旧唐書
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旧唐書(巻199上「東夷」)<付・劉仁軌伝>
『旧唐書』(くとうしょ)は五代時代の後晋国の政治家であっ...
倭国に関しては巻199上の「東夷」条に記載されている。
『旧唐書』は倭人国について「倭国」と「日本国」の二つを...
< 倭国 >
倭国は古の「倭奴国」なり。京師を去ること一萬四千里、新...
その王の姓はアマ(阿毎)氏。一大率を置き、諸国を検察す...
貞観5(631)年、使いを遣わし、方物を献ぜり。太宗その...
(貞観)22年に至り、また新羅に付して表を奉じ、以って起...
(注)
倭奴国・・・倭国はもとの「倭奴国」、つまり漢の武帝から金...
そのことは京師すなわち唐の都・長安(現在の西安)から1万...
すこぶる新羅に類せり・・・北部九州にあった倭奴国は馬韓(...
王子と礼を争い・・・西暦631年に到来した高表仁と礼をめ...
< 日本国 >
日本国は、倭国の別種なり。その国、日のヘリに在るが故に...
その人にして朝に入る者、多くは自ら大なるをほこり、実を...
また云う、その国界は東西南北各数千里、西界と南界は大海...
長安3(703)年、その大臣・朝臣真人来たりて方物を貢...
開元の初め(716、7年頃)、また、遣使来朝あり。因み...
天宝12(753)年、また遣使して貢ず。
上元中(760~762年)、衡をえらびて左散騎常侍・鎮...
貞元20(804)年、遣使来朝す。学生・橘逸勢、学問僧...
元和元年(806)、日本国使・判官・高階真人、言を上ぐ...
開成4(839)年、また遣使朝貢す。
(注)
日本国・・・外交史上はじめて「日本」が使われたのがこの『...
最初の段落はその由来を書こうとしているのだが、編著者に...
「日本」を含む説明文は四つある。それを列挙すると、
① 日本は倭国の別種である。
② 日(太陽)に近い辺りに位置しているので「日本」と...
③ 倭(国)が自らその雅びでない名を嫌って「日本」と...
④ 日本はもと小国であったが、倭国の地を併せた。
①②④は同じ質の文で、ともに一時的には列島内に「倭国」と「...
ところが問題は③である。③は①②④とは違い、倭国がそのまま「...
①②④を併せて解釈すると、「日本」は倭国とは政権が別の国家...
倭国が日本に併合され統一国家が生まれたのは、上の<倭国...
そのために対外的には倭国として権力を振るってきた九州国...
朝臣・真人・・・粟田真人のこと。文武天皇の大宝元年(70...
朝臣・仲満・・・阿倍仲麻呂のこと。遣唐使として入唐(大使...
<付・劉仁軌伝>
劉仁軌は唐の将軍で、660年から663年にわたって行...
劉仁軌伝は上述の「倭国伝」「日本国伝」を併せた位の記事...
俄かにして、余豊、福信を襲って殺し、また遣使して高麗お...
右威衛将軍・孫仁師に詔して、兵を率い、海に浮かび、以っ...
(注)
余豊と福信・・・扶余豊(フヨ・ホウ)のこと。百済31代義...
倭国に人質となって滞在していたが、故国の危機のため、帰...
631年から663年まで30年余りを倭国で人質として過...
劉仁軌・・・仁軌の地位は分かっていないし、生年・没年も不...
扶余隆、水軍および糧船を率い、熊津江より白江に往き、陸...
余豊、身を脱して走れば、その宝剣を獲たり。偽りて王子・...
(注)
白江・・・白村江のこと。百済の首都である熊津(扶余)を流...
舟400艘・・・倭国側の被害数をここでは400艘とするが...
つまり、倭国公認の艘数は確かに170であったが、認定以...
その一つの証拠が、『肥前風土記』に見える「白水郎(あま...
彼等は水軍ではないが、いったん事あれば水軍の一翼を担っ...
倭衆・耽羅国の投降・・・倭国によって百済王に就任したと思...
倭衆とは阿曇比羅夫に率いられて行った兵士だけではなく、...
また、ここで唐突に「耽羅国」が登場するが、耽羅国は現在...
<旧唐書>の項は終り
中国史料に見る倭人
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旧唐書(巻199上「東夷」)<付・劉仁軌伝>
『旧唐書』(くとうしょ)は五代時代の後晋国の政治家であっ...
倭国に関しては巻199上の「東夷」条に記載されている。
『旧唐書』は倭人国について「倭国」と「日本国」の二つを...
< 倭国 >
倭国は古の「倭奴国」なり。京師を去ること一萬四千里、新...
その王の姓はアマ(阿毎)氏。一大率を置き、諸国を検察す...
貞観5(631)年、使いを遣わし、方物を献ぜり。太宗その...
(貞観)22年に至り、また新羅に付して表を奉じ、以って起...
(注)
倭奴国・・・倭国はもとの「倭奴国」、つまり漢の武帝から金...
そのことは京師すなわち唐の都・長安(現在の西安)から1万...
すこぶる新羅に類せり・・・北部九州にあった倭奴国は馬韓(...
王子と礼を争い・・・西暦631年に到来した高表仁と礼をめ...
< 日本国 >
日本国は、倭国の別種なり。その国、日のヘリに在るが故に...
その人にして朝に入る者、多くは自ら大なるをほこり、実を...
また云う、その国界は東西南北各数千里、西界と南界は大海...
長安3(703)年、その大臣・朝臣真人来たりて方物を貢...
開元の初め(716、7年頃)、また、遣使来朝あり。因み...
天宝12(753)年、また遣使して貢ず。
上元中(760~762年)、衡をえらびて左散騎常侍・鎮...
貞元20(804)年、遣使来朝す。学生・橘逸勢、学問僧...
元和元年(806)、日本国使・判官・高階真人、言を上ぐ...
開成4(839)年、また遣使朝貢す。
(注)
日本国・・・外交史上はじめて「日本」が使われたのがこの『...
最初の段落はその由来を書こうとしているのだが、編著者に...
「日本」を含む説明文は四つある。それを列挙すると、
① 日本は倭国の別種である。
② 日(太陽)に近い辺りに位置しているので「日本」と...
③ 倭(国)が自らその雅びでない名を嫌って「日本」と...
④ 日本はもと小国であったが、倭国の地を併せた。
①②④は同じ質の文で、ともに一時的には列島内に「倭国」と「...
ところが問題は③である。③は①②④とは違い、倭国がそのまま「...
①②④を併せて解釈すると、「日本」は倭国とは政権が別の国家...
倭国が日本に併合され統一国家が生まれたのは、上の<倭国...
そのために対外的には倭国として権力を振るってきた九州国...
朝臣・真人・・・粟田真人のこと。文武天皇の大宝元年(70...
朝臣・仲満・・・阿倍仲麻呂のこと。遣唐使として入唐(大使...
<付・劉仁軌伝>
劉仁軌は唐の将軍で、660年から663年にわたって行...
劉仁軌伝は上述の「倭国伝」「日本国伝」を併せた位の記事...
俄かにして、余豊、福信を襲って殺し、また遣使して高麗お...
右威衛将軍・孫仁師に詔して、兵を率い、海に浮かび、以っ...
(注)
余豊と福信・・・扶余豊(フヨ・ホウ)のこと。百済31代義...
倭国に人質となって滞在していたが、故国の危機のため、帰...
631年から663年まで30年余りを倭国で人質として過...
劉仁軌・・・仁軌の地位は分かっていないし、生年・没年も不...
扶余隆、水軍および糧船を率い、熊津江より白江に往き、陸...
余豊、身を脱して走れば、その宝剣を獲たり。偽りて王子・...
(注)
白江・・・白村江のこと。百済の首都である熊津(扶余)を流...
舟400艘・・・倭国側の被害数をここでは400艘とするが...
つまり、倭国公認の艘数は確かに170であったが、認定以...
その一つの証拠が、『肥前風土記』に見える「白水郎(あま...
彼等は水軍ではないが、いったん事あれば水軍の一翼を担っ...
倭衆・耽羅国の投降・・・倭国によって百済王に就任したと思...
倭衆とは阿曇比羅夫に率いられて行った兵士だけではなく、...
また、ここで唐突に「耽羅国」が登場するが、耽羅国は現在...
<旧唐書>の項は終り
中国史料に見る倭人
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