の宇佐八幡宮神託事件部分は、2つの宣命と、その間に...
最初の宣命は、和気清麻呂に対する怒りと処罰が述べられてい...
道鏡を皇位につけようとして、皇位問題を持ち出したのは天皇...
中西康裕さんは、文体研究を通して、二つの宣命が同時期に書...
そうすると二つの宣命の矛盾はどうしたことだろう。この間に...
途中の解説を無視して、宣命だけを分析してみると、第一の宣...
二つの宣命の間にある解説文は、後世勝手に付け加えた藤原氏...
しかしながら、この説には納得できないところが多々ある。続...
ただ宇佐八幡宮の神託があっただけでなく、清麻呂をわざわざ...
称徳天皇にとって皇位継承問題が最大の課題だったことは言う...
持統天皇以来の歴代女帝の草壁皇子系統へのこだわりは極めて...
天智系など、もっての他であったから。草壁皇子系統が絶える...
第二の宣命にある皇位は天の定めるものであるとする言い方は...
宇佐八幡宮神託事件は称徳天皇の皇位継承策である祭政一致の...
琉球 海洋王国の虚構
15世紀から16世紀にかけて、日本で言えば室町時代であるが、...
琉球は海に囲まれており、古くから海外への渡航があったこと...
琉球はサンゴ礁からできた島であり火山島ではない。だから小...
日本での記録は、727年以来1400年代まで途絶え、この空白期間...
歴代宝案は1607年の記事で「計今陸拾多年毫無利入日鑠月銷貧...
琉球が明に朝貢を始めたのは、1372年に揚載が琉球に派遣され...
明は元を駆逐して成立したのであるが、馬の供給地は依然とし...
物流量の不足を補うために明は琉球に大型船を供与した。それ...
もちろん朝貢は琉球に多大な利益をもたらした。土器しか生産...
しかし、明の支配が安定してくると硫黄の需要も少なくなり、...
この時代の日本や南方への交易を中継貿易とする見方は内実が...
多くの海洋王国論者はこういった物流量を見る視点が欠落して...
尚徳王は、1465年に明に対し、概略次のように述べている。「...
馬や硫黄の需要がなくなると、明にとって琉球の価値は減って...
船は購入しなければならなくなってしまったが、派遣中国人た...
南方交易を支えたものには、明の威光も大きい。歴代宝案にあ...
ポルトガルの東洋進出が始まり、1511年にマラッカ王国が滅び...
普通に考えれば、もし琉球が中継貿易を担っていたのであれば...
琉球の南方交易に置き換わったのは明や日本の直接交易である...
朝鮮との交易はずっと日本経由だったが、応仁の乱以降は日本...
1534年に陳侃が冊封使として来琉した時には、渡航に琉球から...
明への朝貢による寄生でなり立っていた琉球王朝は、朝貢の行...
高松城水攻めの戦略問題
高松城水攻めの戦略問題
備中高松城の水攻めは戦国時代、天下統一の過程における一大...
水攻めにまつわる戦略問題に関しても、太閤記の脚色を排除し...
この問題を理解するには、まず第一に当時の状況を客観的に見...
このような局面で織田軍を迎え撃つ先陣を任された清水宗治は...
だから、毛利からの指令は、先制的急襲ではなく最初から篭城...
境目七城の守りを固めれば、織田軍は短期決戦の城攻めを無理...
しかながら、織田軍の総大将羽柴秀吉はすでに信長とは異なる...
毛利も、捨石全部が有効に働くとは考えていない。いくつかの...
備中は言うもでもなく毛利配下小早川の所領である。織田がす...
結局のところ織田軍は速攻戦略を取ると踏んだ毛利の思惑はは...
秀吉は毛利に厳しい講和条件を提示してきたが、本能寺の変が...
一方毛利も実は清水宗治を助けることに熱心ではなかった。な...
清水宗治には自害して果てる以外に道は残されていなかった。...
明智光秀の黒幕
本能寺の変・明智光秀謀反の理由についてはいくつもの説があ...
明智光秀も優れた武将であったが、織田の家臣全てを敵に回し...
光秀の言葉として伝えられているものに『武士の嘘を武略と言...
理屈人間である明智光秀が、反信長で決起するにはそれ相応の...
織田信長と正親町天皇の確執を示す文献はないが、歴代天皇と...
なぜ、位階を断るようになったのか。それは単に敵対する武将...
これは天皇にとって最悪の事態だ。源頼朝も天皇の権威に逆ら...
正親町天皇は、変の後のわずか7日間に3度も勅使を派遣してい...
光秀も、天皇の権威があれば多くの武将を従わせることが出来...
毛利との戦闘の真っ最中で、羽柴秀吉もそう簡単には戻ってこ...
ところが、秀吉の転進はなんとも素早いものだった。わずか3日...
天皇は、光秀への勅使に関して、勅使として派遣されたのは吉...
秀吉は光秀の挙兵を遺恨によるものだという説を積極的に広め...
女化騒動-----牛久助郷一揆
一〇月二一日は国際反戦デーと言われベトナム戦争当時から平...
女化騒動に関しては茨城県立歴史館の図書室で見られる野口三...
牛久沼は今よりも大きく広がっていたので、当時の水戸街道は...
時代が進み、交通が頻繁になってくると、人馬の供出が村内で...
助郷が広がるとかなり遠方の村から牛久まで行かねばならず。...
なんとか耐え忍んで一〇年の期限が終わろうとした時に、久野...
小池村(阿見町小池)の百姓勇七四二才と百姓吉十郎三八才、...
集まった農民を前に、かがり火に照らし出された勇七が、一世...
「この度、大勢の皆様を相招きしことは、兼ねてより張札場に...
一揆の目的が加助郷の延長が不当であることを世に訴えること...
一九日、久野村の和藤治宅を襲撃。二〇日、牛久宿問屋麻屋治...
幕府は直轄天領での一揆に驚愕して、旗本や近隣諸藩に鎮圧命...
農民達はそしらぬ顔で村々に戻ったが、幕府の追及は厳しかっ...
アナーキーな破れかぶれな一揆ではなく、整然と計画的に行わ...
海峡を発見した幕府隠密
間宮林蔵が間宮海峡を発見した1809年からおおよそで200年にな...
間宮林蔵は常陸国筑波郡上平柳村で生れた百姓のせがれである...
小貝川の改修工事に来た幕府の役人に秀才ぶりをアピールし、...
頭の回転が良くて、出世のためにはなんでもする男。これは使...
江戸でどのように暮らしたかは定かではないが村上島之允に算...
間宮林蔵の最大の功績である樺太探検は、最初松田伝十郎の従...
43歳で蝦夷地の測量も終わり、探検家としての仕事からは引退...
林蔵は測量技術の習得には熱心であった。通商を求めるロシア...
シーボルトにも近づき、測量技術を習得しようとした。おそら...
シーボルトは「たとえ密告者であるとしてもその功績を無視す...
武士道に基づく信義が重んじられた時代には林蔵の評価は高く...
領土問題では探検家の業績がものを言うが、間宮林蔵は密偵だ...
間宮林蔵を偉人として顕彰するのはたいがいにした方がいい。...
二宮金次郎の財政改革
薪を背負って歩きながら本を読む少年の像で知られる二宮尊徳...
石像ばかりでなく、銅像も多かったのだが、戦時中に供出させ...
尊徳(たかのり)というのは、56歳になって幕府に取り立てら...
幼少の時に先を見越して竹を植えたとか、子守で得た駄賃で堤...
両親を失った貧しい少年でありながら、超人的な勤勉さで働き...
猛烈に働いて土地を買い戻したというが、当時の賃金では、7俵...
家督再興の評判が伝わり、小田原藩家老、服部家の財務コンサ...
服部家の家政での功労を知って、小田原藩は野州桜町の村財政...
財政再建に対する金次郎の手法は、現在では当たり前な、きっ...
開墾や用水の事業には資金が必要だが、金次郎の改革が領主受...
農民たちに「やる気」を起こさせなければ、返済不能となり、...
実際には、一番の成功例である桜町改革では、小田原藩の公的...
『殿様が借金のあるときに人民が困窮するのは天命だ』といっ...
しかし、「パチンコなんかやってないで、まじめに働こう」的...
現在の財政政策では、倹約一点張りである金次郎の手法は必ず...
枡の謎解き
二宮金次郎が小田原藩領での枡改革を行ったことが良く知られ...
二宮金次郎が行ったのは、一俵を規定するための専用枡を決め...
「小田原藩枡改革覚書」によれば、この枡は、一尺方形で深さ...
計算をしてみると、一尺の方形枡の場合、一俵が40.72377升に...
江戸幕府は一升の計量に非常なこだわりを持っていた。江戸と...
一尺の方形枡に端数が現れた理由は、この新京枡による幕府の...
「虫や鮒」の根拠は、幕府の新京枡の寸法が4.9寸×4.9寸×2.7寸...
しかしながら、この解釈には納得できない。地方役人ならまだ...
二宮金次郎の枡改革の逸話が有名になったことから、一斗枡も...
逆算して、本当の寸法がいくらであるべきかを考えて見よう。...
厘以下の半端を出さずに一斗の枡を作る寸法の組み合わせは限...
縦横を10寸5分とすると深さは5寸8分8厘となり、これでぴった...
これを京枡で行うとどうなるか?やってみた結果、京枡では一...
京枡から新京枡への転換は、一斗や一合を正確に定義して、計...
一方で、尊徳枡については、実在に疑いが生じた。10.033寸な...
坂本龍馬異論
昨今の評価では、明治維新と言えばすなわち坂本龍馬の活躍と...
実際、坂本龍馬が明治維新で何をやったかというと定かではな...
海援隊と言う組織を立ち上げたことも龍馬の事跡だが、海援隊...
岩崎弥太郎との関連で海援隊の貿易事業の先駆性が言われるが...
坂本龍馬の思想が先見的だったことも言われるが、特に著作が...
実際、横井小楠も「国是三論」「国是七条」「国是十二条」を...
新政府を立ち上げたのは、天皇が顧問(議定)や議員(参与)...
坂本龍馬は下役の出身で少年時代は特に目立たなかったし、成...
だから坂本龍馬は素浪人としてあちこち渡り歩き、放言しただ...
明治初期には、維新の立役者は誰かといった評論が盛んに行わ...
十傑は明治になるまで生き残って元勲として明治政府で活躍し...
横井小楠の方は人物として評価が高かったことがわかる。勝海...
忘れ去られた名前である坂本龍馬が復活したのは日露戦争の時...
以来、龍馬の名前は少し知られるようになり、いろんな本にも...
今のような龍馬像が浮き上がったのはひとえに司馬遼太郎の「...
万次郎と彦の接点
長い鎖国の時代を超えて、日本人の目が世界に見開かれるよう...
万次郎は一八二七年に生まれた土佐の漁師のせがれだった。父...
船長に見込まれ、ここで教育も受けた。三年間の教育で、数学...
一八三七年に播磨で生まれた彦が一三歳で遭難したのは、二三...
サンフランシスコで一年余り、船員たちの庇護の下、下働きを...
こうした心の自由は、当時の日本人にはあり得ないようなもの...
比較してみると、万次郎のほうが帰国の願望が強かったし、そ...
琉球に着いた万次郎は、薩摩に送られ、さらに土佐に送られ、...
黒船が来航し対外対応が必要となった幕府は、情報を得ようと...
彦のほうは、教育を受けたあと商人を目指した。ブキャナン大...
彦が神奈川に来たころ、万次郎は江戸の軍艦教授所で航海術を...
幕府は、一八六〇年に遣米使を渡航させることになったが、こ...
咸臨丸の航海については、福沢諭吉が詳しく書き残しているが...
彦は、サンフランシスコの街中で暮らし、社会制度や、商取引...
咸臨丸が出航したあと、日本は反動で尊皇攘夷熱が高まり、ヒ...
この頃、彦は、グラバーに誘われて領事館を辞して、拠点を長...
1968年は明治の政変があり、世の中が変わった。もはや武器も...
彦は大蔵出仕となって、造幣局の設置や商業教習を行うが、ビ...
なぜ征韓論が内戦にまでなったのか
征韓論が大問題となった明治6年と言う時期は、重大な内政問題...
徳川幕府崩壊の大元を作ったのは水戸光国である。幕府が発足...
これでは将軍が徳川氏であることに何の必然性もない。武家の...
攘夷で始まった幕府批判は、国学の流行に結びつき、たちまち...
国学のイデオロギーは萬世一系の天皇を頂く日本が唯一の神の...
現実が困難であればあるほど理論は先鋭化する。何が真実かを...
しかしヤマト政権が掲げた天皇制のイデオロギーは、実は過去...
だから、まだ新しい政府の何も整わないにもかかわらず「征韓...
おそらく征韓論が現実にそぐわないとは意識していただろう。...
近年、西郷隆盛の征韓論を擁護する論調が出てきているが、先...
征韓論が頓挫して、大久保や伊藤のような「不純」な志士達が...
日清戦争・成歓の闘い
大日本帝国の歴史は戦争の歴史である。開国以来日本は戦争を...
しかし、事実は多少異なり、実はこの戦闘で、見方によれば日...
日清戦争は1894年8月1日に始まり、翌年4月17日に終わった日...
そのころ朝鮮では東学党の農民一揆があちこちに起こり政情不...
広島は、山陽鉄道が開通して広島までの鉄道が使える様になっ...
捕虜にした国王に「清国軍を追っ払って欲しい」と言わせて、...
清国軍は京城に攻め込むというようなあつかましいことは出来...
素早い動きが出来た理由の一つは、もうひとつの日本の得意技...
というわけで、食料や馬は原則現地調達つまり略奪でやること...
補給を徴発でまかなうと言うのも実は楽ではない。それはそう...
混成旅団の戦闘詳報によれば、7月28日は素砂場で野営し、7月2...
ここから成歓までは田圃の中の細い一本道となる。いくらなん...
20分ほど歩いて秋八里の手前600mの所まで来た。「キリン洞」...
第12中隊は道路から田圃に飛び降りて左側散開して伏せた。後...
この「水構に追い落として」と言うところは日本側の記録にも...
当初の報告では時山中尉は行方不明で、溺死の事実は隠されて...
通俗本の溺死状況をはじめ、よく言われている成歓戦の様子は...
ではどのようにして溺死することになったのだろうか。軍の記...
水死体を実況見分した報告書によれば17体を発見した場所は安...
さらなる疑問は緒戦の部分にもある。清国軍は堂々と「師」の...
計画的な一斉射撃ではなかったがかなり猛烈な射撃と思われた...
あまり華々しくもない最初の戦闘も軍国日本としては美化せざ...
木口小平の真実
岡山から伯備線で一時間、備中高梁に行くと木口小平の記念碑...
この教科書は内容が杜撰で初歩的な誤りが多いそうだが、自ら...
実際にどのように扱われたのかを調べて見ると、ラッパ手の武...
日清戦争当時はまだ国定教科書と言う制度はなかったのだが、...
明治政府が徴兵制を敷いて、これまで武士の専権行為であった...
白神源次郎がどのような人物であったかというと、元は高瀬舟...
白神は成歓の戦で戦死したがラッパ手ではなかったと言うこと...
戦闘中のことだから溺死であれ弾丸死であれ名誉の戦死で良さ...
日清戦争における兵卒の扱いはひどいもので、どの戦闘詳報を...
さすがに、8月15日になって旅団から正式に出した戦死者名簿に...
「日清戦争名誉戦死者人名録」(明治28年、金城書院)にも、...
戦死と言っても鉄砲玉に当たるばかりではない。成歓の戦では...
「終始力強い進軍ラッパを吹いて全軍を励ましていたラッパ卒...
後日名誉の戦死を大いに称えられたたが、木口も白神も実は何...
2.26事件を解明する
2.26事件は、日本が戦争の泥沼に踏み込んで行く端緒となった...
実は2.26事件の原因は帝国憲法にあり、明治維新の過ちから来...
法律の素人である伊藤博文が作った大日本帝国憲法には、いろ...
それでも、維新元勲が政治を担っていた明治の時代には、軍と...
軍人にとってはこれが不満だった。軍事を知っている自分たち...
第一次世界大戦が終わり、世界が軍縮に向かうころから、世界...
平時の軍は戦功での評価がないので、完全な学歴社会になる。...
こんなことから、青年将校たちは、社会経験が薄いにも関わら...
こうした政治派閥がお手本にしたのは明治維新であり、彼らは...
彼らは平然とクーデターを実行する主張を繰り返し、特権意識...
この当時、政府を運営していたのは、政党の代表者たちであっ...
天皇が支配する理想的な神の国である日本で、なぜ労働者・農...
どの派閥も、基本的な政策主張は同じだ。軍事最優先で、軍縮...
当然ながら、陸軍大学出身者など、軍の主流に近いところに統...
どちらも、様々な問題の解決を領土の拡大、対外侵略に求めた...
考え方もさることながら、派閥の常として、交友関係によるつ...
荒木が陸軍大臣になったこどで、極端な派閥人事が始まった。...
危機感を覚えた皇道派は、相沢三郎による永田鉄山暗殺事件を...
2.26事件は、政府に対する反乱であったと同時に統制派に対す...
しかし、政治の実権を軍が握るという思惑は成功し、それがた...
民族独立と太平洋戦争
人類に大災害をもたらした第二次世界大戦を積極的に評価しよ...
一般的には、遅れて西洋文明を取り入れながら、経済発展を果...
アジア・アフリカの独立運動はもっと早く、第一次世界大戦の...
確かに日本の占領中に独立した国もある。フィリピン、ラオス...
ベトナムは日本軍が支配してパオ・ダイに「ベトナム帝国」を...
日本軍がフランスから独立させたラオス王国は傀儡のようなも...
フィリピンは1934年に自治領となり、10年後に完全独立する法...
ビルマではアウンサンたちが日本軍に期待してイギリスと戦っ...
インドネシアはスカルノたちが日本軍と協力して民衆を組織し...
カンボジアは日本軍がインドシナに進攻した機会を捉えてシア...
いずれの国々も、日本軍のおかげで幸せな独立を果たしたとい...
独立背景に寄与するのは国連の成立とその援助が大きい。1949...
日本がアジアにありながら、西洋文明を取り入れて独自の経済...
日本の侵略については様々な言い訳がなされている。日本がし...
朝鮮の植民地経営は赤字で、朝鮮へのインフラ支出は税金を大...
朝鮮が日本の植民地になって以後人口が増えた事を「いい侵略...
ミッドウエー海戦と北の島々
アッツとキスカはいずれもアリューシャン列島にあるアメリカ...
奪還を目指すアメリカ軍がせまる中、アッツには援軍も食料・...
キスカのほうは、脱出作戦が行われた。6500人という人数から...
明暗は分かれたが、戦略上重視されなかった点は同じだ。では...
アッツ、キスカの占領はミッドウエー海戦と同時に行われた。...
これらの島は日本が占領している唯一のアメリカの領土になる...
意味のないアッツ・キスカの占領がなぜ行われたというと、政...
軍は、本土への空襲を防ぐためにアッツ・キスカの占領が必要...
実際には、ミッドウエー島を占領する前に、日本の連合艦隊は...
日本軍がミッドウエー島への攻撃に手間取っているうちにアメ...
問題はなぜこういった根本的とも言って良い作戦の誤りを犯し...
多くの戦史家が過小評価して見逃してしまっているのは、ドゥ...
対抗関係にあった陸軍からあざけられても仕方がない。予測外...
何が何でも爆撃を阻止しなくてはならない。しかし日本軍には...
アメリカ軍は、航空母艦が陸軍のB25を積んで日本近海まで進出...
ミッドウエーで機動部隊を失って以降、まともに戦争に勝つた...
本土爆撃の始まり
本土爆撃といえば、太平洋戦争の末期に日本全土が空襲を受け...
本土爆撃の最初は真珠湾攻撃による開戦のわずか四ヵ月後であ...
真珠湾攻撃が失敗に終わった結果、米軍の真珠湾基地も、その...
東京から六時間以内と言えばグアムとかテニアンになるが、さ...
この時点で東京を空襲すると言うのは、民間航空あがりのドウ...
制海権が無くとも、一時的に空母を日本に近づけることはでき...
帰還せず、そのまま飛んで大陸の中国軍支配地域に着陸すると...
よく日本軍の特攻隊とかの勇敢さが語られるが、なかなかどう...
空母をどこまで日本本土に近づけられるかが成否のポイントで...
日本側は、空母を発見はしたが、艦載航空機の射程に入るのは...
覚悟の上だったとはいえ、爆撃後の燃料不足は深刻だった。浙...
爆撃機は、昼頃に日本上空に到着、東京、横浜、名古屋、神戸...
真珠湾の大勝利に続き、各地で連戦連勝のはずなのに首都が爆...
面子のために意味の無い戦闘をするわけにも行かない。ミッド...
開戦四ヶ月ですでに本土を爆撃され、六ヶ月で艦隊を失い、も...
日本もアメリカに名目的な本土爆撃を仕掛けたが、潜水艦で運...
グアムやサイパンを米軍が奪取してからは、B29による爆撃が恒...
高々度からの爆撃ではジェットストリームにあおられて命中精...
多くの民間人が犠牲になる都市爆撃は日本が中国で始めたもの...
戦争とは実におろかなものだと言うしかない。
特攻隊の真実
「君のためにこそ俺は死ににいく」は石原慎太郎がプロデュー...
最近の愛国心宣伝の手口はこれに近づいている。文科省の「心...
「コロリと丸め込まれ」たのだが、よく考えてみれば「死にに...
石原に限らず、すりかえイデオロギーと若者の死のロマンチシ...
なぜ特攻隊自爆テロが馬鹿馬鹿しいかと言えば、まず、命中率...
通常の艦船攻撃では多数の攻撃機を用意して敵弾を分散させる...
さらに馬鹿馬鹿しいのは、うまく命中したとしてもその威力が...
威力の小さい特攻で効果を上げるためには爆弾を大きくする他...
ところが日本軍の記録では特攻の命中率は高いことになってい...
最初の神風特攻隊である関大尉の敷島隊は5機で、米機動部隊主...
後の特攻とは異なり、レイテ沖海戦で米主力が手を取られてい...
しかし最後の1機は、セイントローに突っ込み改造輸送船の飛行...
結果的には熟練のパイロットを多く失い、日本のパイロットは...
「死にに行く」のはちっとも「君のため」ならなかったばかり...
(注2)ホーネット、レキシントンなどは修復不能にまで破壊...
(注1)飛行機は高速で飛んでおり、高射砲の弾が直接機体に...
予科練とは何だったのか
「今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦の 七つボタンは桜に錨」という歌は...
予科練で本格的な飛行訓練をやった事実はないし、修了生全体...
日本の軍隊は、長州藩の奇兵隊なんかがその先駆けだが、武士...
これには一応の理由がある。当時の戦争の勝敗を決するものは...
海軍の場合は少し様相が異なる。陸軍のように兵隊を根性だけ...
日本の軍隊ではこうした身分制度と「いじめ」「しごき」が組...
初期のころは飛行機は将校の専有物で、飛行訓練を行うのは「...
海軍の飛行機は航空母艦から出撃するのだが、飛行機搭乗員を...
そんな事で高等小学校程度の子供たちを最初は横浜、次いで霞...
アメリカでは航空機が増えたころから、将校をどんどん飛行機...
海軍は、航空兵力拡充にはあくまでも消極的で、予科練にして...
日本の場合は、マリアナ沖海戦やガダルカナルで熟練飛行士を...
1944年になって急に予科練を114,773人に増やしている。時既に...
人数的にはこうした「飛ばない予科練生」が圧倒的に多いので...
予科練は志願制だったが、中学では配属将校が志願を強力に勧...
飛行機乗りになるという夢を抱いていた生徒は騙されたような...
終戦になってからも、予科練の不運は続いた。学校でなかった...
予科練自体が悲劇であるが、生き残った予科練生も戦争の被害...
日米はなぜ戦ったのか----太平洋戦争の原因 ----
太平洋戦争は日本軍による真珠湾の奇襲に始まった。開戦への...
戦争に至る前になぜアメリカとの対立を深めたかも経過的には...
ところが、ドイツはノモンハン戦闘の真っ最中にソ連と10年...
ドイツは第一敵国ソ連と不可侵条約を結んで、フランスとポー...
日本が本気でソ連と友好を結ぼうとしたのなら、これまたドイ...
このとき天皇も裁可した『情勢の推移に伴う帝国国策要綱』で...
結局、関特演は戦争にいたらなかった。その理由はノモンハン...
当然ながらアメリカは石油の禁輸という経済制裁に出た。外交...
ハルノートではアメリカの要求が中国からの撤退と日独伊3国...
軍の動きは政府に先行しており、ハルノートが出た11月26日に...
こうして日米開戦までの経過を見てみると、日本帝国は石原莞...
第一の敵国がソ連であったことから日独伊三国同盟となり、ア...
たしかに欧州の情勢はロンドンに爆撃の手が及び、モスクワ陥...
アジアを支配する日本と欧州を支配するドイツがアメリカを挟...
これが、昭和天皇が率いる日本帝国の読みだったが、見事には...
1939年 8月23日 独ソ不可侵条約(10年)
1939年 9月15日 ノモンハン事件終結
1939年 9月 1日 ポーランド侵攻
1939年 9月 3日 イギリス・フランスがドイツに宣戦布告
1940年 5月10日 フランス侵攻を開始
1940年 6月14日 パリ占領
1940年 9月23日 北部仏印進駐
1940年 9月27日 日独伊三国軍事同盟
1941年 4月13日 日ソ中立条約(5年)
1941年 6月22日 対蘭石油交渉打ち切り
1941年 6月22日 ドイツがソビエト連邦に宣戦布告
1941年 7月 2日 日本陸軍は関特演70万兵力動員
1941年 7月 2日 御前会議 「国際信義上どうかと思うがまあ...
1941年 7月28日 南部仏印への進駐
1941年12月 7日 真珠湾を攻撃
1941年12月11日 ヒトラーはアメリカに対して宣戦布告
1942年 1月 1日 連合国共同宣言
1943年 2月 スターリングラードでドイツ第6軍が敗北
1944年 6月 6日 ノルマンディー上陸
1945年 2月11日 ヤルタ協定(ドイツ降伏後90日以内にソ連参戦)
1945年 4月 5日 日ソ中立条約 廃棄通告
1945年 8月 9日 ソ連参戦
従軍慰安婦問題
第二次世界大戦における日本の反省事項のひとつに従軍慰安婦...
慰安所はどの部隊にもあったといわれるが、もちろん公式なも...
慰安所は合法的だったか?
戦前の日本では、売春は公然と認められていたのだから、戦地...
もちろんいつの世にも法の裏街道を行く無法者はいるわけで、...
戦地での強姦事件があとをたたず、「皇軍の威信低下」が危ぶ...
二十万人という数字はあやふやなものだが、関特演での必要慰...
強制連行はあったか?
慰安婦の徴募について強制連行はなかったと主張するのが最新...
朝日新聞がこの出版を報道したことが逆に攻撃の対象になり、...
慰安婦の徴募はいろいろな手段で行われた。日本の国内で行わ...
強制があったことには確実な証拠がある。最も確実な証拠のあ...
これは南方軍管轄の第一六軍幹部候補生隊が十七歳以上のオラ...
こうした日本側の処置などが、記録に残ってしまったことと、...
強制連行を行ったのは方面軍直属の士官候補生隊であり、逃亡...
「強制連行」の事実が陸軍省まで伝わったにもかかわらず、慰...
日本軍では慰安婦の強制連行を罪悪とする考えが無かったのだ...
事件は頻発していたにもかかわらず、日本軍が実際に、強姦や...
朝鮮半島での強制連行
慰安婦の証言はもちろん重要だが、それにたよらずとも、極東...
それでも強制連行はなかったという主張があちこちで行われて...
朝鮮総督府の資料は終戦時にほとんど処分されて残っていない...
慰安婦を強制的に集めるためには、「看護婦にする」とか「工...
日本は男性朝鮮人・中国人を多数強制連行して鉱山やダム建設...
朝鮮での慰安婦徴集の違法性で議論の余地がないのは、未成年...
慰安婦の悲惨な実態
女性が不特定多数を相手に、性奴隷としての生活を強いられる...
資料の中にはミッチナ文書のように慰安婦の生活が「安楽な生...
慰安婦は高収入だったか?
慰安所の料金は昭和13年当時「兵 一円五〇銭、下士官 三円...
当時の兵士の給与が月一〇円程度だったので五円というのは相...
客の九〇%は下級兵士だったわけだから「売り上げ」も知れて...
しかし、元慰安婦の中にはかなりの金額の貯金があったとして...
軍票というのは何の裏づけもなく印刷した通貨だから、あまり...
兵士たちは他に使い道もなく、内地に送金もできない「軍票」...
軍票は当時の慰安婦の生活にとってもなんの役にも立たないも...
慰安婦はどの軍隊にもあったのか?
残虐な戦争に売春や強姦行為はつきものと云われるが、日本軍...
現代の軍隊はどこも慰安所を持っていまないし、当時もイギリ...
戦場の緊張を長期に渡って続けるには無理がある。通常の軍...
慰安婦議論と証拠
慰安婦問題全体から言えば、強制連行の事は一部の問題だ。最...
それでも、朝鮮半島での強制連行に直接証拠がないかぎり強制...
裁判は「多くの真犯人を取り逃がすほうが、ひとつの冤罪をつ...
日本軍は自由に証拠の隠滅が出来たし、慰安婦はその境遇から...
古代日本の様子
日本が初めて歴史に登場したのは、1世紀に書かれた漢書地理...
2世紀の後漢書になると「永初元年(107年)倭国王帥升等、生...
3世紀には魏志倭人伝がある。魏志倭人伝といえば、邪馬台国...
帯方郡から見て、日本列島の有力な国の一つが邪馬台国であっ...
一夫多妻制で妻が3,4人いるが、風俗は淫らではない。冠はか...
こういった生活の様子は日本の記録には現れない。当事者は、...
衣類は主として麻だったようで、紵麻(からむし)で麻布を作っ...
外交関係はかなり活発で、記録も具体的だ。卑弥呼が魏に使い...
絳地(あつぎぬ)の交竜錦(二頭の竜を配した錦の織物)五匹
絳地の粟(すうぞくけい:ちぢみ毛織物)十張
絳(せんこう:あかね色のつむぎ)五十匹
紺青(紺青色の織物)五十匹
これに加えて、遠路はるばる来たことを讃えて特別プレゼント...
紺地の句文錦(くもんきん:紺色の地に区ぎりもようのついた錦...
細班華(さいはんかけい:こまかい花もようを斑らにあらわし...
白絹(もようのない白い絹織物)五十匹
五尺刀二口
銅鏡百枚
真珠五十斤
鉛丹(黄赤色をしており、顔料として用いる)五十斤
おそらく当時の倭国の国家予算を超えるようなものだっただろ...
朝貢したのは、邪馬台国だけではない。一応は邪馬台国に従属...
帯方郡としては、「張政」を日本に送り、「難升米」を説得し...
男女生口三十人
白珠五千(枚) 真珠?
孔青大句(勾)珠(まがたま)二枚
異文雑錦(異国のもようのある錦織)二十匹
で、少し生産力が高まっているとも見受けられる。「卑弥呼」...
倭の様子を記述した文章が7世紀の隋書でも見られる。魏志を下...
中国の歴史書によれば古代日本の様子が見えるのだが、これは...
日本国憲法と国連憲章
日本国憲法は見事な体系性を持っており、法律条文としては、...
日本国憲法と国連憲章の前文を比較してみよう。
日本国憲法は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起るこ...
国連憲章は、「われら連合国の人民は、われらの一生のうちに...
人としての権利=人権を価値観の基礎に据え、平和と民主主義実...
国連憲章を起案したのは米国務省特別政務室長のAlger Hissだ...
国連憲章の平和に関する考え方は、国連憲章2条4項に示され...
これは、日本国憲法では9条1項に「日本国民は、正義と秩序を...
日本国憲法9条2項では、それを具体化するために「陸海空軍そ...
国連では、平和を守るために「集団安全保障」という考え方を...
一国が単独で自国の安全を保障しようとすれば、他国に優る軍...
「集団安全保障」は、もし加盟の一国が他国を侵略したりする...
こうした仕組みが機能すれば、どの国も他国に優る軍事力の必...
軍備と戦争は必ず自衛という形で現れる。国連が世界の恒久的...
そもそも個人の自衛権なるものも、少なくとも日本では認めら...
日本人は経験からも個人の自衛権を放棄したほうが却って安全...
自衛権の議論では、軍事技術の発達も考慮に入れなければなら...
しかしながら、歴史の進歩は平坦ではない。国連と日本国憲法...
ソ連の崩壊後暴露されたの機密文書でも、スパイ行為の事実は...
1975年になって、「秘密文書」がでっち上げであったことがわ...
日本国憲法も歴代自民党政府によって、蹂躙されて行くように...
日本政府によれば、集団的自衛権(right of collective self-...
「日本國及滿洲國ハ締約國ノ一方ノ領土及治安ニ對スル一切ノ...
とまさに集団的自衛権をその侵略戦争の正当化の根拠としてい...
しかしながら、国連憲章が、個別的・集団的自衛権を容認する...
第51条は、「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対...
と、集団的自衛権を容認する文言になっている。実際、集団的...
国連憲章は1944年9月にワシントンDC郊外にあるダンバートン・...
アメリカでは、「大統領の権限を他国にゆだねるようなものだ...
その結果、大国の拒否権によって集団安全保障機能が麻痺する...
地域的集団安全保障についての議論が行われたがうまく合意す...
地域的取きめによる安全保障の代わりということで、51条を入...
国連憲章51条の集団的自衛権は、大国の権限を容認しなければ...
アメリカは、国連を都合よく利用しようとしたが、Alger Hiss...
それでも、現在ほとんどの国が加盟する国連を無視して世界は...
歴史と善悪
「南京大虐殺はなかった」とか「満州国は中国のため」とか...
中には一応、論を立てる人もあるが、このたぐいの論者に共通...
大虐殺をやったのは日本ばかりではない、アレキサンダー大...
歴史に善悪を考える時、重要なことは人類の進歩という概念...
過去においては阿片貿易も「正当な商行為」として認められ...
第一次世界大戦が帝国主義諸国間の争いでしかなかったのに...
遅れて国際舞台に登場した日本は、西欧の古い基準に学び、...
戦争の歴史
歴史は言うまでもなく戦争だらけではあるが、いったいどのよ...
もちろん戦争の始まりは喧嘩であっただろう。話は単純で腕力...
槍や刀などの武器が発達すると、腕力というよりも、こうした...
喧嘩の原因には様々なものがあった。宗教とか民族の対立は現...
人類が一人一票などと言う決定方法を思いついたのは、まだず...
しかしながら、助っ人の数には実は限りがあった。大声で指揮...
戦争の規模のさらなる拡大は、朝廷子飼いの武人では無く、新...
この時代に特徴的なことは、数ではなく、超人的な豪傑を獲得...
雑兵と呼ばれる狩り出された農民の役割は、戦闘よりも、むし...
劉備も曹操も頼朝も、戦国の武将は全て豪傑を召抱えたがった...
日本で最初に集団戦術を取り入れたのは、武田の騎馬隊である...
集団戦術を決定的にしたのは鉄砲の登場であった。弾込めに時...
世界では鉄砲の発達とともにますます集団戦術が発達し、銃撃...
幕末の戊辰戦争を経て、日本でも戦争の仕方は大きく変わり、...
西洋諸国から学んだのは散兵狙撃と密集突撃の戦術である。特...
鉄砲の出現で鎧兜が役に立たなくなったのと同様に、大砲の出...
この当時から、あまりにも多くの死傷者を出す戦争に対する疑...
第一次世界大戦で導入された塹壕陣地による防衛戦も突破でき...
野戦で戦車がいかに力を発揮するかは、ノモンハンでのソ連軍...
さらに大きな変化をもたらしたのは、航空機の参入である。大...
陸上戦闘は、航空機と戦車で決着が着く時代になった。徹底し...
このように歴史を一貫して戦争は進化してきた。逆に言えば、...
今の大国間の全面戦争では核ミサイルで全て決着が着く。しか...
航空機とミサイルで全て決着がつく時代の戦争というものは余...
日本は日清戦争で戦費をはるかに上回る賠償金をせしめて、そ...
この70年、大国どうしの全面戦争は一度も起きていない。もち...
こう考えると、今各国にある軍備は実は無駄なものであること...
日本国憲法が戦争を放棄しているのは、決して理想論だけから...
しかし、戦争で利益を得る人と犠牲を払う人が別であることか...
戦争の現実が見えず、まともな判断ができないバカだけが戦争...
地方の時代はやってくるのか?
「地方の時代」などと言う言葉がt使われ一時はブームにもなっ...
昔に遡って「地方の時代」考証してみよう。日本の古代はもち...
これで「地方の時代」は終わったのかといえばそうではない。...
中央集権は崩壊せざるを得ない弱点を持っている。人事は中央...
権力は中央に集中しても土地は動かせない。中央集権のもとで...
鎌倉幕府は決定的な中央集権の崩壊を意味し、再び「地方の時...
騒乱を経て結局落ち着いたところは江戸幕府という官僚化した...
再び中央集権が復活したのは明治の王政復古で、廃藩置県で幕...
同様な現象は、ヨーロッパでも見られ、イタリアやプロシアは...
明治の中央集権化は徹底したものだったが、それでも徳川300年...
中央集権による集中力の発揮は瞬発的なもので長続きはしない...
戦後、新憲法の下で地方自治が導入された。これは再び地方の...
それでは再び地方の時代がやってくるだろうか?もはや農業を...
風景や空気・環境が生産に欠かすことのできない大きな資産と...
----
http://www010.upp.so-net.ne.jp/kodomo/histweb/index.html
終了行:
古代の日本は海峡国家
もちろん歴史は原始の時代から続いているのだが、日本の歴史...
石器時代から青銅器・鉄器時代への変化を技術史的に見直して...
これは金属技術が徐々に発達したのではなく、技術流入があっ...
近年の研究でこのことが確定的になった。考古学的には九州を...
二つの文化が共に同じ銅を使っていたことの意味は大きい。地...
こうしてみると、この時代の様子が見えてくる。あちこちに小...
僕の仮説は、朝鮮半島の南部にいた倭族が北九州に進出し、そ...
九州の倭族は銅鉄の輸入にのため自国だけで足りない米を近隣...
速やかな銅鉄の流通は、倭が海峡をまたいだ海峡国家であるこ...
後漢書東夷傳には、「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱...
建武中元二年(AD57年)に「倭奴国」という国があり、漢の光...
この倭奴国は倭国全体から見れば、極南界すなわち一番南にあ...
倭が海峡国家であったということは、銅鏡の考古学とも一致す...
朝鮮の記録も倭が海峡国家であったことに一致する。高句麗や...
魏誌倭人伝の描く三世紀には、倭国の中心は邪馬台国に移り、...
魏志倭人伝の景初2年(238年)の項には、邪馬台国の女王卑...
後代の銅鏡は広く分布しているが模様は地域によってすこしづ...
三世紀後半になると、大和では銅鐸が作られなくなった。銅鉄...
任那日本府の謎
学校で教わった日本史の教科書には任那日本府が562年に滅びた...
日本書紀の仲哀記には神功皇后の三韓征伐という記事があるが...
日本書紀はこれ以降、朝鮮三国が日本に朝貢する記事が何度も...
しかし、朝鮮に関する記事が多いのは事実でありこれが何を意...
414年建造とされる好太王碑には400年と404年に二度にわたる倭...
日本書紀に高麗が現れる理由は少し複雑で、実は高句麗が520年...
好太王碑は当時のままの金石文が残っていたのだから一級資料...
当時の王碑というのは事実を書くのではなく、どれだけ大風呂...
400年の戦争は、新羅に倭が侵入して助けを求めたとなっている...
404年の戦闘もおかしい。倭が帯方郡に侵入してきたと言うのだ...
この時も高句麗は大軍を派遣して大勝利を収めたことになって...
日本側の資料も建前優先ということでは同じようなものである...
これらの人物はむしろ朝鮮半島でヤマト政権からは独立した存...
もう少し後の年代になってもやはり見栄的な記録が続く。ヤマ...
白村江の戦いが本当に、これほどまでの大軍を派遣しての敗戦...
白村江の戦いで具体的な戦略立案をしているのは、朴市秦 田来...
日本書紀の記述にどれほどの信憑性があるのかはには注意が必...
ヤマト王権には朝鮮支配に対する強いこだわりがあったが、こ...
謎の4世紀を考えるーー騎馬民族の侵攻
歴史における日本の記録は、漢書東夷傳のAD57年にさかのぼる...
すなわち、あれほど盛んに作られた銅鐸が突如としてなくなり...
4世紀が空白になったのは、三国時代を統一した晋が崩壊して以...
中国では匈奴、鮮卑といった胡族の侵入が古くからの問題で、...
朝鮮半島から日本への民族の流れは、こういった4世紀の民族移...
遅れて海を渡った韓族は、まだ倭族の支配が及んでいなかった...
大和や出雲に北九州を中心とする銅剣銅矛とは少し趣の異なる...
4世紀の民族移動の影響は、朝鮮半島にも及んだ。ツングース系...
帯方郡を破壊して高句麗を打ち立て、太白山脈の東では新羅、...
北九州にも騎馬民族文化の影響がみられる遺跡がある。しかし...
日本書紀にこういった騎馬民族侵入の片鱗を見るとすれば、そ...
鉄の国産化で朝鮮半島からの金属供給を軸にした小国家群の共...
ヤマト王権は、渡来した騎馬民族が土着の農耕民族を支配する...
日本書紀は朝鮮半島を支配していたかのように書いているが、...
ヤマト王権の成立は七世紀
考古学的検討と中国文献から、日本の古代は、海峡国家から北...
しかし、二王朝の対決といった構図を確認するにはには、あま...
僕は日本の王権が王朝などと言える確固としたものになるのは...
砂鉄を使った鉄の精錬が始まり、金属が国産化されると、海峡...
万葉集の一番目の歌:
----------------------------------------------
籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串...
-----------------------------------------------
籠(かご)よ 美しい籠を持ち 箆(ヘラ)よ 美しい箆を手...
---------------------------------------------
これが本当に雄略天皇の歌であるかどうかは疑問があるのだが...
日本書紀の592年には蘇我馬子が崇峻天皇を殺害した記事がある...
日本書紀は8世紀になって書かれたものであるから、崇峻を天皇...
九州にも大和にも小国が分立し、有力なものが大王を名乗った...
日本書紀はある意味で、各部族が合意した統一国家への合併協...
各地の部族が折り合いを付けて、ヤマト王権を統一国家の王権...
ヤマト王権は4世紀から徐々に発展し、九州や出雲と折り合いを...
古代日本の様子
日本が初めて歴史に登場したのは、1世紀に書かれた漢書地理...
2世紀の後漢書になると「永初元年(107年)倭国王帥升等、生...
3世紀には魏志倭人伝がある。魏志倭人伝といえば、邪馬台国...
帯方郡から見て、日本列島の有力な国の一つが邪馬台国であっ...
一夫多妻制で妻が3,4人いるが、風俗は淫らではない。冠はか...
こういった生活の様子は日本の記録には現れない。当事者は、...
衣類は主として麻だったようで、紵麻(からむし)で麻布を作っ...
外交関係はかなり活発で、記録も具体的だ。卑弥呼が魏に使い...
絳地(あつぎぬ)の交竜錦(二頭の竜を配した錦の織物)五匹
絳地の粟(すうぞくけい:ちぢみ毛織物)十張
絳(せんこう:あかね色のつむぎ)五十匹
紺青(紺青色の織物)五十匹
これに加えて、遠路はるばる来たことを讃えて特別プレゼント...
紺地の句文錦(くもんきん:紺色の地に区ぎりもようのついた錦...
細班華(さいはんかけい:こまかい花もようを斑らにあらわし...
白絹(もようのない白い絹織物)五十匹
五尺刀二口
銅鏡百枚
真珠五十斤
鉛丹(黄赤色をしており、顔料として用いる)五十斤
おそらく当時の倭国の国家予算を超えるようなものだっただろ...
朝貢したのは、邪馬台国だけではない。一応は邪馬台国に従属...
帯方郡としては、「張政」を日本に送り、「難升米」を説得し...
男女生口三十人
白珠五千(枚) 真珠?
孔青大句(勾)珠(まがたま)二枚
異文雑錦(異国のもようのある錦織)二十匹
で、少し生産力が高まっているとも見受けられる。「卑弥呼」...
倭の様子を記述した文章が7世紀の隋書でも見られる。魏志を下...
中国の歴史書によれば古代日本の様子が見えるのだが、これは...
文字使用の始まり
日本に文字文化が生まれたのはいつごろのことだろうか。日本...
だが、僕はもっと遅いと見ている。読み書きすなわち文字文化...
文字だけについていえば、三世紀の銅鏡にも見られるが、字画...
倭の五王(413-502)は朝貢に文字を使ったと考えられるが、お...
倭の五王に限らず、卑弥呼や難升米といった名前も現代の感覚...
稲荷山古墳出土鉄剣に115文字の象嵌があったことから、471年...
記紀を古文として文語体で読み下しているが、文語体自体が文...
少しづつ広まっていった文字の使用は、読み手書き手の数が一...
遣隋使は国書を携えて海を渡ったからこの時には文字が使われ...
無文字文化から文字文化への変化、すなわち文字使用が始まり...
国家に至るまでには、その準備期として、何代かの政権交代や...
記紀の記述で事実と確認できる最古のものは、推古28年(618年...
記紀を読み解く前提として、いつから文字の使用が始まったか...
古事記と日本書紀のなり立ち
記紀の成り立ちを考える前提として文字の使用がいつ始まった...
656年に書かれた隋書には、「文字なく、ただ木を刻み縄を結ぶ...
逆に考えれば、日食や彗星はそれ以前にもあったはずだが、こ...
断片的な記録としては雄略期にさかのぼることもあり得る。日...
日本書紀の執筆が雄略記から始められた理由は、想像でつなぎ...
日本書紀によれば、歴史書編纂は681年に天武天皇のもとで開始...
その後、歴史編簿がどうなったかの記事は日本書紀にはない。...
続日本紀には、713年に諸国の風土記を撰進させたことが書いて...
史書は一つではなく、もう一つ古事記がある。古事記の方は、...
この二書の関係が大きな謎である。国史編纂を同じ時期に二つ...
こういったことから、古事記偽書説というのが古くからあり、...
古事記の序文というのは内容的には上表文になっており、用命...
こういったことが、古事記は後世に書かれた偽書ではないのか...
決定的なのは、上代特殊仮名遣いである。古くは日本語に八種...
(1)古事記本文、(2)日本書紀α群、(3)日本書紀β群、(4)古...
歴史の書き出しは世界の創生から始まるのだが、各氏族にはそ...
神話の調整に手間取る間にも、文字の普及は進み、様々な記録...
α群の著述と並行して進められてきた神話部分の調整がまとまり...
しかし、この草稿は古い呉音表記のものだったし、編年がなく...
安万侶が下書きを保持しており、それが子孫に伝わっていった...
こうして日本には、記紀二つの初期歴史書が残ることになった...
神武天皇の即位を辛酉年としたのは偶然だ。当時入手できるよ...
世に言う讖緯説は、記紀編纂当時誰も知らなかった。辛酉革命...
古代日本の政変と疫病
医薬の知識が全くなかった時代には病気に対して「おまじない...
一番古い伝染病は結核で、弥生人の人骨からもカリエスが見い...
咳逆つまりインフルエンザは渡り鳥が運ぶから、どこへでも飛...
赤痢が文献に出てくるのは、三代実録の貞観三年(861年)である...
人口を減らすような大流行は14世紀の黒死病(ペスト)が知ら...
人から人への空気伝染の場合、動物の生態とはかかわりなく、...
日本でも、最初に起こった危機的大流行は痘瘡(天然痘)によ...
『日本書紀』敏達天皇十四年(585年)の記事がによれば、膿疱(...
これをめぐって、古来神をあがめず仏教などというものを取り...
奈良時代、735年にも大流行があった。流行は九州から始まり(...
2年後の737年にも再び九州から疫病が流行して農民の多数が死...
疫瘡の大流行は平安時代995年にもあって、赤斑瘡(あかもがさ...
痘瘡の方が致死率が高く、治ったとしても「あばた面」が残る...
人間には発症しない牛痘を使って疑似的な毒素で免疫を発現さ...
いまでこそ痘瘡は絶滅した病気だが、日本史においては何度も...
小野妹子の行き先
聖徳太子が607年に小野妹子を隋に送った、遣隋使がわが国外交...
どう書いてあるかと言えば、小野妹子は「遣唐使」と書いてあ...
日本書紀が編集されたのは、遣隋使よりも100年経ってからなの...
だから目的に合わない所は容赦なく書き換えられた。編者は隋...
遣隋使以前にも中国との交流はあった。魏志に卑弥呼が載って...
中国側にも遣隋使の記録はあるが、こちらは当然、日本が辺境...
隋書は50年後に書かれた物だから日本書紀の記事より同時代性...
日本書紀が無視した第一回の遣隋使の記録を見てみよう。尋問...
政情を聞かれて「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす...
風俗としても刺青が多く、文字は無いし、貫頭衣のような原始...
第二回の記事は608年でこれが遣隋使の最初とされているが中国...
持って行った国書は、「日出ずる處の天子、書を日沒する處の...
この使節の重要なところは文林郎の裴世清を答礼使として倭国...
ともあれ、隋から使いまで来たのに気を良くして608年には大訪...
日本書紀には犬上三田鍬たちの第4回がかかれているが隋では「...
水時計は何故四段仕掛けなのか
当然ながら大昔には時計がなかった。人々は明るくなれば起き...
だから日本の最初の時計は水時計である。時刻は人為的に作ら...
その漏刻というものがどのようなものであったかというとき必...
四段式水時計には高度な技術がいる。普通に上の容器から下の...
高低差が滝のように大きくて、水量豊富であれば、上の容器を...
そこで工夫されたのは、上の容器の上にさらに容器をつなぎ、...
ィードバックが働くかどうかをシミュレーションで計算してみ...
流量は高低差の平方根でしか変化しないからフィードバックの...
和気清麻呂
戦前の歴史教育では、道鏡の悪企みを打ち破り、萬世一系の天...
しかし、和気清麻呂という人物が実在し、神話的な業績が伝え...
もともと和気の一族は備前磐梨郡あるいは藤野郡あたりの地方...
大和の国は豪族の連合体から天皇家を中心とする統一国家への...
清麻呂が出仕して登用されたのは兵衛という警備担当の下級職...
清麻呂の場合も、孝謙天皇のお側付きとなった姉広虫の引きが...
孝謙天皇は女帝であり、草壁皇子の皇統を次代に引き継ぐ使命...
一方で留学生や識者の間では唐に習った専制国家としていく方...
称徳天皇自身は仏教に帰衣し、天皇でありながら道鏡を師とす...
宇佐八幡宮の神託を確かめに行けとは、どういうことだったの...
八幡神と対話してきたなどといい加減なことを言うな、とはい...
清麻呂は中央に復活する。しかし、天皇家を守った功労者とい...
桓武天皇は母親が渡来氏族であったため、皇位継承者とは見な...
桓武天皇の信任を得た高官としての、清麻呂の活躍はむしろこ...
七八六年には従四位上で摂津太夫・民部卿となり、神崎川と淀...
七八八年には、上町台地を開削して大和川を直接大阪湾に流し...
奈良仏教の悪弊も有り、部族政治の呪縛が続くだけでなく、流...
河川工事で学んだことは大きく、これをもとに長岡京の建設を...
それまでの政治というのは、すべからく権力闘争であり軍事だ...
備前磐梨から中央政界に踊り出て、世襲貴族の仲間入りをした...
現在「和気」という姓は全国に600位あり、畿内全域に少し...
しかし、清麻呂の系統から、平安末期に武士となり、備中で帰...
栃木県の和気氏は「ワキ」と読み、塩谷郡の高原山麓に分布し...
遣唐使の憂鬱
古来交易は多くの利益を生み、人々の冒険心をかきたてた。フ...
おそらく、日本は小さいながらも、当時必要なものは何でもあ...
これは中国も同じで、ヨーロッパと異なり、ことさら貿易に頼...
それなりに交易の恩恵があり、日本でも新しい文化にあこがれ...
遣唐使に選ばれるのを嫌がった大きな理由は航海の危険性にあ...
航海が困難だっただけでなく、正使に与えられた任務はまとも...
日本が世界の中心であるなどと言うことが対外的に通用するは...
下手をすれば地方に留め置かれ任務は果たせない。何百人もの...
唐はもちろん中華思想に凝り固まっている。周辺諸国は天子の...
大体、遣唐使に選ばれるのは、相応の身分まで出世した人が条...
日本と唐の根本的な位置づけの違いから、日本から見て、まと...
讖緯説と古代天皇の寿命
日本書紀が記述する古代の天皇は、いずれもやたら長生きして...
明治の初めにこれを言い出したのは、那珂通世であり、神武天...
この説が広く通説のごとく受け入れられているようだ。日本書...
一体何を基準にしての一二六〇年なのかというと、当然それは...
讖緯説の基準年がおかしいということの原因の一つは、那珂通...
「鄭玄曰く、天道は遠からず、三五にして変ず。六甲を一元と...
那珂通世は、「二十一元を一蔀と為す」だけを取り出して、当...
原典が読めないので、定かではないが、「四六、二六交相乗ず...
鄭玄の原典が存在しない理由は、魏以降は、排斥されて禁書に...
日本では、九〇一年に好事家の三善清行が、讖緯説をほじくり...
禁書にされたような考えが、早い時期にしっかりと日本に伝わ...
日本書紀の成立史が、この問題では大きなヒントになる。森博...
それ以前を付け足した第二期執筆では、歴史としては書けない...
当時の考え方としては、寿命が長くなることは、そう不合理で...
紀元前六六〇年、明らかに弥生時代の、まだ大きな集落や、ま...
道鏡事件はなかった?
中西康裕さんの講演を聞く機会があった。道鏡事件はなかった...
続日本紀の宇佐八幡宮神託事件部分は、2つの宣命と、その間に...
最初の宣命は、和気清麻呂に対する怒りと処罰が述べられてい...
道鏡を皇位につけようとして、皇位問題を持ち出したのは天皇...
中西康裕さんは、文体研究を通して、二つの宣命が同時期に書...
そうすると二つの宣命の矛盾はどうしたことだろう。この間に...
途中の解説を無視して、宣命だけを分析してみると、第一の宣...
二つの宣命の間にある解説文は、後世勝手に付け加えた藤原氏...
しかしながら、この説には納得できないところが多々ある。続...
ただ宇佐八幡宮の神託があっただけでなく、清麻呂をわざわざ...
称徳天皇にとって皇位継承問題が最大の課題だったことは言う...
持統天皇以来の歴代女帝の草壁皇子系統へのこだわりは極めて...
天智系など、もっての他であったから。草壁皇子系統が絶える...
第二の宣命にある皇位は天の定めるものであるとする言い方は...
宇佐八幡宮神託事件は称徳天皇の皇位継承策である祭政一致の...
琉球 海洋王国の虚構
15世紀から16世紀にかけて、日本で言えば室町時代であるが、...
琉球は海に囲まれており、古くから海外への渡航があったこと...
琉球はサンゴ礁からできた島であり火山島ではない。だから小...
日本での記録は、727年以来1400年代まで途絶え、この空白期間...
歴代宝案は1607年の記事で「計今陸拾多年毫無利入日鑠月銷貧...
琉球が明に朝貢を始めたのは、1372年に揚載が琉球に派遣され...
明は元を駆逐して成立したのであるが、馬の供給地は依然とし...
物流量の不足を補うために明は琉球に大型船を供与した。それ...
もちろん朝貢は琉球に多大な利益をもたらした。土器しか生産...
しかし、明の支配が安定してくると硫黄の需要も少なくなり、...
この時代の日本や南方への交易を中継貿易とする見方は内実が...
多くの海洋王国論者はこういった物流量を見る視点が欠落して...
尚徳王は、1465年に明に対し、概略次のように述べている。「...
馬や硫黄の需要がなくなると、明にとって琉球の価値は減って...
船は購入しなければならなくなってしまったが、派遣中国人た...
南方交易を支えたものには、明の威光も大きい。歴代宝案にあ...
ポルトガルの東洋進出が始まり、1511年にマラッカ王国が滅び...
普通に考えれば、もし琉球が中継貿易を担っていたのであれば...
琉球の南方交易に置き換わったのは明や日本の直接交易である...
朝鮮との交易はずっと日本経由だったが、応仁の乱以降は日本...
1534年に陳侃が冊封使として来琉した時には、渡航に琉球から...
明への朝貢による寄生でなり立っていた琉球王朝は、朝貢の行...
高松城水攻めの戦略問題
高松城水攻めの戦略問題
備中高松城の水攻めは戦国時代、天下統一の過程における一大...
水攻めにまつわる戦略問題に関しても、太閤記の脚色を排除し...
この問題を理解するには、まず第一に当時の状況を客観的に見...
このような局面で織田軍を迎え撃つ先陣を任された清水宗治は...
だから、毛利からの指令は、先制的急襲ではなく最初から篭城...
境目七城の守りを固めれば、織田軍は短期決戦の城攻めを無理...
しかながら、織田軍の総大将羽柴秀吉はすでに信長とは異なる...
毛利も、捨石全部が有効に働くとは考えていない。いくつかの...
備中は言うもでもなく毛利配下小早川の所領である。織田がす...
結局のところ織田軍は速攻戦略を取ると踏んだ毛利の思惑はは...
秀吉は毛利に厳しい講和条件を提示してきたが、本能寺の変が...
一方毛利も実は清水宗治を助けることに熱心ではなかった。な...
清水宗治には自害して果てる以外に道は残されていなかった。...
明智光秀の黒幕
本能寺の変・明智光秀謀反の理由についてはいくつもの説があ...
明智光秀も優れた武将であったが、織田の家臣全てを敵に回し...
光秀の言葉として伝えられているものに『武士の嘘を武略と言...
理屈人間である明智光秀が、反信長で決起するにはそれ相応の...
織田信長と正親町天皇の確執を示す文献はないが、歴代天皇と...
なぜ、位階を断るようになったのか。それは単に敵対する武将...
これは天皇にとって最悪の事態だ。源頼朝も天皇の権威に逆ら...
正親町天皇は、変の後のわずか7日間に3度も勅使を派遣してい...
光秀も、天皇の権威があれば多くの武将を従わせることが出来...
毛利との戦闘の真っ最中で、羽柴秀吉もそう簡単には戻ってこ...
ところが、秀吉の転進はなんとも素早いものだった。わずか3日...
天皇は、光秀への勅使に関して、勅使として派遣されたのは吉...
秀吉は光秀の挙兵を遺恨によるものだという説を積極的に広め...
女化騒動-----牛久助郷一揆
一〇月二一日は国際反戦デーと言われベトナム戦争当時から平...
女化騒動に関しては茨城県立歴史館の図書室で見られる野口三...
牛久沼は今よりも大きく広がっていたので、当時の水戸街道は...
時代が進み、交通が頻繁になってくると、人馬の供出が村内で...
助郷が広がるとかなり遠方の村から牛久まで行かねばならず。...
なんとか耐え忍んで一〇年の期限が終わろうとした時に、久野...
小池村(阿見町小池)の百姓勇七四二才と百姓吉十郎三八才、...
集まった農民を前に、かがり火に照らし出された勇七が、一世...
「この度、大勢の皆様を相招きしことは、兼ねてより張札場に...
一揆の目的が加助郷の延長が不当であることを世に訴えること...
一九日、久野村の和藤治宅を襲撃。二〇日、牛久宿問屋麻屋治...
幕府は直轄天領での一揆に驚愕して、旗本や近隣諸藩に鎮圧命...
農民達はそしらぬ顔で村々に戻ったが、幕府の追及は厳しかっ...
アナーキーな破れかぶれな一揆ではなく、整然と計画的に行わ...
海峡を発見した幕府隠密
間宮林蔵が間宮海峡を発見した1809年からおおよそで200年にな...
間宮林蔵は常陸国筑波郡上平柳村で生れた百姓のせがれである...
小貝川の改修工事に来た幕府の役人に秀才ぶりをアピールし、...
頭の回転が良くて、出世のためにはなんでもする男。これは使...
江戸でどのように暮らしたかは定かではないが村上島之允に算...
間宮林蔵の最大の功績である樺太探検は、最初松田伝十郎の従...
43歳で蝦夷地の測量も終わり、探検家としての仕事からは引退...
林蔵は測量技術の習得には熱心であった。通商を求めるロシア...
シーボルトにも近づき、測量技術を習得しようとした。おそら...
シーボルトは「たとえ密告者であるとしてもその功績を無視す...
武士道に基づく信義が重んじられた時代には林蔵の評価は高く...
領土問題では探検家の業績がものを言うが、間宮林蔵は密偵だ...
間宮林蔵を偉人として顕彰するのはたいがいにした方がいい。...
二宮金次郎の財政改革
薪を背負って歩きながら本を読む少年の像で知られる二宮尊徳...
石像ばかりでなく、銅像も多かったのだが、戦時中に供出させ...
尊徳(たかのり)というのは、56歳になって幕府に取り立てら...
幼少の時に先を見越して竹を植えたとか、子守で得た駄賃で堤...
両親を失った貧しい少年でありながら、超人的な勤勉さで働き...
猛烈に働いて土地を買い戻したというが、当時の賃金では、7俵...
家督再興の評判が伝わり、小田原藩家老、服部家の財務コンサ...
服部家の家政での功労を知って、小田原藩は野州桜町の村財政...
財政再建に対する金次郎の手法は、現在では当たり前な、きっ...
開墾や用水の事業には資金が必要だが、金次郎の改革が領主受...
農民たちに「やる気」を起こさせなければ、返済不能となり、...
実際には、一番の成功例である桜町改革では、小田原藩の公的...
『殿様が借金のあるときに人民が困窮するのは天命だ』といっ...
しかし、「パチンコなんかやってないで、まじめに働こう」的...
現在の財政政策では、倹約一点張りである金次郎の手法は必ず...
枡の謎解き
二宮金次郎が小田原藩領での枡改革を行ったことが良く知られ...
二宮金次郎が行ったのは、一俵を規定するための専用枡を決め...
「小田原藩枡改革覚書」によれば、この枡は、一尺方形で深さ...
計算をしてみると、一尺の方形枡の場合、一俵が40.72377升に...
江戸幕府は一升の計量に非常なこだわりを持っていた。江戸と...
一尺の方形枡に端数が現れた理由は、この新京枡による幕府の...
「虫や鮒」の根拠は、幕府の新京枡の寸法が4.9寸×4.9寸×2.7寸...
しかしながら、この解釈には納得できない。地方役人ならまだ...
二宮金次郎の枡改革の逸話が有名になったことから、一斗枡も...
逆算して、本当の寸法がいくらであるべきかを考えて見よう。...
厘以下の半端を出さずに一斗の枡を作る寸法の組み合わせは限...
縦横を10寸5分とすると深さは5寸8分8厘となり、これでぴった...
これを京枡で行うとどうなるか?やってみた結果、京枡では一...
京枡から新京枡への転換は、一斗や一合を正確に定義して、計...
一方で、尊徳枡については、実在に疑いが生じた。10.033寸な...
坂本龍馬異論
昨今の評価では、明治維新と言えばすなわち坂本龍馬の活躍と...
実際、坂本龍馬が明治維新で何をやったかというと定かではな...
海援隊と言う組織を立ち上げたことも龍馬の事跡だが、海援隊...
岩崎弥太郎との関連で海援隊の貿易事業の先駆性が言われるが...
坂本龍馬の思想が先見的だったことも言われるが、特に著作が...
実際、横井小楠も「国是三論」「国是七条」「国是十二条」を...
新政府を立ち上げたのは、天皇が顧問(議定)や議員(参与)...
坂本龍馬は下役の出身で少年時代は特に目立たなかったし、成...
だから坂本龍馬は素浪人としてあちこち渡り歩き、放言しただ...
明治初期には、維新の立役者は誰かといった評論が盛んに行わ...
十傑は明治になるまで生き残って元勲として明治政府で活躍し...
横井小楠の方は人物として評価が高かったことがわかる。勝海...
忘れ去られた名前である坂本龍馬が復活したのは日露戦争の時...
以来、龍馬の名前は少し知られるようになり、いろんな本にも...
今のような龍馬像が浮き上がったのはひとえに司馬遼太郎の「...
万次郎と彦の接点
長い鎖国の時代を超えて、日本人の目が世界に見開かれるよう...
万次郎は一八二七年に生まれた土佐の漁師のせがれだった。父...
船長に見込まれ、ここで教育も受けた。三年間の教育で、数学...
一八三七年に播磨で生まれた彦が一三歳で遭難したのは、二三...
サンフランシスコで一年余り、船員たちの庇護の下、下働きを...
こうした心の自由は、当時の日本人にはあり得ないようなもの...
比較してみると、万次郎のほうが帰国の願望が強かったし、そ...
琉球に着いた万次郎は、薩摩に送られ、さらに土佐に送られ、...
黒船が来航し対外対応が必要となった幕府は、情報を得ようと...
彦のほうは、教育を受けたあと商人を目指した。ブキャナン大...
彦が神奈川に来たころ、万次郎は江戸の軍艦教授所で航海術を...
幕府は、一八六〇年に遣米使を渡航させることになったが、こ...
咸臨丸の航海については、福沢諭吉が詳しく書き残しているが...
彦は、サンフランシスコの街中で暮らし、社会制度や、商取引...
咸臨丸が出航したあと、日本は反動で尊皇攘夷熱が高まり、ヒ...
この頃、彦は、グラバーに誘われて領事館を辞して、拠点を長...
1968年は明治の政変があり、世の中が変わった。もはや武器も...
彦は大蔵出仕となって、造幣局の設置や商業教習を行うが、ビ...
なぜ征韓論が内戦にまでなったのか
征韓論が大問題となった明治6年と言う時期は、重大な内政問題...
徳川幕府崩壊の大元を作ったのは水戸光国である。幕府が発足...
これでは将軍が徳川氏であることに何の必然性もない。武家の...
攘夷で始まった幕府批判は、国学の流行に結びつき、たちまち...
国学のイデオロギーは萬世一系の天皇を頂く日本が唯一の神の...
現実が困難であればあるほど理論は先鋭化する。何が真実かを...
しかしヤマト政権が掲げた天皇制のイデオロギーは、実は過去...
だから、まだ新しい政府の何も整わないにもかかわらず「征韓...
おそらく征韓論が現実にそぐわないとは意識していただろう。...
近年、西郷隆盛の征韓論を擁護する論調が出てきているが、先...
征韓論が頓挫して、大久保や伊藤のような「不純」な志士達が...
日清戦争・成歓の闘い
大日本帝国の歴史は戦争の歴史である。開国以来日本は戦争を...
しかし、事実は多少異なり、実はこの戦闘で、見方によれば日...
日清戦争は1894年8月1日に始まり、翌年4月17日に終わった日...
そのころ朝鮮では東学党の農民一揆があちこちに起こり政情不...
広島は、山陽鉄道が開通して広島までの鉄道が使える様になっ...
捕虜にした国王に「清国軍を追っ払って欲しい」と言わせて、...
清国軍は京城に攻め込むというようなあつかましいことは出来...
素早い動きが出来た理由の一つは、もうひとつの日本の得意技...
というわけで、食料や馬は原則現地調達つまり略奪でやること...
補給を徴発でまかなうと言うのも実は楽ではない。それはそう...
混成旅団の戦闘詳報によれば、7月28日は素砂場で野営し、7月2...
ここから成歓までは田圃の中の細い一本道となる。いくらなん...
20分ほど歩いて秋八里の手前600mの所まで来た。「キリン洞」...
第12中隊は道路から田圃に飛び降りて左側散開して伏せた。後...
この「水構に追い落として」と言うところは日本側の記録にも...
当初の報告では時山中尉は行方不明で、溺死の事実は隠されて...
通俗本の溺死状況をはじめ、よく言われている成歓戦の様子は...
ではどのようにして溺死することになったのだろうか。軍の記...
水死体を実況見分した報告書によれば17体を発見した場所は安...
さらなる疑問は緒戦の部分にもある。清国軍は堂々と「師」の...
計画的な一斉射撃ではなかったがかなり猛烈な射撃と思われた...
あまり華々しくもない最初の戦闘も軍国日本としては美化せざ...
木口小平の真実
岡山から伯備線で一時間、備中高梁に行くと木口小平の記念碑...
この教科書は内容が杜撰で初歩的な誤りが多いそうだが、自ら...
実際にどのように扱われたのかを調べて見ると、ラッパ手の武...
日清戦争当時はまだ国定教科書と言う制度はなかったのだが、...
明治政府が徴兵制を敷いて、これまで武士の専権行為であった...
白神源次郎がどのような人物であったかというと、元は高瀬舟...
白神は成歓の戦で戦死したがラッパ手ではなかったと言うこと...
戦闘中のことだから溺死であれ弾丸死であれ名誉の戦死で良さ...
日清戦争における兵卒の扱いはひどいもので、どの戦闘詳報を...
さすがに、8月15日になって旅団から正式に出した戦死者名簿に...
「日清戦争名誉戦死者人名録」(明治28年、金城書院)にも、...
戦死と言っても鉄砲玉に当たるばかりではない。成歓の戦では...
「終始力強い進軍ラッパを吹いて全軍を励ましていたラッパ卒...
後日名誉の戦死を大いに称えられたたが、木口も白神も実は何...
2.26事件を解明する
2.26事件は、日本が戦争の泥沼に踏み込んで行く端緒となった...
実は2.26事件の原因は帝国憲法にあり、明治維新の過ちから来...
法律の素人である伊藤博文が作った大日本帝国憲法には、いろ...
それでも、維新元勲が政治を担っていた明治の時代には、軍と...
軍人にとってはこれが不満だった。軍事を知っている自分たち...
第一次世界大戦が終わり、世界が軍縮に向かうころから、世界...
平時の軍は戦功での評価がないので、完全な学歴社会になる。...
こんなことから、青年将校たちは、社会経験が薄いにも関わら...
こうした政治派閥がお手本にしたのは明治維新であり、彼らは...
彼らは平然とクーデターを実行する主張を繰り返し、特権意識...
この当時、政府を運営していたのは、政党の代表者たちであっ...
天皇が支配する理想的な神の国である日本で、なぜ労働者・農...
どの派閥も、基本的な政策主張は同じだ。軍事最優先で、軍縮...
当然ながら、陸軍大学出身者など、軍の主流に近いところに統...
どちらも、様々な問題の解決を領土の拡大、対外侵略に求めた...
考え方もさることながら、派閥の常として、交友関係によるつ...
荒木が陸軍大臣になったこどで、極端な派閥人事が始まった。...
危機感を覚えた皇道派は、相沢三郎による永田鉄山暗殺事件を...
2.26事件は、政府に対する反乱であったと同時に統制派に対す...
しかし、政治の実権を軍が握るという思惑は成功し、それがた...
民族独立と太平洋戦争
人類に大災害をもたらした第二次世界大戦を積極的に評価しよ...
一般的には、遅れて西洋文明を取り入れながら、経済発展を果...
アジア・アフリカの独立運動はもっと早く、第一次世界大戦の...
確かに日本の占領中に独立した国もある。フィリピン、ラオス...
ベトナムは日本軍が支配してパオ・ダイに「ベトナム帝国」を...
日本軍がフランスから独立させたラオス王国は傀儡のようなも...
フィリピンは1934年に自治領となり、10年後に完全独立する法...
ビルマではアウンサンたちが日本軍に期待してイギリスと戦っ...
インドネシアはスカルノたちが日本軍と協力して民衆を組織し...
カンボジアは日本軍がインドシナに進攻した機会を捉えてシア...
いずれの国々も、日本軍のおかげで幸せな独立を果たしたとい...
独立背景に寄与するのは国連の成立とその援助が大きい。1949...
日本がアジアにありながら、西洋文明を取り入れて独自の経済...
日本の侵略については様々な言い訳がなされている。日本がし...
朝鮮の植民地経営は赤字で、朝鮮へのインフラ支出は税金を大...
朝鮮が日本の植民地になって以後人口が増えた事を「いい侵略...
ミッドウエー海戦と北の島々
アッツとキスカはいずれもアリューシャン列島にあるアメリカ...
奪還を目指すアメリカ軍がせまる中、アッツには援軍も食料・...
キスカのほうは、脱出作戦が行われた。6500人という人数から...
明暗は分かれたが、戦略上重視されなかった点は同じだ。では...
アッツ、キスカの占領はミッドウエー海戦と同時に行われた。...
これらの島は日本が占領している唯一のアメリカの領土になる...
意味のないアッツ・キスカの占領がなぜ行われたというと、政...
軍は、本土への空襲を防ぐためにアッツ・キスカの占領が必要...
実際には、ミッドウエー島を占領する前に、日本の連合艦隊は...
日本軍がミッドウエー島への攻撃に手間取っているうちにアメ...
問題はなぜこういった根本的とも言って良い作戦の誤りを犯し...
多くの戦史家が過小評価して見逃してしまっているのは、ドゥ...
対抗関係にあった陸軍からあざけられても仕方がない。予測外...
何が何でも爆撃を阻止しなくてはならない。しかし日本軍には...
アメリカ軍は、航空母艦が陸軍のB25を積んで日本近海まで進出...
ミッドウエーで機動部隊を失って以降、まともに戦争に勝つた...
本土爆撃の始まり
本土爆撃といえば、太平洋戦争の末期に日本全土が空襲を受け...
本土爆撃の最初は真珠湾攻撃による開戦のわずか四ヵ月後であ...
真珠湾攻撃が失敗に終わった結果、米軍の真珠湾基地も、その...
東京から六時間以内と言えばグアムとかテニアンになるが、さ...
この時点で東京を空襲すると言うのは、民間航空あがりのドウ...
制海権が無くとも、一時的に空母を日本に近づけることはでき...
帰還せず、そのまま飛んで大陸の中国軍支配地域に着陸すると...
よく日本軍の特攻隊とかの勇敢さが語られるが、なかなかどう...
空母をどこまで日本本土に近づけられるかが成否のポイントで...
日本側は、空母を発見はしたが、艦載航空機の射程に入るのは...
覚悟の上だったとはいえ、爆撃後の燃料不足は深刻だった。浙...
爆撃機は、昼頃に日本上空に到着、東京、横浜、名古屋、神戸...
真珠湾の大勝利に続き、各地で連戦連勝のはずなのに首都が爆...
面子のために意味の無い戦闘をするわけにも行かない。ミッド...
開戦四ヶ月ですでに本土を爆撃され、六ヶ月で艦隊を失い、も...
日本もアメリカに名目的な本土爆撃を仕掛けたが、潜水艦で運...
グアムやサイパンを米軍が奪取してからは、B29による爆撃が恒...
高々度からの爆撃ではジェットストリームにあおられて命中精...
多くの民間人が犠牲になる都市爆撃は日本が中国で始めたもの...
戦争とは実におろかなものだと言うしかない。
特攻隊の真実
「君のためにこそ俺は死ににいく」は石原慎太郎がプロデュー...
最近の愛国心宣伝の手口はこれに近づいている。文科省の「心...
「コロリと丸め込まれ」たのだが、よく考えてみれば「死にに...
石原に限らず、すりかえイデオロギーと若者の死のロマンチシ...
なぜ特攻隊自爆テロが馬鹿馬鹿しいかと言えば、まず、命中率...
通常の艦船攻撃では多数の攻撃機を用意して敵弾を分散させる...
さらに馬鹿馬鹿しいのは、うまく命中したとしてもその威力が...
威力の小さい特攻で効果を上げるためには爆弾を大きくする他...
ところが日本軍の記録では特攻の命中率は高いことになってい...
最初の神風特攻隊である関大尉の敷島隊は5機で、米機動部隊主...
後の特攻とは異なり、レイテ沖海戦で米主力が手を取られてい...
しかし最後の1機は、セイントローに突っ込み改造輸送船の飛行...
結果的には熟練のパイロットを多く失い、日本のパイロットは...
「死にに行く」のはちっとも「君のため」ならなかったばかり...
(注2)ホーネット、レキシントンなどは修復不能にまで破壊...
(注1)飛行機は高速で飛んでおり、高射砲の弾が直接機体に...
予科練とは何だったのか
「今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦の 七つボタンは桜に錨」という歌は...
予科練で本格的な飛行訓練をやった事実はないし、修了生全体...
日本の軍隊は、長州藩の奇兵隊なんかがその先駆けだが、武士...
これには一応の理由がある。当時の戦争の勝敗を決するものは...
海軍の場合は少し様相が異なる。陸軍のように兵隊を根性だけ...
日本の軍隊ではこうした身分制度と「いじめ」「しごき」が組...
初期のころは飛行機は将校の専有物で、飛行訓練を行うのは「...
海軍の飛行機は航空母艦から出撃するのだが、飛行機搭乗員を...
そんな事で高等小学校程度の子供たちを最初は横浜、次いで霞...
アメリカでは航空機が増えたころから、将校をどんどん飛行機...
海軍は、航空兵力拡充にはあくまでも消極的で、予科練にして...
日本の場合は、マリアナ沖海戦やガダルカナルで熟練飛行士を...
1944年になって急に予科練を114,773人に増やしている。時既に...
人数的にはこうした「飛ばない予科練生」が圧倒的に多いので...
予科練は志願制だったが、中学では配属将校が志願を強力に勧...
飛行機乗りになるという夢を抱いていた生徒は騙されたような...
終戦になってからも、予科練の不運は続いた。学校でなかった...
予科練自体が悲劇であるが、生き残った予科練生も戦争の被害...
日米はなぜ戦ったのか----太平洋戦争の原因 ----
太平洋戦争は日本軍による真珠湾の奇襲に始まった。開戦への...
戦争に至る前になぜアメリカとの対立を深めたかも経過的には...
ところが、ドイツはノモンハン戦闘の真っ最中にソ連と10年...
ドイツは第一敵国ソ連と不可侵条約を結んで、フランスとポー...
日本が本気でソ連と友好を結ぼうとしたのなら、これまたドイ...
このとき天皇も裁可した『情勢の推移に伴う帝国国策要綱』で...
結局、関特演は戦争にいたらなかった。その理由はノモンハン...
当然ながらアメリカは石油の禁輸という経済制裁に出た。外交...
ハルノートではアメリカの要求が中国からの撤退と日独伊3国...
軍の動きは政府に先行しており、ハルノートが出た11月26日に...
こうして日米開戦までの経過を見てみると、日本帝国は石原莞...
第一の敵国がソ連であったことから日独伊三国同盟となり、ア...
たしかに欧州の情勢はロンドンに爆撃の手が及び、モスクワ陥...
アジアを支配する日本と欧州を支配するドイツがアメリカを挟...
これが、昭和天皇が率いる日本帝国の読みだったが、見事には...
1939年 8月23日 独ソ不可侵条約(10年)
1939年 9月15日 ノモンハン事件終結
1939年 9月 1日 ポーランド侵攻
1939年 9月 3日 イギリス・フランスがドイツに宣戦布告
1940年 5月10日 フランス侵攻を開始
1940年 6月14日 パリ占領
1940年 9月23日 北部仏印進駐
1940年 9月27日 日独伊三国軍事同盟
1941年 4月13日 日ソ中立条約(5年)
1941年 6月22日 対蘭石油交渉打ち切り
1941年 6月22日 ドイツがソビエト連邦に宣戦布告
1941年 7月 2日 日本陸軍は関特演70万兵力動員
1941年 7月 2日 御前会議 「国際信義上どうかと思うがまあ...
1941年 7月28日 南部仏印への進駐
1941年12月 7日 真珠湾を攻撃
1941年12月11日 ヒトラーはアメリカに対して宣戦布告
1942年 1月 1日 連合国共同宣言
1943年 2月 スターリングラードでドイツ第6軍が敗北
1944年 6月 6日 ノルマンディー上陸
1945年 2月11日 ヤルタ協定(ドイツ降伏後90日以内にソ連参戦)
1945年 4月 5日 日ソ中立条約 廃棄通告
1945年 8月 9日 ソ連参戦
従軍慰安婦問題
第二次世界大戦における日本の反省事項のひとつに従軍慰安婦...
慰安所はどの部隊にもあったといわれるが、もちろん公式なも...
慰安所は合法的だったか?
戦前の日本では、売春は公然と認められていたのだから、戦地...
もちろんいつの世にも法の裏街道を行く無法者はいるわけで、...
戦地での強姦事件があとをたたず、「皇軍の威信低下」が危ぶ...
二十万人という数字はあやふやなものだが、関特演での必要慰...
強制連行はあったか?
慰安婦の徴募について強制連行はなかったと主張するのが最新...
朝日新聞がこの出版を報道したことが逆に攻撃の対象になり、...
慰安婦の徴募はいろいろな手段で行われた。日本の国内で行わ...
強制があったことには確実な証拠がある。最も確実な証拠のあ...
これは南方軍管轄の第一六軍幹部候補生隊が十七歳以上のオラ...
こうした日本側の処置などが、記録に残ってしまったことと、...
強制連行を行ったのは方面軍直属の士官候補生隊であり、逃亡...
「強制連行」の事実が陸軍省まで伝わったにもかかわらず、慰...
日本軍では慰安婦の強制連行を罪悪とする考えが無かったのだ...
事件は頻発していたにもかかわらず、日本軍が実際に、強姦や...
朝鮮半島での強制連行
慰安婦の証言はもちろん重要だが、それにたよらずとも、極東...
それでも強制連行はなかったという主張があちこちで行われて...
朝鮮総督府の資料は終戦時にほとんど処分されて残っていない...
慰安婦を強制的に集めるためには、「看護婦にする」とか「工...
日本は男性朝鮮人・中国人を多数強制連行して鉱山やダム建設...
朝鮮での慰安婦徴集の違法性で議論の余地がないのは、未成年...
慰安婦の悲惨な実態
女性が不特定多数を相手に、性奴隷としての生活を強いられる...
資料の中にはミッチナ文書のように慰安婦の生活が「安楽な生...
慰安婦は高収入だったか?
慰安所の料金は昭和13年当時「兵 一円五〇銭、下士官 三円...
当時の兵士の給与が月一〇円程度だったので五円というのは相...
客の九〇%は下級兵士だったわけだから「売り上げ」も知れて...
しかし、元慰安婦の中にはかなりの金額の貯金があったとして...
軍票というのは何の裏づけもなく印刷した通貨だから、あまり...
兵士たちは他に使い道もなく、内地に送金もできない「軍票」...
軍票は当時の慰安婦の生活にとってもなんの役にも立たないも...
慰安婦はどの軍隊にもあったのか?
残虐な戦争に売春や強姦行為はつきものと云われるが、日本軍...
現代の軍隊はどこも慰安所を持っていまないし、当時もイギリ...
戦場の緊張を長期に渡って続けるには無理がある。通常の軍...
慰安婦議論と証拠
慰安婦問題全体から言えば、強制連行の事は一部の問題だ。最...
それでも、朝鮮半島での強制連行に直接証拠がないかぎり強制...
裁判は「多くの真犯人を取り逃がすほうが、ひとつの冤罪をつ...
日本軍は自由に証拠の隠滅が出来たし、慰安婦はその境遇から...
古代日本の様子
日本が初めて歴史に登場したのは、1世紀に書かれた漢書地理...
2世紀の後漢書になると「永初元年(107年)倭国王帥升等、生...
3世紀には魏志倭人伝がある。魏志倭人伝といえば、邪馬台国...
帯方郡から見て、日本列島の有力な国の一つが邪馬台国であっ...
一夫多妻制で妻が3,4人いるが、風俗は淫らではない。冠はか...
こういった生活の様子は日本の記録には現れない。当事者は、...
衣類は主として麻だったようで、紵麻(からむし)で麻布を作っ...
外交関係はかなり活発で、記録も具体的だ。卑弥呼が魏に使い...
絳地(あつぎぬ)の交竜錦(二頭の竜を配した錦の織物)五匹
絳地の粟(すうぞくけい:ちぢみ毛織物)十張
絳(せんこう:あかね色のつむぎ)五十匹
紺青(紺青色の織物)五十匹
これに加えて、遠路はるばる来たことを讃えて特別プレゼント...
紺地の句文錦(くもんきん:紺色の地に区ぎりもようのついた錦...
細班華(さいはんかけい:こまかい花もようを斑らにあらわし...
白絹(もようのない白い絹織物)五十匹
五尺刀二口
銅鏡百枚
真珠五十斤
鉛丹(黄赤色をしており、顔料として用いる)五十斤
おそらく当時の倭国の国家予算を超えるようなものだっただろ...
朝貢したのは、邪馬台国だけではない。一応は邪馬台国に従属...
帯方郡としては、「張政」を日本に送り、「難升米」を説得し...
男女生口三十人
白珠五千(枚) 真珠?
孔青大句(勾)珠(まがたま)二枚
異文雑錦(異国のもようのある錦織)二十匹
で、少し生産力が高まっているとも見受けられる。「卑弥呼」...
倭の様子を記述した文章が7世紀の隋書でも見られる。魏志を下...
中国の歴史書によれば古代日本の様子が見えるのだが、これは...
日本国憲法と国連憲章
日本国憲法は見事な体系性を持っており、法律条文としては、...
日本国憲法と国連憲章の前文を比較してみよう。
日本国憲法は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起るこ...
国連憲章は、「われら連合国の人民は、われらの一生のうちに...
人としての権利=人権を価値観の基礎に据え、平和と民主主義実...
国連憲章を起案したのは米国務省特別政務室長のAlger Hissだ...
国連憲章の平和に関する考え方は、国連憲章2条4項に示され...
これは、日本国憲法では9条1項に「日本国民は、正義と秩序を...
日本国憲法9条2項では、それを具体化するために「陸海空軍そ...
国連では、平和を守るために「集団安全保障」という考え方を...
一国が単独で自国の安全を保障しようとすれば、他国に優る軍...
「集団安全保障」は、もし加盟の一国が他国を侵略したりする...
こうした仕組みが機能すれば、どの国も他国に優る軍事力の必...
軍備と戦争は必ず自衛という形で現れる。国連が世界の恒久的...
そもそも個人の自衛権なるものも、少なくとも日本では認めら...
日本人は経験からも個人の自衛権を放棄したほうが却って安全...
自衛権の議論では、軍事技術の発達も考慮に入れなければなら...
しかしながら、歴史の進歩は平坦ではない。国連と日本国憲法...
ソ連の崩壊後暴露されたの機密文書でも、スパイ行為の事実は...
1975年になって、「秘密文書」がでっち上げであったことがわ...
日本国憲法も歴代自民党政府によって、蹂躙されて行くように...
日本政府によれば、集団的自衛権(right of collective self-...
「日本國及滿洲國ハ締約國ノ一方ノ領土及治安ニ對スル一切ノ...
とまさに集団的自衛権をその侵略戦争の正当化の根拠としてい...
しかしながら、国連憲章が、個別的・集団的自衛権を容認する...
第51条は、「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対...
と、集団的自衛権を容認する文言になっている。実際、集団的...
国連憲章は1944年9月にワシントンDC郊外にあるダンバートン・...
アメリカでは、「大統領の権限を他国にゆだねるようなものだ...
その結果、大国の拒否権によって集団安全保障機能が麻痺する...
地域的集団安全保障についての議論が行われたがうまく合意す...
地域的取きめによる安全保障の代わりということで、51条を入...
国連憲章51条の集団的自衛権は、大国の権限を容認しなければ...
アメリカは、国連を都合よく利用しようとしたが、Alger Hiss...
それでも、現在ほとんどの国が加盟する国連を無視して世界は...
歴史と善悪
「南京大虐殺はなかった」とか「満州国は中国のため」とか...
中には一応、論を立てる人もあるが、このたぐいの論者に共通...
大虐殺をやったのは日本ばかりではない、アレキサンダー大...
歴史に善悪を考える時、重要なことは人類の進歩という概念...
過去においては阿片貿易も「正当な商行為」として認められ...
第一次世界大戦が帝国主義諸国間の争いでしかなかったのに...
遅れて国際舞台に登場した日本は、西欧の古い基準に学び、...
戦争の歴史
歴史は言うまでもなく戦争だらけではあるが、いったいどのよ...
もちろん戦争の始まりは喧嘩であっただろう。話は単純で腕力...
槍や刀などの武器が発達すると、腕力というよりも、こうした...
喧嘩の原因には様々なものがあった。宗教とか民族の対立は現...
人類が一人一票などと言う決定方法を思いついたのは、まだず...
しかしながら、助っ人の数には実は限りがあった。大声で指揮...
戦争の規模のさらなる拡大は、朝廷子飼いの武人では無く、新...
この時代に特徴的なことは、数ではなく、超人的な豪傑を獲得...
雑兵と呼ばれる狩り出された農民の役割は、戦闘よりも、むし...
劉備も曹操も頼朝も、戦国の武将は全て豪傑を召抱えたがった...
日本で最初に集団戦術を取り入れたのは、武田の騎馬隊である...
集団戦術を決定的にしたのは鉄砲の登場であった。弾込めに時...
世界では鉄砲の発達とともにますます集団戦術が発達し、銃撃...
幕末の戊辰戦争を経て、日本でも戦争の仕方は大きく変わり、...
西洋諸国から学んだのは散兵狙撃と密集突撃の戦術である。特...
鉄砲の出現で鎧兜が役に立たなくなったのと同様に、大砲の出...
この当時から、あまりにも多くの死傷者を出す戦争に対する疑...
第一次世界大戦で導入された塹壕陣地による防衛戦も突破でき...
野戦で戦車がいかに力を発揮するかは、ノモンハンでのソ連軍...
さらに大きな変化をもたらしたのは、航空機の参入である。大...
陸上戦闘は、航空機と戦車で決着が着く時代になった。徹底し...
このように歴史を一貫して戦争は進化してきた。逆に言えば、...
今の大国間の全面戦争では核ミサイルで全て決着が着く。しか...
航空機とミサイルで全て決着がつく時代の戦争というものは余...
日本は日清戦争で戦費をはるかに上回る賠償金をせしめて、そ...
この70年、大国どうしの全面戦争は一度も起きていない。もち...
こう考えると、今各国にある軍備は実は無駄なものであること...
日本国憲法が戦争を放棄しているのは、決して理想論だけから...
しかし、戦争で利益を得る人と犠牲を払う人が別であることか...
戦争の現実が見えず、まともな判断ができないバカだけが戦争...
地方の時代はやってくるのか?
「地方の時代」などと言う言葉がt使われ一時はブームにもなっ...
昔に遡って「地方の時代」考証してみよう。日本の古代はもち...
これで「地方の時代」は終わったのかといえばそうではない。...
中央集権は崩壊せざるを得ない弱点を持っている。人事は中央...
権力は中央に集中しても土地は動かせない。中央集権のもとで...
鎌倉幕府は決定的な中央集権の崩壊を意味し、再び「地方の時...
騒乱を経て結局落ち着いたところは江戸幕府という官僚化した...
再び中央集権が復活したのは明治の王政復古で、廃藩置県で幕...
同様な現象は、ヨーロッパでも見られ、イタリアやプロシアは...
明治の中央集権化は徹底したものだったが、それでも徳川300年...
中央集権による集中力の発揮は瞬発的なもので長続きはしない...
戦後、新憲法の下で地方自治が導入された。これは再び地方の...
それでは再び地方の時代がやってくるだろうか?もはや農業を...
風景や空気・環境が生産に欠かすことのできない大きな資産と...
----
http://www010.upp.so-net.ne.jp/kodomo/histweb/index.html
ページ名: